各国が分断され、『扉』が不通になったのは、ナリアンとメーシャが『学園』に戻ってきてすぐだったのだという。発覚した発端は、忘れ物をした魔術師が戻ろうとしたこと。『扉』は起動すらせず、ただ普通の出入り口のように、開いては閉じ沈黙するだけだった。すぐに不調をおして寮長が動き、調査点検を行ったが使えるようにはならなかった。
元々、寮長はエノーラのように複製の技術を持つ訳ではなく、キムルのように解析ができる訳でもない。錬金術師ではないのだ。その類稀なる才能と努力によって、多少の調整と整備ができる、というだけなのだ。本職の手がいる、と結論が下されたのはすぐだった。リトリアも試しに突いてみたのだが、ソキのように飛ぶことは叶わず。かろうじて自然発生の不調ではなく、人為的な妨害であることを解析するに留まったのだという。
えっじゃあ本当にあの『扉』を使ってきたの、とぎょっとするリトリアに、ソキはそれはもうちからいっぱいじまんげに、ふんすふんすと頷いた。けれども、リトリアにだって出来る筈である。その方法をソキは惜しみなく、感覚的な言葉とほにゃふにゃした擬音で説明したが、恐ろしいことにリトリアは、それをなんとなくであっても理解してみせた。
あるいは同一の適性を持つ魔術師としての感覚が理解を可能としたのかも知れないが、妖精は隠さずにどん引いた視線を、もうひとりの予知魔術師に投げかけた。なにせソキの説明といえば、あのね、『扉』と廊下なの、それをね、んしょんしょってして、くっつけて、こっちがここで、あっちが行きたいとこにするの、それでね、えいってして、大丈夫ってなったら、ふんにゃにゃーっ、として、えいやーっとして、にゃんにゃあなのっ、である。
三歳から出来る適切な説明の仕方、の本を読ませなければ、と妖精が決意するのも無理はない話だった。ナリアンとメーシャは、ソキの毛虫のような速度に付き合って歩きながら顔を見合わせ、どういうことなんだろうと視線を交わし合った。しかし、理解できる筈もなく。三人の半歩後ろを歩いていたリトリアだけが、眉を寄せ首を傾げながらも、聡明な声で、つまり、と言った。
「いまある『扉』の、起点と終点の位置だけを再利用して、繋がる廊下そのものは自分で用意すればいいの……? 用意はしなくても、うぅん……絨毯を敷き直す、みたいにして重ねて……その上で術式をなぞれば、私達なら飛べる……?」
『理解できたことが理解できないのだけれど? なんでアンタその結論に至れるの? なんなの、リトリア。アンタ、なんの特殊訓練を受けてきたの? 引く』
「え、えっと……あの、その……なんとなく、そう感じたの。……あってる?」
そもそも、ソキに間違い探しの答え合わせを委ねないといけないところから、本当は不安がって欲しい、と妖精は思った。相手はソキである。うーん、それでいっか、くらいの気持ちで、めんどくさくなって頷くような相手である。案の定、ソキはリトリアの言葉にぱちくり目を瞬かせ、んっとお、と言いかけてから、こくりとばかり頷いた。もうそれでいいことにしちゃうです、の仕草である。
ほっと胸を撫で下ろすリトリアは、これで私も移動ができるからソキちゃんの負担が減るね、と喜んでいるが、思い直してほしい。妖精は溜息をついて、あとで魔術式か魔法円を描きなさい、とソキに言い聞かせた。言葉は擬音と感覚の独壇場でも、それならば正確な術式、構成が受け渡せるのである。悪用しようにも、予知魔術師でなければ不可能な方法であるようだし。
はぁい、と返事だけは素直に響かせて、ソキはてちてちのたのた、廊下を歩いて行く。ロゼアは急遽設置された医務室に移動させられ、眠ったままであるのだという。その昏睡は案内妖精の呪いによるもの。魔術師たちには解呪ができず、その案内妖精も、未だ意識を回復しないままでいる。ルノンとニーアが尽力しても、シディは滾々と眠り続けている。
それを聞いて、ふぅん、と面白くない気持ちで妖精は羽根を震わせた。ロゼアは正直どうでもいいし、まだ目覚めていないと踏んでいたので構わないのだが。シディはいつまで寝こけているつもりなのか。勝手にどこぞへ飛んで行っていなくなるよりはましとしても、ひとの寝坊は指摘するくせに自分が起きないのはどういうことなのか。
ええっ、つまりロゼアちゃんを誰かがだっこして寝かしなおしたということではないのですっ、ずるいずるいソキもやるソキもやるうううっ、となにもかもが不可能な訴えでちたぱたするソキを無感動に見下ろして。妖精は魔術師たちに、シディのことは任せなさい、と囁いてやった。
『アタシが叩き起こしてあげるから。ふふっ? 覚悟しろあのねぼすけ野郎が……!』
「こ、個人的な恨みしか感じない……。あの、どうかルノンにはなにもしないであげてくださいね……!」
「ニーアも! 頑張っていたので……!」
妖精は、寛容の気持ちも深く頷いた。ルノンもニーアも頑張っていたのに、なぜまだ寝ているのか、と思うくらいである。まあ羽根を引っ張って水の中にでも落とせば起きるわよと言い放った妖精に、リトリアが恐怖を覚えた引きつった表情で首を振った。
「それは……あの、拷問と呼ぶのではないのかしらって……! ふ、普通に! 穏やかに! 起こしてあげて……っ?」
『普通に穏やかに起こそうとして起きなかったんでしょう? 大丈夫よ。アイツ、鉱石妖精だから。水に沈んで浮かばなくなるくらいだもの』
なにひとつ大丈夫だとは思えない、という顔をしたナリアンが、ごめんねソキちゃんメーシャくんと手を繋いでいるんだよ俺先に行くね、と言って走り去って行った。小賢しくも避難させるつもりなのだろう。アタシの追跡を逃れられるとでも思ってんのかしら、と直刃のような髪をかきあげて言い放つ妖精に、リトリアがふるふると細かく首を振った。
「思い直して……? ほ、ほら、ソキちゃんの心の傷になったりするかも知れないし……ね? ねっ?」
『忌々しいことだけど、ソキはロゼアで忙しいからシディのことなんて、気にしないと思うわ?』
「ねえねえリボンちゃん? シディくん、水に沈むの? なんで?」
どうしてよりによってそこだけ聞き留めてしまうのか。ふふっと諦めの表情で視線を流したリトリアに構わず、妖精はあくびをしてから言い放った。
『だって、アイツ鉱石妖精だもの。アタシたち花妖精と違って、水に浮いたり出来ないの。泳げないの』
「んん? リボンちゃんは、お水に浮くの? なんで?」
『足元を見て歩きましょうね、ソキ。……なんでって、花妖精だもの。そういうものなのよ』
ふうん、と頷くソキは、シディくんは沈んじゃうですねぇ、と好奇心にきらきらした目で呟いている。嫌な予感を感じたらしいメーシャが、ソキ、沈めたらだめだよ、絶対だよ、と告げるのに頷いているが、どこまで通じているかは怪しいものだった。とろとろてちてち歩きつつ、ソキはきらんと目を輝かせて妖精に問いかけた。
「ねえねえ、リボンちゃん。シディくん、沈むと、どうなるの?」
『ソキ。質問が猟奇的になってきたから、このおはなしはもうやめましょうね。淑女ですものね』
はぁい、と頷くソキに、蟻塚に水を注ぎ込む幼児の残虐性を感じながら、妖精は手早く済ませよう、と決意した。風呂にでも引っ張って行こうかと思っていたが、もうそのあたりの手洗いでいいだろう。生活範囲で猟奇事件を起こさないで下さいと呻くメーシャに、妖精はシディが起きないのがいけないんじゃないと言い放った。
ソキ、もうちょっとゆっくり歩こうか、そうしましょうね、とメーシャとリトリアに言われたソキは、やんやぁ、と甘えた声で言い放った。
「ロゼアちゃんが待ってるもん。ロゼアちゃん、寝てるんでしょう? ソキが添い寝をしてあげなくっちゃいけないです! さびしいさびしいかも知れないですしぃ」
『そうよ。その隙に終わらせてくるから安心なさい』
「あぁ……ナリアンくん……ナリアンくん、助けて……間に合って……なんとかして……!」
アンタ予知魔術師なんだから、祈るにしてももうすこし言葉に具体性を持ちなさいよ、と突っ込まれて、リトリアはさめざめと顔を手で覆った。ソキはてちてち歩きながら、眠っててさみしいロゼアちゃん、ぴとっとくっつくソキ、もしかして寝ぼけたロゼアちゃんのぎゅうがあるやもです、もっもしかしたらおはようのちゅうだっておやすみのちゅうだってしほうだいなのでははううはうううっ、と大興奮していて、いまひとつメーシャとリトリア、妖精に気を配っていなかった。
ソキ、医務室だからね、ロゼアを襲っちゃだめだからね、と言い聞かせてくるメーシャに、ちょっとだけだもん、とくちびるをとがらせて言い放ち。ソキはついに辿り着いた、臨時医務室の札がかかった扉に、ぴょんと飛びつくように手をかけた。ノックしなさいっ、と即座に妖精に雷を落とされて、ソキはあわあわと、扉をこちこち拳で叩いてみせた。
「失礼します、なんですよ。あのね、ソキ、ロゼアちゃんのお見舞いにきたの!」
すこし待て、と声がして。内側から扉を開き、顔を覗かせたのは顔色の悪い寮長だった。寮長はゆっくりとした仕草で瞬きと呼吸をすると、ソキの姿を認めてほっと肩の力を抜いた笑みを浮かべる。
「……なんだ、ナリアンの幻覚じゃなかったのか」
「あぁー……。寮長ですぅ……」
心底がっかりしきった声で肩を落とすソキに、シルは苦笑いでロゼアは寝てるしナリアンは取り込み中だからな、と告げる。その言葉を発するのもだるそうに息を吐くのを見て、ソキはつつん、とくちびるをとがらせて、なぜかふんぞり返った。その顔つきはお姉さんぶっている。ふんすすっ、と鼻を鳴らして、ソキは言った。
「りょうちょ? 起きてるのいけないでしょう? どうぞお休みくださいです。ロゼアちゃんのぉ、お見舞いが終わったらぁ、あとでソキがりょうちょにもおみまいしてあげるんでぇ。それで、お手紙とおはなしもあるんでぇ」
「……怪我一つなくぴんぴんしててなによりだ」
「あとでりょうちょにも、ソキの頑張ったおはなしを聞かせてあげるです。だからぁ、はやく寝るです。はやくぅはやくぅ!」
お前もしかして心配してくれてんのか、と笑う寮長に、ソキはぷいっとそっぽを向いた。はやくー、ねるですー、いっこくもはやくですぅー、としか言わないソキに、分かったよ、と苦笑して、寮長が身を翻す。それと入れ替わりに。ソキの眼前に飛び込むようにして現れたのは、ニーアだった。ニーアは妖精の姿を見つけ出すと先輩っと声をあげ、大丈夫ですっ、と言い放つ。
『いま! あのっ、いま! シディくんが起きてくれたので! まだすこし動けないというか、辛そうですが、意識はあるので……!』
沈めないであげてくださいっ、と必死に頼み込んでくるニーアと、魔術師たちのはらはらした視線を受けて。妖精は渋い顔をしながらも、分かったわよ、と言ってやった。りぼんちゃんたら、したうちしたぁ、とふわふわした声で誰ともなく告げ口したソキに、はんっと腕組みをして。妖精は、あらこれでロゼアが起こせるじゃない、と言ってやった。
ソキは、まだだめですううううっ、と慌てて、もちゃもちゃと室内へ向かう。医務室では静かになさい、と言いながら、妖精はすいっと空気を泳ぐように飛んだ。部屋に、慣れたシディの気配を感じて。それに安堵しただなんてことを、胸に隠してしまいながら。
よかったな本当に目が覚めてよかったな、とむせび泣くルノンはシディが昏倒から復活したことに対してというより、同胞が水に落とされる極めて拷問めいた目覚めを回避できたことにこそ安堵しているのだろう。ナリアンから話を聞いた妖精たちは、もちろん全力で止めるつもりであったのだが、相手はソキの案内妖精である。
花妖精の種族とは、という所から考え直したくなるような、強気で勝ち気な行動力の権化である。ニーアに勝てる見込みはなく、ルノンも普段から説得という手段を主に用いている分、辛すぎる相手だった。魔力というものに衝撃を受けた妖精は、大岩が叩きつけられた水面が完全に凪ぐことでしか目を覚ませない。妖精の取ろうとした手段は、その上での生命の危機を利用した特例措置のようなものである。
ニーアとルノンは祈りを深く、シディに己の魔力を注ぎ込んで、起きて起きてと囁き続けた。それもまた、穏やかな荒療治だということは分かっていた。荒れた水面を落ち着かせるために、水の量を増やしていくことに等しいからである。一定以上の魔力は妖精の体に留まらず、自然に羽根からこぼれて世界に溶けていくとはいえ、治療とは異なるやり方だ。しかし、それしかなかったのだ。
その方法でなんとか落ち着かせて起きてもらうか、水に落とされて生命の危機かつ衝撃的すぎる目覚めを迎えるかの二択である。果たして、ゆるゆるとシディは瞼を持ち上げた。普段とは様子の異なる、重たく鈍い動きで呻きながら、ここは、と掠れた声を発した瞬間にニーアは飛び立った。もう扉の向こうにソキたちがいたからである。
妖精への対応をニーアに任せて、ぼうっとするシディにいくつかの言葉をかけ、ルノンは堪えきれずに泣き出した。妖精がなにをそんなに焦っていたのかは分からないが、シディが水に落とされる場面を回避できて、本当によかった、と思った。シディは眠るロゼアの傍らにぼぅっと座り込んだまま、飛び立ったニーアを視線で追うことをせず、ルノンの言葉にも返事をせず、にわかに騒がしくなる室内を振り返ることをせず、ただ眠る魔術師の横顔を見つめていた。
顔色は青ざめている。それを見て、妖精は舌打ちせんばかりに顔を歪めた。さっそく、ロゼアちゃんロゼアちゃんろぜあちゃっ、とよじよじ寝台に登ろうとして力が足りずに落ちかけ、ナリアンとメーシャに慌てて助けられているソキに、なんでいつもそうなの、と声を掛けることをせず。妖精はすとん、とシディの前に降り立つと、ねえ、と不機嫌な言葉を投げた。
『なにをぼーっとしてるのか知らないけど、調子が悪いなら横になりなさいよ。日光浴とか、月光浴の必要があるなら、そう言ってちょうだい。あと必要なものがあるなら、仕方がないからアタシが持って来てあげなくも……シディ?』
妖精が声をかけても、シディはロゼアを注視したまま動かなかった。ルノンも泣くのをやめて不安げに、ニーアは首を傾げてぱっと部屋の隅に飛び、角砂糖をいくつか持ってくる。
『シディちゃん。食べられる?』
『お腹がすいて動けないシディとか、貴重すぎじゃないか……?』
『なに馬鹿なこと言ってるのよ違うわよこれ。……シディ、シディ? ほら、どうしたの? ……言わないと! 分からないだろうがーっ!』
先輩、心配なのは分かりますけど落ち着いて、そうだよ心配なのは分かるけど、と口々にたしなめられて、妖精は苛々と腕を組んで舌打ちをした。心配なのではない。気に入らないだけである。妖精が声をかけてやっているのに、ここまで無反応とはなにごとなのか。そうだな、そうですよね、分かってるから、うふふっ、と交互に言ってくるルノンとニーアをぎろりと睨みつけ、妖精はシディの羽根に手を伸ばした。
繊細な妖精の感覚器官。人にしてみれば髪の毛というよりは睫毛や髭、あるいは耳あたりに相当すると言われているそれを、躊躇いなく力加減なく掴んでひっぱって。見ていたルノンが、反射的に痛っと声をあげる強行に及べば、そこでようやく、シディからうめき声がもれる。羽根に手をやって震えるのを許さず、なおも掴んでぐいぐい引っ張りながら、妖精はシディの顔を覗きこんだ。
『起きたかしら? シディ』
『った……ちょっと……なん、なんていうことをしてるんですか……離してください。い、痛い……っ』
『寝ぼけてるのかなんだか知らないけど、反応しないのがいけないんでしょう?』
いつものようにぐいぐい引っ張ってから手を離せば、シディは信じられないと言うように首を振り、深く息を吐いてから妖精を見た。
『……ロゼアは』
『はぁん?』
『大丈夫なんですか……?』
自分で呪って昏倒させておいて、なにを言っているのか。大体からして、妖精にロゼアのことなど聞かないで欲しい。ちらりと視線を向ければ、ソキがロゼアにぺっとりとくっつき、体をくしくし擦りつけているのが見えた。猫じゃないんだから匂いつけてどうするのっ、と叱り、妖精はシディに向き直る。
『大丈夫なんじゃない? ソキがあんな調子だし。緊急性はないわよ、たぶん。そうよね? ソキ? ……ソキ。こら! ロゼアの服をめくるんじゃない! なにしてるの!』
見ればちょうど、よいしょ、と言いながらロゼアの上着をめくっている所だった。よいしょ、ではない。目を離していたメーシャが慌てて戻って来て、ソキ、襲っちゃだめだよ、と言い聞かせている。ナリアンは寮長の傍にいて、もうすこし距離があったから、気が付けていないようだった。ほんと油断も隙もない、と呻くと、ソキは不服そうに、普通にロゼアにくっついた。
「ちがうもん。心臓の音が聞きたかったんだもん」
「ソキ。服の上からにしようね。服の上からでもできるからね。めくったら駄目だよ。はしたないよ」
「お医者様は服をめくるですうううう!」
だからソキもする、と言いたいらしい。駄目に決まっているだろうがと怒ってから、妖精はまだ黙り込んでいるシディに、いよいよ訝しげな視線を向けた。いつもなら、ソキさん駄目ですよ、くらいは言うのにそれもない。外に出て日光でも浴びてきなさいよと告げる妖精に、シディが返したのは安堵の吐息だった。深く、深く、穏やかに。満ち足りきった、ためいき。
『ロゼアは……生きているんですね。よかった……』
『……殺すような呪いじゃなかったでしょ? シディ? どうしたっていうの?』
悪い夢でも見て寝ぼけているのではないか、としかめっ面になる妖精に、くす、と笑って。両腕を伸ばしてきたシディは、どこか手慣れた仕草で妖精の体を引き寄せた。ソキとニーアが揃って、きゃあああぁっ、と黄色い悲鳴をあげたのが聞こえた。聞こえたのだが。あまりのことに動けなくなってしまった妖精は、なすがまま抱き寄せられていた。
ようやく、は、とだけ声を零せば、鉱石妖精は柔らかに、幸せそうに笑みを響かせた。
『君が……強くなって、無事でいて、よかった。……あぁ、そうですね。あれはもう、悪い夢、だった……』
呼びかける名に。なぜか妖精は迷って、喉を引きつらせる。その存在を、知っている筈なのに。声が、出せずに。ぱた、と羽根を動かす妖精に、きらきらしきったソキの声が、はしゃぎたおして問いかける。
「もっ、もしかして! もしかしてりぼんちゃ! シディくんとっ! ときめききゃあんな関係になったんですっ……? は、はうううぅううきゃあんきゃんきゃんはうにゃあああぁあっ! いっ、いつからお付き合いをしていたのっ? こっ、告白はどっちがしたのっ? なんてお返事だったのっ? やんやんソキに教えてくれなくっちゃだめですううう!」
『そっ、そうですよ、先輩! これはお祝いしないと……!』
とんでもない誤解である。激しい目眩を感じた妖精は、くすくすと笑うばかりで否定せず、腕を離しもしない鉱石妖精に、瞬間的に怒りを沸騰させた。あ、と見ていたルノンが呟き、即座にニーアの腕を掴んで飛び去った。妖精たちの緊急避難に、あれぇ、とソキがのんびり不思議そうに呟いて、目をぱちくりさせている。
ふ、ふふ、と笑いながら。妖精は鉱石妖精の肩を掴み、全力で、渾身の力を込めて、その腹に膝蹴りを叩き込んだ。してはいけない重たい音がする。もんどり打って倒れる姿を冷たく見下し、妖精はぱっと髪をかきあげて言い放つ。
『寝ぼけるのもいい加減にしなさい。なにを言っているの。……あと誰がアタシに触っていいって言ったのよ羽根もぐぞテメェ』
『いっ……っう……。え……? え、え……? な、なんですかこれ……?』
『シディ、大丈夫か……? すごい寝ぼけ方するのなお前……なんていうか……命知らずっていうか……』
聞こえてるのよルノン、と妖精がぎろりと睨みつければ、ぱっと両手が高く挙げられる。降参が早い。ニーアは戸惑いながらも妖精とシディを見比べ、なにも言ってはいけないと理解したのだろう。口を両手で塞ぎ、やや青ざめた顔つきで視線を明後日に反らしている。いまひとつ分かっていないのはソキだけである。
ソキはメーシャに、しー、しーっだよ、と言い聞かせられ、こくこくと頷きながらも、好奇心に目をきらめかせながら言い放った。
「ソキ、分かっちゃったです! シディくんは、じつは、リボンちゃんにひめたるおもいがあったにちがいないです……ついおもてにでてしまたです……てれかくしのりぼんちゃ……みつめあうふたり……かくせないときめき……! これは、これは、今日の夜、校舎裏で告白の流れですっ……! ソキ、くわしいです!」
きゃぁああんっ、と興奮してちたちたするソキに、じっとしようね、と根気強くメーシャが語り掛ける。うん、とソキが頷いているのが見えた。返事はいいのだ、返事は。ちっとも実行できていないだけで。ああ、やはり四日間も野放しにしていたのがいけないのよ、厳しくしなきゃ罪悪感なんて捨ててこなくちゃ、と妖精は思いを深めて行く。
いまひとつ共感してくれないメーシャに対して、ソキはふんふんと興奮しながら語りかけて行く。校舎裏じゃなかったら、ひとけのない廊下とか、使っていない教室とかかも知れないですっ、どどどどうしようですうううっ、と、見に行きたい、と顔にでかでかと書きながら身をよじっている。どうしようもないので、どうもしなくていいことである。
うーん、と困った微笑みで、メーシャはちらりと妖精に視線を流し、助けを求めた。
「……だそうですけど……?」
『いいこと? ソキ。アタシが今最も呼び出したい相手はソキだから喜びなさい。要件を先に言っておくと説教よ』
なんでですかぁっ、と泣き声をあげたソキは、いじめですいじめですとぴすぴすメーシャに訴えたあと、ロゼアの腕をうんしょと持ち上げ、寝台との僅かな隙間にもぞもぞと潜ってしまった。隠れているつもりらしい。頭も隠れていなければ、おしりも体も全部見えている。妖精は目を閉じて、額に手を押し当てた。五王を相手に立ち回ったのは、幻かなにかだったのだろうか。
確かに本人だったんだけど、と息を吐く妖精に、ソキは体の上にロゼアの腕を置いて、ようやく満足したように、ふんすっ、と鼻を鳴らした。これでいいですぅ、とばかりに頷く。
「リボンちゃん? いーい? ソキぃ、これからロゼアちゃんとお昼寝するんでぇ、リボンちゃんのお呼び出しにはお応えできないんですけどぉ」
『……まあいいわ。寝なさい』
休ませたいとは思っていたのだ。ソキは、なんとかなったです、という顔をして、おやすみなさーい、とふわふわした声を響かせる。すぐに、すぴぴ、くぴっ、と幸せいっぱいの寝息が響いてくる。お説教が取りやめでもなく、延期になっただけだということを。予想すらしていない、健やかな寝顔だった。
思ったよりロゼア重症なのかも、とナリアンが不安がりだしたのは、ソキがふあふあ起きてから暫く経過した頃だった。ロゼアちゃんロゼアちゃん、とぴっとりくっついてはしゃいでいるソキが気が付かないように声は潜められているので、配慮は失っていないらしい。なんでそう思ったの、どうしたのナリアン、と問いかけるメーシャの表情は穏やかだ。
こちらは、ロゼアの体調に関して、今更不安にはなっていないらしい。ソキが戻ってきたから大丈夫なんじゃないかな、とふんわりと言い聞かせられても、ナリアンの不安が晴れる様子はないままだった。それどころかナリアンは、ますます不安そうな眉をして、眠るロゼアをじっと見つめて口を開く。
「だって、メーシャくん……。ソキちゃんが一緒に寝てるのに、ロゼアったら抱き寄せもしなかったんだよ……?」
「あ……そう言われると、確かに。珍しいというか……」
『そう言われるとでもなんででもないのよ、この間抜けども!』
えっ俺も不安になってきた、と顔を曇らせるメーシャを叱り飛ばしたのは、ソキの案内妖精である。その傍らには、目を覚ましたシディの姿がある。ある、というか、羽根を掴まれてぶら下がっているというか、引っ掛かっているようなありさまである。惨劇を目撃した者の引きつった表情で、メーシャがそろそろと手を挙げて妖精に意見した。
「あの、そろそろ開放し……いえ、離してあげる、と、いうのは……?」
『は? アンタ、アタシの気が済んだとでも思ってるって訳?』
苛々と睨まれて、メーシャは穏やかな表情で首を横に振った。シディには災難、災厄としか言いようのない所業だが、なんというか天災かなにかだとでも思い込んで耐えて欲しい。少し離れた所で滞空しながら、ルノンとニーアがはらはら見守ってきているのも気に食わないのだろう。妖精はふんと鼻を鳴らして、シディという重みがあることを感じさせない、花妖精らしい軽やかな動きで移動する。
振動が響いたのだろう。うぅ、と弱々しい呻きで瞼を持ち上げたシディは、妖精に曳行されながら淀んだ目で呟いた。
『ボク、いまどうなっていますか……さっきからずっと羽根の感覚がないので、痛くはないんですけど……いえ、痛みはあるんですけど、あれ? 痛み……? この痺れを痛みと呼ぶのでしたっけ……?』
『運んであげてるのよ感謝しなさい』
『そうでしたっけ……? あの、できれば羽根を持たないでくださ……なんでもないです……』
ありとあらゆる抵抗を放棄した姿に舌打ちをして、妖精はシディをぽいとロゼアの寝台に投げ落とした。妖精とはとても思えない真っ直ぐな落下の仕方をしたシディに、妖精は満足げに幾度か頷きを見せる。これでしばらくは、勝手にどこかに出かけたり、いなくなったりしないだろう。目の届く範囲でじっとしているかと思うと、満足感と安堵があった。
動きたい時はアタシに言うのよシディ、と言い放つ妖精に。あわあわとシディの体を両手にすくいあげたソキが、もうリボンちゃんたらぁ、とくちびるを尖らせる。
「シディくん、ぐったりしているです。告白の照れ隠しさんなんです? かわいそかわいそですぅ……!」
『ソキさん……後生ですから……火に油を注がないでください……!』
妖精がシディを呼び出して場を離れていたのは、純粋な情報共用と説明、今後の対策を話し合う為と、折檻の現場をソキに見られない為である。断じてソキの考えていたような用件ではない。大体からして、ルノンとニーアも一緒だったことであるし。あれ、と目をぱちくりさせるソキに、深く息を吐いて。
よろよろとその手の上で座り直したシディは、ソキさん、と魔術師を呼んで穏やかに笑いかけた。
『リボンさんから聞きました。あの後、とても頑張ってくださったのだと。……よく、諦めずに奮闘しましたね。おかえりなさい』
「えへん! ですぅ! ねえねえシディくん? これはぁ、ロゼアちゃんも思わず! 褒めてくれるに違いないです?」
『ええ、もちろん。……さ、すぐにでも起こしましょうね、と言ってあげたいところなのですが……』
本当にソキの言う、こわいこわいが剥がれたのか、という問題が残っている。一足先に目覚めたフィオーレから、書き込まれた術式の痕跡が発見できていないのも、妖精たちの訝しさを加速させていた。ツフィア曰く、文字を書いたインクが紙に染み込むがごとく、もう深くにまで浸透して混ざり合い、変質しながらも同化してしまっている可能性があるから、発見は困難を極め、分離は不可能である、とのことだ。
リトリアも眉を寄せながら、ツフィアの、言葉魔術師の意見に賛同した。元々の、純粋なフィオーレの魔力だけではなくなっていることが分かり、それがシークの魔術式を書き込まれた影響であることは分かっても、作り終えたミルクティーを、水と紅茶と牛乳には戻せない。リトリアは困りきったように眉を寄せて告げた後、あっでも、もしかしたらと呟いたのだが。
明後日の方向からひらめきを得るエノーラみたいな発想力はやめなさい、とツフィアに叱られ、ぱくんと口を閉ざしていた。現状、なすすべなし、ということである。幸い、フィオーレの体調や意識は落ち着いている。『学園』に来る前の記憶からぷっつり途切れていて、あとは夢のようだった、とフィオーレは告げた。
何が起きたのかは説明されなくても理解しているよ、と白魔法使いは言った。夢のよう、現実味のない物語のように、分厚い硝子の向こう側の光景として、世界を見て声を聞いて微睡んでいた。だから、なにが起きたか、なにをしたのか、分かるよ、と息を吐いて。フィオーレは別室で監視を受けながら、大人しく過ごしている最中だ。処分については、各国の連絡が復旧後、王たちの意見を待つことになっている。
ソキはその説明を聞いても、大丈夫だもんと言い張った。根拠は、と妖精が問いかけても、予知魔術師は困ったように眉を寄せ、とても難しい単語をであるかのように、こんきょぉ、と語尾をあげる問いの形で呟いたので、慎重に、ということで意見は一致していた。ぷーくーっ、と頬を膨らませて、ソキはくしくしとロゼアの首あたりに頭を擦りつけている。
「んもぉ! ロゼアちゃんは大丈夫なんですぅ! ソキが守ってあげるんだもん! かんぺきなけいかくなんですぅうー!」
『あんな手段を何回も取るんだとしたら、さすがのアタシだって、都度二秒くらいはロゼアに同情するわよ、ソキ?』
「ちがうもん。あのね、くっついてるのをね、目標にね、こっちにくるのにね、だめだめふにゃんにゃーっ! ってするの。ソキにはぁ、それができるの。それでね? ロゼアちゃんはソキの! ロゼアちゃんはぁ、ソキのっ! ってするの。かんぺきなの」
だから魔法円か魔術式を書けっていっているでしょう、と妖精に怒られて、ソキはしぶしぶ体を起こし、寝台の端に追いやっていた筆記用具に手を伸ばした。鉛筆を持ち、スケッチブックと見つめ合う。
「ソキ、いま、ロゼアちゃんで忙しいですのに……今日だって、明日だって、まだ大丈夫なんですぅ……」
『ソキ』
「はぁーい、で、すぅ……ソキ、リボンちゃんのいうことをきけるぅ……」
なんて偉いソキ、なんて偉いソキです、と自分で褒めながらすんすんと哀れっぽく鼻をすすり、予知魔術師はしばらくは、その作業に集中した。しかし、久しぶりのロゼアの傍であるから、我慢ができないのだろう。妖精が見た所、半分くらいを書き上げると、ソキはいゃんいやんと声を上げて身をよじった。
「ロゼアちゃんのぎゅうが足りないですううう! シディくーん! ソキの為に、ロゼアちゃんを起こしてほしいです! ソキのために! そきのために!」
やあぁんっとスケッチブックと筆記用具をぽいっと投げて、ソキはよじよじとロゼアの所へ戻ってしまった。こら、やることを終わらせてからロゼアにしなさいと妖精が怒っても、そきはもうしたもん、と言い張られる。
「あんなに、あんなにがんばたソキには、ロゼアちゃんきゅうかがひつよーです! ロゼアちゃんをようきゅーするです!」
『十分休んで来たでしょう』
「ロゼアちゃんいなかったですううう! ロゼアちゃんじゃないと、べつばら、というやつですうううう! いゃんいやゃん!」
ひしいいいっ、とロゼアの首筋に腕を巻き付けてくっつくソキは、もうやですううううせぇったいにはなれないですうううう、という不機嫌な顔をしていた。これは眠らせ足りなかったのかしら、それともお腹がすいてきたのかしら、と考えながら、妖精は深々と息を吐き、室内に視線を巡らせる。ナリアンとメーシャは、ほっこりとした視線でソキを見守るだけなので、役に立たないと分かっていた。
ちょうど寮長に報告をしに白魔術師たちが集まっていたから、ちょうどいいといえばそうなのだが。それを理解してごね始めた可能性も残っているために、ややうんざりした気持ちになって。溜息をつきながら、妖精はいいかしら、と魔術師たちに問いかけた。
『ロゼアのヤロウなんだけど、起こしても構わないかしら? ソキは、アタシたちにはまだよく分からないけど、一応なんらかの理由があって大丈夫だと言っているし……フィオーレにも変調はないんでしょう?』
今の所はない、と告げた寮長が、白魔術師たちに視線で問いかける。『学園』に常駐する者、花舞から急遽やって来た者、星降から訪れていた魔術師の混合部隊は、いまひとつ断言しかねる困った表情で、それぞれに視線を交わしあった。できるぅー、できるですぅー、ソキがいうんだからまちがいのないことですぅー、ほんとですぅーっ、と不機嫌な唸り声で訴え続けるソキの声が、ほわほわと室内を漂い続けていた。
それに毒気を抜かれたのだろう。すこし緊張も解けた苦笑を浮かべ、魔術師たちはソキに、いいよ、と言った。
「ロゼア起こしてもいいよ。ただ、なにかすこしでもおかしいと思ったら、すぐ大人の人を呼ぼうね。ナリアンでも、メーシャでもいいよ。できる? 約束できるかな?」
「はぁーい! ソキ、いいこだから言うことちゃあんと守れるですーっ!」
『……まあ、ソキがいいならアタシはいいんだけどね……?』
あからさまな幼女扱いに気がついていないのか、ソキは満面の笑みで返事をしている。なんとなく嫌な予感がして眺めていると、ソキはもちゃもちゃとした仕草で起き上がり、シディくんちょっと待っててね、と言った。
「ソキ、ちょっとお風呂に……あっ、やっぱりお肌のお手入れも……あっあっ! 髪の毛も! ど、どうしよです……うぅん……あ! いいこと思いついたです! うふふん! ……リボンちゃ? あのね? ソキ、なんだか『お屋敷』に忘れ物をした気がするんですけどぉ、ちょっと取ってくるですからぁ」
『シディ、今すぐ起こしなさい。いま! すぐ! にっ!』
「やああぁああっ! おもいやり! りぼんちゃにはソキの乙女心に対する思いやりが足りないのではないのですーっ?」
なんでそんなものを持ってやらなければいけないのか。じゃあせめて、せめてちゅうをして起こすですぅ悪い呪いはおひめさまのちゅうでなくなるんですよソキしってるもんくわしいもん、とごねるソキの傍らで。妖精の命じる声に無意識の反射で動いていたシディが、魔力の流れを感じ取り、やや焦った声で、あっ、と言った。
『ソキさん……ごめんなさい。いま、解呪しました……もう起きると思います』
『よくやったわ、シディ。ありがとう。……よかったわね、ソキ? 意識のあるロゼアよ。喜べ』
なんでいっつもソキがちゅうする前にロゼアちゃん起きちゃうですかああぁあっ、と泣き声が部屋に響き渡る。理由は恐らく、機会があるたびに、ソキがとろくさく思い切らず、準備だのなんだのしようとしているからである。はいはいそうね大変ね、と雑に慰める妖精に、ソキがぴすぴすと悲しげに鼻を鳴らす。
それに反応したのだろう。ソキ、と掠れた声が『花嫁』を呼んだ。ロゼアちゃあああぁっ、と即座に、機敏な動きで抱きつきに行ったソキに息を吐き、妖精はうんざりと天を仰いだ。予想しないこともなかったが。ロゼアの第一声は、やはりソキだった。