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 そもそも、おともだちってなんだろう。基本的にして根本的な所が分からなくなったソキは、悩みすぎて熱を出しかけ、それを察知した妖精によってすみやかにロゼアに通報された。ロゼアは、ソキはたくさん考えられて偉いなかわいいなと膝の上で『花嫁』をゆらゆら揺らしてあやしたあと、的確な措置をして毛布でくるみ、朝までぐっすり眠らせた。
 夜中に目を覚ますこともなくゆっくり眠り、ぱちっ、と目を覚まして。ソキがまだしつこく、おともだちぃー、と難しそうに唸ったので、妖精は額に手を押し当てながら首を振った。ソキ曰く、ハリアスちゃんにはおともだちを聞いたけど、そういえばリトリアちゃんには聞いていなかったので、つまりもしかしたらおともだちをしていなかったのでは、ということであるらしい。
 妖精のどんくさい魔術師の顔には恐怖すらちらついていたが、それを鼻で笑い飛ばして言い切ってやる。
『そんなのね、いちいち確認しないでもいいの』
「……なんでぇ?」
 ロゼアに告白する、という事柄はすぽーんと頭から抜けているというのに、こちらはどうしてこだわりたがるのか。そのロゼアが朝の運動から戻ってくるまでになんとかしたい妖精は、天を仰ぎ呻きながらもそういうものだからよ、と言った。
『心配だったら、仲直りした後にでもリトリアに確認なさい。仲直り、したらね。間違っても今のこじれた状態で聞くんじゃないわよ? 返事!』
「はー、あー、いー。でーすーぅー」
『……まあ、ハリアスとは喧嘩なんかもしないでしょうしねぇ』
 ほんとにこれまで誰とも喧嘩したことないの、と妖精に確認されて、ソキはそんなことないもん、と頬をまぁるく膨らませた。ソキだって喧嘩くらいしたことはある。例えば、レロクだとか、『花嫁』『花婿』の誰かとだとか、世話役だとか、『運営』だとか、『旅行』の時にくっついてくる外勤の者たちだったり、だとか。相手も理由もその時々によって違っていて、向こうが悪いことも単にソキの機嫌が悪い癇癪だったこともあったが。
 とにかく、ソキだって喧嘩くらいしたことがある。あるったらあるのである。ぷんすこしながらそう主張するソキに、妖精は、察した、とうろんな顔をして頷いた。
『で? どうやって仲直りしたっていうの? どーせロゼアだのなんだのが取り持って、お互いにごめんなさいとか言ったらおしまいね、なんだろうけど?』
「リボンちゃん、すごぉーい! どうして分かったです? そうなの。ソキがね、いいこに、ごめんなさいをするです。そうするとね、おしまいなの」
『……言いたいことは山ほどあるけど』
 恐らくそれは、本当に、言葉だけなぞればよしとされるものであった筈だ。多少は反省だのなんだのもさせていたであろうが、根本的な解決、謝罪としての言葉ではなかった筈である。そうか謝れもしないのか、と思い至って、妖精は隠さず頭を抱えた。再教育の道のりが長く、果てしない。
『……いや、諦めるなアタシ。諦めたらいけないわ……。ソキをまっとうに育てられるのはアタシだけなんだから、諦めてなるものかって話よねこれ……! ……分かりきったことを一応確認しておくけど、ソキ? ロゼアと喧嘩したことないでしょう』
 あっいいことを考えついたです、ロゼアちゃんが戻ってくる前にお着替えの準備をして褒めをもらうです、と整理整頓されたクローゼットをひっくりかえして、ああでもない、こうでもないともちゃもちゃ悩みながら。ぱちくり瞬きをして、『花嫁』はあどけなく首を傾げる。
「ロゼアちゃん、なんでソキとけんかをするの?」
『そうよねぇ……する必要ないっていうか、しないわよねぇ……』
 ソキはロゼアの『花嫁』である。ロゼアはソキの『傍付き』である。一見分かりにくいだけで、両者の間には明確な身分の差、主従関係が存在しているのだ。主人と喧嘩をする従者はいない。苦言を呈して気分を害することはあろうが、そこ止まりである。道のりが長い、と息を吐き、妖精はうううぅん、と下着の色から悩んでいるソキの頭に、すとんとばかり着地した。
 どうせなにを着てもロゼアは褒める、というか、なにを選んでおいても最終的にはロゼアちゃんがソキをもっとすきすきになるおふくにするぅとごねて選んでもらうので、いま悩む必要など何処にも見つけられないのだが。ソキは真剣そのもので、繊細なレースのついた下着を手に、うにゅうにゅと鳴き声めいた唸りをあげている。ロゼアはまだ戻らない。いつも通りだとしても、あと十五分はかかるだろう。単にソキが気まぐれで早起きをしているだけである。
 ソキの頭の上に腹ばいになりながら身を乗り出し、暇つぶしとして妖精は、なぁにそれなにが違うの、と聞いてやった。こくり、とソキは重々しく頷く。
「こっちがね、ぽよぽよのふにゃんってなるの。こっちがね、まふまふのぽにゃんってなるの。それで、こっちがね、ふわふわのやわんとなるのですぅ」
『ソキに説明を求めたアタシ、もしかして学習能力がないのかしらって反省すらできるわ……』
 胸を支えたり持ち上げたりする効能や形状が、少しずつ違うらしい、というのはソキの説明ではなく、見て分かった事実だった。あとは色柄の好みの問題である。えええ、と不満そうにするソキに、まぁアタシが乗った時いちばん柔らかいのにしなさいよ、とため息をつく。
『ロゼアはむっつりだから、押し付けられた時に柔らかい方が好きでしょ』
「ロゼアちゃん、もにもにしても、どきっとしてくれないんですぅ……」
 ヘコんだ声でしょんぼりとして、ソキはいいもん下着はロゼアちゃんに選んでとっておきにしてもらうもん、と上着の選定に取りかかった。ソキの着る服でロゼアに選んでもらわないもの、というのは、ないのだが。そもそもロゼアが戻ってくる間の暇つぶしめいた行為なので、妖精は黙って好きにさせてやることにした。これで戻ってきたロゼアが、ぐちゃぐちゃの服の山を見てため息をつき、ソキを叱りでもすればすこしは見直してやってもいいのだが。
 言ったとして、だめだろソキ、くらいである。そのだめだってクローゼットをひっくり返して服の山を生産したことに対してではなく、寝間着のままで体を冷やしたことに対してに違いない。ロゼアがソキを抱っこする口実を作るのもどうかと思い、妖精はひらりと頭の上から飛び降りる。ほら、と引っ張ってきたのは、ソキの魔術師のローブである。元は全く同じ支給品であるのに、肌触りがやけによく、いいにおいがして、袖口にも裾にも精緻な刺繍のされた一着だ。
 これ着ていなさい、と告げられて、ソキは素直にローブに袖を通した。ほわっ、とあたたかそうに笑うソキに、風邪を引かないようになさいね、と妖精は言い聞かせる。
『いいこと? 今日は悩みすぎず、考えすぎず、昨日の約束の通りに朝昼晩ちゃんと散歩をして、よく寝てよく食べて過ごすのよ?』
「はぁーい。……あのね、今日はね、お外に観光はしないの。それでね、でもね、ディタさんと、スピカさんちにいくの。リトリアちゃんのね、お土産をね、見に行くの。ロゼアちゃんも、きっとそれがいいって言うに違いないの。それでね、ソキのいうとおりしよなって、おでかけなの。かんぺきなけいかく、というやつです!」
 事前の計画によると、今日はそろそろ花舞の首都あたりを見に行く予定になっていた筈なのだが。計画を立てた意味って予定通りに遂行する為でもあると思うんだけど、と諦め気味に呟く妖精に、ソキはしかたのないことです、と物分りの良さそうな顔をして頷いた。
「予定がソキに合わなかったです。いくないです」
『……アタシ、よくソキを夏至に間に合わせたわ』
 本人が積極的に前に向かっていたにしろ、もはや奇跡的とすら思えてくる。その時の方がずっとしっかり歩いていたことも思い出し、妖精は着替えたら朝食の前に散歩しましょうね、と言った。お靴はくっ、と嬉しそうにソキは頷いた。女性が修理してくれた靴が、よほど嬉しかったらしい。ロゼアや『お屋敷』の者が整えてくれた布の靴の方が軽く、柔らかくて、ソキには優しいだろうに。ソキはブーツを履きたがった。
 よかったわね、と改めて言ってやると、ソキはちょっとためらうような顔をして。きょろきょろ用心深く室内を見回すと、あのねぇ、と声を潜めて囁いた。
「もしかしたら、なんですけどね。もしかしたら、ちょっぴり、なんですけどね、あのね」
『なぁに?』
「ソキ、ソキね、あるくの、ちょっと、たのしかもしれないです……」
 いつもより、すこしだけ動きやすい服で、お気に入りの、きらきらした靴で、ロゼアと手を繋いで歩くのは、なんだかすごく特別なことなのだと、ソキはほんのり頬を染めて嬉しがった。『花嫁』のソキにはできなかったことだ。魔術師になって、旅をして、一緒に歩いてきた靴で。並んで、歩いていく。そのことが、わくわくして、たのしかもです、と言って。
 ソキはきょろきょろ、不安げに室内に視線を彷徨わせ、くちびるを尖らせて呟いた。
「でもね、でもね、ロゼアちゃんにはないしょにしてね」
『なんでよ』
「だってええぇ……! 抱っこが減っちゃうかもしれないですうううぅういやんいやん!」
 心配して損した、という顔で妖精は首を振った。それはない。
『いいじゃないの。歩くの楽しいんでしょ?』
「それとこれとはぁ、別問題、なんでぇ……! 抱っこは抱っこ、なんですよ! ううぅうばれないよにしなければです……! さもないと、じゃあ抱っこじゃなくて歩こうな? ってロゼアちゃんが言い出しちゃうかもです……!」
『それロゼアじゃないわよ安心なさい』
 熱があるとかいう話でもない。それはもうロゼアではない。断言する妖精に、ソキはなにが気に入らないのかぷぷぷぷ、と頬を膨らませてちたぱたした。
「ソキが、たのしかも、の時に歩いてぇ、抱っことぎゅうなんですよー、の時は抱っこでぎゅうがいいんですぅー!」
『わがまま!』
「やんや! ちがうもん! せーとーな、けんりの、しゅちょう、というやつですぅ! なんといってもロゼアちゃんの抱っこはソキの! ソキのなんでぇ!」
 なんと言おうと、好きな時に好きにしたい、というだけのわがままである。しかし、基本的に歩かせる、という風にしても具合が悪いことを妖精は学んでいる。抱っこは足場が悪い時のお楽しみとかそういうのにしてとっておきなさい、と言い聞かせると、ソキは聞こえないふりをしてロゼアちゃんまだかなぁー、と言った。
「もうそろそろお帰りのはずです。ソキのお服を決めてもらわなくっちゃいけないです。なんといってもぉ、ディタさんとスピカさんちにお出かけなんでぇ、あっリボンちゃん! ディタさんと、スピカさん知ってる? あのね、あのね、あのーねぇー……きゃふふふふふっ!」
『はいはい楽しそうでなによりね』
 やぁんないしょにするですっ、それでぇ、リボンちゃんをびっくりさせちゃったりするですうううきゃふふふふふっ、と楽しくて仕方がない蜂蜜の声でとろけながら笑って。ソキは呆れ半分に見守ってくれる妖精に、こしょこしょと声を潜めて囁いた。
「あのね? ディタさんのね、働かれているお茶屋さんね、おいしいの。だからね、ソキ、リトリアちゃんにおみやげにするの。そういう計画なの」
『……ロゼアが、いいよって言ったらになさいね』
 ごねられると面倒くさいからである。妖精が。ソキは駄目なんて言われるとも思っていない表情で、お茶のお菓子はなににしようかなぁ、とうっとり考えている。相変わらずソキは、ひとのはなしをきかない。そういえばその名を、先の事件の前にも聞いた覚えがあることを思い出し、妖精はゆるく息を吐き出した。パーティーの前から行きたがっていた喫茶店である。ようやく訪れられることを考えれば、様々なことが落ち着きつつあるのだ、とそう思えた。
 そうしているうちに、ソキがふっ、と部屋の扉を見た。足音はなく、まだ早朝であるから、部屋の前を通るひとの声もしない。それなのに、首を傾げることさえせず。疑いすら抱かず、ソキはぱちくり瞬きをしてから、あわあわと寝台を滑り降りた。慌てていたから、室内履きにも足を通さない。とて、ちて、ちて、てちっ、と急いで数歩歩くうち、かしりと鍵の開く音がする。ゆるゆると開かれるそこに、体をねじ込むようにして。
 どんっ、とぶつかりながら、ソキは帰ってきたロゼアに抱きついた。
「ロゼアちゃあぁああぁ……! おかえりなさいですおはようございますですだっこぉだっこぉだっこおおおぉ!」
『ひとつひとつにしなさい! ひとつ! ひとつ! 全部いっぺんに言うんじゃないの!』
「はにゅー」
 抱き上げられ、きゅむっと抱かれて、ソキは幸せな声で鳴いている。聞いていない。あー、もー、と額に手を押し当てながら空を漂い、妖精はやや呆然とした顔でソキを抱いているロゼアに、なにその顔、と難癖をつける声で言った。
『おはようとか、ただいまとか、言ったらどうなの? ロゼア?』
「お……おはようございます、リボンさん……。ただいま、ソキ、起きてたんだな……」
 恐らく、扉まで出迎えに行く、というのが初めてのことなのだろう。抱き上げたのは反射的なことで、考えての行動ではなかったに違いない。じわじわと照れくさそうに、はにかんで嬉しそうに笑うロゼアに、ソキはもちもちと頬を擦りつけて自慢顔だ。
「ソキぃ、ロゼアちゃんにぃ、おかえりなさいができるんでぇ。つまり! おかえりなさい、ロゼアちゃん? ソキにする? ソキにする? ソキでしょ? というやつです!」
「うん? うん、そうだな。ソキかわいいな」
「きゃあんにゃっ! あ、あのね、ロゼアちゃん? ロゼアちゃんの好き好きなお服選んで? それでね、今日はディタさんとスピカさんちにいくの。それでね、リトリアちゃんにおみやげでね、それでね、それでね……!」
 はしゃぎながら耳元に口を寄せ、こしょこしょと囁いてくるソキに、満たされた風に笑って。分かったよ、お話聞かせて、ソキ、と言って、ロゼアは部屋の扉を閉めた。なんだかこのへんお砂糖のばら撒かれた気配がする、と呻きながら、人が起き出す、数分前のことである。



 ソキとスピカが身を寄せ合ってもちゃもちゃきゃっきゃとはしゃぐさまは、妖精には子猫がにゃんにゃん絡み合う様子を連想させた。聞けば親子の年齢差があるという。妖精は疑い深くスピカを凝視し、ソキをちら見してため息をついた。これだから『お屋敷』とは趣味が合わないというのだ。それは徹底的に研磨された宝石である。完成品である。そうであるからこそ、真の意味で、そこに変化はなく、成長がない。終わっているからである。
 妖精の呻きを耳に挟んだロゼアが控えめに、いえあの方もソキも完全に『花嫁』として完成しきったという訳では、と補足した。しかし『お屋敷』の基準だか教育過程の終了だか、そんなものは関係ないのである。大事なのは妖精の印象であり、そして年齢を重ねても外見に変化のない、と思わせる目の前の生き見本のことである。ソキもこうなのだろう、と畏怖のような気持ちで妖精は思う。
 咲き誇り、そして、いつか弱って地に落ちるのだ。己の本体の花がそのものごと、枯れ落ちもせずもげて転がった光景を思い出し、連想し、妖精は舌打ちをしてソキの元へ飛んだ。身長が伸びただの体重が増えただの、これは抱っこの危機ですだの、誘惑作戦だのめろめろの方法だの、平和で頭が痛くなる話題しか聞こえてこなくて、心配や不安な気持ちが概念から消し去られる心地になる。
『……ねえ、ソキ。なにをしに来たんでしたっけ……?』
 リトリアとの仲直りの品を見繕いに来た筈である。せめてその話題も出して欲しい所なのだが。店に来るなり蜂蜜の試食を勧められて大はしゃぎであれこれ味見したソキは、ロゼアとディタが商談めいた雰囲気ですこし離れて以後も、仲直りのなの字も出していない有様だ。まさか忘れているのではと思いきや、ソキは目をぱちくりさせて、頬をまあるく膨らませてみせた。覚えてはいるらしい。
「だってぇ……。はちみつがおいしいのと、スピカさんとお会いできて嬉しいのと、リトリアちゃんの仲直りは違うもん……」
「蜂蜜、気に入ったのがあれば持っていってね。……仲直り? なぁに、ソキ? どうしたの?」
「……あのね、ソキね。おともだちと、けんか、したの」
 スピカは妖精を探してきょろきょろと視線を彷徨わせ、ややがったりした様子で肩を落とした。見えないねぇ、ごめんね、おしゃべりできないね、ごめんね、としきりに妖精に対して申し訳ながり、スピカは机の小皿に角砂糖をいくつかと、ちいさな容器に蜂蜜をとろりと垂らし落とした。そうしながら、ソキの言葉を吟味するようにとろくさく転がして。スピカは、あら、と幸せそうに笑みを綻ばせると、いじいじとしょげてちいさくなるソキに、ぬるまった香草茶を給仕した。
「おともだち! おともだちいるの? すごいねぇ……! でも、喧嘩、したの? どうしたの?」
「……やんやなの。ソキが怒ったの」
「そうなの? やだったのね。怒ってしまったのね。……よしよし、やだったね」
 甘やかさないで欲しい、と妖精が思わなかったのは、それがただの同調で、ソキの仲間から発せられたものだったからだ。こうして並べてみて、妖精はハッキリと、その異質さを思い知る。この二人は人々の中に置いてなお、くっきりと存在の際立つ違うもの、だ。異質なのである。それは恐らく、妖精が仲間を見て同族だと感じ、魔術師に対しては同胞だと思う意識と似ているのだろう。
 ソキにしてみればスピカは、単に、そういう仲間なのである。年上のきれいなお姉さんの『花嫁』で、仲間。優しさは施しであり、同調とは癒やしである。ソキはふすふす鼻を鳴らして頷きながら、でも仲直りするんですよぉ、とごねている。ロゼアに対するものとも、妖精にするのとも違う。同じものに対する甘えた声だった。
「だからね、それでね、ソキは、仲直りのお茶とお菓子を買いに来たの。……ある?」
「そうねぇ……。一緒に考えてあげましょうね。大丈夫よ、ソキ。見つかるからね」
 励ますようにきゅぅと両手を握って囁かれ、ソキは頬をまぁるくしたまま、こくこくと素直に頷いた。この世の楽園を見る眼差しでほのぼのとしている男どもを努めて意識から外しつつ、妖精はなぜ店内が無人にされたのかを理解する。危険だからである。ソキとスピカが、であり、不用意に目にした者の今後が、である。ロゼアも分かっていたのだろう。朝にソキから話を聞いてすぐ、ロゼアは店に向かって特急で手紙を出した。
 なにせ今日のことである。返事を待つ余裕もなく、それでいてロゼアはできる限り、ソキに悟られず不機嫌にもならないように寄り道をして、道草をとって、遠回りしながら店に来たのだが。諸事情による臨時休店の説明をしながら、ディタが最後の一組を送り出す所に立ち会ってしまったのである。幸い、それは顔見知りの、星降の魔術師だった。
 魔術師であるからこそ、ロゼアを見て、ソキを見て、察するものがあったのだろう。あまり迷惑かけないこと、と小言めいた一言を残してすぐにいなくなり、ロゼアたちは店内に招かれたのだった。『花嫁』は、そこにいるだけでも誘引し、魅力する。そこに当人の意思なくとも、そのような形にととのえられている。耐性がなければ屈する、それは毒にも等しい存在だった。
 『傍付き』たちはその扱いをよくよく心得ているのである。本人たちがまるでのんきにきゃっきゃとしているので、その危険が察知しにくいだけで。ううん、と悩み、眉を寄せ首を傾げる仕草だけでも、人の心を奪うには十分過ぎる存在。『花嫁』。
「その、リトリアさんというのは、どんなひと? おとこのこ? おんなのこ? ソキより年上なの? 年下なの? 魔術師? お城の方?」
「リトリアちゃんはね、ソキよりちょっとお姉さんの、楽音の魔術師さんなの。それでね、ソキとおんなじ、よちまじちしなの」
「よちまじちしなの? そうなの。一緒は嬉しいねぇ。よかったね、ソキ」
 予知魔術師、と訂正すべきか悩んで、些細な問題だと妖精は放置してやることにした。最近、またしても発音をさぼり気味なソキは言葉がふわふわして仕方がないが、とりあえず伝えようとする意思は感じられるのだし、なによりスピカも恐らく分かっていない。よちまじちしっていうのがあるのねぇ、くらいの、ふわふわした理解で頷き。
 スピカはまだ未練がましく妖精を探して、きょろきょろとあたりを見回しながら呟いた。
「そうすると、どんなものがいいかしら……? ソキ、その方とお茶したことはある? どんなものがお好きなのかしら」
「……リトリアちゃん、ここあ、すき」
「……それは、ちょっと」
 妖精が物珍しくしげしげと観察するくらい、淀んだ目で呟くソキに、スピカも引きつった顔で首を横に振っている。『それ』は、『花嫁』にとっての劇薬である。毒の一種とも言い換えても良いだろう。当然、ソキの周囲からは注意して排除されているものなのだが、やや高級品よりの一般的な食品でもある為に、『学園』で巡り合ってしまうこともあるのだった。そして、ソキは知っている。
 ココアとか、チョコレートとかいう魔の食べ物は、とてもとても信じられないことに、リトリアの好物なのである。きょとんとしながら、甘くておいしいよ、と言っていたのである。甘いのはソキだって知っている。何度も、何度も。口にさせられたことがあるからである。びっ、と涙ぐんでぴるぴるぷるると震えながら、なかなおりのしるしに一緒にココア飲もってお誘いをうけたらどうしよです、とソキは絶望的な気持ちで呟いた。
「お断りしたいです……。でも、でも、リトリアちゃんと仲良くしたいです……」
『……アタシがあらかじめリトリアに言っといてやるわよ、安心なさい』
 事情は分からないが、ソキがそこまで嫌がるのなら、口にしなくともいいだろう。なんだか面倒くさそうな予感がひしひしとするので、詳しい事情は気になるが、あえて知りには行きたくなかった。いい、アタシは聞かないからね、でも嫌なら止めてやるから、それでいいわね、と尋ねる妖精に、ソキは息の根が止まりそうな顔をして、こくこく必死に頷いた。
「そうしてほしです……。スピカさん、大丈夫です。リボンちゃんがなんとかしてくれるです。さすが、さすがは、ソキの、リボンちゃんです……!」
「そうなの? 良かった……。ありがとね……」
 感謝の気持ちとして角砂糖を積み上げられたので、妖精は無言でひとつかじってやった。あっなくなっちゃったっ、受け取ってくれたのね、ありがとね、とはしゃがれるのに、妖精はこそばゆい気持ちになる。妖精はその時代を知らないが、はるかな昔、まだこの世界の国々が固有のうつくしい名を持ち、同族たちが悠々と空を飛び回っていた頃。人との付き合いは、このような気安いものであったと聞く。
 朝に夕に、窓辺には角砂糖とミルク。ちょっとした贈り物が置かれたのだという。妖精たちは気まぐれにそれを手にしては、その日、病や不幸が訪れないよう祝福を送って飛び去った。もはやそのような風習は消え去って久しく、戻ることはないだろう。見えないものとの付き合い方を、ひとは忘れ、けれどもこうして考えては、かつてと同じ所にたどり着く。感謝と、親しみの想いが差し出される。
 見えなくても、触れられなくても、声が聞こえなくても。そこにいる、と認めてくれる。喜んでくれる。隣人であるのだと。笑って、親しもうとしてくれる、ひとのこころ。それを、いとしい、と。感じるものが案内妖精に選ばれるのだろう。妖精はスピカの指先に触れ、祈りを込めて囁いた。
『ありがとう。……柔らかな魂に、祝福あれ』
「……あれ? なんだかいい匂い……ぽかぽかする」
「リボンちゃんのぉ、贈り物、なんでぇ! あのね、お砂糖ね、ありがとねって。お礼に違いないです」
 いつもよりよぉーくふんぞり返ってふんすふんすと己の妖精を自慢して、ソキはえへへ、と嬉しそうにとけた笑みを浮かべた。
「スピカさんは、リボンちゃんにもお優しいです。ソキ、とっても嬉しいです。魔術師さんも、お店にたくさん来るからです?」
「うん。そうなの。……ディタのね、古いお友達にも、魔術師さんがいるのよ。うふふふふ」
 ソキもきっと知っている人だけど、いまはまだないしょ。一緒に会うことがあったらその時に教えてあげるね、と囁かれて、ソキは首を傾げながら頷いた。魔術師は目覚めればすぐ『学園』へ招かれる性質上、一般との縁が絶えやすい。誰かなぁ、ときょときょとするソキに、スピカはいたずらっぽく笑った。
「でも、ソキはいいな。妖精さんが見えるんだものね。……なら、あのこにも、会えるね。嬉しいね」
「……あのこ? です?」
「うん。……さ、リトリアさんに、なにを持っていくのがいいか考えましょうね。どうしようかなぁ……」
 あからさまに話題を切り替えられても、ソキは抵抗せず、うぅんとうなってくちびるを尖らせた。
「ソキ、お店のお茶をね、持っていこと思っていたです。この間頂いたのもね、とっても美味しかったですからね。それでね、それにあうお菓子があればいいなって考えたです。もちろん、リトリアちゃんの好きなもののがいいかなぁって思ったんですけどぉ……」
「ココアとチョコレート、だものね……。やめようね……。そう……そう、なら、甘いものがお好きかな? お砂糖漬けで干した果物、美味しいのをお取り寄せしたばかりだから、いかが? おすそわけしてあげる」
「頂いていくですぅ……!」
 お茶はディタが美味しいのを調合してくれる筈だからね、とスピカが視線を向けると、くすくすと笑いながら男が手を振って応えた。承りました、と告げられるのに、よろしくお願いしまーすですぅー、とぺこりと頭を下げて言って。ソキは所で、とばかり、ロゼアに向かって両手を伸ばしてちたぱたした。
「ロゼアちゃーん。だっこはぁ? ソキ、そろそろ抱っこがきれちゃいそうですうううう」
『初耳な要求をするんじゃない……!』
「だってぇ、ロゼアちゃんたら、ディタさんと仲良くないしょをこしょこしょしているです。いくないです」
 あんまり傍に寄って来ないので、さびしくてごねているだけである。幸せそうに微笑んだロゼアがすぐにやってきて、ひょい、とソキを腕の中に取り戻す。もぞもぞぴとりとすぐくっついて、ソキははぅー、と蕩けた鳴き声でロゼアに擦りついた。
「あのね、あのね、ロゼアちゃん。リトリアちゃんのお茶のね、どうするかがね、決まったの」
「そっか。よかったな、ソキ。ありがとうございました、スピカさん」
「うふふ。どういたしまして。……仲直り、できるといいね、ソキ」
 ソキは、ちょんっとくちびるを尖らせて、不安そうに頷いた。仲直りできなかったらどうすればいいですぅ、と顔いっぱいに書いてある。喧嘩の終わらせ方、というそのものが、ソキにとっては未知なのだ。まぁ、素直に反省してごめんなさいって言って、怒らないで相手の話を聞きなさいね、と妖精に言い聞かせられて、ソキはこくりと頷いた。
 帰省する日帰り旅の予定をすこし、変更して。明日。ソキとロゼアは、楽音の王宮を訪れる手筈になっている。



 階段をひとつ、ふたつ、飛び降りたような、ほんの些細な浮遊感。それで転移は完了する。とん、と靴音を奏でて楽音の『扉』から出たロゼアを、迎えたのはチェチェリアだった。先生、と口元を綻ばせて喜ぶロゼアに、抱かれていたソキはぷぅと頬を膨らませかけ、すぐさま妖精に睨ませてしぼませる。くすくす、と慣れた風に笑い、チェチェリアは久しぶりだな、と『学園』からの来訪者を出迎えた。
 はい、と告げたきり、ロゼアは珍しく続く言葉を出せないでいた。もぞもぞ居心地が悪そうにするソキをぽん、と撫でて宥めるだけで、視線は叱られるのを待つように、師に向けられたままである。あるいは、チェチェリアの体調を不安がるように。砂漠で倒れたチェチェリアが、回復したと正式な認定を受け、通常業務に復帰したのは、つい先日のことである。
 夫たるキムルは未だ目を覚まさず、たまに無断侵入したエノーラが、爪先で蹴っては舌打ちに来るのだと聞く。迷って、師からの言葉を待ちながらも、ロゼアはお久しぶりです、と言った。
「……いまは、お変わりありませんか、先生」
「ああ。忙しいくらいのものだが、それだっていつものことさ。……大丈夫だ、ロゼア。心配をかけたな。様子を見にいけもせず、すまなかった。……心細いこともあっただろう。ソキ?」
「にゃっ、ななにゃにゃっ……は、はい、はーい! ソキですううう!」
 ソキ、おはなしきいてたっ、ほんとっ、ほんとにきいてたですっ、と主張して妖精に白い目で睨まれるソキに、チェチェリアは穏やかに笑って。驚かせたな、とその気配をやんわりと和ませた。
「我ら王宮魔術師が昏倒し、世界が断絶する中を、奮闘してくれたと聞いている。報告書にも目を通した。……ありがとう、ソキ。楽音の魔術師のひとりとして、心から感謝を告げさせて欲しい。……長期休暇で時間があれば、各国の城にも顔を出してやってくれないか。皆、ソキの顔を見たがっている」
「はい、ぜひ。……ソキ、いいよな?」
「もっちろんですううぅ! えへん。ソキ、褒められるのだぁいすき!」
 さぁ王がお待ちだ、おいで、と笑って歩き出しながら。チェチェリアは、星降の魔術師たちが拗ねていたよ、とロゼアに告げた。王に長期休暇の挨拶をしただけで、ぱぱっと『学園』に戻ってしまったことを寂しがっているらしい。すみません、と苦笑するロゼアの腕の中、足をふらふらさせながら、ソキはええぇ、と不満げな声をあげる。
「ちがうもん。だってぇ、陛下のとこに長居しないで、ご挨拶したらすぐ出ておいでって、星降の魔術師さんが言ったんだもん。ぷいぷいしてすぐ帰ったんじゃないもん。ねー、リボンちゃん。ねー?」
『ソキの言う通りよ。その後で魔術師の詰め所に顔を出していかなかったのは確かだけど、ならそう言っておきなさいよって感じ』
「……陛下の体調が思わしくないように感じましたので。でも、そう仰るなら、また砂漠に行く前にご挨拶に伺いますね」
 三者三様の反応と言葉に、チェチェリアは半ば予想していた苦笑で、うん、と静かに頷いた。妖精がロゼアに呆れながら、あれは体調が悪いんじゃなくて、なんかしょんぼりして落ち込みきってただけだと思うわ、と告げる。星降の王は、全ての魔術師を大切に思っている。罪を犯したもの、未だ災厄から目覚めぬ者も同様に。心痛は重く、気分が落ち着かないでいることが多く。だからこそ、挨拶だけ、と星降の魔術師たちは求めたのだ。
 衝撃から回復し、魔術師たちが目覚めたとしても。罪咎を負う眠りから、もう目を覚まさない者がいる。それを成した魔術師も、いつ目を覚ますのか、目覚めることができるのかさえ、未だ分からないでいる。
『陛下には、すこし時間が必要だわ。それだけよ。ぴーぴーぎゃーぎゃー騒がないで、そっとしておいてあげなさいな。今はなにをしても受け取れないし、どんなことでも負担になる』
「そうだな。私たちも、そう思っている」
『……それか、まあ、なんとかしてラティを起こせばいいと思うけど? 妖精の中にも何人か、様子を見たり、協力してやってもいい、っていうの、いるし。必要なら声をかけて頂戴』
 元々が星降の王宮勤務、かつ、護衛騎士であった関係上、ラティは妖精たちに顔がきく。顛末に心を痛める妖精も多いのだった。人の子の魔術師に不可能だとしても、妖精がひとりならず力を合わせればあるいは目覚めの可能性に、触れられることがあるかも知れない。感謝する、とチェチェリアは言った。王に報告して各国の魔術師に通達を出しても良いかと問いかけられて、妖精は好きになさいな、とあくびをした。
 ひらり、ソキの胸の上に着地して座り込む。
『アタシは、都合が合えばって思ってるけど、ルノンなんかはすぐにでもって言ってるし。メーシャがいよいよ追い詰められる前には、話くらい纏めてやればいいんじゃない?』
「……そうだな」
「やぁんや、やあん。リボンちゃんが、ねごこちをたしかめてるぅ。もにもにしちゃだめぇ……!」
 人聞きが悪い、と妖精はしかめ面をした。ソキがロゼアにもにもに胸を押し付けているせいで、妖精の乗る場所が狭くなっているのがいけないのだ。座り心地を調整しているだけである。アンタもっとあっちいきなさいよ、と胸の上からロゼアをげしげしと蹴ると、ソキはいゃんいやんと悲しげな声で身をよじった。
「リボンちゃーん! ロゼアちゃんをいじめちゃだめぇ……!」
『いじめてないわよ。契約妖精として、快適な生活を主張しているの。ソキだっていつも言ってるでしょ? 正当な主張よ、正当な主張! もうすこし離れろこのむっつりが! ソキの感触を堪能してんじゃないわよ!』
「聞いてはいたが……そうか、妖精と契約したんだったな」
 ロゼア、くじけないようにな、とそっと労りの視線を向けながら。チェチェリアが敬意を持って妖精に向き直る。執務室は、もうすぐそこに見えていた。チェチェリアの無言の求めに従い、ロゼアがソキを腕から滑り落とす。と、ととっ、と物慣れない様子でふらつきながら立ち直し、ソキは胸の上に陣取る様子を、つむんとくちびるを尖らせながら見つめた。
「リボンちゃん? 陛下にご挨拶するのにぃ、お胸の上はいけないでしょ?」
『いいのよ。どうせ楽音の陛下にはアタシが見えないんだから。……はいはい、じゃあ頭の上と肩の上ならどっちがいいの?』
 つまみ上げようとしたロゼアの指を遠慮なく蹴りながら、妖精はソキに問いかけた。ソキはううんと悩んだあと、こっちぃ、と頭を両手でぺたりと触る。あのね、ロゼアちゃんがきれいにあみあみしてくれたですからね、そっと乗ってね、そっとですよ、と言うくらいなら肩にすればよかったものを。妖精は無言でひらりと舞い上がり、ソキの頭に乗らないよう、そのすれすれで滞空した。
「……うふん? リボンちゃんたらぁ、お優しいです」
『いいから、転ばないように慎重に歩きなさいね。ロゼアと手をしっかり繋ぐこと。転びそうになったらロゼアの腕を掴んで巻き込みなさい。分かったわね?』
「準備ができたのなら、さぁ、おいで。……ソキ、リトリアとは、陛下への挨拶が終わったら、な。部屋で待ってる、と言っていたから、案内しよう」
 緊張を思い出した顔で、ソキはこくりと頷いた。ロゼアに持ってもらっている、お茶とお菓子のお土産をしっかりと確認し、妖精に促されて、ソキはてち、てち、とゆっくり歩き出す。楽音の王との挨拶は、すぐに終わった。楽音の王はロゼアとソキをよく来てくれましたと歓迎し、それで就職の決意は決まりましたね、と唐突になにもかもへの言質を取りに来たので、チェチェリアがふたりの背を無理矢理押して廊下に出した為だった。
 陛下申し訳ございませんこのふたりはこのあとリトリアと約束があるものでリトリアが首を長くして部屋で待っているものですからなにとぞご容赦を、まで、一息で言いきって。二人と一緒に慌ただしく退室したチェチェリアに、ソキはぽかん、と口をあけてしまった。
「いいか、ふたりとも……。ロゼアも、ソキも、どちらもだ。なにがあろうと、決して、ひとりで陛下と会ってはいけない。よく覚えておくように。……万一、そうなることがあったら、一言も発さずに笑顔で時間を稼ぎなさい。なんであろうと返事をしてはいけない。不敬罪だのなんだの仰ってこられるが、言葉の意味が分かりません、という笑顔を貫き通せ。いいか、笑顔だ。困った顔を見せたら最後だと思いなさい。時間だけ稼いでくれれば私たちが、必ずリトリアを連れてくる。それまで耐えなさい」
『なんなの? 罠かなにかなの?』
「花舞がナリアンを確保しただろう……? それを陛下が羨ましがってな……。なら、ロゼアかソキですね、と言っていて……」
 そのような事実は初耳だし、なんなら聞かなかったことにしておいてやりたい、とロゼアは親友の就職事情に微笑んだ。ロゼアの記憶が確かなら、ナリアンはまだ『学園』の同級生である筈なのだが。在校生にそういう扱いは許されるんですか、と呟いたロゼアから、チェチェリアはすっと視線を反らして首を振った。無言だった。
 ナリアンくん、すっかり花舞のひとにされちゃったですぅ、いくないのでは、とソキが頬を膨らませる。それに、そうだな、と微笑して。チェチェリアはロゼアから視線を反らしたまま、やや虚ろな響きの声で告げた。
「これはお前の師として、ひとりの王宮魔術師としての言葉だが……白雪の女王と会話をする時には気をつけなさい。狙われているから」
 ロゼアはその属性から成る暖房的な意味合いで、白雪の女王に目をつけられている。寒さが苦手なロゼアは真剣な顔をして、肝に銘じますありがとうございます、と言った。ソキはきょときょととロゼアとチェチェリアを見比べて、もうーっ、と機嫌がよくなさそうな声をあげた。
「白雪の女王陛下ったらぁ、やっぱりいけないさんなのっ? そうなんですぅっ? もう、もう、駄目なんですううう! ロゼアちゃんはソキの! ソキのなの! ソキのー!」
「そうだな。ふふ……癒やしが目に染みる……」
『病み上がりなんだから、もっとゆっくりしなさいよ。なんでそんな極限状態なのよ……?』
 楽音の王が自由だからである。王がうきうき自由にしているのは楽音と五国が平和である証だが、それはそれ、引き換えに魔術師の胃痛と頭痛、精神疲労が差し出される。そのような仕組みになっているだけである。うわ、と心底引いた顔つきで、妖精がアタシのソキはそんな国にはやらないわよ、と宣言した。
『だいたい、リトリアがいるんじゃない。ソキなんてどう考えても無理なんだから、諦めて安心していなさいよ。ロゼアだってどうだか?』
「……そこを、なんとかしてしまいかねないのが、我が王のすごい所で……凄くなくていいので自重なさってくださいませんか我が王よ……」
「……ねえねえ、リトリアちゃんのとこ、行ってもいい? ねえねえ?」
 不安なのと飽きたのとリトリアが心配になってきたので、はやく移動してしまいたいのだろう。不安げに目をぱちくりさせて首を傾げられるのに、チェチェリアはああ、と穏やかな笑みで頷いた。
「そうだな、行こうか。待たせると、しびれを切らして陛下の所に乗り込みかねない」
「……保険をかけておいてくださいました?」
「現状、我が国で陛下に対抗しうる唯一の手段がリトリアだ。ロゼアもよく、覚えておくように」
 いい加減にしてっ、そんなことなさるお兄様なんて嫌いですっ、の一言でかたがつくらしい。今の所は百発百中であると聞いて、妖精は胡乱な顔で頷いた。
『なら、リトリアを秘書かなんかにしてくっつけておきなさいよ。なんでそうしないの?』
 そうしたいのは山々だが、とチェチェリアは眉を寄せた。
「予知魔術師の守り手たちの件が決まらないことには、どうとも……今の待遇から変えたいとは、私たちも思っているし、本人も強く希望していることではあるんだが。今はとにかく、星降に落ち着いてもらわないことには……ラティが起きてくれればいいんだが」
『……さっきの提案、別にアタシの気まぐれじゃないわよ。はやく通達して検討なさいな』
「これから、すぐにさせてもらうさ。……ありがとう、我が同胞たる妖精たちに心からの感謝を」
 さすがはー、ソキのぉー、リボンちゃんー、ですぅー、と機嫌よく歌いながらてちてち歩いていく先で、ひとつの部屋の扉が開く。ぴょこん、と顔だけ覗かせたのはリトリアだった。リトリアは不安いっぱいの顔であたりを見回し、ソキたちが歩いてくるのを見つけると、ほっとした笑顔でいらっしゃい、と言った。まだ歩いていく途中だったから、すこし、距離があった。
 それがなんだかせつなくて、ソキはとてちてちてちっ、と早歩きにリトリアの元へ行く。すこし緊張した様子で、なぁに、と迎えてくれるリトリアに。ソキはぎゅうっとロゼアの手を握りしめ、あの、あのっ、とけんめいに言った。
「そ、そき、あの、あ、な、なかなおりの、あの、あの、ね、あの……ご、こめんなさいをしにきたですからね、あのね、ごめんなさいをするですから、一緒にお茶して欲しいです……! おいしい、おかしもあるので、いっしょに、いかが、ですか……!」
 リトリアは、ぱちぱち、と瞬きをして。泣き笑いに、うん、と言って頷いた。いらっしゃい、とだけ返すリトリアに、よかったな、と言ってチェチェリアは微笑んだ。どうしよう、嫌われちゃったかな、ねえチェチェ、なかなおりできるかな、ねぇお迎えに行ってそっと探ってきて教えてお願いお願い、とねだられたのは今朝のことである。
 まあ、あとのことは任せてゆっくりしておいで、と告げるチェチェリアに、ロゼアはありがとうございます、と囁いた。言えたですうううっ、とぴょこぴょこ飛び跳ねて喜んで転びそうになってリトリアに抱きとめてもらっているソキを、慈しみ。愛おしむ眼差しで見守りながら。

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