満ちている。ひかりに満ちている。水に満ち溢れている。足元には六月の浅瀬を従え、手元には満開の木漏れ日を導いて男は立っている。透明な水は場の隅々にまで広がり、そこかしこから細い植物の茎を生やす。水の中で発芽した花の。するすると伸びていく細い茎の先で、ひとつ、またひとつと花が咲き溢れていく。それは綿毛の花だった。最初から綿毛でしかない花だった。
ふわふわのましろい花は、水の流れにくすぐったがるようにふるふると揺れ動き、そっとその綿毛を風の中に散らしていく。飛んで、散らばって。それはやがて、ひかりにほどける。一瞬だけ淡く愛らしい黄色に色づき、やがてはましろいひかりになる。ジェイドの頭の上に乗っかって、好戦的にふこふこと収縮している、まぁるい妖精と同じ色になる。刻一刻と、場は魔力に満ちていく。穏やかに、優しく、制圧されている。
いまや場にある魔力は、ジェイドの成したものだけだった。満ちた浅瀬の透明な水と、ふわふわ漂うましろいひかり。それは確かに二種類のものなのに、ソキには一人のものだ、と感じられた。ぱちくり目を瞬かせて見つめるも、それは確かに二種類で、けれどもひとりのものだった。溶け合うふたつの色が、ひととき存在を別けたように。ひとつのものの、裏と表が一緒に見えているかのように。
ふたつのものだった。ひとつのものだった。ぱちちっ、と瞬くソキの耳に、声が聞こえる。木漏れ日の、きらきら降りそそぐひかりのすきま。こしょこしょと風に揺れて笑う花のような。甘く、淡い声が聞こえる。しゅにっ、ジェイドをたすけるっ。しゅにっ、ジェイドのいけないさんをえーいっとするっ。好戦的でやる気に満ちた、それは魔力で編まれた声だった。
浅瀬に立つ男が、くすくすと笑ってましろいひかりに指を差し出せば、幼い妖精はすりりりりっ、と甘えて身を寄せた。浅瀬に落ちる影では、少女がぎゅむーっ、とジェイドに抱きついている、ように見えている。ソキはえっと、と戸惑ってねえねえリボンちゃん、と妖精を突っついた。嫌そうに指先を睨まれる。
『突くんじゃないわよ。呼びなさいよ。なに?』
「あのね、あのね? お、おんなのこ? なの?」
『はぁん? ……ああ、あれ? あの妖精のこと?』
こくん、とソキは頷いた。妖精から見ても、同じ種族に感じられる存在ならば、間違いのないことだろう。妖精さんです、ジェイドさんは妖精さんと契約したまじちしさんですっ、と興奮気味に告げれば、妖精は考え込む呻きのあとに、眉を寄せて首を傾げている。
『……あんな幼い生まれたてと? 契約ですって……? 変種? でもそんなのが出たなんて話は……』
「ねえねえリボンちゃん? あのこも花妖精さんなの? なんのお花か当ててみましょうかー。えっとねー、たんぽぽ! たんぽぽでしよう! 大当たりでしょーう! えへへん!」
なんと言っても、綿毛のようにふこふこまるまるしているのだし。ジェイドの水から生まれいづる花も、よく見るたんぽぽのそれであるのだ。自信満々に推理するソキに、妖精は口を閉ざして目を細めた。花妖精。妖精の意思を宿して世界に生まれ落ちた花。それとは、なにかが違う気がする。たんぽぽちゃんーですぅー、とご機嫌にちたちたするソキを放置しながら、妖精はゆるゆると羽根を動かして考えた。
花妖精、ではない、と断じるほど別種だとは思わない。しかし、同族と感じるには変種的な気配がある。妖精、という枠の中で、花妖精が一番近かった。だからその枠内として存在している、とでもするような。まぁ、なにか知りたいならあの顔がすごくいい砂漠の筆頭にでも直に聞くのがいいでしょう、なんでか教えてくれるような気がしないけど、と告げながら。
妖精は妄想たくましく、たんぽぽちゃんとジェイドさんのきらきらの出会い、を妄想するソキの頭を、てしてし手で叩いてやった。
『ほら、なにが起きてるか、ロゼアにでも教えてやりなさい。ロゼアならソキ語だって解読できるでしょ?』
「うふん。ソキはぁ、説明のーりょくを、ばかにされているような? 気が? するです? いけないのでは?」
『普段の行いに対する正当な評価よ? 体調を崩してまでする場面じゃないから、ロゼアを使いなさいと言っているの。分かる?』
分からなくても。うーん、いいことにしちゃうですぅー、と頷くのが、ソキの良くて駄目な所である。ロゼアはでれでれした笑顔でソキを抱き寄せ直すと、教えて、と囁いて『花嫁』を嬉しがらせている。妖精は息を吐きながら、演習場へ視線を向け直した。そこは、やや膠着状態に陥っている。硬直してジェイドを見つめたまま動かないストルとツフィアの表情は、やや不可解なものだった。
恐れるような、敬うような、信じがたいものを見つけたような。言葉はなく。すさまじい混乱が、二人の中に渦巻いているのを感じた。対してジェイドは、のんびりとしていた。展開と制圧が終わっているからであろう。油断しちゃだめだよ、怪我のないようにね、とルルクに囁きかけ、頭の上のましろいひかりも、それに同意するようにふこふこと収縮している。
なんだろうあれ、なんだろう、いやほんとなんだろう、と文字を浮かばせるまがおで、ルルクはましろいひかりを凝視しているが、ジェイドからの説明はないままだった。笑顔である。結局、かわいいからまぁいっか、とばかりルルクが頷き、それを待っていたようにソキがくちびるを開く。
「あのね、ロゼアちゃん? ソキはいまから、説明をするです。偉いでしょう? これは、思わず、褒めたくなっちゃうでしょう?」
「そうだな。説明してくれるんだな。偉いな、ソキ。かわいいな。ありがとうな、ソキ。かわいいな。説明してくれるの、かわいくて偉いな。かわいいな」
それでははじめます、という前置き、これは前置きなのよ耐えろアタシ我慢しろ、とうつろな目で妖精は己に言い聞かせた。調子に乗せたほうが、ソキも饒舌に語るだろうし。悪いことではない。悪いことではないのだ。いちいちこれをやるので、めんどくさくてうんざりするだけで。ソキはロゼアに褒められて、はにゃー、だの、きゃふふふっ、だの、蕩けきった幸せそうな声を上げてはしゃいだあと、きりっ、とした顔になった。
もぞもぞ、膝に座り直してから、しゅぴっとばかり演習場を指差す。
「あのね、最初にストル先生が計算して、ツフィアさんがその通りに魔力を広げたの。ストル先生がね、設計図でね、ツフィアさんが、それをするひとなの。それでね、ツフィアさんの魔力は、布みたいなの。ふわふわばささーってなるの。反物みたいにくるくる広がるの。足元にね、薄くね、広がるの。それでね、ちかちかぴかかの藤色のきらきらが、きゃあきゃあするの!」
「うん」
奇跡的に説明ができているので、妖精は気がかりな視線をソキに向けて様子を伺った。しかし、杞憂であったらしい。ソキは楽しそうに頬を赤らめ、目を好奇心にきらきら輝かせながら場を見つめている。
「それでね、藤色のちかちかぴかかがね、きゃあんにゃーっ! ってしようとしたんだけどね、それが全部消えちゃったの」
「……消えた?」
「そうなの。あの、ジェイドさんの頭の上にいる、ふこふこのたんぽぽちゃんがね、いやんいやんとしたの。たんぽぽちゃんはね、魔力に近いからね、魔術師の魔術より、強いの。だからね、たんぽぽちゃんが、やんやんするとね、ないないされちゃうの」
なるほどー、という笑顔で聞いていたナリアンが頷いた。半分くらい分かったような、分からないような、ソキから説明を受けた時独特の感覚が胸中を支配する。なんとなく分かったような気がするし、かわいいから、まぁもうこれでいいかな、という感覚である。メーシャはそうなんだね、と微笑んで、考え込むロゼアの腕を突っついた。
「つまり、どういうことなの? ロゼア?」
「ちょっと待って。……つまり、魔術師の紡ぐ魔術は、妖精の阻害には敵わない? そういうことですか?」
妖精は即答を避けながらも、そうよ、と断言してみせた。
『魔術師は、世界に満ちる魔力のしもべ。あるいは、親しきもの。それに対して、アタシたちは魔力で編まれたもの、だもの。……でも、あえて言うなら、必ずしもそうではないわ。魔力そのものであるからこその弱点もあるし、阻害なんてめんどくさくて疲れること、そう何回も、ずっとできることではないのだし? やろうと思ってもできないわよ』
「疲れる、んですか?」
『そうよ。とってもね。……そうね、なんて言えばいいのかしら』
ナリアン、メーシャのみならず、ロゼアも、ソキからも説明を求める視線が向けられたので、妖精はそれを解説してやることにした。他の魔術師は放っておいてもいいのだが、ソキがいるなら話は別である。なにせ妖精の魔術師なのだから。知るべきことは多く、知らせておきたいこともまた、多い。知ろうとする姿勢があるのなら、惜しみなく与えてやりたかった。
これは契約妖精としての義務である。えこひいきではない。決して。
『つまり、全身運動なのよ。アンタたちがちょっと伸びるとか、屈伸するとか、それくらいのことで魔術を使うのだとしたら、アタシたちのは全力疾走障害物ありって感じ? たくさん動く分、強力に働くけど、疲れるからそう何回もしたくない。というか、本来する必要がない。魔術師相手なら、その規模が違うもの。アンタたちみたいの、毛虫みたいなもんよ。毛虫!』
「……ふんにゃ? リボンちゃんの、呪いが、でも、だめだめやんやだったことが? あるような?」
ソキは都合の悪いことばかり覚えている。シークの一件だろう。舌打ちをして腕組みをすれば、ソキはぴゃっ、と震え上がってロゼアにくっついた。ソキは怖がっているわけではない。ロゼアにくっつく口実をなにひとつ逃さないだけである。こわいこわい、ということにするですぅ、と言いながらロゼアにぐりぐりすりりと頭を擦りつけて甘えるソキを白い目で見て、妖精は深く息を吐いた。
『……そうよ、かと言って、どんな条件下でも圧倒できる訳じゃない。……特に、あの男は、今にして思えば呪いの効かない条件が整いすぎていたわ。そういう相手には、あの対処は間違っていた。……初対面でそこまで見抜ける訳もないけど。まぁね、つまり、大体は勝てるけどそうじゃないこともあるってことよ』
「その、条件、というのは? 呪いが効かない、とか……」
意地悪な気持ちではなく。妖精は首を横に振って、ロゼアの問いには答えなかった。強固な呪いが効かない理由は、そのものが呪い、という存在にひどく近しい時だけだ。魔力そのものである妖精からの呪いさえ、弾くほど。あの男は世界に対する呪詛だった。世界を呪いつくし、憎悪しつくしていた。いつくしみ、愛するように、大事に大切に呪いを抱いた男だった。そんなことは、知らないでいても、いい。
そうならない為に。知らないでいること、というのも必要だ。ロゼアはなんらかを察した顔でそうですかと呟き、すっかり怖いという名目を忘れてきゃっきゃとじゃれついてくるソキを抱き直した。きゃあーんっ、と元気いっぱいこぼれていく、蜂蜜の声。妖精は気を取り直して、己の魔術師の名を呼んだ。
『さ、ソキ? また集中なさい。そろそろまた動きが……ないわね……?』
「そう、ですね……?」
「先生、どうかなさったのかな。なんであんなに」
困っている、というのが、ストルとツフィアの表情から読み取れる、一番分かりやすい感情だった。困惑している。そしてどうも、ひどく抵抗があるようだった。試合を続けて、戦う、ということに。気を持ち直し、ジェイドたちの方向を見ては怯み、困惑し、その繰り返し。リトリアが不安そうに、とするより純粋に不思議がる顔で首を傾げていても、珍しく説明の声もないままだ。
演習場と観客席の視線は、自然とひとつの所へ集まった。すなわち、一人で事態を理解した顔をしてにこにこしている、砂漠の筆頭その人に。フィオーレが、よく分からないけどうちの筆頭のことだからまたなんかえぐい手かえげつない手か使ったんだと思う、と呻くのに、男の微笑みが深められた。
「……言っておくけど、これは俺のせいじゃないからね」
「えっと? 戦意を喪失してる……のとも違うみたいですけど……?」
傍らできょとんとするルルクが、前に出ないようさりげなく背に押し込めながら。ジェイドはふふ、と満ちた幸せに笑みを零した。囁く。
「仕方がないね。砂漠出身の宿命じゃないかな。……ごめんね。俺の奥さんが、あまりに、世界一、かわいいばかりに」
「……意味が分からないが心理的な抵抗が激しい。魔術では、ないのか……?」
「俺も、シュニーも、今は魔術を使ってないよ。ね」
ね、が向けられたのはソキだった。突然の呼びかけにあわあわちたぱたした後、ソキは演習場をじっくりと確認して頷く。六月の、光に満ちた浅瀬のような魔力が場に広がっている。それだけで、広がっているだけで、なにひとつ動きはないままだった。
「ソキにも同じ抵抗を感じると思うよ。もちろん、ウィッシュにも。……彼らは砂漠の祝福、砂漠の恵み、民の祈りにして希望。そのものだ。それを、踏みにじっていく、というのは……そうだね。抵抗あるだろうね」
ごめんね、と。ちっともそんなことを思っていないような柔和な笑顔で、ジェイドは柔らかく囁いた。
「戦うのなら、いいよ。相手してあげる。……リトリアの守護役をかけてるんだ、君たちの必死さは分かるつもりだよ」
でも、と男の、つくりのうつくしい手がひらりと踊る。ぱた、ぱた、と指折り数えられる。
「第一試合は勝っただろう? 第二試合は無効試合。試合は四戦まで。全て勝ち抜け、という規約ではなかったのだから、ここで負けても、ほら、まだ一戦あるよ。心理的な抵抗を持ったままひたすら疲れて負けるより、温存しておいたほうがいいのではないかな」
「だれがよそうしただろうか。ひっとうがここにきて、おれのしぼうかくりつをばくあげさせるだなんてことをおおおおお!」
「俺は勝てればいいから」
フィオーレの精神的な生死に興味がない、と遠回しに宣言する筆頭のきらびやかな笑みに、白魔法使いは頭を抱えて座席に蹲った。事態を理解した火の魔法使いは、先程からなにかに祈ったまま、動きがない。ストルとツフィアは、すぐには返事をしなかった。にこにこと笑って待つジェイドの頭の上で、威嚇するように、ましろいひかりがふこーっ、とおおきくなる。
しゅにっがんばるっ。ジェイドをいじめちゃだめっ。しゅにのこともいじめちゃだめっ。しゅにをいじめるの、いけないさんのすることっ、と、ソキには声が聞こえる。魔力の揺れる、音楽のような声。それでいて、花の蜜のように甘く、とろとろと響く。『花嫁』の声。二人が額に手を押し当てて呻き、相談し、結論を出したのは、それから一時間も抵抗した後のこと。
ルルクが、女装だーっ、と拳を突き上げて勝利宣言を響かせて、第三試合は終幕となった。
談話室の隅では、魔法使いたちが通夜のような顔をして動かないでいる。普段ならば心配の顔のひとつ、言葉の一つでも響かせるナリアンとメーシャ、ロゼアもまた、しかし沈痛な顔をして沈み込んでいた。砂漠の筆頭には、よく分からないが、なんということをしてくれたんだ、という気持ちでいっぱいである。両者に共通する感情でもあっただろう。本当に、なんということをしてくれたのか。
ジェイドが勝ったということは、すなわち、特に負けるようなことをしていなかったルルクも勝ちということで。女装が決定づけられた瞬間だった。いやでも陛下がお願いを聞いてくださるっていうだけで、もしかしたら聞くだけで叶うとかそういうことではないかも知れないしっ、というナリアン渾身の叫びは、そうだよね許可を取らないといけないねルルク、という、情け容赦慈悲のない砂漠の筆頭の一言で墓穴となった。
ルルクはさっそく、ソキとリトリアの変身魔法少女とロゼアたちの女装に五王の許可を得るべく、『扉』を使って駆け出していった。それはもうはりきって走って行った。変身魔法少女はともかく、女装は許可されてしまう可能性が高い、というのが諸先輩方からの、新入生に対するありがたいお言葉である。面白がって許可しそうな王がいるからである。主にリトリアの主君だが。
あのひとほんとなんてことをしてくれたんだ、と涙目で呻くナリアンの、うつろな気持ちの持っていき先の姿は、未だ談話室に現れないままである。白魔術たちの精密検査が終わっていないのだった。やや長引いている。落ち込むロゼアを慰めたり、ぎゅむーっ、と抱きしめてなでなでしたり、きゃふきゃふっとはしゃいだり、ひとり忙しく元気なソキは、混沌とした沈痛な空気の中、きょろろっ、と慌ただしく談話室を見回した。
「ジェイドさんたら、遅いですぅ……。ソキ、お聞きしたいことがあるのにぃ」
『惨状を察して逃げたんじゃない?』
そんな殊勝な性格をしているとは思えなかったが、可能性のひとつとして妖精は言ってやった。なんというか、安全圏から惨事を眺め、指さして笑いそうな性格をしている気がする、と妖精は思った。愉快犯的な気質を感じた為である。
『聞きたいことってなに? アタシで分かることなら教えてあげるわよ』
なんとなく交友を深めて欲しくないのである。ソキの教育に悪そうなので。腕組みをし、しぶい顔をして問いかける妖精に、ソキはあのねぇ、とのんびりとした声でぱちくり瞬きをした。
「たんぽぽちゃんはね、『花嫁』さんなの? って。そうでしょう? って、確認するです? お聞きしたいです」
『……はぁん?』
「たんぽぽちゃんね、女の子なの。それでね、それでね。ソキと同じような……気が? するです?」
首を傾げ傾げ、疑問符いっぱいに言われても、妖精にはなんとも答えることができないことである。アンタそういうの得意でしょなんとかしなさいよ、とばかりロゼアを睨んでも、困った顔で目を伏せられるばかりで解決しなかった。いやでもロゼアは女装似合いそうだし問題ないんじゃ、あるよあのひと似合ったら文句言いそうだろ、やり直しとかさせられそうだよね。
似合っても似合わなくてもこれじゃないって顔をされるとかただのいじめだと思う、いじわるダメ絶対、問題は女装そのものじゃなくてそれが『お屋敷』に伝わることなんだよ、伝わるとどうなるの、帰省すると女物の服が大量に用意されてて一日いや数日は着せ替えされる間違いないでも帰らないとソキを連れて帰らないと後が、と男たちは覇気のない会話を交わすばかりである。
それでも頑なにソキを膝から降ろさないロゼアに、妖精はしみじみと息を吐いた。まあ、気持ちは分からんでもないから、癒やしということでよしとしてやろう。女装は似合っていてもいなくても、指さして笑う予定であるのだが。
『どうしてそう思うの?』
「んぅー……? んと、んと、だって、お花さんだもん。そうなんですぅ……」
自分で言っておいて、いまひとつ自信が持てないままなのだろう。不安げに声を揺らしながら、ソキはちょこん、と首を傾げている。頭から否定することをせず、妖精も一緒に考えてやった。あの、しろくてまるまるふこふこしていたのは、幼い花妖精で間違いはない。それでいて、感じたところ、花妖精の変種である。ソキも妖精だと感じながらも、しかし、その存在を『花嫁』だと言った。
まさかねぇ、とひとつの仮説を立てながら、妖精はソキの全身を見回した。
『『花嫁』ってまさか、花妖精になれるってこと……? いやそんな筈ないわ……。魔術師はそもそも、ひとの突然変異。花妖精も、植物の変異といえなくもないのだし、植物とひとに互換性はないし……ないわよね?』
ロゼアに確認してしまったのは、ソキがすぐしおれたり、枯れるのなんだの植物的な喩えをされるからである。ありませんよ、と苦笑してソキを抱き直したロゼアは、はー、とため息をついて、ソキの頭に顎を乗っけた。ぷきゃん、とソキが幸せそうにつぶれた声を出す。
「ロゼアちゃん、へっちょりなの? ソキがなでなでしてあげる? それとも、ぴっとりして、すりすりして、ふにゃんにゃっとする? げんきになぁれ、する? ねえねえ、する?」
「んー……? ソキの好きにしていいよ」
『ソキがしっかり黙って、どこにも女装を漏らさなければ済む話じゃないの? 違うの?』
違わないのだが。ソキには無理だろうな、と妖精にも分かるのである。ソキはどんなに口止めされ、分かったです、と真剣に頷いたといしても、これはとっときの絶対の秘密なんですけどぉ、ときらきらした目でおしゃべりしかねない。そんなことないもん、ひみつを守れるもん、淑女なんですからねっ、と頬をふくらませるソキが、万一、本当にそうできたとしても。
今現在の『学園』には、なぜか、『お屋敷』関係者が結構な数まぎれこんでいるのである。ましてや、主犯はルルク。『お屋敷』の、外部講習受講者である。伝わらない、ということは、もうありえない。もう先輩の秘密をどうにかして握るしかないんじゃないかな、とナリアンが提案するも、ロゼアは首を横に振って呻いた。呟く。
「やめようエノーラさんみたいに目覚められたら手が付けられないというか手遅れになる」
そうだね、うんそうだね、とぽそぽそ会話が交わされる中、ソキはちたちたきゃっきゃとロゼアの膝上でくつろぎ。ぱちん、と泡が弾けるように、瞬きをして顔をあげた。呼ばれた気がした。誰かに。魔力。そのきよらかな旋律の中に。ふわふわ響く、甘い花の蜜のような。ただ、音のような、声のような、なんとも言い表せない響きが、それでも確かに。ソキを呼んだ気がした。
親しく、懐かしく、愛おしい。
「……あ、あれ? あ! たんぽぽちゃんです!」
不思議さに、ぱちぱち瞬きをしていると、談話室の入口にましろいひかりが現われた。ひかりはえっちらおっちら、飛んでいるというよりは、漂っているようなのたくたしたどんくさい動きで、ちまりちまりと空中を移動している。ソキの赤蝶々と似たような動きと、速度である。なぁにあれぇ、と同族の飛翔だと思いたくない眼差しで、妖精がうろんな顔つきになる。
『どんくさすぎる……! え……え? 飛んでるの? 嘘でしょう……?』
「試合の後で疲れてるのではないのです? かわいそなことです……! ソキがお迎えに行ってあげるぅ!」
たんぽぽちゃーんっ、と呼びかけてもちゃちゃっと立ち上がろうとする動きを、しっかりと回されたロゼアの腕が阻んだ。あれ、あれっ、と不思議そうにちたぱたするソキに、動かないでいなさいよ、と妖精は額に手を押し当ててため息をついた。
『なに? あの子に用事があるのなら、アタシが連れてきてあげるわよ。……あの筆頭が傍にいないの、そこはかとない不安があるけど……ひとりでなにしてるのかしら……? まさか迷子なんじゃ……?』
「たんぽぽちゃん、迷子なの? 妖精さんは迷子になるの? た、たいへんなことでは……!」
『自分で言っといてなんだけど、そんなことある訳ないのよねぇ……。でもなにあの、ソキみたいなどんくさい動き……不安になる……』
待てど暮せど、ましろいひかりを追いかけて、ジェイドが姿を見せないのも気になった。のたくたとした動きは、帰る所を見失って、困惑しているようにも思えてくる。結局、妖精はため息を付きながら飛翔して、ましろいひかりを保護してやった。ほら、と導きながら、ソキのもとまで帰ってくる。
『砂漠の筆頭が来るまで、ここで待ってなさい。アタシの言うことは分かるわね? 返事ができる?』
ましろいひかりは嬉しそうなぺかぺかした明滅のあと、ふこーっ、と膨張してまぁるくなった。妖精のような言葉はない。しかし妖精には通じたようで、まぁ好きな所にでも乗っかっていなさいな、と言ってソキを指さした。
『頭でも肩でも胸でもいいわよ。一番寝心地がいいのは胸。その次が膝かしら』
「ねえねえリボンちゃん? ソキを、ソキに無断で貸し出すのはいけないのでは? なかなかに、ゆゆしきじたいなのでは?」
『アタシはソキの契約妖精、ソキはアタシの魔術師。つまりソキはアタシの。なんか文句でもあるっていうの? ないわね?』
やぁんソキはロゼアちゃんのになるのぉ、といやいや身じろぎされるのをはいはいと頷きながら半ば無視して、妖精はましろいひかりを引っ張って、ソキの頭の上に落っことした。ぽよよん、とした動きで着地する。ましろいひかりはもぞもぞ、ふるふる、右に左に揺れ動いたあと、当座の居場所としてよし、としたのだろう。ふこふこ、ご機嫌に収縮されたので。妖精は腕組みをして、よし、と頷いた。
『ソキ。面倒を見なさいよ。用事があるんでしょう?』
「ええぇ……。たんぽぽちゃん、ソキの頭の上がいいんですぅ……? お膝の上じゃだめなの? おはなししにくいですぅ……!」
なにせ、自分の頭の上である。見上げても視界に入らないし、重さこそ感じないが、首の座りが悪い気がする。ましろいひかりはソキの要望に答え、ぴょーん、と頭の上から飛び立った。ひゅるるるる、ぽよよん、とばかり落下して膝の上に着地する。じっとして動かないでいる姿に、ソキは迷わず、偉いですぅ、と声をかけた。
「たんぽぽちゃんは、ソキの言うことだって分かってくれるです……! 偉いですううう! それに、ぽよぽよのまふまふで、とってもとってもかわいいですううう!」
そうでしょうーっ、とばかり、ふるふる揺れ動いたましろいひかりが、ちかちかぺかかと明滅する。かわいいですううう、と身をよじって喜ぶソキを、ロゼアがやんわりと抱き寄せて宥める。そうしながらもロゼアは、対応に迷うようにましろいひかりへ視線を送った。どうすればいいんだろう、と困惑するのを眺め、妖精はふむ、と腕組みをする。ソキが言う、『花嫁』だなんだというのも、あながち間違いではないのかも知れない。
ロゼアのこの反応と、砂漠出身、あるいはその縁者である、ストルとツフィアの対応を見ても。それを仄めかすようなジェイドの言葉を考えても。どうしてそんなことになっているのか、ちっともさっぱり分からないが。ソキ、と妖精は放っておけばいつまでもかわいいかわいいと喜んで当初の予定を思い出さないでいるだろう、己の魔術師を呼んだ。
『聞くことがあるのでしょう? 確認なさい』
「あっ、そうだったです。あのねぇ、たんぽぽちゃん? たんぽぽちゃんは、もしかしてなんですけど、『花嫁』なの? 『花嫁』だったの? 魔術師なの? ソキと、一緒?」
ましろいひかりは困惑するように、ふるる、と揺れ動いた。ソキ、と妖精は額に手を押し当てて首を振る。
『まず、その呼び名は本人の認知がないものでしょう? それと、答えやすい聞き方をしてあげなさい。はい、か、いいえで分かるものよ』
「はにゃ? たんぽぽちゃんは、でも、たんぽぽちゃんでしょう? たんぽぽの花妖精ちゃんでしょう?」
ふっこっふっこっ、と収縮したあと、ましろいひかりは、ぺかーっ、と発光して見せた。ロゼアと妖精が同じ顔つきで沈黙する。ソキと同じ、うーんまぁいっかー頷いちゃうことにしよーっと、という気配を感じた為である。この、話を聞かない適当さ加減、と妖精は呻く。
『間違いないわ……。これ、『花嫁』よ……。そうよね、ロゼア。責任を取りなさいよ!』
「明言は避けさせて頂きます……ちなみに、責任とは? どのような?」
妖精は隠すことなく舌打ちした。『花嫁』的なものは、みんな『傍付き』が責任をとってなんやかんやすればいいのである。察したロゼアが、俺はソキの『傍付き』ですので、この方の『傍付き』に責任を持って頂くのが一番かと思います、と正論を言った。じゃあ、と妖精は言い放つ。
『あの砂漠の筆頭でいいわ。待ってれば来るだろうし』
「あっ、そうですそうです。たんぽぽちゃん? ジェイドさんとは、どこで出会ったんです? どういうときめきがあったの? それでそれで、やっぱりたんぽぽちゃんは『花嫁』さんでしょう? それで、それで、なんでふこふこまるまるしてるです? あのね、女の子でしょう? 一回、お会い……はしてないですけど……お姿を見たと思うです。あれは、たんぽぽちゃんでしょう? ソキに、またねって、言ってくれたでしょう? ね? ね?」
「……そうなの?」
ひょい、と唐突にソキの後ろから膝を覗き込んできたジェイドそのひとに、ソキは元気いっぱいに、ロゼアはぎょっとして『花嫁』を抱き直した。無警戒でいた訳ではないのだが、接近に気が付かなかった為である。ジェイドはそんなロゼアにくすくすと笑い、ソキにおはなし聞かせてほしいな、と甘く柔らかな声で囁きかけた。妖精は、ようやっとそれに気がついて思い切り眉を寄せる。
その囁きは。『花嫁』に対する、柔らかく響く音。『傍付き』の声だった。
ましろいひかりはぴょーんと飛び立ち、ジェイドの頬にもふもふと擦り寄ってその帰りを歓迎した。しかし、ひとしきり甘えた後にソキの膝にぽてんと落っこちて動かなくなってしまったので、ジェイドはくすくすと笑みを深め、かわいいですぅもふもふちゃんですぅ、と身をよじって喜ぶソキに囁きかけた。
「迷惑でなければ、すこし居させてくれるかな?」
「もっちろんですううう! たんぽぽちゃん、ソキがお好きなのぉ? やんやんやんやん嬉しいですううう! まふまふですううぅー!」
ジェイドは、たんぽぽちゃん、という呼称にうんと疑問符付きの呟きで笑みを深めたが、とうの本人がちかちかぺかかと嬉しそうなので、よしとしたのだろう。ちょっとお邪魔するね、と言っておきながら有無を告げさせない独特の雰囲気で、対面のソファに腰を下ろす。ロゼアは警戒を緩めないまま、ジェイドを見た。うつくしいひとである。
均整の取れた体付きにしても、指先まで神経の通った所作にしても。研ぎ澄まされた独特のうつくしさを保つ男だ。それでいてそれらが目立たないのは、単にジェイドの顔が良く、その印象がすべてを押しのけて前に出ている為だった。それはたとえば『花婿』の持つ、甘く柔らかなうつくしさとは別物だ。その雰囲気を漂わせながらも、ジェイドはもうすこし硬質ななにかを持っている。
花ではなく。花の形に切り出された鉱石のような。透き通り、硬く、強靭な。訓練された『傍付き』を思い起こさせる。『花婿』の性質と、『傍付き』のそれを併せ持つ男。無差別な魅了こそしないものの、無自覚にひとを誑かしこむ。微笑みかけられれば、誰もがすこし照れくさく、はにかんだ気持ちで警戒を解く。そういう類の男で、そして、美しさだった。
その胸の好意によって時にひとを狂わせる『花婿』よりも、薄く希釈された毒。だからこそたちが悪い。知るものにはそう思わせるのが、ジェイドというひとである。ますます警戒した顔で、ぐい、とソキの肩を抱いて観察してくるロゼアに、ジェイドはやだなぁ、と言って華やかに笑った。ウィッシュに似ている、と新入生の誰にも思わせる、甘くはにかんだ笑みだった。
「なにも悪いこと、しないよ。安心してくれていい。シュニーが世話になってたから、お礼をしたいだけだよ。ね? ありがとうね」
「たんぽぽちゃん? たんぽぽちゃんのお名前は、しゆーちゃんって言うの? しゅー……し? んん……し、ゆ……しゆーちゃん!」
自信満々、どうですううぅっ、とばかり胸を張って告げられたいとけない響きに、ジェイドは口元に手を押し当て、幸福に目をきらめかせながら吹き出した。くっくっ、と肩を震わせながら喉の奥で笑う。いとおしく細められた目で、息は満ち足りて吐き出される。ふっこふっこ、とましろいひかりも嬉しそうに収縮している。ぺかーっ、と光るのに言葉はなかったが、ジェイドはそうだね、と頷いてみせた。
ミードそっくりである。お健やかにお育ちだ、と微笑むと、ソキはそうでしょうそうでしょう、とふんぞり返って頷いた。ましろいひかりも、頷くように揺れ動く。そうだね、とジェイドは息を吐いた。嬉しいね、シュニー。ウィッシュのことも、レロクのことも、ソキのことも。ジェイドにはなにも言わず、時々、様子を見に行っていたことを知っている。魔術師になる前も。なってからも。
そーっといなくなっては、そーっと戻って来て、時にはぺっしょり潰れていることも、ふわふわまるまるしていることも、落ち着きなくそわそわしていることもあった。成長を見守っていたのである。声をかけることは出来ず、話すことは叶わず。けれども、母のように。大きくなったね、嬉しいね、と囁やけば、ましろいひかりは照れくさそうにふるるるるっ、と揺れ動き、ソキの膝にぺとんっとくっついた。
シュニーとしては、ソキを抱き寄せているくらいの感覚である。大きさのせいでくっついているだけになるが。ソキは、はにゃあああぁっ、と嬉しく幸せなとろけた声で喜び、にこにこと笑ってかわいいですぅ、と頷いた。
「たんぽぽちゃ、あっ、えっと、しゆーちゃんは、ソキのことが好きなの? きゃあんきゃあん! ソキもですうううう!」
『嬉しそうにしちゃってまぁ……』
「あっもちろん? リボンちゃんだってすきすきですよ? なんと言ってもソキの妖精さんですしぃ、すぐ怒るけど優しいです! あっ? でも? ソキには心に決めたロゼアちゃんがいるんでぇ……!」
はいはいそうねー、とげっそりした気分で雑に頷きながら、妖精はジェイドとましろいひかりを観察した。ましろいひかりはすっかりソキの膝の上でふこふことくつろいでいて、ジェイドも特別、立ち去ろうとする気配がない。仕方なく、妖精はアンタなにか用事でもあるの、とジェイドに尋ねてやった。さっさと終わらせて、さっさと立ち去ってほしいが為である。
ジェイドはくすくすと機嫌よく笑い、うん、と幸せそうに笑ってソキを見た。
「聞きたいことがあるんだけど、いいかな? ……いいよね? ロゼア?」
「……どうぞ」
「ありがとう。……ね、ソキ? 女の子を見たって言ったね? いつ? またねっていうのは、声を聞いたの? おはなしはした?」
穏やかで優しく響きながらも、切実な祈りをこめた言葉だった。ソキは目をまるくして、ジェイドをじっと見る。妖精は即座に感づいた。もしかしてこの男は、その姿を見たことがないのではないだろうか。妖精はすっと視線を動かして、ましろいひかりの影を確認した。まぁるく落ちているだけで、試合中に見たような、少女の姿は確認できない。ソキ、と静かに妖精は呼んだ。
それがもし、妖精の目を持つ者にしか認識できないのだとしたら。
『教えてあげなさい。それを初めて見て、感じたのはいつのことか。試合中のことも』
「うん。あの……あのね、この間の、ソキがけんめいに頑張って、陛下方にご説明をした時のことなの。お見送り、してくれたでしょう? その時にね、一緒にいたでしょう? ちかちかぺかかとしてたですけどね、それだけじゃなくてね、女の子だったの。それでね、ソキは、『花嫁』さんだと思ったの。ねえ、そうでしょう? たんぽぽちゃんは、うにゃ、しゆーちゃんは、ソキとおんなじなんでしょう? もしかして、魔術師さんだったの? それで、なにかがあって、ふこふこの、まるまる、しろしろ、かわいいちゃんになったの?」
ジェイドは、ゆっくりと目を細めて笑った。そう、とだけ呟いて、問いのどれにも答えずにただ言葉だけを受け止めた。首を傾げたソキがちたちたしながら待っても、言葉が返ることはなく。やがてソキは、えっと、と戸惑いながらさっきの試合の時もね、と口を開き直した。ましろいひかりはソキの膝でじっとしている。その目を覗き込んで言葉を待つように。
「ジェイドさんの所でふこふこしてたですけど、それだけじゃなくて、影がね、あの、女の子だったの。それでね、気のせいです? って最初は思ったですけどね、やっぱり声だったの。んと、んと。んと、んとね、しゅに、ジェイドを守るのって、言っていた、です……?」
恐る恐るソキが視線を落とすと、ましろいひかりは忙しなく収縮した。ふっこっふっこっ、と伸び縮みするさまは、力強い同意に満ちている。そっか、とジェイドは微笑んだ。そっか、ともう一度呟き、ジェイドはゆっくりとした動きで、己の胸を手で押さえた。
「……それはみんな、確認できたのかな……? ロゼアは? メーシャと、ナリアンは? どう?」
「ソキが言うなら、確かなことだと思います。ですが、俺には……」
「俺も、気が付かなかったというか、分かりませんでした」
そもそも、試合中になにが起こってどうなったのかを、理解している魔術師の方が少ないのである。在学生はほぼ全滅、王宮魔術師の中でも特に魔力視認するに長けた数人だけが、えぐっ、という顔をして沈黙していた。勝利のために手段を選ばなかったという点で、ウィッシュとジェイドはそっくりなのだという。それを聞いたウィッシュは上機嫌で、そうだろぉーっ、とふんぞり返っていた。
現在は別室で、白雪に提出する反省文と向き合っている。再提出になったらしい。やだやだむくれているのを寮長が宥めて叱って褒めながら、部屋に投げ込んだのを何人も目撃していた。昼前には出てくる予定なのだという。甘やかして代筆しないように、との張り紙が扉にかかげられていた。代筆がばれての再提出だからである。
もしかして、と妖精は思った。ひとりで迷子になっていたのは、ウィッシュを探しに行っていたのかも知れない。パパだのママだの言っていたので。妖精はましろいひかりの元に舞い降りると、ウィッシュだったらあっちの空き部屋にいるけど、もうすこししたら出てくるわよ、と言ってやった。途端に、ぺかーっ、と嬉しそうに発光される。
ふっこふっこ嬉しそうに収縮されたので、推測は当たっていたらしかった。あんまりひとりで出歩くんじゃないわよ、魔術師ばかりと言ってもアンタの言葉が分かるようなのは限られてるし、言いたいことだってそれじゃあ伝わらないでしょう、『学園』ならいいけど、外はいいひとばかりではないのよ、稀に妖精を察する悪人だっているんだから、アンタみたいなの捕まってなにされるか分からないわよ、と言い聞かせる。
ましろいひかりは怯えたようにふるるるるるっ、と細かく震えると、弱々しく、ぺちょん、と潰れ気味に頷いた。よし、と妖精は頷いて、にこにこしているソキを見上げた。
『なに? 嬉しそうにしちゃって』
「リボンちゃんたらぁ、面倒見がいいですぅ。きゃふふふふ! さすがはソキのリボンちゃんですぅ! でも、でも、お外は危ないですよ、たんぽぽちゃん。ジェイドさんのお傍で守ってもらうですよ。ね?」
へしょっ、と潰れながら、ましろいひかりはよわよわしく浮かび上がった。ほよほよ漂いながらジェイドの肩の上にのり、襟元からごそそそそっ、と服の中にもぐってしまう。あぁん、とソキが残念そうな声をあげた。
「リボンちゃんがいじめたから、隠れちゃったです……かわいそかわいそです」
『ソキ、数秒前の自分の発言を忘れるのやめなさい』
「たんぽぽちゃーん。また、ソキの所に遊びに来てくださいです。お休みの間にね、砂漠に行ってね、ジェイドさんにお会いしに行くからね、ソキとまふまふしてくださいですー!」
声はなく。けれども、漂う魔力の隙間を、そっと縫い合わせるように。言葉は届く。うん、と響く、あまくいとけない、『花嫁』の言葉。待ってるね、と告げられて、ソキは頬を両手で挟んでやんやん身をよじって喜んだ。反面、ジェイドがうつろな顔をして呟く。
「……いまもなにか、言ったの?」
「言ってはないんですけどぉ、言葉がね、ふわふわってね、ソキには分かるです。ねー、リボンちゃん?」
『……微妙。そう言われると、感覚的に意思を受け止めたような気もするけど、アタシは元からソキみたいに正確に読み取ってる訳じゃないもの。……なんなのかしらね? 言葉魔術師を持つ予知魔術師の特性だとすれば、リトリアを呼んでくれば仮説にある程度は説得力を持たせられるだろうけど、リトリアが駄目ならソキだからってことになるだろうし』
そして、リトリアは性格的にどんくさいので駄目な気がする、と妖精は思っている。ソキもどんくさいはどんくさいのだが、妙な所だけ異常に敏いので理解ができなくもないのだった。そう、と呟いてジェイドは息を吐く。ちら、と視線を向けられて口々に分かりませんでした、ソキちゃんだけだと思います、なにも感じたりできませんでした、と告げるメーシャ、ナリアン、ロゼアを、きょときょと見比べて。
ソキはこくん、と頷くと、大丈夫ですよ、とジェイドに言った。
「ないしょの、ひみつにしてるんじゃないんですよ。ジェイドさんにだっておしゃべりしたいに違いないです。でもね、きっとまだ、ちょっと、難しいの。ソキが分かるのはね、予知魔術師だし、リボンちゃんが妖精の瞳をくれたからで、あとは『花嫁』ぱわーなの。これはつよいものなの。だからなの」
「……そっか。うん、そうか……そうだね。ありがとう、ソキ」
「……あのね、ほんとのほんとに、もうちょっとなの。ソキには分かるの。ほんとうのことなの」
でも、なんで、どうして、そう思うのか。感じるのか。聞かれても分からない。困り眉で必死に訴えるソキに、ジェイドは柔らかく、心からの喜びでうっとりと笑いかけた。
「わかっているよ。ありがとう」
「どういたしまして、ですー!」
「うん。なにかお礼をしないとね。……なにがいいかな?」
結構です、という顔のロゼアを無視してソキに聞くジェイドに、『花嫁』は頬を赤く染め、もじもじと恥じらいながら告げた。
「あのね、あのね」
「うん。なぁに」
「ソキ、ソキ、もっと魔術が見てみたいです!」
ロゼアにさえ意外だったのだろう。は、と声をもらされるのに、ソキはだってええぇ、とロゼアに後頭部をぐりぐり押し付けて、さかさまに見上げながら訴えた。
「ジェイドさんの魔術、すごーくきれいだったです。しゃぱぱぱぱーっとして、ぽややゃんの、きゅぴーっ! って感じだったです!」
『アタシも同じものを視認してたから断言してあげるけど、そんな感じではないわ』
「えぇえええ……! ……と、とにかくぅ、ソキは、ジェイドさんの魔術がもっと見たいです。ねえねえ、いいでしょう? ねえねえ。きれいだし、それに、それにね……それに」
なんだかね、と。あどけない『花嫁』の声が告げる。
「なつかしいような? 気が? したです。ソキは……ソキ、どこかで、見たことが、あるような、です……」
『……どこで?』
「どこかなの。……むかし、むかし、ずうっとむかし。なんだか、そんな気がするです。むかし、むかしにね」
その魔力、その魔術に触れたことがある。終幕世界の遥かな向こう。全ての起点。今は亡き、はじまりの、砂時計のうまれた場所で。その魔力がソキに息をさせ、その魔術がソキの鼓動を導いた。全てが死に絶え、そこからまた希望が芽吹き。覆されるその時まで、ソキという存在を保っている為に。受け入れたことがある。魂はそれを覚えている。その魔力が、魔術が、どう。水器を満たしたのか。
蘇ろうとする影が求める。それは手がかりになり、それは鍵となる。どこか必死なソキのことをじっと見つめて、ジェイドはやがて、分かったよ、と言った。分かったよ、ソキ。君の言うとおりにしようね、と囁かれる響きさえ、ソキにはどこか懐かしく。
響いて、響いて。『 』はその輪郭を浮かび上がらせた。
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