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 長期休暇における帰省において。昨年との一番の違いは、ソキが砂漠の王に部屋の用意を願わなかったことだ。二人の滞在は『お屋敷』の中となる。砂漠の王は渋い顔をして、なにも問題を起こすなよなにかあったらすぐに言えよというか予定を早めるならそれももうすこし前に知らせてこいよ色々こっちにもやることがあるんだよ事前連絡の大切さを学べよ、と帰省の挨拶に来たふたりに小言を長引かせかけたのだが。
 本日も麗しく微笑む砂漠の筆頭が、はい陛下そこまでにしましょうね、とぴしゃりと遮ってくれたので、難を逃れることができた。陛下ご機嫌麗しくないから、ごめんね、と。確実にその理由も原因も三割を受け持つ男は反省とは縁がないようにさらりと微笑み、ロゼアの背を押して部屋の外へ向かわせた。必要があったらまたあとで、と告げられたことを、ロゼアは心底聞き間違いにしたい、と思った。
 しかし、とりあえずは解放されたので。それからロゼアはメーシャと会い、ラティの見舞いをし、ようやく『お屋敷』に辿り着いたのだった。長い道のりである。朝食を終えてすぐに『学園』を出たというのに、時刻はすでに昼を過ぎている。ソキには飴を食ませていたので、さほど空腹は感じていない素振りであるのが救いだった。
 もうすこしだからな、と馬車から降りて囁くロゼアに、ソキは目をきらめかせながらこくこくと頷いた。ぴとんっ、と機嫌良く抱きつき、くっつき直しながら、忙しなく辺りを見回している。ソキには見覚えのない玄関口だからだろう、とロゼアは微笑んだ。本来は外部勤務者が他国に向けて出発する為の出入り口のひとつである。広大な敷地を持つ『お屋敷』は、役割ごとに細かく出入り口まで作られ、定められていて、それが崩されることは滅多にない。
 今日はその特例である。他でもない『お屋敷』の当主そのひとが、ここから、とソキとロゼアの帰省にあたって出入り口を指定してきたのである。独断でのやらかしではない証に、側近たるラギからも一筆書き添えられていた。玄関前まで馬車で来て、あとはソキの体調と相談しつつ、ゆっくり歩いてくるように、との指定である。『お屋敷』の中では、ソキは極力歩いて移動するように、との指定に妖精は逆じゃないのと首を傾げたが、ロゼアの説明で渋い顔をして納得した。
 つまり、『花嫁』は歩かないのである。そうであるからこそ、自分の足でてちてちと歩き回る以上、ソキは咄嗟には『花嫁』と認識されない。もちろん、未だ顔を知る者は多いが、魔術師となった事情を知る者は逆に限られている。ソキは何処に嫁いだことになっているからだ。だから出歩くにしてもこの範囲、時間帯はこの間、特に指定があればその間は部屋にいること、と定められたのだった。
 それに妖精はなんなの軟禁なのと顔をしかめたが、ロゼアは逆にその融通のきいた調整っぷりに戦慄した。ソキのあっちへこっちへさ迷う好奇心を完全に満たし、かつ、恐らくは王の運動させろという要求に応えるために、相当苦心して調整したことが分かってしまった為である。この玄関口の指定も、恐らくはそういうことだろう。当主側近の苦労がしのばれる。ラギなら笑いながらなんとかしそうな気もしたが。
 ロゼアはため息をつきながら砂漠の王の腹痛などをそっと祈り、ソキを腕の中から滑り落とした。まったく、なんの権利があってソキをロゼアの腕の中から取り上げようとするのか。『傍付き』の内心などいざ知らず、てちんっ、とあいらしく、ロゼアの『花嫁』が着地する。ソキはすぐにロゼアの指をきゅむりと握り、わぁ、と声をあげて辺りを見回した。
 さわさわ、静かなざわめきが遠くに、上品に満ちている。あたりは静かだった。ロゼアは柱の影に隠れた数人の護衛の存在を確認したが、ソキからすれば無人の空間に思えるだろう。ひとりじめですねぇ、ロゼアちゃん、とにこにこしているのを訂正せず微笑みかけ、妖精にも視線を重ねて首を横に振ってから。ロゼアは楽しそうにするソキの手に、指を絡めて繋ぎ直した。
「足下に気をつけて、ゆっくり行こうな、ソキ」
「はぁーいはぁーい! あっロゼアちゃんみてみて? おはな! おはな!」
『突然何処かへ行こうとするんじゃないっ!』
 とてちちっ、と早足で向かおうとするのを、さっそく妖精が叱りつける。ソキはつむんとくちびるを尖らせ、ちがうもん、と言ってロゼアの手をくいくい引っ張った。見知らぬ玄関口を探検して行きたいらしい。先触れはすでに到着を告げているだろうが、幾重にも張り巡らされた監視の目があり、そして約束の時間には、実は余裕がある。
 ロゼアはソキが空腹でないこと、体力にも余裕があることをしっかりと確かめた後、いいよ、と言って歩き出した。
「ソキのしたいようにしような。でも、勝手に色々触ったりしたら駄目だからな」
「はーい!」
 妖精は無言でソキの頭の上に乗り、不運で転ばないよう、怪我をしないように祝福と加護を強めてやった。改めて、妖精もあたりを見回す。確かに『お屋敷』の規模を考えると、驚くほど小規模な馬車の発着所である。街にある、乗り合い馬車の待合所に似た雰囲気を持つ。馬車が一台、くるりと回れる程度の空間があり、人々の待つ長椅子と、雨よけの簡易屋根が設置されている。
 ソキの目を引いたのは、その周囲に整えられたちいさな花壇だろう。そこにゆれるのは砂漠に咲く花ではなく、熱や乾燥に強い、花舞の植物だ。慎重に確認すれば、庭木や蔓草なども、すべてが花舞の固有種、あるいはそれに近いもので整えられている。なるほど、と妖精は頷いた。恐らく、他の国の草木で整えられた発着場もある筈である。
 ソキは楽しそうに花壇の端にしゃがみ込み、きれいですうううう、とはしゃいでしばらくそこを観察した。赤や黄色い花が風に揺れるのを飽きずにきゃっきゃと見つめるので、妖精はソキの頭の上で寝転がった。
『……アタシの方が立派で綺麗だと思うけど』
「うふん? りぼんちゃんたらぁ、嫉妬なのでは?」
『体を冷やす前に建物に入りなさいね、ソキ』
 楽しげな質問には答えず。ぺちりと頭を叩いて促してやれば、ソキはふにゃふにゃ笑いながらはぁい、と言った。立ち上がり、とて、てち、てち、とソキは歩き出す。目に映るもの全てが新鮮で、楽しくてならないというように、目をきらきら輝かせながら。建物に入り、長いまっすぐな廊下と、回廊をふたつ抜け、右に一回、左に一回曲がったところで、ソキは現在位置を見失ったらしい。
 そもそも、入ってきた場所からして、ソキの知るものではないのだ。どこにいるのか、どこへ向かっているのか分からなくなった様子で不安げに立ち止まり、見上げるソキに、ロゼアは大丈夫だよ、と微笑んだ。
「そこを曲がれば、もうソキにも分かる場所だよ。もうすこしだよ、ソキ」
「……ソキ、ほんとに『お屋敷』、いるですぅ?」
『そこから疑うのはどうかと思うわ……しかも今になって……』
 だってぇ、とごねるソキの頭を平手でぺしぺし叩きながら、妖精はいいからロゼアの言う通りなさいな、と促した。
『知ってる場所に出たら安心するでしょ』
「……ソキ、ロゼアちゃんの、いうとおり、する」
「かわいいな、ソキ。偉いな。いいこだな。かわいいな。かわいいソキ」
 でれっ、としながら褒めるロゼアに、ソキの機嫌は瞬時に回復した。ふんぞりかえり、でしょう、でぇっしょおおおおおっ、と心ゆくまで自慢げにしたソキは、呆れ顔の妖精を頭に乗せたまま、またとてちてと歩き出す。果たして、ロゼアの言うことは正しかったらしい。なぜか警戒した顔つきで廊下の端からぴょこんっ、と顔を出して覗き込んでいたソキは、あっと声をあげて飛び出した。
「ソキ、ここ知ってるですー! いつもの玄関から来た時のね、まっすぐの、みぎみぎの、ひだりー、の、まっすぐの、とこ!」
「そうだよ。よく分かったな、ソキ。すごいな。知ってるとこで嬉しいな」
「きゃふふふ! ということはぁ、お兄さまの、御当主さまのお部屋まで、もうすこしです!」
 あっち、と三叉路の中央をぴしりと指差し、自信満々に告げるソキに微笑んで、ロゼアはそっと『花嫁』の腕に手を添えた。そーっと腕を押して、指差す先が左端の廊下になるように調節する。あれ、あれれ、と目をぱちくりさせるソキに、ロゼアはしれっと言い放った。
「うん、こっちだな。ソキは分かったな、すごいな」
「……でぇっしょおおおおおっ? えへん。えへへん!」
『駄目だコイツほんとはやくなんとかしないと……』
 呻く妖精に、ソキはちゃあんと端っこを指さしてたんでぇ、と主張して、『花嫁』はまたとてちてと廊下を歩きだした。不思議なくらい、廊下はしんと静まり返っている。不安な静寂ではない。砂埃を掃き清めたあとのような、きよらかな静寂が置かれていた。通りがかる者の姿が全くない訳ではなく、廊下の先や部屋の出入り口に不意に人影が現れては、ロゼアを見て、ソキに微笑み、ゆるりと一礼をして姿を消していく。
 誰もソキの姿に驚かず、かつ、ロゼアが虚無と見つめ合う顔をしてお辞儀をするのを見ていると、かなりの上層部か、権力者であるのだと妖精にも知れた。つまり、それくらいの者には、ソキが帰ってくると知らされているということだ。ソキはそんなことにちっとも気がついた様子はなく、きゃあんとはしゃいだ声をあげてはちたちた手を振ったり、早足に寄ろうとしてはロゼアに引き止められていた。
 当主に挨拶をしてからだと言うのである。ソキはしぶしぶ、しぶしぶ頷いては、またあとでね、おはなししてね、あとでソキの所に来てくださいです、忘れちゃだめですよ、やですよ、と甘えた声で言い放ち、とてちて歩いては機嫌よくしている。くすくす、と何処かから満ちた笑い声が聞こえる。妖精は知らず、安堵に胸を撫で下ろしていた。大丈夫だ、と思う。
 もしかしたら一部に限られるのかも知れないが、それでもこの場所は、人は、ソキの帰りを歓迎しているのだ。ルルクはちゃんと帰ったのだろうか、と妖精はふと思い出す。審判を終え、ロゼアとソキを慌ただしく見送ったルルクは、アリシアの腕にしっかり絡みつきながら帰ろうねーっ、と言っていた。アリシアが迷う間もなく連れ帰らなければ、という決意に満ちていた。
 嫌な事がなければいい、と妖精は思う。どの国、どの都市、どんな家に帰っていく魔術師であっても。ひとりも。嫌な思いをしないで、ほっとして、笑って、穏やかに過ごす。そんな帰省であればいい。妖精が物思いに耽っていると、ソキはようやく目的地に辿り着いたらしい。あっち、と指差すたびにロゼアに微調整されること、あれから三回の、長旅であった。
「ここが、御当主さまの、執務室、です! ……そうでしょう? ロゼアちゃん」
 でっしょー、でぇっしょおおおおおっ、とふんぞり返るソキを幸せそうに眺めて、ロゼアはほわっと息を吐き出した。心底和んでいるらしい。まぁ精神薄弱状態よりは良いと思ってあげるわよアタシ優しくて慈悲深い花妖精だし、と半目で呻き、妖精はぺちぺちとソキの頭を手で叩いた。
『さ、ソキ。さっさとご挨拶して、さっさと部屋に行って休みなさい。ロゼアだってそう言うわよ』
「……そうだな、ソキ。リボンさんの言う通りにしような」
 きょと、と、無垢な目でロゼアを見たあと、ソキはこくんと頷いた。
「分かったです。ただいま戻りましたをしたら、ソキはすぐお部屋に行くです。ロゼアちゃんも一緒です。……ロゼアちゃん、どっか行かない? ソキと一緒、いる? 置いてかないです……?」
 不安そうに確認されるのは、昨年のことがあるからだろう。ロゼアはしゃがみこんでソキと視線を重ねると、行かないよ、としっかり言い聞かせた。御当主とラギが結託して、命令して来るようなことがあれば逆らうのは難しいだろうが。ソキが部屋にすぐ向かうというのなら、引き止めるような用事はなかった筈である。昨年とは違い、王宮に部屋や世話人の用意もないのだし。
 なにかあったらまた明日って言おうな、それで大丈夫だよ、と告げると、ソキはこくりと頷いてロゼアに抱きついた。ぬくもりを擦り付けるように身を寄せて、お部屋に行ったらだっこですよ、と『花嫁』が求める。ロゼアはもちろん、と頷いてソキの頬を撫でた。ソキは手にすり寄ったあと、ロゼアからぱっと離れ、扉をこちこちと手で叩いた。失礼致します、とロゼアが声を張る。
 入っていい、という声にソキは頷き、部屋にするりと体を滑り込ませた。
「お兄さま? ラギさん、ソキがただいま戻りましたですよ。あのね、ロゼアちゃんとね、今年から、な、ななんと! ソキのリボンちゃんも一緒なんですぅー! あっリボンちゃんっていうのは、ソキの案内妖精さんをしてくれたね、ソキの妖精さんでね、とびきりきれいにすいーっと飛んで、つよくて、かっこよくて、すごぉーいの!」
「だだいま戻りました、御当主さま。ラギさん」
「はい、お帰りなさい。お変わりなく、お元気そうでなによりです」
 笑いを堪えながら受け答えをするラギを傍らに侍らせ、執務机の椅子に座りながら、レロクがソキたちに頷きかける。道中なにもなかったろうな、と問いかけられて、もっちろんですぅと胸を張るソキの傍らで、ロゼアがふっと笑みを深めた。
「……お歴々の方の姿があるようでしたが、なにか?」
「ええ。祝いごとの準備の為に、知恵と人手が必要でして。……ロゼアもご挨拶してきたでしょう? なにかありませんでしたか?」
 なにかあることを期待して、楽しそうにするのは辞めて欲しい。特になにも、とロゼアは遠い目をして首を振った。王の機嫌がよくなくて、絡まれかけたくらいである。お歴々の方々と言葉を交わすことはなかった。そうですか、と笑いながら、ラギは砂漠の民が親しみを込めてよくそうするように、陛下にも困ったものですね、と首を傾げる。
 途端にレロクがむっとしたのは、俺以外に困ったりするのはどういうことなのだ、と思っているからに違いない。ロゼアはそちらもお変わりなく、と笑みを深めた。砂漠の王の婚姻事情を知っていたら惜しみなく提供するように、準備があるので、という求めに頷き、いくつかの情報を交わし合って。ロゼアは、また明日に、と告げて当主の部屋を出た。
 ソキはわくわく、きらきらした目で廊下を歩いて行きながら、めぐちゃぁーんっ、と遠くに現れた人影を呼ぶ。ただいまーですぅー、とはしゃぎ声に、ロゼアは笑って。部屋まで残り数歩の所で、『花嫁』をその腕に取り戻した。帰ってきたな、と思いながら。



 ほやん、と口を半開きにして、ソキは眠りから覚めた。あたりはまだ明るい。夕方ではなく、昼間であることが察せられた。やぅー、と眠たい声をあげながらくしくしと目を擦り、ソキは寝台の上で身を起こした。右、左、右、ときょろろと視線を動かしたのち、もぉーっ、と不満げな声をあげてちたぱたとする。
「ロゼアちゃーん! ソキにおはようのぎゅうをしなきゃだめですううぅう!」
『あら? 起きるの早いんじゃない?』
 ひらり、天幕の隙間から戻って来た妖精が、すっかり目を覚ましているソキに首を傾げる。お昼を食べるまでが精一杯で、ソキはすぐ眠ってしまったのだった。『お屋敷』に戻り、挨拶を済ませ、メグミカたちに再会してすぐのことである。世話役たちに再会してほっとしたのか、すぐにうとうとしだしたソキに、彼らは心得た様子で手早く食事だけをさせ、慣れた動きで寝台へ送り込んだのである。
 ソキはぐずりもせずにこてん、と眠り込んだ。帰るとなって昨夜からどきどき楽しみにして、朝もなんとなく早かったので、体力がもたなかったのである。そうであるから妖精もロゼアも、夕方までソキは目覚めないものと思っていたのだが。慌てた様子で戻って来たロゼアに、だっこでしょおおお、とむくれるソキに眠気は見られない。たまたま起きてしまった風でもなかった。
 ごめんな、おはよう、とソキをひょいと抱き上げながら、ロゼアが問いかけの目を妖精に向ける。妖精は無言でそれに応え、ソキの魔力の揺れや変調を探っていたのだが、特別、おかしなところは感じ取れなかった。契約妖精が感じられないとなると、それは、ない、ということである。特になんでもないわね、と不思議さにまみれた声で言ってやると、ロゼアはそうですか、と頷いてソキと額を重ね合わせた。
 ゆるり、目が慈しみに細められる。
「おはよう、ソキ。喉乾いたろ、お茶を飲もうな」
「うん! あ、あのね、メグミカちゃ、あのね、あのね、ソキねぇおはなし、おはなしが、いーっぱい! あるんですよ? ねえねえ、今日の、このあとの、ご予定は? ソキでしょ? ソキでしょ? もちろーん、ソキでしょっ!」
 すっ、と音もなく。心得た様子で現れ、ソキにぬるまった香草茶を差し出す女を見て、妖精はロゼアの影のようだ、と思った。顔つきや体つきが似ている、という訳ではない。並べても姉弟には見えないだろう。血の繋がりを感じる訳ではない。しかし、その雰囲気には共通したものがある。それは『お屋敷』所属の共通項であるようにも思われたが、それ以上に、メグミカとロゼアは些細な所がぞっとするほどよく似ている。
 例えば、足の運び。『お屋敷』の、ロゼアのような者はみな訓練された身のこなしをするから印象は似通ったものになるのだが、それ以上の精密さで、メグミカはただ、ロゼアに似ていた。足の運び、呼吸の感覚、癖、瞬きのゆらめき、視線の動かし方、考え込む時の仕草、答えを出すまでの間。そんなものが。精密な、と思わせるほどよく似ていて、それは自然とそうなったのでありながら、訓練でそこまで寄せたのだろう、と察せられた。
 ロゼアの影。そこに、溶け込むような存在としての女だった。光が強ければその影は濃く。闇の中では溶け込むだろう。一対の、ではない。ひとつの、とも違う。ただ、影。その存在がある限りは、そこからどうしても切り離せないもの。本当に心底全力で心から力いっぱい、『お屋敷』とは趣味が合わないわ、と妖精はしみじみとした。望んでそうしたのだとしても。その枠組みはつくられたものだ。
 妖精の呆れにも似た感情にも、ロゼアとメグミカの類似にも、気がついた様子はなく。ソキはもちろんですわと微笑んでくれたメグミカにぴかぴかの笑顔を見せて、香草茶をごきげんに飲み干した。
「『学園』でのお話をしてくださるのですか?」
「うん! あのね、ななななぁーんと! ロゼアちゃんね、今度ね! じょそ」
「ソキ、飴を食べような。はい、あーん」
 なぜ、よりにもよって、それを、真っ先に、言おうとするのか。公開処刑を直前で阻止したロゼアに、メグミカから鋭い視線が向けられた。ソキさまの言葉を遮るとは何事だ、と言わんばかりである。ロゼアは視線をそらしている。ソキは飴をからころ口の中で転がしながら、うぅうんなんだっけです、と首を傾げ、ぱちくり瞬きをした。
「あっ、そうだったです。あのね、メグミカちゃん。ロゼアちゃんとね、メーシャくんとね、ナリアンくんがね、じょっきゃふ! きゃふふふ! やぁあんロゼアちゃんがぁ、ソキをこしょってするううぅきゃふふふふふ! きゃふふふ!」
「ソキ、他のおはなしにしような。他の」
「ロゼアやめなさいよ。くすぐったがるソキさまは可愛らしいけど」
 でも大体察したわなんでそんなにおもしろ愉快なことになってるの詳しく聞かせなさいよロゼア、やだ知らない、いいから聞かせなさい、やだぜったいやだ、とばしばし視線を投げつけあい、ロゼアはきゃふきゃふと身をよじってくすぐったがるソキを、寝台に腰かけた足の上に乗っけた。はうー、はふー、と息を整えるソキを宥めながら、ロゼアは他のにしような、とソキに微笑みかける。
 くすぐったくて暴れた衝撃ですっかりなにを話そうとしていたのか忘れてしまったソキは、つむん、とくちびるを尖らせて抗議した。
「おはなしぃ……。こちょっとされるから、ソキ、しない! いじわるされるです! よくないです!」
「……ごめんな、ソキ」
 申し訳ながるロゼアが、しょんぼりとソキの顔を覗き込む。ごしゅじんすてないで、と訴える小動物的な眼差しだった。全力で引く妖精とは裏腹に、ソキはころっと転がされ、かわいいですううううっ、と大はしゃぎでロゼアの頭を抱き寄せた。きゅむきゅむ、もちち、と頭に頬を擦りつけながら、ソキはもう怒ってないですぅ、とロゼアに囁きかける。
 そっか、と安堵に微笑み、ロゼアはソキのなすがままになっている。つまり、胸に顔が抱き寄せられたままになっている。即座に離れろこのむっつりがっ、と叫んでロゼアの顔を足蹴にしながら、妖精はぴゃっと驚くソキに言い聞かせた。
『ロゼアも狼なのよ気をつけなさい!』
「やぁん、ソキのかわいいしょんぼりロゼアちゃんだったですうううぅ!」
『そんな殊勝な男かコイツがーっ!』
 多少落ち込むことはあろうが、いまのは明らかにソキの慰めを期待したものである。駄目だコイツほんと早くなんとかしないと、と妖精は羽根を震わせた。実家に帰ってきて気が緩んで甘えたくなっているのかも知れないが、そんなことは妖精に関係がないのである。しぶしぶロゼアを解放したソキに、妖精は渋い顔をして言い聞かせる。
『いいこと、ロゼアだって狼なのよあー! 喜ぶなーっ! そうじゃないでしょうがーっ! あぁあーっ! ソキーっ!』
「ソキ、このお休みで、きせーじじつを作る予定、なんでぇ! ふふふん!」
 もはや帰省事実として処理しておきたい、と妖精は目眩を感じてよろめいた。それならばすでに達成できているからである。試しに、ならもう大丈夫じゃないの、と言ってやると、ソキはきょとんとして、それからオロオロとあたりを見回して不安げに首を傾げだした。あ、あれ、そうなんですっ、あれっと動揺するのを観察し、妖精はぬるく微笑んだ。ちょろすぎるにもほどがある。
 はいはいそうよ、実はそうなのよ、と強引に丸め込みながら、妖精はソキの目の前に対空した。
『さあ、そういうことなのだから、このお話はもうおしまい! 分かったわね? 返事は?』
「はぁーいー……?」
 ロゼアの目の前で返事をしたのだから、つまり言質は取ったのである。妖精は軽やかに飛び上がり、寝台を覆う薄布を遠慮なく足蹴にしながら言い放った。
『ロゼア、これ開けなさい! こんなもん引いてるから、ソキがなんのかんの言うのよ。起こすなら起こせ! 大丈夫よ特になんでもなくて、なぜか早起きしただけだから、これ』
「……ソキ、眠たくないの? 起きるのか?」
 ロゼアが過保護に確認しても、ソキは眠気の消えたすっきりした顔で、こくんと頷くばかりだった。体力がついたんじゃないの心当たりないけど、と告げる妖精に、ロゼアがそれはないと思いますが、と苦笑しながら立ち上がる。シャ、と音を立てて薄布を手早く開き、纏めながら呟く。
「機嫌がいいからかな……」
 それが、単なる推測だけではなく、なんだかあまりに幸せそうだったので。妖精はため息をつくだけで、言葉を胸に押し留めてやった。ソキはとりあえず、そういう生き物である。そうであるから、こちらが諦めであるとか、譲歩であるとか、慣れによる取り扱いのしやすさを習熟するのが一番なのである。まっとうな教育を諦めた訳ではなく。
 あー、堕落しないように見張ったり叱ったりしなきゃ頑張れアタシ頑張るのよシディが起きたらロゼアを押し付ければいいから負担は減るのだし、と己に言い聞かせ、妖精はちらりと視線をソキに戻した。なにやら、寝台の上からもちゃもちゃと滑り降りて、棚によちよち歩み寄っていたからである。ささっと寄ったロゼアと、しっかり手を繋いでいる。
 あー、と表現できない気持ちに呻きながら、妖精は棚の前に座り込み、うんうんと唸りながらひっくり返し始めたソキに、散らかすんじゃないのよ、とため息をつく。
『なぁに、どうしたの? 探しもの? ロゼアに頼みなさいよぐっちゃぐちゃにしてまったく……いやなんで十数秒でこんなにひっくり返せるのよ……?』
「ソキ、ちゃぁーんと! あとで、お片付け、するもん! するもん!」
 ふんす、と自慢げにするソキのあとで、まで、片付けものが残っていればの話である。ロゼアとメグミカがてきぱきと物を整え、ついでとばかり分類し、掃除していくのを見る分に、ソキがやることなど残っている筈もなかった。妖精の呆れ果てた眼差しに、ロゼアがそっと微笑んで、ソキのハンカチを数枚だけ場に残す。ソキの片づける用である。違うそうじゃない。根本的にそういうことではない。
 頭を抱えてよろめく妖精にきょとんとしながら、ソキがリボンちゃあん、と甘えた声で膝の上をてししと叩いた。
「きっと飛んでるのがつかれたに違いないですぅ。ソキのお膝があいてるんでぇ、リボンちゃんはここに座らせてあげてもいいんですよぉ? はやくはやくぅ」
『その上から目線やめなさいねソキ……。で? 一体全体、いきなりなにをしだしたって言うの?』
 必要なものは、随時ロゼアが手配して取り寄せていた筈である。それはソキが口に出して欲しい、と望んだ物以外も含まれるから、こんなに急にぐちゃぐちゃに掘り返さなければいけないようなことにはならない筈だった。妖精がすとんと膝の上に降りてやると、ソキはよくぞ聞いてくれましたですぅ、と言わんばかり自慢そうな顔をして、ふんすすすっ、と腰に手を当ててふんぞり返った。
「探しものです!」
『なにを! なんで! 探してるのかって! 聞いてるのよ、アタシは!』
「あのね、リボンちゃんのお部屋なの」
 ぴーんと来たのだという。帰省する間も一緒に暮らすのだから、これは妖精の過ごす場所というのもなければいけないのでは、ということに。そういう訳で、なにか入れ物だとか、箱だとか、籠だとか、そういうものを探しているのだ、というのがソキの主張である。なにせ、起きた時にぴぴんと来たので。働かさなくていい第六感的なものを遺憾なく発揮して。
 聞き留めたロゼアが、それならあっちを探してみようか、とソキが掘り返していた棚の、ふたつ右隣を指差した。衣類が主に詰まっている棚とは違い、なるほど、ソキが求める空箱や、籠などが整然と並べられていた。ソキは難しい顔をしてきょときょとと棚を見比べ、やがて重々しく、こっくりと頷いて立ち上がった。
「あっ、あっちだったです」
『片付けてから移動なさい! 片付けてから!』
「むむぅ。ソキはぁ、はやくぅ、リボンちゃんのお家を決めたいんですううぅ」
 ごねるソキを叱り飛ばして座り直させ、妖精はせめてもと残された数枚のハンカチを畳ませた。ソキはむくれながらちまちまと布を持ち上げ、たたみ、出来上がりを見て不思議そうに目をぱちくりさせる。
「なんだか……? よれっとしているような……? それで、それで、くちゃんとしているような……」
『ど、どへたくそ……! ……いやでも知ってたわこれ』
 驚愕から瞬時に冷静な真顔になった妖精に、ソキは違うでしょっ、と頬を膨らませた。ソキのせいではないのである。きっと。ソキはたたんだハンカチをロゼアにずずいっと差し出すと、それはもう張り切って報告した。
「ロゼアちゃん? このハンカチが、ソキにいじわるをしたです!」
『ロゼア、アンタなんて言えばいいか分かってるんでしょうね? これは躾けよ、し、つ、け!』
「……いじめられたの悲しいな、ソキ? 俺と一緒にやってみような」
 妖精の望んだ言葉ではないものの、とりあえずそれでよしとしたのは、ソキもういっかいたたむぅ、としぶしぶした声がロゼアの提案を受け入れたからだ。一緒に、というのがよかったらしい。素晴らしいですわソキさまさすがですなんて可愛らしく愛らしいんでしょう、と世話役たちによってたかって褒められるのに、秒で機嫌を回復させて。ソキはにこにこ笑いながら、くちゃん、としたハンカチを広げ直した。
 よいしょ、よいしょ、とどんくさくたたむのに、手を伸ばしたロゼアが手伝っていく。ソキのちまこいてのひらの上に手を重ねて。ゆっくり、一緒にたたんでいく。やがて、きちん、と一枚たたみきり、ソキはこの上ない自慢顔で、でぇーきたーっ、と妖精に報告してくる。
 妖精はそうね、と頷いてやった。
『はいじゃあその調子で、残りも畳んで頂戴ね。探しものはその後よ』
「うふん。分かったです。ロゼアちゃぁん、一緒にたたんで欲しいですぅー!」
 味をしめたらしい。嫌がることなくきゃっきゃと返事をするソキに、この手はもしや使えるのでは、と思案する顔で考えて。妖精はすっと、目的の棚へ視線を動かした。大小様々な箱や籠が並ぶ中、不思議に目を引く花籠がある。特別作りが良いわけではなく、華美ではなく愛らしくもなく、ただの、普通の、どこにでもある花籠である。ふむ、と妖精は羽根をぱたつかせて決意した。なにか妙なものを選ばれるくらいなら、あれを棲み家に指定してやってもいい。
 時間をかけてハンカチをたたんだソキが、迷いなく、あっこれにするです、とその花籠を選んだので。妖精は分かったわ、とすぐそれを受け入れてやった。



 せっかくたたんだハンカチを引っ張り出し、ソキは熱心に花籠に敷き詰めた。妖精に似合う色や柄、寝転んだ時のふかっと感、素材も考えて悩みながらの作業は放っておけば一時間でも続いただろう。そんなのどうでも良いでしょうと呆れ混じりに妖精が呟けば、ソキはよくないもんと頑なに頬を膨らませ、いいですかぁ、とお姉さんぶった、おしゃまな顔つきになって言い聞かせてくる。
「リボンちゃんが寝転んだ時にふかっとして、やわっとして、いい匂いがする寝床にしてあげるですからね。ソキに任せるです!」
『どーでもいい手間暇かけたいなら、床の上じゃなくてソファか寝台に移動しなさいって言ってるのよアタシは。分かるかしら?』
「……あっ、やっぱりこっちにするです!」
 聞いていない。清々しいほど聞いていない。恐らく、座り込んでいるところから立ち上がるのが面倒くさいのだろう。ぺかーっとした笑みで一枚のハンカチを交換するのを眺め、妖精は深々とため息をついた。
『どうせ、ソキの胸とか、足とか肩よりは寝心地悪いに決まってるんだから』
「えへん。リボンちゃんはぁ、ソキにめろめろなんでぇ。でもそれは当然のことというかぁ、ソキはもちもちやわやわあったか! いーにおーいですからね!」
『はいはいそうね』
 粗雑な返事でも、無視をしないのが妖精の面倒見のいい所である。ソキはうきうきと花籠にハンカチを四枚も敷き、指でそのふかふか具合を確かめてから、それをすすっとばかり妖精に向けて押し出した。
「さっリボンちゃん? お家が出来ましたですよ」
『はいはいどうもありがとうね。いつになったら床から立ち上がるのかしら?』
「住み心地を確かめて欲しいですぅ」
 ごねるんじゃない、と妖精は天を仰いだ。『お屋敷』に帰ってきたせいで、ソキの甘えたと、ひとの話を聞かない感が普段の五割増しになっている。『学園』と違い、床下に温水を流しているからか、座り込んだら駄目だろ、とロゼアが止めに来る素振りもなく。見ればロゼアは先程からずっと、世話役たちやメグミカと一緒になって部屋を整えたり、響かない声で情報を交換しあったりしている。ソキから視線だけは外さないままで。
 アンタちょっとソキを移動させなさいよ、と腕組みをしてぎろりと睨みつければ、とろけるような笑みを浮かべたロゼアが、ソキ、とでろでろに甘い声で妖精の魔術師を呼んだ。
「リボンさんと一緒に、ソファか、寝台に行こうな」
「んもう、ロゼアちゃん? だっこでしょ?」
 しゅぴっ、と両腕をあげて移動を所望する『花嫁』に、ロゼアがでれでれとした笑みでそうだな、と囁く。我慢よアタシこれは交通手段だと思うのよただの移動手段よ座り込んでて足が痺れた可能性を考えなさいアタシ立ったりしたらよろけて転んで額を打ったりして熱を出すかも知れないじゃないソキなら十分にありえることよ、と額に手を押し当てて呻き、己に言い聞かせて。
 妖精はひょいっと抱き上げられて寝台に滑り落とされるソキを追って、よろよろと室内を飛んでいく。ソキは不思議そうな顔をして妖精を見つめ、首を傾げながら再び花籠を差し出した。どうしても住み心地を確かめて欲しいらしい。妖精は、珍しくも花妖精らしいふわりとした穏やかな動きで着地すると、まぁいいんじゃないの、とソキの努力を評価してやった。
『シディを転がしておく場所も欲しかったことだし』
「はにゃっ! こ、これはっ、もしかして……ふたりのあいのすー! というやつでは……! どっ、どうきんなのでは……!」
『アタシが寝る時は捨てるわよ邪魔だもの』
 単純に、置き場所がない為の措置である。そこらに転がしておいて、間違って捨てられても困るのだし。それかロゼアがきちんと管理していればいいのだ。楽しい妄想で頬を赤らめ、やんやんと身をよじって喜んでいるソキを放置して目を向ければ、ロゼアは苦笑して頷いてくる。
「シディのことはご心配なく。俺が持っていますから」
『……ならいいけど。置き忘れたり、なくしたりしないでちょうだいね。ここ、広いし、アタシが見えるのアンタたちだけなんだから』
 分かっています、と言うふうに微笑んで、ロゼアはポケットをぽんぽんと手でやさしく叩いた。そこにシディの本体が入っている筈である。いいことシディは鉱石なんだからそこらに置いておかないでちょうだいて、間違って回収でもされたらことよ、研磨されて彫刻でもされてみなさい変質どころの騒ぎじゃないんですからね、とくどくどと言い募る妖精に、寝台にころんと腹ばいになったソキが、不思議がって目をぱちくりとさせる。
「シディくん、削られちゃうの? ……とっても、すっごく、硬いってニーアちゃんが言ってたですよ? あのね、刃物の方が削れちゃうです」
『知ってるわよ。アタシは万一の可能性の話をしてるの』
「リボンちゃんたらぁ、心配性なんだからぁ」
 くふくふと幸せそうに含み笑いをするソキに、花篭から出て頬を突きながら。妖精はそれにしても、と室内を見回した。ソキの住んでいた『花嫁』の部屋を訪れるのは、これが数回目である。一度目はソキを『学園』に迎えに来た時に、二度目は旅路の途中、通過する時に。三度目は、パーティーの衣装決めのおり、気まぐれを起こした散歩道の途中に。
 そうであるから、訪れた覚えはあれど、滞在した記憶はなく。ソキを介した親しみがある、くらいの場所であるのだが。なにやら、妙にしっくり来る空間だった。天井は高く、広々としていて薄布のはためく窓からは穏やかに濾された冬風が流れ込んでくる。換気の為に時折開けているだけなのだろう。ソキが寝ている間も何度か開け閉めされた窓は、見ていると、いままた音もなく閉じられ、部屋はふわりと封鎖される。
 閉じ切った感覚がまるでしないのは、部屋の扉がないからだろう。ない、と思わせるほど開け放たれた扉の向こうは、人の気配のない廊下である。寂しさが流れ込んでこないのは、戸口にめいっぱいの花飾りが置かれているからだろう。その飾りが華やかさで空虚を締め出し、同時に恐らくは、ソキがこっそり出かけたりしないような封印の意味合いも兼ねている。
 わざと通行を阻害するように飾られた花を、ロゼアたちは上手く避けて通るが、ソキは間違いなく散らしてしまい、足跡が残るだろう。これだけ視線が外されないでいれば、ソキがどんなに頑張っても脱出は困難を通り越した不可能である、と妖精が感じようとも。それこそ、万一を想定した、さりげない予防対応だった。そういったさり気なさが、部屋の隅々にまで広がる空間である。
 どこもかしこも、やさしい祈りに満ちている。怪我をしませんように、痛いことがありませんように。健やかでありますように。 気持ちよく過ごせますように。それは恐らく『お屋敷』そのものに満ちる設計思想であり、『花嫁』に向けられる祈りそのものなのだろう。それをなぜか、懐かしいような、覚えのある気持ちで妖精は受け止める。
 そんなものに、触れながら暮らしていた時期があったような気がした。妖精がこの場所で長く時を過ごすのは、はじめてのことなのに。リボンちゃ、と甘えた声に不思議がって呼ばれて、妖精ははっとして首を振った。
『なんでもないわ。……今日はなにか予定があるの?』
「お兄さまにご挨拶はしたですしぃ……メグちゃんたちはお部屋にいるです……。あっ、ハドゥルさんとライラさんにご挨拶しなくちゃですぅ! こっそり行ってくるです。うふん。……ふふふ! それとそれとぉ、アーシェラさんもまだいるかもですし、お会いしたいですしぃ、あとあと」
『来てもらいましょうね、ソキ。迷子になるわよ』
 てしんっ、と寝台から足を床に下ろして脱走を企てるソキを律して、妖精は頭の痛い気持ちで言い聞かせた。戸口の措置はよくよく正しい。よく考えてみれば、先日からしつこく『あるくのたのしいですぶーむ』が続いているので、こうなるのは予想して然るべきだった。というか本当に、どうしてこっそりなのか。ソキ、とロゼアがにっこりと笑いかけてくるのに、『花嫁』はきりっとした顔で頷いてみせた。
「大丈夫ですよ、ロゼアちゃん。ソキ、『お屋敷』の中なら分かるんでぇ、迷子になったりしないんでぇ」
『その自信は間違いよ、ソキ。捨てなさい』
 リボンちゃんたらなにか勘違いをしているです、と自信満々のソキに、妖精は自己紹介かしらと微笑んだ。帰ってきた玄関が違うくらいで見たことない場所ですとはしゃぎ、当主の部屋に行くのだって何度も行くべき廊下を間違えていたのに、なんだってそんなことを言い張れるのか。一回迷子にして痛い目見せたほうがいいのかしら、ついてくけど、と妖精はげっそりしながら考えた。
 悩んでいると、ソキがもちゃもちゃ寝台から滑り降りるより早く。歩み寄ったロゼアが、ひょいと『花嫁』の体を抱き上げてしまう。すぐに機嫌よくぴとんとくっついてくるソキの髪を撫で下ろしながら、ロゼアがやや困惑しながら囁きかける。
「ソキ、一人で出歩くのは危ないだろ。どうしたの? お散歩したい?」
「ソキぃ、リボンちゃんに、お家を案内してあげないといけないんでぇ」
 という口実で、あちこち見て回りたいに違いなかった。頼んでないでしょうよ、と呻く妖精に、ソキはこっくりと力強く頷いた。
「遠慮しているです。ソキにはお見通しです」
『……寝て起きたから、体力余ってるのかしら』
「ロゼアちゃあぁん、良いでしょう? ソキ、リボンちゃんの案内をするうううもう決めたんですううぅ」
 体を擦り付けてねだるソキに、ロゼアが分かったよじゃあ一緒に行こうな、と告げようとした途端だった。あ、と声を上げて思いつき、妖精はソキの名を呼ぶ。
『分かったわ、ソキ。それじゃあ、案内してちょうだい』
「はぁーいはぁーいっ! きゃふふふふっ!」
『まずはあの棚からお願いするわ。あそこにはなにが置いてあるのかしら? さ、ロゼアと手を繋いでいいから、アタシのことを案内してちょうだい? なにがある棚なの?』
 妖精が指さしたのは、先程ソキが衣類を引っ張り出していた棚である。広々とした部屋には大小様々な棚や物入れが並べられていて、ひとつひとつを聞くだけでも結構な時間になるだろう。その手が、と感心した顔になるロゼアに気がつかず、案内を頼まれた嬉しさで大はしゃぎしながら、『花嫁』はソキが教えてあげるですうううっ、と声をあげた。
 ちたぱたして腕の中から滑り落とされ、ソキはロゼアの指をきゅむっとばかり握ると、危なっかしい足取りでとてちて歩き出した。長期休暇の目標は、引き続きの運動と歩行の安定である。真顔で思いを深める妖精に、ソキはリボンちゃあん、と甘えきったはしゃぎ声を響かせた。
「はやくぅはやくぅ! この棚はね、布の棚なの! それでね、ソキのハンカチですとかぁ、お服を作る布ですとかぁ、窓の陽よけにする布のとか、入っているんですよ。ソキのお昼寝のシーツとかね、あとね、あとね、あっこんなところに刺繍の布があるですソキこれ探していたですぅ」
『……ぐっちゃぐちゃに引っ張り出されてるけど? ロゼア?』
「ソキ、ひとりで引っ張り出したら危ないだろ。いけないよ」
 注意してほしいのはそこではないのだ、決して。ソキは気もそぞろな様子ではぁいと頷き、収穫した布をきゅむりと胸に抱き寄せている。ぜぇったい返さないです、これはもうソキのです、という顔だった。ソキは興奮して目をきらきら輝かせながら、これにお花の刺繍するですっ、とロゼアと妖精に向かって発表した。
「それで、それで、リボンちゃんのお服作ってもらうです! ソキとおそろいにするの!」
『……はぁん?』
「リボンちゃんのはぁ、ちゃーんと、お好きそうなせくしー! なのにしてもらうです。布が一緒ならおそろい、ということです。ソキったらかしこいです!」
 以前、おそろいの服を妥協してリボンにさせたのだが。実は根深く諦めていなかったらしい。なんという完璧な計画です、さすがはソキです、とすっかりその気になっている『花嫁』に、ロゼアがうっとりするような笑顔で囁いた。
「縫製方の予定を聞いておこうな、ソキ。御当主様にもお話してからにしような。ソキはどんな服にするんだ?」
「決まっているです。ロゼアちゃんが、ソキに、めろめろで、もーっと、すきすきになるお服です!」
『具体性がないのよねぇ……』
 それもびっくりするほど、なにひとつとして、ない。そんなことないもん、と主張するのはソキだけである。ロゼアは心から和んで幸せを感じている表情でソキから布を受け取ると、それを手早くメグミカに受け渡し、『花嫁』に告げた通りのいくつかの指示を飛ばした。ソキ様すぐに戻りますわね、と言いおいて、メグミカともうひとり、世話役が部屋を抜け出していく。
 いってらっしゃいですー、と機嫌よく手を振って見送って、ソキはそれじゃあ次はあっち、と隣の棚を指さした。
「こっちの棚はね、ソキの髪飾りと、ヴェールと、ショールと、ちょっと羽織る上着とかのね、棚なの」
『……まあ、そうよね。『学園』よりあるに決まってるわよね』
 しかも絶対に、ソキのお気に入りを厳選してあるに違いないのだ。妖精に説明しながら、またしても、あっソキこれを髪につけてもらいたいです、とせのびいいいっ、としてちいさな紙箱に手を伸ばすのを、ロゼアがほのぼのと見守っている。のびっとして、届かなくて、あっ、あれっ、あれれっ、とするのが可愛くて仕方がないらしい。しかも、待っていればロゼアちゃん取ってぇえ、のおねだりが来るのである。全面的なロゼアに対するご褒美だった。
 まあいいか、と妖精はそれを見つめるままにしてやった。休暇である。ロゼアにも休まる時があってもいいだろう。最近は心労ばかりが募っていたのだし、まだロゼアには、砂漠の筆頭と『お屋敷』との関わりを確認するという仕事が残っているのだし。どうせろくな結果にはならない、と妖精は思っているので、ひとときの安寧くらいは堪能させてやる慈悲くらい、あるのだった。
 あくびをする妖精を、ソキのはしゃぎ声が呼ぶ。それに、はいはい、と返事をして。妖精はひらりと、魔術師のもとへ滑空した。

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