火の海。そうとしか呼べないほどの、一面の火が演習場を覆い尽くしていた。肌をヒリつかせる熱風が足元から吹き上がる。本能的に一歩退いたのはストルとツフィア、フィオーレだった。ルルクは瞬時に演習区画から脱出し、安全圏となる実況席へと移動していた。場は一瞬のどよめきの後、不自然なまでの沈黙に包まれていた。恐怖すら押さえ込まれて言葉にならない。レディだけが動かないでいた。
どこかぼんやりとして、ストルのこともツフィアのことも見ずに、足元に視線を落としている。夢見るようなまなざし。呼吸よりゆったりと、瞬きが繰り返されている。正気に返ったフィオーレが声をかけるより早く、火の魔法使いの頬に鳥がすり寄って甲高く鳴く。足元から持ち上がった視線が、一面に燃え広がる火を視認した。
「……とりあえずは、こんなものじゃない?」
空白などなかったように。不敵に笑ってみせたレディが、腕を前にかかげて火の鳥を羽ばたかせる。飛び立った鳥は上空を旋回したのち、ストルとツフィアに狙いを定めて対空した。レディの合図で、火そのもので作られた鳥は、二人の懐へ飛び込むだろう。ゆら、と空気が歪み始める。熱のせいだった。火は幻のように服を燃やさず揺れているが、熱だけが本物のように立ちのぼる。
足で火を踏みにじりながら、火の魔法使いは堂々と場に立っていた。魔法使いの意思ひとつで、その火が本物として現出することなど、言われずとも誰もが理解していた。不意をつくしか、勝ち目がない。そう理解させる制圧のされ方だった。予めの準備など役には立たず。ただ、圧倒的な力の前に全ては灰燼と化す。
「やりようはあると思うから、戦いましょう? 今度こそちゃんと、相手をしてあげる。……守りたいものを勝ち取ろうとするのなら、そうしなさい。私は、砂漠の筆頭みたいに優しくない。戦わないで試合の放棄なんて、許さない」
「……レディ」
「来なさいよ、ストル。あなたも焼かれてしまえばいい。わたしの火を乗り越えて行こうとすればいい。……まぁ、大丈夫よ。こっちにはフィオーレがいるし」
あくまで、相手をするつもりなのだと。攻勢には出ずに待つ姿勢を保ちながら、レディは巻き込まれたくない顔で沈黙していた白魔法使いへ、ちらりとばかり視線を流した。
「死ななければ助かるでしょ。そうよね? 喉が焼けようが肌が焼きただれようが死ななければ助かるわ」
「いやそこからの回復って治療っていうか蘇生だし俺にも出来ることと出来ないことってあると思うしいや出来るけど! でもなんていうかレディそれってあれじゃん? そこからの蘇生って拷問じゃないかなっ? 傷は消して痛いのも消せるけど、消えるまで痛くない訳じゃないしな……っ?」
「死ぬ気で来なさいよ死なせないからって言ってるだけよ」
つまりはそういう拷問である。だからなんでレディは本気出すと悪役になるんだよ、と頭を抱えて呻く白魔法使いに、女は心外だとばかり顔を歪めてみせた。
「優しさじゃないの」
「いやー……? 俺にはなんか、こう、あぁうん、レディはほんとストルちゃんのこと嫌いだよなぁ……って感じしかしないけど?」
「嫌いよ大嫌いよそれがなに? 知ってることを言わないで」
苛々と髪をかきあげ、熱風に優雅に晒しながら。火の魔法使いは毅然とした態度で、嫌いすぎて穏やかな気持ちにさえなってくるわ、と言い放った。
「でもストルだってそうでしょう?」
「……俺は、君を嫌ってなどいない」
「罪悪感があるでしょう、と言っているの」
冷たい目で。火の海に立ちながら、温度のない目でレディはストルを睨みつけていた。二人がその場から動けもしないでいるのは、息をするのも苦しいくらいの火の熱が押し寄せているからだった。苦しく呼吸を奪いながら、レディはストルの首を締めたがるような殺意を、その瞳にちらつかせている。
「ほら、なにも言わない。……罪悪感と、喪失。アンタが私を見る目にはいつもそれがある。それなのになにも言わないで! 苛々するのよ! 言えばいいじゃない、お前のせいだって! 故郷を焼いて、アンタの親友を……私の夫を、焼き殺した女! 魔法使いと呼ばれる気分はどうだって! 全部お前のせいだろうって、言えばいいじゃない!」
今も、その地は。黒く焼け焦げ、炭化した建物の跡と、燻る熾火だけが揺れている。呪われてはいない。けれども、呪われたかのように。自然の雨でも、魔術でも、その火を消し切れないでいる。心臓に刃を突き立てられたかのような、痛みを感じる顔で、ストルが違うと声を絞り出す。
「あれは、君のせいじゃない……君が悪い訳ではなかったんだ」
「じゃあ誰のせい? 誰のせいっ? いったいなんの為に! 私はあんなことをしなきゃいけなかったのよ! ……知らないでしょう、ストル。私はずっと魔術師になりたかった。レイジも、アンタも、魔術師なんていうものになって、『学園』に奪われて。だから、私は魔術師になりたかった。そうでさえあれば、離れ離れにならないで済むから……。一緒にいられると思った。ずっとずっと祈っていた。どうか私も魔術師にしてください、一緒にいさせてください。病めるときも健やかなるときも、共にいさせてください。……結果がこれよ? 私の祈りは叶ってしまった。結果が、これ。……ねえ、私悪くないの? なんで?」
私が願わなければよかった、と告げるレディを、ストルは苦しい表情で見つめ返した。違う、とストルは何度でも告げる。その言葉を決して、レディは受け取らず、受け入れない。なにが、と嘲笑って、傷口に爪を立てるように火を燃やす。火を。魔術師としてレディが奏でた産声を。故郷を、人を、恋人を失わせた、その火を。
「……いたいよ、ストル」
「ああ」
「いたい。……痛い、いたいよ……会いたいよ……」
何度相対しても、結局はこうなる、と。レディの顔にも、ストルの顔にも、そう書かれている。もう交わることのない、距離を持って水平に描かれるだけの直線が。永遠の断絶がそこにあるからだ。レディは泣くように顔を手で覆い、しかし涙の気配はなく瞬きをする。それすら、過去に。火の海の中に置いてきたかのように。ぱさ、と音を立てて羽ばたいた火の鳥が、舞い降りてレディの頬に顔を擦り付ける。
目を伏せて鳥を抱き寄せ、レディは会いたいよ、と苦しく声を絞り出した。離れたくなかった、失いたくなかった、傍にいて笑い合いたかった。望んだのはそれだけ。魔術師ならば、誰もがその痛ましい事故を知っている。かける言葉を持つものはなく、ストルからの慰めは全て拒絶される。
なにかに、怯えるように。ソキをぐっと抱き寄せたまま動かないでいるロゼアの腕の中で、『花嫁』はぱちくり瞬きをした。そのくちびるがあどけなく息を吸い込むのを見て、妖精は言うんじゃないわよ、と厳しく、己の魔術師の耳に囁く。
『言うんじゃない……! いいわね? 決して告げるんじゃない。口に出すんじゃない……!』
「……でも」
『気がつかないでいるなら、それまでよ。自分で気がつくんならいい。でも、誰かに教えられていいことじゃないの。分かるわね? ……分かってちょうだい、ソキ』
でも、とソキは涙の滲む声を掠れさせ、息を吸い込んだ。言葉にならない。声は、生まれる前に燃えて消えていく。喉の奥が熱い。ソキはロゼアに体をつよくくっつけて、目に力を込めてぎゅうっとつむった。
「……リボンちゃん。でも、でも……!」
『駄目。どんな言葉も、かけてはいけないの。あの魔法使いが気がつくまでは』
寄り添っているのに。ずっと。困ったように笑いながら、そのひとはずっと、寄り添っているのに。火の魔法使いの傍らに。すぐ傍に。離れないで、見守っているのに。火の鳥の姿が見える。その姿が、妖精の瞳を得たソキには見える。妖精たちは理解している。その鳥がなんであるのか。ひとつのものに見える、生み出されたかのように見える、ふたつのものだった魔力のかたちが、見える。燃え落ちた火の影。魔法使いに寄り添う、男の姿が見えている。
ひとつのものにはなれずに。ふたつのもののままで。ひとつとして、寄り添って、存在している。いまも。失われてなど、いないまま。彼は世界のどこからも隠されてしまった。焼きついたのよ、と妖精は言う。あの世界を貫いた産声めいた業火に、焼きついた影のようなものなのよ、と。気がつかなければ、そこまでの。気がつかれなければ、ただそれだけの。蜃気楼。熱の揺らめき。
でも、とソキは否定を重ねる。でも、そこにいるのに。ずっといるのに。願いが叶ってるのに。
「なんで教えちゃいけないの……? どうしてです?」
『……魔法使いと呼ばれる者が、ほんとうにそれに気がついていないのだとしたら、結論はただひとつ。気がついたことから視線を反らし、気がつく意思から意識を反らし、ないことにしているからよ。そうするしかないからよ』
どうしてなの、とソキは言った。閉じた目をひらけないまま、暗闇の中から妖精に問いかけた。目を閉じても、魔力のきらめきから逃げることはできないのに。それでも目を開くことができなかった。妖精は、ゆっくりと、慎重に、言葉を紡いでいく。眼前の光景から、視線を反らさないままで。
『受け止めるには残酷すぎる。……あの子は、それでも生きることを選んだのよ。生きていこうとしているのよ、ソキ』
「……だめなの?」
『あの筆頭と、あの子は違う。あの子には受け止めきれない。……己の火の中で息絶えたひとが、傍にいることを、あの子は救いだとは決して思わないでしょう』
絶望という言葉ですらなお届かない淀が、レディの中に存在している。生きてと言われました、と保護された魔術師たちに連れられて、呆然としながら『学園』にやってきた少女のことを、妖精は忘れることが出来ない。その最後の言葉が呪いとなり、楔となり、レディは息をすることを諦めないでいる。そしてそれ故、魔法使いは目隠しをしたのだ。それがなんであるのかを。己がほんとうは、ほんとうに、なにをしてしまったのかを。
揺れる火は涙のようだった。嘆き、悔い、悲しみにごうごうと揺れている。レディはそっと火の鳥を撫で、それに対する認識を殺したまま、静かな笑みを浮かべて囁いた。
「私の不幸は私だけのものよ、ストル。アンタに押し付けようなんて思ってない。分かち合いたいとも思わない。……遠くに行って、ストル。遠くに、いて。そこで私に関わりなく幸せになってよ。不幸になれなんて思ってない」
「……レディ」
「なんで私に関わってくるの……どうして遠くにいてくれないの……!」
音を立てて、火が舞い上がる。人を、衣服を燃やすことだけを禁じられた火が、熱風を魔術師たちに叩きつける。息も苦しい熱の中で。女だけが常と変わらず立っている。ひとりで。鳥だけを伴って。
「アンタを見るたびに、魔術師になりたいなんて願ったことを後悔する。……ねえ、どうして教えてくれなかったの? お前の火は故郷も家族も友人も知り合いも! 街も! ひとも! なにもかも! お前が殺して燃やし尽くすって、どうして教えてくれなかったのっ!」
「……占星術師の星読みは、未来を語られる訳ではないんだ、レディ。可能性に触れるだけなんだ」
「じゃあ、どうして! レイジに帰るなって言ってくれなかったの! 引き止めてくれれば殺さなかった! 引き止めてくれたら! 焼き殺さなくてすんだのに!」
行き場のない、己にしか向けられない悲しみと苦しみの渦が、レディの中から溢れていく。たしなめられる前に、レディは己の喉に両腕を押し当てた。
「……八つ当たりしてることなんて、分かってるのよ。……怒ってよ、ストル。なんで怒らないの? なんでいつもそうなのよ……!」
「……すまない、レディ」
火の魔法使いは、全ての魔術師がこうなるかもしれなかった可能性だ。目覚めたばかりの魔術師のたまごが、魔力を暴走させればどうなるのか。その最悪の一例だ。こうなるのはもしかしたら、自分であったのかも知れない。その底知れない恐怖と憐れみ故に、魔術師はレディの怒りを叩き返せないでいるのだ。それになお、女が追い詰められるのだと、分かっていて。
ストルはまっすぐにレディを見て、幸せになってみせる、と誓いのように告げた。
「君の不幸は君のものだ。俺が連れて行くものじゃない。……安心していい。俺は、ちゃんと、幸せになる。だから……戦ってくれないか、レディ」
「……しなせたくない」
「死なない。君の火は、無差別にひとを殺めるものではないからだ。……さあ、構えろレディ。俺の幸福を祈ってくれるなら!」
ぎゅう、と泣き出す寸前の子供のような表情で目を閉じて。レディは両腕をただ愚直に、前に構えた。
「……フィオーレ。すまないが終わったら治療を頼む」
「えっ、あっ、うん。いいけど……いいけど、ストル?」
「ツフィア、あとは頼んだ。大丈夫だ、フィオーレ相手なら、君のやり方で……いくらでもやりようはある」
ツフィアは無言で眉をしかめ、ため息をついて頷いた。リトリアを泣かせないようになさいよ、と告げられるのに、慰めるさ、と笑って。ストルは集中しきった目で、レディに向き直った。ひかりがこぼれた。魔力が魔術師たちの意思をのせて、魔術として編み上げられ、顕現する。レディの手元から、そして、ストルの足元から。
前触れなく走り出したストルに向かって、レディがその手から溢れた火炎を放射する。観客に目眩を起こさせる程の炎の渦。それを避けずに最短距離で突っ切って、全身に炎を纏いながらも。たどり着いたストルは、泣き出す寸前の顔をするレディの肩を掴む。
「……さぁ、レディ!」
震えながら、レディが勢いよく腕を振り払う。視線すら定まらない様子で、魔法使いはなにか魔術を紡ぎかけ、かく、と足を折って座り込んだ。女を庇うように、ストルとレディの間に、火の鳥が舞い降りて一声鳴く。ふっ、と火の海が消え去った。そこに残った熱さえなければ、あたかも幻であったかのように。レディは視線を落としたままでもういい、と告げ。心から嫌そうに、ストルを睨みつけた。
「……突っ込んでくるとか馬鹿じゃないの?」
「手加減してくれると知ってたさ。……ほら、生きてるだろ?」
「当たり前じゃないの!」
それでも、全身火傷は免れなかった。慌てて飛んできた白魔術師たちが、残っていた火の粉を振り払い、ルルクに勝ち負けが定まったことを確認してから、ストルを演習場から引きずり下ろす。はー、と息を吐きながらレディも立ち上がり、気負いの無い態度で、トン、と靴底を演習場の範囲外におろした。だからストルが嫌いなのよ、と告げて。レディは改めて、己の棄権を申し入れ、ストルの勝利を申告した。
それは、速やかに受け入れられた。
即座に己が呼ばれないことを確認してから、白魔法使いは俺レディのああいうとこ好きだなぁ、とのんびりとした声で言った。魔法使いの火は、本気なら触れたものを即座に炭化させることすらできる代物だ。それが全身火傷とはいえ、服さえ原型を留めていたのだから、よほどの手加減をされたことが見て取れた。それが、過度の動揺によるものだとしても。だからこそ制御された、意思の乗った弱い火だった。
レディは口ではなんのかんのと物騒だが、いざ思い切りよく攻撃するのをやや不得意としている。それでも本当に、やらなければいけない、という時にはその魔術の強さを見せつけもするので。誰もが恐れるのも本当のことなのだが。フィオーレはようやくざわめきを思い出したかのよう、息を吹き替えした演習場の空気に触れながら、ツフィアだってそう思うだろ、と言葉魔術師に笑いかけた。
「レディのああいうとこ、かわいいよな。……ストルはちょっと意地悪だと思うけど」
「あれは意地悪ではなくて、思いきれない、というのよフィオーレ。……あの二人は、よく似ている。似ていた。それだけのことよ」
額に手を押し当て呆れた風に顔を歪めながら告げるツフィアに、フィオーレはそっか、と頷いた。ストルの相棒たる女がそう言うのであれば、きっとそうなのだろう。痛々しいな、とフィオーレは目を細めて思い返した。レディも、ストルも。過去の傷を生々しく、心に抱いたままでいる。ストルのものは、恐らくゆっくりと治るだろう。ストルは時間の経過を受け入れているし、なにより、ツフィアやリトリアが傍にいる。
特にリトリアは、呪いじみたその傷を決してそのままにはしておかないだろうし、少女が癒やそうとすれば、ストルはそれを受け入れるだろう。しかし、レディにそれは届かない。リトリアではレディを、癒やすことも救うこともできないだろう。レディがそれを望んでいないからだ。拒絶さえしているからだ。ああ、ほんとうに、とフィオーレは目を伏せた。
演習場の、黒く焼け焦げた箇所を見つめて息を吐く。レディはほんとうに、魔術師がなるかもしれなかった、呪いの可能性そのものだ。強大な魔術が不幸を呼び込み、生きながらも決して救われることはなく。自身ですらそれを望まず、望めず。相対する魔術師の呪いとなって立ちふさがる。一歩間違えれば、レディはたやすく、彼の言葉魔術師となっただろう。同調さえしただろう。
レディがそうならず踏み留まったのは、火の鳥が傍らにあったからであり、そして八つ当たりするストルの存在がいたからだ。レディの怒りがストルへ向いたからだ。そしてストルが跳ね除けることなく、それを受け止めてしまったからだ。あの言葉魔術師にはそれすらなかった。呪いはそのまま自己と世界へ向けられていた。助け出そうとする手の、ひとつもなく。この世界にそれはなく。
フィオーレも間違えて、だから、届かなかった。いまでも、と声に出さずにフィオーレは呟く。俺はお前のこときらいじゃないよ。親友だったことあるだろ。友達だったこと、あるだろ。たくさん間違えたな、と思いながら、白魔法使いは視線をあげて微笑んだ。そしてこれからも、間違え続けるのだろう。正解だけを選んで生きたいと思ったことも、かつては確かにあった筈なのに。想いは遠く。
もう、届きはしない。
「さて。ツフィア、どうする? どうしよう?」
「……どう、とは?」
「戦うかってこと。負けてあげてもいいよ?」
ここまで来てツフィアが勝てなければ、リトリアがなにをするか分からないからである。確実なものを選べるなら、そうした方がいいだろう。しかしツフィアは馬鹿にしているのか、と言わんばかり眉を寄せて視線を険しくした。
「戦うわよ。そして勝つわ。決まっているでしょう?」
「そうなるよなぁ……。ああ、でもそうだ。そうだった……。俺が、ラティを守ってあげないと……毒牙が……いや別に毒牙ではないというか最高待遇のひとつではあると思うんだけど、それを本人が覚えてないのと本人が望むか望まないかだとたぶん望まないんだよなぁ……っていうのがなぁ……起きたとたん、混乱に叩き込まれるのかわいそうすぎるし……俺にも同僚に対する思いやりと慈悲くらいあるし……ある。うん、あるある」
非実在のものについて、なにをぶつぶつ言っているのか、という視線を投げかけて、ツフィアは意識を集中した。ソキの目には柔らかく広がる布が、またたく間に演習場に広げられる様が見えただろう。ツフィアとレディの魔力のかたちは、相性が悪い以前の問題として、勝負にすらならないものだった。展開すらしなかった分、余裕がある。フィオーレは気乗りがしない様子で、ただ立っている。
えー、するのぉー、とばかりの顔に、ツフィアはなにかが引きちぎられる音を聞いた。
「……『言葉ある者に届けましょう。声あるならば聞きなさい。言葉とは音。音とは響き。響くのはなに? それは子守唄。さあ、瞼が重くなるでしょう。ゆっくりゆっくりと、鼓動の響くはやさで、あなたは夢に向かっていく』」
呼吸のたびに、と呟いて、ツフィアは眉を寄せた。魔術は起動している。広がる布の表面で、花が散るよう、藤色の輝きが飛び跳ねているのを感じている。それなのに。フィオーレはなにも変わらなかった。魔術の阻害すらする様子のないまま、苦笑してすこし首を傾げて、そこに立っている。ツフィアは一度取りやめて、最初から言葉を繰り返してみせた。
砂の地に立つ者、と砂漠の王宮魔術師を指定する言葉を織り交ぜ、さらに効果を高めようとする。しかし、効いた、という手応えがまったくない。魔力は消費され、魔術が正しく起動しているのを感じ取れるのに。ぞっとして集中を乱すツフィアに、ふあ、と退屈しているようなあくびを、白魔法使いはした。
「……聞いた時はえぐいと思ったけど、レディに準備させる間もなく、死角から強襲したやり方は正しいと思うよ。魔法使いを相手にしようとしたら、まともにするだなんて馬鹿げてる。俺だってそう思うよ。試合形式なんかに持ち込むものじゃないんだよ、ほんとはね……。それにしたって、ストルとツフィアを相手にしたくなかったから、ほんとに嫌で騒いで抵抗したけど。……俺たちが嫌だったのは、ストルと、ツフィアを、相手にすること。ストルとツフィア、だよ。ふたりになった時のこと。別々のひとりじゃないんだよ。いや、ひとりだってヤだけど。楽しくはないけど。これだけ時間くれたなら、相応の準備と対処はちゃんとするし、そうなったら相手にならないことくらい分かってたろ? ……それとも、ほんとに分かってなかった? レディだけ封じれば、俺はどうとでもなると思ってた? 勘違いなんだよなぁ……」
白魔術っていうのはね、とフィオーレは微笑んだ。戦闘向きじゃない。それは正しい認識だと思うよ。癒やしの術だからね。相手を傷付けることとは正反対だ。地を揺るがすことも、火を吹き上げることも、水を操ることも、風を吹かせることもできない。暗闇に閉じ込めることも、ひかりで目を焼くことも。操ったり、呼び出したり。作ったり使ったりすることも。
もちろん魔術師である以上、出来ないわけではないけれど、適正と属性に縛られる魔術師である以上は可能と不可能がある。どうしても。そうであるから、白魔術師を戦力外として見做す。これは正しい。間違ってないよ。でも、と言ってフィオーレは一歩を踏み出した。かつ、と硬質な足音が響く。
「……そもそも白魔術ってなんだと思う? 癒やすこと、回復させること。本来は叶うことのない、癒しという奇跡の術だよね。それってどういうことだか分かる? 体に対して……どんな魔術師であっても、ひとであっても、妖精であっても関係なく、魔術の影響で変質させることが可能である、ということなんだよ。……わかる? 回復、癒し、治療。優しい、柔らかい、祝福の言葉で飾ってるから分かりにくいだけで、俺たちが起こしてるのは直の変異、変質、改変。そういうことなんだよ」
「っ……! あなたは、なにを……!」
「安心していいよ、ツフィア。ツフィアの魔術は起動してるし、意図したとおりに正しく発動もしてる。ただね、発動した端から、俺がそれを『癒して』いるだけ。……戦う術を持たない魔術師が、それでもそうしなければいけないのなら。勝たなくても、負けなければいい。そういうことなんだけど」
かつ、かっ、こつ、とゆっくり、ゆっくりと、フィオーレはツフィアに向かって歩いていく。ぞっとするほど穏やかに。その身に、夥しいほどの魔力を巡らせながら。ソキみたいなことはできないよ、と白魔法使いは笑った。
「解析とか分析を瞬時に行ってる訳じゃないし、時間をかけても俺には難しいかな。得意じゃないんだよね、そういうの。だから、阻害とかそもそもしない。好きにすればいいよ。効果は出てる。呼吸より、瞬きよりも短くて、すぐに癒やされ消えてしまうけど。無効にしてる訳じゃない。……あんまり長時間だと、疲れるなぁって思うし、これが相手が、それこそレディになるとこっちの魔術発動も尋常じゃない規模と強さじゃないといけなくなるから、同じ方法を使うのは躊躇いがある。……ストルがいればね、これもまた、うまく行かないと思うんだよね。ストルは俺の動き……魔術とか、やろうとすることを読んだ上で、その阻害も組み込んで指示しただろうし。ストルだけなら、読めても防げないから俺の勝ち。ツフィアだけなら、発動できても効果が…ストルまあ、ない、くらいに癒やしてしまえるから、俺の勝ち。ひとりひとりになったのは……これだけの準備期間を与えて、それでもなおひとりで魔法使いを相手にしようとしたのは、特に白魔術の使い手だと分かっていながらそうしたのは、うーん……。間違いに過ぎるかな。だめだよ、そんなんじゃ」
「っ、ルルク! これ、殴ってもいいのよねっ?」
「えぇえええっ? 魔術を使って戦って欲しいなって思ったり思わなかったり規約にあったりなかったりっ! 五分待って五分っ!」
調べるらしい。五分、という言葉に、ツフィアは覚悟を決めた態度でフィオーレを睨みつけた。諦めてはいない態度だった。それに、くす、と笑みを深めてフィオーレは立ち止まる。もう、二人の間には数歩しか距離がない。ちょっと待ってねーっ、と慌てながら叫ぶルルクに、いいよー、とフィオーレが返事をする。
「駄目ならどうせ持久戦になるし、物理に持ち込まれるとなるとあんまり勝つ自信がないし。ラティのことを考えるとできれば勝ってあげたいんだけど、リトリアのことがあるから負けてあげてもいいし」
「……あなたのその、どっちつかずの所が……昔から、本当に、心底、どうかと思うわ……!」
「ソキが、ロゼアとそれ以外で興味関心集中度合いが違うのと、同じだと思ってくれていいよ。悪いけど。俺はもう昔から、『学園』にくるずっと前、まだ魔術師として目覚める前から、心に決めたひとつのことがある。そのたったひとつ。それ以外が……うーん、ほんと、どーでもいいといえば良いんだよね。波風立てたくないし、平和であればいいと思うし」
ツフィアの苛立ちが増したのを感じ取り、リトリアがおろおろとした視線を演習場に投げかける。ソキがぴるるっと震えてロゼアにくっつくほどの怒りだった。ツフィアは低く、言葉にならないうめき声をもらすと、つよい目眩を堪えるように額に手を押し当てた。はくはく、あまりの怒りに中々声を発することもできず。幾度か呼吸を繰り返して、ツフィアはフィオーレを睨みつけた。
「あなた、それなのに……在学中! 何度! 私を修羅場に巻き込んだの!」
「それについては、都度謝ったじゃん……。ごめんてば。まさか、ツフィアが通ってた、懇意にしてたカフェの店員さんだとは思わなかったし、ツフィアが通ってた本屋さんの店主さんだとは思ってなかったし、他にもえーっと……えーっと、色々さ。言っとくけど全部偶然なんだってば……つい、あっツフィアごめんちょっと助けて、とか言っちゃっただけで。ごめんごめん。もう巻き込まないように気をつけるな。それに、最近は巻き込んでないだろ?」
「私が外に出ていないからでしょう……!」
観客席からもれなく同情的な視線を向けられて、ツフィアはよろめきながら立ち直した。助けを求められて無視しきれなかったことを、心底悔いているようだった。
「私は普段はそんなことをしないし、考えないのだけれど……フィオーレだけは、フィオーレだけはこの手で一度殴らないと気が済まない……!」
「その復讐は俺の痛みしか生まないと思うし、すぐ治すからツフィアの手のが痛いと思う」
ソキにさえ分かる。フィオーレは火にだばだばと遠慮なく油を注ぎ込んだ。業火もかくやという怒りを瞳に宿し、ツフィアが顔つきだけは冷静に、決意をたたえて言い切った。
「黙りなさい殴るわ」
「えっ、待って落ち着こう場合によってはそれ反則負けじゃん? 悲しみしか生まなくない?」
「はーい、お待たせしましたー! 殴っても大丈夫ー! それが試合の主軸にならない限りは体術などの使用も可能ってちっちゃく書いてあったからもう心置きなくぼこぼこにすればいいしフィオーレはぼこぼこになればいいと! 思う!」
そして勝利をもぎ取ればいいと思う、拳で、と審判から告げられて、ツフィアは微笑んで、逃げようとするフィオーレに手を伸ばした。遠慮なく胸倉を掴み上げ、いいのよ降参しても、と囁きかける。
「……ただし一回くらいは殴らせなさい。あと金輪際リトリアに近づかないでちょうだい。返事はしないでいいわよ声を聞きたくないの」
「えっちょっ」
直後。思い切り振りかぶった平手が、体重を乗せきった動きで頬に叩きつけられる。衝撃を余すことなく受けさせた動きに、ロゼアがなにを思い出したのか遠い目で、ソキをそっと抱き寄せた。
「……ソキ、フィオーレさんとは、距離を保っていこうな」
「はぁーい」
『アイツ、顔が良ければそれでいいっていう、男女の区別も年齢も考慮しない無節操だものねぇ……』
妖精がしみじみとロゼアに賛成しながら呻く中、もう一度、平手打ちの音が響き渡る。最終戦の怪我人は、ふたり。ストルの火傷とツフィアの捻挫は、どちらも速やかに白魔術たちの手によって治療された。
談話室は、いつもの通りに騒がしい。先程まではまだ大会を運営していた説明部と、花舞の魔術師たちが慌ただしく出入りしていたものの、必要な後片付けは終わったようだった。いまはソファに倒れて動かない者、終了を祝して酒瓶を空けてはしゃぐ者、報告書を書き上げながらこの後の休暇について話し合う者と様々で、その喧騒は慣れ親しんだものだった。
騒がしさが苦手なソキでもそう感じるらしい。やや面食らったようにぱちくり瞬きをしながらも、ロゼアの腕の中にすっぽり収まり切る姿は落ち着いている。終わったですねぇ、としみじみ呟く声も、普段の通りにふわふわと響いていた。試合結果は四戦二勝、一敗一戦無効で、ストルとツフィアの勝ちである。勝利者たちは試合が終わるやいなや王たちに提出する書類を、凄まじい勢いで筆記した。
ここからが本番である。なにせ試合に勝利してなおリトリアの守護役は確定しておらず、重要な検討材料とする、という言葉で留まっていたからだ。なんでもひとつ王がお願いを叶えてくれる、というふわふわした条件は他の王宮魔術師にもたらされたものであり、ストルとツフィアに適応されるかは分からない。いやいくらなんでもそんな酷いことは仰らないんじゃないかなぁ、と首を傾げるルルクに、ツフィアは真剣な目で微笑んで言い切った。
先の事件が終わってなお、王たちの中にある言葉魔術師に対する不審が消えた訳ではなく。あの一件を経てなお、そしてそうであるからこそ、言葉魔術師に対する危惧と不安があるのだ、と。ツフィアはあえてどの王が、とは言わなかったが、筆記を見守り、横からあれこれと口を出して文言を修正させていた砂漠の筆頭が、そのうるわしい相貌にうっとりするような笑みを浮かべて陛下のことは大丈夫だからね、と囁いた。
なんとかしてくれるらしい。この上なく頼もしく、それなのになぜか言いしれない気持ちになった微妙そうな顔をして、ストルもツフィアも頷いた。その二人の姿も今はない。書類が整った所を、白魔術たちに医務室に連行されたからである。すぐに分かる怪我だけ治癒した状態で、精密検査がまだだった為だ。リトリアは当然の顔をしてふたりについていった。
三人が戻って来るには、今しばらくの時間が必要だろう。まだかなぁ、とそわそわするソキに夕方くらいまで待ちなさいと言い聞かせ、妖精は己の魔術師の様子を伺った。第四試合は激戦であった。ふたりの戦いはそれぞれ無事に幕を下ろしたものの、魔術師たちは改めて、魔法使いを相手にすることの恐ろしさを目の当たりにしたのである。
火の魔法使いの恐ろしい程の攻撃力と、白魔法使いの底知れぬ魔術の使い方を。フィオーレは幕引きが物理だったせいで魔術的な印象が深くないが、成したことはある意味、火を燃え盛らせるより恐ろしい。魔術の阻害ではなく。自身に対してつよく行使し続ける回復により成された、実質的な無効化だからである。どんな魔術であっても効果があるのだとすれば、それは魔力切れを起こさない魔法使いを、魔術では倒せないことを意味している。
つまり殴ればいいのよ、と試合後のツフィアが手を痛そうに振りながら言っていたが、その為には至近距離までの接近が必要不可欠となる。実際の戦闘で、魔術師がそれぞれ単身で向き合うことはまずない、とされているから、今回は逆に難易度が低かったと見るべきなのだろう。今後、五ヶ国が混迷し、それぞれを相手とする戦闘状態に移行する可能性は著しく低いとはいえ。
四戦は、どれも『学園』の生徒たちに動揺を与え、王宮魔術師たちに衝撃を与えるものばかりだった。己の力と、属性や適正、魔力そのものと向き合い、なにができるのかを考える者も多いだろう。魔術師として、魔力の行使を世界から許された者として、どうなりたいのか。どう、なれるのか。不確定な己の未来を思い描く者、未知の成長の可能性に希望を、あるいは不安を抱く者、様々である。
その落ち着きのなさは、今は大会が終わった喜びと安堵に紛れて表層には登って来ない。しかし、考えもしないまで消えてしまうようなものでも、なかった。ひたひたと、迫る夕暮れのように。その時は必ずやってくるだろう。己がこれから、どうなるのか。どうなりたいのか。なんになら、なれるのか。なにになろうとするのか。希望と不安と夢と。己が描くものをごちゃごちゃにして、魔術師たちはこれからの日々を歩むだろう。
幸い、長期休暇はまだ半分以上が残っている。年明けも、あと数日、という近さでもない。悩んで、考えて、答えを出していくには十分な時間である。あるのだが。妖精の魔術師はどうも、そのあたりをちゃんと理解していないらしい。普段とまったく、これっぽっちも変わらないのほほんとした態度でロゼアに抱かれてくっついていて、はうー、だの、はにゃー、だの幸せに鳴いている。
観戦の疲れがないようでなによりだが、魔法使いたちに対する恐れもない。一切ない。時折、ふと考え込む、なんていう様子もなく、ロゼアにくしくし体を擦り付けては、熱心に匂いをつけてソキのなんでぇ、という主張をするのに忙しい様子だった。妖精は額に手を押し当ててため息をつく。すこし、ほんのすこしでいい。魔術に対して考えたりして欲しかった。
思い悩む妖精の気配を察し、お説教に繋がりそうだと敏感に気がついたのだろう。りぼんちゃん、と問いの形に語尾をあげながら、ソキは甘えた声で口を開いた。
「あのね、あかほんちゃんと、ソキは、もうけんめいに頑張ったの。だからこれは、休憩時間なの。分かったぁ? ソキだってぇ、ちゃーんと、考えてるんですぅ! ほんとなんですよ? ほんと、ほんとです!」
『……そう。なら、ソキ? 考えたって、なにを?』
「えっ。……え、えーっとぉ、うんと……えっと……えと、えと……んっと……」
ソキは談話室中を慎重に見回して、その姿がないことを確かめると、ロゼアの腕の中から身を乗り出して声をひそめた。
「レディさんの、火の鳥さんのことですとか……」
『気になるのは解るけど、いいのよ、気にしなくて。ソキが気にしてどうなることでもないし……本人がアレなんだから』
それを受け入れられない限りは、突きつけられる事実は致死の刃にしかならない。発狂しかねない、というのが大方の妖精の意見だった。それは救いにならず、それは、希望にならない。あの魔法使いにしてみれば。それは消えない罪の烙印としてしか、受け止められないものなのだろう。でもぉ、としょんぼりするソキに、妖精はため息をついて言い聞かせた。
『いいから、黙っていなさい、ソキ。……レディのことがすこしでも好きで、笑っていて欲しいと思うなら。言わないでいることでしか、今はあの子を救ってあげられないのよ。理解してちょうだい』
「……鳥さんは、さびしく、ないの?」
『分からないわ。あの砂漠の筆頭の妖精とは違って、アタシたちとも意思の疎通ができないの。……あれは妖精ではなくて、魔力の……混ざりものの、魔術師だから』
世界に焼き付き。取り残され、切り離された。どうしてあげることもできない。ただ、恐らくは。消えることも、離れることも、出来る筈で。そうしないまま、傍らにあり続けているのだから、それこそが彼の望みでもあるのだろう。そっとしておきなさい、そうするしかないの、と繰り返されて、ソキはこくんと頷いた。とても納得したとは思いがたい仕草だった。
「ソキ、レディさんが大好きです。……ないしょ、する。ないしょ、できるです。えらい?」
『偉いわ。……落ち着かないんなら、一度、レディと話しでもしなさいな。魔術のこと。ソキになら話してくれることもあるかも知れない』
ソキが魔力を不安定にした時、王たちからの依頼で助けに来てくれたのはレディである。その繋がりもあるし、なによりレディは砂漠出身の魔術師として、ソキとロゼアを崇拝している。他者とは違うこともあるだろう。はぁい、とまだ不満そうな返事をして、ソキは今度はレディを探し、談話室をきょろきょろと見回した。
「いらっしゃらないです……どこへ行ってしまったんです?」
『……夜には戻るんじゃないの?』
リトリアちゃん良かったねぇ、とはしゃいでいたソキは気がついていなかったのだが。試合後のレディは荒れていた。苛々しきった様子で落ち着かず、椅子に座っては立ち上がり、歩き回ってはすぐ戻って来る。白魔術師たちの検査や治療も拒否して、がんとして受け入れなかった。しかし、そこで気を取り直すのがレディの強さである。
聞くところによると、火の魔法使いは唐突にあーっもうやだーっ、と叫んで立ち上がり、お風呂入ってくるっ、と言い残して女子風呂に消えた。ぽかんとして見送る白魔術師たちを置き去りにして。かくして試合が続けられている中、風呂に入って体を洗い、髪を整え、爪を磨き、化粧をして、真新しい服と靴を用意したレディは、様子を見に来たエノーラを捕まえると、星降の城下町に消えたのである。
買い物をしまくって、美味しいものを食いだおれて来るらしい。エノーラは笑いながら付いていった。夜には戻る、と言い残して。いまはまだ昼間である。戻るとしたら緊急事態発生に他ならないが、魔法使いと錬金術師を呼ばなければならない事態など起こり得ない、平和で穏やかな午後だった。
それでも諦めきれない様子できょろきょろと見回してはくちびるを尖らせるソキに、ロゼアがするりと手を伸ばす。ふくらみかけた頬を指先で突き、くちびるを撫でれば、それだけでソキはくすぐったそうに笑った。きゃふっ、ふにゃっ、と身をよじって、ソキはもぞもぞぴとりとロゼアにくっつき直す。意識が反れたらしい。
ものの見事にロゼアに転がされながら、ソキはねえねえ、と楽しげに声を弾ませる。
「そういえば、明日は『お屋敷』に帰るんです? りょこは、おやすみなの? また今度なの?」
「そうだよ、ソキ。観光はまた今度。……まだお休みたくさんあるだろ。また今度、年明けにでも、行こうな」
ロゼアと一緒に行けるなら。ソキはそれが明日でなくともいいのである。約束をしてくれることも嬉しくて、ソキはとろけるような笑みではぁい、と返事をした。ロゼアの気配も幸せに和む。いいこだな、かわいいな、偉いな、と褒めながらソキを抱き寄せ直し、ロゼアは砂漠の城にご挨拶だけして行こうな、と言った。決して長居する予定のない、かつ、気乗りのしない、義務感のみで付け加えられた予定だった。
まあまあ、と笑いながら声をかけたのはメーシャである。メーシャは俺も待ってるから会いに来るとでも思ってよ、とロゼアをなだめ、きょとんとするソキに微笑みかけた。
「ラティと一緒に待ってるから、会いに来てよ、ソキ。ロゼアのことも連れてきてね。頼んだよ」
「ふんにゃっ! ソキ、頼まれたです! ソキにお任せー! というやつですー!」
これで砂漠の王が絡んでこようが、砂漠の筆頭が引き留めようが、ソキはメーシャくんが待ってるんですううぅ、とごねて脱出してきてくれる筈である。ロゼアったらあのひとに気に入られてるもんね、と微笑むメーシャに、心から不可解かつ嬉しくなさそうな顔でロゼアは頷いた。
「とりあえず、『お屋敷』で色々聞いてくるよ」
「うん。教えても大丈夫な範囲で、分かったことを教えてくれると嬉しいな。ナリアンも、気にしていたし」
そのナリアンは、花舞に呼び戻されて不在である。女王が聞きたいことがある、とのことだった。在学生なのに呼び出しとは、という顔をしたナリアンは、微笑んだ花舞の魔術師たちによってずるずると連行されて行った。拒否権というものが存在したとしていても、最初からそれを選ばせる気が先方になどない。まさしく連行という連れ去られ方だった。ソキはぷぅっと頬を膨らませて、ねえねえメーシャくん、とくちびるを尖らせた。
すっかり花舞の魔術師さんになっちゃったです、うんナリアンの前ではしーっとしておこうねソキ落ち込んじゃうからね、メーシャくんは砂漠の魔術師にされちゃわないよに気をつけて欲しいです、俺は大丈夫だよラティが守ってくれる気がするしそういう誘いも受けてないしね、ラティさん起きてくれるかなぁ、どうだろうね、おねむりさんだと寂しいですねメーシャくん、ソキたちがいてくれるから助かってるよありがとう。
こしょこしょ、ないしょ話のように。穏やかに交わされる言葉に耳を傾けながら、ロゼアは心から憩いを堪能するように、ソキを抱き直して頭の上に顎を乗せた。ぷきゃんっ、と楽しくはしゃいで潰れた声を出しながら、ソキは上目遣いにロゼアを見る。
「ロゼアちゃんたらお疲れです」
「……重い?」
「ロゼアちゃんがぴとっとしてソキは嬉しいですうううっ!」
めいっぱいの主張の中に、だから離れちゃだめ、という想いがある。それに心から微笑んで、ロゼアはソキを抱き寄せた。ふわふわのあたたかい『花嫁』が、いまも腕の中にいることを。その奇跡を。噛みしめるように目を閉じて息を吐くロゼアに、メーシャがくすくす、と笑って。休んでおいでね、ロゼア、と囁く。予定は変われども、明日は帰省の日。見送りの言葉だった。