まだら模様の羽根を揺らめかせて、シディはロゼアの頭の上に乗っている。肩の上にでも座ればいいと思うのだが、シディ曰く、その体力がないらしい。妖精の折檻が利いているようだった。いい気味だとする想いとだらしないと詰る意思を入り混じらせて、妖精はふんと鼻を鳴らした。まあ、これで当分は反省することだろう。まったく、起きたとくればすぐ調子に乗るのだから。
大体からして、鉱石妖精は世話焼きなのである。そこにソキが期待しているような、ときめきやらきらきらやらはにゃにゃんとしたことは一切ないのであって、そうであるからつまり、あれはただの世話焼き、ロゼアの影響に違いなかった。そうでなければ触ったりしてくる意味が分からないからである。公平な視点で考えて、あんな風にされるような態度を取っていない、ということくらいは妖精にも分かるのである。つまり理由がない。ロゼアの影響しか考えられなかった。
ロゼアがソキの体調をはかるのに、手でぺたぺたと頬やら額やら首筋やらに触るので、それを見てそういうものだと学習してしまった節がある。つまりロゼアのせいである。やはりロゼアのせいである。おのれロゼア、と今日も無理矢理正当性を付与した怒りに燃えていると、寝台の上からほよほよした声がもぅー、と妖精に語りかける。
「リボンちゃんたらぁ、またそんなこと言ってぇ……。シディくんのこと心配してたの、ソキはちゃぁんと知ってるですからねー!」
『あのね、ソキ。あんなに長期間意識もなく……というか、寝込んで本体になんてなってたら、妖精なら誰でもシディの心配くらいするわよ』
ただ不可解なことに、妖精が傍にいて面倒を見ているなら大丈夫だとして、誰も彼もが過度な不安を寄せなかっただけで。勘違いも甚だしい。面倒を見ていたのは確かだが、それは日々洗って清潔に保ち、日光浴月光浴を欠かさせなかっただけである。実際にシディをあちこち連れ歩いて適切な場所に安置していたのはロゼアであり、妖精は適切な場所を時々によって指示していただけである。
そう告げてもソキはにこにこして、分かってるですよぉ、と言わんばかりに頷いた。恒例のやりとりである。妖精は天を仰いだ。それから、よろよろと視線を己の魔術師のもとまで戻していく。スケッチブックはソキの手元で開かれたままで、一向に線のひとつも足される気配がない。妖精は投げ出された筆記用具を呆れ顔で眺めながら、描きなさいな、と促した。
はぁい、と返事だけは素直にして、ソキはきらきらした目で妖精を見つめる。
「うふん! うふふ? ふふふん! はにゃ! えへへへー……だってぇ、きっと、リボンちゃんは、ルノンくんとかニーアちゃんには、あんなに献身的ー! には、しなかったに違いないです」
『はぁん?』
献身的。そんな単語を使われることがもう心外である、と顔を歪めて。妖精は一応考えてやった。あれがルノンか、ニーアなら、あそこまでしてやっただろうか。答えはすぐ浮かんできた。そんな義理はこれっぽっちもない。
『ルノンならラティと一緒に寝かせとけばメーシャが面倒見るでしょうし、ニーアならナリアンに任せるに決まってるでしょう?』
「きゃふふふふ! つ、ま、りぃ! シディくんは特別なんですううぅ!」
お願いしますソキさん活火山に爆発物を叩き込まないでください、と哀願する眼差しがシディから向けられる。しかしソキには届かず、妖精は感知していてそれを無視した。随分な勘違いをしているようだけど、と腕組みをし、花籠の中から言い聞かせる。
『アタシがシディの面倒を、多少なりとも見てやってたのはロゼアの案内妖精だからよ?』
「……もっ、もしや」
『その先を口に出したらソキだって円形脱毛症にしてやるわよ分かるわね?』
ぴぎゅっ、と涙目で震えながら、ソキは己の頭に両手を押しあてた。ぴるぴるぷるると怯えられるのに、アタシがロゼアをどうとかこうとか不愉快にすぎるからやめなさいね、と柔らかく微笑みながら囁くと、ソキは無言で何度も頷いた。ぐすっ、ぐすっ、と半泣きで鼻をすするのに気をつけなさいよと言い聞かせ、妖精はロゼアの案内妖精じゃなかったらアタシだってその魔術師に任せきりにしてたわよ、と繰り返した。
『ロゼアが落ち込んでたら、ソキだって気になるでしょう? だから世話してやったの。分かる?』
「……うふん? つまり、ソキの為だったんです? ソキの? ソキの?」
その、ソキの、が。あんまりきらきらして嬉しそうだったので。妖精は苦笑しながら、そうよ、と言ってやった。ふふふふにゃっ、とくすぐったくて仕方がない喜びに身を捩って、なぁんだーですぅー、とソキは蕩ける笑みになった。
「リボンちゃんたらー、ソキがー、ソキがー! 好き好きなんだからーぁ!」
『これを認めないといけないとなると、なぁんか腹立たしくなってくるのよねぇ……どうしてかしら……』
「ソキもリボンちゃんがだぁいすき! これは、相思相愛、というやつです! 両想いですうううぅう!」
はにゃー、はにゃーっ、と喜ぶのはいいのだが、その単語や関係性を使うのはロゼアでなくともいいのだろうか。聞いても、またソキにしか分からない理屈らしきものを並べられるのが目に見えていたので、妖精は先に、ちらりとロゼアを確認した。みたところ、ロゼアはソキよかったな、可愛いな、とばかりでれでれしているだけで、妙な不機嫌を隠したりもしていないようだった。
シディが言葉を交わせる形で傍にいることも、ロゼアの安定に一役買っているらしい。ロゼアとシディは時折、こそこそと響かない声で言葉を交わしては、穏やかに和やかに笑みを浮かべている。ロゼアの心身が平和でなによりである。ソキの安定が深まるからだ。本当に妖精は、だから、シディがロゼアの案内妖精でなければ、あんなに世話をしてやるつもりはなかったのだ。
これでまた便利にロゼアを押し付けられるわと思いながら、妖精はソキがなぜか妙に静かになったので、やや不安になりながら視線を戻した。いつまでもはしゃがれるのも誤解が加速するだけなので避けたいが、ひとりでなにか考え込まれるのも困りものだからである。果たして妖精が見た先、ソキは真面目にスケッチブックに向き合っているだけだった。横顔は深く、己の意識と集中に沈んでいる。
なにかがきっかけで集中を取り戻したのだろう。横顔は己の思考に入り込んだ者のそれであり、線は迷いなく、するするとその数を増やしていく。ゆっくり、まばたきが繰り返される。そのまなうらに宿る形を取り出そうとして。ゆるく、ゆるく。魔力が、ソキを中心に渦を巻く。砂が風にさらさらと揺れるように。ほんのかすかな流れ。魔術にもならない、形を成すには弱すぎる魔力の流れ。
ふ、とロゼアが視線をソキに向ける。ソキ、とロゼアが声なく『花嫁』を呼ぶのに、魔術師はふわりと視線を持ち上げた。その面持ちから集中が途切れていないことを確認して、妖精は描けそうなの、と問いかけた。むむ、と難しそうに、ソキはくちびるを尖らせる。
「あのね、全部はなんでかね、分からないの。でもね、ここ。ここのところはね、なんだか、分かるようになったんですよ」
『……そう』
欠損を埋める、というより、砕けた破片をひとつ、見つけて拾い上げたように。ほんの一部分、『 』が蘇る。あとは拾い上げていくばかりの欠片だと分かる。妖精は心からの安堵に胸を撫で下ろしながら、魔術師に、なにか違和感はないか問いかけた。ソキはちょっと眉を寄せて手を止め、もやもやするぅ、と拗ねた声で訴えた。
「あのね、かさぶたみたいなの。痒いかも? なの」
『……そうでしょうねぇ』
「ソキ、なんだか……たくさん、見なきゃです。魔術とか、お勉強とか、そうなんですけど……」
夢うつつの、占星術師のお告げにも似た言葉を、妖精はそうね、と頷いて受け入れてやった。妖精の瞳で物を見る必要があるのだ。なにもかも、全てを。ソキ、と静かに、妖精は魔術師に囁きかける。
『見に行きましょう。ソキが見たいもの、見に行かないといけないと感じるもの、思ったもの。全て。……『本』は持ってきたわね?』
「う、うん! うん。ソキ、ちゃぁんと、もってきたです!」
『……うん? 持ってきたのね?』
そこで妙な嘘をつかれてはたまらない。訝しく問い返す妖精に、ソキはこくこくと何度も頷いた。しゅぴっと指さす仕草に確認すれば、確かに、枕の下に赤い帆布が覗いている。
『よし。……大丈夫よ、アタシの魔術師。アタシがいるわ。どこへだって一緒に行く。不安がることなんてないのよ』
ソキは、ふにゃふにゃの、幸せそうな笑みを浮かべて。うん、とあどけなく頷いた。それからスケッチブックに向き直り、いくつかの線を描き足し、分かる所が終わってしまったのだろう。つむん、と不満にくちびるを尖らせ、ソキはころりと寝台に寝転んだ。
「なんだかちょっとずつしか進まないです」
『ソキの歩みが遅いのなんて、今に始まったことじゃないでしょう? 進んでるんだからいいじゃない』
「ぷぷぷ。ソキは、もっと、しゅぴーんの、きらぁーんの、ぱぱーんっ、とする予定だったんですぅー!」
一気に終わらせるつもりだった、と言いたいらしい。自意識に翻訳機能がついてきてしまった、と額に手を押し当てて呻き、妖精は諦めず、予知魔術師語で説明するのやめなさいね、と言い聞かせた。進化すべきは妖精ではなく、ソキの説明能力であるべきだ。諦めてたまるものか。
『長期休暇の課題だとでも思いなさいな。自由研究よ、自由研究』
「はーい。あっ、お花の籠とリボンちゃんを描こうっと。かわいいーですぅー」
『もう二秒でいいから! アタシの話を! ちゃんと聞けーっ!』
ソキは聞いてたですううぅ、とぴいぴい鳴かれながら、妖精は苦笑しながら歩み寄ってきたロゼアを睨みつけた。
『なによ笑ってんじゃないわよあっち行きなさいよ用事は? 終わったの?』
「はい。ひとまずは。……ソキ、なにを描いてるんだ? だっこはいいの?」
「だぁっこぉー」
すぐさま筆記用具を手放し、しゅぴっとばかり両手をあげて甘えるソキに、ロゼアがほわりと和んだ気配を漂わせる。心労がかさんでいたらしい。コイツそろそろハゲるんじゃないかしら、とそれを期待する目でロゼアを見つめる妖精に、穏やかであることを祈ってくださいね、とシディが苦笑する。ふん、と妖精は鼻を鳴らした。
『どの面下げて。アンタがいつまでもだらだら寝てなければ、ロゼアの心労だってすこしマシだったと思うわ? そうじゃない?』
『反論もなく。ですが、もう大丈夫です』
『……ちょっとこっちに来ようとしないで。ロゼアの頭の上でへばってなさいよ』
会話がしにくかったのだろう。起き上がろうとするのに嫌な顔をして、妖精はしっし、と手を振ってシディをそこへ留めた。近くに寄られて、またぺたぺたと触ってこられてはたまらない。落ち着かないし、だいたい、触って良いだなんて一度も言ったことはないのだし。シディは苦笑してロゼアの頭に腹ばいになると、すこし身を乗り出して妖精を見た。
『そうしているといかにも花妖精、という風ですね、リボンさん』
『アンタがどう思っていようと、アタシはいついかなる時も花妖精らしい花妖精よ? で?』
『……で? とは』
きゃうーきゃうーはにゃーはにゃーっ、と機嫌良くロゼアにすり寄っているソキの集中がそれる前に、なんとか話を終わらせてしまいたい。アンタなんでこんなに眠ってたの、と問いただすと、シディは困った顔をして沈黙した。
『……それが、ボクにも、よく……不調であったことは確かなんですが……いえ、不調というか、なにか……ううん。リボンさんは特になにも……本体の様子は如何ですか? いまはどのような?』
『曖昧なことばかり言わないで頂戴。なに? 分からないの? ……アタシのことなら、そうね。落ち着いたわ。不調はナシ。ルノンも、ニーアもね。他の妖精たちも、話を聞く範囲では特別おかしなことになんてなってないわよ』
本体に戻ったきりだったのはシディくらいのものである。そうであるからこそ、妖精たちが協力して、ラティを起こすだなんていう話も浮かんできたのだし。許可が出次第すぐに実行するわよできるわね、と告げれば、シディはもちろんですと真面目な顔になった。ラティは、妖精を目視してからいざ『学園』に呼ばれるまで、数年あった稀有な魔術師だ。
当時から王の傍らにあり、その時は星降にいたからこそ、妖精たちとも友好が深い。メーシャの為にも起きて頂きたいですね、と呟くシディに、妖精はただ頷いた。それから、疑り深い眼差しで腕を組む。
『本当になんで寝てたか分からないの? またそこらに落ちてたりしないでしょうね……というか、アンタなんでアタシの本体の近くになんて落ちてたのよ、シディ。おかげで大変だったんだからね?』
『いえ、ボクもそこを選んで本体に戻った訳ではなくて……目眩がして動けないでいるうちに、形を保っていられなくなったのが、たまたまあの辺りだったというだけで……』
「本当に大丈夫なのか? シディ」
会話に入ってこないで欲しい、と妖精はロゼアに舌打ちをした。ソキの気がそれて、ない誤解を加速させるからである。ええ、もうすっかり、と告げるシディが、未だ頭の上から動かないでいるからだろう。納得しがたい様子で戸惑うロゼアに、妖精はため息をつきながら言い添えてやった。
『アンタの頭の上が居心地がいいだけよ。それだけ。喜びなさいな、ロゼア』
「……シディ、そうなのか?」
『はい。いいですねここ……もふもふして、あったかくて……いいですねここ……』
犬の尻尾のように、シディの羽根がぱたぱたと揺れている。まだら模様の羽根が。ソキは興味深くシディの羽根をじーっと見つめたあと、そーっと指先を伸ばしていく。ソキ、と額に手を押し当てて、妖精は己の魔術師を叱責した。
『なんでもかんでも触ろうとするんじゃない!』
「ちょっとですううぅ」
『ちょっとだろうがなんだろうが! 触るなって言ってんのよアタシは!』
ソキはぷっと頬を膨らませて、ロゼアちゃんの頭の上を貸してあげてるですのにぃ、と言った。どうも使用料の要求であるらしい。なにせロゼアはソキのものなので。シディはぱたぱたと羽根を動かしながら、そっとなら良いですよ、と言った。ソキさんなら引っ張ったりもいだりしないでしょうし。妖精はにっこり笑って、シディなにか言いたいことがあるならいいのよ、と告げたのだが。返事はなく。
ソキのはしゃいだ声だけが、ほよふよと場の空気を震わせて行った。
シディはロゼアの頭の上が気に入ったらしい。羽根をぱたぱたさせながらずっと寝転んでいるので、次に本体に戻るようなことがあったらロゼアに乗せよう、と妖精は決意した。多少なら動いても落とさないだろう。走ればあるいは分からないが、そこで落とさないでいそうなところが、妖精の思うロゼアの可愛くない所である。多分大丈夫だろう。
頭の上なら、万一忘れてそのまま風呂に入っても濡れるくらいである。そう告げてやるとロゼアは苦笑したが、シディはまんざらでもないようで、羽根をぱたぱたさせながらいいですねそれ、と言った。先程からそれしか言っていない上、声が半分くらい溶けている。よほど居心地がいいらしい。逆に不安になったのか、ロゼアはシディの名を呼びながら、妖精に問う視線を向けてきた。
あまりに気持ち良さそうで移動させるのもしのびなく、それでいて放置しておくには不安が残るのだろう。なんでシディのことをアタシに聞くのよ本人に聞きなさいよ、と難癖をつけながら、妖精はぱたぱた動いているまだら模様の羽根を睨み、ため息をつきながら口を開いた。
『大丈夫よ。寝起きで本調子じゃないのもあるでしょうけど、暖かくてもふもふして、あと魔力の相性がよくて気持ちいいんでしょう。鉱石妖精に太陽の魔力だもの。日光浴してるようなものよ。そうね? シディ? 溶けてないで返事しなさいよロゼアが不安がってんのよソキは! だから! むやみやたらに触ろうとするんじゃないの!』
「ちたぱたしててかわいいですううぅう!」
『だからなんだーっ!』
理由を聞いているのではない。触るな、と言っているのだ。ぱたぱたがどうしても気になってしきりに視線を向け、そーっと手を伸ばすソキを定期的に叱りながら、妖精は子猫じゃないんだから、と腕組みをした。それともまさか、子猫的ななにかが混じっていたりするのだろうか。動くものをじっと見たりするし、すぐじゃれついたりするのだし。ふにゃうにゃ鳴くし。ロゼアにすり寄ったりもするし。
いやでも暗いところ嫌いだからそれはないわ、というかいくらソキだからといって猫が混じってたりはしないわ正気にかえれアタシ気の迷いが過ぎるわ、と息を吐いて。妖精はシディ、と返事のない鉱石妖精を忌々しさたっぷりの声で呼びつけた。
『ロゼアの面倒を見なさいと言っているの。まだ体調がおかしいのか不安がってるわよ?』
『はい……。違いますよ、大丈夫ですロゼア……もふもふで……これは花園の、鉱石妖精御用達の日光浴の場所にも匹敵……リボンさんの本体の近く……いえ、暫定一位でもいいのでは……皆には内緒にしないと……ロゼアが混雑したら困りますからね……もふもふ……これはいい場所を見つけましたよロゼア……もふもふ……ぬくぬくで……もふもふ……いいですねここ……ふふ』
寝言そのものの声でほわほわと告げていくシディに、ロゼアはそっか、と微笑んだ。
「……気に入ったならよかったよ、シディ」
『嫌なら嫌って言わないと、シディの定位置にされるわよ、ロゼア』
というか聞き捨てならないことを言っていた気がする。妖精はしらんだ目でまだら模様の羽根を睨みつけた。花妖精の本体がある場所は、確かに総じて清らかな水と土、光に溢れているのだが。その近くを鉱石妖精の日光浴場所として許可してやった覚えなどないのである。あとロゼアに負けるとはどういうことなのか。悔しくはないが釈然としないものがある。ロゼアなので。
しかし、今追求してもたいした返事など返ってこないだろう。シディは幸せに溶けていて、ひたすら心地よさを堪能している最中だ。これは本体をロゼアの頭に乗せておけば相当回復が早かったのではないか、と思う妖精に、ロゼアが訝しげに問いかける。
「そういえば、リボンさんもよくソキの頭に乗ってらっしゃいますが……頭に、なにかあるんですか……?」
『他の場所と比べて特別どうこうっていうのは無いわよ。魔力が感じやすいとか、漏れやすいとか、そういうのもなし。単に場所としてシディの好みだったか、鉱石妖精のなにかじゃない?』
「……そうですか」
二度目の、嫌なら言っていいのよロゼア、という妖精の言葉にも、魔術師は意味を読ませない曖昧な笑みを浮かべただけだった。まあアンタがそれでいいならアタシはいいんだけど、と鼻を鳴らし、妖精は眠気が移ったようにふわふわとあくびをするソキに、運動が終わってからになさい、と言い聞かせた。
『今日はまだ、朝の運動だってしてないでしょう。だめよ、寝たら』
「リボンちゃんが、ソキに、だめって言ったぁ……。ちがうもん、ロゼアちゃんがお忙しかったのがいけないんだもん。ソキじゃないもん」
「そうだな、ソキ。ごめんな。……運動したい?」
したい、ではない。させるのである。腕組みをして立ち上がり、苛々と足先を花籠の底に叩きつける妖精に、ソキは慌てた仕草でくししししっ、と目を擦った。
「ソキ、ロゼアちゃんと一緒に、お部屋を歩く! です! なんて偉いソキ! これは、なんて偉いソキなのでは? ね、ね、リボンちゃん。ね?」
『はいはい、偉いわよ』
妖精の苛立ちを感じてではなく、自主的に運動を思い出して取り組むようになればもっと偉いのだが。習慣付くまでは長いだろうな、と妖精は思っている。そして、油断すれば忘れ去られるであろうことも予想に容易かった。『学園』でもそこそこ手間であるのに、帰省中ともなれば一大事である。びしばし教育せねばなるまい。ロゼアを。
妖精の思惑に気が付かず、ソキはあわあわとロゼアの腕から寝台に滑り降りた。もちゃもちゃした動きで端まで寄ると、やぁあんお靴ぅーっ、とぐずりだす。ここは『学園』ではなく『お屋敷』であるから、当然のこととして、ソキの靴など出してはいない為だった。しかしロゼアがメグ、と声をかけただけで、どこに用意していたのか布の靴がさっと用意された。
ソキはそれを満足そうにロゼアにはかせてもらい、メグミカにお礼を言い、もちゃもちゃよろろろっ、とふらつきながらも立ち上がった。ロゼアにひしっと抱きつきながらも、一応はそのまま転んだりしなかったので、ソキは渾身の自慢顔で妖精に頷きかける。
「さ、リボンちゃん? 用意ができたですよ。お散歩の時間です。ソキが籠を持ってあげますからね」
『今度はなんのブームが来ちゃってるのよ……。いやよ絶対に転ぶじゃない。旅してる間のことを忘れたの?』
「ソキ、あの時よりうんとお姉さんなんでぇ」
なぜか自信満々自慢いっぱいだが、あの旅のことを思い出しながら、妖精は渋い顔で首を振った。
『いや昔の方がなぜかしっかり歩いてたわ……? どういうことなの……どうして悪化するの……やっぱりロゼアかしらテメエコノヤロウ!』
「度々繰り返して申しわけありませんが、リボンさん。根拠のないそしりは辞めて頂けませんでしょうか」
『アンタのいう根拠ってアレでしょ? 証拠がないんだからってことでしょこのムッツリが!』
もうー、リボンちゃんったらすぐそうやってロゼアちゃんをいじめるんですからぁー、と言いながらソキは花籠に手を伸ばす。そのちまこい手を遠慮なく足で押しやり、妖精はぱっと飛び立ってソキの目の高さに浮かび上がった。ぷぷぷ、と不服そうにされるのをはんと笑い飛ばし、歩くんでしょう、と言い放つ。
『籠なんて持ってたら、そっちに気を取られて歩くのが疎かになるでしょう。どんくさいんだから』
「むーん。……リボンちゃんの機嫌がいい時を狙うことにするです。作戦です」
機嫌の良し悪しで判断は覆らない。妖精は微笑んで腕組みをして、ソキの勘違いを放置してやった。
『さ、行くわよソキ。ロゼアとシディは連れてくの?』
「ソキとロゼアちゃんは一緒にいるって決まってるんでぇ。ねー、ロゼアちゃん。ねー?」
「そうだな、ソキ」
きゅむっと手を繋がれて、ロゼアはでれでれと頷いている。遠慮なく舌打ちをして、妖精はまだぱたぱたしているまだら模様の羽根を見た。あの様子では聞くまでもなく、シディはロゼアにくっついたままだろう。見ていると時々、ぱたぱた、が、ぱたたたぱたっ、と動きを変えるので、声はなくとも起きているらしい。珍しいくらいの上機嫌である。
妖精は決意した。突いて面倒くさいことになるより、シディのことは放っておこう。一度ゆっくりと頷き、妖精はすいっと室内を泳ぐように飛んだ。てっちん、てっちん、と一歩一歩を確かめるように、ソキは練習なんですよ、と寝台の傍を行ったり来たりしている。
「うんしょ、よいしょ……あっ、そういえば? ハドゥルさんと、ライラさんは? あれれ?」
「お仕事があるから、また来るって。ソキによろしくって言っていたよ」
「もしかしてなんですけどぉ、ソキとロゼアちゃんはお休みだけど、皆はお休みじゃないのでは……」
気がつくのが遅いけど気が付いただけ良しとしましょう、と妖精は達観しながらてっちてっち歩くソキを見守った。数歩の距離を行ったり来たりしながら、ロゼアが微笑んでそうだな、と囁きかけている。
「魔術師だって、そうだろ? 『学園』はお休みだけど、王宮魔術師の方々は、お休みじゃないだろ。それと一緒だよ」
「じゃあ、じゃあ……もしかしてぇ、ソキは、お邪魔をしてしまっているのでは……?」
「決して、そんなことはありませんわ、ソキさま」
すとん、とソキの前に両膝を折って座り込み、微笑みながら告げたのはメグミカだった。なんの不安をこじらせたのか、拗ねたようにくちびるを尖らせたソキに柔らかく微笑みながら、メグミカはそんなことは決して、と言葉を繰り返した。
「みな、ソキさまとロゼアのお帰りを心待ちにしておりました。帰って来て頂けて、こんなに喜ばしいことはありません。歩かれるのも、なんて愛らしいのでしょう。メグミカは嬉しく思いますわ」
「……めぐちゃんが、そう言うなら、わかったです」
「まあ、ソキさま……!」
妖精の目から見て、メグミカは幸せでしにかけている。コイツもしかしてロゼアよりは見込みがあると思ったのは気のせいなのかしら、と呻きながら、妖精はソキの頬を突きに滑空した。ぷに、と柔らかな頬をつぶして嫌がられながら、妖精は変なこと考えないのよ、と言い聞かせる。
『にこにこしてなさい。不安なら、なにかしてもらったら、甘えてないで、ちゃんとありがとうって感謝なさい。ありがとうも、ごめんなさいも、嬉しいも、楽しいも。みんな口に出して伝えてあげなさい。分かるもん、とか思わないで、言葉にして贈るのよ、アタシの魔術師さん。言葉を紡ぐ予知魔術師なら、その大切さは分かる筈でしょう? 思ったことは言いなさい。大切に思うなら伝えなさい。嬉しいことは送って、悲しいことなら分かち合いなさい。アタシがいつでもそうするし……まぁ、ロゼアでもいいわ。休暇中なら、ソキの世話役にだっていい。言葉を惜しむんじゃないの。いいわね?』
「ソキ、すきすきは、いつも言ってるもん」
『好きとか嫌いだけじゃなくて、ありがとうとかごめんなさいとか言いなさいねって言ってるのよアタシは。言葉を、使いなさい。言葉を紡ぐ魔術師ならば』
ソキはちょっと難しそうな顔をした後、分かったです、と言って頷いた。するりとロゼアの手を離し、ソキはめぐちゃん、と言ってメグミカにぎゅうっと抱きついてしまう。ひっ、とごく微かな悲鳴をもらし、メグミカが意識を飛ばしかけ、根性で戻した、ように妖精には見えた。そうかこれロゼアの同類か、と残念な気持ちで妖精が確信する中、ソキはメグミカにすりすりと体を擦りつけて甘えて、あのねあのね、と耳元でこしょこしょ囁き落とす。
「ほんとはお仕事なんでしょう? でもね、ソキのね、帰りを待ってて、お世話してくれるの、ソキはとっても嬉しいです。メグミカちゃんに会いたかったです。メグちゃんに会えて嬉しいです。お顔が見れてね、お話できてね、一緒にいられてね、嬉しいです。ありがとうです。あのね、あのね、大好きですよ。ソキはメグミカちゃんがだぁいすきです」
「ソキさま……! 私もです……。大好きですわ……」
「うん! えへへへ……。ソキ、みんなにも言ってくるです! ねえねえ、ユーラ? ねえねえ、あのね」
メグミカから離れて。とてちててて、と気持ち急いで歩み寄る先で、世話役の女がすでに涙ぐんでいる。幸せそうにソキを見送りながら、メグミカが胸に手を押し当てて息をした。ロゼアは寛容な微笑みでソキを見守っているが、妖精からするとこれだけのことで寛容さを見出す時点ですでになにもかも寛容ではない。寛容という意味を根源から覆さない限り、寛容とは受け入れがたいものがある。
妖精は行く先々で世話役にぎゅむっと抱きつき、きゃっきゃとはしゃいでは好きと感謝と会いたかったを告げていくソキに、やりすぎないようにしなさいよ、と囁いた。すでに手遅れになりつつあるが。なんかこの反応見たことあるわ、レディね、と思う妖精に、ソキはリボンちゃんたらぁ、と聞き分けのない相手に言い聞かせるような声で言った。
「ソキはリボンちゃんの言うとおり、いつもよりうんとたくさん、ありがとうですとか、嬉しいをお伝えしてるだけですよ?」
『どうしてこう、やることなすこと、そうなんだけどそうじゃないのよねぇ……って感じになるのかしら……? 才能かしら……?』
「えへん」
褒めてはいない。胸を張るソキにまあ好きにしなさいと言いながら、妖精はとてちて室内を歩き回るソキについて回った。意図せず動き回っているのです、これはこれでいい運動になるのである。おしゃべりもしているので、発音もしっかりしているのだし。終わったらロゼアにもしてやりなさいよ、と妖精は言った。
ソキが忘れるはずないが、うっかりはぶくと回復した心労が台無しになる上悪化するからである。ソキはもっちろんですうう、と気合をいれて、室内をとてちて歩き回った。ソキは自由にどこへだって行ける。そして、その最後に必ず。自分の意思で、ロゼアのもとに戻るのだ。
つまりジェイドはディタとスピカとおんなじであり、『お屋敷』でも『学園』でもソキとロゼアの先輩である。そう纏めて納得した『花嫁』の言葉からは、必ずやソキもロゼアちゃんときせーじじつを作ってみせるですふんすふんす、という内心に留まりきらない野望が完全に口から漏れていた。ソキが特別驚かず、はしゃぎすぎもせずにその事実を受け止めたのは、だいたいなんとなく事の想像がついていたからである。
さすがに内情までは分からずとも、妖精の瞳が見つけ出した少女を『花嫁』は完全に同族とみなしていたし、そういえばジェイドはロゼアともハドゥルとも、とてもよく似ていた。たまたま空き時間に顔を出しに来ていたハドゥルがそれを聞いて、ロゼア共々言い知れない顔をした。似ているのは嬉しくないらしい。
あの筆頭がどういう立場なのかは分かったけど、個人的にどういう関係なのかしら、と思いつつ、妖精はそれをロゼアに問いたださなかった。そのうち分かるだろうし、ディタとスピカと同じ、と聞いたロゼアが額に手を押し当ててよろめいたからだ。そうだあのひとまさか、と呟きは微かで、すでに寝台でくぴくぴ昼寝をしていたソキには届かないものだったが、妖精はしっかり聞いていた。
つまり砂漠の筆頭は、星降城下に潜伏する『お屋敷』からの脱走者たちと繋がりのある可能性が、非常に高いのである。よく思い返せば、スピカはそれを仄めかすような発言をしていた、と妖精は思う。そしてそうであれば、ロゼアたちが出会うに至るまで彼らが『お屋敷』から逃げおおせた理由も、魔術師だけがたどり着ける、とされている『夜の一角』に身を寄せていた理由も。
あの喫茶に『お屋敷』でソキが好んで口にしていた菓子がある理由にも、なにもかもに説明がついてしまうのだ。単純に現役の内通者がいるだけである。それも、魔術師の筆頭なんてものをしている、そこそこの権力もちの。それについていまは考えないことにしよう、とロゼアが決断を下すまでは早かったのではないか、と妖精は思う。
まあ、なんというか、手遅れを感じさせるほど手におえない相手ではある。それでも知ってしまった以上、放置できることでもないから、とロゼアはソキが眠っている間に、年内に砂漠の王宮を訪問する予定をたて、筆頭に面会を申し込んでいた。その筆頭から返事が来たのは、ソキが昼寝から目を覚ました夕方、スケッチブックとうんうんと唸って見つめ合っている最中のことである。
ぱっと顔をあげたソキがおおはしゃぎで、すこし開いていた窓の方に両手を伸ばす。
「たんぽぽちゃんですううううぅ! いらっしゃいませですぅー!」
『あら、どうしたの? おつかい? 迷子にならなかった? 怖い目に合わなかったでしょうね?』
隙間に引っかかって中々中に入れないでいるましろいひかりのもとへ急行して、妖精が窓を蹴飛ばして隙間を広くする。ほっとしたようにふこっとしたましろいひかりは、まったくひどいめにあったのっ、と言わんばかり窓にふよふよと体当たりをして収縮したのち、ぴとっと妖精にくっついた。助けてもらえて嬉しかったらしい。
はいはい、と面倒見よくましろいひかりの毛並みを撫でて整えてから、妖精はロゼアの元へ連れて行ってやった。手紙を持っていたからである。ジェイドからのものであるのは、聞かないでも分かった。返事が来たわよ受け取りなさい、と言ってやるとロゼアは虚無を目の当たりにした目でありがとうございますと囁き、ましろいひかりから恭しく紙片を受け取った。
ましろいひかりはちかちかと明滅し、それから興味深そうに、まだら模様の羽根をぱたぱたさせているシディの元へ向かった。シディは朝から変わらずロゼアの頭の上で溶けたまま、おや、と穏やかに妖精の幼子を出迎える。
『こんばんわ。淡く形成す、幼き我らが同胞よ。ボクはシディ。ロゼアの案内妖精です。羽根は普段は普通です……リボンさん、この呪いっていつ解いて頂けますか……?』
『アタシの気が済んだらだけど?』
『……最大一週間くらいってことですね、分かりました』
慣れているのが腹立たしい。腕組みをしながら見守っていると、ましろいひかりはふこふこしながらシディの周りを飛び回り、やがて納得したようにふこーっ、と収縮すると、ほよほよと妖精の傍まで戻ってきた。そういえば先の模擬戦で、ましろいひかりは砂漠の筆頭の頭の上に乗っていた。居心地の良さが分かるらしかった。
機嫌良く歌うようにちかちかぺかかとしているましろいひかりを連れて、妖精はソキの元に向かいながらロゼアを振り返った。ロゼアは紙片を見つめて一言、いや来なくていい、と言っている。妖精は、あの愉快犯じみた筆頭からの返事が分かった気がした。わざわざ来なくてもそっちに行くよ、とか、そういうことを言ってきたに違いない。なんというか、嵐のような相手である。忙しい暇人である。
したいことがあるとすれば、予定にねじ込んで行くのが得意そうな気がした。いい、来なくていい、ほんとやめてほしい、とどう断るか頭を悩ませるロゼアを置いて、妖精は花籠に降り立った。残念ながら、あの筆頭は言って通じるような相手ではなく。数秒後に戸口にひょいと顔を出し、来ちゃった、と楽しげに囁いたとしても妖精は別に驚きもしないだろう。やると思った、と頷くくらいである。
一応、ましろいひかりに確認すると、どうも城にいるらしい反応をされたので、襲撃的な現れ方は多分今日はないのだろうが。残念なことに、今日は、である。返事をしたとて、やりたいようにやりそうな相手である。恐らくは、というか、確信的にロゼアとは相性が悪いに違いなかった。あらこれはもしかして、またロゼアの心労が募るのかしら、と予感を覚える妖精に、きゃあぁん、と楽しそうなソキの声が届く。
「たんぽぽちゃーん! こんばんは、ですよ。遊びにきてくれたです? ジェイドさんは一緒じゃないの? あっ、もし知っていたら、陛下のときめきロマンスがいまどうなっているか、ソキにこっそり教えて欲しいですー! ねえねえ陛下はアイシェさんになんてご結婚を申し込んだの……っ?」
ましろいひかりは、申し訳なさそうに収縮した。分からないらしい。なぁんだ、とがっかりしたのち、ソキは怠惰にころころ転がって、妖精の花籠の傍までやってくる。額に手を押し当てる妖精にさっきたくさん運動したもんと主張し、ソキはこしょこしょと声を潜めて囁きかけた。
「ねえねえ、ソキね、たんぽぽちゃんとジェイドさんの秘密を知っちゃったです。ね、ね、やっぱり、たんぽぽちゃんはソキとおんなじで、ジェイドさんはロゼアちゃんとおんなじだったです! それでね、あのね、ソキぴぴんと来たんですけど、たんぽぽちゃんは、あのね、もしかして、ソキのママのことを知っているのではないのです……? ソキのママね、ミードっていうの。『花嫁』だったの。ね、ね、知ってる?」
『……そういえば、あなた、本当にあのウィッシュの母親なの? ああ、疑っている訳ではなくてね』
「あっ、そうですそうです。お兄ちゃんのママなの? お兄ちゃんのママなら、ソキのお兄さまも知ってる? あのね、レロクっていうの。いまはね、『お屋敷』の御当主さまをしているんですよ。それでね、お兄さまは、お兄ちゃんと仲良さんだからね、だからね、あの。知ってる?」
ましろいひかりは、ふんわり浮かび上がって、ソキの頬にぺとんとくっついた。人の形であれば、ソキの頭を胸に抱き寄せる形になったであろう仕草だった。ソキはきゃふふふふ、と幸せそうに笑い、ましろいひかりに頬を擦り付ける。
「あのね、あのね、たんぽぽちゃんも、きっと、もうすこしで、リボンちゃんみたいにたくさんお話ができるようになるですよ。あのね、もうすこしなの。ソキには分かるの。だからね、そうしたらね、ジェイドさんと、お兄ちゃんの後でいいですからね、ソキともたくさんお話して欲しいです。あのね、ママのおはなしをして? それとね、お兄さまとね、お兄ちゃんのおはなしもね、して?」
もちろん、と囁くようにましろいひかりは揺れ動いた。未だ声はなく、言葉はなく。それでも確かな意思が、そこにある。それをまた、伝えられるようになる日が来る。ソキは楽しみですねぇ、とくふくふと笑い、ましろいひかりをじっと見つめると、ぺらりとスケッチブックを開いた。ましろいひかりを欠くのかと思いきや、ソキは首を傾げながら『 』の絵にいくつか線を足していく。
いつの間にかだいたい半分は形を成していた。もう、半分。なにかが足りないでいる、とソキは眉を寄せた。どうすれば分かるようになるのかを、ソキはだんだん分かってきた、ような気がするので、しなければいけないことは分かっているのである。いろんなものを見て、いろんなことを知って、あとは、いろんな人に会えばいいのだ。
ソキはスケッチブックに数本線を引いたあと、頬をぷっと膨らませてロゼアちゃあん、と不機嫌な声で『傍付き』を呼んだ。
「ソキ、お散歩に行きたぁい、ですー。ねえねえ、アーシェラさんは? ライラさんはぁ?」
「おーしーごーとー」
「ソキ、お仕事の、見学をしてあげてもぉ、いいんでぇ。お散歩するです!」
自信満々、言い放つソキに、ロゼアは微笑んでだーめ、と言った。
「会いたいなら来てもらおうな。お出かけはまた今度にしような」
「うむむぅ……? じゃあ、ソキ、お兄さまのとこいくぅ。それで、お仕事の応援してあげるです」
ソキが、がんばれがんばれっとしてあげるので、きっとお仕事がはかどる筈なんでぇ、とえへんと胸を張るソキに、ロゼアはほのぼのとした癒やしを感じている表情で、柔らかく微笑んだ。
「だーめ」
「ロゼアちゃんが、ソキに、だめばっかりいうですぅ……リボンちゃあん」
『言うこと聞きなさいよ。年明けには淑女でしょ』
なにが気に入らないのか、ややぁん、とちたぱたするソキに、ましろいひかりが寄り添ってふこふこと収縮する。ねぇー、となにも分かっていなさそうな同意を響かせて、ソキは自分に都合よく、たんぽぽちゃんだってひどいって言ってるですぅ、とふくれっつらをした。
「ソキ、アーシェラさんと、ライラさんと、ジェイドさんのおはなしをしようと思ってたですのにぃ……。ねー、たんぽぽちゃん? ねー!」
『困ってるわよ、ソキ。やめてあげましょうね』
ふっこふっこ、ふるるる、と収縮して揺れるましろいひかりを、いいからこっちにいらっしゃい、と手招いて。妖精は、ふよほよと寄ってきた幼き同胞に、そろそろ帰りなさいな、と言い聞かせた。
『あの筆頭が心配してるわよ。おかえりなさい。……いや、アタシが一緒に送ってくわ。ちょっと確かめたいことがあるし』
「ソキは? ソキは?」
『お絵かきとか編み物とかしていなさいな。演習の魔術式のまとめ、まだ終わっていないでしょう?』
はぁい、としぶしぶ、仕方がなさそうにソキは頷いた。スケッチブックを閉じ、枕の下からもそもそ引っ張り出したのは、赤い帆布の『本』である。それをぺらぺらとめくりながら、ソキは名残惜しそうにましろいひかりを眺めやった。
「たんぽぽちゃん、また来てね。ソキはお休みの間は『お屋敷』にいるですから、また来てね。絶対ね。それでね、あの、また、ソキの頭にぽよんと乗ったり、お膝でふこふこして欲しいです。約束ね。ソキ、待ってるです。ね、ね。……リボンちゃんは、なにをしに行くの?」
『用事があるの。確認と下見してくるだけよ』
シディが起きたことであるのだし。年内にはラティを目覚めさせることも出来るだろう。このましろいひかりを連れて行って、うまく砂漠の筆頭を突けば、王の承認くらいすぐもぎ取れそうな気がすることだし。なーんーのーでーすぅー、と知りたがるソキに妖精の用事よ、終わって上手く行ったら教えてあげるわ、と言い聞かせて。妖精は、ロゼアの頭の上でぱたぱたしているまだら模様の羽根の本体に、出かけてくるから、と声をかけた。
『ついてこなくていいから、ロゼアとソキを見ていてちょうだい。ついてこなくていいから』
『そう仰るなら……。では、ルノンに会ったらよろしくお伝えください。ボクは元気です、と。……はぁ、もふもふ……ロゼアはいいですね……こんなにもふもふしていますものね……』
『よかったわね、ロゼア。毛並みを褒められてるわよ。喜べ』
ロゼアは達観した微笑みを浮かべ、ありがとうな、と頭の上に呼びかけている。内容はともあれ、案内妖精がまったりとした喜びを感じていることは、ロゼアにも嬉しいらしかった。ソキはロゼアちゃんの頭にリボンついてるみたぁい、とのんびりと面白がり、赤い『本』を抱え込んでころん、と横になった。
「それじゃあ、ソキお勉強しよーっとです。リボンちゃん、行ってらっしゃい。メーシャくんに、お時間がある時に『お屋敷』に遊びに来て欲しいですってお伝えしてね。あとあと、ジェイドさんにもね、たんぽぽちゃんと遊びに来てねって」
『メーシャには言うけどあの筆頭には言わないわよ。見える事故は避けさせなさいよ。そうよねロゼア?』
「ソキ。砂漠の筆頭はお忙しい方だから、お招きするのは辞めような」
さもないと、きちゃった、とか楽しそうに顔を出しかねないからである。明日の朝にでも。ソキに呼ばれたのだと言い張って。ソキは不服そうにはぁい、と言ってしぶしぶ頷いた。
「じゃあ、今度ソキがお城に行くです」
「……そんなに会いたいの?」
「ロゼアちゃん? あのね、ジェイドさんはね、お絵かきが進むの」
きりり、とした顔で主張するソキの言葉を、理解できるようになってしまった妖精は額に手を押し当てた。『 』の絵を書く助けになるということだろう。気のせいだということにしておきなさいね、と言って、妖精はましろいひかりを連れて『お屋敷』を飛び立った。陽の落ちかけた薄墨と、燃えるような紅のひかりの中を飛ぶ。
夜が来るのだ、と妖精は思った。この国に、怯えることのない暗闇、安堵に包まれる眠りを抱く、そんな。穏やかな、夜が来る。