砂漠の筆頭たる男は、ひとりきり、王の執務室で本を読んでいた。王そのひとは取り込み中であり、いつ戻るとも分からないらしい。困ったものだよねぇ、と肩を震わせる表情も仕草も心底そう思っているのとは程遠く、妖精は程々になさいな、と男に息を吐いてみせた。俺はなにもしていないよ、と告げる言葉をどこまで信用できるのだか、と妖精はまなじりを吊り上げ、シュニーをそっと押しやった。
ましろいひかりはふこふこ収縮しながら妖精の周囲を飛び回り、ぴっとりくっついてちかぺか明滅した後に、漂うような動きでジェイドの元へ戻ってくる。ジェイドの耳元でふわふわと体を擦りつけるましろいひかりが、なにを告げているのかは妖精にも分からない。しかし言葉はなくとも通じるようで、ジェイドはふふっと笑みを深め、よかったね、と言って妻を労わるように指先で撫でた。
送って頂きありがとうございました、と礼儀正しく告げてくるジェイドに腕組みをして頷いてやりながら、妖精はラティの件だけど、と下見を申し出た。ついでに承認そのものがどうなっているかも問えば、ジェイドは困っているのか楽しんでいるのか、どちらとも取れる表情でちいさく首を傾げ。そのことでしたらどうにかしましょう、と不安しかよぎらせない返事で妖精にうつくしく微笑んでみせた。
「下見については、魔術師筆頭として許可を。目覚めさせる承認については、明日までお待ち頂ければ俺がどうにかしておきます」
『……明日、という理由は?』
「書類を探して判子を押して各所通達しておきますので。整理整頓ができていれば、今日の夜にでもしたのですが……。まったく、散らかしてはいけませんよ、と言っているんですが。我が王にも困ったものだ」
荒れた雰囲気の執務室を見回して穏やかに笑う男の口調が、ソキお片付けしないとだめだろー、とでれでれするロゼアのものと同一であると、気が付かなければ多少同情なり同調なりしてやっても良かったのだが。はぁ、と問いの形に語尾を跳ね上げ腕を組みなおしながら、妖精は筆頭の視線をおって、無人の執務室を見回した。謁見などは行わない、書類仕事だけを済ませるような、私的な空間に近い部屋である。
扉はひとつ、窓はひとつ。机も椅子も本来はひとつきりであろうそこに、砂漠の筆頭は椅子を持ち込み、本を読んでシュニーの帰りを待っていたのだった。あるいは、王が戻ってくるのを待っていたのかも知れない。机の上には重ねられた書類がいくつか山を作っていて、インク瓶の蓋は閉まっていたが、転がる万年筆の先はまだ生乾きだった。殴り書きされた署名も、すこし瑞々しく見える。
大慌てで出て行った、というのともすこし違う。鬱屈した感情が降り積もり、とうとうあふれ出して、座ってなどいられなくなって。席を立って行ってしまったような。そんな雰囲気、印象、残り香が部屋には漂っていた。妖精は眉を寄せて魔術師を見る。まさか突いていじめたんじゃないでしょうねぇ、と疑いのまなざしに、男はいかにも可笑しそうに、肩を震わせてくすくすと笑った。
そうすると意外な程、ウィッシュに似ている。男は『花婿』めいたとろける笑みで、いじめてないよ、と囁いた。
「このまま新年を迎えるのも落ち着きませんね、とは言ったけど」
『……陛下の御結婚について?』
「それだけではなく、ラティの件についても。うん、そうだね。陛下には『今年の内に終わらせてしまって、華やかな祝いの気持ちで新年を迎えることができれば、我ら家臣一同どれほど晴れやかで安堵した気持ちになれることでしょう。時に陛下、御結婚の件についてひとつだけお尋ねしておきたいのですが、まさかアイシェさまにお話が終わっていないなんてことは? 信じて頂けないのなら誠心誠意、信じて頂けるまで伝えるのが一番かと思いますよ。ちょうどよく、期日に差し迫りのない書類ばかりですし、受け入れて頂くまでお戻りにならずとも、俺がどうにかして差し上げますので行かれては?』とは言ったけど」
とは言ったけど、では、ない。それはすなわち、説得できるまで戻ってくるな、ということである。アンタ今いじめてないって言わなかった、と心から嫌そうに呻く妖精に、砂漠の筆頭は花が綻ぶように甘く笑った。
「いじめてないよ。これは教育的指導。いうなれば躾かな?」
『しつけ』
「幼少期はともかく、思春期にはあまりお傍にいられなかったから、そのあたりの教育……女性に対する感情の機微というか、うん、そのあたりがどうもね……。もちろん、ハーディラに任せてはいたから、きちっと仕上げてくれていることは間違いないんだけど。気持ちを伝えることが不得手であるのは個人としては仕方がない面もあるけれど、王として今後もそうであるのは中々容認できないこともあるからね。伝わらないならね、伝わるまで繰り返せばいい。伝わったと確信ができるまで。それだけのことだから」
泣かない苛つかない怒らない諦めない怒鳴らない、ただ誠実に。はいこれをしっかり守って行ってきてくださいね、伝わったら帰ってきてもいいですからね、と部屋の外に放り出したのだ、と砂漠の筆頭は言った。妖精は真顔で頷く。いじめている、いじめてない以前の問題として、なんというか、王にそんな暴挙にでられるのはこの男ひとりである。心底溜息を付く妖精に、ジェイドはうぅん、と甘く穏やかに首を傾げてみせた。
「そういうことだから、陛下が御戻りになるのは……年内、かな。顔を見るくらいはできると思うけど、あまりオススメはしない。ラティについてのあれこれそれは、全部俺が代行してやっておいてあげるから、下見も実行も、なんの心配もしないで大丈夫だよ。よろしくね」
『なにもかも心配だし大丈夫だと言われることがすでに不安だしよろしくされたくないわ』
「あ、そうだよね。どうせラティが起きるなら、陛下のことが解決してからの方がいいかな……」
手に余る、と妖精は天を仰いで呻いた。ソキとは違う種類の、ひとのはなしをきかない相手である。怒鳴ろうが脅そうが効果はなく、呪いもましろいひかりが弾くので効果は見込めないだろう。あぁあああぁやだやだマトモに相手なんかしてられないわ、と額に手を押し当てて心の底から真剣に呻き、妖精は心配事や不安をなにもかも、『お屋敷』にいるシディに押し付けることで解決とした。
なにかあったら、シディを人身御供として提供する。これである。よし、と真顔で頷いて、妖精はすっかり陽が落ちた室内をもう一度見回して、ふんと鼻を鳴らして飛び立った。
『じゃあ、アタシは行くからね。ついてこないでちょうだいよ!』
「はい。それでは、ラティとメーシャによろしく。メーシャに、夜ご飯を食べていくならまた魔術師の誰かに声をかけるように、と言っておいてください」
『アンタは? ひとのことばっかり心配してないで、アンタもちゃんと食べたりなんだりしなさいよ? いつまでもこんな薄暗いトコで本読んでるんじゃないの! どうせ戻ってこないし、片付けは明日にするんでしょ? ひとりでこんな所にいるから、じめじめした気持ちになんのよ分かってるの? それこそ、魔術師の詰め所にでもいてメーシャと一緒にご飯でも食べなさいよ。分かった? 返事は?』
筆頭は、妖精の物言いにきょとん、として。それから笑いに吹きだすと、読んでいた本にしおりを挟んで立ちあがった。灯篭を手に持ち、ゆったりとした仕草で、部屋の扉へ向かう。
「ふふ。世話を焼かれるの、久しぶりです。こそばゆいな」
『アタシだって、アンタみたいなヤツの世話を焼きたくなんてないのよ分かって頂戴! まったく、妖精に心配をかけるだなんて!』
「はい。ありがとうございます。……うん、シュニーも、ありがとう。ごめんね」
まふまふ、とジェイドの頬にすり寄ったましろいひかりが、妖精に向かってちかちかぺかかと明滅する。お礼のようだった。礼儀正しくて大変よろしい、と頷きかけてから、妖精は今度こそ王の執務室を飛び立った。一度だけ振り返り、筆頭が部屋に戻ったりせず、鍵をかけていることを確認してから廊下を曲がる。ましろいひかりの帰りを待っていたにせよ、もっとにぎやかな場所で待っていればいいのだ、まったく。あれは恐らく、ウィッシュと同じ、人の気配と声のある場所の方が好きな筈である。寂しがり屋の顔をしていた。
あー、どいつもこいつも手間暇かかる面倒くさいアタシはソキで手一杯だっていうのよあっちもこっちも心配なんてかけさせないでちょうだいホントにっ、とぶつくさ文句を言いながら砂漠の城を飛翔して。妖精はするり、と静寂の留まる一室に滑り込んだ。あ、とすぐ声を上げ、顔を向けたのはルノンである。メーシャの肩の上に座っていたルノンは妖精の姿に目を瞬かせ、はっとしたように顔つきを変えて言った。
形こそ問いであるものの。その響きは確信を帯びていた。
『シディが起きたのか? ……様子を伺いに?』
『その通りよ。シディの体調は……体調は良いと思うんだけど。ロゼアの頭の上がよほど気持ちいいのか、なんか溶けてて乗っかったまま動かないでいるから置いてきたわ。また明日にでも動き回るようになると思うから、再会でもなんでもしたらいいじゃない?』
『……えーっと、うん。分かった』
とりあえずシディの状態に問題がなく、妖精の機嫌があまりよろしくはない、ということが、である。苦笑いをするルノンにふんと鼻を鳴らして、妖精はちらりとメーシャを見た。星見の少年は、今日も落ち着いた様子で椅子に座っていた。眠るラティの手を暖めるように握ったまま、こんばんは、と妖精に挨拶をしてくる。はい、こんばんは、と返事をしてやりながら、妖精はすいと泳いで魔術師たちに近寄った。
ラティではなく。まずメーシャの頬にぺしぺしと触れて、妖精はまなじりを吊り上げて問い詰める。
『不健康な顔しちゃって、もう。ちゃんと寝たり食べたり運動してるんでしょうね? 一日座ってこうしていても、アンタの健康が悪化するだけでいいことはないのよ? ルノン、ちゃんと面倒見てやってるんでしょうね? アンタの魔術師でしょう傍にいるんだから責任持ちなさいよ、責任!』
「えっと……ご飯は食べてますよ、リボンさん」
『どうだか? あの筆頭がね、アンタと一緒に夕食食べるって言って魔術師の控室で待ってるから。行ってやりなさい。いいわね? 分かった? 返事は?』
これくらいの嘘は許されるだろう。しれっと言い放つ妖精に、メーシャは幸せそうにくすくすと笑みを深め、はいと言って素直に立ち上がった。新入生として未だひとくくりにされる四人の中で、メーシャが一番聞き分けが良い。不安そうに、でもなくラティの手を離すメーシャに、それでもしっかりとした声で、妖精は大丈夫よと告げてやった。
『妖精がここにいるんだから、悪いことはおきない。アタシたちは魔術師の祝福の遣い。そう呼ばれる存在なのだから。……行ってらっしゃいな、メーシャ。しっかり食べるのよ。さもないと、起きたラティの第一声が、メーシャどうしたの顔色悪いね? になるわ。それでもいいなら、アタシはこれ以上言わないけど』
「いえ、行って来ます。……ありがとうございます、リボンさん」
『どういたしまして。……ルノンを連れて行きたかったらどうぞ?』
いえ、とメーシャは首を振り、肩から飛び立つルノンに笑いかけた。それじゃあ、すこしだけ。ラティをよろしくな、ルノン。任されたよ、メーシャ、と言葉を返して、妖精たちはメーシャを見送った。扉が閉じ、足音が遠ざかるまでをじっと見送って。妖精はふっと息を吐き出して、改めて眠るラティの姿を観察する。どうかな、と問うことはせず、妖精の傍らでルノンも同じようにする。
魔術師の眠りは、深く。魔力はあまりに精密に編まれている。妖精とて、ひとりでは不可能だ。二人でも、三人でも、まだ足りない。けれどそれ以上の数が集まれば。希望はあるわ、と妖精は言った。ルノンも無言で頷き、同意を示す。そしてその夜、妖精たちに知らせが飛んだ。我らが同胞、ラティの目覚めを導く、その為に。妖精たちよ、砂漠に集え。妖精たちよ、力をふるえ。
決行は五日後。一年が終わるその前日の、昼と決まった。
なぜ五日間も期間が空いたのかといえば、それでは翌日にでも、と妖精とルノンが相談している最中にひょこっと顔を出したメーシャが、なんとなくと前置きをした上でそれを一度止めたからだった。吉日を選ぶべきではないかな、と砂漠の筆頭も余計な口添えをした。なんでも夕食の席へ向かう途中なのだという。早く行きなさいよ、とうっとおしく追い払おうとする妖精に、メーシャは口ごもりながらも、まっすぐな目を向けて数日だけお待ち頂けませんか、と再度それを求めた。
それが単なる不安なら、妖精は退けた。心の準備をする時間など、有り余っていただろう。しかし、即日の延期を求めたのは占星術師の理知的な瞳であった。星読みの魔術師。最適な選択を囁かれる者。メーシャは己の知識や理性とは違う所で、それに戸惑いながらも、明日ではなく明後日でもなく、と出来る限り年末に近い日を求めた。もう一週間で年明けを迎える世界の、そのぎりぎりに近ければ近いほど良いのだと。
失敗するとは思ってはいないけど、最終日は予備として開けておくのが良いのではないかな、と言ったのはやはり砂漠の筆頭であった。その前日ではどうかな、と妖精たちではなくメーシャに問いかけた筆頭に、占星術師が頷いたからこそ、その日として決まったのである。日が定まって満足したのか、それではよろしくね承認は明日するけど通達はしてしまっても構わないよ陛下にはあとで俺から言っておくから安心してね、と微笑んで男はメーシャを連れて夕食に向かった。
後から、と不安げに繰り返したのはルノンだったが、それを考えないようになさいと息を吐いたのは妖精だった。件の事件の最中、砂漠に立ち寄った時にも、筆頭はそのやり方で陛下に胃痛を送っていた。常習犯であるらしい。というか、常に事後報告であるらしい。つまりいつものことなのよ、いつものことであるなら陛下だって諦めがつくでしょう、とまとめた妖精に、ルノンは力なく頷いた。頷くしかない、という仕草だった。
王は筆頭の言った通り、取り込み中であるらしい。その日も翌日も城ではとんと姿を見ず、聞けばハレムにもいないという。どこに居るのかと言えば執務室に近い王の完全なる私室で、人払いをした上で引きこもっているのだという。アイシェをハレムから連れ込んで。爛れてるんじゃないの、とため息をついたのは妖精で、実に砂漠の王らしいよね、とのほほんと微笑んだのはその筆頭である。
砂漠の男には監禁癖がある。法律であれこれと規定を決めなければいけないくらいだ、ということを思い出し、妖精は心底嫌な顔をした。かと言って、わざわざ乗り込んで助けてやる程に妖精は面倒見がよくなかったし、アイシェという女と親しい訳でもなかった。ただ、人々の口から溢れる言葉は幸福に満ちている。恋を知らなかった王が、それを知り。愛を遠ざけていた王が、今やそれを求めている。
受け入れてやればいいのに、くらいのことは妖精も思う。ソキと共にハレムに訪れた時にだって、王の長年の恋嫌いのせいで、女が想いを封じ込め、それゆえこじれてしまっていることくらいは簡単に分かったのだし。ソキは気が付きもしなかったが、回復して『お屋敷』からハレムを訪れた時のことだった。王の為に花梨湯を作りに行っていた筈のアイシェは、部屋が、と血相を変えて駆け戻って来た。
ジェイドが事後報告で片付けた、ソキの為のハレムの部屋。そこになにもない、と。王も、砂漠の筆頭のやらかしが先んじて、気がつかなかったのだろう。調理場と、その貴人の部屋は、逆方向にある。行く途中に立ち寄ろうとして向かえる場所ではない。見に行こうとしなければ、辿りつけない奥まった場所。そこにソキの部屋は整えられていた。つまりはそういうことである。気になって行ってしまったのだろう。王に花梨湯を作りに行くより、先に。
まあ三日もすれば一度は出てくると思いますよ、と王の執務を代理でてきぱきとこなしながら、砂漠の筆頭は妖精たちを安心させるように微笑んで告げた。ちなみに代理は無断で行っているのだという。場合によっては、いやよらずとも、相当な問題行為を涼しい顔でこなしながらの発言である。妖精たちは一様に虚無と見つめ合ってしまった顔で首を振ったが、城に勤める古参の者たちさえなぜか平然とその機構を受け入れていた。
曰く、ジェイドなら許される、らしい。意味が分からないわと直球で言い放ったのは妖精だけで、他はそうですかと従順に頷いて複雑な砂漠の事情に触れないようにした。ジェイドは、と魔術師の中でも先々代からを知る年嵩の者だけが、苦笑して溜息交じりにそれを妖精たちに教えてくれた。王の代行者たる許可証を、先王陛下から予め預かっている、と。預かっているだけで、ジェイドの所有物であるという訳でもないらしい。
よし分かったわ、と妖精は頷いた。もう説明してくれなくていい。砂漠の事情に立ち入りたくないからである。妖精はソキで手一杯なのだった。ソキが妖精の認める、誰もがひれ伏す予知魔術師として大成していればそのあたりも興味がない訳ではない、聞いてやらないこともなかったが、今は手に余る。余り過ぎるのである。アタシの耳に入れようとしないでちょうだい、としっしと追い払えば、それ以上を告げようとする命知らずの魔術師などあろうはずもなかった。
数日は穏やかに、速度を増して過ぎて行く。相変わらずソキは寝台をころころと転がりながらスケッチブックに線を足したり、部屋や区画の中を歩き回って妖精が満足する程度の運動をしていた。ロゼアはジェイドのことを知った翌日の朝さえ、胃の調子が思わしくないような顔をして妖精を大変喜ばせたが、面白くないことにシディが祝福をして和らげた為、昼には回復してしまい、代わり映えなくでれでれとソキを世話していた。
妖精はその間、必要があって『お屋敷』と城を日に何度も往復していた。当然のこととしてソキは拗ねたが、ラティの為だと説明し、陛下の現状をすこしばかり漏らしてやれば、きゃぁあああんっ、と大はしゃぎしてすっかり機嫌をなおしてしまった。さっさすがは陛下ですうぅううソキには分かるですこれはきっとなんとかですぅ、とロゼアが禁書にした筈の本の題をいくつか口走った為、『お屋敷』の中庭で焚書が行われたが、さしたる問題ではない、と妖精は思っている。
顛末を聞いて、砂漠の筆頭は腹を抱えて笑い呼吸困難になって咳き込み、ましろいひかりにちかぺか心配されたが、男曰く嫁いだ『花嫁』にはよくあることなのだという。恋愛小説に興味を持ってあれこれ読むのも。そこそこ過激なものを、隠れてこそこそ読んだりするのも。砂漠の筆頭はほぼほぼ他人事として、思春期だからね可愛いね興味あるんだろうね可愛いね困ったものだねロゼアも大変だね、ふふっ、と言ってのけたので、妖精は要注意人物としての認識を改めて深くした。ろくな大人ではない。
新年へ向かっていく世界の空気は穏やかで忙しなく、砂漠の国は和やかだった。砂漠の城の中枢こそ妙な緊張感が漂っていたが、王の代理たる筆頭が日夜楽しそうにしているのでそこから不安が生まれていくことはないままだった。ラティを目覚めさせると決めてから三日目。決行までも残り三日となった昼に妖精が訪ねれば、王はどうもアイシェを口説き落とすことに成功したらしい。相変わらず姿はないままだったが、城の中枢はすでに使い物にならなくなっていた。なんというか、機能が完全に麻痺していた。宴で。
部屋を問わず、広間を選ばず。泣いている者、笑っている者、喜びがそこかしこに満ち、魔術師も騎士も武官も文官も、老いも若きも入り混じって、王本人不在のまま、ものすごい勢いで祝っている。花園から様子見にやってきた妖精たちはもれなく引いたが、事情を知るとなるほど、と言って『扉』から各国に飛び立って行った。事の仔細を五ヵ国の隅々にまで伝える為である。王の祝いは魔術師の祝い。すなわち、祝祭を開くべき事項に該当する。
砂漠の王当人に無断で広がって行く御結婚おめでとうございますの嵐に、筆頭は今度こそ呼吸困難になるほど笑ったが、ましろいひかりはふこふことするばかりで、その時ばかりは心配しないようだった。ふふっこれ知ったらほとぼりがさめて部屋から出て来ようとしてもまた戻って引きこもりそうですねふふっ、手を打っておこう、と言った筆頭に妖精は心底王の安息を祈り、粛々と目覚めの準備を進めて行った。
必要なのは魔術の解析。それによる打消しの魔術の構築。それのみである。成されたのは祝福ではなく、また、呪詛でもない。元は安息を約束した単純な眠りの術であるから、心身に対する過度の負荷を心配しなくてもいい。そうであるのだが、予知魔術が編み込まれたからこそ、複数の妖精をもってしても、その作業は困難を極めた。なにせはじめて遭遇するものである。これならばまあ、と結論を出すことができたのは、四日目の朝のことだった。
ほらすぐ決行しなくてよかったろう、と今日も元気に勝手に執務を進めながら告げる砂漠の筆頭に、妖精は殺意に近しいものを感じたが、溜息で感情を宥めてやった。相手をしたくないからである。陛下はなにしてるの、と問えば筆頭は涼しい顔でうんたぶんお世継ぎ作ってるよと言ったので、会話をしてやろうなんていう気の迷いを持った数秒前の己を殴り倒し、妖精は窓の外に視線を向けた。年の瀬。砂漠の国は快晴である。
『アタシはコイツを筆頭なんて近しい所に抱かなければいけない砂漠の陛下に対して心底同情するわよ……。いや何日引きこもっていちゃついてるのよと思わなくもないけど……宴なの? 大惨事なの? 宴ってどういうことなの? 惨状じゃないの? みたいな城内の様子を目の当たりにしないといけないとなると、おいたわしさが増すから落ち着いてからでもいいかな、とか思えてくるのが不思議よね……』
「うーん、大丈夫、大丈夫。すごく長期間こういうことをされるとね、さすがに困るけど。前例があるし、そういう時の動かし方とか動き方とか、結構皆分かってるし、覚えてるし……ラティが目を覚ませばさすがにね、知らせれば出てくるだろうし。出てこなかったらひっぱりだすから」
『あー、会話が成立しない。あー、ほんとこの男とは会話が成立しない……! ひとのはなしをきかない……! ある意味ソキよりたちが悪いと思うのはアタシだけじゃない筈……!』
大丈夫、というのが大丈夫だとして受け入れがたいのは、もはや才能の域である。どうやって育てばこんな感じになるのかしらと睨む妖精に、ジェイドはにっこりと笑って迷いなく言い放った。清々しいほどに迷いのない言葉だった。
「ごめんね、俺を『お屋敷』が教育したばっかりに」
『アンタそんなことばっかり言ってるから、あの場所で敵視されてるんじゃないの? そうなんでしょ?』
「ああ、ハドゥルとライラ? なにか言ってた?」
これが終わったら顔でも見に行こうかなぁ、とまたろくでもない発言を響かせる男に、妖精は顔をしかめて首を振った。なんというか、情報を提供したくない気持ちになってくる。なにが起こるか分からないからである。城から離れるんじゃないわよ王の代行、と言ってやると、男はそれが自分に対しての呼びかけだとは思ってすらいない、きょとん、とした顔をして首を傾げて。それから、じわじわと泣き笑いの顔になり。どこか幼く、うん、と頷いて目を伏せた。
あのひとみたいに上手にはできないけど、と囁かれた言葉の意味を。知る者は、そこにいなかった。
そろそろお体に障りますわ、とメグミカが言ったので、ソキは夜の窓辺から離れることにした。くちびるを尖らせながらロゼアにだっこをねだり、ぬくまった寝台に連れ戻されながら、ソキはちたちたと足を揺らして抗議する。
「リボンちゃんったらぁ、今日もソキを置いて行ったです。いくないのでは? ねー、ロゼアちゃん! ねーっ!」
「そうだな、ソキ。リボンさんいなくて寂しいな。さ、もう横になろうな」
「はぁあい……。リボンちゃん、今日も夜おそーくかなぁ」
最近の妖精と来たら、早朝に出かけて深夜に帰ってきて、ソキとはちっとも一緒にいてくれないのである。たまに昼間に顔を見に戻って来てはくれるが、一度や二度、それも数分くらいのことで、また忙しく城に戻って行ってしまう。なにかと忙しいのだ、と妖精はうんざりした顔でソキに言った。ラティの術式の解明こそ終わったものの、本当にそれで目覚めさせることが可能なのかという点については、実際にやってみなければ分からないことばかりなのだという。
ソキはなんの根拠もなく大丈夫ですぅと言い張って妖精を引き留めようとしたのだが。今日もはいはい、と言ったきり振り返りもせず、妖精はシディを引っ張って砂漠の城へ行ってしまった。朝のことである。今日は昼にも戻ってきてくれなかったので、ソキはすっかり拗ねた気持ちでいた。ソキの契約妖精なのである。もうちょっとソキの言うことを聞いてくれたり、傍にいてくれてもいいのではないだろうか。
ぷーくーくー、っと頬を膨らませて寝台に転がり、ソキはスケッチブックを所望した。ロゼアは苦笑しながら、一時間で寝るんだぞ、とソキに約束させて寝台を離れていく。せっかくの長期休暇なのにロゼアはなにかとやることがあるらしく、あまりソキと一緒にころころしたりはしないのだった。ロゼアちゃんも休憩とか、おやすみとか、しないといけないですよぉ、と言い聞かせる。ロゼアはとろける笑みで、分かったよ、と囁きメグミカとの話し合いに戻ってしまった。
砂漠の王の婚姻が今度こそ決定、したようだ、との報を受けて『お屋敷』はそこそこの忙しさに見舞われているらしかった。レロクが頭を抱えて呻き、あぁああああ陛下のが決まってしまったら俺だってしなければいけないだろうが引き伸ばしてこいラギ、無理難題を仰いませんよう、お前は俺が女と結婚なぞしてもいいのか、それについての意見は差し控えさせていただきます、と言い争いをしている為に、様々なことが遅々として進んでいないらしい。
あっちも、こっちも、らしい、である。砂漠の王の結婚が決まった、らしい。それについてレロクが文句を言ってラギと喧嘩をしている、らしい。そのせいでロゼアやメグミカにまで役割が割り振られ、朝から晩までばたばたとしている、らしい。砂漠に集まっている妖精の数は、花園に住まうものの約三分の一にもなっているが、そのうち半分は物見遊山で役に立たない、らしい。
ロゼアや妖精がソキに囁く言葉たちは、どれもこれもが伝聞である。ひとつとして確認されたことではなく、ひとつとしてソキが直に耳で聞いたことではない。唯一、ラギとレロクが言い争っている声だけは散歩中に耳にしたのだが、ロゼアがソキをひょいと抱き上げてその場を離れてしまったので、聞き耳を立てたりどきどきそわそわ影から見つめたりすることだって出来なかったのだ。大変な不満である。
ソキの日々はおおむね穏やかで平和だった。妖精が行ったり来たりして傍にいないことや、ロゼアが室内にはいるのにソキをずっと抱き上げていないことから、なんだか『花嫁』に戻ったようにも思えてくる。明日、明後日、しあさってが終われば新しい年になり、ソキは十五になる。それでもどこへ嫁いで行く訳でもないから、ソキは確かに『花嫁』ではなくなっていて、魔術師であり、そのことに、とても不思議な気持ちになる。
一年が過ぎるというのは、どういうことなのだろう。ううぅん、と考えながら、ソキはスケッチブックをぺらりとめくって鉛筆を持った。見つめるのは『 』の書いてある一枚だ。ようやく半分ほどが完成していたが、もう半分が、中々線を引くことすら難しい。それでも今夜はするすると鉛筆を動かし、空白に新しい花をひとつ増やして、ソキはぱちくり瞬きをした。絵を描いて悩む頭の片隅で、全く違う考えが走り出していく。歳をとるってなんだろう。どういうことなんだろう。大人になるってなんだろう。
なにかが変化していて、なにかが変化しようとしていて、なにかがもう、変わっている。それはきっと取り返しのつかないことで、それをみんなはきっと、成長、と呼ぶのだ。毎日、毎日、少しずつ、ソキはきっと変わって行っている。成長、というものをしている。心も、身体も、魔力も。魔術師としても。時をとめた『花嫁』だけが停止して、立ち止まって。置き去りにすることはできなくて。でもそれをどうしたって、ソキ自身だって、もう成長させてあげることはできないのだ。
そんなものは、もう終わってしまった。成長しきって、それでおしまい。『花嫁』のソキはそうなのに、『魔術師』のソキはそうではなくて、描き加えていくこの絵のように、毎日、毎日、どんどん変化していく。成長していく。『花嫁』を置き去りにして。それが大人になるということなのだろうか。腕いっぱいに抱えたままで動けないでいるソキも、確かに同じソキなのに。ううぅん、とソキは眉を寄せてまばたきをした。
考えているうちに頭がこんがらがって、よく分からなくなってきてしまった。考えていたことも。『 』の絵のことも。夜にひとりで考えるのはいけない、とソキは昔誰かに聞いたことがあったから、そのせいかも知れなかった。特にひとりで、言葉にもせず、考えているだけが一番駄目なのだという。鏡の向こう側が不意に歪むように、思ってもみない言葉が、考えが、心をひどく傷つけてしまいことがあるから。考え事をするなら、ひとりでするなら、おなかいっぱい食べた朝のあと。晴れた日。風が気持ちいい窓の近くがいい。
明日、晴れたら。もう一度、このなにかを考えてみよう、と思って、ソキはふわりとあくびをした。ぱた、とスケッチブックを閉じて、顔をあげる。ロゼアちゃん、と呼ぼうとして、不意に気が付く。時が停滞しているような、妙な静寂があたりを取り巻いていた。すぐそこにロゼアもメグミカもいるのに、同じ部屋に世話役たちもいるのに。誰もソキを見ていない。行き交う言葉がひどく遠い。
まるで、見えないぶあつい壁がそこにあって、ソキをすっかり取り囲んでいるように。ぱちん、と瞬きをして、無意識に、ソキは妖精瞳で世界を見直した。きゅぅ、と目を細めて息をする。寝台を取り囲んでいたのは、藤色の魔力だった。遮蔽、隠蔽、そんな風に読み解けた。首を傾げて、リトリアちゃん、と呼ぼうとして、ソキは違うと直感的に思う。ソキの知るリトリアのものとは、違う。先の戦いで、ツフィアやストルの魔力にきらきらと絡みついていたそれとは、別物のように感じた。
それは絶望的な孤独に磨かれた、刃のような色をしている。
『……さあ、これがお手本。これが見本よ、ソキちゃん』
とん、と靴音もなく。寝台の傍に現れたリトリアが、ソキに向かってきびしい目をして囁いた。悲しんでいるようにも、抑えきれない怒りをどうにか、宥めているようにも見える表情をしていた。言葉は魔力そのもので編まれて響き、妖精の声と同じように、世界をさわりと震わせている。ソキは妖精瞳でその姿を見た。妖精の瞳でなければ、見ることすら叶わなかっただろう。
禁忌を超え、世界を繰り返し、時の間に漂う意思のひとつとなった少女がそこに立っていた。うっすらと体は透けていて、その向こうに今を生きるロゼアたちの姿が見えている。リトリアちゃん、と不思議そうに繰り返すソキに、少女は怒りを煽られたように息を吸い込んで。それでいて、それを叩きつけることはなく手を握って、目を伏せて、これが見本、と繰り返した。
『今日しかない。もう、今しかない。これを逃せば間に合わなくなる。……さあ、立って。あなたにはまだしてもらわないといけないことがある』
「……リトリアちゃん?」
『お願い、時間がないの。言うことを聞いて。立って、城に行くの、さあ!』
道は私が案内する。貴方は姿を隠す術を、この通りに起動してくれればそれでいい。感情を押さえつけて囁かれる言葉に、ソキは目をぱちくりさせて首を傾げた。ロゼアを呼ぼうとしても届かないのだと、なんとなく分かっていた。ソキの声は普通に響いているのに、ロゼアがちらりとも目を向けないでいる。隠されているのだ。人からも、魔術師からも。世界からも。今のソキは恐らく、切り離され、隠され、鎖されている。
それを怖いと思わなかったのは、目の前の見知らぬ、それでいて見知った少女が、あまりにも。あまりにも痛そうで、泣きそうで、震えているように見えたからだ。リトリアちゃん、ともう一度読んで、ソキは少女の手をきゅぅと握りしめた。
「どうしたの? ねえ、ねえ、どうしたの……? ソキ、なにかしてしまったです? 怒ってるの? 悲しいの? 痛いの? ……ねえ、ねえ、どうしたの……?」
『……ソキちゃんが悪い訳じゃないの。でも、でもわたしは……馬鹿だって言われても、諦められない。もういいよ、なんて、言わせたくない……その為にならわたしは、なんだってする。禁忌くらい、ひとつでも、ふたつでも、踏んでみせる……!』
変質したのだ、とその言葉に予知魔術師は悟る。リトリアと同一のものでありながら、その魔力を違うと感じたのは、少女のそれが大本から変質した為に他ならない。そこに純粋さはなく。無垢であった透明さはなく。ただ、どろどろとした恩讐のようなものがこびり付いている。それでも、それはリトリアだった。ソキの友人で、同じ予知魔術師だった。なにをしたのか、予知魔術師の本能が理解する。彼女は、恐らく。
世界の枠を超えたのだ。繰り返されず停止された世界から、貫き、現れ、この場所へ立っているのだ。なにをすればいいの、とソキは少女の覚悟に問うた。少女はリトリアと違う、枯れて色あせた、花藤色の瞳を伏せながらも。きっぱりとした声で、言い切った。
『あなたの『本』を置いてきて欲しいの。彼の元に』
彼、とは。背を貫くぞわりとした悪寒に、ソキが息を吸い込んだ瞬間だった。声がかかる。
「……ソキ?」
「はにゃ!」
「え。ソキ? ソキ、どうしたんだ?」
びくぅっと体を震わせたソキのもとへ、ロゼアが小走りでやってくる。あわあわとあたりを見回せば、世話役たちもメグミカも、すこし微笑ましそうにソキを見ていた。ソキは大慌てで、なんでもないんですよ、と体を起こしかけて気が付く。なんで横になっているんだろう。あわあわくししと目を擦って、ソキは体の下にあるスケッチブックを引っ張り出した。『 』に描き足された形跡はない。
眠ってしまっていたらしい。
「ごめんな、起こしちゃったな。もう寝ような」
「……ソキ、寝ていたです? ほんとう? ……あれ?」
いつから、どこから、夢だったのだろう。あれ、あれ、と不思議に思いながら妖精瞳であたりを見ても、そこに少女の姿はなく。解けた魔力の欠片すら、見つけることはできなかった。ただ、言葉だけがいつまでも、不思議に、ソキの耳の奥に残って囁きかけた。眠りに落ちてしまっても、翌朝、気持ちよく目を覚ましても。朝日の中で考えても、その声が不思議とついて回った。
『本』を置いてきて欲しいの。彼の元に。
ソキは、秘密にしていたことがある。誰にも言わないでそうしていたことがある。それを武器庫に返すと言ったけれど。ロゼアにさえ、内緒にして。妖精にさえ、隠して。どうしてか、そうしなければいけないような気がしたから、隠して、隠して、内緒にして。ソキは失われた、シークの魔力に染められた『本』を、『お屋敷』にまで持ち込んでいた。そうしなければいけないような気がして。
その時が来たのだと。分かって。