室内を三分の一程案内して飽き始めたソキは、それを見抜いたロゼアによって、あれよあれよという間に寝台に連れ戻された。また眠たくなったらおやすみしような、と言い聞かせてくるロゼアに、ソキは仕草だけ素直にこくりと頷いた。そうしてから、ソキはまったく眠気のない表情でスケッチブックを所望した。布に施す刺繍の図案を書くのだという。
ロゼアは微笑みながら、一時間くらいにすることだの、腕や目が痛くなったらすぐに止めることだの、室内にはいるから用事があったら呼ぶことなどを手早く約束させ、ソキにスケッチブックを渡して寝台からは立ち去った。ソキはふんすすす、とやる気に満ちた様子で鼻を鳴らすと、寝台に腹ばいに転がりながら花籠に手を伸ばした。ずりずりひきよせて、ぺしし、と指先で甘く表面を打つ。
「りぼんちゃん? ここにいて、ソキを見守ってくれなきゃだめでしょう?」
『アタシがどこにいるかはアタシの自由でしょうが』
「はーやーくぅー」
べたべたに甘えきった声で求められて、妖精はロゼアの視線を感じながら、ため息をついて舞い降りた。何種類もの生地の違うハンカチが敷き詰められているせいで、上質な絨毯のような座り心地である。ふっかふかね、と顔をしかめながら言う妖精に、ソキは自慢顔でこっくりと頷いた。
「リボンちゃんのお家なんでぇ、ソキ頑張ったんですよ? ころんとしても、くぴっとしても、気持ちいいに違いないです!」
『はいはいどうもありがとう。鉛筆を持ってる時は視線をそこから外さないの』
ソキは興奮するとすぐちたちたするので、純粋に危ないからである。ソキは素直にはぁいと返事をして、花籠でくつろぐ妖精を嬉しそうに眺めたあと、きりっとした顔つきでスケッチブックに向き合った。するすると鉛筆が紙面を滑っていく。迷うことなく花と植物の模様が描かれていき、糸の色まで指定が成される。また自分で刺すの、と問いかける妖精に、ソキは残念そうに首を横に振った。
「お服の布のね、一部じゃなくて柄になる刺繍はね、裁縫係の人に頼まないといけないんですよ。お願いするの。ソキだと腕が痛くなっちゃうし、たいへんとっても時間がかかるですからね……」
なるほど、と妖精は頷いた。ロゼアが当主と係に話を通す筈である。ひと仕事だ。難しいって言われたら諦めるか、もっと簡単な図案になさいね、と告げる妖精に、ソキはまた素直にはぁいと頷いた。機嫌がいい。ソキはふんにゃふんにゃ鼻歌を歌いながら瞬く間に刺繍の図案を描きあげ、その紙をロゼアに切ってもらってそのまま受け渡すと、またころろんっと寝台に横になった。
ちたちた、ぱたた、と鼻歌に合わせて足が揺れている。なんでそれでもいまひとつ、どんくささの抜け落ちない動きなのか。戦慄さえしながら上機嫌でお絵かきを続けるソキを見つめ、妖精は一時間よ、とロゼアの小言を繰り返した。
『それぞれ一時間、じゃなくて、合わせて一時間よ? いいわね?』
「ぷ。ソキ、分かってるですぅ……」
指摘されなければ誤魔化すつもりだった気持ちに満ちた、しぶしぶとした顔である。油断も隙もないんだから、と息を吐き、妖精はソキの手元を覗き込んだ。開いていたのは、描き途中の陶器だった。ソキのちまこい手のひらが、すっぽり包み込んでしまえるくらいの大きさの。表面に精緻な花の彫刻が成された『 』だった。
それは昨日と比べて対して進んではおらず、まだもやもやとした線と輪郭が大半の、空白に満ちた絵であったのだが。それが『 』である、と妖精は確信することができた。言葉として思い浮かべることは叶わない。そこだけ消されているような違和感がある。確信をもっても、声にも出せず言葉には表せない。喪失したものであり、しているものだからだ。
けれども、分かる。これがソキの『 』だ。そう感じる理由は分からない。直感、としか言いようのない判断だった。しかし、妖精はソキにそれを告げることなく。未だに自分でなにを描いているのかも理解していない魔術師に、描けそうなの、と問いかけた。なにせ昨日から、ソキはひっきりなしにスケッチブックを開いては、線を一本足してみたり、見つめては首をひねって閉じてしまったり、かと思ったらまた開いたりと大変忙しいからである。
それなのに大した進展が見られないのだから、妖精には徒労を繰り返しているだけに見える。ソキはうーん、とくちびるを尖らせて唸り、ふよふよと鉛筆の先を彷徨わせながら告げた。
「さっきまでは出来るような気がしてたんですけどぉ……あれ……? あれぇ?」
『……刺繍の図案で体力切れたんじゃない?』
「あっ! ロゼアちゃんの抱っこで描けばいけるような? 気がしてきたような? 気がするです!」
気のせいよ、と妖精は笑顔で言い切った。いゃあんやんっと身をよじるソキに、妖精は静かにお絵かきしていなさい、と言い聞かせた。ロゼアからは気遣わしげな視線が向けられているが、近寄ってくる気配はない。戻ってきたメグミカたちとなにか打ち合わせの最中らしく、明確にソキが呼ぶまでは寄ってこないのだろう。
いつもこれくらい節度のある距離を保てばいいのよ、と妖精は思い、いまひとつうまく行かないせいで頬を膨らませだしたソキを、花籠に寝転がりながら見つめた。ソキが苦心して整えただけあって、悔しいくらい居心地がよく、なにやら親しんだ懐かしささえ覚える籠である。ちらっ、と視線を向けてきたソキが嬉しそうにふにゃふにゃと笑うので、妖精は大人しく花籠にいてやることにした。
『まあ、じっくり時間をかけなさいよ。リトリアだって、焦らないで良いって言ってたじゃない?』
「そうなんですけどぉ……」
でもきっと、早いほうがいいのだ、とソキは主張した。本能的に焦っているんだろうな、と妖精は思う。それは本来、魔術師があたり前に持っているものだ。取り戻せるならその分、気持ちが急いでしまうのは理解ができることだった。しかし。
『一日、二日、はやく出来たって、いまからじゃもう誤差みたいなものでしょう? 丁寧にしないと、きっと後で後悔するわよ。いいの? ソキがいいなら、アタシはいいわよ。アタシじゃなくて、ソキのだもの。好きになさい』
「……ソキ、丁寧に、じっくり、する。慌てるのしないです。……えらい?」
偉いわ、と妖精はしっかり褒めてやった。途端にころっと機嫌がよくなって、ソキはにこにこしながら鉛筆を持ち直す。する、と線が引かれた。するすると。幾度か紙面を迷いなく滑り、花が描き足され、しかしまたそこで詰まってしまったらしい。ソキはむっとくちびるを尖らせながらスケッチブックをぱたんと閉じて、花籠から出ないでいる妖精の元へにじり寄ってきた。
「ねえねえ、リボンちゃん。陛下の結婚式はいつされるのかなぁ? ソキもめいっぱいお祝いしたいです! 年明けかなぁ、それとも、春になったらです?」
『……確定したの?』
先走った砂漠の王宮魔術師と古参の臣下たちが、主君の外堀をせっせと埋め立てている段階だ、と妖精は思っていたのだが。問いかければ、ソキはきょとんとした目で首を傾げ、かくていですぅ、と不思議そうに言った。決まっていないに違いない。妖精はため息をついた。またそうやって先走って、だめよ、とたしなめる妖精に、ソキは目をきらきらと輝かせながら、甘えた声でだってえぇ、と言った。
「みんな、もうその準備をしているでしょう? これはつまり、もう陛下のご結婚が決まったと言うことでは? お祝いには準備が必要ですからね! きゃぁあんソキ楽しみですううう!」
「……一応、公的には、まだなんの発表もされてないだろ、ソキ。あんまり言ったらいけないよ」
「分かってるですぅ。これは、内緒、なんでぇ!」
苦笑したロゼアが言い添えてくるのに、ちっとも分かっていない声で意気揚々と頷いて。ソキは額に手を押し当てて沈黙する妖精に、ふすっ、と鼻を鳴らして言い切った。
「アイシェさんにも、おめでとうございます、をお伝えしないといけないです。王妃さまですぅ……!」
『決まってないのよねロゼアっ?』
「明確な発表がまだ、としか……! ソキ、発表があったらお祝いしような。まだお待ちしような」
止めろ、という意思を存分に乗せた叱責口調に、ロゼアは即座に応えてみせた。足早にやってきたロゼアはソキをひょいと抱き上げると、くふくふご機嫌に笑う『花嫁』と、額をこつんと重ねながら囁きかける。
「ソキ、まだ決まってないだろ。決まってないことを、決めつけたら駄目だろ。陛下の為にもお待ちしような。聞いたり、急かしたり、しないでいような」
「もっちろんですううう!」
『……アタシも見張ってるけど、アンタも注意してなさいよ? ロゼア?』
これは絶対にやらかす。いつものアレである。妖精が真剣な顔で告げると、ロゼアもまた同じ顔つきで頷き返した。幸い、城に行く用事はないままである。数日は『お屋敷』でゆっくり過ごすつもりであったし、出かけるとしても城下街くらいだ。それも、移動には輿を使い、あるいはロゼアが抱き上げていくので、他者との不用意な接触の可能性は無いに等しい。
『お屋敷』の者は『花嫁』の先走った言動にも慣れているので、城にさえ向かわなければ、ソキが外堀埋め立て作業に無意識に加担することも無い筈だった。しかし、時に斜め上を行くのがソキである。警戒は緩めるべきではない。面会は事前申込みで、身元の判明している者だけを、とロゼアと世話役たちが厳戒態勢を整えつつあるのを気にもせず、ソキは抱き上げられた腕の中から、妖精の花籠を恋しがってちたちたと腕を伸ばしてくる。
「ロゼアちゃーん。リボンちゃんが遠くですぅ、いけないです! やぁんや! リボンちゃーん!」
「うん? 来て頂くの? 籠ごと?」
「そうですぅ! ソキ、リボンちゃんを運んであげるです。それでね、それでね、お散歩するです。きゃふふふふ!」
機嫌がいいのは良いのだが、妖精は持ち上げられた籠の中から、うんざりとした眼差しでロゼアに言った。
『分かってると思うけど、大惨事にしかならないからソキには持たせないでよ』
なにせ『学園』に向かう旅の間、ソキは日除け籠の中にいる妖精を庇い、普段の三割はよく転んだのである。その頃はソキの体調や怪我を軽くさせる恒常魔術が効いていたから惨事にならなかっただけで、今同じことをすれば結果は火を見るより明らかである。ロゼアはもちろんですと頷いて、ソキが持つぅリボンちゃんの籠持つですううぅ、とちたぱた主張する『花嫁』を、片腕で甘くやんわりと抱き直した。
「ソーキ、俺も一緒に散歩したいな。いいだろ?」
「もっちろんですううう! 抱っこ? ねえねえ、抱っこぉ?」
「いいよ。抱っこで行こうな。俺がソキを抱っこして行くから、ソキはリボンさんの籠を抱っこしてあげような」
だっこおおおぉっ、と蕩ける笑みで大喜びして、ソキは気合の入った表情で妖精の花籠を受け取った。持ち手に腕を通してぎゅっと抱き寄せられるのに、妖精は不安定な籠内で腹ばいに腕組みをしながら、よく考えてみれば、と呻く。
『移動するのにアタシがこれに乗ってなきゃいけない理由ってなによ?』
「ソキ、リボンちゃんの輿持ちをする! お姉さんなんでぇ!」
『……そうね、あと十日もすれば年明けですものね』
つまり、ソキもロゼアも一歳年を取るのである。ソキは十五歳。砂漠の法によれば、正真正銘、成人である。十五ねぇ、とまずそこから疑っている眼差しで、妖精は自慢げなソキをよく観察した。
『……どんな大人になるか考えてあるの?』
「うん! あのねあのね」
『ロゼア以外ね』
えっ、とソキは笑顔で固まった。妖精はロゼア以外ね、と繰り返し、花籠から飛び立って持ち手部分に座り込む。ソキが力の入れ過ぎでぐらぐら揺れているので、こちらの方がまだしも酔わない為である。
『他にもあるでしょう? アタシの可愛い魔術師さん? ほーら言ってみなさいよ言えって言ってるのよ、ソキ。ほらほら』
「……あっ、ソキね、せくしぃになる!」
『アタシは現実的で達成可能な、目標を聞いているのだけれど?』
ソキは、そうですぅ、とこっくり頷いた。十分現実的で、達成可能な、目標なのである。妖精は深々と息を吐き出し、ソキのふっくらした頬を足先で突き倒した。
『ほ、か、に、あ、る、で、しょ? 魔術師として成長するとか! ロゼアを倒してぎゃふんと言わせるとか! だいたい、アタシがソキを誰もが平伏す予知魔術師にするんだからもっとこう志を高く持てって言ってるのよアタシは!』
「こころざしぃ……?」
やんやんや、と頬を突かれるのから逃れようとしながら、ソキは怪訝な顔で呟いた。ソキがうーんうーん、と悩むのをでれでれ眺めながら、ロゼアは着々と散歩に出る用意を整えている。ソキに薄い上着に腕を通させるのでどこまで行くのかと思えば、同じ『区画』の別の部屋や、廊下の探索をしに行くらしい。室内である。呆れたが、妖精はなにも言わずに頷いた。ソキの貧弱さは、時に妖精の想像を超える。
特に今日は朝から機嫌よくきゃっきゃとはしゃぎ倒しているので、お昼寝をしたとはいえ、体力切れで体調を崩すこともあるだろう。それじゃあとりあえず、ソキの勉強の部屋に風を通しにでも行こうか、と囁くロゼアに、『花嫁』は前後の文脈をまったく無視した、つまるところこれっぽっちも話を聞いていなかった態度で、とりあえず頷くことだけはした。
口から出て来たのは、悩んでいた志である。
「ソキ、来年には授業を受けられるようになるです。それでね、それでね、たくさんお勉強するの」
『なんの為に?』
「ソキね、知らなかったことを、たくさん、知るの。それでね、それで……うーん、うーん。んと、んと、それでね、知ったらね、またね、なんでかをね、考えるの。ソキ、いろんなことが分かるようになるですよ、リボンちゃん。そうするとね、な、なんとー! できることが増えるですぅー!」
向上心はあるのだ。清く正しく、健やかに。妖精は微笑んで、ではそうなさい、とソキに囁いた。知らないことを知り、その先で。思い描きなさい。なにもかも、自由に。全てを。ソキは目をきらきら輝かせながら、こくり、と頷いてロゼアに抱きついた。とりあえず、いなかった間の区画の部屋がどうなっているのかを知ることが。先決だ、とする態度だった。
夕方いっぱいはしゃいだソキは、夕食を済ませて湯につかり、そこでとうとう体力が切れたらしい。眠い目をしきりに擦りながらスケッチブックを広げていたのだが、線の一本も足さないままぽてっと寝落ちてしまった。ロゼアがそっと抱き上げ、てきぱきと寝かしつけるのを花籠の中で転がって眺めながら、妖精はやっぱり体力かしら、と思案した。
ソキに足りないものといえば、即座に一ダースも思いつく程あるのだが、優先順位をつけるとなるとひどく難しいのである。なにせ、極めてどんくさい相手なのである。目標を定めて育成したとして、二つを同時並行となると、ついていかせるだけで精一杯になりかねない。それは本意ではない。想像の中でも手助けしたがるロゼアを、顔をしかめて手を振っておいやり。妖精はやはり体力かしら、と呟いた。
常識を叩き込み直したり、妖精瞳の調整をしたり、勉強の為の下地を作ったり、歩き方をせめて旅のはじまりくらいまで回復させたり、運動の習慣をつけさせたり、それはどれも急務であり重要なことではあるのだが。それを成すだけの体力が、いまのソキにはないのである。かつては貧弱、くらいではあった筈なのだが。妖精の見立てでは、もはや貧貧貧弱くらいに落ち込んでいる。
どうしてこうなったかは考えるまでもない。ロゼアのせいである、というか、これ幸いと甘えきったソキのせいである。やはり初年度のパーティー以後、体調を崩して寝込んだことと、恒常魔術が無くなったことが痛かった、と妖精は思う。それを使わせないことにした判断は誤りではない。すくなくとも、その時と、そしてこれまでの最適解ではあっただろう。
しかし、と妖精は思考を巡らせ、これまでのことを、なにが理由原因で今に至ったのかを、時系列をなぞりながら考える。魔力が不安定になり、噛み合わなくなったことは不運だった。あれは、成長期の魔術師なら誰にでも起こりうる不運。いっそ風邪や、あるいは成長痛だと思ってもいいことだろう。備えて予防はできるかも知れないが、必ず防げるものではなく、一度なってしまえば落ち着くのを待つしかない。
白魔法使いのような稀有な術者であれば治癒はできるが、原因そのものは魔力であるから再発の可能性は残されていた。そうであるから、恒常魔術を禁じたことはまったく正しい。しかし、今はすでにそれが最適解ではなくなっていた。そして、ロゼアのみならず、妖精もそれを見落としていた。それだけのことだ。なんたること、と舌打ちをして、妖精はロゼアに目を向けた。
アスルをむぎゅむぎゅ抱きつぶすソキをでれでれと見守っていたロゼアは、常の敏さを消すことなく、すっ、と視線を向けて妖精を見つめ返した。なにか、と問う眼差しに、妖精は決めたわ、と強く言い切った。
『明日からよ。ソキの恒常魔術を再開させる』
「……き……いえ、危険性がある筈では?」
許可できません、という即答を飲み込んだのだろう。不自然に絶えた言葉を繋いだロゼアに、危険性は、と妖精はただ静かに言い聞かせた。
『ある、のではない。あったのよ。今は、ない』
「理由をお伺いします」
『ソキがアタシと、妖精と契約した魔術師だからよ。不運を避ける幸福の遣い。そうであるから、あの状態は防ぐことができる。アタシがわざと不運を通さない限り』
そして、そんなことはしない。断言する妖精に、ロゼアは数秒だけ沈黙して。分かりました、と絞り出す声で頷いた。
「ただ、数日……いえ、一日か、二日だけでも、時間をください。ソキが納得して受け入れて……そうしたら。強制はなさらないでください。そして、その前に……リボンさんを疑う訳ではありませんが、調べる時間をください」
『いいわ、納得するまで調べればいい。……ここまで来たら、数日なんて誤差でしょうし、そうね、ソキがごねるかも知れないわね……』
熱に伏せって、意識をはきと戻すことなく。痛い、いたい、と弱々しく訴えていた姿を、妖精も忘れた訳ではないのだ。あの痛みの記憶がある限り、ソキが嫌がる可能性も考慮すべきだった。それでも、これからを考えればそうするのが一番なのよ、と告げる妖精に、ロゼアは調べます、と根気よく囁いた。
妖精は寛容な気持ちで頷いた。調べた結果として、妖精の言い分が正しいことが証明される。それを待てばいいだけだからだ。不安なら、と妖精は顔を曇らせるロゼアに告げる。
『シディが目を覚ますのを待ってやってもいいわ。……それこそ、もう、明日か明後日でしょうし』
「……分かるんですか?」
『アンタだって、ソキが目を覚ます前には分かるじゃない。それと一緒よ』
言っておいて、妖精は忌々しく舌打ちをした。ソキが眠っていてなによりである。また興奮して、そっそれはつまりーっ、など騒がれる所だった。つまりもなにもない。妖精の目覚めには、なんとなく感じ取れる予感のようなものがある。つまりはただの経験則である。ソキの期待するような、ときめきやら繋がりやら特別のなにかなどではないのだ、決して。
それがニーアだってルノンだって妖精には分かるだろうし、向こうだって同じ筈だからである。そっと微笑み、そうですね、に留めたロゼアに重ねて舌打ちをして、妖精はそうよ、と断言した。
『で、シディが起きて……そうね、早ければ年内、遅くても新年早々にはちょっとでかけてくるから、ついて来なくて良いわよ。言っておくけどそういうんしゃないから。言っておくけど!』
「……どのような用件で?」
『妖精たちが尽力して、ラティを起こそうって提案があるんだけど、どうもそれくらいに許可が出そうなのよね。許可が出たら日程なんて選ぶ理由がないから、さっさと行ってやってあげる予定なの。慌ただしいし、他の魔術師になんの影響もないとは断言してやれないし、どうせ砂漠の魔術師たちがわちゃくちゃするから、騒ぎに巻き込まれたくなかったらここで待機していなさい、と言っているの。理解した?』
はい、とロゼアは頷いた。それから、じわじわと、綻ぶような笑みを浮かべて息を吐く。よかった、と囁き。ロゼアは眠るソキに目を向けながら、心からの安堵に胸を撫で下ろした。
「メーシャが喜びます。ソキも、もちろん、俺も。ナリアンも。……ありがとうございます」
『お礼はちゃんと起こせてから聞くわ。言っておいてなんだけど、確実に、無事に起こせるという確証があるわけではないのよ。ただ、まあ、ほぼできるでしょうって感じ。ひとりではなく妖精が集まれば、たとえ言葉魔術師が絡み、予知魔術が使われ、占星術師が成したことであろうとも、それを否定することは可能だと……アタシたちは思っているし、事実、その筈よ。でもね、やったことがないの。前例のない、ぶっつけ本番のことだから、期待してもいいけど結果は待ってちょうだいね』
はい、とロゼアは安堵にゆるむ声で頷いた。ソキが布団をけりけりしてころんと寝返りをする。甲斐甲斐しく布団をかけ直し、ぽん、ぽん、と腹あたりを撫でるロゼアは、最近で一番落ち着いているように見えた。ラティの一件は、どの魔術師にも残るくらい影だった。確実ではないにせよ回復の見込みが出たことは、喜ばしい安堵として受け入れられる。
にゃむにゃむ、と寝言を言いながらまたころん、と寝返りをするソキに、ロゼアの笑みがゆるりと深まる。
「明日は、すこし忙しく人の出入りがあると思いますが、こちらにいらっしゃいますか?」
『いるわよ。アタシに関係ないもの。なに? 誰が来るの?』
「俺の両親や……ラーヴェさんの補佐をされていた方や、裁縫方なんかが」
好きになさいな、と妖精は頷いた。どうせ、妖精の姿が見えない者ばかりである。なるべくソキの傍にいてごろごろしているつもりだが、居心地が悪ければ散歩にでも出ればいい。忙しいのはいいけど、ソキをちゃんと運動させなさいよ、と小言を告げれば、ロゼアは苦笑して頷いた。夢の中でも聞こえていたのか、うゆゅ、と嫌そうな呻きをこぼし、ソキはころころと寝台の端まで転がっていく。
ロゼアは手慣れた微笑みで、ソキをひょい、と抱き上げて中央へと戻し、ぽん、ぽん、と肩を柔らかく叩いた。妖精はうろんな目でソキを眺める。
『寝てる時のほうがじっとしてないんじゃない……?』
「はい。かわいいですね」
『ロゼアと会話が成立すると思ったアタシが間違ってたわ……』
ゆっくりと首を横に振り、妖精は訝しく眉を寄せた。そもそも、いつもはそんなに転がったりしていない筈である。いつもとなにが違うのかと考え、妖精は即座に答えにたどり着いた。ロゼアが抱き抱えていないことである。恐らくはそのせいである。ロゼアを探しているのか、それとも捕まえていないと転がるから普段は抱っこしているのかは判断がつかないが、いつもの昼寝では特別転がっている記憶がない。
周り中警戒してぎゅうぎゅうに丸くなって寝ている時は論外にしても、いつもの昼寝ではこうならないのだ。妖精は砂糖を口にぶち込まれた気持ちで沈黙した。だっこしてくれないならぁ、ころがっちゃうーですぅー、というソキの拗ねた声が聞こえた気がしたが、幻聴として処理していきたい。妖精は一応、魔術師と契約している者としての義務の範囲内として、ロゼアに確認した。
『なんで今日は抱き寄せてないの? ころころするの可愛いとかだったら骨を折ればいいと思うわ?』
「……いえ、すこし出かける用事があるもので」
疑わしい、と妖精はロゼアを睨みつけた。用事など作ればどうとでもなるし、もし本当にその予定で動いていたとしても、寝入った所を見計らって離せばいいだけである。もぞもぞしたり、ころころしたりするのが見たかったのかこのむっつり、ともはや確信を持って呆れる妖精に、ロゼアは父母に用がありまして、と言った。
「砂漠の筆頭のことについて、確認などを」
『ふぅん? まあいいけど。……あの筆頭ね? どうせ『お屋敷』関係者でしょ? あの妖精の雛も、『花嫁』だってソキがきゃっきゃしてたし』
それが、どういった関係者で、どういった関わりなのか、知る必要があるのである。嫌な予感がするのか気が進まない様子で告げたロゼアは、はー、とため息をつくと、またころころ転がって行こうとするソキを抱き寄せた。
「……妖精って、ひとから変化できるものなんでしょうか? あるいは、魔術師から」
『聞いたことないけど、聞いたことだけかもしれないし。世の中にはね、なにごとにも例外というものがあるのよ、ロゼア?』
「そうですよね……」
はぁ、と息を吐いて、ロゼアは視線を持ち上げた。布の向こうに、メグミカ、と呼びかける。するり、と音もなく侵入してきたメグミカは、満面の笑みでロゼアと位置を交代すると、ささっとソキを抱き寄せた。メグミカはこの世の幸福で満ちる表情で、いってらっしゃい、とロゼアに言った。
「ソキさまのことは私に任せて。……ソキさまの妖精さんはどちらに?」
「花籠の中で、お寛ぎだよ。……どこか移動される予定はありますか?」
『今の所は特に。なぁに? 入り込まれたくない場所があるなら言っておきなさいな。入り込むから』
ロゼアは微笑んで、いえ特に、と言った。絶対にある反応だが、妖精は追及せず頷いてやった。数日過ごせば分かることである。こちらにいらっしゃるとのことだよ、とロゼアが告げると、メグミカはそう、と考えながら花籠の前に薄紙を引き、蜂蜜色の飴や、紙に包まれた角砂糖をいくつか置いた。
「横になりながらで失礼致します。私はメグミカと申します。ロゼアの補佐、ソキさまの世話役のひとりです。どうぞお見知りおきを」
『……アタシは、アンタのこと知ってるわ。見たことある』
それでは、と出ていこうとするロゼアが、足を止めて振り返る。え、と声をこぼすロゼアを、妖精は見ることなく。声が聞こえないことを知っていて、メグミカに向かって語りかけた。
『あの旅の途中。ソキがアスルを取りに帰った時、アンタは泣きそうになりながら、ソキをずっと見守ってくれてた。……そう、メグミカというの、アンタ』
「……ロゼア、なに? 行かないの?」
立ち止まって。言葉を伝えるべきか思い悩むロゼアに、メグミカが訝しげな顔をする。しかし、迷っている間に妖精本人が嫌そうな顔をしてしっしと手を振ってきたので、ロゼアは苦笑いをして首を横に振った。
「いや、行ってくるよ」
「ゆっくりしてきてもいいのよ、ロゼア。夜の時間は空けて頂いてるから」
『そうよ早く行きなさいよ。ソキもコイツのこともアタシに任せておきなさい。なにも悪いことなんか起きないわ』
はい、と妖精に頷き、メグミカによろしくと言い残して、ロゼアは音もなく寝台を離れていく。くぴくぴ気持ち良さそうに眠っているソキは、うにゃ、と言って腕をもちゃっと持ち上げ、かけ、ぱたりと落として動かなくなる。力尽きたらしい。妖精が呆れて見ていると、ソキはもぞもぞとメグミカにすりよって、ぴとっ、とくっついて暖かそうにしていた。
もしや転がっていたのも暖を求めて運動していたのだろうか。可能性がちらりと頭をかすめ、妖精はまぁそんなことどうだっていいわ、と息を吐く。大事なのはソキが健やかに眠っていることと、メグミカが妖精への礼儀の尽くし方を、なかなか理解していることである。妖精は角砂糖をひとつ取り上げると、花籠に寝転がりながらがりりとかじりつく。
行儀が悪いですよ、とシディの声が聞こえた気がしたが、妖精は振り返りもしなかった。恐らく、明日には、シディは妖精の形を成すだろう。その時に改めて羽根を引っ張ってやればいい。それだけのことだった。
朝から訪れる者に次々とだっこおおおおぉ、ぎゅうはぁ、と甘え倒してロゼアの微笑みを深めたソキは、満足したのか寝台で大人しく転がっている。スケッチブックが広げられているものの、紙面に増える線はなく、鉛筆も置かれたまま手にすら取られない状態だった。何度か危ないからしまいなさいと言っても、ソキは違うもん描くんだもんしゅうちゅーをたかめてるんですぅ、など言って転がるだけで、一向に妖精の小言を聞き入れる様子がなかった。
筆記用具を踏んだりして痛い目を見れば反省するかと思いつつ、妖精は花籠から室内を見回した。花籠は何故か妙にしっくりと体にあい、居心地がよく、くつろぐにはちょうどいいので昨夜から妖精の定位置である。転がるソキに乗っていても、一緒に酔うだけであるので。ふにゃー、うんにゃああぁ、と鳴きながら右へ左へ転がるソキを尻目に、室内はそこそこ穏やかで、そこそこの賑やかさを保っていた。
朝である。早朝とは呼べないが、昼前とするには早すぎる時刻。それなのにすっかり身支度を整え終わった者たちばかり、ひっきりなしに部屋を訪れては、ソキに挨拶をしたあと、ロゼアに苦笑しながら言葉を落として去っていく。アーシェラ、と名乗った女はすでにいなくなっていた。今日は当主とあれこれ打ち合わせがあるらしい。お祝いの気配を察してちたちたぱたたと興奮したソキに微笑んで、女性がロゼアの質問に答えた言葉を妖精は反芻した。
『あら、あの方またなにかおいたをしたの、ねぇ……』
また、というのが不穏に過ぎる。待ってくださいどういうことなんですか、と呻くロゼアに、あらあらうふふ、と殆ど全ての事情を察している笑顔を残し、アーシェラは風のように去って行ってしまった。朝一番のことである。朝から目眩に呻くロゼア、という貴重なものを見られたし、女は妖精に蜂蜜をひと瓶献上して行ったので、評価は高い。
転がりすぎて酔ったのか飽きたのか、ぴたっ、と動きを止めたソキが、妖精の花籠をじぃっと見て、幸せそうにふにゃりと笑う。
「リボンちゃんたらぁ、人気者さん! ソキはとってもうれしですうううぅ!」
『……一応聞いておくけど、ソキ? なにかアタシの話をした?』
「うふん? お手紙をしたです。あのね、ソキのリボンちゃんは、なんと! なななんと! ソキの妖精さんのリボンちゃんになったんで、今年は一緒に帰るんですよぉって。リボンちゃんね、蜂蜜がお好きで、それで、お砂糖がご飯なのって。それでね、それでね」
まだまだ続いていく、リボンちゃんすきすき、だの、リボンちゃんは泳ぐみたいにひらひらって飛ぶ、だの、リボンちゃんだいすきすき、だの、砂糖を煮詰めて溶かしたような説明を止めることなく聞きながら、妖精はどうりで、と花籠の前を眺めやった。そこはすでに、訪問者たちからの貢物の数々が山と積まれ、小規模な祭壇めいている。
蜂蜜の小瓶に、飴玉の山、角砂糖は何種類もあって、白砂糖黒砂糖ざらめなど、色合いや見た目が違っていた。数えると、細かな違いは置いておけば角砂糖だけで六種類ある。まだまだ増えそうである。ひと冬越せるんじゃないかしら、と呆れる妖精に、怠惰に転がり寄ってきたソキが、ふっふん、と自慢げに口を開く。
「リボンちゃん、大歓迎ということです」
『そうね。妖精が、感謝してるって伝えておいてちょうだいね』
「もちろんーですぅー」
ひとの目に映らないことが。ひとに、言葉が届かないことが。もどかしい、悔しい、と思う日が来るだなんて思わなかった。ひと目でいい、一言だっていい。直に感謝を伝えられれば、どれほどすっきりするだろう。妖精はため息をついて、不思議そうにぱちくり瞬きしているソキに、なんでもないわと首を振った。
『それより、珍しいじゃない。ロゼア、ロゼアって騒がないなんて。……なにかあるのかしら?』
なにを企んでいるのかしら、と問わなかったのは、その方がソキがぼろぼろと計画をこぼしていくからである。しかし、今日に限って、特に企みのあることではなかったらしい。ソキは目をぱちぱちさせながら、うぅん、と言って部屋の端にいるロゼアを眺めた。妖精もその視線を追う。ロゼアは、今は父母といた。
アーシェラが楽しそうに笑顔で煙にまいた、砂漠の筆頭そのひとと『お屋敷』との関わりについて、こそこそと説明を受けているのだった。ソキにはロゼアから説明される手筈である。妖精が見た所、会話は和やかで穏やかに交わされているように感じられた。しかし恐らくは見かけだけである。
なにせこぼれ聞こえてくる言葉が、いいのよロゼア事故に見せかけても、だったり、あらいやだ今は別にそんな後ろから刺したりしたいくらいで、だったり、先輩後輩といえばそうなんだがつまりロゼアにも先輩この話はやめよう、だったり、シュニーさまが、だったりするからだ。なんというか、全体的に殺意が隠しきれていない。殺意であって、敵意や害意ではないところが面白いわね、と妖精はうろんな顔つきになりながらも思っていた。
どうやらロゼアの父母は、なにかしらの理由で一回、二回、三回くらいは真剣に事故故意問わず、あの砂漠の筆頭にしんで欲しいくらいは思っているようだったが、それは純粋に殺意があるだけなのである。悪意や害意はそこにない。嫌い、というよりは、何回かしんで欲しいし機会があるなら自分の手でもぜひともする、くらいの。近寄らないでおきましょうねソキ、と妖精は冷静な気持ちで言い放った。
はぁい、と返事をして、また飽きたのか、ソキはころころと寝台を転がる作業を再開する。まぁ好きなだけ転がればいいわ、と妖精は息を吐いた。大人しくしているならそれでいい。
『それにしても……『傍付き』に『花嫁』ねぇ……?』
本物だったとは、と妖精はため息をついた。しっかり盗聴もとい聞き耳を立てていなかったので仔細は分からないままだが、どうもジェイドはほんとうに『お屋敷』に在籍していた『傍付き』であり、シュニーは『花嫁』であったらしい。それで、なにがどうなって砂漠の魔術師筆頭と、その妖精なんてものになっているのかは、周囲の説明より本人に聞いたほうが良いだろう、と妖精は思っている。
客観の説明は後の理解を助けるだろうが、しかし、魔術師のことである。姿を見ることが叶わない妖精のことでもあるから、ひとには追いかけきれない事情もあると思われた。そして、ウィッシュ。白雪の王宮魔術師にして『花婿』であった青年は、真実、かの人とその『花嫁』の愛し子であるのだという。つまり、と妖精は魔力に近しい者としてその事実を受け止めた。
恐らく、現在、この世界唯一の魔術師二世がウィッシュである。昔、この世界が大戦争なんて言うものを起こす前には、大多数であったという『血の繋がった』魔術師。血統による魔術師だ。天文学的な数字で、たまたま、ウィッシュも突然変異として目覚めたのだと思えなくもない。しかし妖精は直感的に、違う、と思った。ウィッシュは恐らく、唯一の二世である。いまのところは。
それが今後、また現れるはしりとなるのか。それとも、奇跡としてまた絶えてしまうのか。それは百年、二百年後の魔術師だけが知るだろう。それにしても、ウィッシュは希少に過ぎる。なにせ『傍付き』とその『花嫁』の一人息子で、自身も『花婿』で、さらに魔術師二世である。世が世ならそれこそ、監禁でもされて観察されて実験されていた所である。
あー、平和でよかった、と妖精はしみじみと頷いた。ソキの魔術解析、再構築能力の高さを目の当たりにするたびにも思うのだが、ウィッシュにもしみじみと、平和であったことを感謝する。ソキは今ひとつ、そのあたりの恩恵を実感しておらず、ただ堪能しているようで、まだ寝台をころころと転がっていた。三半規管が多少強くなったようでなによりだわ、と妖精は白い目で見つめながら思う。
少し前なら、すでに気持ち悪がってぴるぴる震えながら動かなくなっていた所だ。今日は時々止まっているが、元気よく転がっている。落ちないようになさいよ、と言って、妖精はまたちらりとロゼアに視線を移した。なにやら頭を抱えている。ざまぁみろ、と心から思いながら、妖精は爽やかな気持ちで己の思考に潜った。二世にお目にかかるのは、妖精もはじめてである。
今はもう世界に融け消える寸前の、年に数回目を覚ますくらいの長老たちならば、あるいは違うのかも知れないが。大戦争の最中ですら、なにか呪いのように、血統によって受け継がれる魔術師は数を減らして行ったと聞く。偶然か、奇跡か。他の、なにかか。徹底的に調べればあるいは判明するかも知れないが、妖精はそれを魔術師たちに囁く気にはなれなかった。
解明しておかなければいけない、差し迫った理由がないからである。幸いとして今のところ王たちは、その二世という存在を重要視していないのか、気がついていないのか、あえて取り沙汰されている風でもないのだし。平和ボケしてくれてありがたいこと、と感謝して、妖精は転がっていたら楽しくなってきたらしく、ころころこーろーこぉーろーっ、と歌いだしているソキに、ちょっと、と声をかけた。
『ソキ、アンタのお兄さん……いや、見えてなかったわよね、確か……』
聞こうと思って、聞く前にそれを知っていたことを思い出し、妖精は息を吐いた。人の中にもごく稀に、魔術師でなくとも妖精を見ることができる者がいるので。ウィッシュと一緒に育ったソキの兄ならもしや、と思いかけたのだが。『学園』に向かう旅の途中、立ち寄った折、当主は妖精に一度も目を止めなかった。見えないのだ。『お屋敷』の者たちと、同じように。
ソキは、おにいさまぁ、と拗ねたような声で呟いたあと、よくわからないですけどぉ、という顔でこっくりと頷いた。
「お兄さま、そゆとこ雑なんでぇ、リボンちゃんは見えないと思うです」
『いや雑とかそういう問題じゃないのよ?』
そもそも、ひとさまを雑と評するとはなにごとだ。叱りつけると、ソキはぷぷっと頬を膨らませた。
「ちがうもん。お兄さまが言うんだもん。お前は俺と似てそういう所が雑だからな……って! だからぁ、けなしたんじゃないもん。ソキにとってのロゼアちゃんと寮長、みたいなのの寮長が、お兄さまにはリボンちゃんが見えない、になるだけだもん。わるくちじゃないもん」
『はいはい。分かったわ。でもね、雑なんて言うんじゃないのよ。返事は?』
「はー、あー、いぃー、ですうううううぅ……」
いじいじと返事をしたソキは、おにぃさまのせいでおこられたですううううぅ、と不機嫌極まりない声でむくれると、アスルをもぎゅもぎゅ抱きつぶし、また寝台を転がる作業を再開した。おにーさまのー、せいですうううう、ソキはちいともー、わるくーなーいーですぅー、と不機嫌な歌をほわほわ漂わせているのを見る分にこれっぽっちも反省していないのが見て取れたので、妖精は心から息を吐き出した。
ロゼアの躾のせいである。それ以上でもそれ以下でもなく。まあ一応、休みの間にでも当主の目の前を飛んだりしてみようと思いつつ、妖精はちらりとロゼアを確認した。まだ話が終わらないのか、ロゼアは父母と共にいた。顔色が悪い、というより、引きつっている。さてどう要約してソキに伝えるつもりなのかしらねぇ、とあくびをして、妖精はそのままかしら、と首を傾げた。
ソキはすでに、『傍付き』と結ばれた『花嫁』を知っている。ディタとスピカ。その二人を知っているからこそ、過度にはしゃぐこともなく目をきらきらさせて、そうだったんですぅーっ、と喜ぶくらいのものだろう。ロゼアがどうしてあんなに衝撃を受けている、というか、げっそりしているのかは分からないが。ふふ、と妖精は思わず笑顔になった。ロゼアの不幸は蜜の味である。
リボンさん、と頭の痛そうな声と共に、花籠に影が落ちる。
『ロゼアの苦労を喜ばないでくださいませんか……?』
『シディ、アンタね。久しぶりの第一声がそれ? 他になにか言うことあるでしょう?』
ソキみたいなことをしないで欲しい。えっ、とロゼアが声をあげて視線をよこし、ソキがぱぁっと笑って見る、妖精がうんざりと顔を上げた先に。妖精がいた。シディ、と改めて名を呼び、妖精は花籠の中で座り込んだまま、その姿を確認する。記憶の通りの姿をしていた。特別に髪が伸びたりしていないし、羽根の数も四枚のままである。持ち手が増えて便利になったりはしていない。
妖精の姿は魔力で編まれたものであるから、過度の変化とは変質であり、それが起こっていないことは分かりきっていたのだが。妖精はシディがなにかを言う前に、手を伸ばしてその体を引き寄せた。胸倉を掴んで。きゃっ、きゃあああぁんっ、と興奮したソキの声を尻目に、シディはええ分かっていましたよ、という達観した目をしている。無抵抗である。
大変によろしい、と鼻を鳴らし、妖精はぎりぎりとシディを締め上げた。
『で? なんで眠り込んでたっていうのかしら? だからあの事件の後に日光浴と月光浴をしなさい、と言ったのよ? 不養生ばかりしているからそうなるの。反省したんでしょうね? アンタがいなくてほんと! 不便だったわ!』
「はにゃにゃ!」
『ソキさん……いえこれほんと言葉通りの意味ですから……はしゃがれなくてもいいんですよ……』
なぜなら不便とは、ロゼアに関しての苦情だからである。分かってんじゃないの、と言い捨てて開放し、妖精はもういいわ、と手を振ってシディを追い払った。
『あとで詳しい話でも聞かせてちょうだい。ロゼアはあっちよ? 行ったら?』
『はい。……リボンさん』
『な』
に、と続く言葉が途切れたのは、シディがそっと妖精の頬を撫でたからである。やっぱりですううううっ、と目をきらんきらんに輝かせるソキに苦笑しながらも、シディは妖精に、元気そうにしていて安心しました、と告げた。それから、ぱっとロゼアのもとへ飛んでいく。その背を呆然と見送って、妖精は決意した。シディを呪って羽根をまだら模様とかにしなければならない絶対にだ。
理由は勝手に触ってくるからである。ふにゃっ、きゃあーんっ、とはしゃぐソキを嗜めるのも忘れて、妖精はどう呪えばいいのかを考えだした。なにも変わりがなかったことに。体の力が抜けて警戒できなくなる程、安堵した、だなんてことを。記憶の彼方に即座に葬った。