甘露を飲み込んだあとのように、喉は潤っていた。咳き込むことなく瞼を持ち上げれば、ほっとした微笑みがひとつ。透き通る水のような声で名を囁かれ、ストルは愛しい少女に手を伸ばし、その頬に触れて名を呼び返した。
「リトリア……」
「ストルさん。よかった……痛いところは、ある?」
「ストルは大丈夫よ、リトリア。……さ、離れましょうね」
頬を触れる手が首の後ろに回りかけたのが、見えたのだろう。リトリアの口の前にぱっと手を差し入れ、立ち上がらせたのはツフィアだった。言葉魔術師の名を呟き、不思議そうに瞬きをするストルに、リトリアからは心配そうな、ツフィアからはやや呆れた視線が向けられた。現状の把握より早く、リトリアに手を出そうとするのはどういうことなのかしら、と言葉魔術師の視線が歌っている。
仕方がないだろう、と息を吐きながら身を起こし、そこで己が横たわっていたことを自覚して、ストルは急に目隠しを取り払われたような気持ちで辺りを見回した。最後の記憶は砂漠の城である。残存魔力の調査に出向き、メーシャになにか告げようとした。ぶつり、と記憶が途切れている。メーシャは、と掠れた声で問いかけながら、ストルは談話室の中にその姿を探そうとした。
見慣れた場所である。記憶が途切れ、場所が移動している以上、異常が起きたのは確かなことだった。血の気が引く。なにが、メーシャは、と呆然と口にするストルの手を、柔らかな熱が包み込む。嬉しそうに微笑む、リトリアのてのひらだった。大丈夫よ、とストルの愛しい少女は囁く。
「あのね、まず、メーシャさんは無事。いまも、元気でいるわ。今、ここにはいないけど、でもこの状況でも……私を気遣ってくれた。ストルさんを、探して、連れてきてくれた」
「……俺を?」
「うん。そう、あのね……あのね、ストルさん」
どこから話せば良いのだろう、とリトリアの眉が困っている。ストルは、ロゼアがソキの言葉を待つのと同じ気持ちで、穏やかにリトリアの声が響いていくのを待った。どんな言葉でさえ、どんな響きでさえ。少女が己に向かって奏でるなら、それをいつまでも待つことができる。ロゼアと違うことがあるとすれば、待つ過程で唇を重ねたくなることだろうか。しらんだ目でツフィアが息を吐く。
うん、と優しい声で促すストルに、リトリアはもじもじ恥ずかしそうに身をよじってから、内緒話をするような声で、あのね、と甘く囁き落とした。内容はとても、甘くも優しくもなかったが。
「砂漠は攻撃を受けてるの。その……ほぼ確実に、シークさんから。ストルさんたちはね、その攻撃を受けて、五日間眠っていたのよ。昏睡、していたの。……砂漠の、筆頭の、ジェイドさんが手を講じて、体にも魔力にも影響が出ないように、保って下さっていた、と聞いたけど……ね、ほんとに大丈夫? 痛いとこない? くるしく、ない?」
「なんかあったら、遠慮なく言ってね、ストルちゃん」
ひょい、と顔を覗かせたのはフィオーレだった。その呼び方をやめろと言っているだろう、と眉を寄せるストルに、白魔法使いはくすくすと、平和な顔つきで笑った。
「うん、これならホントに元気だよ。大丈夫。……我らの筆頭には感謝しかないというか、恐ろしいというか……なにしたのあのひとっていうか……」
「……妖精の祝福を使ったのですって。メーシャさんは、そう聞いたって」
そっかあ、と言って白魔法使いは微笑みを深めて遠い目になった。奥さんに頑張ってもらっちゃったのかぁそっかぁ、そっかあ、と言葉を何度か繰り返して。砂漠の国の魔術師は、訝しげな視線を浴びながらもそれをひとつも見返すことをせず。ふふっ、と虚ろに笑いを響かせ、深くふかく息を吐く。
「ほんと緊急事態だったんだなって感じ……。あのひとがそこまでするなんて、相当だよ……」
「ストル、私が説明するわ。いいわね?」
埒が明かない、と思ったのだろう。リトリアに温かいココアを差し出しながら告げるツフィアに、ストルは素直に頷いた。結局、ツフィア相手が一番分かりやすいのは確かなのだった。むぅ、とやや不満げにするリトリアに柔らかく微笑み、あなたは疲れているでしょう、と言葉魔術師は囁く。少女は反論しかけ、はく、と口を動かしてから、しぶしぶとくちびるに力を込めた。
はぁい、と拗ねた返事がひとつ。大丈夫だもの、と強情に言い貼らないだけの疲労が、リトリアを襲っているらしかった。なにが、とまだぼんやりとした頭で、ストルは談話室を見回した。そこはさながら、野戦病院を思わせるありさまだ。殆どの机と椅子が乱雑に壁際に押し退けられ、分厚い絨毯やら布やらが敷かれた場所に、見覚えのある魔術師たちが等間隔に横になっている。
その間を白魔術師たちが駆け回り、ああでもないこうでもないと意見を交わし合いながら、回復魔術をかけたり、体温や脈拍を計っていた。血の匂いと、苦痛の呻きはない。清潔に保たれた空気があり、健やかな寝息だけが幾重にも重なっている。いったい何が起きて、どうなった後なのか。ソファに横になっていたストルは、室内では最も上等な扱いを受けていた。
しかしそれはストルが、ではなく。椅子にちょこんと座ったまま、恐らくは必要以上に動けないでいるリトリアの為の措置であることは、間違いがなさそうだった。ストルがそこへいたら、リトリアは休むことをせず、ずっとその傍に付き添っていたのは間違いない。沈黙するストルに、言葉を受け止める準備ができたと見たのだろう。ツフィアが静かに口を開き、情報を語り、告げて行く。
発端は砂漠から。調査に出向いていた魔術師たちが昏睡し、人々もそれに巻き込まれた。狙いは恐らく『学園』の魔術師、ロゼアとソキ。二人を狙ってフィオーレが操られ、同じく『学園』の魔術師たちも倒された。辛くも逃れたソキと、ナリアンとメーシャが五国を駆け巡り、異変を知らせ、魔術師たちを集めた。王たちを宥め抑え落ち着かせ、体制を整えた。
攻撃されてから、今日で五日目。一瞬の隙をつかれてソキが連れ去られ、それによって一刻の猶予もないと断じた寮長の命により、救出部隊として魔術師たちが動いている。『扉』の不通は、リトリアの予知魔術が。足りない魔力は、ナリアンとフィオーレが交代しながら供給して。魔術師たちがいま、砂漠と『学園』を往復している。
砂漠の筆頭が『お屋敷』の人たちに頼み込んで、魔術師や城の人々を一つの区画に集め、妖精が守ってくれていたおかげで、想定していたよりずっと状態は軽度で落ち着いている。だから動かせる者から回収して、魔術師たちは『学園』に戻されている。ストルが回収されたのは早かった。リトリアを心配したメーシャが、師を託してくれたからだ。
メーシャはロゼアとレディ、ラティと共に、まだ砂漠の城にいる。救出部隊と一緒に城を駆け巡り、人々と魔術師の状態を確認しながら、ソキのことを探している。ソキは、まだ見つかっていない。ここまでで質問は、と問うツフィアに、ストルはいや、と首を横に振った。
「十分だ。よく判った、ありがとう。……そうか、メーシャが……。ソキは、なぜ見つからないんだ?」
「地下牢への入り口が、魔術的に破壊されて隠蔽されている、のですって。だからね、代わりの入り口を……いくつかある、のでしょう? それを、ひとつ、ひとつ、いま、点検しているの」
誰が、なんの為にそうしたのかは明白に過ぎた。ソキの居場所は明らかである。地下牢に辿り着けないと知ったロゼアは一時半狂乱になりかけたが、それをジェイドが制して事なきを得たのだという。ジェイドが、と思わず呟いて、ストルはフィオーレに視線をやった。彼の男と付き合いは深くないが、性格と、やりそうなことならばストルは知っている。
同僚として側にいるフィオーレには、もっと理解できるだろう。ストルの視線の意味を違えず、ああうん、と曖昧な言葉を発して顔を背け。いや俺も見た訳じゃなくてぶすくれた顔のロゼアをつれたメーシャから聞いたんだけど、と白魔法使いは言った。
「なんか……なんか、死角から殴りかかったか襲いかかったかして、ロゼアを床に組み伏せたとかなんとか。不意をついて魔術まで使ったらしいよ。一瞬、動きを拘束してね、こう……」
「……そうだな、ジェイドならそれくらいやるな……かわいそうに……」
「だよね……俺ほんとロゼアに同情したもん……。それでなんか、『傍付き』がどうのこうの、『花嫁』がどうのこうの、落ち着けないならハドゥルとライラを呼んでくるって言ったんだって」
聞き覚えのない名を問えば、ロゼアの父母であるという。そうか、とストルは微笑んだ。さすがジェイド、やり方がえぐい。あの目的の為に手段選ばないとこ変わってないよね、男相手だとすぐ手が出るとこほんとそうだな変わらないな、見かけはあんなに優雅に笑って動きも洗練されてるのにね、その優美な印象のままとんでもない威力で殴ってくるんだよな、死角から、そう死角から。
ジェイドだな、ジェイドだよね、としみじみ頷きあう男子たちに、ツフィアが嫌そうな顔をして息を吐いた。
「あなたたち……本当に、いつまでも幼いんだから」
「ツフィア。一緒にしないでくれ」
「なんかその言い方だと、俺たちもすぐ殴り合いの喧嘩とかしそうじゃないっ? えー! 俺そんなことしないよー、痛いの嫌いだもん。ねー、ストル」
同意を求めないでくれ同類だと思われるだろう、とげっそりとした息を吐き、ストルはこちらを見つめてくるリトリアに、柔らかな笑顔で囁きかけた。
「それで……俺が起きるまで看病してくれていたんだな。ありがとう、リトリア。もう、ゆっくりできるのか?」
「ううん。ソキちゃんが見つかって、皆が戻ってくるまで……『扉』が元に戻るまで、私が『扉』なのよ、ストルさん」
今はね、ほんとに、ほんのすこしだけ休憩中なの。罪悪感の入り混じった笑みと、言葉が響き終わるより早く。談話室の入り口から、ナリアンがリトリアを呼ぶ。うん、すぐ行くねっ、と元気よく返事をして、リトリアは椅子からぴょんっとばかりに立ち上がった。それから走り出しかけ、すこし迷う素振りで視線を彷徨わせて。よし、と気合を入れて、リトリアはこっくりと頷き。
少女はツフィアの手をきゅむっとばかり握り、お願いね、と目を潤ませて囁いた。
「ツフィア、ストルさんのこと、見ていてあげて。私は大丈夫だから……!」
「駄目よ、リトリア。ひとりで動いて、あなたまで連れ去られるようなことがあったら……!」
「うふ。ツフィアの心配さん。大丈夫! ナリアンさんと手を繋いでいくから!」
魔力を供給してもらうのには手を繋いでもらわないと大変だもの、と告げて。そういうことじゃなくて、と頭が痛そうなツフィアに、リトリアは今ひとつ深刻さのないふわふわとした微笑みで、鈴が鳴るように笑った。
「それじゃあツフィア、ストルさんをよろしくね! フィオーレ、いーい? ちゃんと見てくれなくちゃ駄目なんだからねっ!」
「はいはい。行ってらっしゃい。なるべく早く帰ってきてな、リトリア。俺の命、これから風前の灯だから。主にツフィアとストルのせいで」
心底本気のフィオーレにも、きょとん、とした顔をして。もう、変な冗談ばかり言うんだから、と苦笑して、リトリアはぱたぱたと走り去ってしまった。談話室の入口で、宣言通りにナリアンと手を繋ぐ。仲睦まじいその様子に、和んだ視線がいくつか。駆け寄る者が何人か。白魔術師たちは口々に、運び込まれた者達の容態をリトリアに告げては、少女の言葉を求めていた。
藤の花色の瞳が、深い思慮に沈むのを、談話室の誰もが見る。はたはたと、瞬きをして。リトリアは清らかな水のような声で、大丈夫よ、と言った。予知魔術師の声だった。そこに魔力は滲まず。けれども誰にも、確定した未来の、その希望を信じさせる声だった。白魔術師たちが、ほっとした様子でそれぞれに頷く。彼らに安心していてね、と笑って、リトリアはナリアンの手を引いた。
みんな、つれてくるからね。みんな、砂漠で、頑張ってくれているからね。私たちも、頑張ろう。頑張らなきゃ。ね、大丈夫、大丈夫よ。今行くからね。今、またすぐ、戻ってくるからね。寄せては返す波のように、希望を連れて、引き寄せて。リトリアは笑って、行ってきます、と言って談話室から姿を消した。
火のような、陽のような。木漏れ日のきらめきを、まぶたの裏に残すような気配が、しんとした中に響いていく。ツフィアはその光景を、胸に手を当てて見つめていた。泣くのを堪えているということに、気がついたのはストルくらいのものだろう。追いかけなくていいのか、と問うストルに、ええ、とツフィアは悪戯っぽく笑う。
あなたのことを頼まれてしまったし、それに。もしも、万一。あの子が連れ去られるようなことがあれば。私はもう我慢なんてしない。どんな手を使ってでも、それを成した者を決して許さないでしょう。リトリアはちゃんと分かっているわ。だから戻ってくるまで安静にしていなさいな、とストルに言い聞かせるツフィアの傍で、フィオーレは深く息を吐き出した。
そういえばツフィアも、砂漠出身でないだけで、その血を引いていることを思い出してしまったからである。両親が他国に移住しただか、商家だったか、そういう理由で出身地が書き換えられているだけなのだ。あーリトリアほんと早く一刻も早く無事で帰ってきてなほんとほんと、と祈るフィオーレは。瞬きをして、一瞬。意識が明滅したことに。気がつくことは、なかった。
砂漠に滞在していた錬金術師、特に要石となるエノーラとキムルに対する攻撃は、いっそのこと呪詛めいていたとジェイドは言った。妖精の祝福でも救いきれず、助けきれるものではなかったのだと。命を失うほどのものではない。元から生命の危機に直結してしまうものではなかったにせよ、両名の受けた衝撃は生半可なものではなく、そうであるから目覚めは慎重に行われた。
ストルの状態を後ろから急に殴られて倒れたくらいだと仮定すると、二人は真正面から刃で胸を刺し貫かれたとするにさえ等しかった。心臓や臓器は奇跡的に外されていたにせよ、体には風穴が空いている。だから動くな、と言い聞かせられて顔を歪め、エノーラはジェイドの言葉を無視して上半身を縦に起こした。エノーラ、といくつもの心配、叱責が室内から響く。
その声すら負担になって、エノーラは歯を食いしばって、胃の中をなにもかもぶち撒けてしまいそうな吐き気を堪えようとした。視界はとうにない。白く眩く塗りつぶされて、脳が焼き切れるような、言い知れない不快な感覚だけが渦を巻いている。傍らではキムルが横になったまま、なんとか息だけを意識している呼吸が響いている。弱々しく、か細い呼吸音。耳を澄まさなければ分からないくらいの。
それに、悔しくて涙を滲ませながら、エノーラら横にして眠らせようと伸びてきた手を音高く振り払った。エノーラ、と駄々っ子を宥める柔らかな声に首を振る。視界はまだ戻らない。息を止めてしまいそうな苦しさは増すばかりだった。
「……キムルは」
「大丈夫、意識はあるし、呼吸もできてる。……落ち着くまでしばらく時間はかかるだろうが、それは君もだよ、エノーラ。動いたらいけないよ」
「煩いわね大丈夫よ……! キムル……キムルの野郎っ……!」
魂が軋むような怒りだった。エノーラは手探りで屈み込むジェイドに掴みかかると、目を白黒させているであろう砂漠の筆頭に、八つ当たりだと分かっていて一息に叫ぶ。
「キムルは私を庇ったのよ! 分からないっ? あの状況、あの一瞬で、コイツは私を庇ったのっ!」
瞬きよりも刹那の異変だった。予感が背を駆け上った時には、もうはじまり、幕は落ちかけていた。なにが、とも思えない一刹那。キムルはもしかすれば、それを予感していたのだろう。すっと気を張り詰めていたのだろう。だからこそキムルは、たったそれだけの時の隙間にも対応できた。錬金術師の本能が、魔力の放出を感知した、それだけのことで。
キムルはエノーラを魔術具に見立て、ありったけの魔力を受け渡し、出来るだけの防壁を構築して見せたのだ。一息のこと、瞬きのこと。交わった視線が己の成したことに満足げに笑い、エノーラの背を押すものだった事を記憶に留めている。
「コイツは、キムルはっ……私に、行けと! 言ったのよ!」
言葉にしたことはない。けれどもキムルもエノーラも、互いに、なにかがあった時に託すのは互いしかない、と思っていた。相手が己と同じに、そう思っているのを知っていた。後を頼む、だなんて、そんな優しい受け渡しではない。背を押すものでもない。それはまっすぐ、行く先を指し示して。二人分抱えて走り抜け、という、命令じみた意思だった。
この才能、この能力。この天才が損なわれてはならないことを。お前も分かっている筈だろう、と。意思を投げつけ合うだけの。立ち止まるなと怒鳴りつけるだけの。震える手を握り締めて、エノーラは息を吸い込んだ。
「だから行ってやるわよ、私が! ああぁああもう気持ち悪い……っ! キムル! キムル、声くらいは聞こえてるんでしょうね! 聞いてるんでしょうキムルっ!」
視界が戻らないっ、といらいらしきった声で叫びながら、エノーラはジェイドを突き飛ばして、キムルの魔力を感じる方に顔を向けた。反応は、うめき声ですら帰ってこない。しかしエノーラは確信していた。聞こえている、でもなく。キムルは、聞いている。そういう可愛げのない男だ。息を吸う、瞬きをする。無理だと悲鳴を上げる周囲も、己さえ、無視してみせる。
だってキムルはエノーラに託したのだ。エノーラに、行け、と言ったのだ。それは行けるということだ。己の意思が無理だと叫ぼうと。誰がそれを止めようと。キムルがそう告げたのなら、エノーラには、それができる。その判断を、己のものより信じていける。
「覚えてなさいよ……覚えてなさいよ! キムル! 失われたりするんじゃないわよ分かってるんでしょうねっ? お前が! いなくなったら! チェチェ先輩が! 泣くだろうがっ!」
先輩を未亡人にするんじゃないわよあっちょっと待ってそれはそれでもしかして、と悩み始めるエノーラに、周囲の緊張がほっと解けていく。あ、これはちゃんとエノーラだし、なんというか心配ないやつだいつものあれだもん、と緩む空気の中で、錬金術師は音高く舌打ちをした。
「あぁああもう! フィオーレはっ! いないのっ?」
「ここにはいない。彼、一度敵の手に落ちたものでね。砂漠に戻すには、まだ危険すぎるという判断だよ」
「根性なしっ! これだから男は役に立たないって言うのよっ!」
魔術師の半数を性別だけで罵倒して、エノーラは苛立ちのままに意識を集中した。視界が戻らないままでは、錬金術師にとって致命傷となる。しかし、悠長に待っているだけの気持ちの余裕はなく。そしてまた、状況も許さないであろうことが感じられた。エノーラとキムルの意識が戻されたのがその証拠だった。用がないなら、ほとぼりが覚めるまで寝かされていただろう。
そうしておかなければいけないくらいの状態だ。それなのに吐き気が治まらない。体の中をめちゃくちゃにかき回されたかのような、痛みと不快感がある。魔力が荒れ狂っている。キムルに庇われてなお、エノーラを食い破らんと暴れまわっている。白魔術師を、はやく、とジェイドが冷静な、しかし有無を言わせぬ声であたりに命じるのを聞きながら、待たず。
エノーラは集中の階段を踏み切って、己の意識の底まで飛び降りた。
「……我が身こそは、女王の道具である」
魔力を乗せ切るには、まだ弱い。集中も意識も練り上がっていない。それでも声に出して、エノーラは言った。我が身よ道具であれ。女王陛下の物であれ。溢れ出て行こうとする魔力の流れを、力ずくで制御する。それほど満ちて、満ちて、吐き出されようとするのなら。使ってしまえばいい。視界を回復しないままで、エノーラは痙攣する瞼に力を込めて押し開いた。
百億の孤独と共に時を止めた宝石の、琥珀色の瞳が魔力をこめて鈍く輝く。
「道具であれば言うことを聞けっ! 私は……『我が身は錬金術師なれど! 我が身こそが女王の道具! 道具に意思を込めることこそ、我が術なればっ……いっ……言うことをっ、聞けーっ! 見て! 立って! 歩いて! 今すぐっ! 今すぐ、にっ! 魔力よ巡れっ、私は……私の……っ!』」
ばつん、となにかが断ち切られる音がしたのを、場の魔術師は誰もが耳にした。エノーラが幾度か咳き込む。は、はっ、と荒く短い息をして、エノーラはゆるゆると顔をあげた。なにかの羽ばたきめいた瞬き。あぁ、と疲れきった吐息で、エノーラはすっと立ち上がる。
「……はぁ。ちょっとアンタたち、いい? 私が頑張ってたって、私がいる時いない時、誇張して私の陛下に伝えなさい? ご褒美に踏んでもらわなくちゃ割に合わないわ」
「……と、とんでもない無理をして、君はもう……」
「錬金術師が必要なんてしょう? それも、私か、キムルでなければいけないくらいの。なら……なら、キムルに托されたのはこの 私。無理でも無茶でもなんでもしないといけないのよ。……よく考えたらこの男、私に押し付けたんじゃない?」
とてつもなく嫌そうな顔をして爪先でキムルの腹を突いたあと、エノーラはもう平然とした表情で立ち直した。血の気の引いた顔こそしているものの、瞳にはしっかりとした意思が宿り、全身に魔力が巡っている。ため息をついて、ジェイドは言った。
「シュニー、たくさん頼んでごめんね。エノーラに改めて祝福をしてくれるかな。……後遺症が残らないように」
「ふん。私がそんな不手際を踏むものですか! でもジェイドの美人さんの贈り物なら大歓迎よ。……ありがとう。助けてくれて」
ジェイドの傍らからふんわりと飛んできたましろいひかりは、エノーラの頬にほよほよと体当たりをした。叱っているようだった。いけないさん、いけないさんっ、とひとしきり怒ってから祝福を振りまいて戻っていくましろいひかりに、エノーラは胸を手で押さえて身悶える。
「なに今のかわいい……かわいい……。かわいいこに叱られちゃった気がする」
「気のせいじゃなくて、叱ったんだよ。ね、シュニー?」
そうなのっ、とばかり、ましろいひかりがふっこふっこと伸縮する。そっかぁ、と言ってエノーラはさらに胸を手で押さえた。かわいいが殴りかかってくる。このかわいいの過剰摂取は、なんというか、寝起きにはつらい。万全の体制を整えた上で怒られたりしたかった。叱責もまたご褒美である。妖精のもたらしたかわいいが落ち着くのを待ってから、ふと気がついてエノーラは辺りを見回した。
見覚えがない一室だが、気候や景色、前後のことから考えても砂漠の国であることは間違いないだろう。あの後どうなって、いまはどうってるの、とようやくその情報を求めたエノーラに、言葉を受け入れる体制が整ったと踏んだのだろう。歩けるかを尋ねられたので頷けば、ジェイドは移動しながらね、と言ってエノーラを先導していく。
ゆっくりと、見知らぬ廊下を歩きながら、エノーラは砂漠の現状を知った。なにが起きたか、それによりどうなったか、の説明は簡単に。リトリアが予知魔術を使って『扉』の役目を果たしてくれている、と聞いて、エノーラは隠すことなく顔を歪めてみせた。
「大丈夫なのそれ? とも聞く必要のないくらい荒療治ね……。魔力の補充は誰が?」
「魔法使いたちが。フィオーレと、魔術師のたまごナリアンが担っているよ」
「……レディは?」
リトリアのことなのに、火の魔法使いの名がないのは違和感だった。まさかレディにもなにかあったのでは、と顔を強張らせるエノーラに、ジェイドは別件だから安心していいよ、と告げた。
「彼女にはいま、砂漠の城で捜索に入ってもらってる。君も……『扉』がすぐに復旧しないようなら、リトリアに任せてそちらに合流して欲しい」
「いいけど……すぐって、どれくらいの猶予ある話? 即時ってこと?」
エノーラにも見覚えのある、『扉』へ続く廊下を曲がりながら、ジェイドはそうだね、と考える素振りもなく言った。
「即時、だ」
「……分かったわ。即時はまず無理、と分かっていてのことだと思うけど、リトリアちゃんは大丈夫なのね?」
魔力の補充をしながらの魔術行使は、途方もない負担となって魔術師に襲いかかる。本人は大丈夫だと言っているよ、と告げるジェイドを睨みつけて、エノーラはしかしなにも言わなかった。信じずとも、それを受け入れるしかない苦しさがあったからだ。そう、とエノーラは息を吐く。まあ、ツフィアが居ると聞くし。彼女が止めていないのであれば、まだ大丈夫なのだろう。
それこそ、後遺症が出ないように見極めなさいよ、とエノーラが小声で告げたのは、妖精を伴うジェイドであれば、その判断ができると信じていたからだ。視線の先に、『扉』の前にすとん、と着地するよう現れたリトリアの姿を捉えながら、ジェイドは必ず、と囁き返す。ましろいひかりはジェイドから離れ、リトリアの周囲をふよふよと飛び回った。
ちかちかぺかか、とあいらしく明滅したましろいひかりは、すいっと空を泳ぐようにジェイドの元に戻ってくる。そして、ぺとん、とジェイドの頬にくっついてもぞもぞしているので、リトリアに緊急の措置は、まだ必要ないらしかった。いまのなぁに、と目を瞬かせて首を傾げるリトリアに、エノーラが一歩進み出て声をかける。
「リトリアちゃん、調子はどう? 今日のパンツ何色?」
「えっ、し、しろ……? えっ? え、あっ! エノーラさん!」
「白かー! やっぱり美少女の下着として白は基本よね……! 夢と希望をありがとう、リトリアちゃん……!」
予想しきった微笑みで耳を手で塞いで聞かなかったジェイドの視線の先で、不幸にも知ってしまったナリアンが、顔を赤くしたり青くしたりして呻いている。耳から手を外しながら、純情な青少年に被害を広げない、と叱るジェイドに、エノーラは全く反省の見えないきらびやかな笑顔で、ごめんね、と言ってのけた。そうしながらも錬金術師の手が、不通の『扉』に触れて行く。
ふむ、と首を傾げながら、例え同じ錬金術師であっても中々理解の届かない感覚でもって、それを探り。数秒であっさりと、これはだめね、とエノーラは結論を下し、言い放った。
「妨害、阻害が跳ねあがったわ。私が起きたのも分かったのね……」
「……え?」
「……私は誰を探せばいいの? ジェイド」
声を漏らすリトリアに詳しくは説明せず。あの男の居場所かしら、と問うエノーラに、ジェイドは緊張した顔つきでそうだ、と言った。砂漠の虜囚、そして、そこに捕らわれているであろうソキの探索を、お願いしたい。魔力を見るに長けた稀代の天才、錬金術師たる女は、任せなさい、と自信に満ちた表情で告げて。おいで、とリトリアとナリアンに声をかけて、返事も聞かずに歩き出した。
その『扉』の近くに。魔術師を、誰も、置いておきたくない。そういう意思のある、歩き方だった。
でも私、ストルさんにもツフィアにもすぐ帰るって言っちゃったの、とおろおろするリトリアを宥めながら、エノーラは迷う素振りのない足取りで砂漠の城を進んでいく。
「遅かったとか、なにがあったのとか聞かれたら、私に引き止められたって言いなさい。それで大丈夫だし、間違ってはいないでしょう? ナリアンくんもよ。そう言いなさいね」
「で……でも、あの」
行く先を知らず歩きながら、来た道を何度も振り返るリトリアは、不安げなナリアンと視線を交わしては、立ち止まりたそうにもじもじとした。それを分かっていて。珍しいまでの強情さで説明もせず歩んでいくエノーラに、ジェイドは苦笑して、ふたりの背をやんやりと手で押した。
「いいから、今はエノーラに従って。……ジェイドが無理矢理引き止めましたって、言ってもいいから」
「……なにが起きたの?」
はい、と頷きはせず。まだ躊躇いながらも、先導するエノーラに追随する歩みを再開したリトリアは、不安を押し込める瞬きをしながらジェイドに問いかけた。ナリアンも、文句をぐっと我慢した顔つきでリトリアに従っている。一行の中ではニーアだけが、事態をうっすらと把握し、それでいて事実であることを恐れるように口をつぐんで羽根を揺らしていた。
ジェイドは推測だよ、と前置きをした上で、ため息混じりに囁いた。
「敵に動きがあった。事態が悪化したってことだよ」
「悪化させないようにしたのよ、砂漠の筆頭。……これ以上、あの男の手にかわいこちゃんを連れ去られてなるものですか」
「うーん、その通りではあるんだけど、エノーラが言うと全部私怨に聞こえるのがすごいよね」
ある意味才能だと思う、と肩を震わせるジェイドに、当たり前じゃないの私ったら天才だから、と誇るでもなく平然と言い放って。エノーラは廊下の先に現れた人影の名を呼び止めた。
「ロゼアくん、待った。メーシャくん、レディとラティは? 近くにいる? 呼んできて?」
「え? ……エノーラさん、ジェイドさんっ? リトリアさんに、ナリアンまで……」
「ロゼアくん、深呼吸してごらん。あなたはツフィアに教えられ、チェチェリアに鍛えられた魔術師の目を持つと聞くわ。……落ち着けないだろうけど、せめて深呼吸をしながら、見てごらん」
急ぎなの、ごめんね呼んできて、と錬金術師に囁かれ、メーシャは無言で頷いて走り去っていく。またね、とすれ違うナリアンに声をかけていくのが可愛らしい。そっと口元を緩めて笑いながら、エノーラは強張った表情をしているロゼアに向き合った。その前には『扉』がある。各国を繋ぐものとは違う。
厳密に言えば『扉』とも違うそれは、空間を歪め、魔術的に閉鎖された場所へと繋げるだけの。見かけが同じ、ただの仕掛けだった。ロゼアくん、と静かな声で錬金術師がそれを指差す。
「それは、あなたが探す地下牢への入り口ではないわよ。よく見て。……というか砂漠、独房と反省室と地下牢が別々にあるってなに? あなたたち、そんなに隔離しておかないと反省しないの? 問題起こしすぎじゃない? なんなの紛らわしい」
せめて出入口には分かりやすく札でもかけておきなさいよ、と、振り返りながら怒られて、ジェイドは苦笑しながら肩をすくめた。
「要望は陛下に伝えておきますが……こういう無駄な手間をかけないように、同行していたと思うのですが? ラティ?」
「ええぇええ! 会った瞬間に怒られるとかなに悲しい……よく分からないけどごめんなさい……?」
息も切らさず走ってきたラティが、筆頭とエノーラ、ロゼアを見比べて、首を傾げながら言葉を口にする。
「このへんでちょっと待っててね、これは違うからねって言わなかったっけ……? どうしたの……?」
「……はい。すみませんでした、俺が……メーシャは、止めてくれたんですけど」
「あー……。うん、いいよ、いいよ。こっちこそ、ごめんね。不安だもんね。ごめんね、休むより動いてたほうが良かったね」
そういうことか、と納得した顔で頷いて、ラティは筆頭に向き直ると、判断を誤りました、と口にした。はい、分かりましたと苦笑して、ジェイドは悪戯っぽくロゼアに問いかける。
「やはり、『お屋敷』から誰か呼びましょうか?」
「……結構です」
「筆頭、ロゼアくんをいじめないの!」
これだから男子はっ、という顔をして、レディが走り寄ってくる。ラティは緊急だと見て、呼びに来たメーシャ共々置いてきたらしい。レディもメーシャもぜいぜいと息を切らし、落ち着こうとしているのに、ラティはけろっとした顔でそれぞれの姿を見比べた。
「それで、なんですか? この顔ぶれ。嫌な予感がする……筆頭がくっついて一緒にいることでさらに嫌な予感が加速する……」
「ラティ? なにか普段から不満があるなら、言ってくれて構わないんですよ」
「ええぇ……? 陛下が拗ねるから、もっと定期的に城に戻ってきてください、というか居てください……。私たちもたまに、あれ? うちの筆頭ってほんとに実在していたっけ? そういう設定になってるだけじゃなかった? とかなるし……」
改善できるよう努力します、と笑顔で囁くジェイドの姿は、誰から見ても疑わしい。しかし、滞在したくない訳ではないらしい。陛下の様子を見ておかないといけないことは分かりましたしね、とため息をつく筆頭魔術師は、不在の間にハレムにとある部屋が新設されかけていた事態を重く受け止めてはいる、らしかった。
とりあえず今回のことが終わったら事後処理もありますし、しばらくは居ますよ。多分、と付け加えられた小声を聞かなかったことにして。分かりましたと頷いたラティは、レディとメーシャの息が整ったのを確認すると、改めて筆頭に問いかけた。
「それで、用件は?」
「異変が起きているようですので、落ち着くまでリトリアとナリアンをお願いします。詳しくはエノーラから聞くように」
「あのね、こっちの動き、バレてるから」
もうすこし前置きから入って欲しい、という目をして、しかし諦めてもいるのだろう。ちょっと待ってね、も眉を寄せて己の混乱を宥め、ラティは深く息を吐いて首を振る。
「つまり……つまり、シークにこちらの動きがつつ抜けになってて、エノーラが起きたこともリトリアちゃんがいることも知られている。合ってる?」
「合ってるわ。だから、『扉』は使えないし、リトリアちゃんの移動も止めてもらったわ。……さて」
ソキちゃんのことよね、と今にも零れ落ちそうな水面を見つめる気持ちで、慎重に、エノーラはロゼアに囁いた。
「確認するわよ、ロゼアくん。あなたにも居場所は分からない。そうね?」
「はい……」
「分かったらすぐに教えて。罠だから」
あとリトリアちゃんと手を繋いでいて、と告げると、少女がきょとんとした目で首を傾げる。
「わたし?」
「そう。ここから、さらに連れ去られる可能性があるのは、ロゼアくんとリトリアちゃん。あなたたち二人なの。だから、一緒にいて。……繋がりのある予知魔術師ならともかく、二人を同時に引きずるともなれば魔力発動の規模が違うし、数秒だとしても時間がかかる。……数秒あれば私が防いでみせるし、逆探知だってできる。万一連れ去られたとしても、すぐに辿り着いてみせるわ」
「ええと、それじゃあ……あの、よろしくね、ロゼアさん」
照れくさそうに笑ったリトリアが、ロゼアの手をきゅっと両手で握り締める。こちらこそ、と返すロゼアの穏やかな笑みがひきつったのは、リトリアの首飾りが目に入ったからだった。半透明の貝殻で作られた、花びらを模した飾りが一枚、金の鎖の先端で揺れている。それを凝視して、え、と言ったロゼアに、リトリアはぱちぱちと瞬きをした。
「なぁに? ……あ、これ? あの、頂いたものなの……」
「だ、誰か、ら……いえ、どなたが、リトリアさんに、それを……?」
「え? えっと、あのね、ソキちゃんの、お父さん」
ロゼアが声にならない呻きを響かせて天を仰ぐ。ジェイドは口に手を押しあてて、ひたすら笑いを堪えていた。ふむ、と首を傾げたエノーラが、二人からやや距離を置いて頷く。
「あ、続けて続けて。私のことは気にしないで」
「……リトリアさん、本当ならすぐにでも、このまま、とお願いしたいことなんですが……」
「え、え……えっ? だ、だめ、そんな、私にはツフィアとストルさんがいるし……! ソキちゃんだっているし……っ?」
堪えきれなかったのだろう。ぶふっと笑いに吹き出したジェイドが、やはり二人からすこし距離を置いた場所に移動する。あっ、そうよねここは若い二人に、二人きりじゃないけど、と笑いながら、ラティとレディも見守るように距離を置く。えっ、えっ、と真っ赤な顔でおろおろするリトリアと親友たちに、ロゼアは不思議そうな顔で僅かばかり首を傾げ。
しかし、こちらが先だと思ったのだろう。大事なことなんです、と真剣な顔で、リトリアに囁きかけた。
「このことが落ち着いたら、すぐ、『お屋敷』を訪ねてください。このネックレスをつけて。俺の名前を出してくれてかまいませんし、その……それを、リトリアさんに贈った方の、名前、も……今は言わないで、その時に、担当の者に伝えてくださいお願いします……」
「はーい? 分かりました」
「そうだよね……。リディオ様じゃないことは確かだけど、この場でその名前が出たら大事故っていうか……リトリア、絶対に行ってね。俺からもお願いね」
はぁい、と首を傾げながらリトリアが返事をする。なんなんだろう、とその顔には書いてあるが、ロゼアは説明したくなさそうで、ジェイドにも今この場で騒ぎを追加する趣味の持ち合わせがなかった。というか、なんでこのひとは俺の言いたいことを理解できているんだろう、と改めて疑惑の目を向けてくるロゼアに、ジェイドは楽しげな笑みでハドゥルに聞いてごらん、と言った。
「……父の知り合いなのですか?」
「うん」
にっこり笑って肯定して、それ以上を告げないでいるジェイドに、ラティがため息をついて首を振り、あのね、と教えようとした瞬間だった。うにゃああああっ、と怒り狂った蜂蜜の声が、唐突に叩きつけられる。
「ロゼアちゃ! だめですううううう! ロゼアちゃんのおててぎゅうは! ソキの! ソキのなんですうううう! うやややゃやっ! だめえええ!」
ぱっ、と。眩く、砂金のような魔力が散る。突然、そこにあらわれたソキは、ロゼアとリトリアの間に体をねじ込み、だめだめふんにゃにゃああああっ、と少女を両手でぐいぐい押しやり、なんとかロゼアと離そうとしている。は、え、とロゼアとリトリアが口々に声を漏らす。嘘でしょ、と愕然と呟いたのは、エノーラだった。
「私たち……四人がかりで警戒してたのに、それを突破したの……? ……というか、罠張ったのはこっちだけど、見事に釣れすぎじゃない……? びっくりするほど簡単に捕まえられたわ……?」
ソキの隠蔽は、妖精すらも欺いていたらしい。シディもルノンも、ニーアも、ソキの案内妖精からもぎょっとした視線が向けられ、ジェイドの肩でましろいひかりが、びっくりしきって毛羽立っている。とと、とっ、と慌ててロゼアから手を話して数歩距離を取り、リトリアが予知魔術師の名を呼んだ。
「ソキちゃん……? いつから、どうやって……ここに?」
「ソキのだもん! ソキの! ロゼアちゃんはソキの! リトリアちゃんと見つめ合ったりしたらだめなの! だ、だめ……だめだもん……ソキががんばってたですのに、なんということなんです……これはもしや、もしかして……うわさにきく、うわ」
「おいで、ソキ」
最後まで言わせず、ロゼアがうるうるに涙ぐむソキをひょいっと抱き上げる。ロゼアちゃあああぁっ、と半泣き声をあげてひしいいいぃいいいっとばかり抱きつく姿は、普段のソキのものだった。異変があったようには思えない。服も、靴も、その他の外見も、いなくなった時のままである。ほっとしながら頬、首筋、額、と手を滑らせて確認するロゼアの腕の中で、ソキはぐじぐじ鼻をすすって訴えた。
ロゼアちゃんはソキのだもん。ソキの。ソキのなんですよ。ねえねえ、ロゼアちゃん。
「そうでしょう? ロゼアちゃん、ソキのでしょう?」
おへんじは、ねえねえ、と甘くねだられて。『傍付き』は微笑んで、『花嫁』に頷いた。
「そうだよ、ソキ」
砂金のような魔力が、一粒。零れ落ちる。リトリアは悲鳴じみた声で、ロゼアに向かって手を伸ばした。ソキがなにをしようとして、成したのか、リトリアには理解できる。それは目を隠し耳を塞ぎ意思を眠らせる行為にも似ている。支配だ。ロゼアの意識が檻に閉ざされる寸前、鍵を開くように触れようとして。けれど、その指先は絡め取られる。男の手に。
「……よくできました、ソキちゃん」
「うふん! ロゼアちゃんは、ソキの! シークさんのじゃないですぅ、ソキの。ソキのロゼアちゃん、なんでぇ」
「そうダね……。あぁ、ひサしぶリだネ、リトリアちゃん?」
予知魔術師の、ありとあらゆる感知を欺く隠蔽を解き放ち、男がそこに立っていた。歪んだ響きの男に抱き寄せられて、リトリアは動けない。なにが起きているのか分からない。なんで、なに、とうわ言のように自失して呟くリトリアを、盾にするように抱き寄せなおして。予知魔術師ふたりを瞬く間に手中に収めてみせたシークは、ゆったりとした、余裕のある笑みで周囲を睥睨した。
敵意を露わに取り囲む、一人の魔法使い、三人の魔術師たちなど相手にもならないと。手中に落とした予知魔術師たちを、見せびらかすような微笑みだった。その背後で。寝ぼけているように、霞みがかった表情になるロゼアに抱かれながら、ソキはぱちくり瞬きをしていた。人形めいた硬質な輝きを保つ、冬薔薇の瞳。そこに、じわじわと滲みだすように。砂金のような燐光が宿って行く。
それを、まだ、誰も知らないでいる。
だいじょうぶですよ、ロゼアちゃん。
ぜったい、ソキが、まもってあげるですからね。