よく晴れ渡る紺碧の空のもと。観客席のロゼアの膝に座るソキは、むくれていた。ちたちたぱたたと足を揺らしながら、ぷーっと頬を膨らませる。妖精の羽根を引っ張ったり、そのまま持ち運んだりするのが求愛行動ではないと分かったのが不満なのだろう。文献にはもちろん、妖精にそのような事をしてはいけません、という注意事項として掲載されていた。
出会い頭のソキのように、羽虫を潰すがごとくぱちんと手で挟んだり、蝶を捕まえるように羽根を指で持ったりなんていうことは、厳禁。厳禁なのだ。理由は妖精が痛いからであり、呪われる可能性があるからである。よき隣人として付き合いたいのなら、一度でもしてはいけない。もしなんらかの理由があり成したとしても、事故であっても、誠心誠意謝ること。
妖精との付き合い方を説く本にも、生態図鑑にも、ちょっとした論文や日記めいた文書にも残らずそう書かれていたのだった。ごく当たり前のことである。ソキは、だってだってリボンちゃんは毎日だってシディくんを捕まえて引っ張ったりしてるですし、謝ってないですし、つまりは求愛行動のらぶらぶのいちゃいちゃしてる筈だったんですううう、とごね、結論から先に出して裏付けの為に文献を使うのは止めなさい、と他ならぬ妖精に叱られていた。
いーちに、さんし、ごーろく、しち、はち、きゅーう、じゅーう、やったーっ、とウィッシュの準備体操の声が響く中、ソキはまだ納得できない顔で、ぷくぷく頬を膨らませていた。
「げせぬです……。あの本がソキにいじわるをしたのでは……? じつは秘密にされているだけなのでは?」
『はいはい、アタシの魔術師は諦めが悪いこと! でもそんな馬鹿なことを言ってないで、そろそろ集中の準備をなさい? だいたいね、本に書いてあることと言うのは、ソキの希望を叶えてくれる都合の良いことばかりではないのよ? いい? 自分に都合が悪かったからと言って、いじわるだの秘密だの、ありもしない悪意を捏造するの辞めなさい。淑女のすることじゃないわよ!』
世間一般の常識だとして諭すより、ソキにはこの言い方のほうが受け入れられやすい。案の定、やぁんと悲しげな声をあげたソキは、淑女だもん淑女だもんと身をよじり、助けを求める視線でロゼアを見上げた。ロゼアは心得た微笑をソキに向け、淑女の行いではないかも知れないな、と囁いた。良いからそう返しなさいよなにがなんでもそう言いなさいよ、と妖精がシディを盾に教育しておいた成果である。
たまにはロゼアも言うことを聞く。妖精は満足して頷いた。ぴしゃああぁあんっ、とソキに雷が落ちる。ロゼアから言われたので、よりいっそう衝撃があるらしかった。ぷるるるるるっ、と小刻みに震えたソキは慌てて背を正してささっと髪を整えると、物分りがよさそなすまし顔で、ソキが間違っていたです、と言った。
「いけない疑いはしないことにするです……。でも、でも、リボンちゃん? そうしたら、リボンちゃんは、なんで掴んだり、引っ張ったり、しているの? いけないことなんですよ。絶対にしちゃいけないです。どうして?」
『アタシはいいのよ。悪いことだって分かってるもの』
「……リボンちゃんたら、あくです! なんというあく! わるわるさんです! いけないさんですぅー! とんでもないあくじ! やややんやややん!」
せめてもっと罪悪感を持ちやすい単語を選んで罵倒が出来ないのかしら、と妖精はソキの頭の上から魔術師を見下ろした。出来ないんだろうな、と頷く。理由はソキだからである。それ以上でもそれ以下でもない。そっと、辞めてあげてくださいね、と囁いてくるロゼアを鼻で笑い、妖精は腹ばいに転がって伸びをした。妖精の都合の良い時にシディが傍にいないのがいけないのである。つまり、問題は妖精よりシディにあるのである。
そう主張して、妖精はソキの頭の上で寝返りをうった。やはり胸の上よりは寝心地が良くない。
『胸、膝、肩、頭の上ってとこかしら……』
「リボンちゃあん。頭の上でころころしちゃだめぇ……落ちちゃうでしょぉ……?」
『視界を邪魔しないように移動してあげたんだから、これくらい我慢しなさい』
ソキちゃんの上から目線の影響って、元々のものもあるけどリボンさんのこともあるよね、ね、とナリアンとメーシャが無言で視線を交わし合う。今日も四人で一緒に観戦することにしたのである。並びはナリアン、ロゼア、メーシャの順番で、ソキの座席はロゼアの膝に固定されている。誰の為に移動してやったと思ってるんだ、と妖精はふたりを睨みつけた。
ほんと会話しにくいのでお願いします、とナリアンとメーシャのみならず、ニーアとルノン、果ては『学園』の生徒たちからも寮長あてに陳述があったので、しぶしぶ移動してやったというのに。ちっ、と機嫌の悪い舌打ちを響かせて、妖精はぺしてしと力なく、ソキの頭を手のひらで打った。
『ほら、そろそろ準備体操が終わるんじゃないの? 集中しなさいったら!』
「はぁーい」
「ねえロゼア? ところでウィッシュ先生の、あの準備体操って……」
もちゃもちゃした仕草で柔軟をする動きは、談話室でソキがしているのを見たことがある。メーシャからの問いに、ロゼアは素直な頷きで答えた。
「方々が『お屋敷』で教わる準備体操だよ。動く前にはしっかり柔軟しておかないと」
「あぁ……やっぱり柔軟体操だったんだ……?」
なんというか、ひたすらかわいいとか、癒やされるとかいう感覚が殴りかかってきて、ずっと見てるとなにをなさってるのか分からなくなってきちゃったんだよね。かわいいとか癒やされるとかいう感覚だけ残るんだけど、と言うメーシャに、ナリアンが真顔で頷いている。そうであるから、演習場に緊張感など一欠片もなかった。ほのぼのとした、まったりとした空気だけが漂っている。
はー、これでよし、とにこにこ立ち上がったウィッシュの隣では、先程からずっと、エノーラが頭を抱えて蹲っていた。あれ、どしたの、と今更ながら気がついて不思議そうにするウィッシュに、エノーラはぎこちない動きで顔をあげ、呻く。
「私、集中には適度な緊張感か、ご褒美への高揚する気持ちが必要なのだけれど……? やめてほのぼのした気持ちで殴ってこないで……? これから試合なんだけど……? どうしてくれるのよこれ」
「試合だから、一生懸命柔軟したんだろー。もー」
「あー! 分かり合えないー! でもこの分かり合えなさは知ってたわー!」
叫んで、演習場に足を突き立てるようにがっと立ち上がったエノーラは、集中集中、と言って静かに目を閉じた。頭にこびりついた和みを押し流すよう、額に手を触れさせて繰り返す。
「勝ったら陛下がお願いを聞いてくださる陛下がお願いを聞いてくださる私の女王陛下がお願いを聞いてくださるのようふふふふふ……! 靴底でも! 絨毯でも! 思うがまま! ああ、陛下……! 最近思うんだけど、女王陛下の蔑みの眼差しも相当ご褒美だけど、困って泣きそうにされるのも最高に素晴らしくない? これってもしかして困らせてしまい、困惑からの涙ぐみ、からの意識を切り替えた陛下のゴミを見るような無価値無感動の視線を頂き、踏まれたいのにどうして私と同じ目線で立っているの? まずすることがあるでしょう? 跪いて懇願なさい? と命令される流れまでのフルコースじゃないっ? め、めちゃくちゃ興奮してきた……絶対に勝たなきゃ……!」
「……俺、白雪の王宮魔術師として、陛下の為に、エノーラの足を引っ張らないといけないんじゃ……?」
ドン引きして呟くウィッシュに、エノーラがなんでよ、と訝しげな顔をしている。なんでもなにも、と分かり合えない顔をして、ウィッシュが首を横に振った。
「陛下には穏やかな気持ちで日々を過ごして欲しいじゃん……? 平和な時間を差し上げたいっていうか……エノーラはちょっと……存在としての刺激が強いっていうか、劇毒物って感じがあるし……」
「そんなことないわよ」
「えっ、その自信なんでっ? どっから来てんの……?」
さらにドン引きするウィッシュに、エノーラは私は常に自信に満ちあふれてるわよ天才だもの、といいきった。ウィッシュが厳かな仕草で祈りの形に手を組み、目を伏せる。
「同じ天才でも、アリシアはあんなに控えめな性格してるのにさぁ……?」
「錬金術師としての才能じゃないもの。そこは折り合いつけてくしかないでしょ? 私は魔術師としての天才だから理解してあげられないけど」
これが魔術師として目覚めたからこその性格であれば高慢だと思えるのだが、エノーラの出身国でもある白雪に、同僚として努めているウィッシュは知っている。残念なくらいに、これは生来の性格である。引くほど全く変わってないのよ、と幼い頃からを知る街の者が笑いながら囁くのを幾度も聞いていた。エノーラなんていうかほんとそーゆーとこあるよなぁ、とぼやいていると、もうそろそろいいかしら、と涼し気な声がかかる。
ぱち、と瞬きをして。あどけなく首を傾げて視線を向けたウィッシュは、そこにストルとツフィアとルルクの姿を見つけ出し、あーっと声を上げて手をぱちーんっと打ち鳴らした。ソキと同じ仕草だった。
「わ、忘れてた。ごめんな……。うん、いいよ。いいけど……エノーラ。手が痛い……」
「なんで何回やっても慣れないのかしらね? この兎ちゃんったら……」
「俺のせいじゃないもん。手が、ぱちーんってなっちゃうんだもん。俺のせーじゃないもん」
なでて、とくちびるを尖らせて手を出してくるウィッシュに、エノーラが仕方がなさそうな顔をしながら世話を焼いている。はいはい痛いの飛んでったでしょう試合よできるわね、と言われて、ウィッシュはむっとしながら頷いた。
「分かってるよ。試合だろ。俺は勝ったら、勝ったら……パパと一緒に暮らすんだ。砂漠の陛下にね、パパ返してね。俺のだからねって言いに行くんだ。もう決めたの。砂漠の陛下はそうだなお前のだなって負けを認める予定だから、あとは家を探すだけっていうか。白雪にしよかな、砂漠にしよかなって、迷ってて……! えへへ、大きい家にするんだ。それでねそれでね、ママとね、パパとね、毎日おはようって言ってね、おやすみもするんだー!」
「おっと……? これは私は隣国に吹き荒れる修羅場回避のためにウィッシュの足を引っ張るべき……?」
「なんでだよ。いーい、エノーラ? パパは、俺のパパなの。俺の。砂漠の陛下のじゃないの。俺が、かんよーな気持ちで、いままで、しかたなーく、貸してあげてただけなんだからな。分かってるだろ?」
えへん、と胸を張って主張するウィッシュに、エノーラはうつろな顔をして頷いた。
「ウィッシュを場外に出してあの二人と二対一は、私でもちょっとなぁ……」
「俺がえいやーっ! っとしてふたりを倒した後に、俺がエノーラを沈めればよくない? かんぺきなけいかく、というやつじゃんか? 味方同士で戦ったらいけませんっていう規約はなかったし」
「なんでウィッシュは時々そう好戦的なの? 血筋? 誰似?」
強いて言えばソキ似である。なんだあれ、という気持ちで見ていた妖精は思った。おっとりした見かけをしているだけで、気に入らないとすぐ武力行使に出るあたりが、じつによくソキに似ている。もしかして『花嫁』『花婿』は、みんなそんな感じなのではという妖精の疑惑の目を、ロゼアは微笑んで受け流した。
おにいちゃ、あっ、せんせいがんばれー、ですぅーっ、とソキが持ち込んだぽんぽんを揺らして応援する。第一試合は作ったものの置いてきてしまったので、張り切って揺らしている。がんばれー、がんばれーっ、ときゃらきゃら応援するソキはやたらと楽しそうである。魔力が輝いてるのが綺麗で嬉しくなってるんだろうな、と妖精は思った。すでに準備がされているのだ。
ふわふわと漂う、ましろいひかり。綿毛に似た魔力が、演習場を取り巻いている。こぼれ落ちたように見せかけて。誰にも気が付かれないようにして。すでに場が制圧されている。ルルクが一歩前に出て、昨日と同じ説明を繰り返す。双方が規約に同意したのを見て、ルルクが声高らかに宣誓した。
「それでは! 第二試合! ウィッシュとエノーラ対、ツフィアとストルの演習を開始します! それでは宣誓ー! 僕たち私たち俺たち君たち魔術師たちはー! 正々堂々規定に則って戦い抜くことを、世界と王と、同胞たちに誓います!」
「じゃあ、エノーラ! がんばって避けてな」
「え」
待って打ち合わせした意味から私に考えさせるのやめて、と呻くエノーラに。ウィッシュは満面の笑みで、だってほら陛下もよく言うだろ、とはにかんだ。
「手段は問わない結果がすべて。なぐりぢからの強い方が勝ち。そして勝ったらこっちのものだ、って」
「ねえ正々堂々の意味とか知ってるっ? 分かるっ?」
「闇討ちしないってことだよな? よゆーよゆー!」
誰よこんな教育施したのはーっ、と錬金術師の悲鳴が迸る中、ぎょっとしたストルとツフィアが身構えるより早く、ウィッシュは己の胸に両手を押し当てた。囁く。
「……『祝福を、祈りをここに。幸福よ花開け。いちばんの幸せ。結晶と成る思い出の形は、ここに』」
きらめく、砂のような魔力がウィッシュからこぼれ落ちる。花だ、とソキは思った。それは、ちいさな花ばかり集めて作られた花束。そこからこぼれ落ちる、きらきらとした花びら。己に祝福をかけて、発動する魔術の精度、純度をあげて威力を増す、というやり方は、教本に書いてあったからソキは知っていた。知っていたので、だから、突然あわあわとして顔を真っ赤にしたのは、そういうことではないのである。
驚いたとか、あんまりに綺麗で感動しただとか。そういうことではないのである。魔力を見る妖精の眼でも、魔術師としての瞳でも、ウィッシュの成す祝福はよく見えた。その花の形も。花の咲く、場所も。それは胸に咲いていた。『花婿』の胸に咲く花の意味を。嫁いだ『花婿』である、ウィッシュの、その場所にある花の意味を。ソキは知っているのである。
それは永遠の恋。秘めたるもの。だからこそ。ソキはちたちたあわわと真っ赤になって、ウィッシュに向かって絶叫した。
「おにいちゃんたら、えっちですうううう! は、はれんちですううう!」
砂漠の宝石にしか、通じないその、抗議めいた声が。第二試合の開幕を告げた。
魔術師の成す『祝福』は、各々の愛の形を持って顕現する。そうであるから形は様々であり目に見えないこともあり、そして言葉もひとりひとり違うものだ。リトリアのそれが、歌声を伴って世界に解き放たれるように。ウィッシュの祝福は、かつてその胸に描かれた『花婿』の花を蘇らせて現れる。それがウィッシュの魂が認識した愛だからだ。祝福と思うものだからだ。
そんなこと言われてもさぁ、と苦笑しながら、ウィッシュは静まり返った演習場でひとり、のんびりと首を傾げてみせた。
「仕方なくない? それに、大丈夫だよ、ソキ。ロゼアだって意味分かんないんだからさー、ソキがしーってしておけばいいんだからな。しーってしとこうな」
「は、はれんち……! おにいちゃの祝福ったら、あまりに、あまりにはれんちです……! いけないです、いけないですううぅ!」
「言っとくけど、ソキも多分こうなるよ。わーい、俺と後で検証しようなー」
ぴぎゃああぁああ、とソキの悲鳴だけが響き渡る。あとのすべての音は絶えていた。誰も彼もがそれどころではなく。ソキの認識が追いつくのも時間の問題だろう、と妖精は背に冷たいものを感じながらソキの目の前に立ちはだかる。視界を塞ぐことなど、妖精眼には無意味だ。しかし、妖精の眼が捉えるのは、あくまで魔術が成した魔力の広がり。魔力によって編まれる光景でしかない。
目の前の惨状は、人の目にしか映らない。ソキ、とぎこちなく呼んだロゼアが、その頭を抱えて胸元に抱き寄せる。はにゃっ、と溶けた声で喜んだソキが目を閉じてぴっとりくっついたので、もうすこし時間は稼げるだろう。ふふ、と柔らかく笑うウィッシュだけが、演習場に立っている。
「えーっと、それで……降参、する? 俺の勝ちでいい? ……だめ? だって動けないだろー?」
にこにこ、機嫌よく『花婿』は笑っている。演習場に倒れ伏す三人を順繰りに見ながら、エノーラは避けてって言ったのにさー、とのほほんと笑っている。制圧は一瞬の出来事だった。祝福を織り、ウィッシュはそこから新たに魔術を展開したのではなかったのだ。ウィッシュは祝福によって此れを成した。魔術師の祝福とは、純粋なる愛と祈り。ただしそれは、個々の認識によって全く異なるものである。
ウィッシュにとっての愛と祈りとは、胸に描く『花婿』の花。そして愛とは、暴力であり、制圧であり、隷属であり、あの日々の中に在るとされたものだった。祈りとは降り注ぐ陽の光。そこに託した思い出たち。祝福は、天からまっすぐに降り注いだ。雨のように、矢のように。呆然とする間もなかっただろう。愛と祈りによって成された、この世の中でもっともきよらかな魔力は、針のように魔術師を地に縫い止め叩きつけた。
ソキの目にはウィッシュしか入っていなかったから、全体の光景は認識しないままだろう。その視界の狭さを妖精は心から感謝した。意識があるのはストルくらいのものだろう。それも、目を閉じ息をするので精一杯のありさまだ。ツフィアもエノーラも、あまりのことに意識がない。特に、ツフィアとの相性は最悪の一言だったろう。柔らかな布に思えるツフィアの魔力が、雨のように降り注いだウィッシュのそれに、完全に地に縫い留められている。
展開する魔力ごと縫われるなんていう経験を、受け止めきれる魔術師など絶無だ。ストルが淡く意識を保ったのは、占星術師という適正がある為に他ならない。紙一重の差で、砂粒のような意識が指先に残った。しかし、それだけだ。動くことができない。すべて、もう、終わっていた。魔術師にとって、祝福は防げるものではない。それは魔術でありながら、世界に対しての愛そのものであるからだ。
魔術師は世界からの祝福、愛と祈りをもって、突然変異として目を覚ます。そうであるからこそ。愛と祈りは防げない。呪詛をもってすればあるいは軽減はできるだろうが、防ぎきれるものではないのだった。祈りの言葉を紡がせた時点で、勝敗は決まっていた。にこにこにこ、と笑いながら、ウィッシュはちょこん、とその場に腰をおろす。
「えっと、全治三日以上は反則なんだよな。それはね、大丈夫。怪我はさせてないよ。後遺症とかもない。えーっとね、暗闇でね、後ろからわーっ! ってして、びっくりさせすぎたくらいの感じ、だと思う。攻撃とかじゃないし……だから、えーっと……どうする? もうすこし待つ? 戦闘の続行とかできないと思うけど、待つくらいならいいよ。だって俺の勝ちだもん。ね?」
「……え、え? い、生きてるのこれっ?」
「そんなにひどいことしてないよー」
ふわーっ、と咲く花のように笑うウィッシュに、ルルクは青褪めた顔でふるふると首を振った。これは、そんなにひどいこと、である。魔術師が、本能的に無防備に受け入れてしまう祝福。愛と祈りのかたち、そのものを、こんなふうに暴力的に叩きつけるだなんて。見たことも、考えたこともなかった。そうしよう、と思ってできることでもない。無意識しか届かない場所で、祝福というのは形を成す。
そうであるから、此れが。これこそが、本当に、ウィッシュという魔術師が認識する、愛と祈りの形なのだ。それは、怒りと憎悪に似ている。それを、愛と祈りだ、と『花婿』は思っているのだ。心の底から。魂に刻み込むような強さで。誰も、もう、どうすることもできない所に、それがある。ウィッシュはふあふあとあくびをして、寝てるだけだよ、と繰り返した。
「びっくりはしただろうけど、エノーラもツフィアも寝てるだけ。ストルは……意識があるぶん、しんどいだろうけど。そのまま寝ちゃえば普通に起きられるよ。……おやすみしてあげようか。起きてても良いことないよ」
嫌な夢だったと思って目を閉じて、息をして眠ろうと思って。そうしたらね、すぐだよ。朝が来るよ。囁いて、立ちあがって。とこ、とこ、とこ、と歩いて、ウィッシュはストルの傍まで歩み寄る。よいしょ、と言って座り込み、ぐったりする体を仰向けに転がすと、頭を膝の上に乗せる。髪を撫でる手は優しく。突然、暴虐を成した者の仕草だとは、とても思えるものではなかった。
大丈夫、大丈夫、と撫でながらウィッシュは囁く。
「おやすみ、ストル。目の前のことを悪夢だと思うのならね、眠ればいい。優しい夢を見てから目を覚ませばいいよ。……大丈夫。起きてもね、ストルなら、寂しくないよ。リトリア呼んで来といてあげる。……なに? だから寝ちゃいなよ。苦しいんだろ」
「……ウィッシュ……きみ、が」
「うん?」
なぁに、と笑いながら、ウィッシュはストルの口元に顔を寄せた。なぁに、と囁き、問う声は柔らかい。それにこそ、苦しく顔を歪めて。ストルはうっすらとまぶたを開き、砂漠の至宝たる、かつての『花婿』たる魔術師に囁きかけた。
「きみ、の……寂しさは……苦しさは、どう、すれ、ば……?」
「……それはね、俺にも分かんないんだよ」
もしかしたらこの祝福が、もっと別の形になる日が来るのかもしれない。来ないかもしれない。愛と、祈りを、無意識が違う形をもって顕現させることが、そんな時が、来るのかもしれない。分からない。けれど。目を伏せて、花があまくほんのりと香るようにウィッシュは笑った。
「でも、これも俺なんだよ。……否定しきれない。なかったことにも、できない。俺がずっと連れて行く、俺の祈り。祝福なんだよ、ストル。ありがと。……ありがと、こんなことして、ごめんな」
「……できる、ことは」
「ないよ。ない。……ないんだよ、ストル。ごめんな。ごめんな……ありがとう。おやすみ」
優しく、優しく、髪を撫でて。ウィッシュは身を屈め、ストルの額にそっと口付けた。おやすみ、どうか良い夢を。心から祈る声こそ、祝福のように、響いた。ウィッシュはもう何度かストルを撫でて眠らせたあと、そっと傍を離れてツフィアの元へ向かう。寝てるひとに触るの良くないけど、ごめんな、と呟きながら頬に触れ、首筋や額に触れて体調を確かめ、ほわっと笑って『花婿』はちいさく頷いた。エノーラにも同じようにする。
丁寧に体調と心拍を確かめて。変調のないことを確認し、ウィッシュはすっと背を伸ばして立ち上がる。荒れ野に、たった一輪。さびしく咲いた。花のようだった。
「で、どうする? 俺以外、戦闘の続行不可能だから、俺の勝ちだと思うけど。それでいい?」
「……今のところ、そう、なる、けど。規約に反していないかどうかは、協議させてくださいお願いします……」
口に手を押し当てて懇願するルルクに、ウィッシュはいいよー、と頷いた。でもね、と魔術師は悪いことなどまったくしていない、というような顔つきで、指折り確認しながら告げる。
「規約には違反してない筈だよ。魔術を使ったし、大怪我させてないし、後遺症が出たりすることじゃないし。心配だろうから、しっかり白魔術に確認してもらって構わないけど。見てたろ? 祝福だもん、これ。攻撃じゃないよ。びっくりして疲れて、眠ってるだけだよ。ほんとに」
「……言い切れる理由は?」
「俺が学生時代に、一度も祝福、やらなかったと思う? 魔術師としての初歩も初歩、第一歩とも呼べるようなこれを? ……先生は知ってたよ。三回だけやって、三回とも、寝てただけで。体調にも、魔力的にも、なにか変異があるものじゃないんだよ。……慎重に使いなさいとは言われたけど。俺の心だから。心を……曝け出して、自分でそれを認められるようになったら、手段として行使しなさいって、仰ってた」
認めたんだよ、とウィッシュは言った。大切なものがそこにあるのだと告げる仕草で、胸に手を押しあてながら。演技ではなく、微笑んでいた。
「寂しくて、苦しくて、辛かった。あの思い出を……俺がなんでそういう風に思ってるのか、俺にもよく分からないよ。……分かる、ような、気もするけど。まだあんまり考えたくない。分からないでいたい。あれは……あれが……。でも。魔術師として、そう、なら。誰も防げないものなら、この心が俺の武器たりえるなら。否定しないで連れて行くよ」
置き去りにはしない。見たくなかったこともあるけど、それももう終わり。帰れる場所に帰って、会いたかった人には会えたから。ぎゅっとしてもらったし、と心底嬉しそうにはにかんで。ウィッシュはさてと、と辺りを見回した。演習場から向けられる視線は様々だ。恐怖、怯え、目の前のものを現実として認めたがらない瞳。哀れみ、悲しみ、様々だった。
暴虐の王はそれをひとつも意に介さず、ただ、ソキを見た。ロゼアに抱かれて、うまく言いくるめられたのだろう。ぽん、ぽん、と背を撫でられてあくびをする姿は眠る寸前のもので、ウィッシュはふ、と口元に笑みを浮かべる。見せよう、とは思っていなかった。見せたい、とは思っていなかった。けれども、いつかは知るだろう。これがウィッシュの愛と祈り。ひとが、憎悪と呪いと呼んだもの。
「……ソキの祝福はどんなかなー。俺みたいのじゃないといいなって思ってるけど、どうだろうね……」
できれば、違うものであって欲しい。普通の魔術師のように。ただ、満ちた祈りと愛だけであって欲しい。混じりけのない、無垢な、まっすぐな。人が愛と、祈りと名前をつけて呼んだもの。ソキの祝福はきっと、ロゼアの気配に満たされている。そうなら、いいな、と祈って。ただ、祈って。大丈夫だよ、ロゼア、と口の動きで『傍付き』に語りかけてから、ウィッシュは白魔術たちー、と救護班に声をかけた。
「とりあえず、ストルもツフィアもエノーラも、運んでよ。ここだと冷たくてかたくて、かわいそうだからさ。……俺はもうなんにもしないよ。だって俺の勝ちだもん。えへん!」
心ゆくまで自慢げな顔でふんぞり返るウィッシュに、己を取り戻したのだろう。いち早く正気に返った顔をして、寮長が観客席から指示を飛ばす。
「……よーし、とりあえず保護者呼び出せ保護者! 白雪の陛下と某方な! 今ならすぐ連絡つくだろ! 白魔術師は担架持ってこい担架! 運べ! 治癒能力がある者、医学の心得がある者は救護室に集合! お前もだウィッシュ! 検査を受けろ、精密検査を!」
「ええぇえぇ……。俺、お医者さま、きらーいだなー。やだやだやだやだ」
「わがままを言うんじゃない……!」
観客席の仕切りを身軽く乗り越えて演習場まで来た寮長が、おれ、おいしゃさま、きらい、ちゅうしゃとかぜったいだめだとおもう、あとにがいくすりもやだ、というかくすりがもうやだやだやだぜぇーったいに、やだ、という顔でぶーっと膨れるウィッシュに、呆れた息を吐き出して。なんの気負いもなく、いいから、と言って、その手首あたりを掴んで引いた。
「薬だの注射だのは要望を伝えておいてやる。だから精密検査は受けろ。いいな?」
「……寮長はさぁ」
その、掴まれた箇所をじっと見つめて。ウィッシュは不思議そうに、ぽつ、と言った。
「怖くないの」
「はぁ? ……いや、怖いしあんなもん乱発すんなよ? とは思うけど。やろうと思ってやったんだろ?」
うん、とウィッシュは素直に頷いた。やろうと決めて、そうした。なら、と寮長はウィッシュを、まっすぐ見つめて言い放つ。
「無差別ではなく、制御もできている、ということだ。……魔術師が最も恐れるのは、制御を失った魔力。方向性を持たない魔術の発露だ。お前のは違う。お前は、相手を選んでやった。そうだな?」
「……うん」
「過度に怖がる必要あるか? ないな?」
ほら、医務室だ。行くぞ、とウィッシュを連れて歩き出す寮長に。『花婿』はくすくすくす、と甘く、幸せそうにはにかんで笑った。その微笑みが、試合終了の合図。とりあえず治療と検査からしようねーっ、と指示を引き継ぐルルクの声が、張り詰めた緊張の糸をぷつ、と切った。
ウィッシュを含めた四人の精密検査は、昼前には終わった。告げられていた通り、なんの変調もなかった為である。三人はただ眠っているだけで、遅くとも昼過ぎには目を覚ますだろう、というのが白魔術師たちの見解だった。フィオーレも同じことを言った。白魔法使いは、ただその上で、と首を傾げながら付け加える。しばらくは魔術の効きがすごく良い筈だから、ちょっと気をつけないといけないかも、と。
その発露の形はともかくとして、ウィッシュが成したのは祝福である。それも、ひどく純度の高いものだった。それが全身を貫いたのである。悪いことにはならないけど、意図しないで効果が高くなる可能性が高いから、ツフィアにもストルにも試してもらった方がいいかな、というのが白魔法使いの診断である。できれば明日の試合の前に。対処のしやすさを考えれば、目覚めたのち、今日の午後にでも。
まかせて、と告げたのは三人の看護を受け持ったリトリアだった。リトリアははじめこそ、その目をまんまるく見開いてウィッシュの祝福に驚いていたが、内訳を聞き安全性に確認が取れると、ほっと胸を撫で下ろした。その上で、そっかそういうこともあるよね、と受け入れたのは、リトリアが愛と祈りの祝福を知る上で、少女が予知魔術師だからである。
祝詞を告げ、呪詛を囁く。それこそが予知魔術師の本質だ。それは同じもの、とされている。言葉は、現象は、それを受け取るものの意識ひとつで裏返る。意味とはひとつではない。言葉の意味は一面的なものではなくて、だから真円を描くものなのよ、とリトリアは言った。まぁるいの、玉なの。だからね、とリトリアは、ウィッシュの両手をぎゅっと握って、まっすぐに目を合わせて言い切った。
ちょっと怖いけど、びっくりもしたけど、でも。もし変わりたいって思うなら、きっと変わっていけるものだから。だってね、言葉は裏表で、まるいものだから。時に、人に、場所によって、いくつもの意味を持つ。どんどん変わっていくものだから。そうあってもいいし、そうでなくてもいい。変われるものだし、留まりもするもの。否定しても肯定しても、そこにあるもの。
だからね、上手く言えないけど。ウィッシュさんの祝福はちょっと怖いけど、ウィッシュさんは、怖くないの。試合、おつかれさま。ウィッシュさんにも、なにもなくて本当によかった。皆の看病はまかせてね、ウィッシュさんはゆっくりしていてね、と笑うリトリアに背を押されて、『花婿』は談話室へと送り出されたのだった。
もっと怖がって、駄目って言われるのかと思った、と呟くウィッシュに、保護者呼び出しでやって来た白雪の女王は、頭を抱えたままで視線を向けた。
「駄目って? なにが? 規約違反が?」
「祝福が」
「形はどうあれ、ひとの愛と祈りを駄目って否定する権利って誰かにある? 言論は自由だけど、あまり品の良い行いではないわね。……いやそんなことより、そんなことよりね……? あぁあ……そ、そんなことよりね……! そうじゃなくてねええぇ……!」
ウィッシュの悩みを、三回もそんなことより、と投げ捨てて。むくれる魔術師の前で、白雪の女王は再び頭を抱えて、机にばったりと身を伏せた。
「もうちょっと他のことを反省して欲しい……これが戦時中とか武力交戦中とか難交渉中の一手のかかった決戦だったら褒めてあげられたんだけど、うぅーんこれは……これはちょっと……えっごめんもう一回だけ聞かせてくれる? ウィッシュ。あのね、どうして、手段を、選ばなかったのかな?」
「勝とうと思って」
「うふふふふそっか。そっかぁ……そ、そっかー……」
どうしてこんなこに育っちゃったんだろう、という白雪のうつろな眼差しと呟きに、談話室の誰もが視線をそらす。試合前の激励から考えても、同情の余地はあまりなく、白雪の女王そのひとの影響である。はあぁああ、あぁあああこれどうしようかなあああぁあ、と机の上で右に左にごろごろ揺れ動いて悩む白雪の女王の隣で、もうひとりの保護者は和やかに座ったままでいる。
砂漠の筆頭はくすくすと、柔らかに忍び笑いを響かせた。
「白雪の陛下、どうぞ落ち着いてください。幸い、ウィッシュにも、誰にも怪我はなく、変調などもないと報告は纏められている訳ですから。ね?」
「……考えようによっては、私の魔術師はあなたと暮らしたくて手段を選ばなかったとも言えるのだけれど、それについての意見はなにか? ある?」
「寂しくさせていたね。ごめんね、ウィッシュ」
うっとりするような柔らかな笑顔で囁いて、砂漠の筆頭は、すこし陛下に相談してみるからね、と言った。ちがうそうじゃない、という絶望的な顔をして、白雪の女王が首を振る。
「責任を感じてくれないのかなってことなのだけれど……? 隣国の筆頭魔術師さん?」
「そうですね……。わんぱくに、かわいく元気に育ててくださってありがとうございます。白雪の女王陛下」
そんな可愛い単語で言い表して良いような惨事ではないのである。あぁああひとのはなしを聞かないんだったこの筆頭はちがうそうじゃない、と白雪の女王が手で顔を覆って呻く。それに、ぷーっと頬を膨らませて。ウィッシュは不満げに、てしてしてしっ、と足先を床に叩きつけた。
「それで、陛下? 試合は、俺の勝ちでいいんでしょう? それで、パパは俺と一緒に住むんだからな。これはもう決まったことなんだからなっ!」
「待ってね、いま言葉を纏めてるトコだからね。……うふふふふ、砂漠と全面戦争かぁ……悪くはないかな……? どさくさに紛れて砂漠の筆頭がうちの魔術師になったりしないかな? という気の迷いを殺してるトコだから……。気の迷い気の迷い迷走にも程がある落ち着いて私の自意識……! 冷静に考えて……! ……うん。やだこのひと手に負えないし……めんどくさそうだし……なによりめんどうくさそうというか爆発物みたいな気配がするし、事故物件そのものだって名高いし!」
「白雪の女王陛下に申し上げます。本人が隣にいることをお忘れなく?」
白雪の女王は、ちら、と視線をあげてジェイドを見たあと、だからなに、という顔をしてため息をついた。こんなにひとのはなしを聞かない魔術師なんて、エノーラひとりで事足りる。これはいらないかなぁ、と未練を打ち切り判断を下し、白雪の女王は姿勢を正して座り直した。勝敗のことだけど、と女王は告げる。
「反則負け、ということで処理しようかな、と思っています。意見はある? ウィッシュ。私の魔術師」
「はいはいはいはい! 反則! して! ません!」
しゅぴっ、と手をあげて主張するウィッシュに、でれでれした笑顔でかわいいな、と思っているであろう隣の筆頭を、努めて気にしないことにして。白雪の女王は頬に手をあて、ため息をつきながら囁いた。確かに、試合中には反則らしいことはしていないのだけれど。
「あなた、準備運動……? 準備体操? なんか、そういうことをしながら、祝福の為の下地をつくるのに魔力撒いていたのでしょう? 事前準備の範囲、として不問にしてあげられないこともないんだけれど……準備準備というよりは、罠を張ったに等しいし、これはちょっと……」
「……誰がそんなこと言ったの?」
「あなたの可愛い予知魔術師さんよ。あのね、あのねって教えてくれたわ」
ソキである。いつの間にかお昼前ねむりをしていたソキは、ぱちっと起きて試合が終わっていることに気がつくと、それはもう盛大に機嫌を損ねてごねたのだった。ウィッシュがあの状態から、どんな魔術を使うのかを見たかったらしい。きらきらの、ちかちかの、ふわふわの、ぴかー、なおにいちゃの魔力がいっぱいで、たくさん準備されていたです、とソキは主張した。
やぁあんなにがどうなって終わったんですううぅう、というソキの言葉をロゼアが翻訳して、白雪の女王に情報として提供したのだった。ソキがあの惨事を目の当たりにしなくてよかった、と誰もが感じた為に、今も詳しい説明はない筈である。ウィッシュがちらりと視線を向けた先、新入生たちはいつもの定位置で、ふぎゃんふぎゃんと機嫌悪くあばれるソキの相手をしている。
今後ともソキちゃんのすぐ寝ちゃう所は生かしていこうねロゼア、そのつもりだよナリアン寝ちゃうのかわいいし、そうだねロゼアの為にもいいよね、と三人がなにやら分かり合っているのも気に入らないらしい。あするうううっ、とアスルを抱き潰してもうぜんと頬をこすりつけているのを、頭の上に滞空した妖精が呆れ顔で見下ろしていた。
あれくらいなら、ソキの頬が赤くなる前に、ロゼアがうまく宥めるだろう。そう思って視線を戻し、ウィッシュは悪びれのない、あどけない仕草で首を傾げてみせた。
「陛下? 試合開始前に罠張ったらだめって規約はなかったよ。悪いことしてないよ? ところでパパは、なんで俺の試合見てくれてなかったの? がんばってたのにー!」
「ごめんな、ウィッシュ。どうしても外せない仕事が、急に入って……」
フィオーレが未だ花舞から戻らず、ラティが昏睡したままであるので、砂漠の筆頭はなにかと忙しい。王の傍らで成さなければいけないことはいくらでもあり、そうであるから、常のように国中を飛び回らないでいることも事実なのだが。白雪の女王は、すっかり幼馴染の不機嫌を見抜いている呆れ顔で、ぼそりと言った。
「砂漠の、心が狭いものね……。わざとよね……」
「俺からの意見は国内外の平和を維持するという観点から差し控えさせて頂きますね、白雪の女王陛下」
「どうせ、俺とウィッシュのどっちが大事なんだよ誰が主君だと思ってるんだ言ってみろ、とか、そういう実質一択にしかならないようなこと言われて困ってたら、まんまと試合開始時間を過ぎてて、そうこうしてるうちに呼び出されたから抜け出してきたとかそういう感じでしょ?」
国内の治安維持の観点からも俺の意見は差し控えさせて頂きますね、と砂漠の筆頭は微笑んだ。つまりはそういうことである。これが傾国の筆頭かー、うちにはいらないなー、いらないったらいらないなー、とまだ残る未練を断ち切ろうとして言い聞かせる眼差しをする白雪の女王に、砂漠の筆頭は麗しく微笑んでいる。顔がいいっ、と響く女王の舌打ち。
「とにかく! 保護者呼び出しにもなったくらいのことだし、ウィッシュは反則負け! もしくは無効試合とし、再戦はなし! これは王として魔術師に下す命令、決定事項です! 分かったっ? 返事はっ?」
「おーぼーだー! 陛下ったら、おーぼーなんだからなー! 事前準備をしっかりしただけだもん罠張ったらいけないって言わなかったのがいけないんだもん勝ったら勝ちって陛下だっていっつも言うもんー!」
「お黙りなさい、私が! 正義! です! なぜなら女王は偉いから!」
おーぼーだーっ、とぷんすか怒りながら訴えるウィッシュに、白雪の女王はなんとでも言いなさい、と言って立ちあがった。
「まったく。いい? 覚悟を決めてやる以上は、相手にも周囲にも反論の余地を残さず、動かなくなるまでちゃんと殴りなさい、といつも言っているでしょう? 余力を残して交渉の余地なんか与えるからこうなるの! あなたの負けよ。分かったわね?」
「……なるほど?」
ウィッシュがやんちゃにわんぱくに、思い切りの良い攻撃性の高い魔術師として成長した理由を見つけた顔をして、ジェイドがぼそりと呟いた。女王が判決を言い渡し、そのまま立ち去っても、ウィッシュはしばらくぶんむくれていた。頑張ったのに、俺の勝ちに決まってるのに、と文句を言う姿をしばらく眺めて、堪能してから。ジェイドは立ちあがってソファに移動すると、ぽん、ぽん、と座面を叩いて微笑んだ。
「おいで、ウィッシュ」
「ぱぱ! 俺は勝ったんだよ。ほんとだよ。ほんとなんだからな……!」
「そうだね。頑張ったのに、悔しいね。……見ていられなくてごめんね」
すぐさま隣に腰かけ、ぎゅむぎゅむと抱きつきなら訴えられるのに、ジェイドは蕩ける微笑みで囁いた。かわいいね、頑張ったね、おはなし聞かせてくれるかな、どんな風になにをしたの、報告書は読んだけどもう一回教えてみせて、と囁かれて。ウィッシュはくふくふ笑いながら、しょうがないなぁ、と甘く声を潜めて囁いた。
「あのね、しゅぴぴっとさせて、どーんっ! として、ばーん、なんだよ? すごい? すごい?」
「うん? ……うん。すごい、すごい。かわいいな、ウィッシュ。かわいいな」
「だろー? ふふー。褒めて、もっと褒めて」
そんなにかわいい擬音を使っていいものではなかった筈なのだが。わざと誤魔化している可能性があるにせよ、『花婿』の説明能力になど期待するものではない。一生懸命話そうとしてくれているか否か、ということは、また別の問題になるにせよ。遠目によどんだ気分で見つめる妖精の目には、すでにあの、ばら撒かれた悪夢のような魔力は映らなかった。
あの、心を引き裂き差し出すような、悲鳴めいたひかりはどこにもない。現場を見ていなくとも、残された魔力の痕跡や報告書から、ジェイドもそれを確かめたかったのだろう。全身をざっと確認し、周囲に魔力が零れていないことも見てとると、すこしほっとしたように気配が緩んだ。それにまたすこし、安心して、ウィッシュの気配も柔らかくなる。
ロゼアの状態で、ソキも落ち着きを取り戻すように。『傍付き』の心が『花婿』に影響しているのかも知れない。妖精には計り知れないことであるのだが。ともあれ、落ち着いたらしい。そう感じて、妖精もまた、警戒を解いた。視線をするすると下ろしていく。先程までアスルあすると拗ねていた筈のソキは、いつの間にかロゼアの膝上でくつろいでいた。
毛づくろいして満足した猫のような表情で、きょと、として、ソキが妖精を呼ぶ。リボンちゃん、なぁに、どうしたの、と呼びやう声は、いつもと変わりなく。あの光景を、ソキの本がどう記録したのかだけ確かめなくては、と思いながら、妖精は首を横に振った。いとしごの安らぎが守られたことだけを、今は感謝していたかった。