終わりました、とジェイドが言ったのは、ラティが昏睡した翌日の夕方のことだった。太陽が地平線に沈みかけるのを眺めながら、砂漠の筆頭は吐息に乗せて、独り言のように王に報告した。王は、そうか、とだけ答えた。疲れ切っているのはお互い様で、これからまだ疲れる日々であることが分かっていたから、終わった気などしないのだが。終焉したのは確かなことだった。
二人の視線の先で、砂漠の金の地平線がうるわしく夜に飲み込まれようとしている。これから間もなく夜が訪れる。数日ぶりの、それでいて永遠を乗り越えた後のような、安堵に満ちた夜が。明日を思い描けず、悪くならないことだけを祈りながら、不安ばかりが降り積もる眠りは昨日で終わり。今日と言う日はもう、穏やかだった。ぼぅっとしながら、王もジェイドも息を吐く。
先程まではまだ慌ただしく魔術師たちが行き交っていたものだが、それでは撤収しますっ、との宣言が王に捧げられて十分もした頃には、その気配は跡形もなく消え去っていた。『扉』は、瞬く間に復旧された。エノーラが眠らず作業して今日の朝に間に合わせ、『学園』からも五カ国からも救援を呼び込んだのだ。道さえ繋がってしまえば、あとは早かった。
やきもきしていた花舞の白魔術たちが我先に砂漠になだれ込み、うるさく騒がしくはしゃぎあいながら、大丈夫大丈夫と繰り返して笑顔を咲かせていった。大丈夫、もう大丈夫だからね、よく頑張ってくれたね、よく保たせてくれたね。あとは任せて、なんとかしてあげるから。花舞の魔術師たちは口々にそう言って、『扉』と砂漠を走りながら幾度か往復し、状態別にてきぱきと搬送先を決め、あるいは治療を重ねて同胞たちを目覚めさせて行った。
ロリエスをささっと回収し、『学園』からさりげなくフィオーレを連れ去って行く動きはどさくさに紛れての一言だったが、魔術師たちも王たちも、それをあえて黙認した。花舞の、ひいては世界の平和の為である。フィオーレもそのうち返却されるだろうし、戻ってこなければ改めて書状でもひとつ、書けばいい。
ソキとロゼア、ナリアン、メーシャはすみやかに『学園』に戻された。レディは星降に、リトリアは『学園』に寄ってから楽音へ。動ける者は元の場所へ、動けない者、動かせない者たちは意識の回復と治療の成果を待って。それぞれ、戻っていく。散らばったパズルが、正しくはめ直されるように。整理整頓されるように、砂漠から人がいなくなっていく。
過密だったな、と王は呟く。そうですね、と筆頭は微笑して答えた。一日。たったの一日で、とりあえずは元通りに整えられていく慌ただしさを、うまく受け止められないでいる。人々の目覚めは明日になるという。早いものは朝に、遅くとも夕方には、誰も彼もが意識を取り戻すでしょう、と白魔術たちは言った。その頃にまた見に来る、と言っていたので、物寂しいような静寂は今だけのものだった。
執務室でぼんやりと、王は机に肘をついて外を眺めている。普段なら口うるさい筆頭は、ちら、と見ただけで特別咎めて来なかった。昨日、魔術師たちが事態収束の宣言をしにハレムに走り込んできてから、そういえばアイシェにも会ってない、と王は息を吐く。夜には眠りに戻ったが、アイシェは張り詰めていた糸が切れたようで目を覚さず、早朝もまだ眠っていた。
無礼を王が許したのは、単純にアイシェの寝顔が珍しかったからだ。ソキをいつまでも寝かしたがる、ロゼアの気持ちもすこし理解できた。今日は起きて待っているだろう。先に、謝るなと言わなければ、と王は息を吐き出した。アイシェはそういう事を特に気にするから、先手を打たなければいつまでも謝りかねない。
ああ、あと、と。とりとめもない思考をぼんやりと動かす王に、ジェイドが視線を向ける。砂漠の筆頭は、それを告げるべきかさえ迷った顔で。しばらく沈黙し、それから、陛下、と静かに声を響かせた。
「ラティは……ラティが目を覚ます可能性は、低いそうです」
「理由は?」
王の。報告を受け止めなければいけない、という意識が、思考より早く言葉を零れさせた。声の後に視線を向けてくる王に、ジェイドは瞬きをしながら告げる。眼差しは、室内に柔らかく忍び寄る、夜の影を見つめていた。
「過度の集中による魔術の使いすぎ。それによる、水器の損失。……砕けてはいないそうですが、もう一度の発動は出来ないだろう、というのがエノーラの見立てです。魔術を使えば砕けるだろう、と。……よく、まだ、原型を留めていると」
「……昏睡はそのせいか? 魔術の……使いすぎと、器の状態の?」
なんとも言い難い顔をする王に、気持ちは分かります、とジェイドは苦笑いをした。ラティが使った魔術は一種類、ひとつだけ。一回だけ。それでなぜ、と言いたいのだろう。現場に立ち合った当事者として、ジェイドは普段のものではなかったんですよ、と言った。
「いつもの、ただ気持ちよく眠らせて素敵な夢を見せるものではなかったんです。あれは……」
「報告書は、ざっと目を通したが……違いはなんだ? 発動時間か?」
一晩眠らせるのとは訳が違う、と蒼白になったエノーラが、『扉』の調整をしながら書き上げた報告書である。分析に一刻を争うと見たのだろう。それは正しい判断だった。そうでなければ決して、メーシャは『学園』に戻らなかっただろう。いつ目覚めるか分からないから、帰りなさい、と強く咎められなければ。今日とも明日とも分からぬ希望に、縋っただろう。
目覚めるとしたら、今日ではなく、明日でもなく。一月、二月、後とも分からず。目覚めさせる術はない。魔術そのものに、ラティの器が耐えきれない。回復だろうと祝福だろうと、器が砕け。そして、最悪、二人とも目を覚ますだろう。俺はアイツにそこまでしろとは言わなかったぞ、と額に手を押し当てて王は呻いた。言っても仕方がないことだ。もう結果は出てしまっていた。
発動時間も、内容も、とジェイドは噛みしめるように告げた。
「違いすぎるものです。彼女は、シークの……願いを、たったひとつだけの希望を、夢だと断言して、それを己の術式に組み込んだ。夢を贈る、と、そう言って。でもそれは……」
占星術師の領域ではないのだ。予知魔術師の後押しがなければ叶わなかっただろう。倒れたラティを見てぽかんとしていたソキは、己の内側からごそっと消えた魔力に、理解をしないまま悲鳴をあげた。ロゼアがいてくれてよかった、とジェイドは思う。あの状態の『花嫁』を落ち着かせられるのは、『傍付き』だけであるからだ。
辛いことをさせてしまったな、と誰にも思う。平穏な終わりとは、とても呼ぶことができなかった。
「ラティのことは、エノーラと……キムル、フィオーレに任せて良いでしょう。起こしても大丈夫なのか、そもそも起こせるものなのか、方法からなにから全て検証するとエノーラが息巻いていましたから」
「……エノーラもすこし休ませないといけないな、頼りきりだろ?」
「はい。そのあたりの匙加減は、白雪の女王陛下がなさるものかと」
アイツはアイツで落ち着きを取り戻したんだろうな、とあまり期待していない声で、王はうんざりと天を仰ぐ。くすくすと肩を震わせて、エノーラが戻りましたから多少は、と砂漠の筆頭は囁いた。どの王にも、傍らになくては均衡を欠く魔術師、というのは存在する。楽音にはリトリアが戻りましたし、魔術師たちもひとまずは落ち着きましたから星降も平気でしょう、と囁くジェイドに、砂漠の王はうつろな目で、いやそのことなんだがな、と言った。
「お前には先に言っておくが、ラティが目を覚ます、あるいはその目処がつくまでは、俺はなにをしてでもアイツに会わないからな……扉の前まで来てても締め出せよ、ジェイド。王命だからな!」
「……まあ、そう仰るなら、そういたしますが……理由はなにか?」
「……ラティは砂漠の王宮魔術師で、俺の魔術師だ。ここまではいいな?」
はぁ、とジェイドは気のない返事で王を見つめる。お疲れだからな、と思われているのを承知の上で、王は真剣な顔で己の筆頭魔術師に重々しく言った。
「ラティは、貸されてるんだよ……」
「……お話からすると、星降の陛下からお借りしている、というように聞こえますが?」
「そう言ってる」
俺が眠れないから、それで砂漠に配属されたっていうのは間違いないし、その通りなんだが、と王は息を吐きながらラティだけだ、と言った。
「星降のが、じゃあ俺のラティだけど貸してあげるから、終わったら返してね、なんて言って書類整えたのは……」
「……ちなみに、他の方の場合などはなんと?」
「アイツ分かりやすいんだよ、フィオーレの時は花舞のに刺されないようにしなね、って言ったし、シークの時は……アイツの時は、あー……としか言わなかった」
分かりやすいのは確かな反応だが、手がかりにはならない。首を傾げるジェイドに、ともかく、と王は声をあげてもう一度命じた。
「万一来ても締め出せよ。そのことがなくとも……ラティは、星降の、お気に入りだ」
「……本人は知っていましたっけ? それ」
「ラティ本人は、前職の関係で面識があるから気にかけてもらってる、くらいの認識なんじゃねぇの……?」
それくらいのことだったら、どんなに楽だったか、と遠くを見る王のまなざしが語っていた。なんだか面倒くさくて複雑な事情に巻き込まれそうな気がしたので、ジェイドは笑顔で、ではその通りに、と言って話題を打ち切ってしまう。これ以上のややこしさは、積極的に避けていきたい。
砂漠の王はため息をついて、いいか俺は会わないからな絶対だからなやだからなっ、とだだっこの声で言い放ち、筆頭の微笑ましさいっぱいの頷きを引き出した。
「さあ、陛下。そろそろお休みになられては? お部屋の前までお送りします」
「……分かった、もう行く。けど、その前に」
ジェイド、と砂漠の王は静かな声で育て親の名を呼んだ。
「……なにか言いたいことがあるなら、今が最後だぞ。明日からまた、騒がしくなる」
廊下で歩きながらは落ち着いて話せないだろ、と促されて。ジェイドは泣きそうな笑みで、彼のことを、と言った。
「話していいんですか? ……じんましん出ますよ、陛下。こんなことで体調を崩されても困ります」
「じゃあ、俺が聞いてやる。質問に答えろ、ジェイド。……シークの、容態は」
避けて、避けて、ついに向こうから捕まえに来た話題に、ジェイドはしばらくこたえなかった。感情を落ち着かせるのに苦心しているようだった。椅子に悠然と座りながら待つ砂漠の王に、ぽつ、と水滴のような言葉が向けられる。
「ラティの魔術が消えない限り、目覚めることはない、と。……恐らくは、寿命を全うして死ぬだろうと」
「飲まず食わずで?」
「多少の衰弱はあるでしょうが、占星術師の夢見の術式は、本来は睡眠保護です。……心地よい、眠りの状態を保つ術、ですよ。陛下。一晩の眠りが、永遠に……いえ、その命の終わりまでを一晩と定義づけて、この先ずっと続くだろう、と。錬金術師たちの見立てです。ですから……彼の命の終わりまで、彼に流れる時間は一晩。鎖された夜が、もう、明けることはありません……」
そうか、と砂漠の王は息を吐く。それは、命を奪ってはならないという制約のある言葉魔術師に対しては、最適解の状態だった。成した術者本人の状態を考えなければ。それを。ジェイドが、くるしく思っていることを、考えなければ。ジェイド、と王は筆頭の名を呼ぶ。
「シークの目的を知っていたお前が、俺にも黙っていたことはこの際だから不問とする。……お前ほんっとそういう所あるからな……抱え込むというか、諦めずにそこで相談しておけよというか……お前の悪いとこだぞ、ジェイド」
「……はい」
「だから、なにがそんなに悲しいのか、言わないと分かってやれないだろ」
お前らそんな仲良かったか、と訝しむ砂漠の王に、ジェイドはそうですね、と吐息に乗せて囁いた。
「陛下、俺はね。……俺は、本当に、彼にも『花嫁』がいればいいと……いてくれたらよかったと……思って」
「……縁談組んだのお前だもんな」
「はい。……誰かに、頼って、願う、んじゃ、なくて。……俺が」
ここで、幸せになってよかったのだと。幸せになって欲しかったのだと。もっと、言葉にもして、伝えていたら。もしかして。もしかしたら。息が詰まるように告げていくジェイドに手を伸ばし、砂漠の王は養い親の顔に、手を拭う布を押しあてた。
「外では言うなよ。……アイツのしたことは、許されることじゃない」
「……分かっています」
「あとは?」
まだなにかあるだろ、言っておけよ、と促す主君に、笑って。ジェイドは夢を見たことがあります、と言った。なぜかリトリアが砂漠の王宮魔術師をしていて、俺もいてシークもいて、陛下もいて。シークが皆と打ち解けていて、それで。何処かから帰ってきたシークにおかえり、と言うと、すこしだけ驚いた顔をして。とろけるように笑って、ただいま、と、言う。そんな夢でした。
告げるジェイドに、そうか、と王は息を吐き。帰りたかったって言ってたもんな、と呟いた。ずっとそうだったんだな。
「……そうか。助けてやれなかったんだな……」
その、郷愁のせつなさ。どんなに苦しかったことだろう。いまは、もう、苦しくないといいな、と王は言った。己の魔術師に。はい、とジェイドは静かに囁く。ラティの魔術ですから。そうか、と王は呟いた。それきり、言葉もなく。日が落ちるのに合わせて部屋を出た王に寄り添い、ジェイドはゆっくりと、歩き出した。
ぷわぷわわ、とあくびをして、ソキはくしくしと目を擦った。朝の早い時間ではないが、談話室は静かである。さわさわと肌に触れて行くばかりの静けさは『お屋敷』めいていて、かえってソキの眠気を誘うものだった。つつん、とくちびるを尖らせながら訴える。
「ねぇ、む、い、でぇー……すぅー……」
「私も……」
「ソキ、リトリア、気持ちはよく分かるがな……もうすこし、頑張れ。終わったらとりあえず、昼寝でも夜まで寝てても、起きたら朝になってても文句は言わせないようにしておいてやるから。終わらせような。これが終わらないことには、他の魔術師にも影響あるからな……!」
根気強く言い聞かせてくる寮長の言葉に、ソキはくちびるをとがらせながらも、はぁいといいこに返事をした。ロゼアがそっと髪を撫でてくる。はうぅ、と蕩けた声で甘えれば、ロゼアはふっと息を緩めるように笑い。寮長は苦虫を噛み潰した顔になって首を横に振る。
「寝かせるなよ、ロゼア。寝かせるなよ……!」
「……はい」
「ロゼア、落ち着こうね。寮長は俺が後で、ロリエス先生にあることないこと言いつけておくから!」
せめてあることだけにしとけよ怒られるのお前だぞ、と残念なものを見る視線を向けられて、ナリアンは笑顔で寮長を無視してのけた。もう、ナリちゃんったら反抗期なんだから、とその肩に座ったニーアが微笑ましく肩を震わせる。それぞれにいいなぁ、という視線を向けて、リトリアは帰りに星降に寄ろうと呟いた。ストルとツフィアの顔を見る為である。
魔術師たちの間をすり抜けるように飛び、眠そうなソキの頬を突きに来た妖精が、室内の様子にアンタたちねぇ、と腕組みをする。
『気が抜け過ぎなんじゃない? いくら、昨日の今日と言ったって……あら一昨日だったかしら……? ……ともかく! まだ終わってないんですからね! さっさと報告書の提出に協力なさい! 特にソキ!』
「あっ、りぼんちゃんですぅううっ!」
とろとろのふわふわの、きゃっきゃはしゃぎきった声だった。室内全員の微笑ましさと脱力を引き出した予知魔術師は、ロゼアの膝に座ったまま、ちたちたきゃっきゃと妖精に両手を伸ばして首を傾げる。
「リボンちゃんったらぁ、どこに行ってたの? ソキの傍から離れるだなんてぇ、いけないです!」
『こ、この甘えんぼ……! ロゼアがいるでしょう、ロゼアがっ!』
「ロゼアちゃんはロゼアちゃ、リボンちゃんはリボンちゃんですぅっ!」
どやあぁあ、と渾身の自慢顔をされる意味が分からない。くらくらしながら額に手を押し当て、妖精はソキの肩に着地すると、もにもにと頬を弄んだ。や、やゃん、やんやっ、と声をあげられるのに息を吐きながら、見回りをしてたのよ、と妖精は囁く。『学園』に戻って、二日目の朝。昨日の早朝に機能を取り戻した『扉』は安定状態のまま、魔術師を飲み込んだり吐き出したりしている。
昨日こそひっきりなしに行われていた出入りは多少落ち着き、どの国もどの場所でも、今日は聞き取り調査が行われることになっていた。不通であった数日間に、なにをしていたか。なにを感じていたか。あの日、どういう術式を発動したのか。それはなんの為か。どういう結果を導いたのか。可能であれば魔術式は正確に筆記し、後世に残しておく必要がある。
その中でも特に重要とされているのが、予知魔術師のこと、その魔術だった。予知魔術師の魔術だけは、創意工夫で再現することが叶わないものだ。まず『扉』をどう繋げたか改めて、と言いかけて説明という言葉の意味から聞かせないといけないのかもしかして、という顔をする寮長に、ロゼアが無言でソキのスケッチブックを差し出した。
「どうぞ。ソキ、全部描けたんだよな?」
「そうなんですぅ、ソキね、けんめー! に! がんばたです! えへへん!」
連れ去られる前に妖精が口うるさく指導して八割方完成していたそれを、ソキは昨日、ねむいのをくしくし頑張りながら完成させておいたのだった。『扉』をどう繋げて移動したのか。リトリアと一緒に改善した、しゃべる手紙のこと。言葉魔術師にかけられた術。彼からロゼアを守る為に成したこと。魔術師たちを拘束し、同時に守護をかけた術まで、全て。
ソキはうつくしい魔法陣、魔法円にして紙面に描いてみせた。そこから構成式を解き明かして行くのは、錬金術師と占星術師に任せられる領域である。寮長はスケッチブックをパラパラとめくり、ぞっとしたように口元をひきつらせて、よくやった、と言った。
「お前ほんとに……ほんとに……。いいか普段はできないふりしておけよ……? 戦時中じゃないことを幸いに思えよ……?」
「はーぁーいー!」
「また適当に返事しやがって……。悪いが、頼んだぞ」
寮長からの言葉に、妖精は心得た顔をして深く頷いた。ソキの成したことは、とても入学して二年目のたまごの所業ではない。魔術師でも研鑽の末、ようやく辿りつけるかも分からない、という領域である。リトリアにしても同じことで、『扉』の代わり、幾度も魔力を補充し往復してみせたその術は、よくぞ水器が耐えきったと、そのことだけでも称賛に値するような強行である。
無理ばかりしやがって、と息を吐き、いや、と寮長は頭を振った。
「無理をさせたな、ふたりとも。……ゆっくり休めよ」
「これで終わりですか?」
「そうだな……。ソキ、リトリア。ロゼアとナリアンもだ。体調、魔力に変調はないか?」
ロゼアちゃんから離れられないです、と真面目で真剣な顔をしたソキの申告は、ロゼア以外の全員から黙殺された。眠たいの、と堪えきれずにあくびをしたのはリトリア。疲れは残っていますが、と控えめに告げたのはロゼアで、ナリアンも頷きで親友に同意する。疲労が残り、けれども魔力に関しては変調がない。それが、集まった魔術師に共通する意見だった。
まぁそうだろうな、と苦笑して、寮長はようやく、談話室にぐるりと視線を巡らせる。朝の談話室の、人影はまばらである。食堂に行っている数を考えても、普段の半分もいなかった。それでいて、話し声もしない。誰も彼もが椅子や、ソファに身を預け、口を半開きにしてぐったりとしている。数日の騒動は、それくらいのものだった。
寮はまだ半数以上が、疲れ果てたが故の、深い眠りに落ちている。昼前、昼過ぎにようやく、動き出していくだろう。平常に戻るには、まだまだ時間がかかるだろう。しかし、もう、時間をかければ戻るのだ。ほっとした、涙の滲むような安堵が『学園』のそこかしこに落ちて、ひそひそとささやき合っているような気配があった。
よかったね、よかったね、おつかれさま、がんばったね。祝福のような意思に満たされて、魔術師たちはゆりかごの中にいる。
「なにかあったらすぐに言え。これ以上は言葉魔術師の影響は出ない、と白魔術師、錬金術師が残らず断言したからこそ、変調は純粋に自分の体調不良だ。見逃すなよ。我慢するなよ」
「……りょうちょ? もう、げんきになったぁ?」
じぃいーっ、と純度の高い疑いの目で見つめられて、寮長はささっと独創的な体勢を取った。
「よく見ろよ……今日も俺は輝いてる……世界が! 俺に! 輝き! 『学園』を照らせと告げているからな!」
「この人には薬が必要だと思う。心の」
ソキ、直視しちゃだめだ、と目を手で覆うロゼアの隣で、ナリアンが心から言い放つ。ふっと笑って、すすすっと無駄のない無駄な滑らかさで立ち直した寮長は、やだやだ関わりたくないという顔をしたナリアンの頭を、ぽん、と手で撫でる。
「そんなこと言う元気かあるなら安心だな」
「あ、やめてください。触らないでください」
「はいはい。じゃあな、ナリアン。メーシャの分まで、ロゼアとソキを頼んだぞ。リトリア、あまり寄り道せずに帰れよ?」
よし解散、と言い放って、寮長はソキのスケッチブックを片手に談話室を出て言ってしまった。ちたんちたんと暴れながら、ソキは目隠しを取ってくれたロゼアに、ふくれつらをして言いつける。
「ソキにはおみとおしです! りょうちょったら、おねつさん!」
「ど、どの口で体調不良は申告しろだの、無理するなだの言ったんだあのひと……!」
「ナリアンさん。これこそ、ロリエスさんに言いつけて良いことだと思うの! お願いするね……!」
リトリアが行っても、うまく交わされてしまうだけである。寮長はリトリアが手玉に取って転がしにくい相手なので。ソキも悔しそうにうにゅうううっ、と呻き、きゅっ、と睨みつけるようにナリアンに向き直った。
「ソキもお願いしちゃうです! ナリアンくん、りょうちょをこらしめるです! ロリ先生を呼んできたり、ロリ先生にいーつけてくださいですううう!」
「任せて……!」
これは自身の敗北ではない、適材適所かつ相手の弱点をつくだけである、と己に言い聞かせてナリアンは拳を握った。そうしながらもロゼアに心配そうな目を向けたのは、ナリアンの親友が、どうも元気がないからである。ラティの様子を見に、早朝から砂漠へ駆け出していったメーシャも、ロゼアをよろしくね、とナリアンに言い残していた。
ロゼア、と呼ぶ声に、ん、と答える声は柔らかい。
「どうしたんだよ、ナリアン。……行かなくていいのか?」
「行くよ。……行くけど」
現在、特例として、『学園』の生徒も自由な『扉』の使用が許可されている。全く無秩序と言うわけでもなく、『扉』の横には机と筆記用具が置かれ、そこに名前と目的地、出発時間を書いて使用する。到着したらそこでも同じものを書き、帰りにも記入するのが決まりごとだった。だからナリアンはいつでも、自由にロリエスに会いに行ける。メーシャが、ラティにそうしたように。
けれど。足を止めるのは、ロゼアがあまりに元気がないように見えるからだった。朝からずっとソキを抱いたまま、膝から降ろさないでいる。ごろごろふにゃふにゃロゼアに懐いていたソキが、顔を曇らせるリトリアとナリアンに、ふんすっと鼻をならしてふんぞり返った。
「リトリアちゃ? ナリアンく? ロゼアちゃんはぁ、ソキがくっついてるんでぇ、安心してくれて、いいんでぇ」
『……ねえ、ソキ。ソキが連れ去られたり、あんな方法で動きを止めたりしたから、心痛が募って弱ってるのよ? コイツ。そこは分かってるんでしょうね?』
「……んん?」
あ、だめだ今ひとつ理解していない、とリトリアにも分かる返事だった。ソキはぎゅっと抱きしめてくるロゼアにぴっとりくっついて甘えながら、はふぅにゃあぁん、と甘えた声を出して、肩に頬をくしくし擦りつけながら主張する。
「もうソキはぁ、ロゼアちゃんのお傍を離れないもん。ずうっと一緒にいるんだもん!」
「ソキ……ソキ、そうだな。一緒にいような」
腕を回して深く抱き込みながら告げるロゼアは、なるほど弱っている。体調も魔力も安定しているとは思うんですがと眉を寄せたシディも、まあ心痛でしょうね、と妖精の物言いに同意した。同胞の見立てに払う気の余裕もなく、ちたちたはうはうきゃあんきゃあんっ、とはしゃぐのに忙しいソキは、我が意を得たり、とばかりの顔でつまりぃ、と言った。
「今日こそ! 一緒に! おっ、おふよにっ……!」
『許される訳ないだろうがっ! なんでそうなの! いつもいつも、あぁあああもうーっ!』
「いやんいゃああぁんっ! 『学園』でだめなら、ソキはおふよにはいりにおうちにかえるううう!」
それでおつかれでげんきのないロゼアちゃんをおっ、おしたおして、ソキはきせいじじつをつくるですううううっ、と絶叫が、談話室にほわほわふわんと流れて行く。さすがに口元を手で押さえて咳き込み、ナリアンはそっとロゼアを伺った。ロゼアは変わらず、どこかぼんやりとしている。顔色は悪くないが、よいとも言えず、表情もどこか空ろさを感じさせた。
鼻息荒く興奮するソキを抱き寄せて宥めながら、ロゼアは、んー、と半分くらいしか聞いていなかった声で、溜息のように言葉を漏らした。
「押し倒したいなら、してもいいよ……」
「待ってロゼア。ねえ待ってロゼアっ? 自分がなに言ってるか分かってあぁあああああソキちゃん駄目だよっ! 談話室! ここ談話室だから! お願いだから服を脱ごうとしないで止めてロゼアっ、ロゼアーっ! お願いだから正気に返ってソキちゃん落ち着いてええぇええっ!」
「そ、そうよソキちゃん! ふたりきり! せめてふたりきりになってからじゃなきゃ!」
顔を真っ赤にして止めるリトリアとナリアンにソキを任せ、妖精は深く息を吐きながら飛びあがった。まあ、ロゼアの心痛なんぞ、一日二日、ソキをくっつけておけば回復するだろう、と思う。ロゼアであるのだし。問題はその間のソキを、どう制御しておくかである。幸か不幸か、ひとりでは着脱しにくい服であったらしく、ソキはなにやら絡まって、もちゃもちゃやんやん暴れている。
ああぁ、ああああっ、とナリアンもリトリアも、どうしていいか分からず悲鳴じみた声でオロオロとするのを、見下ろして。妖精は粛々と諦めきった顔で耳を手で塞いだシディを後目に、肺いっぱいに、全力で、息を吸い込んだ。妖精の罵声が、寮の隅々にまで響き渡って行く。終結から、二日目。『学園』の朝の光景である。
眠っているソキは可愛い。もちろん、可愛くないソキというのは存在しない虚構のものである。起きているソキはそれはもうロゼアの至宝であるし可愛いに上限などあろう筈もないのだが、それはそれとして、気持ち良さそうな眠っているソキの可愛らしさといったらたまらないものがある。
ふにゃふにゃのとろけた笑顔でなにを言っているのか分からない寝言を零すのも、ころんころんと寝台を行ったり来たりするのも、アスルを差し出すとぎゅむっと抱きしめて鼻先を埋め、ふすふすふすんっと匂いをかいでから頬を擦り付けたりするのも、いつの間にかロゼアの膝の上に頭を乗っけて、時々ちいさな三角に開いたうるわしのくちびるから、てろりとよだれを垂らしているのまで、全部可愛い。
可愛くない所がない。可愛いでしか出来ていない。つまりソキは可愛いであり、可愛いはソキである、というようなことを。くぴくぴすぴりと眠るソキを抱きながら、かれこれ一時間はロゼアに主張されていたシディが、まだこれ続くんですか嘘でしょう、という意思を隠しきった微笑みで、そうなんですかと頷いた。
「よかったですね、ロゼア。……ロゼアも、一緒にお昼寝していいんですよ? 昨日も、一昨日だって疲れたでしょう……?」
「うん……。起きたソキが、どこかに行きたくなると困るから」
その言葉が、もっと不安を全面に押し出した訴えならば、シディも強く大丈夫ですよ、と言えるのだが。ロゼアの表情は、なぜか照れくさそうなそれである。あっちに行きたい、こっちも行きたい、とソキに強請られるのを、とてもとても楽しみにしているようだった。なにせ昨日から、ロゼアはソキの足そのものである。
寮の規約があるから、それこそ風呂こそ一緒に行かなかっただけで、ロゼアは出入り口のすぐ傍でソキを待ち構えていた。出てきたソキが、あっろぜあちゃん、と満面の笑みで呼ぶ、そのあを発音しきる前にひょいと抱き上げる始末である。昨日は恐らく、風呂とトイレを計算から除けば、ソキは十歩も動いていないに違いない。
まあ、あと何日かくらいならいいんじゃないの、とは、シディの上空でロゼアのソキかわいいに巻き込まれないよう滞空しつつ、成り行きを見守っている妖精の言葉である。『お屋敷』で休んでいたとはいえ、ここ数日のソキはすこしばかり頑張りすぎた。弱くて脆くてどんくさいソキの体調が、そろそろ保たないことは妖精にも理解ができることだった。
妖精が分からないのはロゼアの状態である。言葉魔術師の影響は脱し、ソキの魔術による拘束も、後を引くものにはならなかった。万全とは言えずとも体調は安定し、魔力には憎たらしいくらい淀みがない。けれどもその表情は優れず、どこかぼうっとしているのだ。ロリエスに会いに行くナリアンは最後までそんなロゼアを不安がり、シディがなんとかしてみますから、と送り出すまでぐずぐずと『学園』に留まり続けた。
用事が終わったらすぐ帰ってくるから、と飛び出して行ったナリアンが、夕方までに戻ってくるかは疑わしい、と妖精は思っている。あの愉快で能天気で前向きで底抜けな花舞の魔術師たちに、ナリアンはすでに同僚くらいに思われているし、女王は恐らく、私の魔術師、くらいには思っている。そうであるからロリエスは、ナリアンに詳細な報告書の提出を求めるはずだった。即日で。
きっと今頃うつろな目で、どうしてこんなことに、と呻きながら机に向かっていることだろう。ナリアンの現状はそういう意味で最も想像に容易く分かりやすく、その次がメーシャだった。メーシャはルノンと共に早朝から砂漠へ赴き、昏睡するラティのことを見守っている。未熟な占星術師では、なにを助けることも出来ず。だからこそメーシャは、目を覚まさない養い親のことを、ただ見つめて守っている。
その視線が逸らされないでいるうちは、失ってしまうことなどないのだと、祈るように。恐らく慌ただしくやって来たエノーラや砂漠の魔術師たちが、メーシャを賑やかに励まし、その場から遠ざける努力はするのだろうが。結局、傍に戻って見つめている光景が、妖精には見えるようだった。ソキは能天気にロゼアを満喫している。
とにもかくにもロゼア、ロゼアで、なんというか調子に乗っていることを除けばいつも通りのソキである。一番、いち早く、日常に戻ったと言っても過言ではない。ロゼアがいればなんとかなるのが、ソキである。お手軽だと安堵すればいいのか、頭の痛みに息を吐けばいいのか悩む気持ちで、妖精は改めてロゼアを見下ろした。改めて。ロゼアが分からないのは、妖精だけではないだろう。
シディも苦慮しているのが伝わってくるし、ナリアンもメーシャも、どうすれば親友が元気を取り戻してくれるのかと不安に首を傾げながら、口々にソキにようくロゼアに甘えるんだよロゼアにわがまま言ってもいいよロゼアから離れちゃだめだよ、と言い聞かせていた。ソキがいればなんとかなる、と思われているらしい。
間違ってはいない、と妖精も思う。ソキを与えておけばなんとかなるのだ、最終的には。恐らく。しかし、今まさにうっとおしいから、もっと早くどうにかなって欲しい、というのが妖精の偽らざる本音だった。ぼんやりしたロゼアが、いつにもましてソキを甘やかし、もとい、適当な返事で『花嫁』を調子に乗らせたり暴走させかけたりするので、見ていてとても落ち着かないのである。
ロゼアの意識をもうすこしハッキリさせればいいと思うんです、と言ったのはシディである。どうもロゼアは心痛のあまり、夢と現の狭間で意識が微睡んでいるようだから、と。心痛から自然に回復するまで、穏やかに過ごさせてあげたい気持ちもあるんですが、とため息をついたシディにも、そのぼんやりから発生するソキのきゃあんやぁん大騒ぎと、うっかり既成事実を作られかねない有様の方が問題である、という意識があったらしい。
シディは言葉巧みにロゼアにソキを寝かしつけさせてから、やはり会話でしょう、と言って、ああしてロゼアと話し込んでいるのだった。妖精からしてみれば、数秒に一回はソキかわいい、とでれでれした顔で訴えているだけにしか聞こえなかったのだが。シディの目論見通り、恐ろしいことに効果はあったようである。
ふっ、と目の前の霧が晴れたように。瞬きをして、あれ、と呟いたロゼアが、無言で眠るソキを膝に抱き上げて首を傾げる。
「……いま、なにしてたんだっけ……? ごめんな、シディ。なんかぼっとしてなかったかな、俺」
「いえ、ある意味ではいつも通りのロゼアでしたし……いつも通りのロゼアですね……」
ふんにゃふんにゃと眠るソキをとりあえず膝の上に乗せて取り戻したあたりが、特に。ロゼアはうん、と訝しげな呟きで首を傾けながら、ソキに手をやって状態を確認している。半ば無意識の仕草であるのだろう。眠るソキがくすぐったく笑うのに微笑み、ロゼアは『花嫁』を柔らかく抱き直した。もう大丈夫なんじゃないのこれ、と妖精は高度を下げてシディの隣に並ぶ。
『まあ、おつかれさま、シディ。……なんの意味があったのこれ、と思わなくもないけど……』
『ロゼア、ソキさんと一緒に、しばらくゆっくりしましょうね。幸い、授業再開は早くて半月後、とのことですからね』
担当教員も、『学園』の常任教師たちも、全員それどころではないからである。各国は恐らく数日の穏やかさの後、嵐のような忙しさが終わりまでずっと続くと予想されていた。やることは山のようにある。ロゼアも聞き取りや報告でしばらく忙しいでしょうが、ボクも付き添いますから一緒に頑張りましょうね、と告げるシディに、ロゼアはどこか幼い仕草でうん、と頷き。
ロゼアにもたれてうっとりくぴぴっと眠るソキを、安堵の表情で抱き締めた。
「……あれ? シディ。メーシャとナリアンは? 今日は一緒にいるって聞いてた気がしたけど……」
『いつの情報なのよそれ……。ロゼア、あんた寝ぼけて……は、なかったけど! ずーっとぼーっとしてたのよ! アタシのソキを貸してあげるから、大人しくしてなさい!』
『……そういえば、リボンさん。契約はどうなったんですか?』
どうなったもこうなったもない。結ばれたままである。見て分かりなさいよと腕組みをする妖精から、そーっ、と距離を取ってシディは幾度か瞬きをする。
『いえ、確かに繋がりは感じるんですが……なんというか、中途半端というか……それこそ不安定なような気がして。なにか感じませんか?』
『違和感は確かにあるけど……ソキがどんくさいから、なんか拗れてるのかと思ってほっといたわ。……シディが言うならよっぽどね?』
魔術師の性格は関係ないことですよ、とシディはため息をついた。妖精と魔術師の契約というのは、そんな生中なものではないのである。一番近いのが婚姻とされるくらい、神聖な儀式で約束なのだった。魔術師の、その命の終わりまで共にあり、供をする。望まれれば次代、その次くらいは見守ることもあろうが、基本的にはその魔術師の眠りと共に、妖精も世界へと溶け消えるのだ。
まことの名を明かす、契約を結ぼうとしてそうする、というのは、だからこそ勢いでしていいことではなく。というか、とシディは恐ろしいことに気が付いて引きつった顔をした。ソキは、たぶん、そのことを知らない。妖精との契約がなにを意味するのか。言ってないでしょう、ともうどうしようもないことながら咎める口調で告げるシディに、妖精ははんっ、と鼻で笑って髪をかきあげた。
『賭けてもいいけど、『えぇー、んもお、りぼんちゃんったらぁ、ソキのことがだいすきなんだからあぁあーっ!』ってはしゃいで終わるわよソキだもの』
『いえ……いくらなんでもそん……そんな……ありうる……』
そうですね、ソキさんはそういう感じでそういう受け止め方をされますね、ふふ、と遠い目でうつろに笑うシディに、妖精はそうよだからそれは大した問題じゃないのよ、と頷いた。問題になりそうなのは、繋がりが確定しきっていない、ということだった。ソキの思考に染められたのか、妖精もうっかり、己の魔術師のどんくささが理由とばかり思い込んでいたのだが。本来はありえないことである。
まぁ、ろくでもないあの男の影響に決まってるから、ソキが起きたら聞いてみるわ、と妖精は息を吐き出した。あの日、ロゼアの前に飛び出してきてから、なぜかシークを怖がる様子のないソキは、どうも言葉魔術師と己を同一視、あるいは混同しているようだった。怖がらないのは、鏡に写った己に怯えないのと同じ理由である。言葉魔術師に、一度侵食されきった影響には違いないだろう。
本人がのほほんとしているし、魔術的な変質としての影響は残っていないので、見逃していただけで。ふむ、と妖精は首を傾げて、ふわふわあくびをして、ロゼアに眠いだのなんだの訴えだした、半覚醒のソキを見下ろした。聞いて答えに辿りつける確率はかなしいくらい低いだろうが、妖精はなにを求めればいいか知っていた。
魔術師の武器。ソキの写し鏡。すなわち、写本。それを確認すれば、まあ大体のことは判明する筈だった。受け取ったもう一冊が、なにを想定し、なにを成したのかも。きっと、それで分かるだろう。