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 午後の三時には用意が終わると聞いたので、ソキは早めのお昼寝を済ませ、ふわふわとあくびをしながらロゼアの膝上を陣取った。水筒からぬるまったお茶を飲ませてもらいながら、今日のおやつに目をきらめかせて待つ。ジェイドが指定したのは、屋外ではなく空き教室のいずれかである。もちろん、魔術の展開には野外が適しているが、この年末の寒さの中、ソキをそう何度も外に出す訳には行かない、というのがその理由だった。
 ただしい、と妖精とロゼアは深く頷いた。ソキ本人は、大丈夫だもんソキつよぉーいもん、とちたぱたしていたが、そんなことはない。これっぽっちもない。全然ない。耐寒だけはロゼアがしっかりと準備しているが、時折差し込む冷えた風や空気の乾燥は、妖精の祝福をもってしても難しい所がある。自然のことである。そこには善意も悪意もないものだから、妖精が守ろうとして包み込みきれることではないのだった。
 ソキは水分補給のあとに与えられた蜂蜜の飴を、しあわせそうにからころ転がしながら、改めて室内の様子を見回した。ちょん、と不思議そうに、やや不満そうに首を傾げる。
「なんだかぁ……たくさん、いる、ですぅ……?」
『コイツら皆して娯楽に飢えてんのよ。我慢してやりなさい』
「ひとりじめだと思ったのに、ですぅ……。これじゃ、ソキの見たいのは難しいのではないのです?」
 いけないこと、いけないことです、と気分を下り坂にしながらむっつりしはじめるソキに、不機嫌を察して振り返ったジェイドが、甘やかに笑う。
「どうしたの? むぅっとしてるの可愛いね」
「……あの、すこし手加減して話しかけて頂けますか? ジェイドさん」
「うん? 面白いこと言うね、ロゼアは」
 うっとりと、幸せに満ちた微笑みは『花嫁』の機嫌をころっと良くする威力に満ちたものではあるのだが。同時に、ウィッシュの機嫌を直角で悪くするものでもあるからだ。案の定、ウィッシュはソキがきしゃああぁっ、とする時と同じ顔つきで、パパは俺のなんだからなばかーっ、と叫んでロゼアの脇腹を指で突いてきている。隣に座っている為である。くすぐったいので辞めてほしい。
 ソキに直に行かないのは、ウィッシュが誰に訴えるのが一番効果的か熟知しているからだ。分かっています、分かっていますから指を痛くしますから、と説得するロゼアにも、ジェイドは楽しそうにふふ、と笑みこぼした。叶わなかった未来の夢を、そこに見つめているようなまなざしだった。部屋の中央、円形に机と椅子が並べられ、囲まれたその中で。麗しい男が、幸せそうに笑う。
「ウィッシュ。そんなに慌てなくても大丈夫だよ。俺はウィッシュのパパだからね。安心していいよ」
「ふふん。ふふふん! そうだろー?」
 あー、と声があがるのはジェイドの隣。進行の補佐として引っ張り込まれたルルクだった。ルルクは苦悩するように頭を抱えていた。目を閉じ、室内の一部を除いた誰もが、理解して同情せざるを得ない呻きを落っことす。
「顔がいい……か、顔がいいっ……! すごい! 顔がいい! 疲れる! 控えて欲しい!」
「終わったらたくさん休もうね、ルルク。ありがとうね、補佐役を聞き入れてくれて」
 ルルクは、世の理不尽を飲み込んだ笑みで頷いた。この筆頭にすこし申し訳なさそう、かつ、きみ以外には頼れない、と言わんばかりの顔をされ、お願いがあるんたけど頷いてくれるよね、と囁かれ、動かないでいる者などいるのだろうか。なにせ顔が良いし声もいいし、すごくなんというか、抗い難く言うことを聞いてあげたくなるようなひとなのだ。ソキやウィッシュに対して感じるものとはまた、違う。
 喜ばせたい、というよりは、断った時の悲しい顔を見たくないな、と思わせる男だった。あー、それにしても内容くらいは聞いてから頷けばよかった冷静に考えても教えてくれる気配なかったけどもうだめ顔が良くて目と頭が疲れる、と嘆くルルクに、筆頭はにこっ、と笑いかけた。止めを刺すの辞めてくれますか、と半泣き声で呻かれるのにいまひとつ理解していない笑みで首を傾げ、気をとりなおして。
 さて、とばかり、ジェイドは両手を打ち鳴らした。
「そろそろ始めるけど、みんな、筆記用具は準備してきたかな? 担当教員に許可は? お昼は食べた? 魔術の観戦は、目視するだけでもそこそこの疲労を伴うものだから、体調不良は無理せず、また次の機会にしようね。みんな、大丈夫? ……そう。そう、偉いね。それじゃあ、はじめようか?」
「はーい! その前に、筆頭ー! 陛下から、事案になるから色々控えめにするようにって書状が届いてるし俺もそう思うし、筆頭の妖精さんががびがびしないように努めたほうがいいと思いまーす!」
「……陛下にも困ったね?」
 そこで、仕方がない方だとはにかんで首を傾げる筆頭こそ、心底困った人である。あー、うちの筆頭ほんとまじ歩く事故物件、と部屋の端に寄せた机に、義務感のみで座った白魔法使いが呻いている。ロゼアは心から、それに同意して頷いた。野放しにしてはいけない類のひとである。『花嫁』とはまた違う。どちらかといえば『傍付き』に似た印象を受けた。それが限りなく正解に近いことを、ロゼアはまだ知らないでいる。
 ジェイドの頭の上にしっかと乗ったましろいひかりは、やや仕方なさそうにふこふこしているものの、毛の一部ががびっとして逆だっていた。不機嫌であるらしい。うん、と不思議そうに手のひらに転がり乗せたジェイドは、これまでになく甘く、愛おしく、とろけるような全開の微笑で。うっとりしきって、ましろいひかりに囁きかけた。
「どうしたの、かわいいかわいいシュニーさん。疲れた? ゆっくりしていて大丈夫だからね。さっきは頑張ってくれてありがとう。……愛してるよ」
「ひっ。すごい。桁が違う。ロゼアくんごめん助けて私にはむりなのでは?」
「ルルク先輩、耐えてください。世話役訓練受けたでしょう? 耐えられるはずです。呼吸はしてください。頑張って」
 ルルクとロゼアの会話に、やだなぁそんなことないよ、と言うような顔をしているのはジェイドひとりだけである。ロゼアは見せないようにさりげなくソキの顔を抱き寄せているし、ウィッシュはものすごく嬉しそうにきゃっきゃきらきらしているし、集まった生徒と王宮魔術師たちは、直撃を受けて机に突っ伏している。ごめんなさいむりでした、と白魔法使いは王に祈った。
「もう存在が事案誘発機みたいなものなのでは……? 存在に年齢制限とかかけた方がいいのでは? いやでもそれはエノーラが先かな……」
「聞こえているよ、フィオーレ。あとで話があるちょっと来い」
「ふ、ふふっ。理不尽……!」
 いまひとつフィオーレに同情が集まらないのは、自業自得なことばかりだからである。雉も鳴かずば撃たれまいに、と呆れ果てた顔をして、その傍らで火の魔法使いが肘をついている。ジェイドはやや騒然としている室内を改めて見回し、不思議そうな顔をしたものの、まぁいい、と思ったのだろう。再度手を打ち鳴らすと、それでは、と静かに声を響かせた。
「これより、魔術発動の披露訓練を開始します。聴講の準備は出来たね? 事前に通達したように、危険はないけれど、担当教員は些細な変化を見逃さず、適時生徒を室外へ連れ出すように。……頼めるね? ウィッシュ? ロゼアも」
 チェチェリアも、どうぞよろしく、と砂漠の筆頭が微笑みかける。それに、ロゼアの近くに椅子をおいて座ったまま、チェチェリアは無言で頷いた。ストルとロリエスは、それぞれメーシャとナリアンの傍らにいた。他の者も、在学中の生徒はみな、担当教員を伴っている。理由はジェイドの告げた通りであり、また、授業の側面が強いからだった。
 用意されたのは中教室。一人で向かう机が二十、ぐるりと円を描いて置かれれば、それだけでいっぱいに圧迫感のある広さである。机を一番内側の円として、その周囲をぐるぐると椅子が取り囲んでいる。ジェイドとルルクがいるのは、その円の内側。中心である。演習場のように、特別に用意され、整えられた場所ではなく。ただ、普通の空間である。そこに、ぴりっとした緊張が溶け込んでいる。
 もぞ、と座りが悪そうに身動きをしたソキを抱き直して、ロゼアはふたりに視線を向けた。まっすぐに背を正して、ジェイドが微笑みながら口を開く。
「さて、そもそも。魔術というのは、なんだろう? ルルク?」
「えっ? ……え、えっ、ちょっと待って……! え、えっと……魔術とは、私達魔術師が、世界に漂い存在する魔力を引き寄せ、あるいは、己の中から組み上げて、加工して成す現象の総称である……?」
「そう。その通り。よく勉強しているね。いまの在学生はみんな、真面目で勤勉だ、と報告のある通りだ」
 そのまま励んでいこうね、と褒めるジェイドに、ルルクは胸を手で押さえて頷いた。
「あの……ジェイドさん、お願いがあるんですけど……あんまり褒めないで貰えますか事故りたくないので……っ! これが! 噂の! 砂漠の筆頭事故物件……って戦慄するのにあー! これはー! 事故が起こるーっ! あー! 顔がいいー! 声までいいー!」
「俺のパパなんだからなー! ばかーっ! パパはあんまり褒めたりしたら駄目なんだからなー!」
「うん……? うん、まぁ、そう言うなら……?」
 あのね、あのひとほんとね、分かってくれない。分かってくれないんだよ、と淀んだ目をして呻く白魔法使いに、室内からちらほらと同情的な視線が向けられる。ジェイドはそれにもいまひとつ理解が及ばない様子でゆったりと瞬きをすると、うつくしささえ感じさせる所作で首を傾げてみせた。呟く。
「いやだって、俺の顔がいいのは方々の血筋だから分かるけど、ほら、ウィッシュの方が美人だし、俺の奥さんは世界一かわいいし……? それに比べれば平均的というか、普通だよ。『お屋敷』だと珍しくもないくらいだよ。ね、ロゼア」
「……はい、そう、なんですけれども……。そう、なんですが……」
 歯切れ悪く、ロゼアは呻いた。なんというか、聞いてこないで欲しい。もしやこれは一刻も早く、このひとの正体を判明させるべく、『お屋敷』に問い合わせなり戻ったりした方がよかったのではないだろうか。えっ『お屋敷』こわいこんな人がごろごろいるってことなの、と半ば怯えた問いの視線を向けられて、ソキはきょとんとして首を傾げた。
 いやいない、いないわよ、とうつろな顔で否定したのは、世話役講習で出入りしているルルク。そして、不安げな顔をしながら首を傾げたリトリアだった。リトリアはジェイドを見つめ、ロゼアを見て、ソキを見て、違うと思うんだけど、とかつてを思わせる自信なさげな弱々しい声で言った。
「それとも、私がお会いしてないだけで、そうなの……? あっ、でもあの、皆とてもきれいだし、かっこいいし、素敵だとは思ってるのよ。眩しいし、疲れるのも、うん、ちょっと分かるし……でも、ジェイドさんが平均かというと……え? じつはそう、そうなの……? そうかな……?」
「そうだよ。ね、ソキ」
「ねー? ねー、なの。ロゼアちゃん、なにが、ねー、だったの?」
 ロゼアは確信を持って、ソキには気にしなくていいよ、と微笑んだ。ジェイドは明らかに、ソキがひとのはなしを聞かないで同意する癖があるのを知っていて利用した。ロゼアが、面白くない気分を懐いたのを察したのだろう。ジェイドはいたずらっぽく微笑み、ウィッシュそっくりの仕草で、こて、と首を傾げてごめんね、と言った。もうしないよ、とは言わない。それが砂漠の筆頭そのひとである。
「さて、授業続けようか。魔術とは、先程ルルクが上手に告げてくれたとおり、我ら魔術師が世界の魔力に触れ、招き、あるいは己の内側から組み上げて、加工して、世に解き放つものだね。だから、そこには個性がでる。魔術を導く呪文が、基本や、正式系と呼ばれる文言が決まっているにも関わらず、最終的に全員違うものを口にするのはその為だね。ここまでは、いい? わかる?」
 ジェイドがやんわりと微笑み、そうっと語りかける相手はソキである。妖精が気がかりな視線で見守る中、しかしソキは事故めいたときめきを覚えた様子もなく、はぁいはぁーいっ、とただ機嫌よく、ちたぱたとして返事をしている。ロゼアは面白くなさそうだが、妖精は安堵に胸を撫で下ろした。なんのことはない。きれいな顔だからはしゃいでいるだけである。ソキの面食いは筋金入りだ。
 はーぁ、と妖精にため息をつかれるも、気にした様子はなく。ソキは、それで、それでっ、と久しぶりに触れる教員からの教えに、目をきらきらさせて聞き入った。ふふ、と心から可愛がっているのが誰にも分かる笑みを零して、ジェイドがそれでね、とやさしい響きで告げていく。
「だからね、ああいう、野外演習の時。戦おうとする魔術師は、まず、自分の魔力そのもので場を染め変えるのが手順というものだ。さて、どうしてかな? ソキ?」
「んん? んー、んー……ん、んん……」
 ソキは困って、ロゼアと妖精、ウィッシュをきょときょとと見比べた。勉強したことがあるような気もするし、まったくはじめての問題であるような気がする。ロゼアは分かっているのだろう。答えようとする口を閉ざすため、妖精がぎろりと睨みつけている。ソキー、がんばれー、まちがえてもいいんだよー、がんばれー、とソキの教員は楽しそうに応援するだけで、ちっとも助けてくれそうにない。
 ううぅ、とうつむいて、目を瞬かせて、ソキはきゅうと手を握った。間違えるのは怖いことだ。ロゼアが怒られてしまう。だから黙っているか、誰かが助けてくれるまで待たなくちゃ、という『花嫁』の判断を。しかし、ソキは息を吸って振り払った。ソキはもう、どんな言葉だって自由に語っていいのだ。魔術師になったのだから。いちにんまえの、ロゼアをしあわせにする、おんなのこにだってなるのだから。
 ソキはぷるぷる震えながら顔を上げ、やんわりと微笑んで待つジェイドに、そして固唾を飲んで見守る先輩たちに向かって、あまく声を響かせた。
「ソキね、ソキはね。お部屋を作るのかな? って思ったです。試合を見ていてね、そう思ったです。……あの、あのね、お部屋なの。知らないお部屋でするより、ソキは、ソキのお部屋でおべんきょですとか、読書ですとか、課題とかをね、するのがね、はかどるの。だから、だからね……まず、自分のお部屋にするのに、魔力でふにゃーんっとするの?」
『……最後のがなければねぇ』
 妖精が苦笑いをしながら呟くが、しかし、否定はしなかった。ジェイドは満面の笑みでソキに頷き、大丈夫、と囁く。
「理解はできているね。間違ってないよ。……では、もう一度、それについて説明しよう。必要なら筆記を取るように」
 ささっ、と何人かが帳面を開いて筆記用具を持つのにならって、ソキも万年筆をはしっと手に取った。もちろん、ソキがんばったなーっ、すごーいっ、と褒めるウィッシュに、ふんぞり返って、でぇっしょおおおおっ、とするのも忘れずに。いつもより、よぉく、ふんぞり返った。



 重要なのは、とジェイドは言った。場を作って整えること。これはね、物事をはじめる前に、整理整頓する行為にも似ている。使いやすいようにするんだね。それも加工、とも言えるけど、と言葉を区切り、くるりと視線が円を描く。僅かばかりの迷いの後、ジェイドは間違っていたら言ってね、と担当教員たちに微笑みかけた。
「真似事してるけど、教員試験は受けたことないし。勉強したくらいで」
「問題なく出来てる。続けていいと思う」
「そう? ありがとうね、ストル」
 はにかむ笑みで喜んで、ジェイドはええと、とゆるく瞬きをして、つなぐ言葉を探していく。
「自分の、使い慣れた筆記用具を持ち込むようなものかな。魔力で場を整える、というのは、己の魔術を描きやすくする為に最適化することだからね。もちろん、そうでなくては魔術の発動が出来ない訳じゃない。適正、属性によっては、全く関係なく発動が可能であったりもするし、逆に、ひとさまの場の上でこそ真価を発揮するものさえある。でも、そうだな……主に黒魔術師は、いかにはやく魔力を展開し、場を染め替えるか。これが、ひとつ、戦う上での鍵となる。覚えておいて損はないよ」
 また、場の全体に展開するか、個に直に働きかけるかによっても、すこしやり方が違うのだと言う。本来なら個に対する影響、という側面の強い言葉魔術なんかは、ああした展開が不得意であっても良い筈なんだけど。すごいね、頑張ったんだね、と心からの笑みで褒められて、ツフィアは無言で一礼した。ゆるく微笑まれるのに頷いて、ジェイドはゆっくりと言葉を告げていく。
 帳面に言葉を書き連ねていく者たちが、苦としないような速度で。
「展開が完了したら、いよいよ魔術の発動だね。言葉によって魔力を引き寄せ、編み、紡ぎ、加工して、世界に解き放つ。……錬金術師はまた、やり方がすこし違うのだっけ? エノーラ?」
「そうよ。でもそこを網羅すると、ややこしくて複雑で長くなるから、今回は例外としてちょうだい。気になるなら、錬金術師の教本でも読むのが手っ取り早いわよ。初級ね」
「ありがとう。さあ、ここで違いとなって現れてくるのが、さきほど言った個性だね。魔術師としての適正より、属性より、この言葉には、各個人の意志が反映される。……心が」
 心というのはどこにあると思う、とジェイドは言った。問いかけるのではなく。柔らかく語りかけた。それは胸とか頭とか言われるね。鼓動の一番近く、思考の一番奥にあるものだって。でも、本当はどこにあるのか、誰にも分からない。誰もが持っていながらも、明確な置き場を知らないでいる。心とは思考のことかも知れないし、感情のことかも知れない。記憶そのものかも知れない。
 分からないね。俺も分かってる訳じゃないんだよ。ひとも、魔術師も、ただそれを持っている。心というものを。自分でも手の届かない、どうすることができないものを、ただ持っている。魔術師とは、とジェイドは歌うように言った。
「その心を、具現化できる者ではないかな、と思います。……特に魔力の視認に長けた何人かと、ソキは見えた筈だね? 場を染めかえる魔力がどんな風であったか。紡がれる魔術が、どんな形を成していたか。それが、ひとりひとり、形の違うもの。個性。魔術師の、心だよ」
 それを決めたり、選んだりすることは誰にもできない、とジェイドは言う。決まっているものではない。けれども、そうあれかし、と言わんばかり、世界がそれを手のひらまで下ろしてくれたような。そういう気持ちで、はじめての魔術を紡いだ者もいるんじゃないかな。満たされるように。この為に、己の魔術はあったのだと。その為の魔力の形であったのだと、いつか感じることがあると思う。それが幸福に満ちていればいいと思う。
 思うよ、と目を伏せてジェイドは言った。その横顔が泣いているように見えて、ソキは思い出していた。ジェイドの魔力。足元に広がる、透き通った湖面にすら思えた、あの魔力。あの水面は。たくさん流れ落ちた、涙だったのかも知れない。ソキがなにも言えないでいるうちにジェイドは顔を上げ、どこまで話したかな、と綺麗に微笑んだ。その頭の上で、ましろいひかりがふこふことしている。
 心配ないのよ、とソキに告げるようだった。大丈夫よ、とあまい声がソキに囁く。ひとりじゃないの。ひとりに、しないの。だからね、ジェイド。もう泣かないでいてね。しゅにはここにいるわ。しゅに、いっしょにいる。ね。もう、さびしく、ないね。なかないで。ないても、どうか。いっしょにいるって、おもいだしてね。
 ソキは息を吸い込んで、ただ、その祈りのような、言葉のように響く、魔力の奏でる音に耳を澄ませていた。
「……ソキ? 聞いている?」
「はにゃ?」
 それなのに、急に話しかけられたので。ソキは目をぱちくりさせながら首を傾げた。あー、と妖精が呻いている。ソキ、と耳元で、ロゼアが苦笑ぎみに囁いた。
「疲れたなら、お部屋に帰ろうか? また頼んで見せてもらおうな」
「魔力は安定してるから、いても大丈夫だとは思うけど……お昼寝したけど、ねむい? ぽやんとしてたろ」
 ぱちくり、もう一度、瞬きをして。ぱちちんっ、と手を打ち合わせて、ソキはなにをしていたのかを思い出した。だっ、だいじょうぶですぅソキはばっちりきいていたですぅ、と言うも、ジェイドはくすくすと笑っている。申し訳なさそうに、ましろいひかりがふこふこと収縮しているのが見えた。ああ、なら、やっぱり、とソキはひとり頷く。あの言葉は、やはり。ほんものの、声、なのだ。
 それを伝えるかどうか迷って、ソキはいじいじと指を擦り合わせた。言い訳だと思われると悲しいし、けれども、ジェイドにはたんぽぽちゃんの声が聞こえないのだとしたら、それはそれでやはり悲しいことだ。結局、うにーっ、と呻いて、ちがうもんちがうもんちがうんですぅ、とごねたソキに、ましろいひかりが申し訳なさそうにふこふことしている。
 妖精は同族の妙な動きとソキのいじけた様子を見比べてなにかを察すると、ジェイドに向かって大丈夫よ、と声をかけた。
『ソキの、いつものよくある注意散漫だから。続けてちょうだい。……さ、集中できるわね?』
「は、ぁーい、で、す、ぅー……」
 ソキはしぶしぶと頷いた。妖精の目はソキが察したことに対して大方の理解があったが、それを口に出すことを許してはいなかった。そのまま胸に秘めていなさい、やればできるんだから。ただし体調を崩しそうならやめてロゼアにでも言いなさい、とこそりと言い聞かせてくる妖精に、ソキはこくりと頷いた。やればできるソキ、やればできるソキなのである。
 そうであるので、ソキはこっくり頷いて、なぜか誇らしげに口を開いた。
「ソキはぁ、ちょっと、考えごとをしていたんですけどぉ、詳しくはひみつ。ひみつなんでぇ。……あっ、ジェイドさん? ソキはもちろん、ジェイドさんの魔力が、しゃわしゃわきららんっと広がったのも見ていたですよ。あのね、お水なの。水辺なの。六月のね、新緑の時期の、よく晴れた日の、きれいな川辺のお水なの。湖みたいなの。そこにね、しゅるしゅるってお花が生えるの。たんぽぽちゃんなの!」
「……あとで、絵に描けるかな?」
「もぉっちろんですうう! おにいちゃ、あっ、ウィッシュせんせいのはもう記録したですしぃ、書いてはいなかったですけど、覚えてるですから、ストル先生のだって、ツフィアさんのだって、ロリエス先生のだって、ジェイドさんのだって、もちろん描けるですよ。あとで描いてあげるです? ……りょうちょも、ご希望があれば、ソキにましゅまろーなどを持ってきて頼み込んでもいいんですよ。いたしかたのないことです……ましゅまろーに罪はないですからね……」
 ソキったらほんと、白雪の一件以後、口止め料というか裏工作というか、いや全然裏になってないんだけど、なにかと要求すればもらえることを学んで困るわ、と心底一度目で止めなかったことを悔いている眼差しで、妖精がうんざりと息を吐く。ジェイドはくすくすと笑って、あとで頼もうかな、と囁き、ロゼアがいいと言ったらね、とぱちりと片目を閉じてみせた。傍らで、ルルクが胸を手で押さえて呻く。
 顔が良いとは攻撃力である。これはひどい、と涙声で呻くルルクに、疲れたね、もうすこし頑張ってくれるかな、と斜め上の気遣いで優しく柔らかくそっと止めを刺しながら。ジェイドはぐるりと室内を見回し、それじゃあ実際の魔術発動に移ろうか、と笑った。
「魔術を見たいと言っていたね、ソキ? どういうのがいいのかな? 教えてごらん?」
「きゃあん! えっとぉ、うんとぉ……しゃぱぱっとして、しゅいーんっとして、きらーんっとするのがいいですうぅ!」
「うんうん、わかったよ。そういうのだね」
 なにがどうして、なにを理解したというのか。戦慄と疑いの眼差しを向ける妖精ににっこりと笑い返して。ジェイドはすっと背を正して立ち直した。前述したように、魔術とは、と声が響く。
「ああした野外演習ならば、場を魔力で染め替えるのが定石だ。勝つ為にもね。先手必勝だ。でも、室内ですこし発動するくらいなら、別に広げなくてもいい。……よぉく見ていてご覧、ソキ。こうするんだよ」
 ふわ、と場に水の気配が現れる。それは雨が降る直前の空気のようにも、蒸し暑かった昼を超えた夜の、しっとりとした滑らかさのようにも感じられた。ぱちくり瞬きをして注視するソキの視線の先、ジェイドの足元にだけ水が現れる。浅い水たまり。一瞬だけ足元に現れ、蒸発したかのようにすぅっと消えてしまう。ジェイドは微笑んで、なにかを受け取るように両手を前に差し出してみせた。
「『乾いた地に滾々と湧きいずる命の水よ。花を潤し、涸れた喉を潤し、命となり循環していく水よ、水よ。どうか口付けのように、この指先に触れてほしい。この手の中で咲いてほしい。形なき水、大気に溶け込むもの、地の深くから湧きいずるものよ。どうかこの乾きを癒やすだけの水量よ』……そして、また」
 紡いだ糸の色を、継ぎ足して変えるように。するすると編まれていく、糸の細い魔力が絶えるより早く、ジェイドはそこにもうひとつ付け加えた。
「うーん……『我が麗しき、いとしい花よ。きみの、』そうだな……『きみの愛らしい手に触れられた、ころんとしたまるい、手毬。そう、あの手毬。思い出の中より蘇り、水よ、いまひとたび、その形を我が目に触れさせたまえ』……かな?」
「……かな? って、なんですかそれ」
「うーん、今考えながら詠唱したから、こんなものかなぁって」
 でもほら、上手く行ったからね、とぽかんとするルルクに笑いかけるジェイドの手のひらの上。ぱしゃん、と水が生まれた。見えない水差しから注がれていくように。とぽとぽと指先から溢れた透明な水は、しかし重力に逆らって、零れ落ちることなく手のひらに留まった。ソキの使う大きさの、コップ一杯ほどの量あらわれた水は、ゆるゆると透明な手毬と成った。まるで、繊細に形作られた氷のように。
 ジェイドがころん、と手で転がすと、水はふよふよと空を泳ぐ。ぴかーっ、とましろいひかりが発光した。興奮しているようだった。ソキはぱちくり目を輝かせ、ふよふよと漂ってくる手鞠を見つめる。なにせ水である。繊細な形をそのまま移していても、色合いまでは難しい。しかし、ソキはそれが、ひよこみたいな黄色をしていると、知っていた。見たことがある。幼いソキの遊び相手のひとつ。
 見間違いでなければ、その手鞠は、確かに。いまも寮の四階にある筈である。ソキの大切な宝物のひとつ。なぜならそれは、ソキの母が残してくれたものだからだ。ぱちくり、瞬きをして、ソキは水の手鞠を凝視した。やっぱり、ソキの手鞠に見える。
「ふんにゃぁ……? ロゼアちゃん、ロゼアちゃん。あれはソキのじゃないの? ソキの手鞠のお水じゃないの?」
『すごくよく似てるか、同じものだってあるでしょうよ』
「ないもん。おなじの、ないもん」
 なぜなら、『花嫁』に渡されるものだからである。なにからなにまで、と言ってしまっても構わないほど、基本的には個々に合わせて全ては整えられる。服も靴も、香りも化粧も、本も筆記用具ひとつ取ってもそうなのだ。いくつも生産されるような品ではないのである。ソキの声を聞き留めたましろいひかりは、ジェイドの頭の上からぴょーんと飛び立った。
 のたくた、ちまちま、ふらふらした動きでソキの元へやってくるのを見守ってやりながら、妖精は半眼で腕組みをして頷いた。先程は疲れていたのかと思ったのだが。これは恐らく、この動き、この速度が通常なのだ。ソキの仲間なら、たぶん有事にはすばやく動いたりもできるのだろうが。できるのと、普段からそうなのだというのは、天と地ほどの違いがある。
 途中で水の手鞠を追い越して、とろとろとやって来たましろいひかりは、きらきら輝く目のソキの頭の上に、ぴょーんとばかり飛び乗った。ぴこぴこ、右に左に揺れ動きながら、ぺかぺかちかかっ、と明滅している。ごきげんなお歌を歌っているに違いないです、とソキはきゃあんと身をよじった。
「やぁーん! よく分からないですけど、ソキもうれしですー!」
『分かってから嬉しがらないトコがソキよねぇ……』
「うふん! たんぽぽちゃんも、あのお水の手鞠が好きなの? きれーですねぇ……。あっ、ソキいいことを思いついたんですけど、それをそのまま、凍らせて、さむーい所に置いておけばいいのでは?」
 名案ですうう、ぜひともそうして欲しいですぅう、とちたぱたするソキに苦笑して、一度現出したものの温度変化は不得意なんだ、とジェイドは言った。
「だから、それはまた、今度ね。……魔力の動きはちゃんと見てたかな?」
「うん! あのね、しゅるしゅるっとなって、しゃぱぱーで、きゅるっ、として、ぽよーんなのー! とっても綺麗で可愛かったです! ねえねえ、いまのはなにをしたです? どうしてああなったんです?」
 分かるような分からないような擬音にも、ジェイドはくすくすと笑みを深めて。じゃあ教えてあげようね、と『花嫁』たちに囁いた。



 きらきらした愛を、世界中の綺麗なものを集めたらジェイドの魔力になるだろう。ソキはそう感じたし、妖精もそう思ったに違いなかった。きらきらした欠片は集まり、降り積もると透明な水に変じた。湖のように凪いだ湖面。それでいてそこには、幾億の想いが揺らめき、とろとろと蕩けるようなひかりを滲ませている。想いによって変じた、愛による魔術をあやつる人。
 ソキはジェイドの魔術を見て改めてそう感じたし、室内の者もそこまでではなくとも、なにか察するものがあったのだろう。顔を赤らめる者、うっとりと見守る者、嬉しげにはしゃぐ者、居心地が悪そうに身じろぎをする者。反応は様々だったが、誰一人として場を中座する者はいなかった。ジェイドの操り紡ぐ魔術は、巧みだった。黒魔術師として、手の内を明らかにしたかといえばそうではない。
 戦いの術らしきことはなにもせず、防衛の手法を晒すでもなく、ジェイドはただソキとウィッシュが喜ぶままに、様々なものを作り上げた。水で出来た手鞠、氷の花畑、両手のひらに愛らしく現れる虹、もくもくと漂いながら雨を降らすちいさな雲。朝露を纏ったがごとき蜘蛛の巣めいた、繊細でか細く、強靭でうつくしい魔術だった。
 次々と様々なものを作り上げては花たちを喜ばせる姿は単純な子守にも似ていたが、見ていたエノーラたち錬金術師はみんな舌を巻いていたし、妖精はよくやること、と呆れ混じりに呟いた。それは研鑽されきった魔術の術でありながら、本当に何一つ、手の内を晒していない、と聴講する魔術師たちを戦慄させる一幕だった。砂漠の国を彼の男がどう守護しているのか、その欠片すらつかめない。
 手毬は出来ないけど、どうしてか花だけは凍らせられるんだよね昔から、と己が成した成果を見下ろしながら首を傾げ、ジェイドは次はなにがいいの、とウィッシュに問いかけた。ソキの言うことばかり聞いていたらぶんむくれて拗ねたので、途中から交互に尋ねているのだった。ソキは魔術が見られさえすれば文句はないので、機嫌よくロゼアの膝でちたちたきゃっきゃとしている。
 ウィッシュはうぅん、と目をきらめかせながら悩み、きれいなやつ、と言った。もう何回目になるかも分からない、きれいなやつ、に困るでもなく微笑んで、ジェイドは分かったよと囁いた。ポケットを探ったあと、手のひらが引き出されひるがえる。その手に載せられていたのは、色とりどりの飴玉だった。ふここここっ、と興奮したように、ソキの膝の上でましろいひかりが反応する。
 ジェイドはそれにうっとりと笑いかけ、慈しみ溢れる声で囁いた。
「どう言ったかな……そう、『借りたものをひとつ、新しいものをひとつ、古いものをひとつ、祈りをこめて。いとしい花、君が、喜び咲いてくれるなら、どんなことも……どんなことも。例えば、雨が降るのに飽き飽きしたきみが、飴ならいいのに、とむくれたこと。他愛ない空想、言葉遊び。けれどもそれが現実になるなら、こんな素敵なことはない。……口に含む甘さをしあわせだと呼ぶ君へ、しあわせの雨を。飴を。ぱらぱらと降り積もる雨は水。水ならばそれは我が領域のもの。親しく世界を分かち合う友。友よ、友よ。この祈りを聞き届け給え。……そう、雨。雨になれ。水滴が舞い上がり雲になり、大地に戻っていくのと同じ動きで。これは雲になり、雨になり、ぱらぱらと降り積もる幸福になるだろう』……さぁ」
 愛を。愛の言葉を、思い出を。そのまま告げていく魔術詠唱をうっとりと囁いて。編み上げた魔術を差し出しながら、ジェイドは手の中に転がる飴玉に向かって、目を細めて笑いかけた。
「……いっておいで」
 きらきら、ちかちかしたものが。ひかりが。ジェイドをやさしく取り巻いている。それは世界からもたらされる魔力で、ひかりで、愛だった。ひかりと水の愛成す魔術師。満たされたひと。ソキから見たジェイドという魔術師は、そういうひとだった。くるくると、魔力の欠片が踊るように舞い始める。穏やかな旋回。それは木の葉が風に巻き上げられるのに良く似ていた。
 くるくると旋回する魔力がジェイドの手のひらから包み紙を残して飴玉だけを拾い上げ、その形を瞬く間にとろけさせる。飴玉は綿飴の雲になり、ウィッシュとソキを目指してよちよちと空を移動してきた。花たちが期待に満ちた眼差しで見守る中、綿飴の雲は苦労してウィッシュの前にたどり着き、しゅるしゅると絡まった糸を解き始める。そしてまた、とろり、と溶けるように。コン、と音を立てて、机に雨粒が落ちた。涙の形をした飴の粒だった。
 コン、コン、ココン、カチン、と音を立てながら、ぱらぱらと綿飴の雲が飴を降らしてちいさくなっていく。ロゼアが大慌てでハンカチを敷いて受け止めたそれに、遠慮なく手を伸ばして摘み上げて。ソキはきらきらした目で、じーっと、飴の粒とジェイドを見比べた。砂漠の筆頭は、くすくす、幸せそうに笑っている。
「食べられるよ。……ソキは、ロゼアと妖精さんが良いって言ったらね」
「ロゼアちゃあぁああん! リボンちゃんは良いって言ってくれるにちがいないでうううぅう!」
『アタシが駄目って言ったらどうするつもりなのかしらねぇ……?』
 ましろいひかりはぴょーんと飛び上がり、はっしとばかり飴玉を掴むと、ちかちかぺかかと明滅した。毛並みがふっこり、まぁるくなるのを見ていると、とても喜んでいるらしい。ウィッシュがなにも気にせずに口にぽいと放り込むのをちらりと見ながら、ロゼアはちたちたやんやんするソキを上手にあやし、ひとかけ、まずは己の口に放り込んだ。なにかを訝しんだり、怪しんでいる訳ではない。
 はじめてものを無警戒に『花嫁』に与えるなんてことは、絶対にあってはならない。ただそれだけの、『傍付き』の習いである。どんなささいなものが、悪く作用するかも分からないのだ。ジェイドはそれが分かりきった微笑みで部屋を横断すると、懐から一枚の紙を取り出してロゼアに受け渡す。飴を買った店名と日時、分かる限りの原材料とその生産地、加工主の名までが書かれている。
 妖精はその用心深さに呆れ果ててジェイドを見たが、ロゼアはほっとしたようにその紙を受け取り、ありがとうございます、と言ってからソキに頷きかけた。
「ソキ、食べてもいいよ。でも、すこしにしような。はい、あーん」
「あーん、あむむっ。……あまーくて、おいしーですー! ジェイドさんは、飴の雲をつくれるの?」
 なんにもないところからはできないよ、と笑いながら、ジェイドはロゼアに飴玉の包み紙を提出した。見ようによってはゴミを押し付けているだけなのだが、ロゼアは謹んでそれを受け取った。素直なロゼアに可愛がるような笑みを浮かべ、ジェイドはよしよし、と言ってロゼアの頭をくしゃくしゃに撫で回した。ロゼアには予想外の動きである。予想外すぎてぽかんとしている間に、ジェイドはてくてくと部屋の中央へ戻ってしまった。
 ころころ、飴を転がしながら、うんしょと伸びたソキが、ちまちまとロゼアの髪を整えてくる。は、と何拍も遅れて声を零したロゼアに、ウィッシュが、あー、いーなぁー、と遅れ気味の抗議を響かせた。
「ロゼアったら、パパになでなでされた……!」
「な……え……? な? え? すみません、いま、なにが……?」
『ふぅん? たまには可愛げのある反応するんじゃない』
 たまにはそうやって呆然としたり、誰かの手のひらで転がされたりすればいいのだ。ざまぁみろ、とばかり喜ぶ妖精に、ソキはもぅー、と頬を膨らませる。
「リボンちゃんたらぁ、すぅぐロゼアちゃんをいじめよとするんだからぁ。いけないでしょ! いじわるさんの、いけないこになっちゃいますですよ!」
『はぁん? ロゼアが、アタシがいじめたくらいでぴいぴいするならもっと話は簡単だったのよ? そうじゃないから、アタシが余計な苦労をしているの。つまり、ソキが労ったりしないといけないのはアタシであってロゼアじゃないのよ? お分かり?』
「……そうなのぉ?」
 そこで言いくるめられるのがソキであり、されきらなかったのは相手がロゼアだからだろう。うーん、うーむむっ、と眉を寄せて愛らしくなやむ『花嫁』を抱き寄せ、ロゼアが穏やかな声で囁きかける。
「ソキ、明日の試合が終わったら『お屋敷』に帰ろうな。準備はしておくから、ソキはなにも心配しないでいいからな」
「ふにゃん? はー、ぁー、いー!」
「うん。ロゼア、ちょっとゆっくりしてきなよ。ロゼアには休養と癒やしが必要だよ……」
 ごめんね守ったり庇ったりしきれなくて、と申し訳ながるナリアンとメーシャに、ロゼアは無言で首を振った。二人がいてくれることで心底助かっているし、救いにも癒やしにもなっている。心からそう告げれば、ナリアンはほっとしたように、メーシャは嬉しそうに華やかに笑い、そうしなよ、と改めてロゼアの帰省を支持した。
 ああいうとこ、ハドゥルそっくりで可愛げがなくてほんとにかわいいなー、とにこにこ見守られているとは知らず。ロゼアは不思議そうなソキを抱き締めて、そうだ家に帰ろう、と決意を固めている。ソキは飴玉をころころ転がしながら考え、ぱちくり瞬きをしたあとに、じゃあ、とすこしばかり残念そうにジェイドを見つめた。
「魔術を見せてもらうのは、いまので最後にするです……。ジェイドさん、ありがとうございましたです」
「どういたしまして。満足してくれたかな?」
 ソキはちょっぴり考え込んだものの、素直にこっくりと頷いた。とてもとても綺麗で、わくわくして、素敵な魔術ばかりだった。披露された数は十を軽々と超えていた。ありがとうございましたです、とお礼を言うソキにジェイドは満ち足りた笑みで頷いた。またなにかあったらねだってくれてかまわないからね、と甘やかされたので、ソキはきゃあんやぁんと身をよじって喜び、ウィッシュはぷぷーっと頬を膨らませた。
「パパったら、ソキに優しい……」
「ウィッシュだって、もちろん、わがまま言っていいんだよ。なぁに? なにして欲しいの?」
「えっ、えと……待っていま考えるから……!」
 うん、と微笑んでジェイドは頷いた。ゆっくりでいいよ。焦らないで。もうずっと、ウィッシュの声の届く所にいるからね。どこにも行かないよ。ね、と囁き言い聞かせる、その言葉にこそくふくふと笑って。ウィッシュははぁい、と甘く返事を響かせた。さぁそれじゃあ、とジェイドは両手を打ち合わせる。
「今日の所はこれでおしまい。みんな、なにかの参考になったかな? 質問や疑問があったら、あとで紙に書いてまとめてくれると嬉しいな」
「いやー、学生は質問とかあると思うけど、王宮魔術師はとうとうなにひとつ手の内を明かさなかったぞこの筆頭……って戦慄するので忙しくてそれどころじゃないと思うっていうか……。筆頭ほんと……ほんとそういうとこある……そしてほんとそういうとこだからね……」
「うんうん。フィオーレは反省文とかの用意しておこうな。陛下はご立腹だからな」
 そもそも、ジェイドが大会に参加した公的な理由は、フィオーレを砂漠に連れ戻す為である。例の一件からどさくさ紛れに連れ去られた、までは容認していた砂漠であるのだが、こうも長期的に留守にされ、かつ本人からも戻ってくる意思を感じないとなると話は別である。陛下怒っていたよ、あと俺もそこそこ思うところがあるからね、と穏やかに笑う筆頭に、砂漠の白魔術師は青褪めた顔で天を仰いだ。その穏やかさが見かけだけのものだと、身を持って知っている為である。
 埋められるのとかはほんと勘弁して、と呻くフィオーレに、ジェイドはゆっくりとした仕草で首を傾げた。ジェイドを視界に収めていた者たちが、思わず息を飲み見つめてしまうほど。うつくしく、はっとするような、きよらかな仕草。万物を魅了する『花婿』じみた微笑みで、ジェイドはふふ、と笑みこぼした。
「やだな、フィオーレ。そんなことする筈ないだろう?」
「あーあぁあああ……! 俺これ知ってる……! やだなフィオーレ、そんな想像の範囲で収まるような折檻であるはずないだろう? の略式だー!」
「反省して、もうしませんって言えば良いんだよ。分かるね?」
 幼子に言い聞かせる声そのもので語られて、フィオーレはうつろな眼差しで怖い、とだけ言った。そこで、もうしない、だとか。そんなことを言えるようなら、そもそも、こんなに長期的に花舞に留まっていたりはしないのである。女王陛下にも困ったものだね、とジェイドにだけ許されるような公然とした非難を口に載せ、麗しい男は、まぁ今回は諦めようね、と言った。
「なにを言っても、俺が勝った事実は覆せないことだから」
「むすこさんが攻撃的なの、筆頭にものすごーくよく似てると思います……」
 すぐに手が出るあたりとか、物理に訴えかける所とか、勝てばいいと思っている所とか、顔がいい所とか、その顔の良さで色々許されている所とか、実にそっくりである。そうかな、と照れくさく嬉しく幸せそうにはにかむジェイドに、フィオーレは心底頷いた。
「そっか……。あ、でも、ウィッシュはシュニー似なんだよ、フィオーレ? 世界で一番かわいいだろう?」
「派閥争いに巻き込まれたくないので回答は控えさせていただきます我が筆頭……!」
「照れなくてもいいのに」
 さらりと言い切って、ジェイドはおいで、とまだソキの膝上でもちもちふこことしていたましろいひかりを呼び寄せた。ましろいひかりは、はぁい、とばかり飛び上がると、ソキの頬にすりすりもふりとくっついて、ちかぺか明滅してからジェイドの元へ戻っていく。その、まぁるい影が。一瞬だけ、少女のかたちに見えたので、ソキは目を瞬かせた。ぱちくり瞬きの間に、それはもうまるまるしい影に戻ってしまっていたのだけれど。ぱち、とソキは瞬きをする。
 まなうらに、意識の明滅、その影に。花を見る。花のかたち。手毬の模様。花のかたち。少女の影。花のかたち。花の。陶器の。『 』の姿を、まなうらに宿す。

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