占星術師とは、戦闘に適した魔術師ではない。それが定説である。決してなにもできない訳ではないのだが、その魔力の使いどころは後方支援に限られている。彼らは星を読むのが得手である。魔術師の守護星。その瞬きを見つめ、未来に待ち構えるのが幸福か不幸か、それを得る為には回避する為にはどうすればいいのか。それを考えて味方に提示する。
市井にあふれる占いよりは精度が高く、子供が投げる靴よりは正確に天気を言い当てる。王宮魔術師としてその能力が求められる時、彼らは主に天気天候を予測する。その情報は人員の移動や作物の実り、その対策や育成に欠かせず、国の繁栄にはどうしても必要なものだ。しかし、それは攻撃的ではなく、またまつろわぬ守護でもない。
錬金術師のように道具を生み出すこともできなければ、空間魔術師のように点と点を繋ぐことも叶わない。魔術師の中でもすこし、軽んじられることの多い。占星術師とは、ながくそういう魔術師であった。しかし、ストルの試合を終えて。その精密に過ぎる、未来予知とも呼べる術の使い方を目の当たりにした魔術師たちは、騒然となっていた。脅威である。それは占星術師という魔術師の、脅威である。
ストルが体術に優れ、武器も使えることは皆知っていた。在学中に何度も見たからだ。しかしストルは今回、それを殆ど使わなかった。走ったくらいである。男はその場からほぼ動かず、魔術に頼って戦闘を回してみせたのだ。なにあれええええっ、と叫びながら、何人もが図書館に走り、ほどなく答えを持って帰ってきた。あるいは、その手がかりになる文献を。『大戦争』の記録だった。
最前線に呼ばれる占星術師の数は、当時もやはり多くはなかった。しかし、必ず存在していたのだ。少なくともひとり、多ければ五人、六人で集められて。その人数が多ければ多いほど、得ようとした結果は戦果として記録されていた。味方の死亡者数の、恐ろしいほどの減少。敵方にはその逆の結果を。あまりに精密にして長時間の発動を要求されるその術のせいで、時にはそのまま、占星術師は帰らぬ者となった。
過度の行使は魔術師の命を削る。それほどの魔術だった。そして、それ故に使われ続けた術であり、『大戦争』以後は半ば封印された研鑽の術だった。ストルがなぜそれを知り、恐らくは命がけになると理解しながらも行使したのか、理由はたったひとつだ。その魔術師の適性故に軽んじられ、疑問視されるであろう戦闘能力、防衛能力の証明の為である。リトリアの為に。ストルは、それを成したのだ。
一年、二年で届くものではない。在学中からずっと、密かに努力をし続けていたのだろう。寮長が危惧した身体への影響はなく。白魔法使いが呆れ顔で、完全制御をお墨付きに放免した医務室の前で、リトリアはストルにひしっと抱きついて、言葉もなく。それを抱き返してリトリアの名を囁いたストルと、はいもういいでしょう離れなさい、と割って入ったツフィアの間で、もう一戦構えられかけたのだが、事なきを得た。
そんな午後。予定されているもうひと試合を前にして、ソキはふんふんと熱心に、ロゼアの膝上で本を読んでいた。予知魔術師の『武器』たる本ではない。教本の類ではない。騒然とするどさくさに紛れて持ち出してきた、『よちまじゅつしのでんごんちょう』である。なぜか一向に淑女向けに切り替わらない予知魔術師たちの写本は、それに対するソキの不満はさておき、欲しい知識を望むがままに囁いてくれた。
ストルの魔術は、占星術師の星読みの能力を転用したものなのだという。星読みとは、守護星の囁く未来への選択肢のうち、最良のものを選んで手元に置く、という術だ。それは幸運の呪いであり、災いへの忌避である。己にとって、今なにをすべきが最良であるのか。それを知るのが星読みだ。ストルはそれをそのまま、戦闘に転用した。一手先、例えば、この一秒後。なにをするのが最良か。
転じて、相手がどう動き、それに対してなにをするのが最良であるのか。それを読み解くことこそが、幾億もの選択肢の中から最善手を選ぶこと。選び続けることである、と定義して。恐らく、彼が学んだのは魔術研鑽の他には人体に対する徹底した理解。医学にすら及ぶだろう、と写本はソキに囁いた。『大戦争』の最中にも、彼らはそうしてくれたのだ、といくつもの声が笑う。魔術行使とは、知識の発露。
正しい術式と、己の知識が組み合ってこそ、望む結果は世界に現れる。魔力は加工され、花開く。呼吸、瞬き、鼓動、体の動き。それを正確に掴むためには、人体の構造理解が必要だ。可能ならば相手の人柄や性格、普段の体の動かし方やその癖なんかも知っていたほうがいい。全てが理解の材料になる。魔術師よ、その無垢な眼にて世界を見て、人を見て、なにもかも理解し記録し写し出せ。
その時こそ、まことの予知魔術は開花する。きみが見た彼のように。あぁ、今代にも、そこへ辿りついてくれた占星術師はいたのだ。嬉しいね嬉しいね、と残響のように響いて、声がすうっと遠ざかる。ソキはふあふあとあくびをした。いったん休憩、ということである。ソキはもうすこし大丈夫だと思うのだが、宿った意思たちはもう遠ざかってしまっていて、呼び戻してもなんの反応もない。
この本を読むのは単なる読書ではなく、その間はじわじわと魔力が使われる。予知魔術師としての、魔術の発動として、宿った者の、知識、経験、言葉が囁かれる。そういう仕組みになっているのだ。ソキの場合は水器がないのだし、まだちいさいからという理由で、向こうから適度に休憩が差し入れられるのだった。ソキは年明けには淑女なのだが。なぜか分かってもらえないのである。げせぬ。
頬をぷくっと膨らませ、本をぱたんと閉じて足をちたちたさせるソキを、ロゼアがいとおしそうに抱き寄せた。体がくっつけられる。
「ソキ、読書はおしまい? ……なら、図書館に本は返してこような」
「ロゼアちゃん? 次の試合の準備、できたぁ?」
「まー、だー」
聞こえなかったことにしちゃうです、のぺかぺかした笑顔で首を傾げるソキに、ロゼアは息を吐きながら首を横に振った。試合後に行われた白魔術たちの診断が思いのほか長引いたせいで、第二試合を明日にするか夕方、あるいは夜遅くからにするか検討の最中なのである。ストルの魔術のこともあり、談話室は今日も混迷とざわめきに満ちている。
でも一日に一試合にするならまず陛下の許可を取り直さないと、だって演習場の再整備だって間に合ってないし、ストルとツフィアはいいから早くしろって、言うだろうよそりゃそうだよ白魔術たちはなんて言ってんの、やめといた方がいいんじゃないかなーって、どうせなら強く止めて欲しかったそんなどっちでもよさそうなの困る、どっちかにして欲しい、それ、ほんとそれ、あぁあああ困るうううう。
みんなー、陛下が期間延長倍でもいいけど、面白おかしく詳細な報告書提出してねってー、そしたらなんとかしてくれるってー、あーそれ絶対楽音の陛下だろ頼もしい強い後が怖い。で、どうしよっか、と再度検討に入った大会運営の腕章をつけた花舞の魔術師たちを見て、ロゼアはソキの頭に顎を乗せた。ぷきゃんっ、と潰れたような声があがってかわいい。
「これは、また明日になりそうかな……。ソーキー、本を読みたいなら、ご飯を食べて、お昼寝して、それからにしような」
「……今日は試合、しない?」
「ソキがお昼食べてる間にはきっと決まるよ。さ、ご飯にしよう。そろそろ食堂も空いたから、ゆっくりしような」
ロゼアからの提案に、ソキはしぶしぶ頷いた。談話室で本を読んでいたのは、食堂が空くまでの空き時間だったのである。ほぼ満席の騒がしさは、ソキが落ち着ける場所ではないのだった。ウィッシュはそのあたり、ソキと逆のようで、わーいにぎやかーたのしーっ、とはしゃいで昼食を取っていたのだが。素直に返事をするとひょいっと抱き上げられ、ソキはロゼアにぴとんと抱きついた。
てくてく移動されながら、ソキはそういえば、とぱちくり瞬きをする。
「ナリアンとメーシャくんは? まだ帰ってこないです? ……ニーアちゃんと、ルノンくんもいないです。もぉー、リボンちゃんはどこへ行っちゃったんですうううぅ?」
「ナリアンはロリエス先生のお見舞い、メーシャはラティさんのお見舞い。リボンさんたちは、シディのお見舞いだよ」
「……シディくんが、中々起きないからリボンちゃんは寂しいです。ソキには分かっちゃうです」
ロゼアは慎ましく微笑んで、そうだな、と『花嫁』の意見に同意した。寂しいかはともかく、シディが中々妖精の形を取り戻さないでいる為に、ここ最近、さらに妖精からの当たりが厳しくなっている。起きればシディにほぼ全て行くのだということを考えれば、ロゼアは案内妖精にもうすこしゆっくりして欲しい気もしたし、すぐに起きて欲しい気持ちにもなった。
はー、と息を吐いてソキを抱き寄せれば、きゃうううっ、と蜂蜜の声が腕いっぱいに響く。廊下を歩いていた者たちが即座に胸を抑えて甘さに蹲る声に、ロゼアはくすくすと幸福に笑った。
「ご機嫌だな、ソキ。ご飯たくさん食べような」
「はう、はううにゃ……! 最近、ロゼアちゃんのぎゅう、ぎゅうが増えてきたような、ですううぅ……! ……ロゼアちゃん? ソキに、あの、あの……め、めろめろ?」
頬を赤くして、目をきらきら輝かせて。そわそわ上目遣いに伺ってくるソキは最高に可愛い。ロゼアは心から、そうだよ、とソキに囁きかけた。立ち止まって、額をこつ、と重ねて囁く。
「かわいいかわいい、ソキ。今日もいいこだな、かわいいな。……かわいいな」
「きゃふふふふふっ!」
身をよじって喜ぶソキを、抱き直して背を撫でる。ぽんぽん、と触れれば心得た様子で擦り寄り、しばらくもそもそとしたあと、落ち着く場所を見つけたのだろう。これでいいです、とばかりはふんと息を吐き出すソキは、すっかり寛ぎながら首を傾げた。
「それにしてもぉ、ルルク先輩のお願い? ご用事は、なんだったの? ロゼアちゃん。ねえねえ?」
「んー? ソキは気にしなくて大丈夫だよ。リボンさんもそう言ってたろ」
なぜならロゼアが秒で却下したからである。検討の余地なし、として切り捨てる態度に、妖精としても思う所があったのだろう。じゃあアタシも駄目よ、と却下したのは、審判の補佐をソキにお願いしたい、ということだった。実況して欲しい、というのである。ソキの妖精眼のことは、ルルクにも世話役見習いとして速やかに共有されていたから、試合中の態度ですぐ気がついたらしい。
ソキは恐らく当事者たち以外で、あの場に起こっていたことを正確に把握していた、ただひとりの魔術師だった。相手の魔力、魔術を解析する予知魔術師としての性質と、そのものを捉える妖精眼が組み合わさった結果である。そこをなんとか、試合の実況ができないとかほんと盛り上がりにかけるし、と懇願するルルクに、ロゼアは笑顔で言い切った。いいんじゃないですか盛り上がらなくても。
ソキに余計な負担をかけるくらいなら、という意志の強い言葉だった。それがどれくらいの負担になるかはともかくとして、妖精が賛同したのは、ソキがあまりに初心者であるからだった。また、ソキは相手にしっかり説明をするとなると、やりすぎると倒れる、という疑惑を妖精から持たれている。前科があるのである。もう多少伝わらないくらいで、周りが理解するくらいの方が体調管理がしやすい、とソキは妖精にみなされている。
必要な時にできることが分かったので、それでいい、ということにしたのだ。温存である。諦めではない。妖精はいい、ソキに余計なことを言ったりなんだりしないのよさもなければ呪うわよ、とルルクに言って飛び去っていた。それからもずっとロゼアが一緒であるし、今日はもう離すつもりがないので大丈夫だとは思いつつ。
ロゼアは、おなかにぽんと手を置いて、なにを食べようか考えて、あいらしく目をきらめかせる『花嫁』に囁いた。
「ソキ。今日はもう、ルルク先輩とおしゃべりするのやめような。審判で疲れてらっしゃるから、休ませてあげような」
「はぁーい! ルルク先輩は試合もあるですしぃ、ゆっくりしてもらわないといけないです!」
「うん。そうだな。いいこだな、ソキ。かわいいな。ソキはかわいいから、ルルク先輩が話しかけても、また今度ってちゃんとお返事できるよな」
もっちろんですうううっ、もソキが元気よく頷いた。元気に返事を出来たかわいいソキにはぷりんがあるはずではっ、とちらりと見上げてくるソキに、ロゼアは心から微笑んだ。
「ご飯食べたらな、ソキ。プリンは食後。ご飯じゃないよ」
「……ソキ、ぷりんをご飯にする」
「だーぁーめー」
つん、と柔らかな頬を指先で突く。ソキは楽しそうにきゃあんと声をあげ、ロゼアと頬をぺとんとくっつけた。
「ろぜあちゃんがぁ、だめっていったぁー!」
蜂蜜の。とろとろの、甘い声上機嫌な声。そのまま、もちもち頬をくっつけてくるソキは、最近、すこし、ロゼアからの駄目を楽しんでいるふしがある。本当に怒っている時には、ちゃんと聞くのだが。くふくふ笑うソキに、ご飯食べたらな、と再度言い聞かせ、ロゼアは食堂に足を踏み入れた。常ならぬざわめきはもう遠ざかり、そこはいつも通りの落ち着きを取り戻していた。
とりあえず、午後の試合は明日に延期。以後の予定は本日中、夜には発表する。知らせが走ったのは、ソキがロゼアの膝で食後のプリンを頬張っている最中のことだった。
試合が明日になったとはいえ、参加する魔術師たちはなにかと忙しい。すでに休暇届を書いてしまったから、という理由で『学園』に姿を現したウィッシュとエノーラは、談話室でだらだらと過ごしながらも白雪の書類を持ち込み、それに目を通しながら歓談に応じていた。なにせ明日も休みになってしまったのだ。それも、半日ではなく一日である。
試合は午前に行われるが終わった後の検診に時間がかかり、そこでなにかあった場合には精密検査が必要になる。ウィッシュは、パパにいいとこみせるんだからそんなへましない、しないったらしない、やだやだ、おいしゃさまきらい、やだやだやだやだ、と盛大にごねたのだが、早く終わらせてジェイドさんとお茶でもして戦果を褒めてもらったりすればいいじゃないの、の一言で俄然協力的になった。
ソキに対してのロゼア、ウィッシュに対しての砂漠の筆頭、というくらいの切り札として、エノーラには認識されている。仕事大好き、女王陛下敬愛、のエノーラが延びた休暇に文句を言わなかったのは、錬金術師が精密検査の大切さを知っていたからだ。なにせ、誰も彼もが久しぶりの対人戦闘訓練、相手に怪我をさせてはいけない、との制限付きなのである。
魔術のきめ細やかな発動は言わずもがなであり、その集中がどのような影響を成すか、誰も満足な情報を持っていないのだから。平和というのも考えものよね、とエノーラは言った。定期的にこういう交流会も開いていかないと、いざなにかあった時に困るんじゃないかしら、という錬金術師の提言は、実行委員たちによって速やかにまとめられ、すでに五王に提出されている。
仕事の報告書より提出がはやいのはなぜなのだろうね、と花舞の女王は微笑んだと聞く。仕事でも遊びでも全力ですが遊びの方が楽しいからかも知れません、と花舞の魔術師たちは視線をそらして弁明した。そういう性質なのだとして受け入れて欲しい。定期開催の可能性があるお祭りの気配を決して見逃さない。それが花舞の王宮魔術師たちなのである。
お昼寝から覚めたねぼけまなこで、ソキは談話室を見回した。戻ってきた妖精と、ソキを抱っこしてくれているロゼアに変わりはなく、談話室にはすこし人が増えている。気がついて、なりあんくん、めーしゃくん、おはようございますですおかえりなさ、と挨拶をすれば、二人は微笑んで口々に、まだ眠っていてもいいんだよ、というようなことをソキに言った。
ソキはもう淑女なので、ぱっちりと目覚めるのである。淑女なので。そう主張して、ソキは談話室のざわめきに、またふわふわあくびを漂わせた。
「みんな、お忙しそうです……ウィッシュせんせいと、エノーラさんは、お仕事が終わったの? まぁだ? ソキがお茶をいれてあげましょう、ですよ」
「……俺が運びますので」
そっと言い添えたロゼアに、ウィッシュがううん、と眉を歪めて思い悩んだ。しばらくして、いらない、と返されるので、ウィッシュの水分補給嫌いはまだ治っていない。一応考えただけ、改善の兆しはあるのだろう。隣でエノーラが無言で目をむいていた。砂漠の筆頭効果怖い、と呻く錬金術師の声。
「私たちがあんなに……彼女ちゃんが出来ても大して飲んだりなんだりしなかったくせに……。筆頭がこれ好きだろうって持ってきた花梨湯にすぐ口付けてたものね……あぁ、大丈夫よ、ロゼアくん。ほんとに。さっき飲んだの。ね?」
「……あの方、来られてたんですか?」
「うん。ちょっとだけ。すぐね、忙しいからって、戻っちゃったんだけど。ロゼアがね、砂漠からの荷物受け取りに、寝てるソキ連れて行ってる間くらい。ほんのちょっとだけ。顔見に来てくれたんだー」
えへへ、とごく幸せそうに溶けた顔で笑う『花婿』に、ロゼアは珍しくひきつった顔でそうですか、と言った。なんというか、ロゼアにしてみると、謎に満ちた未知の相手である。父母の知り合いであることから間違いなく『お屋敷』関係者であろうが、外生まれとされている『花婿』のウィッシュが、パパ、と呼ぶ理由がよく分からない。まっとうに父親だからなのではないか、という意見が大半なのだが。
ロゼアが持つ『お屋敷』の常識、あるいは規範に照らし合わせて考えると、ただ混迷の一言である。帰省した時に両親に聞く予定は、もうすこし先のこと。とりあえず、『花婿』たる方が幸せそうで、嫌がらず水分を摂取してくださっているのだから、もうそれでいいことにしよう、と混乱と疑問を飲み込んで。ロゼアはふっ、と息を吐いた。荷受けの時間から考えても、あえて避けられた、とみて間違いはないだろう。
ロゼアを見てると可愛がりたくなっちゃうから時間がある時じっくりね、と思われていることを、当人はまだ知らない。くしくし、くし、と目を擦ってあくびをして。のびーっ、として。ソキはようやく、すこし目の覚めた顔つきで、ぱちくり瞬きをした。
「ジェイドさんが、来てたのぉ……? やぁん、ソキを起こしてくれなくっちゃだめなんですよぉ……!」
『めっずらしい……。なに、ソキ。あのうさんくさいのになにか用でもあったってこ……いや違うわ、顔が好みなんでしょう。どうせそういう理由でしょう……!』
「誤解ですよ、リボンちゃん? 違うです。ソキ、この間も、たくさんお世話になったんでぇ。ご挨拶しないといけないって、思っているです。なんと言っても、礼儀正しいソキ。礼儀正しいソキですからね!」
どやあぁあっ、という顔をして言い放つソキであるが、妖精はそれらしい理由を見つけてきたのでそれらしいことを言っている、くらいのことは理解できるのである。またそんなこと言って、と額に手を押し当てて息を吐き出す妖精の前では、なぜかウィッシュも自慢げに頷いている。生徒の礼儀正しさを喜ぶ教師というよりは、なにか自慢したがる『花婿』の気配を感じたのでそっと放置して、妖精はまた明日にしなさいね、と残念がるソキに言い聞かせた。
『どうせ試合も見に来るんだろうし……というか参加者だし……。そのあたりの打ち合わせはしなくていいの? ルルク』
「えーっと、作戦会議とかは往復書簡で、その他は好きにしてくれれば合わせますのでよろしくお願いしますって言われていて……」
『……やる気があるんだか、ないんだか?』
対戦相手ではなくなったのに、ひたすらフィオーレが怯えているのも気にかかった。いまも見れば談話室の隅でソファに座りながら、明日からの砂漠の筆頭の機嫌がいいことを祈っている。不穏なものしか感じなかった。どういう相手なのか、と改めて聞くにはそこそこ会話もしたことがある相手である。ソキから目を話さないようにだけしておこう、と決意を深め、妖精はくしくし、くしくし、しきりに目を擦る、いとしい魔術師の元に飛んだ。
ため息を付きながら腕をひっぱり、やめさせる。
『やめなさいったら。なに? かゆいの? 目薬は?』
「うぅーん……? しぱしぱするぅ……」
言っている途中で、ロゼアが慌てた仕草ですっぽりと、ソキにヴェールをかぶせ直す。目薬もささっと点されてぱちちちちっ、と瞬きしながら、ソキはうーっ、と不機嫌な唸りをあげた。
「なんだか慣れないです……。ちかちかぴかかっとするです……試合中はこんな感じではなかったのにです……これは中々のやんやなのではないのです……?」
『試合中と同じ精度で眼を使ってるからそうなるのよ。……そうね、常にロゼアに集中してるくらいの感じかしら。ソキ、今は寮長よ、寮長に対する興味関心くらいでまわりを見ていなさい。普段は寮長、大事な時はロゼアくらい!』
ソキ、寮長にはなんのかんしんもきょうみもないんでぇ、というぴっかぴかの笑顔でソキが頷く。うーん、うーん、と考える声がふよふよと響き。しばし。驚いたように、ぱちちちちっ、と瞬きする『花嫁』のひとみ。
「……あ! ぺかぺかぴかかっとしなくなったです!」
『自分で言っといてなんなんだけど、こうも上手く行くとロゼアテメェこのむっつり野郎! って気持ちが溢れてくるわ』
「再三申し上げますが、根拠のないそしりは辞めていただけますか」
憮然としたロゼアの反論を、妖精は腕組みをしながら鼻で笑い飛ばした。そういうことは最低限、ソキを膝から下ろして主張するべきである。ソキが眠っている間も一時も降ろさないでいたので、聞く耳など持ちようがなかった。リボンちゃんたらぁ、シディくんが起きないから不機嫌さんですぅー、とまったりと、妖精の活火山に爆炎過熱剤を叩き込む発言を響かせ、ソキはちらりとエノーラを見た。
エノーラとウィッシュは、ソキたちの座るソファの近くに広い机を持ってきて仕事に励んでいたのだが、なにやら先程から、見られているのである。ただ見られるなら、『花嫁』には常のことである。意識にひっかかりもしなかったのだが、その視線は鑑賞ではなく。魔術師としての観察、錬金術師としてのことだ、と感じたので。
なぁに、と首を傾げるソキに、エノーラはすこし考えながら口を開いて問いかける。
「風の噂で、ソキちゃんが妖精眼になったって聞いたんだけど……。ちょっと……いやかなり……正直に言うとものすごく興味があるから調べたり質問したりしたいんだけど、ロゼアくん、いい? 妖精諸氏にも聞きたいことがあります!」
『アタシはいいわよ。アタシはね?』
まず、ソキにものを頼むのに妖精とロゼアを通す、という手順を理解している所が好感が持てる。ちらりと妖精が視線を向けた先、ロゼアはやや気乗りしない様子でソキの体調を確かめ、すこしなら、と言った。
「どうぞ。どのようなことでしょうか?」
「後天性って聞いたんだけど、それ、確かなこと?」
『だとは思うわ。出会ってすぐに確かめなかったから、絶対とは言い切れないけれど……少し前までは、こうなっていなかった筈だもの。ソキ、そうよね? 最近よね?』
ソキはあれこれ記憶をたどりながら、まったりとした仕草で頷いた。魔術師になって魔力が見えるようにはなっていたが、こんなにちかちかぺかかとされたのは、つい最近からのことである。ふむ、とエノーラは手元にあった紙を引き寄せ、そこにさらさらと計算式を書き込んでいく。興味関心、ロゼアの腕の中から身を乗り出して見つめるソキに、エノーラは意外なほど丁寧に、その式の解説をしてくれた。
この値が魔力を視認しない、ひとの目の。これが魔力を視認する魔術師の。これが魔力そのものと謡われる妖精の。そしてこれが、魔術師が成る妖精眼の。数字は魔力視認の精密さを、式はそこからの変化を示す。ソキは妖精が驚くくらい真剣にふんふんと頷いて聞き、やがてこっくりと頷くと、じゃれつくように式に対して指先を伸ばした。
「ソキはこれ? これが、ににににっとなって、うにゃあぁああんっ、としたから、リボンちゃんと同じ目になったの?」
「ごめんね擬音が分からない……。分からないけど、えーっと、変化ね? この通常式の変化をしたのかって聞きたいのね?」
『ソキ。エノーラの理解力に感謝しながら頷きなさいよ』
性格と性癖がぶっとんでいるだけで、エノーラの才能は本物である。天才、と誰もが認める錬金術師なのだ。そのありがたみをちっとも理解していない不可解そうな顔つきで、ソキは素直にはーい、と返事を響かせた。こくん、と頷く。
「そうなの。ソキはね? そうなったの? ってお聞きしてるです」
「うーん……。変化をしたことについては間違いないんだけど……後天性ということにも間違いはないんだろうけど」
「……先輩、なにか?」
過保護、と妖精は声を出さず、ロゼアに呻いた。エノーラは思考に入り込んでいる真剣な顔つきで、とんとん、と計算式を指先で叩いている。
「後天性でなった、というより……後天性にした、というか。妖精との契約を利用して、そう変化するように仕向けた……? だとするならこの日数にも納得が行くか……。うーん……稀なことすぎて資料がちゃんと揃ってないから、うろ覚えの推量になるんだけど」
「はい」
すでに飽きて、エノーラが計算式を書いた紙にお花と蝶々を書き込んで遊んでいるソキより、ロゼアの方がよほど真剣に話を聞いている。ソキのことでしょうが、と頬を突っつくと、いやいや身をよじって抗議された。
「ソキはもう、分かっちゃったんでいいんですぅ……!」
『いいから説明されなさい。エノーラ、なに?』
「うーん……?」
柔らかく苦笑して。エノーラはそっと、ソキの目を覗き込むようにして告げた。
「ソキちゃん。これ、自分でやったね? 意識的か、無意識までかは分からないけど。……妖精との契約を契機にして、そう変化するように予知魔術師で己の状態を誘導した、と考えられるのね。この、契約から発現までの不自然な日の空き方。普通は即時変化だから。こんな日数開かないから」
「ソキ、しーらーなぁーい。しらなぁーいーですぅー」
「うーん怪しさしかない……」
ロゼアの膝上でちたちたしながら告げるソキに、エノーラが苦笑いで首をひねる。僅かばかりの空白を置いて。なんですって、と問い返した妖精に、いやそのままの、と錬金術師は言った。
「恐らくは、本能的な防衛行為か……それに近い、なにかをソキちゃんの無意識が判断して、そういう風に組み替えたんだと思うわ。さすがは予知魔術師……」
『……あの男が眠りに落ちたことによる、なにかしらの防衛だっていうこと?』
「可能性としては。ただ……本人が知らないって言っているのが本当なら、もう誰がなに言っても推測にしかならないのがね……?」
え、ほんとに自分でしたんじゃないの、誰も怒らないから教えてごらん、と囁かれても、ソキは頬をぷーーっと膨らませて、しらないもんしらないもんっ、と盛大にごねた。知らないと言ったのに疑われているので、心外であるらしい。それくらいのことですぐ怒るんじゃない、と叱りながら、妖精は額に手を押し当ててため息をついた。悪い変化ではない。それは確かなことなのだが。
えっなんか大変なのどしたのソキ、ソキねぇつぉくなったんですよぉおにいちゃんすごぉーいんですよ、そうなんだーつよいのはいいことだよねでもソキせんせいだろー、ソキせんせいっていったーですぅー、ときゃらきゃら言葉を交わし合う花たちは。今ひとつ事態を理解しているようには、思えなかった。
最近の日課、手洗い場の水でシディを丸洗いする行為から戻ると、そこに広がっていたのは事案だった。妖精が部屋を出るまでは確かに、ソキは寝台でころころとしながら、隣で本を読むロゼアにうにゃうにゃとちょっかいをかけていたはずなのだが。数分、妖精が席を外しただけで、なぜかその位置が大幅に変わっている。ロゼアの傍らには読みかけの本が、しおりを挟んで置かれている。
その腹の上にソキが馬乗りに乗っかって、うぅううーん、と難しそうな声をあげながら、ロゼアの顔を両手でぺたぺたと触っていた。これが上下逆なら、即時通報ものの事案である。しかし、今でも十分に事案である。ロゼアの顔はでれでれしきっていて、手はしっかりとソキを抱き寄せている。そうしながら青年の指はそろそろと、『花嫁』の細腰を服の上から撫でているのだった。
ソキは気がついていないようなのだが。妖精からは丸見えである。うぅううーんにゃああぁあですうううぅう、となにか納得していないような、悩んでいるのか嘆いているのかもよく分からない鳴き声が室内に響く。ロゼアはそれに、どうしたんだー、そきー、と嬉しそうな声で言った。でれでれしきっている。事案である。むっつり野郎は事実に即した呼び名であって、もはや罵倒でもなんでもない。
妖精はため息をつきながら、柔らかなハンカチが幾重にも重ねられた場所に、水浸しでびたびたになったシディをぽいと投げ落した。ソキの頭上に急行する。すとん、と降りるとさすがに気がついたのだろう。あっリボンちゃんですぅおかえりなさいですぅあれなんだかふきげんさん、とぴるっとされるのに微笑みを深め、妖精は腕組みをした。足先をぱたぱた動かしてソキの頭を叩きながら、これはなにをしてるのかしら、と問いかける。
『ロゼアを襲うんじゃないのって、何回アタシに言わせるのかしら?』
「……あっ、これはちゃんすかもです!」
『言った傍から! 言った傍からー! ロゼアの服を! めくるなーっ!』
激怒して怒鳴る妖精に、ソキはあわあわとロゼアの服から手を離した。ちちちちがうですぅ、ちょっとめくっただけです、本番に向けてのよこうえんしゅーというやつです、予習は大事なんでぇ、とすました顔をしながらもあわあわと言い募るソキに、妖精は座った目をしてほぅ、と言った。ロゼアはずっとでれでれしている。襲われて喜んでいるに違いなかった。
妖精はぎろりとロゼアを睨みつけながらも、まだその腹に乗っかったままで降りようともしていないソキに、寛容なる諦めの気持ちで口を開いた。
『……で? ロゼアを襲ってたんじゃないなら、なにしてたって言うの?』
「ロゼアちゃんをね、確かめてたの」
えへん、という顔をして教えられて、妖精は思わず笑みを深めた。なんのために、と続いた問いに、ソキはまた敏感にぴるると震えて妖精を見た。ふきげんさんですうぅう、と怯えながら、ソキはつむつむと人差し指を突き合わせた。
「なんだかね、そうしなきゃいけないような、気がしたんですよ。ソキは、ソキはね……ロゼアちゃんの、んと、んと……ロゼアちゃんの……あの、あの、なにか。なにかでね、だからね、確認中なの。確かめるの」
『……魔術式書ける?』
「今のソキにはできないんですぅ……だからね、確認中なの……」
しおしおしゅん、としおれるソキに、妖精はなにごとか、というのだけ察して頷いた。予知魔術師、あるいは、単純に魔術師としての、なにかしらの本能的な行為であろう。それがなんで、ロゼアに馬乗りになって顔をぺたぺた撫で回す、ということに繋がるのかは、これっぽっちも理解ができないが。ソキが欲望に先走ったのを上手に隠しているのでなければ、言いたいのは恐らくそういうことだった。
妖精は怒りをなんとかおさめてソキを見る。その変質した瞳を覗き込む。目としての機能が付与されただけで、ソキの瞳はそのままだった。光をたっぷりと浴びた、瑞々しい碧玉。磨き上げられた宝石、あるいは新緑の森の色。損なわれず、陰りもしていない。そのことに安心しながら、妖精はエノーラの仮説を思い出す。妖精との契約を利用して、ソキは意識的か無意識に、自分の体を作り変えている。
片割れを失った予知魔術師として。それをもう失ったままでもいいように、均衡を保とうとしているのだ。担当教員としてソキをじっと見たウィッシュは、えー別に大丈夫だと思うよ、とのほほんとした返事を置いていった。魔術師としても、『花嫁』としても。負担になることじゃないし、心身を蝕むようなことじゃないし、性格とかに変質があるようなことじゃないし、と指折り数えて首を傾げ。
ウィッシュは『花婿』として、大丈夫だよ、と重ねて告げて行った。なんかの準備のひとつだと思う、その眼も、いろんなことも。なんの為のことなのかは分からないけど。そうなの、と問いかけた妖精にもロゼアにも、ソキは難しそうな顔をして、そんな気がしてきたような、とぱちくり瞬きをした。当人がそれであるから、誰もなにも確証が持てないままでいる。あらゆることに。
妖精はソキを、その変わらぬうつくしい目の色彩、魂を覗き込みながら囁いた。
『それがなんだか分かったら、アタシにちゃんと話せるわね?』
「うん。ソキね、リボンちゃんとお約束する」
『……ええ、約束よ』
えへへ、とソキが嬉しそうにはにかんで頷く。そこでようやく、ロゼアが腹筋の要領で体を起こした。ソキはずりずりと下にずれてロゼアの脚の上に収まると、胸にぺとん、とくっついて頭をぐりぐり擦り付ける。
「ロゼアちゃん、きゅうに読書のじゃまをしてごめんなさいでした……。仕方ないですから、また本を読んでもいいですよ」
『この上から目線がねぇ……どうにもならないのよねぇ……』
嘆く妖精とは違い、ロゼアは特になにも気にならないようで、ありがとうな、とソキに囁いている。いやコイツのことだから上から目線のソキかわいいとか思ってる可能性もあるわ末期だからな、と呆れと怒りの混じった息を吐き、それを確かめることはせず、妖精は放置していたシディのもとへ飛んだ。なにせ水でびったびたにして、拭いていなかったのである。
石鹸はよく洗い流してきたので、綺麗にはなっているのだが。妖精の動きを目で追いかけるソキが、シディくんはまだ起きないの、と不安がる。ロゼアのハンカチを無断で借用しながら、妖精はそうみたいね、と言ってシディを拭いた。
『鉱石妖精は冬眠しなった筈なんだけど』
「冬眠する妖精さんもいるの? リボンちゃんはしないの? ルノンくんは?」
『アタシは冬眠まではしないわよ。活動的じゃなくなるくらい。ルノンは……しないんじゃない? 今日だって起きてたものね?』
球根の花妖精は結構な確率で冬眠するのよ、と言った。妖精にはだるいくらいの冬を、どうしても起きては過ごせない為である。冬眠する妖精たちが眠る場所というのがあって、春になるまで誰も近寄らないように、様々な種の妖精たちがそこを見守っている。樹木妖精でも、冬にハゲるようなのは冬眠するわね、と妖精はシディを磨きながら言った。
通年、葉を持つ木であれば大丈夫なのだが、紅葉して葉を落とすようなのはやはり冬に弱いのだった。てんで平気な顔をして飛び回っている者もいるので、どうも個体差が激しいことらしかった。ふぅん、と興味津々に頷いて、ソキはちらり、と磨かれるシディを見た。
「……シディくん、なんだかひと回り大きくなったような? です?」
『そうなのよね……。寝ながら太るんじゃないわよって感じしない……?』
「リボンちゃんが毎日せっせと削ってるのに……げせぬですぅ……?」
み、が、い、て、る、の、よ、と妖精は一言一句しっかりと発音して言い聞かせた。朝に夕に水洗いして、せっせと磨いてやっているだけである。ロゼアのハンカチで。決してやすりがけなどはしていない。必要な道具一式をロゼアに隠されたからである。なので研磨することは諦めて、せめて綺麗にしておいてやろう、と洗って磨いてやっているだけなのだ。
おかげで、朝に夕に水場に現れる妖精を見るだけで、生徒たちはささっと水道をひねってくれるようになった。先程も、妖精の姿を見て、ひとりが猛然と走ってきてくれたくらいである。躾の行き届いた結果である。妖精ががんがん蹴って蛇口をひねろうとするので、破壊防止の意味合いもあるのかも知れなかったが。手伝ってくれた褒美として都度祝福をかけてやっているので、悪いことではないだろう、と妖精は思っている。
『まあ、これだけたっぷり日光浴も月光浴もしてるんだから、多少の変化はあるんじゃない? 鉱石妖精のことだから分からないけど。起きたら羽根が増えてたりするのかしら……?』
「シディくん、五枚羽になるぅ……? それとも、六枚なの? 羽根って増えるの? なんで?」
『ソキだって髪が伸びたりするでしょう? そんな感じなんじゃない? 鉱石妖精のことなんか知らないけど』
ソキ、明日図書館へ行こうな、とロゼアが『花嫁』に囁きかける。妖精の適当な受け答えは、ロゼアのお気に召さなかったらしい。
はぁーい、と楽しそうに返事をするソキに、分かったらアタシにも教えなさいよ、とシディをがしがしごしごし磨きながら言って。妖精は一息ついて、ふむ、とシディの本体を見下ろした。うつくしく、もの言わぬ鉱石。
とうとう明滅もしなくなったので、どうも寝こけているらしい。妖精であることが失われたわけではなく、その心配もないのだ、と本能的に感じているので特別心配な気持ちにはならないのだが。羽根が増えるかも知れない、となると。
『……あら、持ち手が増えて便利になるわね?』
「あのねぇ、ソキ思うんですけどぉ、もしかして? 妖精さんの羽根を掴んだり? 引っ張ったりするのはきゅっ、きゅうあいこうどうではー!」
『そんな! 意味は! 微塵もない!』
ええぇえんもぉリボンちゃんったらまたそんなこと言ってー、ソキは図書館で調べちゃうですからねー、と言うソキに、妖精はうつろな気持ちで頷いた。図鑑、ないし文献の記述を超解釈しないよう、胸の上からでも監視していなければいけないだろう。もしも万一そんな記述があったのなら、焚書してこの世界から抹消しなければいけないことであるのだし。シディの羽根なんて便利な持ち手とか呼び鈴と一緒よ、分かったわね、と言っても、ソキは物分りのよさそうなすまし顔で頷いている。
妖精眼の調整は上手く行っているようで、眩しさや違和感を訴えてくることもない。一度の自己調整で上手く行くあたりが、予知魔術師だった。それとも、そのあたりは個人差かしら、と妖精は思案する。リトリアはなんというか、その手の調整がど下手くそに思えるからである。シディを、まぁ今日はこれくらいにしといてやるわ、と納得するまで磨き上げ、妖精は使ったハンカチをぽいと汚れ物入れに投げ入れる。
ソキの元へ戻ると、妖精の魔術師はどこに隠していたのかスケッチブックを取り出して、ふんすふんすとなにか書き込んでいる最中だった。仰向けになったロゼアの上で。なんでロゼアの上に乗ってるのかしらね、と呻く妖精に、ソキはちらっと視線を持ち上げた。自慢する口調で説明される。
「あのね? ロゼアちゃんの本が置かれてるから、寝台がちょっぴり狭いです。スペースの、節約、というやつですよ、リボンちゃん」
『本を退ければいいだけの話よね……?』
確かに、寮の備品である寝台は、ゆったりした作りと言えど一人用である。骨組み以外はほぼ入れ替えられているので、もはや原型を留めていないくらい『お屋敷』仕様にされてはいるのだが。二人用ではない。つまり、ちょっぴり狭いのである。自信満々に説明してくれるソキに、はいはいそうよね知ってるわ、と頷いて。妖精はもう一度、本を退けて寝床をあけなさいよ、と言ってやった。
ぴっかー、とソキが輝く笑みになる。分かっていた。乗っているのはソキ本人の希望であって、本だのなんだのは、それらしく聞こえる後付の理由でしかないのである。
「ロゼアちゃんすきすきぱわーでお絵かきがはかどるです。えへん!」
これだからロゼアはむっつりだと言うのだ。妖精はうんざりと息を吐いて、素知らぬ顔で読書を続けるロゼアを睨んだ。読んでいるのが黒魔術師の教本だというのがまず可愛げがないし、寝台に積まれているのが参考書である所も面白みがない。三点である。寝てる間に髪の毛でも抜いて占いでもしてやろうかしら、と嫌がらせの計画を立てながら、妖精はひょい、とソキの手元を覗き込んだ。
描き始めたばかりらしく、スケッチブックにはなにとも知れぬ、ほよほよとした線だけがいくつも引かれている。
『……なに描いてるの?』
「むむ、む……うぅーん?」
どうしてそこで、悩む声になるのか。訝しむ妖精に、ソキはふよふよと、線を泳がせ迷いながら呟いた。
「うんと……んと、んと……えっとぉ……? いれもの? かも、です?」
『……いれもの?』
「あのね、今日の試合とね、魔術を見てたらなんか……なんかね……なにか……」
まなうらに。その形が浮かんだような気がしたのだ、とソキは言う。妖精は無言でスケッチブックを見下ろした。先程よりいくつか線は増えたが、それはまだなんの形も成さず。なににもならず。ソキはやがてくちびるを尖らせ、今日はもうやめちゃうです、と言ってそれを閉じてしまった。
それが『 』であるのだと。
予知魔術師の本能が囁き告げる。
その形を淡く、甘く、蘇らせながら。