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 ソキの名を呼んで走り出そうとするロゼアを、寮長が足払いをかけて倒れさせようとする。死角から低く素早く繰り出された一撃は、脛を狙ったごく正確なものだったが、ロゼアはそれを見もせずに避けた。そのまま先へ行こうとする足が、とと、と力を失ってふらついた。支えを失ったように。まさしく、その通りに。力なく転んだロゼアは、そのことにも愕然とした表情で顔をあげた。
 ロゼアに、落ち着け、と言う無駄を知った態度でそうとは告げず、寮長は動揺が広がる医務室に、有無を言わさぬ声音を響かせた。
「総員! 第一級戦闘態勢を整えろ! 今すぐだ! これは明確なる魔術師への攻撃、あるいは『学園』への攻撃であると心得ろ! 談話室に集合! 急げ!」
「な……にを、すれ、ば」
 乾いてひび割れた声でナリアンが問う。今にも倒れそうに青ざめるナリアンを、慰めず、手の甲で頬を軽く叩いて。寮長はまっすぐに未熟な魔術師の卵を見つめ、態勢を整える、と言った。
「三年目からの授業には、こうした有事の際の行動訓練がある。お前たちはまだやってなかったから、実地での説明になるが、分からなければ誰の発言を止めてでも聞け。……ナリアン、お前はロゼアを起こして一緒に来い」
「……はい」
「そんな顔をするな。お前のせいじゃない。……いや、言い直してやろう、ナリアン。これはお前の不注意が招いた事故で、事件だ」
 寮長っ、といくつもあがる非難の声を微風がごとく聞き流して、男はふらつくナリアンの背を強く叩いた。何者へかの怒りにギラつく、珊瑚色の瞳が風の魔法使いを射抜いて告げた。
「心して聞け。お前のせいだ。……そして、油断した俺達のせいだ。そうであるからこそ、責任を取って単独行動は慎め。冷静さを持て。ロゼア、お前もだ。誰が悪いのかと言われれば、お前も悪い。ソキを信じすぎて、対策を講じ切らなかった俺達全員の過ちだ。以後はそう肝に命じて動け」
 はい、とロゼアが色を失った声で言う。分かっています。寮長はロゼアとナリアンを無言で見つめたあと、案内妖精たちに頼んだぞ、と言って歩き出した。ニーアが震えながら、シディが冷静であろうとする強張った顔で、ルノンは言葉を失ったようにかたく手を握りしめて。妖精は、現実味のない、どこかぼんやりとした気持ちで、それにこくりと頷いた。
 理解ができない。なにが起きたのかは分かっている。ソキがいなくなった。連れ去られたのだ。すぐ傍にいたのに。誰の手も触れないでいる一瞬の隙をつかれたのだ。リボンさん、と声をかけてくるシディに、なにを考えたでもなく首を横に振る。これが誰かのせいだとしたら、そこには妖精も含まれた。
 どうして信じてしまったのだろう。迂闊で粗忽で先の見通しが苦手な、ソキの言葉なんかを。いくら予知魔術師の本能によるものだとしても、それを受け取って言葉にして差し出してくるのはソキである。妖精の、いとしい、弱くて脆くてふわふわ笑う、甘い声できゃらきゃらと笑う、ソキという魔術師である。信じすぎてはいけなかった。
 もっと、疑って、考えて、守っていなければいけなかったのに。ぎりっ、と歯を食いしばって、拳を握って、妖精は燃え盛る怒りを宿した瞳で顔をあげた。すっ、と危機を察知した顔で、シディが妖精から距離を取る。あ、大丈夫ですね、と虚ろに呟く声になにがよと鼻を鳴らし、妖精は直刃のような髪を手でかきあげて、苛立ちと共に吐き捨てた。
『ぶち殺してくれるわ砂漠の虜囚めがっ! よくもやってくれたわねっ! 首を洗って待ってなさいよっ!』
 ソキは罠に引っかかったようなものである。非が全くないとは思わないが、悪いのは仕掛けた方だった。無事でいることを強く願う。ソキが自分の身を守って、守り切って、助けを待ってくれることを願う。けれども愕然とした、泣き出しそうな気持ちで、妖精はそれが叶わないことも知っていた。もしも、ロゼアを守るためなら。ソキがなにを差し出すか知っている。己の身すら躊躇わず、刃の上に乗せることを知っている。
 だいじょうぶだもん、と言いながら。守ってみせるとその決意をひとつ、胸に宿して。どれだけのことを成し遂げてしまうのか。その胆力があることを、数日かけて、ソキは証明しきってしまった。なにをされるか分からないことに加えて、ソキもなにをするか分からないとくれば、もう不安しかないのは道理である。
 ちょっとっ、死んでないで考え得る最悪の想定をアタシと共有しなさいよっ、と怒鳴りつける妖精に、ナリアンに助け起こされ、ロゼアは呆然としながら口を開く。
「ソキが……ソキが、相手の手に、落ちることです……」
『今、もう、そうなってるでしょうが! ……なに? なにが言いたいの? 手に落ちるって』
 息を、吸って。妖精は、はた、とその言葉に気がついた。ソキは穢れなき、と育てられた『花嫁』だ。知識と、多少の実技教育を受けているという点で無垢ではないが、純潔ではある。アンタ、と妖精は息をするのが苦しい気持ちで囁いた。まさか。
『そうなの? ……あのど腐れの不埒者は、まさかそういう意味でもソキを狙ってるって言うのっ?』
「分かりません……。分からない、でも、あの男は一度、ソキを、殺しかけた……壊したんです……! なら!」
 次にまた、今度こそ壊しきるとしたら、最悪の想定を出せと言われたら。それしかない、とロゼアは悲鳴そのものの声で言った。ソキはもう既に、その胸に隠した、魔術師としての一番大切なものを壊されている。その上でなお、抵抗するのなら。ぞわっ、と羽根を震わせて、妖精はソキが男に組み伏せられる光景を、頭から振り払った。
 泣き叫んで死にものぐるいで抵抗しても、ソキなら押さえつけられて終わりだろう。助けの手が触れるまで、抵抗し続ける体力もない。一刻もはやく、助けに行かなくては。狂気すら滲ませる焦りを、無理矢理押さえつけているのが誰にも分かる瞳で。ロゼアは声をなくすナリアンも、妖精たちも見ずに、甘やかな微笑みを虚空に投げかけた。
「……ソキ、ソキ、約束だろ。……呼んで、俺を」
 必ず。助けに行くって。約束しただろ、とロゼアは言う。まだ、『花嫁』と『傍付き』だけだった昔日に。ふたりきりで約束をした。その時も、『傍付き』としての繋がりが、必ずソキの声を手繰り寄せると信じて。今はもう、確信的に思っている。二人がともに、魔術師である今ならば。その声は届き、その声が招き寄せ、その声がロゼアを引き寄せる。
 大丈夫、必ず俺が助けに行くよ、と囁くロゼアの腕を、繋ぎ止めるように掴む者がいた。ふたり。ひとりは、傍らにいたナリアン。そしてもうひとりは、事態を把握して走り、飛び込んできたメーシャだった。どこか、夢の中にいるような素振りで。ゆったりと瞬きをするロゼアに、息を切らしながら、メーシャが行くよ、と鋭く叫んだ。
「ロゼア、談話室に行くよ。それで、ソキを助けに行こう! みんなで!」
「……うん。そうだな、メーシャ」
「そうだよ。一人でなんて行かさない。……行かさないからな、ロゼア!」
 ほらっ、といつになく乱暴で強引な仕草でロゼアの腕を引き、メーシャがずんずんと歩き出す。と、とっ、と引っ張られて歩くロゼアの背を力いっぱい押して、ナリアンがそうだよ、と大声で言った。
「ソキちゃんが待ってる。だから、みんなで、助けに行こう! ロゼア!」
「わ……分かった。分かってるよ、ナリアン」
「俺思うんだけど! ロゼアに紐付けて、それを俺たちで持っておくのってどうかなメーシャくん!」
 ロゼアの分かっているを全く信頼していない、かつ無視したナリアンに、ロゼアがむっとした顔になる。前を歩くメーシャはきらびやかな笑顔で振り返り、不機嫌なロゼアにふふっと笑いを深めて言い放った。
「それがいいね。そうしようか、ナリアン」
「ちょっと……メーシャ、ナリアン。なんなんだよ」
「俺たちを置いてひとりで行くならね、それは助けなんかじゃないよ、ロゼア」
 ぴしゃりと叩き落とす、冷たい声だった。声を詰まらせるロゼアに、メーシャは口元をやんわりと和ませて笑う。その瞳に占星術師の叡智、魔力のひかりをうっすらと滲ませながら。やさしく、柔らかく、メーシャは今度は穏やかに、言葉を繰り返した。
「駄目だよ、ロゼア。一人でなんて。俺たち、みんなで、助けに行くんだ」
 みんなで行くんだよ。この先へ、行くんだ、とメーシャは囁いた。祈りの先、願いの先へ。何も取りこぼしてしまわないように、大切なものをぎゅっと抱きしめて。手を繋いで。離さないで。にっこり笑って、メーシャはロゼアの腕をひいた。
「ソキを助ける、ロゼアを助けるよ。……いいね?」
「ひとりでなんて、行かせないからね、ロゼア。……ひとりで、急いで行かないでいいんだよ。俺たちだって急いで行くから、ソキちゃんの所に、ロゼアが辿り着けるように」
「いいぞ、その調子だ。もっと言え」
 いつの間にか、談話室の扉に背を預けて腕組みをした、寮長が半ば睨むようにして三人のことを待ち構えていた。寮長、とメーシャはほっとしたように、ロゼアは呆然としたまま、ナリアンは反抗期真っ只中の嫌さ全開の顔で呼ばれるのに、男はゆっくりとした動きで立ち直した。
「そいつを独断先行させないように手をつくせ。なにをしても構わん」
「寮長、言い方に気をつけてくださいます? ……ロゼアさまにもっと気をつかってください。ソキさまがいなくなっただなんて、心痛はいかほどのものか……! ああ、ロゼアさま! ご安心くださいね! このレディが全力で焼け野原なり焦土なり! 御命令くだされば、なんなりと! ほんとなんなりと! 焼くので!」
「お前故郷の城を燃やす気かよ……落ち着け、火の魔法使い」
 どん引きしながら声をかけてくる寮長に、火の魔法使いは開き直りきった顔をした。故郷を焦土にしたもので、今更城のひとつやふたつ、と言い放ち、それからすこし気を取り直したように、口に手をあててこほん、とわざとらしい咳をする。
「……というのは、すこし冗談として。それくらいの覚悟でおりますので」
「……これもしかして、消火器役の魔術師が必要か……? 砂漠の筆頭は確か水属性の黒魔術だったか……全焼は防げるな……」
「うふふそんなまさか本当にはやりませんようふふふふ城を燃やすだなんてふふふふふふ燃えるのはあの男一人で十分よ……!」
 コイツから先に鎮火すべきか具体的には頭からバケツで冷水かけるとかそういう方法で、と呟き真剣に検討しながら、寮長がナリアンを手招いた。うわ、と顔にも声にも出しながら、止めてください呼ばないでくださいなんですか、と素直に歩み寄ったナリアンに、お前ほんとに可愛くなくてかわいいな、としみじみ呟き。寮長はどこに持っていたものか、ぽん、とナリアンに縄のようなものを手渡した。
 縄、ではない。太く丈夫そうな糸が、ぐるぐると渦を巻く。廃品のような印象を受けた。なんですかこれ、と問うナリアンに、縄の代わりにロゼアにこれつけてお前ら持ってろ離すなよ、と告げ。寮長はふっと苦笑いをし、受け渡した廃品めいた糸を指さした。
「元、投網だな。ソキが捕まったとかいう、あれの現品だ。多少なりとも縁があり、ほんのかすかにソキの魔力が残っている。辿って行くにせよ、なににせよ……まあ、なにかの足しにはなるだろう」
「……そんなものが、なぜここに?」
 怒りを堪えて呻くロゼアを、じっと見つめて。寮長は今しがた召喚した、とこともなげに告げた。稀有な魔術師。ソキと同じ、寮の四階の住人。彼らがかつて相手としたのは、人ではなく、軍ですらなく。対国家。国をひとつ消し去る為の、兵器として使われていた適正の持ち主。召喚術師は、なにが糸口になるか分からない、と言った。
「恐らく、リトリアはすぐにでも『学園』に戻ろうとするだろう。それを待って、当初の予定の通り、救出部隊を砂漠へ向かわせる。ただし、当初より危険が増しているものと思え。……最悪の想定として、予知魔術師が敵として現れた時に」
 続きを。寮長が告げられなかったのは、メーシャを振り払いナリアンの手をすり抜け、ロゼアが男を壁に押し付けたからだ。胸ぐらを掴む手が震えている。声をあげようとする誰もを制して、寮長はロゼアの肩に手を置いた。掴みかかった、だけで。ロゼアはそれ以上は動かず、うなだれている。ぽん、ぽん、と強く、男の手がロゼアの肩を叩く。
「万一、そうなった時に。それをソキに向かって投げろ。上手くすれば動きを封じられるし、最低でも注意は引き付けられる。それは、予知魔術師を捕らえたという縁と、実績を持つ、もはや魔術具だ。そう思え。いいな」
 すぐにリトリアとツフィアが戻ってくる、と確信に満ちた、決定事項を告げる声で寮長は言った。
「そうしたら、お前らも一緒に、救出部隊として動け。……不安しかないが、他にレディを御しきれるのがいないから、レディの元で班として動くこと。質問と不安があれば、出発までに全て解消しておけ。以上」
 俺は出発までにレディを落ち着かせておく、と息を吐く寮長に、火の魔法使いは高らかに告げる。
「残念ながら! 冷静です!」
「うるせぇよ。水かけてやるから大人しくこっちこい。後輩に迷惑かけるんじゃない。……お前が冷静でないと、俺の女神救出にも差し障りがでるだろうが……!」
 最後の最後に私情を交えた冷静でない言葉を吐き捨て、寮長はレディの腕を掴んで洗い場方面へ引っ張っていく。はぁっ、残念でしたけど私の火は普通の水なんかで消火できないんですけどっ、安心しろ水を被るのはお前の頭だ、と怒鳴り合い言い争う声が、勢いよく離れていく。途中でなぜか走り出したらしい。仲悪いですよね、としみじみとメーシャが呟いた。
 あれは恐らく、双方同じ意志で走り出したのだ。一刻も早く互いを納得させ、用件を済ませて別れたいが為に。待つこと、数秒の後に。とても派手な水音、蒸発音、高笑いと怒号、なぜか足元にまで響く、滝のような水音が連続して響いてきて。ナリアンはうつろな目で、そんなばかな、と言った。
「いやでもあのひと、自分のこと冷静だとは言わなかった……確かに、言わなかった、けど……馬鹿じゃないのかあのひと! 病み上がりで! なにしてっ……ああぁああもう! メーシャくん! ちょっとごめん! 俺殴って止めてくる!」
 いってらっしゃい、ほどほどにするんだよー、とメーシャは微笑んでナリアンに手を振った。その頃には廊下の彼方へ消えている背を追いかけて、うふふ、ナリちゃんったら、と笑うニーアも飛んでいく。アイツらの馬鹿を見て気持ちを落ち着かせるわ行くわよ、とシディを掴んだ妖精も飛んでいくのを見守って、メーシャはくすくす、肩を震わせて問いかけた。
「ルノンはいいの? 行かなくて」
『俺はメーシャの傍にいるよ。メーシャと、ロゼアの。……なぁ、出発の前に、なにか飲みに行こう? お腹をすかせたまま、誰かを怒りにいくもんじゃないよ、ロゼア?』
 うなだれて。廊下に座り込むロゼアに、ルノンがそっと囁き落とす。俺もルノンに賛成だな、と笑って、メーシャはロゼアに手を差し出した。さあ、行こうよ、ロゼア。声に。言葉に、頷いて。ロゼアは、メーシャの手を取り、立ち上がった。




 言葉は響かない。声が奏でられない。心音が埋め尽くす静寂の中で、鉄柵に隔てられたこちら側と向こう側で。ソキとシークはそれぞれに、ひとりきりのままで向かい合っていた。視線があっているかどうかは分からないことだった。瞳を覗き込まれているような気はした。しかし相手の姿を見せもしないくらやみが、なにもかもを塗りつぶしていた。
 それでも、なぜか、こちらに向いていることが分かる。ソキは乏しく息をしながら、鉄柵に手を伸ばして、冷たいそれを握りしめた。そうでなければ、そんなものを支えにしてしまわなければ、立ってなどいられなかった。座り込んではいけないことだけが分かる。座ってしまえば、この足はもう、立つことを思い出せなくなるだろう。恐怖で。覆い尽くされた恐怖と、痛みの記憶がそうさせてしまうだろう。
 鎖の音が聞こえるような気がした。心音に混じって。四肢を寝台に繋ぐ鎖の音が。
「……キミ、とんでもないコトを、シてクれたネ……ふ、ふふ」
 痛くて、だるクて、動けやシなイよ、とくらやみの向こうから声がする。ぎしぎしと軋むような言葉の響き。壊れたものが無理に動いて、擦り合わされる音。ソキは無意識に鉄柵から片手を離し、手探りでアスルのことを探した。出掛ける時に背負っていたリュックは、いつのまにか落としてしまっていた。どこで落としたのか分からない。『学園』の扉の前か、このくらやみの中か。アスル、と心細くソキは呟く。
 辿ってきた道のどこか、くらやみの中で、寂しがっていないだろうか。ぎゅっと抱きしめて、一緒にがんばることができたなら、どれほど心強かっただろう。ソキの本も落としてきてしまった。白い本も、新しく手に入れた、赤褐色の本も。このくらやみの中で眠っている。あるいは、『扉』の前に。それを無意識に、手放すように仕向けられたとは、考えたくなかった。
 心も、思考も、体も、ソキのものだ。誰かの意思に従って動くなど思いたくはないし、もしもそんなことがあるなら相手はロゼアがよかった。この男ではない。ロゼアがよかった。ロゼアのものになら、なりたかった。息を、しながら。再び鉄柵を握るソキの内心を感じたように、くすくす、嬲るような笑い声が歪に響いてくる。
「イいんダよ? 会いたいノなラ、呼べバいい。……キミが呼べバ、彼はスぐにでも来てくレるダろうさ……」
 嫌、とも。駄目、とも。ソキは言葉を響かせなかった。それがこの男の望みのひとつであることを知っている。この男はロゼアが欲しいのだ。自由になる体が、ソキが言うことを聞く声が、言葉魔術とは違う、もっと攻撃的な力が。キミへの贈り物だよ、と囁いて。全て取り上げてしまうつもりなのだ。そんなことを許すわけにはいかなかった。
 ぎゅう、と眉にも力を込めてくちびるを閉ざすソキに、静かな笑い声が響いてくる。男はずっと楽しそうに笑っている。それ以外の感情を失ってしまったかのように。
「……呼ばないノかイ?」
 その問いかけに、響きに。返事をしようと開きかけたくちびるを、ソキは慌てて手で塞いだ。どくどく、心臓が高鳴っている音が聞こえる。なにもはなしてはいけないよ、と予知魔術師の本能がソキに告げている。言葉魔術師と交わす言葉、音の響き、その連なりこそが、彼との繋がりを深くしてしまう。本当なら声を聞くことすら避けておかなければいけない。繋がりを深めたくないのでなければ。
 その武器として使われたいのでなければ。それは魔術師としての性質に付与された役割で、形で、ひとの意思などではどうにもならないことなのだから。避けて、逃げて、行かなければ。今すぐここから離れるべきだ、という意思を、ソキは飲み込まずに振り払った。魔術師として、それが正解だ。分かっている。けれどそれでは、ロゼアを、もう守れない。
 すう、と息を吸い込んで、『花嫁』はくらやみの向こうを睨みつけた。
「ロゼアちゃんに、なにもしないで。……『学園』にも、砂漠にも、ひどいことさせないです」
「ヒドイコト、って? なぁニ? どんナコト?」
 くすくすくす、と闇が笑う。くらやみが。嘲笑う。その向こうに本当に男がいるのか、分からなくなる。もしかしたら背に立って、ソキのことを見下ろしているのかも知れない。耳元で声がする。逃れられない、絡みつくような声が、する。
「言ってゴランよ、教えて欲しいナ? キミの言う、ヒドイってどんナコトなの? なにがヒドイって言うのかイ?」
 じわ、と指先に糸が絡むような気配がした。それは肌を伝って、するするとソキの全身に伸ばされていく。いけない、という声はまだしていた。けれどもそれは記憶に遠く、意識に遠く。いつの間にか思い出すことができずに。どうして駄目だったのか、分かっていたはずの意識に目隠しをされて。ソキは息を吸い込んだ。
「みんなに……みんな、倒れて、動かなくなって……フィオーレさんも、ロゼアちゃんも……操った、です。ロゼアちゃんのことを、ずっと狙ってた……! ソキ、ちゃあんと知ってる……! ロゼアちゃんは、ロゼアちゃんはソキのだもん! シークさんのじゃないもん、ソキのロゼアちゃんだもん! あ、あんなことしたら、いけないんだから!」
「キミが素直にボクの言うことをキカナイから、コウいうコトになったんダよ? キミさえ言うことをキいテいれバ、ボクだつてアンナことシなかっタさ」
 あぁ、陛下も『学園』のミンナもかわいそうにねぇ、みぃんなキミが巻き込んだんだよ、と笑い声がする。『学園』になんて逃れようとするから、魔術師として成長なんてしようとするから、『花嫁』として役割を果たそうとするから。普通になんてなろうとしたから。キミが頑張ったりしたから。だから、こんなことをしなくてはいけなくなった。みんな、みんな、キミのせいだ。
 ぐるぐる、糸が巻き付いていく。指先から、手首が、腕が、肩が胸が腹が背が。操り人形の糸で巻かれていく。喉が。締め付けるように傷んでいく。息をすることが、くるしい。
「ソキは……ソキ、頑張ったって、みんな、ほめてくれた、も……わ、わるいことじゃ、ないもん……!」
「ソウかな? そウ? ……ほんとうに?」
 喉が。締め付けられるくるしさと、痛みを思い出して、ぐるぐるとした目眩がする。くらやみが笑う。くらやみが。ソキを壊したその闇が、笑う。
「キミは努力なんテもの、スべきじゃナかっタのサ。成長なんてシなクてよかった……。砂漠が沈んだのはキミのせいだ、『学園』に被害が及んだのはキミのせいだ、フィオーレを操らせたのは、ロゼアクンをああさせたのは、キミのせいだ。キミが抵抗なんてスルからだ。……そうだろう?」
 キミが無抵抗でいたなら、魔術師として成長せず、『花嫁』として完成せず。そうあろうと努力なんてことをしなければ、あのまま、あの七日間で壊されたままでいれば。こんなことにはならなかった。そうだろう、とソキの耳元でくらやみが笑う。だからすべて、すべては、キミ、たったひとりのせいだ。どうして努力なんてことをしたの。全部ぜんぶ無駄なのに。
 なにをしてもなにを考えても、全てが不幸になって跳ね返ってくるのに。努力は報われるものではないよ。だからなにもしなければよかった。なにも。キミも、ボクも。なにもかも諦めて息だけをして、ああ、でも呪いのように、諦めきれない意思が胸の中に巣食っている。くるしくて。胸を押さえて、ソキはほたほたと泣いた。やがてしゃくりあげ、立っていられなくてその場にしゃがみ込む。
 くるしいのは誰だろう。痛いのはなんだろう。努力なんてしなければよかったと。そう思っているのは。そう言い聞かせているのは。誰なんだろう。どうしてなんだろう。意識が混濁して、混線していく。記憶さえ入り混じる。シークと、ソキ。言葉魔術師と、予知魔術師の境界があいまいになっていく。個人という意思が混ざり合っていく。
 糸はぐるぐるとソキにからみつく。指先、腕、肩、胸に、腹。背も腰も、足元にまで。ぐるぐると巻き付いて縋り付く。ひかりを遮断するように。ひっく、と泣きながらしゃくりあげて、ソキはくらやみの向こうを見た。踏みにじられた勿忘草の色の、呪いが見える。時の果てから世界を貫いて、男に絡みついている。ソキはそれに手を伸ばした。無意識に。
 祝福を告げ、呪詛を囁く、予知魔術師の本能が。そのせいだ、と告げていた。そのせい。その呪いのせいで。シークは。壊れた、きしきしとした声が笑う。
「さア、ロゼアくんをお呼びヨ、ボクのお人形さん? キミはもうソレだケでいイ……さあ早く、ボクの望みがようやく、叶う……」
「な……に、が、した、い、の……?」
 鉄柵の向こうは遠い。くらやみの向こうが遠い。遠すぎて手が届かない。あんなものがあるから、ソキはこんなにくるしくて。あんなものがあるから、シークはずっとくるしいのだ。いれて、邪魔しないでっ、と甲高い叫びで、自分の意思で、ソキは牢屋の鍵を壊した。体中に言葉魔術師の糸が、操ろうとする魔力が絡みついているせいで、息をするように予知魔術が操れた。
 ずびっ、ぐずっ、すん、すすん、と鼻をすすって、ソキはくらやみの中に足を踏み入れた。それは己の意思だった。くすん、すん、と泣きながら、てち、てち、ゆっくり歩いてくるソキに、言葉魔術師は穏やかに笑う。
「イイコだネ……」
「どうしたいの……? ソキはなにをすればいいの……?」
 意識が。塗りつぶされていく。書き換えられていく。言葉魔術師に。その澱んだくるしみに、かなしさに。ソキは寝台に伏すシークの傍らに立ち、くしくしと涙目を擦って、それに手を伸ばした。天から垂れる蜘蛛の糸のように。それはシークの心臓めがけてまっすぐに降りて、絡みついている。その呪いに触れる。握り締める。
 時の果て、一番最初の希望と共に世界に書き込まれた、その呪いを。ソキはぎゅっと手に力を込めて、引き千切ろうとした。だってこれがいけないのだ。これが。こんなものがなければ。こんなものさえ、なければ。
「……いいよ。キミにどうにカできるものじゃなイ」
「ううううぅ……! にゃー! やんや! やぁーっ! だ、だめだもん! だめ、だ、だめなんだからぁっ……!」
 このひとはこんなにも、壊れなかった。ずびっ、と鼻をすすって、ぼたぼた涙を落として、ソキは勿忘草の呪いをけんめいに引っ張った。それが壊せるのは、ソキだけだった。予知魔術師の魔力を使って編み上げられた呪いだからだ。それを壊せるのは、ソキだけだった。だってその魔力は。その呪いを編んだ魔力は。ソキの。
「ソキ、やです! こんなの、やです! やだ! やだやだぁっ……や、やぁっ! やーっ!」
「もういい。……いいよ、どうにもならない。さぁ……チカラを貸してくれるネ、ボクのお人形さん? ボクは望みを叶えなければ……」
「や、やぁっ! やだ、やだ、やだっ……!」
 もうちょっとだもん、ソキ、きっとできるもん、やればできるこだって、みんないってくれるもん。だから。だから、と。抵抗するソキに笑って、言葉魔術師は囁いた。
「ボクはもう、一刻も早く、この世界から消えるべきだ。……そう、たとえどんな手を使ってでも、ボクは……」
「だめっ! だめ! だめだもん……や、やっ!」
「……帰らなければ」
 さあ、と優しく、伸びてきた手が泣きはらしたソキの瞼を覆う。渾身の力を込めた手を撫でられる。もういい、と繰り返す声は諦めきっていた。消えよう、帰ろう。いなくなろう。それが一番のいいこと。これこそがボクの望み。さぁ、叶えてくれるね、ボクの武器。ボクのお人形さん。かわいい、ボクの。
「……ソキちゃん。さぁ……歌ってごらん……」
 侵食され、書き換えられていく。言葉魔術師の望みを叶えるものに。武器に。なっていく。そんなことはしたくないのに。泣きながら。泣きながら、ソキは、たすけて、と口にした。たすけて、たすけて、ソキだけじゃ。ひかりを求めて、喘ぐように、予知魔術師が手を伸ばす。その声が、誰かの名を呼ぶより早く。ぶつん、と意識が断ち切られる。
 ぱたりと倒れ込んでくる体を抱き留めて、シークはくらやみの中、ゆっくりと体を起こした。まだ四肢に、ソキから受けた呪いによる痛みと、麻痺が残っている。動けるようになるまでは今しばらくの時間が必要だろう。呪った本人がここにいるので、解呪そのものは速やかに行えるだろうが。今はまだ、息をする、それだけのことさえ辛い。それでも、身を起こして。
 シークは、ぎこちない動きでソキに手を伸ばした。その、握りしめられた、ちいさなてのひらに。指先で触れて、じっと、見つめていた。ソキがそうしてくれたことを、ずっと。まぶたの裏に、焼き付けておきたがるような。そんな、眼差しだった。



 『扉』は使えないままだった。リトリアは言葉魔術師の妨害によるものだとハッキリと告げたが、同時に、それは弱まっているとも口にした。ただし、それがもう必要ないからか、他に魔力を使っているからなのかは、分からない。ツフィアは苦しげに、待っている時間は恐らくないでしょう、と囁いた。待てばもう回復することが分かっても、今日とも明日とも知れぬ状態だ。
 行くならもう、今すぐでなければいけない。間に合わなくなる、というのが、全ての魔術師の一致した意見だった。なにが起こる、と分かった魔術師はいない。砂漠での調査に赴かず、各国に残っていた占星術師たちは一様に、口を揃えてこう言った。星がなにも囁かなくなった。まるで、未来を見失ったかのように。選択肢の多さに途方に暮れるように。
 ひとつだけ確かなことは、もう時間を無駄にはできないこと。行かなければ、いますぐに。その言葉たちに背を押され、王の承認と命令を得て、リトリアはツフィアと共に『学園』へと舞い戻った。髪に魔力の淡い燐光を絡みつかせながら談話室に駆け戻ったリトリアは、誰かなにを言うより早く、力強い希望に満ちた声で、行こう、と言い放った。
 大丈夫、私がみんな連れて行く。一度だって、二度だって、何度だって。飛んでみせる。私が道をつくるから、だから。助けに行こう、ソキちゃんが待ってる、と背を伸ばし、まっすぐに前を向くリトリアを、ツフィアは眩しげに見つめていた。
「魔力のことは、心配しないで。私だけなら枯渇してしまうけど、ツフィアが助けてくれるし……あの、楽音の陛下がね、レディさんか、ナリアンくんに助けて頂きなさいって。……私に、魔力を供給して欲しいの。お願い」
「俺がするよ」
 レディが言葉に迷うより早く、ナリアンが一歩進み出て返事をする。ナリアン、と思わず名を呼ぶロゼアに笑って、俺でなきゃ、と風の魔法使いは、未だ未熟な魔術師のたまごは言った。
「レディさんより、俺が適任。……そうですよね、寮長」
「そうだな。お前の判断は、冷静で正しい」
 レディは責任者として動かなければ、ロゼアを連れて行くことができない。ナリアンでは、その代わりはできないのだ。メーシャはロゼアの手首に巻き付いた糸の端をくるくると指先で弄びながら、華やかな笑みでナリアンに、じゃあ先に行って待ってるね、と言った。
「終わったら来てよ。それまで、ロゼアのことも……ソキのことも、ナリアンの分、俺に任せてね」
「うん。頼むね、メーシャくん。ロゼア。……リトリアさん、勝手に決めてごめん。俺で、いいかな?」
 ニーアが、無言で妖精たちの輪から抜けて、ナリアンの傍らに飛んでくる。そうしてくれることに、改めて愛しげな笑みを浮かべるナリアンに。リトリアは一度、しっかりと頷いた。
「ええ、もちろん。風の魔法使い。……魔力を、吸い上げられるの、痛くはないけど……怠くて、辛くて、大変だと思う。私はそれをあなたに強いる。……いい?」
「もちろんだよ、予知魔術師さん。……万物を吹き抜ける風が、俺と君の力になる。強く、どこまでも、君の背を押して運んでいく。……いいよ。ありがとう。俺に、君を、みんなを……助けさせて」
「必ず!」
 さあ皆、準備して。助けさせて、とリトリアは言った。砂漠の倒れ伏す魔術師と人々。王と国。そして、連れ去られたソキちゃんを。助けに行くの、いま、私たちみんなでいくの。さあ、と促すリトリアの言葉を引き継いで、寮長が声を張り上げた。
「予めの取り決めの通りに動け! 決して単独行動はせず、二人以上で作業にあたれ! ……魔術師や、城の者たちは、恐らく一箇所に集められている筈だ。ジェイドが目覚めて動いている、とソキからは聞いている。彼の筆頭がいるのなら、最悪でも状態維持はしてくれている筈だ……! 魔術師は、エノーラ、キムルの保護と回復を最優先! あとは状態を見て現場で判断していい。なにがあっても、俺が全ての責任を追う。気負わず、できることを、やれるようにやってこい! 無理はするな!」
「……寮長、私も行く」
 談話室の入り口から、歩みながら声をかけたのはラティだった。ロゼアは驚いてその姿を見る。体調が悪く、ロゼアたちとは別室でずっと伏せっていた、と聞いていたのだが。その足取りはしっかりとしていて、なにより、長剣を腰に佩いている。動きやすそうな上下に、ローブを羽織っていることだけが、魔術師の気配を漂わせているだけの。非番の騎士を思わせる姿である。
 寮長は渋い顔で体調は、と言葉短く問い、ラティは普段と同じに動けます、とだけ返した。数秒の沈黙。ため息をついて。寮長はレディの名を呼び、連れて行け、と言った。
「ロゼアと、メーシャを……守ってやれ。重ねて言うが、無理はするなよ。……今以上には、無理はするな」
「あなたこそ。……ねえ、大丈夫よ、シル寮長。私達の筆頭がいる。……知ってる通りにあのひと、ふり切れた愉快犯みたいな性格なさってるけど、誰かを損なわせたりするひとじゃない。ロリエスはね、いるわ。無事じゃないとは思うけど、でも、いる。……助けてくるからね。必ず、助けてくるからね」
 任せてくれて、ありがとう、と囁いて。騎士はきびきびとした仕草でロゼアに歩み寄ると、言葉より先に、ぱっきりとした仕草で頭を下げた。
「ごめんなさい、ロゼアくん。……ソキちゃんのこと。私の、渡したナイフを、ソキちゃんがどう使ったか聞きました。……そんなつもりなかった、と言うのは簡単だけど、ごめんなさい。怖かったでしょう」
「……はい」
「うん。……謝罪や贖罪ではないけれど、一緒に行くからね。砂漠の城のことだもの。任せてね」
 よろしく、と差し出された手を握って、ロゼアはよろしくお願いします、と言った。ほっとした笑顔になって、ラティはそれにしても、と滞空する妖精たちを眺めて言う。
「……あなたたちも行くの? ソキちゃんのリボンちゃんは分かってると思うけど、今の砂漠、妖精には厳しめだよ? 辛いと思う」
『分かっています。でも……いいえ、だからこそ、ボクたちも行くんです。ラティ』
 代表して告げたのは、シディだった。ひとの魔術師にはできなくとも、ボクたち妖精なら。祝福を贈って浄化し、清め、安定させることができるでしょう。助けられますよ、とシディは言った。それに、とシディは、どこかほろ苦く笑って。
『今度こそ。ボクは逃げずに、行かなければ。……そう、思うんです。それに……ロゼアが行くんですから、ボクもついていきたい。理由は、単純に、それだけでもいい。……分かっています。ラティ、ありがとう』
「ううん。大変なの、分かっていて、ならいいのよ。私が止められることでもないし。……私たちの国の為に、来てくれてありがとう、妖精たち」
『いいえ、我らが同胞よ』
 君にもいま、どうか、祝福あれ、とシディが告げる。魔力のきらめき。若草のような爽やかな香りが空間に満ちる。その香りのおこぼれに触れながら、リトリアはツフィアに促され、運ばれてきた椅子にすとんと腰を下ろした。ほんのすこしでも体力を温存しておきなさい、と告げられるのにくすすと笑って、リトリアはくすぐったげに肩をすくめる。
「ツフィアったら、かほごさん。うふふふ」
「笑いごとじゃないのよ、リトリア。あなた、これからどんなに無理をするのか分かっているの?」
 予知魔術師の魔術は『扉』での転移を可能とさせるが、それは膨大な魔力の消費をも意味している。ソキが複数回の移動を可能としたのは、単純に魔術の使い方がリトリアより桁外れに上手いからであり、妖精を伴っていたからであり、単独での行動だったからだ。先に花舞に移動した時は、ソキとリトリアは力を合わせて、さらに妖精たちにも助けてもらった為に、うんと楽であっただけなのだ。
 リトリアだけでは、結果は同じでも、過程が随分違うのである。現に、楽音にツフィアとふたり、砂漠から行って『学園』に帰ってきただけでも枯渇しかけている魔力に、リトリアが気がついていない訳がないし、ツフィアが把握できない訳もない。疲労から来る息切れをかみ殺して、顔をあげて。それでも、とリトリアは誇り高く微笑んだ。
「わたし、今できるせいいっぱいが、これなのよ、ツフィア。できることを、できる限り、やるの。陛下も……それで良いって仰ったでしょう? 王命なのよ、ツフィア。聞いていたでしょう? だからね」
「あれは、言わせた、というのよ、リトリア」
 頭が痛そうな声で嗜めるツフィアに、リトリアはうふふ、と幸せそうに笑った。ツフィアと、こんなことを、他愛もない言葉たちを。交わせることが心底幸せでならない、という笑みだった。ツフィアは叱りつける気持ちをすっかり挫かれた苦笑で、それでも、なんとか、ため息混じりに忠告する。
「あなたまさか、戻ってから、あんなことばかりしている訳ではないのでしょうね?」
「し、して……してない……ちょ、ちょっとしか、してないもの!」
 誤魔化すのが下手すぎる。微笑んで、ツフィアはリトリアに手を伸ばした。ふにふに、頬を突くと、やぁ、とくすくす甘い笑い声がこぼれていく。
「いつもはしていないもの。本当なのよ、ツフィア。本当なの!」
「そう? じゃあ、いつもはどんななの?」
「え、えっと……えっと、えっと……。ちがうの……ち、ちがうの! ちょっと待ってね、あの、あの……」
 目を思いきり泳がせるリトリアに、ツフィアはただ微笑みを深めてみせた。欲しい許可を楽音の王、魔術師としてのリトリアの主君からもぎ取るべく、予知魔術師が行使した手段は花舞の女王に対するものと同一だった。いいって言って、それで良いって早く言って、お兄様はやくはやくっ、と年下全開で迫られて、ツフィアの認識が正しければ、楽音の王はまあ楽しそうにでれでれとしていた。
 妹にめいっぱい甘えてワガママを言われて、仕方なくいうことを聞いてあげる兄役を堪能しきっていた。だからこそ、後を引く問題にはならなさそうではあるのだが。いつの間にこんなに、甘えたりねだったりが得意になってしまったのだろう。首を傾げるツフィアに、リトリアは不思議そうに瞬きをした。
「なぁに、ツフィア。どうしたの? 考えごとしてるでしょう。なに?」
「うん? ……あなたのことよ」
「わたしのこと? ……ふふふ! なに? なぁに?」
 なんでもないわ、と誤魔化して、ツフィアはリトリアの顔色を見た。いつかのように青褪めておらず、不安げにもせず、視線はまっすぐにツフィアを見て輝いている。もう、なに、とはにかんでくすぐったそうにする薔薇色の頬を、ツフィアは安堵をこめて撫で下ろした。
 くすぐったい、と甘えた声でリトリアは笑う。思わず口元を緩めた所で、頭の痛そうな声がした。
「……いちゃいちゃしてるとこ悪いがな、リトリア、ツフィア。準備が整った。行けるな?」
「体調を確かめていたのよ。……さ、リトリア。行けるわね」
「うん! 任せてね!」
 ぴょんっ、とばかり椅子から立ち上がって、リトリアは談話室を見回した。すこし不安を残した、苦笑している、緊張に強張った、祈りをこめた切実な、いくつもの、いくつもの表情を目の裏に焼き付けるように、瞬きをして。リトリアは数歩離れた所で待機していたレディとロゼア、ラティとメーシャの元へ駆け寄ると、大丈夫だからね、と言って拳を握った。
「行こう、ロゼアくん!」
「はい。よろしくお願いします、リトリアさん。……頼むな、ナリアン」
「任せてよ、ロゼア。……頼んだよ、メーシャくん」
 うん、任せてね、と応えてメーシャが笑う。それぞれに。意志と言葉を受け渡して、魔術師たちは『扉』へと向かった。

 その先に。
 なにが待つのか、知らぬまま。

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