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 くじびきの紙に諦めずロゼアちゃんと書いたことが準備段階でばれ、こっぴどく怒られたのち、その選定は責任者たちに委ねられた。ここまで諦めないとなると、ソキに任せておくといつまでも決まらないわね、と妖精が断じた為である。ソキはしおしおしながらお風呂へ行き、ロゼアの膝で夕食を食べ、ナリアンとメーシャとこしょこしょおはなししてすこしだけ夜ふかしをした。
 ロゼアに抱き寄せられて夜は一緒に眠り、朝はぽやぽやした所をまた膝に抱き上げられて、ゆらゆら揺らされながらまどろみを味わう。ぴっとりくっついて髪を撫でられながら、心音を聞いて体温を染み込ませる。ソキの至福の時間である。ねむいな、とロゼアの声がやんわりと囁く。甘い笑い声。朝だよ、と囁かれながらも気持ちよくて、ソキはふあぁとあくびをした。
 朝なので起きないといけないのだが。まぶたが重くて大変なのである。ふにゃふにゃと訴えると、ロゼアの指がやんわりと、ソキのまぶたを撫でて行く。ふぁ、とソキは目を閉じたままあくびをした。眠っていいよ、と言われているような気がした。朝だけど、ロゼアがそういうのなら、ソキは眠っていてもいいのである。ロゼアがそういうのなら。うと、うと、ころん、と眠りに落ちてしまう寸前のことだった。
 ロゼアテメェ、起こすのか寝かすのかどっちかにしなさいよーっ、と妖精の罵声で目をぱっちんと覚ましたソキは、あわあわとロゼアに抱きついた。
「ソキ、ソキ、起きるもん! 起きるんですぅ! ……ふにゃあぁんきゃあん! ロゼアちゃんですううう! おはようございますですよ。ソキに、おはようの、ぎゅうをして? ねえねえ、して? はやくぅはやくぅ……!」
「……おはよう、ソキ」
 もうすこし眠たいソキを堪能してから起こしたかったんだね、ロゼア。眠たいのかわいいもんね、ロゼアはソキのこと寝かしておくの好きだしね、という視線を、寝台の傍に置いた椅子の上から、ナリアンとメーシャがくすくすと交わし合う。『学園』の朝である。すでに早朝ではない。太陽は麗らかに登りきっていて、早いものはもう朝食を終え、まだの者もそろそろ、と移動を開始して活気づく。そんな時分の頃である。
 顔洗いの水場はもう人がまばらで、大体の魔術師がすっかり目を覚ましている。寝台でだらだらとしているのは、安静組だけであるが、見ればリトリアはすでに着替えて、部屋の隅でなにか書きものをしていた。ソキがじっと見つめていると顔をあげたリトリアは、おはよう、と言ってはにかみ、持っていた万年筆を置いた。
「夕方になるよりは早く……お昼過ぎくらいには、出発できる見込み、と聞いているから。ソキちゃん、ロゼアくん、ナリアンくん。どうぞよろしくね」
「……はい。そっか、じゃあ、悪いけど。よろしくな、ナリアン」
「任せてよ、ロゼア。不審者がいたら、全員彼方まで吹き飛ばしておくから!」
 その場合はお前こそが不審者だ分かってんのかこのやろう、と遠い目をする妖精の傍らで、ニーアが頑張らなくちゃと決意に満ちた顔でいる。同行はナリアンで決まったらしい。ロゼア、シディ、ルノン、俺と一緒に留守番していてね、と微笑むメーシャに、ロゼアは厳かに頷いた。はぁ、と気乗りしない様子のロゼアに抱き寄せられながら、ソキはリトリアにきょとん、とした目を向ける。
「リトリアちゃんは、なにを書いているです?」
「これ? これはね、御手紙。ほら、もしかしたら、忙しいとかで花舞の陛下にお会いできないと困るでしょう……?」
 ソキがわざわざ問うたのは、紙面から滲む予知魔術師の魔力を感じたからである。呪いでも祝福でもなかったが、無意識にこぼれて染み込んだ風でもなく、錬金術師の付与に近いと感じた為だ。リトリアは室内の魔術師たちの視線を浴び、恥じらい、はにかむように頬を染めて言った。
「だからその時はね、この御手紙を部屋に投げ込もうと思って。私の手から離れた時に、同じ部屋に陛下がいると、中身を読み上げるようになっているの。さっきね、試したら、ちゃんと上手く行ったから……!」
「リトリアちゃん、すごーいですぅー! ね、ねえねえ? どうやったのか、ソキにも見せてほしです! どうするの? にゃーっとして、うやんやっとして、ふんにゃにゃーっ、なの? それとも、にゃあんやっとするの?」
『……ねえ、それ、予知魔術師なら通じるの? 通じる擬音なの?』
 リトリアは微笑ましさと理解不能の入り交じる表情で沈黙すると、ロゼアに申し訳なさそうにしながら、そっとソキを手招いた。ソキは魔術式、魔術構成に興味がとてもあるらしい。きらきら輝く目でロゼアにぴとんとくっつき、だっこぉ、とねだってリトリアの所まで連れて行ってもらおうとしている。
 歩きなさい、と妖精がぴしゃりとしても、ソキはもぞもぞとロゼアにくっつきなおし、だっこおおぉ、と強情な声で言い張った。
「だってだって! ソキは夕方からロゼアちゃんなし! ロゼアちゃんなしで、お仕事なんですよ? 今のうちにロゼアちゃんをほきゅーしておかなくちゃ、です。びちくすぅです!」
『……その備蓄はどれくらい保つのかしら?』
「ソキぃ、めいっぱい頑張るんでぇ、もしかしたら夜まで我慢できるかも知れないです。えへん!」
 夕方から夜まで、ということである。備蓄の概念から考え直したくなる短さに、妖精は額に手を押し当てた。八つ当たりに羽根を引っ張られることを警戒したシディが、そっと、そーっと距離を取るのに気が付かず、妖精はうんざりした息を吐く。まあ、前向きに外出を受け入れている、ということでよしとすべきなのだろう。
 未だになんとかならないかな、と思っているのはロゼアくらいで、ソキはお仕事なんでぇと文句を言いつつ、やる気を取り戻していた。それが義務であると知るならば、『花嫁』はやりとげるものである。ため息をつきながらソキを抱えあげ、ロゼアはゆっくりと寝台から、リトリアの待つ机に歩み寄った。
 リトリアはその間に手紙を書き上げ封もしていたが、魔術式や構成要素は内容に関わりのないものである。はいどうぞ、と手紙を差し出されて、ソキはしげしげと封じられた魔力を見つめた。くてん、と予知魔術師の首が傾げられる。
「リトリアちゃん」
「な、なぁに?」
「んとね、ここね、この、みーっ! となるところね、みーっとするんじゃなくて、にゃーっとするんじゃだめなんです? ソキ、みーっとするより、にゃーっとなった方がすっきりすると思うです」
 リトリアは、ぽかんと口を開けて瞬きをしたあと、ああぁあっ、と悲鳴をあげて頬を両手で包み、狼狽した。伝わったらしい。伝わってしまったらしい。そして理解もしたらしい。なんでなのよ、と隠すことなく天を仰ぎ、妖精は沈黙する魔術師たちに代わって、まだしも通じそうな方の予知魔術師に問いかけた。
『リトリア? 予知魔術師語で話してるとこ悪いんだけど、ソキは、なにがなんなんですって? 翻訳してくれない?』
「……あの、私ね、陛下を感知するのに祝福の要素を取り入れて組んだんだけど、誤認の可能性を消して確実性を優先するのなら、ここは呪いの性質の付与の方がよかったんじゃないのって……そっちのほうが、全体の構成もすっきりするよって……ほんとだ……」
『アンタたち、どうやってその情報量をみーだのにーだのに詰めたのよ。なんでそれを理解できたのよ……』
 妖精が見た所、ロゼアですらソキが言いたいことを理解していなかったのである。感心を通り越して恐ろしささえ感じながら妖精が問うと、リトリアは戸惑いながら何度か瞬きをして、ゆるゆると眉を寄せてちいさく首を傾げてみせた。
「あの……なんとなく……?」
『アンタたち! 感覚で生き抜こうとするのやめなさいよ! 説明感覚と語彙を養えっ! 早! 急! に! 返事っ!』
 はーい、はぁーい、と予知魔術師たちが、それぞれの感情を込めて返事をする。どちらも、どこまでもあてにならない声だった。それにしても、と気を取り直して、妖精は羽根をゆらめかせながらソキを見下ろす。見てすこし考えただけで問題点の指摘と、代替案まで提示できるとは。ソキはもしかして、魔術構成にかなり強いのではないだろうか。
 まだ入学して二年にも満たない魔術師のたまごが、なんの準備もなしにできることではなかった。念のため問いかけると、特にウイッシュから学んでいた訳ではないらしい。なんで分かったのと問う妖精に、ソキは難しそうな顔でなんとなくですぅ、と言った。
「だって、だって、そう思ったんだもん」
「……『扉』の時にも思ったんだけど、ソキちゃんは、もしかしたら魔力の使い方が、とっても、すっごく、上手なんじゃないかしら……」
『そうね……。実は雑、かつ大味なリトリアと比べれば、びっくりするほど上手なのは確かかも知れないわね……』
 さっと視線をそらしたリトリアの魔術式は、最終的に帳尻が合えばなんとかなる、というような雰囲気を持っている。決して強引ではないのだが、いつも所々に不具合を起こさない程度の粗があって、すっきりした、理想的な発動とはならないのが常である。ソキちゃん、もしかしてすごいの、とナリアンが呟くのに、メーシャが多分、と同意している。
 説明と呼ぶことすら躊躇いがある予知魔術師語だったが故に、なにが起きたのか受け止めきれていないらしい。それでも調子に乗って、えへんえへんとふんぞりかえるソキに、妖精は優しい気持ちで尋ねてやった。
『で? ソキ? 言っておいた、『扉』の魔術式、書くのは終わったの?』
「あっ。……ちがうです。ち、ちちちちがうですううう。ソキ、朝ごはんを食べたら終わらせるつもりだったです。けっ、けっしてわすれていたなんてことないです。ごかいです。ちがうです……! わかったぁっ?」
 そうだな、ご飯食べたらやろうな。分かってるよソキちゃん、思い出したの偉いね。ご飯たくさん食べて頑張ろうね、ソキ、と口々に励まされて、ソキはこくりと頷いて胸を撫で下ろした。ごまかせたです、というのが明らかな仕草だった。くすくす笑って、
メーシャはすい、とロゼアに視線を移した。
「じゃあ、食堂に行こうよ、ロゼア。一緒に食べたくて待ってたんだ。……ロゼア、普通のご飯でいいんだっけ?」
「食べられそうならいいよ、とは言われた……」
 早朝に、気まぐれのような顔をして現れた、白魔法使いの診察である。フィオーレは、くぴぴぴぴすううううっ、と力いっぱい幸せそうに眠るソキに罪悪感入り交じる苦笑になりながら、ロゼアの不調をそっと癒やし、しばらく一緒に監視され仲間になろうな、と言った。昨日のロゼアの不調は、魔力的な影響というより、精神的な打撃によるものの可能性が高い、とフィオーレは言った。
 さすが妖精の全霊をこめた呪いだけあり、ロゼアの肉体的な時間は、ぼぼ停止状態であったのだという。そうであるから数日の寝たきりは影響を及ぼさず、ロゼアの不調は純粋に、目の前でソキが剣で喉をつきかけたことに起因する。話を聞いたメーシャもナリアンも、悲鳴をあげて真っ先にロゼアを心配した。もはや心配すべきは、ぴんぴんしているソキではない。ロゼアである。ロゼアの心痛である。
 大丈夫だからねロゼア、怖かったねロゼア、もう安心していいよ、しばらくソキちゃんに刃物もたせるのやめようね、俺たちも協力するから、と妖精にも過保護とは言い難いその約束は、ソキがぴすぴすふすすと眠っている間に取り交わされた。『学園』に来る旅の間は、すこしの音でも目を覚ましていたものだが。満ちた眠りは、すこしの声では乱されもしない。
 じつは一回寝ると結構満足するまで起きないわよね、と息を吐かれ、ソキはロゼアの腕の中から身を乗り出し、そんなことないもん、とすました顔で言い放つ。
「ソキ、作りが繊細なんでぇ、知らないひととか、ややんなひととか、すぐに分かるです。騒がしくても起きちゃうです。ぱっちり目を覚ますです」
『……まあ、そういう時期もあったわよね……。前は確かにそうだったけど……』
「でしょう?」
 ぽんぽん、と背を叩かれたソキが、もぞもぞとロゼアの腕に戻っていくのを眺め、妖精は無言で羽根をぱたつかせた。つまり、ロゼアにはもう悪いものはなく。室内に踏み込んできたフィオーレにも、その影響は残らず。寮長、ナリアン、メーシャ、リトリアといった面々も安心していい、ということなのだろう。
 判断材料がソキの自己申告しかないのが、極めて不安かつ心配ではあるのだが。ソキはこの数日で、幾度もその魔力の繊細さを披露してみせた。他者に対する説明能力の、圧倒的な欠陥があるが、よく考えればエノーラも似たようなものである。エノーラに対するキムルが、ソキに対してはリトリアなのだとすれば、解析する方法は確実とみて間違いないだろう。
 それでも、なにかを、まだ見落としている気がした。ソキ、と妖精は食堂の椅子に座ってロゼアの帰りを待つ魔術師に、静かな声で問いかけた。
『あの男は、砂漠の虜囚は、本当にまだ大丈夫なのね? 動かない……動けない。そうね?』
「うん!」
 ソキ、ばっちり分かるです、と自信たっぷりに言い切られて、妖精は頷いた。予知魔術師の繋がりが、そうだと感じさせるならば、そうなのだろうと思う。けれど、妖精も、ソキも、失念していた。こちらが向こうの状態を把握できるのであれば。向こうからもまた、観測が可能であるのだという、単純で、基本的な事実を。見逃していた。



 ソキが花舞に出発できたのは、その日の夕方も終わりかけている頃だった。目標は夕方、早ければお昼過ぎと告げられているものが、お昼ごはんゆっくり食べていいよになり、お昼寝してきても大丈夫だからになり、おやつ食べていてになり、ソキはすっかり出発する気をなくしていたので。いざ、となってから盛大にごねたのが、遅延理由の一因である。
 元々の予定が夕方を目処にしていたとはいえ、いつでも出発できるように、とのことであったのだ。ソキは朝からロゼアにぺっとりとして、行ってきますの準備をしていたのに、まだ、まだ、もうちょっと待ってて、と言われ続けて機嫌を損ねたのである。『扉』を使う術式を記したスケッチブックをぎゅっとばかり抱きしめ、今日はもうだめだもん、明日にするもん、ソキもうお風呂へ行くんだもん、と主張するソキをロゼアが強くは咎めなかったこともあり、説得は難航を極めた。
 最終的にはシディの羽根を掴んだ妖精が、ロゼアやることは分かってんだろうなもぐぞ、と本気の目で脅しをかけたおかげで、ロゼアは気乗りしない声で、ソキに行ってらっしゃいしような、と告げた。案内妖精を守る魔術師の友情に、見守っていた誰もがほろりと目元を拭ったが、ニーアとルノンは言葉もなく、その一幕を見守っていた。妖精が本当の本当に本気だと分かっていたからである。
 しかも、ロゼアが即座に決断しなければ実行していたくらいの本気である。シディは灰色の目をして無抵抗にぶら下がりながら、あの、いくら鉱石妖精の羽根がまた生えるからと言っても痛いですし生えてくるまでしばらくかかりますし元に戻るまでは飛べませんしと訴えたのだが、知ってるわよそれがなんなの、という苛々しきった声で、秒で却下された。
 かくして出発となったソキと妖精、ナリアン、リトリアとツフィアは、出発前後の騒ぎを考えなければ、実に順調に花舞へと転移した。『扉』を使用したのとなんら遜色ない移動にツフィアは感心した目をソキに向け、リトリアとナリアンはすごいねすごいね、私も出来るようにならなくちゃ、と言葉を交わし合い。ソキは投網を警戒して、するどい目で周囲をきょろきょろ見渡した。
 妖精が大丈夫よ安心なさいと苦笑して、ようやく納得の頷きを見せたソキとその一行は、そこから一目散に女王の執務室を目指した。部屋が近くなるとリトリアは早足になり、小走りになり、その途中であえて目と髪にかけた魔術の隠蔽を取り払うと、最後は全力で廊下を駆け抜け女王の執務室へ、失礼しますの一言もなく、唐突に、音高く飛び込んだ。
 ぎょっとするいくつもの視線をものともせず、リトリアはきっと怒りのこもった眼差しで、花舞の女王陛下を睨みつける。
「お姉さまっ! ソキちゃんからぜーんぶ! 聞きましたよ!」
「リ……リトリア? どうやってここまで……いや、その姿は、昔の……?」
「お姉さまが私の話を聞いてくれるように、いまだけ分かりやすくしてきました! そんなことより、お姉さま! 砂漠に対して、どうとかこうとか、ソキちゃんから聞きましたけど……!」
 そのあたりでようやく、追いかけようとして転んでぴすぴすしながら息切れをしていたソキと、置いていく訳にも行かずに同行してくれたツフィアと、ナリアンが戸口に顔を覗かせる。魔術師と王、ではなく。初激の衝撃で、一気に身内の喧嘩にまでもつれ込ませたリトリアに、ツフィアは苦笑しながらおてんばね、と呟き、しかし後は静聴の構えで見守っている。
 引率者がそうであるので、ソキも目をきらきらと好奇心に輝かせながら成り行きを見守った。いや、リトリア、はなしを、としどろもどろに訴えてくる女王に、聞きませんっ、と年下の身内にだけ許された、暴虐めいた声できっぱりと言い放ち。リトリアは楽音の王が予想し、砂漠の王が期待した通りの言葉を、なんのためらいなく言い放った。
「そんなひどいことする、お姉さまなんてだいっきらいっ! しばらくは話したくもないし顔も見たくありません! 反省なさって!」
「り……リトリア、それは!」
「フィオーレは『学園』で元気に反省しているし、ロリエスさんはこれから準備を整えて迎えに行こうとしてるの! 余計なことしないで邪魔しないでお姉さまのばかっ! わからずや! はんせーして、はんせいっ! 分かりましたか分かっていただけたなら私はもう帰りますお邪魔しましたさようならっ!」
 すたたたたっ、と戸口までかけてきたリトリアは、唖然とする花舞の者たちにわたしになにか文句でもあるのと言わんばかり、尊大な態度で、その血統を示す二色ゆらめく髪と瞳を見せびらかすように、高慢に顔をあげて周囲を睥睨したのち。ばたーんっ、とばかり勢いよく、引き止める言葉を全無視して、扉を閉めてしまった。
 さっ、帰りましょ、とにっこり笑うリトリアに、ソキは思わずきょとんとした目で、ぱちくり瞬きをしてしまった。目まぐるしくて、なにが起きていたのかもよく分からない。唯一、リトリアがやることを予想はしていたツフィアだけが、苦笑しながらおてんばさん、とやんわり窘めたくらいである。
 ふふ、とくすぐったそうに笑ったリトリアは、あ、と思い出した風を装って体を反転させ、よいしょ、と言いながら再度執務室の扉を開く。
「あっ、そうそう。お姉さま? 言い忘れていました」
「な、な……なにかな?」
 動揺を立て直しきれていない女王に、にこっと愛らしく笑いかけて。リトリアは美しい仕草で、ごきげんよう、と囁き一礼した。
「そういう訳ですから、どうぞ大人しくしていてくださいね、お姉さま? このことは、シアちゃ……こほん。砂漠の陛下にも、白雪の陛下にも、星降の陛下にも。もちろん、お兄さまにも、ちゃんと伝えておきますから!」
 それでは続報をお待ちくださいな、隠れてなにかしたらもうお姉さまと口をきいてあげませんからっ、と最後まで年下の身内全開で言い放ち、リトリアは引き止める声を再度無視して、ぱたんと扉を閉めてしまった。清々しい、ソキによく似たぴっかりとした笑顔で、リトリアはよし、と頷く。
「これでもう大丈夫!」
「リトリアちゃん、すごぉーい! すごぉーい!」
「ふふ。お姉さまに言うことを聞いてもらうにはね、最初から話をさせないのが肝心なのよ。お姉さま、あれで、強引に来られるのに弱いの」
 リトリアの他、誰もそんな風に来ないからである。加えて、それを許してくれる身内の甘さが通じたので、今回はこれで収まるだろう。さっ、撤収しちゃいましょうね、追いかけてくると面倒くさいもの、とさらりと言い放ち、リトリアはさっと己の髪に指をからめ、まぶたの上から手を押し当てて、そこに再度魔術を展開させた。
 見慣れた花の、藤色だけが戻ってくる。ソキはそれをじーっと見つめ、どっちもとっても綺麗で可愛いですぅ、とご機嫌の声でにこにこと感想を告げた。ふふ、と照れくさそうにリトリアが笑う。それから少女はもじもじと手を擦り合わせ、ちいさな声で、ツフィアはどっちが、好き、と囁いた。気になっていたらしい。
 言葉魔術師は苦笑してリトリアに手を伸ばし、くしゃんと乱れた前髪を指先で整えてから、目を合わせてゆっくりと言った。
「どちらも、あなたに似合うし、可愛いわ。……ただ、陛下にあまりおてんばなことはしないのよ、リトリア。いつまでも許して頂けるとも限らないことなのだから……。分かったわね?」
「はぁい。……ふふ。どっちも好き? ふふふ!」
 頬を両手で押さえてこの上なく幸せそうに笑い、リトリアは弾む足取りで『扉』に向かって歩き出した。その背を追いながら、ナリアンは緊張の解けた息を吐く。『扉』を起動させたソキ、役目を果たしてみせたリトリアが、ひとつ間違えれば崩壊する緊張を、見守るツフィアの視線と存在で保っていたことを知っている。ナリアンだけ、まるでなにもしていない。
 転んだソキと手を繋いで歩いたくらいである。リトリアが走り出したのに動揺して、ソキを転ばせないことすらできなかった。身の危険を感じること以外では、と魔術の発動を禁じられていた為だった。俺、来る意味あったのかな、と落ち込むナリアンの手をきゅむっと握りながら、とてちて帰り道を歩くソキが、もちろんですぅ、と頷いた。
「ロゼアちゃんがね、なにかあったら、ナリアンを頼るんだぞってソキに言ったです。なんにもなかったらね、それが一番なんだけどね、でもね、ナリアンが一緒だから、ロゼアちゃんはソキがいなくて寂しいですけど、ふにゃあぁんさびしいんですけどぉー! えへ、えへへ、でもね、ナリアンくんが一緒だからね、安心してソキが帰ってくるの待ってるなって、言ってたです」
『誇りなさいよ、ナリアン。アンタ、信頼されてるってことよ。おかげで、ソキを見送るロゼアの不機嫌が、予想より三割減だったわ。どうもありがとう』
 珍しい妖精からのとりなしに、ナリアンはおずおずと頷いた。そうよナリちゃん、元気を出して、と囁くニーアにも頷いていると、先を歩いていたツフィアが笑いながら振り返った。
「あなた、そんなことを気にしていたの? ……いえ、悩みに対してそんなこと、はないわね。ごめんなさい。でも、気にしなくてもいいのよ。私や寮長、レディが、あなたかメーシャを、と言ったのは本当の緊急事態を想定してのことだもの。なにもなく戻れたなら、あなたはそれはそれで、役目を果たしているのよ。だから大丈夫」
「……役目?」
「もしも戦闘になった場合、言葉魔術師たる私だけでは、ソキとリトリアを守りきれない。案内妖精が力を貸してくれたとしても、かなり難しい防衛戦になるでしょう。ナリアン、あなたとメーシャに期待されたのは、なにかあった時にソキや、リトリアを連れて『学園』に駆け戻り、すぐに助けを連れてくることよ。あるいは、私がそうするまでの、足止め。先読みに長けた占星術師なら、もしくは、攻撃性の高い黒魔術師なら、それが可能だからよ」
 そうだったのっ、とびっくりした顔をして、予知魔術師たちが顔を見合わせる。この子達だけは敵の手に落とさせるわけにはいかない、分かるわね、と囁かれて、ナリアンは真剣な顔で頷いた。予知魔術師としても、リトリアとソキという個人としても、かけがえのない大切な少女たちである。
 なら、よかった、とほっとして呟くナリアンに、ソキはまじめな顔で、リトリアはぷぅっと頬を膨らませて言った。
「もう、ツフィアったら。私だって戦えるわ。『学園』を卒業した、一人前の魔術師だもの。いざ、と言う時の戦いの訓練だって、授業でちゃんとやったもの。……ソキちゃんは、まだ、だものね。私が守ってあげるからね!」
「ソキ、ちゃあんと守られるぅー!」
『……そこで、ソキにだってできるですうー、とか立ち向かっていこうとしないのが、良いところよね。ソキ』
 妖精に苦笑されて、ソキは自信たっぷりのふくふくとした顔で、そうでしょうそうでしょうと頷いた。
「守ってくれるっていう時はぁ、ちゃあんと守ってもらうです。あのね、戦わないといけない時とね、守ってもらわないといけない時はね、違うの。ナリアンくんがいるなら、ソキはアスルを投げなくてもいいの。だからね、アスルはお留守番なんですよ。きっとぉ、帰ったらぁ、ロゼアちゃんのいい匂いがいっぱい染みしみしてるにちぁいないですううううきゃああんきゃあん!」
「……見習ってもいいのよ? リトリア?」
「う、ううぅ……」
 戦わないといけない時は、ソキだって逃げずに、ちゃんとできることをするのである。特大の呪いをこれでもかとこめた、アスルをけんめいに投げるだとか。リトリアは今ひとつ納得していない顔で指先を突き合わせ、あ、と唐突に声をあげた。『扉』を目前にした事だった。
「ソキちゃん、ナリアンくん。先に戻っていてくれる? ツフィア、お兄さまの所にも行きたいの。ついてきてくれる?」
「リトリア。楽音の陛下、でしょう? ……長くならないなら、いいけど。なんの用なの?」
 もう、あとは『扉』を伝って帰るだけである。一度ソキが起動したことで、リトリアも『扉』を使う術を学んでいる。術式も頭に入っているのだった。目的は無事達成したので良いだろう、とするツフィアの疑問に、リトリアはふふっと楽しそうに笑う。
「大丈夫だから、次の会議でいじめるのは白雪の陛下だけにしてあげてねって。今のうちから止めておかないと、お兄さま……えっと、あの、あのね、楽音の陛下ったら、絶対にあれやこれや弱味を楽しく握っていくと思うの」
「白雪の、陛下は……いいの?」
「……あのね、楽音の陛下ったら、好きな子をいじめるのがだいすきなの……。花舞の陛下に対するみたいな、兄妹喧嘩とはね、違うから……しかたがな……くはないんだけど……」
 これで突かれると、せっかく収まったのがまた爆発すると思うの、お兄さまったらそういう引き際が分かってるんだけどひとさまをいじめるのが好きすぎてやりかねないから、と遠い目をして息を吐くリトリアの主張はつまり、上手く行ったからこそここでもう一つ、手を打って置かなければいけない、ということであるらしい。白雪の女王には尊い犠牲になってもらう、ということでもある。
 そういうことならば、と苦笑するツフィアと共に楽音へ向かうリトリアと別れ、ソキはナリアンと共に『学園』への『扉』を開く。ロゼアちゃんロゼアちゃん、とナリアンと手を繋ぎながら、きゃっきゃとソキは足を踏みだした。『学園』に到着したソキは、ナリアンと繋いでいた手をするりと外して歩き出す。妖精が、ひとりで行かないのよ、と小言を言う。
 その声が、響き終わるより、はやく。ひとりでに。ソキの意志と関係なく起動した『扉』が、予知魔術師の姿を飲み込んだ。後にはしんと静まる空白があるばかり。え、とナリアンの手が空を切る。妖精が瞬きをして、息を、止めるように喘いだ。
『……ソキ?』
 嘲笑うように。『扉』は、予知魔術師の姿を吐き出しはしなかった。



 それがなんであるか理解するより早く、リトリアは口を手で押さえてその場に足を折った。呼吸をするより早く、吐き気が背を貫いて駆けあがってくる。咳き込むことすらできない。眩暈がする。リトリアっ、と悲鳴そのものの声でツフィアが手を伸ばし、どうしたのかと問うてくるが、声を発することができなかった。『扉』での移動に失敗した訳ではなかった。眼前には見慣れた楽音の廊下が広がっている。
 現れたふたりの姿を確認して、リトリアとツフィアの名を呼ぶ声がいくつか耳に触れた。そのどれにも返事ができない。術式は正しかった。そこになんの綻びもなく、罠もなかった。リトリアの魔力に乱れもない。感じ取ってしまったのは『扉』を再起動する余波と、そこに残った引きちぎられた悲鳴のような意思だった。それが誰のものか分からない。分かりたくはない。呪いと悲鳴と汚泥に満ちた意思。
 リトリア、息をしなさい。せめて息をしなさいっ、と言葉魔術師に強く命ぜられて、予知魔術師は脆弱な息を喉に命じる。それはあまりにか細く。酸素を取り込もうと悲鳴をあげる体が、激しく咳き込んでリトリアは涙を滲ませた。けれどもそのことで、ほんのすこし、楽になる。予知魔術師を連れて行こうとする強い力から、またすこし、距離を置いて逃れられる。
 それに身を委ねなくてはいけない、という本能めいた誘惑と、今度こそ助けられるかも知れないという、理解のできない焦燥が胸の中で渦を巻く。はじまってしまった、とリトリアは思う。もう猶予がないことは分かっていた。フィオーレが操られロゼアが乗っ取られた時から、それがはじまってしまったことを魔術師の誰もが、リトリアさえ知っていた。分かっていた。けれど。
 ソキが連れ去られた。はじまってしまった。もう止めることができない。そうなる前に辿り着くことができれば、もしかしたら、という甘い夢想が消えてしまったのを感じる。自分でも理解できない思考が頭の中を駆け巡り続ける。胸を締め付ける誰かの、なんらかの、いつかの己の意識がリトリアを苦しめる。また、助けられない。もう、助けられない。あのひとだけは。あのひとのことだけは。
 皆に幸せになって欲しかった。何度諦めても、何度繰り返しても。何度も、何度も、その意思が諦めきれずに意思を吹き返す。あの悲鳴をそのままにしたくなかった。笑い合ったことがある。親しく合ったことがある。あのひとが、どんな風に笑って。どんな風に、泣いて。苦しんで。楽しそうにして。ほっと、肩の力を緩めて微笑むその姿を、消し去ることができないでいる。
 それなのに。それでも。許すことはできない、とリトリアですら思ってしまう。あのひとの、シークの。したことは、許されることではない。未だ幼いソキを誘拐し、魔術師の水器を破壊し。その過程で、魔術師ではない人々の犠牲を何人も出した。リトリアを操り、ツフィアとストルの運命を歪めて傷つけた。知らないだけで、恐らく、人々の犠牲はまだあるのだろう。それは許されざることである。
 どんな事情があっても、どんな理由があっても。許してはいけないこと、許されてはならないことが、成されすぎてしまった。悪逆には罪を。罪には罰を。いまこそ、いまこそ。ああ、もう、止めてあげなければ。誰もあのひとを立ち止まらせてあげることが、できなかったのだから。絡みつく呪いを消し去る程、傍にいてあげることが。これほどの繰り返しの中、これほどの、流れて行く時の中で。
 誰もそれができなかった。それは過ちなのかも知れない。わたしもそれをしなかった。わたしも、それが、できなかった。それを認めて、さあ、立ち上がらなければいけない。後悔は振り捨てずに連れて行く。懺悔は残さず抱き抱えて、走って行く。さあ、さあ、いまこそ、と心ごと未来へ差し出すような強い意志、焦燥、決意に突き動かされて、リトリアは胸いっぱいに息を吸い込んだ。
 悲鳴をあげる体を無視して、力に頼って立ち上がる。リトリア、と咎めるツフィアに涙の滲む目を向けて。予知魔術師は、己の対たる言葉魔術師に。己という存在を武器として差し出すように、強く、目をぎらつかせて言い放った。
「ツフィア。シークさんが、ソキちゃんを連れて行ってしまった」
「……なぜ?」
 なぜ、そんなことが分かるのか。なぜ、そう言い切れるのか。いくつもの問いを重ねた言葉魔術師の囁きに、リトリアは胸に両手を押し当て、誇り高くさえ囁いた。
「いつか、私、シークさんの為に予知魔術を使ったことがあるの。……その時にきっと、ソキちゃんとも、シークさんとも、なにか繋がりができたんだと思う。なにか、今でもそれが、残っているんだと思う……」
 繰り返し、繰り返し。ここは時の果て。その、繰り返される時の、前。全ての魔術師が希望を込めて、世界を繰り返した出発点。そこへ残してきたものが、いまも。
「ちゃんと説明はできないの。いつ、どこで、なにをって、聞かれても、私にそれは説明できないの。ここじゃないかも知れない。この世界じゃないかも知れない。でも、私はいつか、そうした。私が望んでそうしたの。だからね、分かってしまう……」
「……確かなことね?」
 なにも、問わず。不確かな情報で動くことはできないから、と。それだけを確認してくれたツフィアに、リトリアはしっかりと頷いた。ツフィアは分かったわと微笑み、リトリアの手をしっかりと握って目を覗きこむ。
「陛下に、報告を。それから、動けるようなら動きましょう。……間に合うのね?」
 なにに、だろう。どのことに、間に合えば、今度こそ救われるのだろう。ぼんやりとした意志を感じながらも、リトリアは唇に力を込めて頷いた。はじまってしまった。そうであるからこそ、まだ、終わってはいない。大丈夫、と告げるリトリアに微笑み、ツフィアは予知魔術師の手を引いて歩き出した。
「魔術師は一級戦闘態勢へ移行せよ! 王にご報告申し上げる……!」
 落ち着かない眩暈と焦燥に息をしながら、リトリアはぎゅっと目を閉じ、胸中で呼びかける。シークさん、なにをしたの。ソキちゃん、無事でいるの、どこにいるの。お願い、教えて。答えて。たすけさせて。わたしに、あなたを、もう。あきらめさせないで。縋りつくような意思に、応えはなく。どちらからも。どこからもなく。



 くらやみで、ひとり、ソキは目を覚ました。いつの間にか横たわっていた場所はつめたく、見知らぬ石の廊下のただ中であった。ソキはぼんやりとしながらはたはたと瞬きをして、それから身を貫く恐怖と共に、とっさに己の服に手をやった。あたりは黒く塗りつぶされている。光源はない。ひとつもない。遠くに、あまりに遠くに、うっすらと光る陽光らしきものが見えたが、ソキの元まで欠片すら届くことはなかった。
 己の手すらおぼつかないくらやみ。それでもだんだんと慣れてくる目に力を込めて、半泣きになりながら、ソキは己の服がなにも乱れていないこと、同じものを着ていることを確認して、しゃくりあげ、途絶えてしまいそうな息を繰り返した。だいじょうぶ、だいじょうぶ。なんにもなっていない。なにもされていない。繰り返し、繰り返し、言い聞かせて、瞼にぎゅっと拳を押し当てる。
 鼓動が耳の裏側で、痛いほど波打っている。暗い、くらい。誰もいない。ひとりきり。怖い。かたかたとひとりでに震えだす体を、悲鳴をあげそうな喉を、叱咤して、堪える。なにが起こったのか、分からなくっちゃ、とソキは必死に考えた。記憶はぶつりと途絶えていたが、直前が失われた訳ではなかった。『学園』に到達した瞬間、後ろから目隠しをされるように攫われたのだ。
 それは不可視の腕だった。ソキを、予知魔術師だけを選別して、捉えてしまう腕だった。魔力だった。魔術とするより、純粋な、なにも編み上げられていない、ただ方向性と指示だけを乗せられた魔力の流れ。引き寄せられてしまったのは、ソキがその対たる予知魔術師であるからで。なんの防衛もできない、水器の砕けた魔術師であるからだ。
 ソキには魔術師としての力が足りない。操ることはできても。すくなくとも、己の足で立つ程の力が足りないでいる。引き寄せられれば流されてしまう。どうしよう、どうするのがいいんです、と思って、ソキはきゅうとくちびるに力を込めた。くらやみは怖い。連れ去られたあの七日間を思い出すから。くらやみの中は嫌い。水器を壊された痛みを、思い出してしまうから。
 今はもうない筈なのに。その幻の痛みは消えないでいる。ずきずき、痛みはじめ、呼吸ごと増えていくような感覚に首を横に振って、ソキはいけないです、と呟いた。昔の痛みで、今、動けなくなってしまってはいけない。今は昔の続きだけれど、それでも、現在ではないのだから。くらやみは、怖くて痛いものだ。けれども、もうソキは、そこに明りが灯ることを知っている。
 妖精と引きはがされてしまっても。必ず、ソキの元までやって来てくれることを、知っている。信じていられる。疑わないで、待てる。このくらやみには明りが灯るのだと。立ち上がれる。すぅ、と息を吸い込んで。は、と吐き出して。ソキは、よろよろと立ち上がった。『花嫁』の本能が、教育の通りに、動かず、ここで助けを待つべきだとソキに告げている。動いても、迷ってしまうかも知れないからだ。
 弱く脆い体では、できることはほんのすこししかなくて。だからこそ、動かないでいることを、『花嫁』は徹底される。それは信頼だ。必ず『傍付き』が助けに来てくれるという、信頼だ。それをソキが失った訳ではない。それが正しいと知っている。けれど、ソキは魔術師でもあるので。予知魔術師たるソキの本能が、立ち上がり、歩いて行かなければいけない、と叫んでいた。
 歩くことを知っている。その大切さを知っている。そして、自由に、どこまでだって行けることを。くらやみは怖くない。明りが灯ることを知ったから。その先にある痛みも、怖くない。助けに来てくれることを、知っているから。てち、と足を踏み出して、震えながらちいさく、ソキは彼方の、零れ落ちる陽光を目指して歩き始めた。
 あたりはあまりに暗く、なにがあるのかも分からなかった。道幅すらおぼつかない石作りの空間。かすかな足音の反響から、地下かも知れないです、とソキは思った。そういう場所を、ソキはひとりで歩いたことなどないのだが。そこを歩くロゼアの足音を覚えている。腕の中から幾度か聞いたことのある、足音。その響き。音の連なりが、勇気のように、そっと、ソキの背を押した。
 きっと天井も、壁も、廊下も、つめたい石で出来ている、閉ざされた地下空間。そこをなんと呼ぶのか、ソキは知っている気がした。ここは地下牢。そこへ連なる廊下のひとつ。道の先、ひかりの零れる場所に、誰がいるのか知っている。誰が待っているのか。誰が、ソキを、ここへ呼び込んだのか。行ってはいけない、という『花嫁』の怯えに、行かなくてはいけない、という魔術師の本能が反発する。
 どちらも正しかった。どちらの正しさも、選びきれるものではなかった。ソキは、はく、と口を動かして、呼びかけた名を喉に封じ込める。ロゼアは呼べば来てくれるだろう。ソキと同じように呼び込まれるだろう。まばたきひとつのくらやみで。予知魔術師の魔術がそれを、可能とするだろう。分かっていた。だからこそ、呼ぶ訳にはいかなかった。ロゼアだけは呼んではいけないと、魔術師は良く、知っていた。
 何度も何度も繰り返し、何度も何度も間違えた。それは血濡れた幕開けを導く選択。それは、この世界の半分を焔の海に沈めてしまうこと。ソキをくらやみから抱き上げて助けてくれるその腕で、ロゼアは終幕世界に火を放つ。いけない。こわい。いけない。あいたい。いけない。たすけて。こわい。いけない。たすけて。たすけて、たすけて、ロゼアちゃん。
 悲鳴をあげかける喉に、手を伸ばして。ぜい、とソキは息をした。ゆっくり、ゆっくり、歩んでいた足を止める。そこは零れ落ちるひかりのたもと。この牢屋の終着地点。鉄柵の向こうに、ひとの気配があった。そこへいる者の名を、ソキは知っている。鉄柵越しに、ふたりは向き合った。
「……ヤあ、久しぶリだネ、ソキちゃん」
 歪んだ声がわん、と響く。不愉快な虫が耳元で羽音を奏でたかのような。歪んで壊れてひきつれた、男の低い笑い声。カタカタと震えだす体を叱咤しながら、ほとんどはじめて、ソキはその男と真正面から向き合った。無残に踏み荒らされた、勿忘草の瞳がソキを見ている。はく、と口を動かして。ソキは、その男の名を、呼んだ。
「しーく、さ……ん……」
 ここは最果て。時の果て、砂漠の城の果て。地下牢の果てにて。言葉魔術師と予知魔術師が、再会した。

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