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 ソキの新たな『武器』たる深紅の本は、ウィッシュの魔術、祝福を黄金のひかり、それにより編まれた鳥籠の形として描画した。見開きの紙面には、濃淡の違う白と金の二色だけが踊っている。それは午後の陽光。透き通った硝子を通して室内に降り注ぐ、濾過されたひかり。祈りのように静謐で、願いのように音がしない。そんな色彩で、ウィッシュの魔術は描かれていた。
 絵画のようですらあるそれを、ソキは魔術式だと言い切った。計算式で、構成式。その魔術がどのようなものであったのか。常ならば言葉と数式によって表されるそれが、色彩、魔術を宿す鋼線のようにするすると踊り、形を成したというだけのことであるのだと。そう、と妖精は、ロゼアに翻訳、補足させた説明をなんとか組み立てて首肯した。否定することはない。
 本の持ち主、予知魔術師たるソキがそう言うのであれば、これはそのようなものなのだ。問題は、他の魔術師に解析できるかどうか、である。妖精は『学園』を滑空して目覚めたエノーラを捕まえてくると、ソキの本を見せて意見を求めた。錬金術師の返事は簡潔にして一言。書き換えられている、というものだった。なぜそう解析したかは自分でも分からず、エノーラは直感的にその答えにたどり着いたのだと言う。
 予知魔術としての発動を前提に、そうできるように、一部書き換えられて描かれている。ごく精密だけと、必ずしも正解だけではない。そして予知魔術だから、一部解析できない。写本とは写し取るものでありながら、予知魔術師の目を通して描かれるもの。それが妖精瞳ならなおさらのこと。魔術は魔力として正確に解析され、予知魔術として、精密に書き換えられる。
 これこそ予知魔術師の『武器』たる、本の在り方。使い方。妖精は無言で頷いて、あまり期待しないようにしながらリトリアを引っ張ってきた。予知魔術師としての共感覚は持っていたとしても、リトリアはなんというか、感覚的に不器用な面がある。今や妖精瞳を持つソキと比べても、同じような描画ができるとは思わなかった。なにより、美術的な成績はあまりよくなかった、と妖精は記憶している。
 案の定、リトリアは見開きの、そのうつくしい黄金のひかりの鳥籠を見て、困ったように首を傾げてみせた。なにが描かれているか、は分かる。どうしてそういう描かれ方をしたのか、ということも、分かる。リトリアは困り眉になりながらぽつぽつと言葉を落とし、とてもきれい、と溜息と共に囁き落とすと、紙面から顔をあげて一度、ゆっくりと瞬きをした。
「それで、あの……これを、これが……? なぁに?」
『……魔術式として、汎用性の高い記録にできる? あるいは、構成要素の書き出しができるかしら?』
「不可能ではないと思う、けど……。しないといけない?」
 後世に正確な記録を残しておくことは、とても大切なこと、とリトリアは魔術師の顔をして言った。それをしなくていい、とは言っていません。でもね、と予知魔術師は、本を閉じてソキにそれを返した。
「予知魔術としては、発動が可能、と私にも思えるくらい正確で精密に書かれているのよ。とても適切で、適正な描画だと思う。これはもう、完成された魔術式で……魔法円でもあるもの、かな。この形。このひかりと、色彩。これを胸に描けば、私たちにはあの魔術が使える。……かたちだけは」
 でもそれはむごいことだと思う、とリトリアはあどけなささえ感じさせる、無垢な声で言った。私たちが成すのは忠実な再現。再演。他の魔術ではそうではないけれど、これはあの心を、そのまま差し出すということ。私たちには痛くも辛くもない、ひとのこころを、そのまま誰かの眼前に差し出すということ。そんなことはしてはいけない。だから、他に、予知魔術師の他に、読み取れるひとがいないのなら、これはもう、それでいい。
 そうしておかなくてはいけないものだと思う。記録が必要なら、これこそが。もし後世の魔術師の目に触れることがあり、予知魔術師がいてくれるなら、それだけで意図は伝わるでしょう。これはソキちゃんの妖精瞳が捉えた、焼き付けてしまったあのひとの心。祝福と呼ばれた、悲鳴と憎悪と寂しさの。愛と祈りの魔術式。うつくしい光景。それはきっと、ウィッシュの慰めにもなるだろう。
 ソキは返された本をぎゅっと抱き寄せ、不安げなまなざしでロゼアを見上げた。すりり、と身を寄せてくっつけて、ぽしょぽしょと響かない声で囁きかける。
「ロゼアちゃん。ソキは、いけないことをしたの……?」
『ソキ。たまには周囲の声の響きだけじゃなくて、単語とか、意味とか、内容を聞いて判断しなさいね……誰も良いとか悪いとか言ってないでしょうが……!』
 額に手を押し当てながら、なんとか怒鳴ることは堪えて呻く妖精に、ソキはむむっとくちびるを尖らせた。『花嫁』は会話する人々の声音、抑揚で周囲の機嫌の良し悪しを判断する癖がある。ロゼアが常に穏やかに優しく話すのは、その為である。ソキはだってだってと不安いっぱいに辺りをきょときょと見回して、深夜の、人気のない談話室を寂しがった。
「もう夜だもん……。こんなに夜に、しんとしながらおはなしするんだもん。いけないことに違いないです……。リトリアちゃん、エノーラさん、夜に起こしてしまってごめんなさいでした。ソキ、いけない?」
「いいのよ。私の夜はこれからというか……まぁ、日中寝てたし、魔術の解析とかしたいなって思ってたから、大正解がもう書かれてたならそれはそれで睡眠時間が増えるだけだもの。……リトリアちゃんはなんで起きてたの? いつもはもうおねむの時間でしょうに」
「こっ、こどもあつかいしないで……! ストルさんとね、ツフィアとね、おはなししていたの」
 つん、とすまし顔で言うリトリアに、エノーラはなぜその状況で少女が抜け出せてきたのかを考え、うつろな気持ちで微笑んだ。まず間違いなくストルが少女との逢引を企て目論み、察したツフィアが己を含んだお茶会になだれ込ませ、互いに牽制していた所で妖精からの呼び出しがかかったのだろう。行っておいで、とふたりは快く送り出したに違いなかった。
 副音声として、戻ってくる間に決着をつけておくから、というのを気取らせもせずに。まったく、あんなことの後によくもまぁ争う元気があるものだこと、と息を吐き、エノーラはそわそわと戻りたがるリトリアを、意地悪な気持ちなく引き止めた。過去の経験から考えても、もうあと十五分も後であるなら、ひとしきり争ったふたりが一息ついて妥協点を見つけ出し、落ち着いた頃に戻れる筈である。
 今はまだすこし早い。リトリアには笑顔で、机の下で互いの足を蹴りかねない。あのふたりは仲が悪い訳ではなく、ただ単純に反りが合わない。決定的に合わない。それだけなのである。ただ、リトリアを間に置くと恐ろしいほど結託して、ニコイチくらいになるだけであって。世界平和の為にリトリアを置いておくべきか、それとも三人をそれぞれ独立させておくべきか、未だに協議されているのはその為である。
 え、えっと、と戻りたがるリトリアに、エノーラは笑顔でとっておきの一言を差し出した。すぐに戻ってしまうのも、まぁいいんだけれど。
「すこしくらい焦らした方が、駆け引きには良いと思うわ?」
 なにが、とは、言っていない。しかし、エノーラの手の中でころんと転がったリトリアは、頬を赤く染めながら、もじもじとロゼアに申し出た。
「ロゼアさん。あの、ちょっと、もうちょっとだけ、おはなしして行ってもいい……?」
「はい、どうぞ。いいよな、ソキ?」
「もっちろんですううう! ソキ、リトリアちゃんのおはなし、ききたいですうううう!」
 目をきらきらさせて興奮するソキの顔には、恋愛のおはなしに興味があります、とでかでかと書かれている。私もなにか話してあげましょうか、とエノーラが告げれば、結構です、とロゼアから断りが来る。一秒もなかった。なんなら語尾も被っていた。ええぇ、なんでよ、と不満そうにするエノーラに、ロゼアはソキを上手にリトリアにだけ集中させたあと、呆れ顔の妖精にも言い聞かせるように、はっきりしっかりと言い切った。
「先輩のお話は、可愛くなさそうなのでお断りします」
「ロゼアくんが……! 珍しくかわいい言い方で断ってきた……!」
「先生から、倫理観のかっ飛んだ博愛主義者になりたくなかったら、エノーラとフィオーレの恋愛話だけは聞くな、とも言われていますし」
 心当たりのある顔で、エノーラがすっと視線を反らした。フィオーレならそこで、えーそんなことないよー、などいう所であるから、まだ可愛げがある、と妖精は思う。内情はちっとも可愛くないが。ああ、やっぱり事実なんですねお引き取りください、とばかり笑顔になるロゼアに、エノーラはえーっと、と視線をさまよわせながら言った。
「わ、私の運命って、ちょっとたくさんあってね……? 常にあいだ繋ぎの遊び人なフィオーレとはその、違うっていうか……?」
「分かりました。お引き取りください。夜遅くにありがとうございました」
『なにを言っても墓穴よ? どうしてそこから掘ろうとするの? って感じ』
 くっ、と胸を手で押さえてエノーラは呻いた。ソキちゃんときゃっきゃうふふコイバナしたい、と正直に申告するも、聞いているだけで口を開かないでいてくださるのなら、とロゼアが告げる。エノーラは諦めきれない表現で沈黙したあと、はっと目を覚ましたような悩みの晴れた顔つきで、これはまさか、と拳を握った。
「噂の、美少女の間に置かれた花瓶プレイ……っ? や、やややややったー! 最高ー! ありがとうロゼアくん、ありがとうー! 大丈夫私! 一言も話さないわ! 花瓶だから!」
『アンタ本当に手強い変態ね?』
 しかし、妖精からの罵倒すらご褒美である。エノーラを諦めさせたりくじけさせたり、退けるのは非常に困難である。ロゼアの膝上できゃっきゃとはしゃぎ、これっぽっちも一欠片さえエノーラたちの話を聞いていなかったソキとは違い、リトリアからは困惑と怯えさえ入り交じる視線がそろそろと向けられる。エノーラは気にしないで、と言い切って微笑んだ。
「大丈夫よ、口挟んだりしないから。私のことは花瓶だと思って。さあ!」
「分かりました。近寄らないで下さいますか」
 ソキ、リトリアさんともうすこし話すならお部屋に戻ろうな、一緒に来て頂こうな、とロゼアが言い聞かせ、立ち上がろうとする。そこに、苦笑しきった声がかかった。
「戻らないと思えば……エノーラ、感染するから距離を置いてくれるか?」
 リトリア、こちらへおいで、と談話室の戸口から呼ぶのはストルだった。ツフィアの姿はない。ひとりきりである。不思議そうに目を瞬かせて首を傾げ、立ち上がったリトリアに、ソキはひどく残念そうな目を向けた。まだ、ちゅうとかぎゅうとかどっちか本命とか二股とか聞けていないのである。やぁんやあ、とむずがるのをリトリアが宥めていると、嫌そうな顔を隠しもせずにエノーラがため息をついた。
「待って、ストル? 私の扱いなんなの? むしろ天才が伝染するって有難がられる所じゃないの? 喜んで?」
「性癖と性格、天才を天秤に掛けたとして偏りがありすぎるだろう?」
「……まあ、そうよね。私ったらちょっと天才が過ぎるものね……」
 ストルは否定も肯定もせず、微笑んでリトリアがやってくるのを待っている。少女はソキがごねごね、今度はぜったいひみつのおはなしをしてくれなきゃいやですよ、だめですよ、やくそくなんですよ、と告げるのに笑いながら頷き、小走りにストルの元へ戻ってくる。ストルさん、と幸せそうに笑う、甘い声。
「お迎えに来てくれたの?なぁに? なぁに?」
「もう遅いから、眠りなさい。……部屋で、ツフィアが待っているから、送ろう」
 事案かしら通報が必要かしらと悩んでいたエノーラの視線が、一気に生ぬるくなってストルに向けられる。つまり、夜の護衛役に負けたというだけである。リトリアは嬉しそうにもじもじして、ツフィア一緒に寝てくれるの、とはにかんでいる。これを自室に連れ込まずに送らなければいけないのはなんの拷問だ、と苦慮している顔つきで、ストルがリトリアに手を差し出す。
 ためらいもなく。きゅっ、とばかり手をつなぎ合わせて、リトリアは朝露のように輝く瞳でストルのことを見上げた。
「あの……あのね、ストルさん。あのね?」
「うん?」
「あとで、あの……おやすみの、あの、おやすみの……ぎゅうとか……して……」
 ストルは天を仰いで数秒沈黙した。リトリアが甘えてくることになったのは喜ばしいことこの上ないのだが、理性にやすりがけをしてくるのでなんというか、日々試されている。ふ、と笑って、ストルはリトリアの手を引いた。
「抱き寄せるだけでいいのか?」
「えっ……えっ、えっ……!」
 いやこれはやっぱり事案では、ツフィアを呼んでくるべきでは、と見送るか止めるか悩むエノーラの耳に。えっと、じゃあ、あの、と照れきったリトリアの声がやんわりと触れていった。
「……あの、ね。おでこにちゅっとして……?」
 おでこだけっ、あとはだめっ、恥ずかしいし淑女としての忍耐と慎みを持ちなさいってツフィアがいったもの、だからだめ、でもちゅっとはして欲しいからおでこなの、ね、ねっ、と甘く強請るリトリアの声が、遠ざかりながら響いていく。哀れみのような酷さを感じながら、あっこれ大丈夫だわ、という視線でエノーラは頷いた。
「全部だめよりよっぽどキツくない……? リトリアちゃんたら小悪魔……」
「りっ、リトリアちゃんたらー! ソキの知らない間にこあくまけいじょしになっていたですっ? いややゃややん! ソキもする! ソキもするー! こあくまけーじょし、ソキもするですうううぅう!」
「うん、うん、そうだな。さっ、ソキ。眠りに行こうな。今日はすこし夜ふかしだったからな」
 じたたたたたたっ、ともちゃもちゃするソキを抱き寄せ、ぽん、ぽん、と背を撫でて宥めながら、ロゼアも談話室を出て行く。あー、せめてその抱っこを止めてから小悪魔系だのなんだの騒げって話よねぇ、と呻きながら妖精が後を追った。声はなく。ちらり、と振り返った視線が、アンタも寝なさいよ、と告げていたので。おやすみ、と苦笑して、エノーラはその騒がしさを見送った。



 おはよう、と色とりどりの声が朝の食堂に響いていく。生徒たちのみならず、早くから『学園』にやってきている王宮魔術師たちの、眠たさを残す笑い声。おはよう、ひさしぶり、元気にしていた、そっちこそ。今日の試合は、予定のとおりに、昨日の影響は特になく、昨日はすごかったね、怖かったね、でも辛かったろうね、本人にこにこしてたけど、それは悲しくなかったってことじゃないし。
 そっか、そうだよ、そうだよね。声が響いていく。言葉が空気を揺らしていく。恐怖も不安も消えずにあった。しかし、それは排斥ではない。忌避ではない。すごかったけど、怖いから、無差別ではないから、制御はできているものだから。さて、どうしようか、という前向きな意思。各々がそれに、どう向き合って行くかという悩み。それは『学園』特有の、あるいは魔術師に与えられた稀有な特性のひとつだった。
 あるものを、受け入れる。混乱しても、否定せず。不安に思っても、排斥はしない。ひとの心がどうしても、拒否してしまうことはあるだろう。呪わしい、厭わしいと思ってしまうこともあるだろう。けれどもそれは、個々のこと。個人の感情と判断を、全体のものとして共有しようとしてはいけないよ、と魔術師たちは教わって育つ。自分の意思と感情を、自分ひとりできちんと収めること。制御すること。
 抱えること。思考に責任を持つこと。なににしても。それを万全にしてこそ、魔術、魔力の制御も成り立つのである。ウィッシュはそれを成し遂げ、『学園』を卒業した魔術師だ。その認識を改めて思い出せば、過度の恐怖や混乱は広がることはなかった。そして、なにより。朝、眠い目を擦りながらやってきた生徒や王宮魔術師たちは、食堂に入ってあたりを見回すなり、眩しさに呻き、あるいは胸を手で押さえてうずくまった。
 寝起きには脳が疲れる、受け止めきれない光景というものがある為である。その一角はきらびやかだった。華やかで、壮麗ですらあった。まず端から。席についていたのは、柔和な笑みを浮かべた砂漠の筆頭であり、その前には頭を抱えて突っ伏し、動かないフィオーレの姿があった。フィオーレの隣には手を祈りの形に組んで動かないレディがいる。魔法使いはどちらも、ぴくりとも動かないままでいる。
 レディの前、ジェイドの隣には頬をぷーっと膨らませたウィッシュの姿があった。ぱぱは俺のっ、おれのなんだからなっ、と朝から主張と威嚇に余念のない『花婿』の隣には、ソキ。ソキを膝に乗せたロゼアがいる。ロゼアの正面にはナリアンが、メーシャと並んで座っていた。ソキはもちゃもちゃ、ウィッシュにちょっかいを出したり、反対側のリトリアに話しかけたりと忙しい。
 予知魔術師たちがきゃっきゃうふふとしているのを、リトリアの隣に座ったストルと、さらにその隣からツフィアが見守っていた。片側に、砂漠の筆頭ジェイド、ウィッシュ、ソキとロゼア、リトリア、ストル、ツフィア。その向かいに、フィオーレ、レディ、ナリアン、メーシャがいて、ストルとツフィアの前は空席となっている。その、きらびやか故の空席に。
 ソキが居るからという理由でやってきたルルクが座り、ウィッシュがいるから様子を見に来たエノーラが椅子を引いて腰掛けながら、うわっ、と心からの呻きで首を振った。
「なにこの、顔面偏差値の暴力席……。なんで集めるの? ツフィアったら、趣味が前衛的にすぎない? それとも、朝から脳に刺激を与える目的とかそういうの? 今日のパンツ何色? 黒がいいな! あ、遅くなってごめんね。おはよう!」
 ツフィアは、この天災的な天才に一欠片残った常識的な所がなければいくらでも無視していたのだけれど、という顔で息を吐き、おはようエノーラ、とだけ受け答えをした。それ以外の全てを黙殺したツフィアに、懲りず諦めず不屈の笑顔で、エノーラは黒がいいなっと元気よく言い放つと、次に不機嫌そうなウィッシュにおーい、と手を振った。
「ウィッシュ、おはようー。機嫌悪そうにしてても美人なだけだから朝から目が疲れる訳なんだけど、どうしたの? ちょっとその美人控えられない?」
「おはよー、エノーラ。……だってさぁ」
 というか、おれがびじんなのはあたりまえのことなんだからなっ、と言わんばかりのぷんすかした顔でくちびるを尖らせて。ウィッシュはじとーっ、とばかりにフィオーレを睨みつけた。
「俺は、パパとママと一緒に! ご飯を食べようと思ってたのにさー! フィオーレがパパに用事を作らせたから一緒じゃなくなった……増えた……。いけないと思う……」
「用事? ……あぁ、砂漠の王陛下から、なにか?」
「そうだよー! なんかな、なんかなっ、フィオーレが逃げたりなんかしないように、なんか、なんかしないといけないんだって! ばかー! 俺のパパなんだからなー!」
 よーし今日も健やかになにひとつとして分からなかったぞー、とそのことをいっそ楽しんでいる笑顔で、へー、とエノーラは頷いてやった。とりあえず同意さえしてやれば、いったん大人しくなると知っていたからである。ウィッシュはぷんすかぷんすかしながらフィオーレにばかーっ、と言い放つと、でれでれするジェイドの腕に、びとんっ、とばかりくっついた。
「砂漠の王陛下は、パパのことを使いすぎなんだからな……! 俺のなのに、俺のなのにっ……! そうだよな、パパ!」
「そうだね。ウィッシュはかわいいな。……可愛い可愛いウィッシュ。ぷーっとしてても可愛いな」
「うわ筆頭の語彙がぱぁんしてる……こわ……」
 全力で引いた呟きをもらしたフィオーレに、ウィッシュからばかーっ、という声が飛ぶ。どうも、そのばかーっ、の声が威嚇であるらしい、とエノーラは気がついた。悪口の語彙が乏しいにすぎる。まあ豊富になっても嫌だからほっとこっ、と頷いて、エノーラは同僚から視線を反らしておくことにした。巻き込まれると長い、かつ、面倒くさく複雑な気しかしなかったからである。
 錬金術師は平和な場所を探して視線を彷徨わせ、ソキの上空でふよふよと漂っている妖精に気がつくと、おはよう、と声をかけた。おはよう、と苦虫を噛み潰した顔つきで、妖精がうんざりと言葉を響かせる。
『朝からなんなの集合するんじゃないわよって思ってたけど……アンタたち、なんでここから増えるのよ……。勇気がありすぎるわ』
「えっ、いやだって私の同期であるツフィアと、リトリアちゃんとソキちゃん、ルルクまでいたら来るでしょ? 同僚もいるし」
 付け加えられたウィッシュ以外は女子である。歪みなくて、いっそ安心する。ルルクはエノーラの会話に名が出たことで幸せそうに口元を綻ばせていた。
「ルルク、そういえばアリシアちゃんは? 今日は……本当に司会? 審判? 頼んだの?」
「はい。工房に寄って精神集中したら来るって言ってたので、もう少ししたらかな、と……あっ、朝食どうするのか聞き忘れた! 席がないから……来たら、私は離れますね!」
 内気で控えめ、かつ引きこもりの長いアリシアが、審判を引き受けてくれたことが奇跡である。それは精神統一も必要だろう。事情を知る魔術師たちがそっと祈りを捧げる中、エノーラは無理そうだったら声をかけてね、とルルクに言った。代理するくらいの慈悲はある。相手が女性である限り。ルルクはそんな周囲の反応にくすくすと笑いながら、はぁい、と甘い声で返事をした。そこに確かな信頼がある。
「でも、どうか皆さまご心配なく! アリシアはやればできる子なんで!」
「あっ! ルルク先輩ったらぁ、おはようございます、ですよ。今日は試合なの? 頑張ってくださいですぅー!」
 ようやく気がついたソキがほよほよと応援の声を漂わせるのに、ルルクはうん、と幸せそうに頷いた。
「大丈夫。怪我しないように頑張ります! ……というか、勝ったらなんか貰えるんだっけ……?」
「し、知らなかったんですか……っ?」
 思わず声をあげたメーシャと、驚きに目を見開くナリアン。長机に同席した者たちから一斉にぎょっとした視線を向けられて、ルルクは気負いなく、あっさりと頷いてみせた。
「うん。……いや、知らなかった訳じゃないんだけど。そう言えば、そんなこと言ってたなー、くらい?」
「先輩はどうしてお申込みを……?」
「お祭りとか騒ぎとかに乗っかって生きて行きたい」
 メーシャの問いかけに、ルルクはきりっとした表情で言い放った。つまりは勢いである。強い希望や願いがあってのことではないのだった。えーっ、じゃあ俺の願いごとあげるから叶えてよー、とちゃっかり便乗しようとするウィッシュに、ルルクはしかし笑顔で首を横に振った。
「それはちょっと……後々めんどくさそうだから」
「ルルクが正しい」
「おーぼーだー!」
 横暴でもなんでもない。エノーラはそっと笑みを深めて、あれ無視していいから、とルルクに囁いた。たぶん、馬鹿と横暴くらいしか悪口の語彙がないだけである。心から和んだ顔つきでエノーラの声に頷き、それはそれとして、とルルクはようやく、眉を寄せて願い事について悩みはじめた。
「特にないんですよね……。いや……? いやごめんなさい待って……? なんでも……? なんでも良いって私のことじゃなくても、いいんじゃ……?」
「ロゼアちゃん。なんだかじゃあくなよかんがするです。いくないです!」
 すぐさま報告をするソキに、ロゼアがそうだな、と同意して立ち上がる。戦略的撤退の為である。それでは失礼致します、と言うロゼアにぎらりとした目を向け、ルルクは決めたーっ、と言って立ち上がった。
「ソキちゃんとリトリアちゃんに変身魔法少女してもらって! 絵に描いてもらって後世に残そう! 後世というか私の部屋に! 飾ります! そしてロゼアくんナリアンくんメーシャくんには! 似合わない女装を! して! もらいまーす! いえーいっ!」
「あー! このひとどうかしてるー!」
 ナリアンの渾身の叫びが食堂に響き渡る。メーシャが柔和な笑みのまま、首を傾げていまなんと、と呟く。ロゼアが『お屋敷』にルルクの世話役合格取り消しの嘆願書を出そう、と決意する中、ルルクはやったーっ、と嬉しそうな声をあげる。
「念願の! 変身魔法少女! やったー! えっ、ロゼアくんナリアンくんメーシャくん待っててね! 超特急で衣装部に連絡してくるから! 前々から美青年に女装してもらいたいとかスカート履いてもらいたいとかいう需要があってね! ミニとかロングとかタイトとか! 半ズボンとかキュロットとかでもいいかな! 安心してね各種取り揃えてある筈だから! 楽しみだね!」
「……え? 似合わない女装を……? する……?」
 ようやく、意味が染み込んで来たのだろう。なんで、と言わんばかり繰り返すメーシャに、ルルクは輝く笑みで言い放った。
「似合う女装は派閥が違うから」
「はばつ」
「私は男子に似合わない女装をしてもらいたい派です! 似合わない! これじゃない! でもそれがいい! そんな気持ちでいっぱいになりたい! 似合わない女装最高ー! あっ安心してね! リトリアちゃんとソキちゃんには、ふりふりひらひらふわふわきらきらの、はちゃめちゃに可愛い衣装案を提示するから! とりあえずすぐに用意できるのは百案くらいなんだけど、選べなかったらまだまだあるから……!」
 えっ、とリトリアは泣きそうな声をあげて、ストルとツフィアに助けを求めた。話しかけられていることは分かるのだが、なんというか、なにひとつとして言葉の意味が拾えない。
「えっ、変身魔法少女って、あの……あの……む、むかしやった、あの恥ずかしいやつ……? よ、よく思い出せないんだけど……」
「リトリア、安心なさい。絶対にころ、倒すわ」
 笑顔で囁くツフィアの前で、ストルが額に手を押し当てて呻く。
「まだ生き延びていたか、夢と浪漫部……!」
「あーはははは! 過去には頭痛胃痛心の痛みなどを感じる恐怖があった気がするけど! それを今私は乗り越えた! 大復活、わたしー! ひとの夢と浪漫は! 滅びません! 何度でも蘇っていくのだからー!」
『馬鹿なの?』
 妖精はうんざりと呟き、目をぱちくりさせているソキの元へ降下した。
『さ、部屋に帰って観戦の準備しましょ。勝敗はもう決まったようなものだけど』
 ストルとツフィアが、かつてない本気の顔をしているからである。勝ち目があるとは思えない。しかし。妖精はちら、と砂漠の筆頭を見て思案した。この男がどう戦うのかが全く分からない。数分保ってくれれば、ソキのいい教材になるのだけれど、と考える妖精に、蜂蜜の、ほよほよした声が囁きかける。
「りぼんちゃ?」
『はぁい。……なによ。ご機嫌ね?』
「うふん! ソキ、いーことを聞いちゃったんですけどぉ!」
 妖精はよどんだ気持ちでソキを見た。まさか、と思ったのだが。ソキの目がきらきらしている。今の流れのいったいなにに、と戦慄する妖精に、ソキはロゼアの腕の中でよぉーくふんぞり返って、楽しそうに言った。
「ソキ、ロゼアちゃんの女装、みたい!」
「……ろ、ロゼアー! 息してロゼアー! ロゼアーっ!」
 遅れて。えっロゼア女装するの、とびっくりした声で言ったウィッシュに、ロゼアはしませんストルさんツフィアさんよろしくお願いします、と呻き。その絞り出したような声を、砂漠の筆頭の爆笑がかき消していった。第三戦。開始の朝のことである。



 ソキはいくらロゼアが説得しても、ナリアンとメーシャが懇願しても泣きついても、ぴかぴかぺかかと光る笑顔でやんやっ、と言って聞き入れなかった。どうしてもロゼアの女装が見たいらしい。演習場に移動する道すがら、なんでなのよ、と妖精は頭を抱えて考えた。理由がある筈である。恋しい男の女装に執着する理由なんてものが妖精には理解できないのだが、相手はソキである。
 そんなことで、もしくは、そうだった、と思ってしまえような、場外の遥か上空を斜め上にかっ飛んでいくような理由が、必ずある筈なのである。しかしソキはなにを言っても聞いても、やんやっ、とぷいっとするか、ソキはロゼアちゃんの女装が見たいとごねるだけで、妖精や三人が望むなにかしらの言葉を告げることはなかった。
 ソキだけがきゃっきゃとはしゃぐ、葬列のような空気を引き連れて観戦席に腰を下ろす。あー、と三者三様の、呻きがこぼれ落ちるに従って、妖精は気がついた。ソキはそもそも、好みの男よりも好みの女の方が好きである。総合的にはロゼアが常に一位をさらっているので分かりにくいが、好みの女の方がソキはきゃっきゃうふふもじもじする。
 まだ疑問まみれであってもその推論を口にすると、ロゼアは無言で額に手を押しあて、ソキの笑顔がぴかーっ、とした。そのまま、待てど暮せど変化がなく言葉もないので、どうやら正解であるらしい。ソキ、と弱々しくロゼアに呼ばれ、『花嫁』はやけに自信に満ちた表情で、力強く、こっくりと頷いた。
「ソキ、とても楽しみにしているです! とってもです。もちろん、普段のロゼアちゃんも、とっても素敵ですよ。とってもですよ! でもね、でもね、きっと、ライラさんに似てる仕上がりになると思うですううううきゃあーん! 楽しみたのしみですううう! ルルクせんぱーい、頑張ってくださいですー! えい、えい、おー、ですー! ソキ、めいっぱい応援しているですぅー! リトリアちゃんごめんなさいですぅー!」
『ねえソキ? ルルクが勝ったら、ソキはリトリアと一緒に変身魔法少女なのよ? 分かってる?』
 妖精とて、その変身魔法少女なるものには詳しくないのだが。リトリアが昔の記憶を恥ずかしさで掠れさせ、ストルとツフィアが殺意に満ちるような代物である。ろくなものではない。ソキはきょとんとした顔で首を傾げると、へんしんまほーしょーじょ、とたどたどしく繰り返した。ナリアンとメーシャが天を仰ぐ。まさかとは思うけど、と妖精は羽根をゆるりと動かしながら問いかけた。
『もしかして……いやもしかしないわね……? ソキ。また、自分に都合のいい所だけ摘んで聞いてたのね? そうなのねそうでしょう!』
「ふんにゃぁ……? ソキ、しーらーなぁーい!」
『知っておきなさいよ自分にも被害が来るって話なのよこれはーっ!』
 特大の雷を落として怒鳴りつける妖精に、ソキはいやあぁんっ、と怯えた声を出してロゼアにひっついた。
「ソキはちゃんと、ルルク先輩にもやんやってするもん。ルルク先輩は、ソキのやんやを駄目ししないに決まってるもん。なぜならソキのやんや! ソキのやんやですよぉ? ルルク先輩はぁ、ソキの世話役資格を持ってるさんなんですから、これは絶対なの! だからソキはやんやするから大丈夫なの。分かったぁ? だから、ソキはしないの。安心で安全なことなの。もう決まってるですぅ」
『……って言ってるわよ、ロゼア?』
「ソキ……。ルルク先輩は外部の訓練生だから……」
 よくわからないです、という顔をしながら、ソキは自信満々にこっくりと頷いた。大丈夫らしい。一回でも二回でも痛い目に合いなさいよなぜか学習しないけどアタシは今度こそを諦めないでいるわ、と告げる妖精に、ロゼアは困った顔をして『花嫁』を抱き寄せた。ソキは幸せそうにくしくしとロゼアに体を擦り付け、弱る『傍付き』の頭を撫でている。ご機嫌である。
 ついうっかり、もうソキがこんなに機嫌よくしているのだからそれでいいのでは、と思いかけた己を頭の中で殴り倒し、妖精はちらりと演習場に目をやった。ルルクとジェイド、ツフィアとストルが、それぞれ準備運動をしている。朝食中に全体に通達が行われた新たな規約により、開戦前の戦闘準備、それに類する行為の一切が禁止された為、あれは本当にただの準備運動だろう。
 ソキもロゼアの膝でちたちたしながら、昨日とは違うですー、と言っている。妖精の目にも取り立てておかしな魔力は見つけられないので、不正は行われていない。ストルとツフィアがルルクを見据えながら、ぽんぽんと言葉を交わし合っている。途切れ途切れに、一撃で、逃げられないように、確実に、必ず、などと聞こえてくるので、ルルクの命は風前の灯である。死にはしないと思うが。
 こんなすごい自業自得も久しぶりに見るわ、と思う妖精の眼差しの先。しかしルルクは、けろっとした顔でジェイドと話し合っていた。ものすごい勢いで単語が交わされているストルとツフィアとは違い、こちらはややのんびりとした、牧歌的な雰囲気すら漂わせていた。双方、笑顔である。妖精はそっとソキの頭上で対空し、いついかなる時でも即座に、人の目の視界を隠す準備を整えた。先日の時のように。
 まだ妖精眼に慣れないソキには、それで十分な目隠しになる。魔術師としての成長を考えれば、全て見届けさせるのが最良である、と分かっているのだが。心を引き裂くような衝撃を糧にせずとも、機会はまた巡ってくるだろう。だんだんと緊張していく演習場の空気を感じ取って、ソキがぱちくり瞬きをする。
 なぁに、どうしたの、とあどけない声が尋ねかけて。響く前に、きゃああぁんっ、と幸せそうな歓声に変わる。
「あー! アリシア先輩ですぅー! せんぱーい! 審判頑張ってくださいですー! ルルク先輩にはぜひとも勝ってロゼアちゃんの女装をお願い致しますですうううぅ!」
 一瞬のどよめきに演習場が揺れ、ロゼアにはもれなく同情の視線が向けられる。いつの間にかやってきていたアリシアはソキの声に笑顔で手を振りかけ、あげた手をそのまま額に強く押しあてると、呻きとも泣き声ともつかない声で幼馴染をにらみつける。
「ルルク……! あなた、あなたはまた、ひとさまにご迷惑を……!」
「勝ったらって話だからね、アリシア。つまり! まだ! かけてない!」
「これからかけるのでしょう……! ああ、もう、なんてことなの……」
 目を離すのではなかった、と嘆くアリシアも受け答えをするルルクも、勝利を前提として話している。思わず苦笑するストルとツフィアに気がついたのだろう。アリシアは、あら、と言って恥ずかしそうに頬を染め、背を正してから一礼した。
「おはようございます。本日はよろしくお願い致します。……怪我に気をつけてくださいね」
「えっ、アリシア。私には? 私にも怪我の心配して? ねー、心配して?」
「ルルク。もう。いい? 大怪我をさせてはいけないわよ。いくら白魔術師たちが待機しているからと言っても、これは試合なのですからね。返事は?」
 はーい、とルルクがのんびりとした声を響かせる。傍らでは砂漠の筆頭が、口に手を押し当てて爆笑を堪えていた。その頭に、ふこふこした白いものが乗っかっている。美丈夫の頭の上には中々乗っていないであろう、綿毛めいたひかりだった。妖精さんですぅー、とソキがきゃあきゃあはしゃぐ。
「ジェイドさんも、やっぱり、ソキと一緒の妖精さんの魔術師なの? そうなんです? きゃぁん! 楽しみですううう! ……うふん、それにしてもぉ、アリシア先輩おめかしさん! すばらしことです! これは、はなまるなのでは?」
『ソキは本当になんていうか、好みの女には敏感よねぇ……』
 うんざりする妖精は、ジェイドの頭の上に乗っかってふこふこしている幼い同族を見つめ、かすかな違和感に首を傾げながらも、いったんアリシアに視線を移した。女性は、一見して分かる正装に身を包んでいた。魔術師としてのそれではない。ローブこそ羽織っているが、着ているのは職人が授賞式に参加する時に身に着けるような、華やかでしっかりとした仕立ての服である。
 薄化粧を施した顔つきは凛々しく、遠目にもうつくしかったが、風貌よりも人目を引いたのは、アリシアが履くその靴だった。青く彩色された革靴である。形はどこにでもあるようなものだ。しかし、はっと目をひく色彩をしている。落ち着いた、黒と紺の服を着ているから、なおのことその鮮やかさが目を惹いた。くらやみの中に、その青さだけが鮮烈に切り込まれている。
 ただ青いだけではない。薄く透明なまでに希釈された、白金。濃淡の異なる蒼と碧が、爪先から踵までを揺らめくように施されている。足元に、嵐の去った青空を履いている。そういう印象を受ける靴だった。ルルクは満足げに、アリシアの頭から足元までを見つめると、無邪気な笑みですっごく好き、と喜んだ。その評価を与えられることを知っていた顔つきで、それでいてはにかんで、アリシアはありがとう、と囁く。
「突然だから間に合わないかと思ったけど……」
「絵付けもしたの? 色乗せるの珍しいね。でもすごくすごい! 好き! 青いのきれい! 好き! 青いの色合い違うのすごい! きれい! 好き! アリシアすごい! 頑張ってくれてありがとう! 好き! 新作見られて嬉しい! 素敵! すごい! 好き! 大好き! やったー!」
「ありがとう、ルルク」
 ぴょんぴょんその場で飛び跳ねて喜ぶルルクに、アリシアはうっとりとした眼差しで微笑んだ。ただの一場でもあなたから預かるのだから、ちゃんとするわ、と囁くアリシアに、そうでしょう、と頷いたルルクが自慢げな顔を振りまいた。
「よーし、それじゃあ、新しい規約の説明とかお願いします! 準備運動終わりました!」
「分かったわ。……はじめても、いいかしら?」
「……どうぞ」
 集中が解けてしまった苦笑いで返事をするストルに、アリシアは柔らかく微笑んで頷いた。てのひらに乗せた拡声器の小石に向けて、職人は凛として響く、静かで清涼な声で告げて行く。
「それでは、これより第三試合。ストル、ツフィア対ルルク、ジェイドの試合をはじめます。まずは今朝通達のありました、前日からの変更点と追加から」
 根本的な規約に変更はなく、いくつか追加された項目をアリシアは告げて行く。試合の事前準備は、魔術の発動準備という観点から禁止とする。ただし、錬金術師など、魔術発動に対して道具の整備が必要な者はこの例外とする。罠を張らない。些細なものから致死に至るものまで、祝福呪いを問わずとしてこれを禁じる。ただし、試合中の撹乱、錯覚を利用するなど、各自の創意工夫による戦術としては例外とする。
 場合によっては試合中、試合後に有識者、保護者、王たちによる協議が行われ、その結果によっては後からの反則の適用、無効試合認定もありえる。言葉が語り終えられると、おーぼーだーっ、とふにゃふにゃした声が怒りを撒く。しかし、ジェイドが観客席にむかって、しー、と口元に指をあてて微笑むと、その一角がしん、と静まり返った。恐ろしいほどの静寂だった。
 あぁああぁうちの筆頭ほんと事故物件すぎる事案を多発させないでくださいって言ってるのに、と呻くフィオーレに、当の本人からは理解不能の目が向けられている。やや間があいて、俺のっ、俺のパパなんだからなばかーっ、と周囲を威嚇し倒す『花婿』の声に、場は混沌としかけたが、アリシアの凛とした声が混乱を打ち払う。
「規約変更点は以上です。参加者はこれに同意しますか?」
 各々の声がそれに応えた。それでは、とアリシアは息を吸い、ルルクに心配そうな目を向けたあとに、一歩退いて一礼した。
「それでは、どうぞ皆さま、存分に。……これより、試合の開始と致します。……宣誓! この場に集いし魔力のしもべたる全ての同胞、すなわち、我ら魔術師一同は! 正々堂々規定に則って戦い抜くことを、世界と王と、同胞たちに誓います!」
 領域を知らしめる黄金のひかりが、演習場にまっすぐな線を引く。完成された正方形。妖精に集中なさい、と囁かれて頷きながら、ソキはちょこん、と首を傾げて呟いた。
「ルルク先輩のと、宣誓が違ったです? 僕たち私たちじゃないんです?」
『……まぁ、最終的に世界と王に誓えばなんだっていいのよ』
 ルルクのは、早口言葉を交えたその場の勢いで形成されたようなものである。正式な言葉こそ決ってはいないが、アリシアのものが、一礼として提示される定型文に近い。ふぅん、とソキが頷く間にも、魔術が編まれて展開していく。夥しい量の布地が、津波のように場を制圧しきるまで、数秒。行ける、とストルが告げ、ツフィアが息を吸い込んだ瞬間だった。
 ふふ、と甘い笑い声。粉砂糖のような。ソキは確かにそれを、聞いた。どこかで覚えのあるような。どこか、遠く。懐かしいような笑い声。そして、ひかりが満ちる。ふわふわした、ましろい、ひかりが世界に満ちあふれる。
「……さて、二人には恨みとか無いわけなんだけど」
 場を制圧した筈の布地が、ツフィアの魔力が飲み込まれる。ましろいひかりにかき消される。代わりに、ひたひたと、足首までを浸すように。絡めるように。現れたのは水だった。愛に満ちた水。どこまでも透明でまっすぐな。水属性、黒魔術師の。砂漠の筆頭、ジェイドの魔力。
「勝たせてあげる訳にはいかないんだよ。……ごめんね?」
 しゅにっ、ジェイドをまもるっ、しゅにっ、ジェイドのおうえんをするーっ、とばかり、美丈夫の頭の上で、ましろいひかりがふこふこと収縮している。妖精さんです、とソキは呟き、くてんと首を傾げて瞬きをした。地に落ちる影は、たんぽぽの綿毛のような形をしているものと、二重写しでもうひとつ。少女の影が、砂漠の筆頭に寄り添っている。ひとつのもののように。『花嫁』の影が、妖精の瞳に焼き付くように見える。
 水辺に落ちる梢の影のように、それは不確かで、うつくしく、ゆらゆらと揺れていた。くすくす、満ちて、笑うように。

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