なんだか不安なような、苛々するような、ぐるぐるするような、どきどきするような。とにかく落ち着かない気持ちがいつまでも続くので、ソキはくちびるをむっつり尖らせながら、お風呂上がりのロゼアにぴっとりくっついた。今日はすでに談話室から引き上げてナリアンとメーシャとも別れ、部屋に二人きりでいるから、とくとくと鼓動を重ねるロゼアの音がよく聞こえた。
ぐりり、と頭を擦りつけてさらにくっつけば、ふっ、と満ちた吐息が降ってくる。ソキ、そき、そーき、どうしたの、ととびきり柔らかな『傍付き』の声で囁かれて、ソキはすこしばかり落ち着いたような気持ちで、ロゼアにきゅむっと体をくっつけ直した。
「あのね、ロゼアちゃん。もやもやなの」
「もやもやなの? ……やだな、ソキ。困ったな」
抱き寄せてくるロゼアにはふ、と息を吐き出して、ソキはこくりと頷いた。そう、困っているのである。うぅん、とロゼアがソキの腰を抱き寄せ、お腹をゆったりと擦ってくる。月の触りはもうすこし後の筈だけど、と心配そうに呟かれ、ソキはくすぐったさにきゃふふと身をよじった。
「くすぐったぁーいですぅー。ソキをこしょってしちゃだめぇー!」
「こしょってしてないだろ、ソキ? 撫でてるだけだよ。……ほら」
「きゃふふふふ! こちょちょっとしたぁ! ロゼアちゃんがソキをこちょちょっとしてるですううぅ!」
ちたちたきゃふふとご機嫌に暴れるソキをやんわり抱き直しながら、ロゼアは冷静に手早く『花嫁』の体調を確認した。ここ数日は穏やかなれど、ゆっくりしている、とは言い難い。体調をおかしくする兆候があってもおかしくはない為だ。しかしロゼアの不安を裏切って、ソキは元気である。元気いっぱい、といかないのは日中に集中し続けていたからで、お昼寝の時間が常より短かった為である。
ロゼアははしゃぐソキを腕の中に閉じ込めるようにぎゅうと抱くと、はぅう、と言ったきりくてんと力を失ってしまったあいらしい『花嫁』の、うるむ瞳を覗き込みながら微笑んだ。
「さ、ソキ? 今日は夜ふかしは駄目だからな。早めに眠ろうな。分かったか?」
「は、はにゃ……」
ソキはしきりにロゼアの口元を見つめ、もじもじとしては目を閉じてみたり、くちびるをつつんと尖らせてみたり、体を擦り付けてきたりした後、ややがっかりした様子で、ちからなく頷いた。いまのはちうのながれではなかったのです、ソキのみりょくが、めろめろりょくが、とくすんくすんと呟くのを、ロゼアは無言で抱いていた。なにを望まれているのか。『傍付き』の教育がロゼアに目隠しをする。それを取り払う手段はひとつだけ。ソキの言葉が必要だった。
求めて欲しい。はきとした、その言葉で。明確な指示として表されなければ、理解しないように、と育てられるのが『傍付き』なのだから。そう求めるなら、許して欲しい。咲き誇る花を手折る許可を。熾火のような意識から、今またそっと目を反らして。ロゼアはとんとん、とソキの背を撫で、瞼の上からそっと手をかざして『花嫁』の視界を遮った。
たくさんのものを見てきらめく、ソキの瞳をいとしいと思う。そして。ロゼアのことだけを見ていればいいのに、とも、思う。てのなかで、ぱちくり、ソキがあいらしく瞬きをする。睫毛が手をくすぐったので、ロゼアはくす、とはにかむようにして笑った。
「休もうな、ソキ。今日もたくさん見て、目が疲れてるだろ」
「ふにゅう……。ロゼアちゃん? なんでロゼアちゃんが暗くするのは怖くないんです? なんで?」
ソキは、ちっともロゼアの言うことを聞いていない。暗いのに怖くないのを不思議がるばかりで、ロゼアの腕にじゃれついては、まぶたにくっつくぬくもりに幸せそうに笑っている。俺だからだろ、とロゼアは言った。そのことを疑うことすらなく、囁いた。暗いの怖いな、でも俺がしていて、すぐ傍にいるからだろ。怖くないよ、大丈夫。なにがあっても一緒にいるよ。なにがあっても。
幼い頃から誓いめいた響きで、何百回も繰り返してきた言葉を、嘘偽りなく捧げていく。『お屋敷』にあった時と違うのは、一緒に、というのが期限のある言葉ではなくなったことだろうか。それはもう本当に、ずっとなのだ。ソキがいらない、とロゼアを遠ざけない限り、求め続けられる限り、傍にいる。離れない。ソキ、と囁いて、ロゼアは『花嫁』と額を重ねた。目を塞いだままで。
ソキ、そき、と幾度も呼んで、肌を擦り合わせる。
「……俺の『花嫁』」
満ちた祈りと、幸福がある。ロゼアの祝福は、きっと、ソキの気配で満ちている。確信をもってそう感じていられる。祈りも、希望も、満ちたるもの、しあわせの全てが、ここにあるからだ。今は『花嫁』としか、表す言葉を持たないでいるだけで。ロゼアは知っている。嫁ぐ必要がなくなった以上、『花嫁』が一番のしあわせを感じるのは、『傍付き』から離れないでいることだと。
ソキは。ロゼアと共にあるのがしあわせなのだと。『傍付き』としての自負が、誇り高く告げている。もう離さないでいていいのだと。ソキはしばらくロゼアのなすがまま、てのひらを睫毛でこしょこしょとくすぐっていた。妖精はシディを水洗いに行ったまま、まだ戻らないでいる。
「ねえねえ、ロゼアちゃん? あのね、あのね」
「……うん? 寝ような、ソキ」
言いながら、ソキの言葉に眠気がまるでないのに苦笑して、ロゼアはそっとてのひらを退かした。まばたきの向こう。きらきらと輝く瞳が、ロゼアを一心に見つめている。ソキはご機嫌に、にこぉーっ、と笑った。
「あのね、ロゼアちゃん。スケッチブック、とってぇ? ねえねえ、はやくぅはやくぅ。ソキ、お絵かきをするです!」
「明日にしような、ソキ? 今日は色々あって疲れたろ。あーしーたー」
なんとか寝かそうと体を揺らすも、ソキはいやんいゃんと甘くむずがるだけで、一向にうとうととしなかった。スケッチブックをくれないならロゼアちゃんのおなかに書いちゃうですぅ、と悪戯したがりの声できらんと目を輝かせて言い放ち、人差し指でロゼアをくすぐってくる。何回退けてもソキは諦めず、結局折れたのはロゼアだった。
六回目の、おなかくすぐるの駄目だろ、の言い聞かせをしながら、ロゼアは溜息とともにソキのスケッチブックを引き寄せる。
「三十分だけだからな、ソキ。それ以上は明日にしような。分かった?」
「はぁーいはーい!」
『まぁた勢いで返事して……賭けてもいいけど、絶対に聞いてないとか言ってないとかごねるわよ?』
戻ってきた妖精が、今日も水でびたびたのシディをハンカチめがけて投げ落とすのを見ながら、ロゼアはそっと眉を寄せた。起きませんか、と囁く声で問う。スケッチブックを受け取ったソキがぺらぺらとめくってなにか考えながらも、同じ問いの視線を向けてきたので、妖精は仕方なく腕組みをしてやった。
『さっき起こし、起きたわよ。また寝たけど』
「……なにかなさいましたか?」
妖精は、そのロゼアの丁寧さを心底気に入らない様子で鼻を鳴らすと、なにも、ときっぱりした声で言い切った。言い切ってから告げた。
『ただちょっと厨房まで行って、沸騰する鍋の上を飛んだら起きたのよね。落とすとでも思ったのかしら? 失礼しちゃうわ』
「……厨房でなにを?」
『蜂蜜が飲みたくなったのよね。でも狩りに行くには時間が遅いし、既製品で我慢してやったのよありがたく思いなさい』
ソキの上から目線の三割は、周囲の言動からの学習によるものである。『傍付き』の正確で冷静な判断を口には出さず、ロゼアはそうですか、と頷いた。道理で思っていたより帰りが遅い筈である。ソキ、リボンちゃんが狩りをしている所を見てみたいですぅ、と好奇心いっぱいにろくでもないおねだりをしかけるソキに、ほら書くんだろ、と鉛筆を握らせて。
ロゼアは呆れ果てた顔をする妖精に、やんわりと微笑みかけた。
「それで、シディはどうでしたか? 元気で?」
『……そうね。感じないでいい悪寒に飛び起きたわりに、寝ぼけてもいなかったし。もう数日すれば起きるんじゃない? あー、心配して損した! ったく、鉱石妖精を煮るわけないじゃないの馬鹿なの?』
妖精はひどく機嫌を損ねた様子で、今日も元気よくがしがしごししと鉱石妖精を削りかねない勢いで拭いている。描くものを決めたのか、ふんすっ、と鼻をならして鉛筆を走らせ出すソキをあやしながら、ロゼアはそっと言い添えた。案内妖精の名誉のために。
「シディは、あなたのことが心配だったのだと思いますよ。花は熱に弱いし、試合のあとで様々影響もあるでしょう。シディを抱えて飛ぶのは重いでしょうし、万一、ということも考えられますから」
妖精は、舌打ちをして鉱石を睨みつけることでロゼアの言葉に応えた。これくらい訳ないわよ、と唸る妖精は、重たくない、とは言わないのでそういうことなのだろう。ロゼアが手に持ってさえ、ずしりとした重量を感じさせる鉱石だ。不思議なことに、シディが妖精としての形をとっていた時より、ずっと質量があるように感じる。
その疑問を口にして、そういうものなのですか、と問うロゼアに、妖精は珍しく、舌打ちをせず悪態をつかず噛みつきもしない口調で、そういうものなのよ、と言った。
『分かりやすい例で言うと、樹木妖精ね。アイツらの本体なんか木よ、木。多くは巨木だもの。でも、妖精としては特別重たくもないわ。特にアタシたち花妖精はか弱いから、強風に飛ばされかねない軽さのもいる訳だし?』
ロゼアは微笑んだ。謹んで沈黙を選び取った。もしも本当に種族としてそうなのだとしても、常のソキの妖精は暴風の中でさえ軽やかに飛び回り、飛ばされていく妖精があればどんくさいと鼻で笑い、呆れながらも助けに行く。そういう面倒見の良い性格をしている。なによその顔なにか言いたいことあるなら言ってみなさいよ呪うけど、いえべつになにも、と無言で視線を交わし合う妖精とロゼアに挟まれても気にせず、ソキはせっせとお絵かきを続けていた。
うにゃんともふにゃんとも鳴かないので、迷いなく、悩みもなく、するっと集中に入ったらしい。妖精はシディの拭き仕事に一段落つけると、本体をロゼアの手にぽいとばかり受け渡し、軽やかな動きで魔術師の元へ戻った。すとん、とばかり、頭の上に着地する。ソキはそれでも視線をあげなかった。ゆるゆると瞬きを繰り返しながら、視線を一心に紙面に落としている。鉛筆の動きは迷いがない。
ソキは瞬きをしている。ゆっくりと。それでいて、しきりに。そのまなうらに宿った形を見つめて、とりだして、紙の上に落とそうとしている。声をかけず、ロゼアも妖精もそれを見守った。ソキの描く線は繊細で、はじめはなにをうつしているのかも分からない。しかし、だんだんと、その輪郭が現れていく。細部の彫刻が完成しきったものを、砂の中から掘り出していくような。端から完成したものを描いて書き込んで行く。普段のソキにはない描き方だった。
全体のあたりを取ったあとは、端からひたすら細かく書き込んで行く。花の細工のされた器のようだった。ちいさく、ソキの両手でも包み込めるだろう。ソキはそれを全体の一割とすこし、二割には満たない程度描き込むと、ぴたりと手を止めてまばたきをする。ぱちくり、あどけない仕草。くてん、と首が傾げられ、あれ、と不思議そうな声がこぼれ落ちた。手は完全に止まっている。
そこではじめて、ソキ、と声をかけた妖精に、ソキは困り眉でリボンちゃぁん、と呼んだ。
「なんだか分からなくなっちゃったです……あれれ? さっきまで、さっきまではソキは、確かに、ちゃんと……あれぇ……?」
しきりに瞬きをして、目を擦って、ソキはくちびるを尖らせながら首を傾げた。うーん、うぅーん、と諦め悪く唸るも、どうにもならないらしい。ロゼアと妖精が見守る中、しおしおと力なくしょげかえったソキは、ずび、と鼻をすすり上げて訴えた。
「分からなくなっちゃったです……もうちょっとだった気がするですのにぃ……」
「ソキ、今日は疲れたんだよ。また明日にしような」
「うん……」
ソキ、ロゼアちゃんの言うとおりする、と素直に頷いて、ソキはしおしおとしょげながらスケッチブックをぱたんと閉じた。ロゼアが手早く片付け、ソキの手を丁寧に拭ってから抱き寄せ直す。ころん、と寝台に横になりながら、ソキは妖精を見上げて瞬きをした。瞳には、どこか不思議そうな色彩がある。ソキは幾度もその正体を考えては、分からず、やがて諦めたのだろう。
はふ、と眠たげな息をこぼして、妖精に向かって両手を伸ばした。
「リボンちゃーん。一緒に眠りましょうですー。もう夜のおそくですからねぇ……はにゃ……」
『はいはい。ロゼアがいない時にね』
「んもぉー。リボンちゃんたらぁ、すぅぐロゼアちゃんに、おとなげなく、しっとするんですからぁ……」
はにゅ、とねむたさいっぱいのあくびをするソキを、妖精は腕組みをして見下ろした。なんだってそんな結論になるか理解できないが、呪ってやろうかしら、と思う。ロゼアを。円形脱毛症とかになる呪いで。ロゼアは嫌な予感を感じたのだろう。警戒するように見上げてきたので、妖精はいいから寝かしつけなさいよ、と言ってやった。ソキをふにゃふにゃさせていたら、事故が多くなるだけである。
眠たさで、なにを言い出すかも分からない。異論はないのだろう。ぽん、ぽん、と寝かしつける手付きで撫でられて、ソキはねむねむむ、と瞼をおろしてしまった。ふあ、と息継ぎのようなあくびをひとつ。
「じゃあ……リボンちゃん、はぁ……いつもの、花籠、ね……。ソキ、ようく干したハンカチを……妖精ちゃんの……ねぅ……う……」
もにゃもにゃ、言葉にならないようなことを言って。くぴっ、とソキは寝てしまった。数秒無言になり、思わず妖精はロゼアを見た。いつもの花籠とは。ロゼアは心当たりがない様子で首を横に振り、眠る間際のことですから、と言った。いつものことである。起きても覚えていないに違いない。まあ、なにか勘違いでしょう、気にしないわ、と言って、妖精はひらりと空に舞い上がる。
天井近くの火を消す為である。おやすみ、と告げて火を落とす。おやすみなさい、と幸福に満ちたロゼアの声が、ソキの一日の終わりを告げた。
朝からソキの機嫌はよくなかった。お絵かきが上手く行かなかったからである。しかしロゼアが手の中でころころ転がすがごとく、膝から降ろさないで過ごせば食事を終えた頃にはすっかりにこにこちたちたとしていた。転がされやすくて大変結構である。妖精はうんざりした気持ちと安堵感を天秤にかけ、後者だけを注視することに決めて頷いた。もはやソキの長所である。
大事にしていかなければいけない、と気の迷いをいだきかけ、妖精はしかし真剣な面持ちで首を傾げた。というか、これを改善させるとなると、どういう方法が有効なのだろうか。あっさり転がされるのやめなさいと言っても、そんなことされてないもんソキはしゅくじょなんでぇ、など言って聞く耳を持たないに違いないのだし。言葉を警戒心や独立心に変えても結果は同じことだろう。
ひとを疑って行きなさいと言うのもためらいがある。そもそも、ソキにまっとうに誰かを疑う、言葉の裏を読む、などという芸当が出来るとも思えないのだった。感情の機微であればともかく、腹の探り合いというのは、ソキには不得意分野を通り越した不可能領域の話である。いかな予知魔術師とはいえ、そこはどうにもならない所であるし。やれば魔術的な補助くらいはできるだろうが、それは心身、思考を操る領域にも到達することだ。おいそれと行使していいものではない。
第一、魔術を使うなら常時発動でなければ意味をなさないことだ。現実的ではなかった。あー、つまりやっぱりロゼアのせいじゃないのこのろくでなしがー、と今日も元気に難癖をつけながら、妖精はよろよろと高度を落としてソキのもとへ舞い降りた。食事中に傍にいるとソキの気が散るためであり、不機嫌の八つ当たりを受けかねないので遠ざかっていたのだった。
ソキは食後の甘味として与えられた蜂蜜の飴をからころ転がしながら、ふくふくとした幸せそうな笑顔でリボンちゃんですぅー、と手を伸ばしてきた。この、お腹が満ちると機嫌が良くなったり、甘い飴を与えると気分が持ち直す所も、長所として置いておくと便利かも知れない、と妖精はため息をついた。それをちっとも気にせず、ソキはわくわくそわそわした笑顔で告げていく。
「ねえねえ聞いて、リボンちゃん! 今日はね? なんと? フィオーレさんとレディさんの試合なんですよ? 最終戦、というやつです!」
なんでアタシがそれを判らないと思ってるのよこのすっとこどっこい、という罵倒を喉元までせりあげ、妖精はそれをため息に変えて吐き出してやった。たぶん、楽しみなことを共有したいだけなのだ、これは。どうしたのリボンちゃん、ときょとんと見つめてくるソキに、妖精はちからなく頷いた。せっかく機嫌が良くなっているのに、損なう風にはしたくなかった。
『はいはい、そうね。知ってるわ。楽しみね』
「きゃふん! ソキのリボンちゃんったら、物知りさんです! 今日はどんな魔術してくれるのかなぁ、きらきらの、ぴかぴかの、ちかかっとしてるのかなぁ? それとも、ふわふわの、まふまふの、ほにゃんとしてるのですぅ? ねえねえ、ロゼアちゃんはどう思うです? それともやっぱり、しゅぴーんっとしてるです? うううぅん……?」
聞いておいて、相手がなんと答えようと耳に入らないであろう呻きで悩み始めるソキに、ロゼアは満ち足りた笑みで頷いた。そうだな、ソキかわいいな、と笑みである。ロゼアもひとのはなしを聞かないことに関してはかなりのものがあるのではないだろうか。妖精は疑惑のまなざしを向けながら、ソキの肩の上に降り立った。体調は悪くないわね、と情報の共有に話しかければ、はい、としっかりとした声が返ってくる。
確認済みであるらしい。逐一、ソキに関しては逃さない男である。抜け目がない。ロゼアは安心した風に視線を持ち上げ、ゆったりと妖精を眺めやった。
「リボンさんも、体調にお変わりはなく?」
『アタシはソキが元気なら大丈夫よ。ソキを慎重に保護なさい。……アタシの本体もそろそろ落ち着いてきたって、先日ニーアも言っていたし、変わりはないわ』
なによりです、と微笑むロゼアも、今日は体調がよさそうだ、と感じる。あからさまに体調の悪い所など見たことはないが、ここ最近は顔色が悪い日も多かったのだ。原因は確実に心労である。ソキが原因のものとソキが理由のものと、それ以外に理由原因があるものがあるが、なににせよ、ロゼアは疲れている。長期休暇なのだからすこし休ませないといけないかしら、と思案する妖精の見る先で、ロゼアはソキをやんわりと抱き直して歩きだす。
食堂から、一度寮の部屋に戻って、そこから演習場へ行く予定なのだろう。終わったら帰る用意しような、と告げる声がふわりとした喜びで溢れていたので、妖精はとりあえず放っておくことにした。ルルクの女装準備がやや難航しているとの報を受けて、ロゼアは心底安堵しているらしい。最終的に女装が叶えばそれでいいのか、ルルクも特にごねたりはせず、ゆっくり準備しよう、としているのもロゼアにはよかったらしい。
朝食の席で、長期的に計画を無に返そう、とナリアンとメーシャと相談していたのを妖精は知っている。王と取り交わした約束事である以上、時間をかければ立ち消えになるものではないのだが、妖精は優しさでそれを黙っていてやることにした。とん、とん、とロゼアが階段を登っていると、あっ、と背後から声がかかる。リトリアだった。
「ロゼアくん、ソキちゃん、リボンさん。おはようございます。今日も観戦するのでしょう?」
『おはよう、リトリア』
思ったよりも落ち着いている、と思って、妖精は予知魔術師を観察した。少女は朝の光を浴びて、まっすぐにそこに立っていた。階段の下の踊り場で。傍らにストルとツフィアの姿がないのは、今わかれたばかりだからだろう。二人の魔力が祝福のように、リトリアに触れてから溶け消えるのを妖精は視認した。愛を以て触れるように。うつくしく、柔らかく、満ちては消えるひかりたち。
ソキも同じものを見たのだろう。わぁ、と頬を赤らめて喜びに目をきらめかせるのに首を傾げ、リトリアはとんとん、と階段を登ってくる。
「なに? ソキちゃん。どうかした?」
「ソキねぇ、ソキねえ。リトリアちゃんのこと大好きなんでぇ、嬉しいです!」
「ふふっ? うん。ありがとう、ソキちゃん。わたしも大好きよ」
笑い合う二人は平和そのものである。立ち話もなんですから、と誘うロゼアに頷いて、リトリアは一緒に部屋に向かいながら口を開いた。
「あのね、ストルさんはもう攻略できる相手だから心配しないでいいって言うの。でもツフィアはね、それもそうだけど、これまでの試合だって思う通りに行かなかったでしょう、って言うの。でも、心配しないで待っていなさいって」
『アンタなんて言ったの? それで?』
「怪我しないで、悪いことしないで、怖いことしないでねって。ちゃんと、ふたりが傍に来てくれるの、待っているからねって」
ふむ、と妖精はやたらと楽しそうなソキの肩に止まったまま、感心して頷いた。
『大人になったじゃないの、リトリア』
「えっ、えっと……そ、そう? そうかな……?」
『前のアンタなら、怪我しないでとかさせないでとか、同じこと言ったにせよ、もっと不安そうにぴいぴいしてた筈だもの』
そうであるから。だいたい、試合前といえど、二人が傍から離れなかった筈である。離そうともせず。ぎりぎりまで一緒にいたに違いない。一人にしておくとなにをやらかすか、という点はともかくとして、今のリトリアならば大丈夫だ、という信頼がふたりから共にあるのだろう。推測を口にしてやれば、リトリアは頬を薔薇色にしてはにかんだ。
「そうかな……。ふふ、そうかな。嬉しい……!」
以前なら、ここで。そんなことない、だの。違う、だの。まず否定が入っていた筈である。己に対しての自信がなく、想いに対しての自負がない。不安を否定して紛らわせるか、そうして予防線を張って傷に備えるしかできなかった筈なのだ。受け入れて笑ったからこそ。ふたりは、ようやく手を離したのだろう。無垢の信頼がそこにはある。
そうよ、と言って妖精は頷いた。成長と変化を眩しい気持ちで受け止める。リトリアもまた、ソキと同じ、妖精が導いた魔術師であったから。世界に怯え、他者をびくついていた魔術師だったから、妖精はソキのようにはリトリアには接さず。リトリアも、ソキのようには甘えたりしてこなかったが為に、関わりとしては薄いのだが。繋がりがなくなった訳ではなく、心配の気持ちがなかった訳でも、ない。
よかったわ、と心から告げる妖精に、リトリアはにこにこ笑いながら、うん、としっかり頷いた。
「ありがとう、大丈夫!」
「あ、ねえねえ、リトリアちゃん? ストルさんと、ツフィアさん、今日はどんな魔術を使うって言ってたですぅ? ソキにもそーっと教えて欲しいです!」
分かったほうが視認しやすく、本にも写しやすいからである。はじめてのものばかりでも問題はないが、そればかりだとすこし、疲れてしまう。リトリアちゃんなら分かるかもです、ときらきらのまなざしを向けられて、少女は困ってやんわり首を傾げた。
部屋にたどり着き、一緒に中に入りながら、リトリアは物憂げにため息をついた。
「聞いたのだけれど、リトリアはうっかり喋りかねないから内緒って言うの……」
『正しいわね』
「やぁん! ソキ、ないしょ、できるうううぅ!」
ソキが自称でできようが、リトリアが誠意努力しようが、太刀打ちできそうにない相手がうようよしているのである。ふたりの判断は冷静で正しいものだった。リトリアちゃんも、もっと秘密ができるのをふたりに言って聞かせないといけないですぅ、とお姉さん風をふかせるソキを寝台に滑り落とし、ロゼアはすこしだけお願いしますね、とリトリアに囁きかけた。はい、と返事をして、リトリアは、ソキの隣にちょこりと腰をおろす。
ソキはきゃっきゃとはしゃいで準備をするロゼアを応援し、見守りながら、リトリアにこしょこしょと話しかけた。描き途中のスケッチブックを引き寄せると、ぺらぺらとめくってその紙を開く。あのね、分からなくなっちゃったです、と説明されて、リトリアも紙面を覗き込んだ。藤色の瞳が、驚きと喜びに揺れ動く。
「これ……これ、もしかして、ソキちゃんの……」
リトリアには察するものがあったらしい。問いの視線を向けられて、ソキは重々しく、こっくりと頷いた。
「ソキのね、ソキのねぇ、なにか……なにかなんですよ、なにかなの!」
『ソキの、以外の情報を掴んでからにしましょうね。……リトリア、アンタにはこれが、なんだか分かるのかしら?』
尋ねておきながら、妖精の視線はリトリアがそれを口に出すのを厳しく禁じていた。ソキが影響されて思い込むと事だからである。リトリアも心得た顔で頷くに留め、たぶん、とだけ口に出してスケッチブックに視線を落とした。精密な模様が彫刻された、ちいさな欠片、のように見える。全体像はまだ、もやもやとした線でのみ描画されていて、はっきりとしない。
しっかり描き込まれている所との差が激しすぎて、だから欠片のようにも見えた。リトリアはふっと視線を持ち上げてソキを見た。そんなことが可能なのかは、分からないけれど。砕かれたそれが再生するのだとしたら。いま、まさに、その最中を描いているのかも知れない。いつから描いてるの、と問うリトリアに、ソキは不満そうにもじもじしながら昨日ですぅ、と言った。
「あのね、全部描けると思ったんですよ。その時はね、見えてたです。分かってたと思うのに、描いてたらもやもやのふにゃん、となってね、途中で分からなくなっちゃったの……」
「そっか。……焦らなくても大丈夫よ、ソキちゃん。大丈夫」
肩を落とすソキの手をきゅっと握って、リトリアはやさしく断言してやった。
「それはもう、きっと、ソキちゃんの所に戻ってくるものだからね。焦らないで、ゆっくり描いてあげればいいのよ。ね?」
「……ほんと?」
「ほんと。……よかった。よかったね、ソキちゃん」
それが、リトリアの感じ取ったものであれば。魔術師として、この上ない奇跡だ。失われた筈のものが蘇るのだとしたら。うん、と涙を堪えて、リトリアは言った。
「どうしてなのかは分からないけど……上手くいくといいね。……うん、ううん。違う。上手く行くよ、ソキちゃん。上手く行く。必ず」
それは、魔力を乗せた言葉ではなかった。祝福ですらなく。ただ、ひとの持つ祈りが差し出された。ソキはきよらかなものに触れた気持ちで息を吸い込み、うん、と頷いて腕を伸ばす。準備を終えたロゼアが、寝台まで迎えに来た為である。お待たせしました、行きましょう、と囁かれ、リトリアは嬉しい気持ちで立ち上がる。ふふ、と笑いながら足を踏み出して、先に部屋の外へ出た。
すこし先を歩きながら、リトリアはふたりを振り返って、祈った。どうかなにもかも。上手く行きますように。
「ソキちゃん」
「はにゃ?」
「魔術。使えるようになったら、私にも見せてね」
分かったですぅ、と勢いで頷いてくるのに笑いながら、リトリアはその日を楽しみに心にしまい込んだ。リトリアが歌声で成す祝福を、ソキならどんな風にするだろう。それを考えるだけで心が弾んだ。リトリアとソキは、同時代、ふたりきりの、予知魔術師だ。そうして本当に並び立てる日が来るのかと思うと、嬉しかった。
火が燃えている。魔法使いの指先からこぼれ落ちた火が、消えることなく集まって羽ばたく鳥の形になる。それはただの具現化ではなく、ソキの赤い鉱石の蝶のように、独自の意思を灯して生み出される。ソキは妖精の瞳をもってしてはじめて、それに気がついた。火の鳥は、ジェイドの連れ歩くたんぽぽちゃん、こと、シュニーちゃんに、なんだかとてもよく似ている。そして、似ているのに、違うと感じるのだった。同じではない。全く別の現象であるのだと。
同じ魔力で編み上げられているのに、そこにはもうひとつ、別のものがある。ジェイドの妖精とは、またすこし違う。存在としての質が違う。契約妖精ではない、ということですらなく。それは、ひとつのものなのに、ふたつのものなのでは、なく。全く別々のふたつのものが、片方の力を借りてひとつのもののふりをしている。あるいは、ひとつのものとして溶け込んでいる。そんな印象を受けるのだった。
ソキは準備運動をしている演習場をじぃっと見つめながら、特にレディを注視して、くてんと首を傾げてみせた。その鳥は、レディが魔術師として目覚めてすぐに、その膨大な魔力を身の内に留めておくことすら困難であるから、常に消費する目的でつくられ、現れたものなのだという。レディの使い魔でもあり、半自動の攻撃、防衛魔術も兼ねている。レディからの指示を受けるだけでなく、自立思考をもって動きもするのだと。使い魔、とするのが一番近い、魔術的な存在である。
それを見ても、聞いても、知っているのだが。知っていたのだが。ソキはぱちくりまばたきをしながら、くてん、と首を反対側に傾けた。肩の上から頭の上に移動していた妖精が、あからさまに迷惑そうな顔をする。
『じっとしてちょうだい。酔うじゃないの。なに?』
「ねえねえリボンちゃん? レディさんの鳥ちゃんなんですけどね、あの……あのね、妖精さんとは違うの。でもね、ソキの蝶々さんたちとも、なにやら違うような……?」
『あぁ……そうね』
妖精は嫌そうな、とするよりも複雑そうな顔をして口を閉ざした。ソキがくりんと視線を上向きにしても、なんの言葉も降ってこない。リボンちゃぁん、と不思議さいっぱいに名を呼んでも、ここにいるわよ、と告げられるばかりで説明は降りてこなかった。ふんにゃ、とまた反対側に首を傾げて、ソキはちたちた脚を動かしながら火の魔法使いを、その鳥を注視した。
燃える、ゆらめく火そのものによって形を成す鳥は、砂漠に落ちる夕陽の色を写し込んでいるようだった。灯籠に宿る火より、なお深く赤くゆらめき。磨かれた宝石より、なお鮮やかにきらめいている。翼を広げた姿は、鷹によく似ていた。しかしずっと鷹の姿をしているのではなく、これまで、見かけるたびにその鳥種は違うのだった。大型であることが多く、今もそうであるのだが、ちいさく愛らしい小鳥の形状をとっていることもあった。
ふくろうの姿であったことも、雀のような小鳥であったことも、ちいさなちいさなアスルのように、まるくてころころしていたこともある。そのどの姿をも思い出して、ソキはうぅーん、と眉を寄せてうなった。妖精の瞳がなかったので確かなことは言えないが、姿が違うだけで、魔力としては同じものであるような気がした。水が気温によって霧や雨、雪や氷に姿を変えるように。
火の鳥はレディの魔力で編まれながら、もうひとつ、違う意思を溶け込ませている。自律的な思考、方向性を持たされたが故の半ば反射によるものではなく。そこにあるのは意思だった。明確な、もうひとつの、意識である。レディから生まれ落ちたものとは違う。そこにあり、別々の個々として独立したもの。まったく違うもの。それが、火の鳥のかたちをもって世界に現れている。
妖精の舌打ちが響いた。ソキに気が付かせたくなかったのだろう。ソキからも、ロゼアからも、メーシャからも、ナリアンからも視線と意思を向けられて、妖精はうっとおしそうに顔を歪めて首を振った。
『やぁよ。教えたりなんてしないわ。あれは、分かる者は口をつぐんで沈黙を選ぶ。そういうものだもの。第一、あの魔法使いだって分かってるんだか分かってないんだかっていうものを、飼い主より先にアンタたちが理解していい訳もないわ』
「使い魔ではない……ということですか? 魔力の具現化ではなく?」
『いいえ。あれは魔力の具現化よ。ただ、それだけではないというだけ。ひとつの事象、ひとつの意味ではないというだけ』
嫌味すら交えないとうめいな声で妖精はロゼアにそう囁き、あとはいくらソキがねえねえ、と頭を振っても、酔うとも言わずに黙り込んでしまった。抗議するよりはやく、ソキが気持ち悪くなって動けなくなるのを理解しきっていたようだった。ううぅにゃ、と気分が悪そうな鳴き声で、ソキはへろへろとロゼアにくっつきなおす。
「リボンちゃんにいじわるをしよとすると気持ち悪くなるです……ソキはかしこくなったです……」
『言いたいことは山ほどあるけど、とりあえずもうそれでいいから学習なさい? アタシに逆らおうだなんて、そこからすでに間違ってるわ』
はんっ、と高慢に笑う妖精に、ソキはずびずび鼻をすすりながら頷いた。非常に複雑そうにしながら言い返さず、ロゼアはぽんぽん、とソキの背を撫でている。
「……はにゅ。それとも、あの鳥ちゃんは、ソキのリボンちゃんなのでは……?」
くてんとしながらも、考えるのは辞めていなかったらしい。知恵熱出さないかしら、と心配になりながらも、妖精は言葉を聞き留め、返事はしなかった。恐らく、それが一番近いだろう。あの鳥は妖精ではないが、別々にうまれた命が、魔術師と結びついてひとつの魔力を共有している、という点については、存在として非常に親しく、近しいものがある。レディは無意識にそれを把握していながらも、直視しないままでいる。かつてはそうだった。今も、そのままだろう。
それを目の当たりにさせる残酷さを、妖精たちは持たないし、魔術師たちに口にさせるつもりもなかった。あれこそがレディの、魔術師としての原初の罪。産声と共に故郷を、人々を焼き尽くした、魔法使いの証。
「……あっ! そろそろ試合なのやも……!」
ルルクが元気いっぱい、お待たせしましたーっ、と現れたことで察したのだろう。もちゃもちゃとロゼアの膝上に座り直すのに、妖精は柔らかく息を吐き出した。
『そうね。……集中なさい、ソキ。『本』の準備は出来ているんでしょうね?』
「ばっちりーですぅー」
足元に置いた鞄から、『本』とスケッチブックと筆記用具と、飴を次々と取り出し、ソキは妖精が止める間もなく、ぱくん、と蜂蜜色の甘味を口の中に放り込んだ。ジェイドが昨日作った残りである。ソキはよほど気に入ったらしく、小瓶ひとつほど作ってもらったそれを、昨日からせっせと口の中で溶かしている。朝からずっとロゼアに強請り、その目を盗んでは、飴をころころしあわせに転がしっぱなしでいる。
虫歯になるわよ、と呆れる妖精に、ロゼアちゃんがいるもん、と全力で歯磨きを頼り切った発言を響かせ。ソキは『本』を膝の上にぽんと乗せると、その上でぺらぺらとスケッチブックをめくった。妖精が頭の上にいてやっているのは、その空間確保の為である。ソキは手慣れた様子で紙面にさくさくと線を引き、瞬く間に演習場の空間を切り取ると、ぱちくり瞬きをした。顔をあげる。
ちょうど、ルルクが四人を整列させ、注意事項やら変更点やらを説明し終えた所だった。
「ということで、変更点はそんな感じです! あるといえばある、ないといえばないかなっ! ……えっと。あの、努力はした、したんだけど……レディさんごめんね、頑張ってね……ごめんね……!」
「ふ、ふふ。大丈夫。なにが大丈夫って、あのふたり、同じ職場の上司部下関係をこれっぽっちも、たぶん最初から考慮してないし……というか、砂漠の筆頭に対してためらったのはまたちょっと違うっていうか……いや規約変更というか、注意事項追加の意味は分かるんだけど、陛下違いますそれじゃないですっていうか……がんばる……がんばるね……ありがとう……」
それは昨日の試合結果を受けての、王たちからの口頭注意である。ジェイドがどう報告したのだか、なぜかストルとツフィアが、他国の筆頭に攻撃するのをためらった、という解釈が成されたらしい。相手が筆頭であれ、つまりは上司であれ部下であれ、今後の職場環境に影響を残さないこと。双方、それを躊躇いの理由にせず励むこと、というのが追加項目の概要である。
ルルクは、ジェイドさんのそういうとこ怖いよね、と呻き、フィオーレは生気のない顔で頷いた。なにが一番怖いかといえば、当然注目されるであろうジェイドの妖精の件について、報告はしていても印象の比重を完全に偏らせ、間違いではないが正解ではない解釈に王たちを導ききったことである。そしてそれをうっすら悟らせながらも、深くは追及させなかったことである。フィオーレは淀んだ声でそうなんだよね、と呟いた。
あのひとね、ほんと、ほんとね、そういうとこある。あるんだよ。わかってるとおもうけど、これわざとだよ。ひっとうわかっててやったよ、と呻くフィオーレに、観戦席でにこにこ笑っている筆頭の、聞こえているよ、という声が飛んだ。
「言っておくけど、そんな操作なんてしてないよ。ただ、俺が砂漠の筆頭なんて立場に居る為に、もしかしたらストルやツフィアに躊躇いがあったのかも知れません。ふたりとも礼儀正しく、相手の立場を思いやる優しさと思慮深さを持っていますから。それで上手く戦えなかったのだとしたら申し訳なく思うし、明日は魔法使いとの戦闘。気負うことなく試合に臨んでくれればいいのですが、って、陛下に俺の不安と心配をご相談しただけだよ。気遣いだろう?」
「そもそもこの二人がそんな気遣いしてたら、同じ職場のレディはいきなり強襲されて言質を取られたりしないし! 俺と戦おうとしないし! なんていうかほんと、ほんと、そもそもこんなことになってなくないっ?」
「ふふ。そうだね、気が付かなかったよ。とすると、余計な真似だったかな。ごめんね、フィオーレ」
申し訳なさそうに目を細め、困ったように首を傾げて囁く筆頭の腕には、ひしっとばかりウィッシュがくっついている。俺のパパをいじめちゃだめなんだからな、と言わんばかりである。いじめられているのはフィオーレだ。主犯は砂漠の筆頭そのひとである。白魔法使いは味方がいないと心から嘆き、砂漠の筆頭をちらっと見て首を振った。
「いや俺はそこそこ長い付き合いだから分かる……今回のはただの筆頭のいやがらせ……無自覚事故案件じゃないやつ……!」
「人聞きの悪い」
「否定してこないからこれ確定だと思うー! あー! いじめ駄目絶対良くない! 上司からの圧を感じる!」
頭を抱えてぎゃんぎゃん騒ぐフィオーレに、ジェイドは穏やかに微笑んで首を傾げてみせた。そもそも、となめらかに響く声が告げる。
「お前が陛下に手紙の一つでも書けば、俺が出てこなければいけないようなことには、ならなかったし、ならない。分かるね?」
「……はい」
「よろしい。さ、早く終わらせて帰ろうね。陛下が首を長くしてお待ちだよ」
ふっこふっこ、とジェイドの肩の上でましろいひかりが収縮する。それを覗き込んだウィッシュが、そうだよなー、となにか会話を成立させた受け答えをしたので、ジェイドはため息をついて『花婿』をぎゅむりと抱きしめた。わ、わっ、と驚きつつ、幸せにとろけた声でウィッシュが笑う。なぁにーパパどしたの、なんでもないよ、なんでもないのぎゅうだっわーい、あーかわいい、としているのを眺め、フィオーレは確信して頷いた。
絶対に筆頭の八つ当たりである。あれはなにか相当落ち込んでいるし苛々している。間違いなかった。砂漠の筆頭にはわりとそういうところがある。あぁああおにいちゃんあまえてるうぅうロゼアちゃんソキもぎゅうソキもぎゅうロゼアちゃんロゼアちゃきゃふふふふっ、と声がふわふわ漂ってくるのに、あー、と呻き。フィオーレはうつろな目で、目の前のことに向き直った。
「試合、はじめよっか……。ルルク、まだなんかある……?」
「ありませーん、けど……え? できます? ほんとに始めていいの……?」
ルルクが不安そうに、というよりもドン引きしながら確認しているのは、フィオーレとレディが淀んだ顔つきでいるからである。対するストルとツフィアはどちらも微笑んで沈黙しているが、勝利を渇望する目のひかりが、臨戦態勢であることを示していた。ため息をついて気を持ち直し、フィオーレはいいよ、と言う。
視線をすい、と動かしてレディにも確認した。
「いいよな? レディ」
「……どうぞ。大丈夫……大丈夫、今回は死角からいきなり襲いかかられる訳じゃないし……こっちだって心の準備とか対策とか覚悟とか色々! したし!」
レディはすでに涙声である。ここに来てなお、相当気が進まない様子だった。心の傷が深いらしい。大体私戦うのとか好きじゃないし、と呟いて火の魔法使いは顔を手で覆った。しばらくの沈黙のあと、手を退けた時には顔つきが変わっている。
「でも、私は私なりに守ると決めたのだから。……いいわよ、戦ってあげる。ただし、前回みたいに簡単に勝てるとは思わないことね。……ルルク、待ってくれてありがとう。大丈夫だから」
はじめて、と求められて。場の空気がぴんと張り詰める。ルルクはすっと息を吸い込んで、元気いっぱいに宣言した。
「それでは、第四試合! ストルとツフィア対、レディとフィオーレの最終戦を開始します! 宣誓! 僕たち私たち俺たち君たち魔術師たちはー! 正々堂々規定に則って戦い抜くことを、世界と王と、同胞たちに誓います!」
まっすぐな線が演習場を駆け抜けていく。その燐光が消えるのを待つことなく、口を開こうとしたツフィアは、直前になって口を閉ざした。瞬時に熱風が到達した為である。不用意に息をすればそれだけで喉を焼くほどの高温。ソキを抱き寄せたロゼアが息を飲む。前触れもなく、瞬きよりもはやく。火が踊っていた。一面に。足元からすべてを食らい尽くすように。
そこは火の海だった。火の魔法使いの、支配圏だった。