うぎゅ、と呻き声をあげてのたのたと瞼を持ち上げたソキは、身を包むロゼアのローブに頬を擦りつけた。瞬間、天井から垂れさがる布の海の隙間から、すっと音もなく入って来たロゼアが、ひょいとソキを抱き上げて座り込む。膝の上に抱き上げられ、ゆらゆらと体を揺らされながら、ぽん、ぽん、と穏やかに背を叩かれて、ソキはうとうととしながらぶんむくれた声で抗議した。
「ろぜあちゃぁあ……いま、いまぁ……」
「今? 今、抱っこしてるだろ。どうしたんだー、ソキ。お腹だるいな、よしよし」
「んんぅ……? そう、なん、です、け、どぉー……?」
うととっと瞼を閉じてしまいながら、ソキはぷぷーっと不満げに息を吐き出した。今は確かに抱っこなのだけれども、ソキが言いたいのは違うのである。いま、ロゼアが、ソキが眠っているにも関わらず、添い寝をしてくれていなかった、という重大にして甚大な問題のことを訴えたいのである。ソキが一緒に寝て欲しかったのに、抱っこもぎゅうもしていなかっただなんて、大変なことなのである。
しかし、いまぁ、といくら訴えようと、ロゼアのぬくもりと、いい匂いと、だっことゆらゆらが、ソキの思考を溶かしていく。次第に、む、む、と不満げな鳴き声だけになり、最後にはふんにゃぁと蕩けて甘えて擦り寄ってくる『花嫁』を、ロゼアは心から慈しむ笑みで抱き寄せなおした。
「大丈夫だから。ソキは今日は一日、ゆっくりしていような」
「……ソキも、おかえりのじゅんび、する……。おかえりの、じゅんび、するぅ……!」
「んー? 準備したいの?」
こくり、とソキは瞼を閉じたまま、眠たげに頷いた。なにせ淑女なので、『学園』に帰る荷物の準備だって、ソキひとりでちゃぁんとできるのである。淑女なので。ロゼアは考え事をしている時の声で、んー、と言いながら、ソキの体をゆらゆらと揺らした。魔術師のローブで『花嫁』を包みなおし、ぽん、ぽん、と背や肩を撫でるように叩きながら、耳元で囁く。
「じゃあ、後で、なにを持って帰るのかを一緒に確認しような。それでいいだろ?」
「んー、んー……うん。ソキ、ロゼアちゃんの、言うように、するです」
「そっか。じゃあ、そうしような。……はい、アスルをぎゅっとしような、ソキ」
もふん、と渡されたアスルをぎゅっとすると、太陽のいい匂いがした。顔をうずめてふんすふんすとしていると、いつの間にか、ころんと意識が落っこちる。夢と現の間。淡い、きらきらしたひかりがまなうらに満ちている。そーっとソキを寝台に置き去りにしたロゼアが音もなく離れていくのを感じながら、風の音のようにひとの声を聞く。言葉。衣擦れ。足音。物音。さわさわと、ことことと、かすかに。
意識は途切れ途切れに、浮かんでは沈むことを繰り返した。誰かがひょいとソキに影を落として、ソキちゃん寝てるねほんとだよく寝てるね、ロゼア顔見せてくれてありがとうねまたあとで来るよ、と言って立ち去って行く。やさしい夢の欠片が、頬をそっと撫でていく。夢と、現と、その狭間で、ころころと言葉が転がって、あらわれては消えていく。名前を呼ぶ声。やさしい声。響き。物音。ささめき。
夢の向こう。うすくらがり。夕刻と夜の狭間のような、柔らかく消えていく、うすぼんやりとした輝き。意識のまどろむ、幽玄のあわいに。こと、こと、とひとつずつ、棚に物を戻していくように。と、と、と水面に雫が落ちていくように。ざぁ、ざぁ、と澱みや埃を、風が清めて運んでいくように。ひっそりと、ひっそりと、少しづつ。準備していたもの、整えていたものが、いっせいに、ひといきに。
芽吹いていく、花開く、その意識に。魔力に。魔術師の微睡みの、その終わりに。訪れたのは呼び声だった。
『――さあ、ソキ。起きなさい』
妖精の訪れは、魔術師としての目覚め。瞼を持ち上げたソキが見たのは、暮れ行く夕日の終わり。その紅と、染み込む紫、夜を刻々と深めていく世界の、おわりの光を背にしながら覗き込む、妖精の姿だった。リボンちゃん、とねぼけた声で呼ぶソキに、妖精は赤いリボンを飾りのように巻いた腰に手をあてて、もう、と語気を強くして言い放った。
『起きなさいったら。もう夜よ、夜! あー、目をはなすんじゃなかったわ、ロゼアのヤロウ! 朝から晩までぐうたら寝かせて!』
「ソキ……ソキ、眠っていたの? リボンちゃん」
『ソキ? まさか、朝アタシがいなくなってから、今までずっとぐだぐだ寝てたんじゃないでしょうねぇ……? ちょっと、なに? 熱は? ご飯は食べたの? お水はちゃんと飲んでたの? 下着だって替えたりしないと気持ち悪いでしょうに』
矢継ぎ早に繰り出される質問に、ソキはうぅーん、とくちびるを尖らせた。もっとゆっくり聞いて欲しい。ソキはぁ、いま月の障りにいじめられてるんですけどぉ、もう終わりかけなんでそんなにいっしょけんめ替えたりしなくて、いいんですぅ、ということだけをなんとか訴え、ソキは改めて寝台に座りなおすと、ほわほわふわりとあくびをした。ううぅうーん、と伸びをして、ぷは、と息をする。
寝台を覆う布は、いつの間にか取り払われている。目をくしくし擦りながら室内を見回すと、そこはいつも通りの、『お屋敷』のソキの部屋だった。それでいて、『花嫁』であった時と比べれば、室内にいる人数が歴然として違う。どんなに少ない時でも常に三人、普段は五人くらいはいたものだが、今はロゼアの姿しかない。それでも、ソキはそれを寂しい、とは思わなかった。会いたいひとには、また会える。ソキはもう、そのことを、疑わずに知っていられる。
シディとなにか話し合っていたロゼアが、ソキの視線に気が付いて穏やかに微笑みかけてくる。ちっ、と嫌そうに舌打ちした妖精が、さっそくソキの目の前に割り込んで来ながら、ロゼアにしっしと手を振った。
『気にしないで頂戴。ソキはアタシに任せてくれていいの。そうよね、シディ?』
『ええと……。あ、そうそう、ロゼア? 筆頭が、『学園』に戻る前に挨拶に来るように、と言っていましたよ。顔が見たいそうです。楽しみにしている、とも言っていましたので……行ってあげてくださいね』
ロゼアは一瞬、珍しく、ヤダヤダ感いっぱいの顔を見せた後、ふっと虚無と戯れる目でシディを見返した。
「シディ……。あのひと、どうして俺に絡んでくるんだろう……」
『可愛い後輩ができて嬉しい、とのことです。苦手ですか?』
「苦手、というか……。得体が知れない、というか……。別にいいです、というか……。構うの止めて欲しい……」
その、イヤだとか嫌いとか言い切れない所が、育ちが良くてハドゥルそっくりで可愛いなぁ、と思われていることを、ロゼアは知らない。言葉を選んでゆっくり首を横に振りながら、なんとか避けて通りたがるロゼアを、シディは優しさあふれる目で見守っている。拗れてめんどくさいことになる気配を感じたので突くのをやめにして、妖精はねむねむなっ、と言ってきりりとした顔になったソキを見た。
『はい、それじゃあ起きましょうね。……あーあ、これ、夜に眠れるのかしら。ソキ? いい? こんな時間までぐうたらしてたからと言って、夜更かしなんてしたら駄目よ? 運動でもしなさい、運動!』
「ぐうたらじゃないもん。ゆっくりだもん」
あっでもナリアンくんとメーシャくんの顔を見に行ってあげるです、と寝台を降りるべくちたちたしていると、するりと歩み寄ったロゼアが、笑いながらソキに靴をはかせてくれる。
「ナリアンと、メーシャの所にお散歩? 抱っこで行く? 抱っこが良い? どうする?」
『ソキ? なんて言えばいいのか分かってるでしょうね? な・ん・て・言うの?』
「……ソキ、おててをつないで、あるいていくぅ」
リボンさんソキに強要しないでくださいとあれほど、うるさい選択肢にならない聞き方をするんじゃないわよこのすっとこどっこい、と頭上で交わされる言葉を聞き流しながら、ソキはんしょんしょ、よろろっと立ち上がった。てし、てし、てちん、とはき心地を確かめ、ロゼアの手をきゅむっと握る。これでよしです、と自慢げな顔をするソキに、なんとも言えない表情をしたシディが、祈るように囁いた。
『健やかに、育ちましょうね……』
「はーい! ソキ、淑女なんで、あいらしく、可憐に、せくしー! に育って、それで、それでロゼアちゃんと……きゃふふふふっ!」
『十五になったのよねぇ……』
確かめるように呻いて、妖精はのたのたと歩き出したソキの頭上を飛んだ。身長は数ミリ伸びた気がするようなしないような。やわらかそうな体つきはさらにふわんとしたが、体調を崩して重みを減らしたり増やしたりしているので、過度な変化ではない。肉付きの良い場所がさらに柔らかくなっただけである。歩き方は一定の調子で安定したりどへたくそになることを繰り返していて、今はまだましな方だった。
知識は向上している。それだけは確かなことだった。外の世界を見て一年、二年が経過して、それは劇的な変化として、ソキの内面にもたらされる恵みとなっている。瞳は世界の色彩を知った。異なることを知り、それを喜び、言祝いだ。あれこれと貪欲に手を伸ばし、知識を吸収するさまに、一時見られたような躊躇いや、怯えもない。多少、興味を向けるものが偏っているが、いずれ落ち着いて行くだろう。
それにしても、成長しているのか、成長していないのかが分かりにくい。確かに前に進んではいるのだが、ちっとも変っていないように感じられるのは、なにがあろうと揺るがない強固な、ロゼアへの執着のせいである。やることなすこと、いうこと、ロゼアちゃんロゼアちゃん、がちっとも改善されないからである。あー、と呻いて、妖精は天を仰いだ。例えば、仮定の話として、可能性として、の思考ではあるのだが。
ロゼアと無事にくっついたとして、ソキのそれが落ち着くのかどうか、を妖精は考えてみた。無理だな、と一瞬にも満たない時間で答えが跳ね返ってくる。まず、ロゼアを最優先しないソキというのが、ちょっと存在としてよく分からない。成長、と言葉を転がすように、妖精は口にした。成長、成長、と己に言い聞かせて考えて、妖精は首を横に振った。それについては、あとでまた考えよう。戦略的撤退である。思考放棄ではない。断じて。
とてちて廊下を歩きながら、ねえねえリボンちゃんどうしたの、と不思議そうに問いかけてくる己の魔術師に。妖精は心の底からよどんだ目で、なんでもないわよ、と言い切った。
『ただ、成長ということの意味について考えてただけだから……』
「ふぅん? あっあのね、リボンちゃんあのね、あのね。ソキね、ナリアンくんと、メーシャくんと、お絵かきするの。それでね、ついに、完成しそうな予感がするの! 褒めてくれてもぉ、いいんですよ?」
『アタシはロゼアと違って、事前に褒めたりしないわよ諦めなさい。……描き終わるの?』
ソキが、ずっとうんうん唸って取り組んでいた、『 』のことに他ならないだろう。問いかければ、ソキは確信を持った目で力強く頷き、なんだかそんな気がするんですぅ、とまるで根拠のない自信で胸を張ってみせた。薄暗い廊下に、ほとりほとりと、灯篭の火が宿って行く。それを眩しく見つめながら、妖精はそう、と暗闇が遠ざかって行くことにも気が付かず、とてちてご機嫌に歩くソキを見下ろした。
『ソキ』
「はい。なんですか? リボンちゃん」
『暗いの、怖くない?』
そこで、ようやく、世界が夜になりかけているのに気が付いた目をして。ソキはきょろきょろと、周囲の様子と、窓の向こうの夜空を見上げた。ぐっ、と繋ぎなおされたロゼアの手に嬉しそうにきゃぁんとはしゃいでから、ソキは不思議そうな顔で、妖精にこくりと頷きを向ける。なんでそんなことを聞かれるのか分からない、というような、無垢な眼差し。
「リボンちゃんがいるもん。怖くないです!」
『……そう。なら、いいわ』
ロゼアに視線を向けて、ふふん、と勝ち誇ることも忘れずに。妖精は、それならいいわ、と繰り返して。すい、と灯りに満ち始めた、薄暗がりの廊下を飛んだ。その先の扉が開いて、ナリアンとメーシャが顔を覗かせる。ソキちゃん、ロゼア、とふたりが口々に呼ぶ、その場所へ。ソキは嬉しそうに、ロゼアの手を引いてとてちてと歩いて行った。妖精の導く、軌跡を追うように。ロゼアとふたりで。
暗闇の先には、ひかりがある。
まるで『学園』の談話室にでもいるようである。そう感じたのはロゼアだけではなかったらしく、ナリアンとメーシャは顔を見合わせてくすくすと笑い、不思議な気持ちになるね、と笑いあった。場所は『お屋敷』の一室。メーシャが滞在する部屋である。広々とした空間を布で二つに区切り、奥まった窓側を寝室、手前を日常使いの場所として、ソファと机を運び込んでいる。壁際には本棚が置かれ、『お屋敷』の者による選書が詰め込まれていた。
本棚にはメーシャのちょっとした手荷物も置かれていて、そこから日常の生活感が滲みだす。ソキとロゼアがやってくると、自然と四人はソファに座って向き合う形になったから、雰囲気はやはり談話室めいていた。ソキだけが、そうかなぁ、と言わんばかりの顔をしてきょろきょろと室内と、扉が開け放たれたままの廊下を見比べて、くんにゃりと不思議そうに首を傾げてみせる。
けれども、わざわざ口に出して否定する程だとも思わなかったのだろう。ふぅん、と語尾のあがった、まるで興味のない事柄に出会った時特有の声をあげてから、ねえねえ、と目をきらんと輝かせてナリアンを見る。
「それで、ナリアンくんは、おやすみを貰えたんです? ソキと、ロゼアちゃんと、メーシャくんと、一緒に、『学園』に帰るの?」
「うん。そうしようかな、と思って。……うん、なんか……うん……よく分からないんだけど……俺が『学園』の生徒だって思い出してくれたみたいで……?」
長期休暇も終わりだろう、ナリアン。友人たちと過ごしてくるといい、と言って送り出されたのだという。ロゼアは苦笑いで、ナリアンは素直だから、と言った。
「ナリアンさえよかったら、『学園』に戻る前にいくつか研修を受けていくといいよ。その……洗脳の……」
言葉を濁してどうなるものでもない、と思ったのだろう。やや気まずそうに提案するロゼアに、ナリアンは真剣な顔をして頷いた。そういえば『学園』に在籍していたのだった、というのを思い出したのが、そう言われてからのことである。それまで己の立ち位置をなんだと思っていたのかは思い出せない。ただ女王陛下の御為に尽力していた記憶しかない。ヤバい、と言う自覚はあった。なにがではない。なにもかもである。
「お願いしようかな。メーシャくんも一緒にどう?」
「興味はあるけど俺も一緒でいいの? ロゼア」
「ソキもっ、ソキもするうぅ! ソキもそきもー!」
ちたちたきゃっきゃとするソキに、そうだなソキもしたいなー、と微笑みかけながら、ロゼアはたぶん問題ないと思うよ、と親友たちに言った。
「一般向けの外部講習だから。時期ではないけど、講師方の予定には余裕がある時期だから」
「ソキもお勉強するですぅ。外部講習するですうう! ねえねえ、ロゼアちゃん? いいでしょう? ねえねえ、ねえねえ」
「ソキ。お絵描きするんじゃなかったの? なにか描くんだろ? はい」
どうぞ、とばかり差し出されたスケッチブックをはしっと受け取って、ソキは使命感に満ちた顔で、そうでした、と頷いた。なにせ、ようやく『 』の形が見えたので。ソキは描いてしまわなければいけないのである。第一優先なのである。ふんすふんす、と鼻息あらくスケッチブックをめくりだしたソキの頭上を、漂うように妖精が呻く。
『勉強に前向きなのは良いこと、と思うのよアタシ……。あ、そうよアンタたち? 課題は終わってるんでしょうね? 特にナリアン!』
名指しであるのは、花舞で酷使されていたが故に、学生と言う身分を忘れ去っていた為である。担当教員であるロリエスが付きっ切りであった為に、よもやそんなことはないであろう、とも思うのだが。時としてものすごいウッカリを発動させる相手でもある。加えて、過労で判断力が著しく低下する魔術師でもある。そのあたりが抜け落ちてしまっていても、不思議ではなかった。
しかしナリアンはうつろな顔で首を横に振り、長期休暇のはじめの二日で終わっていました、と言った。終わらせました、ではなかった。記憶が飛んでいたのだろう。日記かなにかで確認した上で、ロリエス本人にも提出の裏を取って来たに違いなかった。アンタはいったいなにをしてたの、と呆れ顔で妖精がため息をつけば、ニーアはおろおろと視線をさ迷わせ、しゅんとしながらそれが、と言った。
『去年もこんな感じだったから……こういうものなのかしら、と思ってしまって……』
『……こういうものって?』
『その、花舞に帰省する魔術師のたまごの、長期休暇の……一般的な過ごし方の』
そんなわけがないでしょう、という叱責を喉の奥で飲み込んで、妖精は額に手を押し当てた。ニーアは妖精としてもまだ若く、幼いといって良いくらいの存在だ。魔術師との交流さえあったものの、案内妖精としてはナリアンがはじめての、ド新米である。その上、性格は花妖精らしく、温厚で素直で穏やかだ。そういうものです、と言い切られれば、そういうものかしら、と戸惑いながらも頷いてしまいかねない。
おお、怒らない、偉いすごい堪えた頑張った、とぱちぱち拍手してくるシディとルノンを纏めて睨みつけて、妖精はいいこと、とニーアと目を合わせて言い聞かせた。
『そもそも、長期休暇なのよ、ニーア。休暇なの。休暇って意味分かる? や・す・む・の・よ! これ休んだ? 仕事は休みとは言わないのよ、よく考えなさいね』
『……というのを、ニーアよりも花舞の女王と、その魔術師に言わないとマズいのでは?』
『アンタ知ってて放置してるんじゃないわよどうにかなさいよ、さもないとアタシのソキに会わせないわよって砂漠の筆頭に言って来たわ』
よりにもよってなんでその人に言うんですか、という視線をロゼアが寄越したので、妖精は尊大に腕を組み、ふんと鼻を鳴らしてみせた。そんなもの、花舞までわざわざ出向いたりするのが面倒だからに決まっているではないか。あとは偶然、そのあたりを歩いていたからである。ちなみになんて言われたんだ、と問うルノンに、シディがすこし困っている様子ではありましたが、と息を吐く。
『内政干渉は得意じゃないんだけど、そういうことなら。できる限りのことはやっておいてあげるね、と』
『……頼る相手を間違えたんじゃ?』
『そう? 問題児には問題児をあてがうのが一番だと思わない?』
花舞の女王とは相性が悪そうだから、意気投合もしなさそうだし、と評する妖精に、シディとルノン、ニーアは視線を交わし合って頷いた。確かに。花舞の女王が、一番苦手そうな相手ではある。性格が。そしてあの砂漠の筆頭は、そういう自分を苦手とする相手を、なぜかそこそこ可愛がるやっかいな性質の持ち主でもあった。すっと妖精たちから同情的な視線を向けられ、ロゼアはそれに気が付かないふりをした。
ふんすふんす、と鼻息荒く描き進めて行くソキに、心から微笑みかける。
「なに描いてるの? ソキ。お花と蝶々がいっぱいで可愛いな」
「でっしょおおおお? でぇえっしょおおおお! あのね、ついに完成するです! もうちょっとなの!」
「あ、ソキのお絵描き終わりそうなの?」
みせてみせて、とメーシャが身を乗り出して覗き込んでくる。ソキはいいですよぉ、と言って膝の上に置いていたスケッチブックを、ういしょ、と二人掛けのソファが向き合う、その机の上に置いた。どれどれ、とナリアンと、上から妖精たちにも覗き込まれる中、ソキはじぃっと『 』の絵を見つめては、ちょこちょこと細部を描き足している。もう微調整をしているだけだった。形は整い終えていた。
それが原寸大なのだとすれば、ちょうどソキのちまこい両手を合わせた中に、すっぽりと納まるくらいの形をしていた。お花と蝶々の模様だねぇ、かわいいね、これなに、と口々に問われるのに、ソキはふんすすすっ、とこの上なく自慢げな顔をしてふんぞりかえる。
「これは、ソキの、なんですけどぉ! そうでしょう。かわいいでしょう。すごーいでしょー!」
「……ソキ? これはなに?」
「あのね、ロゼアちゃん。ソキのなの」
しっかり視線を合わせて、真面目な顔でこっくりと頷くソキに、ロゼアはそっか、と微笑んだ。会話にまるで進歩がない、と頷きながら、妖精はすとんとソキの頭上に着地する。あっ、リボンちゃんですどうしたの、とにこにこ嬉しそうにするソキに、特になんでもないわ描いていなさい、と言いながら。妖精はそっと、そっと意識を集中して、己の魔術師の内側を探った。体調の確認ではない。もっと深く。魔力の溢れいずる所まで。
すこし前に。妖精はソキ本人に了承させた上で、恒常魔術を復活させていた。もちろん、砂漠の王宮魔術師と国王、担当教員、『学園』の管理運営部門の責任者などに、一々伺いを立てて許可を得た上でのことである。ソキはなれない書類を前にして随分と苦心していたが、ロゼアとひとつひとつ確認するのは楽しそうだったので、それらの申請は妖精が思っていたよりずっと楽に進められた。
許可はすんなりと下された。ソキ本人からの申請であったら一も二もなく却下されたであろうが、他ならぬ魔術師の妖精、契約した同胞からの要求とあれば、そこに魔術師が物申せる余地はない。その判断は、時に本人の意思より尊重される。全ての申請が終わって三日も経たず許可が戻って来た時は、ロゼアはなんとも言えぬ顔で、ソキがどうしてもしたいならいいよ、と最後の抵抗を見せたのだが。ソキは、うん、と言ってあっさりと魔術を再起動させた。
特別な言葉はなく。必要な儀式も、なかった。その時そうしたのかは分からなかったですけどね、とソキが妖精に語った所によると、箱にかけた鍵をあけたのだという。鍵のない箱をひらけば、ことことと音楽が奏でられる。それがソキの恒常魔術であるのだと。僅かな不調を拭い去り、かすかな痛みを瞬く間に消していく。ソキが月の障りにべしょべしょになっていたのは、本人がなぜかその痛みだけ、対象外だと思い込んでいるからだった。
無意識の除外措置までは、妖精もどうしてやることもできない。結局鎮痛剤が効いたのでロゼアも妖精も胸を撫でおろしたが、ソキだけがはなしがちがうのではないのですうううぅう、とお腹を押さえて延々と不満を呻いていた。自分でやっておいて怒るんじゃないの、嫌だったらそうじゃない風に組み替えてみなさい、と妖精は幾度も説得し、ソキも頷いたのだが、どうしてか上手く行かなかったらしい。
むぎゃぁだのみぎゃぁだの癇癪を起した叫び声でスケッチブックがぽいぽい投げられるので、これについてはもう鎮痛剤を飲ませて寝かせておく、ということでロゼアと妖精の意見は一致した。その月の障りも、ソキ曰く、終わりかけて楽になった、らしい。その間も恒常魔術は問題なく巡り続け、妖精が探る今も、不安定の兆候やひっかかりは感じ取れない。そして、なにより。『 』の気配が、そこにある。
砕け散って砂になった筈の。復元など前例もなく、不可能である筈のそれが。『 』が、ある。ある、と妖精にも感じ取れる。まだ透明の、薄ぼんやりとした。木漏れ日を透かす影のような気配だが、はっきりと、ある、と確信できる。ふむ、と妖精は頷いた。なにがきっかけで復元がはじまり、いかなる理由で停滞し、またなぜ、今完成しようとしているのか、なにひとつとして理解ができないのだが。
妖精が見守る先、ソキは最後の線を引き終えたようだった。すっと体を起こして、ちょこちょこと首を傾げながら全体を見つめなおす。じーっと、アスルと見つめ合う時のような顔をして、真剣に見分したのち。ソキは、こくっ、と力強く頷くと、ロゼアに向かってにょっとスケッチブックを差し出した。
「でーきたーですー!」
「うん? ……見せてくれるの?」
「うん!」
満面の笑みで褒めを待つソキに、ロゼアは心からよく描けてるな、と囁いた。お花も蝶々もかわいいな、ちいさくてかわいいな、すごくよく描けてるな、と次々褒められていくのに、ソキはそうでしょうそうでしょう、と頬を赤らめて喜び、頷き、そして。あれ、と目をぱちくりさせて、こてん、とあいらしく首を傾げてみせた。ぺたん、と胸に両手が当てられる。どうしたの、とロゼアに問われても、ソキは目をぱちくりさせて。
「……あれぇ?」
輪郭を、宿し。そこにある、と本人にも認識させている。にも拘わらず。ぼんやりとしたまま、透き通ったまま。『 』だと分かるのに、口に出せない未完成のままの、それに。ソキは、なんでですぅ、という顔をした。僅かばかり不満そうな、不思議そうな、くちびるの尖らせ方だった。
恐らく、復活に至るのには決定的ななにかが足りていないのだ。そう結論付けたのは妖精だが、ソキも全くの同意見だった。なにかが足りないのである。描く、形を認識する、という作業は終わっている。だからあとは、戻すだけ、であるのだが。その、戻す、が上手く行かない。あとはもう、えいっとするだけなのに、なぜかそれが上手にできないのだった。火はついているのに、蝋燭にうつらない。芯が湿っている訳でもないのに。なぜかそうすることができないのである。
だいもんだいである、とソキは思っていた。せっかくできたのに、これでは完成とはとても言えないのである。あれ、あれ、と不思議がるソキに、ロゼアは新学期になったらウィッシュ先生に相談しような、と告げ、ナリアンとメーシャは口々に、先生に聞いてあげようか、図書館で一緒に調べようよ、と慰めた。それがなんであるか、ソキに説明できないまでも、助けるために出来ることはあるのである。
その、提案のどれにも、そうするです、と頷いておきながら。そのどれにも、しっくり来ないので、ソキは悩んでいるのだった。『 』の為に、できることは終わっている、と思う。何度見つめ返しても、ソキの描いた絵は完成していた。手を付け加える所など、ひとつもない。『 』は紙面に蘇っており、ソキはそれが正しく、かつて己の内側にあり、失われ、そして今再び得たものである、と認識することができた。
どうしてだめなんだろう。なにが足りないんだろう、と考えてみるも、ソキには分からない。アスルを抱きつぶしてころり、と寝台で転がると、今日はもう諦めなさい、とため息交じりの妖精が囁いてくる。
『もう夜遅いわよ。夜更かししないの』
「夜更かしじゃないもん。ソキはぁ、思い悩んでいるです。大変なことです」
『そうね、大変ね。明日にしなさい』
ぷぷーっと頬を膨らませて、ソキはまたころりと寝台で転がった。ねむたくなぁいー、と訴えれば、そうでしょうねぇ、とうんざりとした妖精の呻き。
『一日、あれだけぐうたら眠ってたら、いくらソキでもロゼアなしには眠らないわよねぇ……』
「ロゼアちゃんはもうちょっとなの。ソキにはわかるです」
期待のこもった視線が、寝台を覆う布の向こうへ向けられる。くすくす、と幸せそうな笑い声。もうすこしで行くからな、と告げられて、ソキははぁいと返事をした。ころん、とまた転がる。ロゼアは手紙を書いているのだという。チェチェリアに向けてと、ウィッシュにも一通。ソキのあやふやな説明を整理して、意見を求めるものだった。まめだこと、と妖精は呆れ、それでいて止めはしなかった。
もう数日、『学園』に戻るのさえ待てないのであれば、好きにするといい。シディはロゼアにつきっきりで、こう書くのがいい、こう表現したらどうだろう、と時折言葉が響いてくる。熱心ですねえ、ところりと寝台を転がるソキはまるで他人事で、今まで悩んでいたことを忘れたように、ぷわぷわと泡のようなあくびをした。眠い、というよりは、転がっているのに飽きたのだろう。そういう仕草だった。
案の定、呆れた目で妖精が見ていると、ソキはもそもそもそ、と起き上がった。寝台にちょこん、と座り込みながら、リボンちゃぁん、と眠気の無い甘えた声で妖精を呼ぶ。はいはい、と妖精はすぐ舞い降りてやった。それでも、その瞳に、ぼんやりとした不安があるのは確かなことだった。なに、と問う妖精に、ソキはあのね、と潜めた声で眉を寄せる。
「あのね、ソキは思うんですけどね、あれにはきっと、足りないものはないの。ソキはちゃぁんと、ぜんぶ描いたですよ」
『……そうねぇ』
「でもね、でもね、だからね……。足りなくなっちゃったの?」
いつものことだが、聞かないで欲しい。妖精は叱るべきか怒るべきか悩みながら腕を組み、ちょっとした違和感に眉を寄せた。
『足りなく、なっちゃった? ……そう思うの? どういうこと?』
「うーん、うーん……。あれは……あれは、きっと、むかしのソキのなの……。だからね、あれでいいの。あの通りなの。あれはね、あれは……しろほんちゃんのソキのなの? うーん? むかし? まえ? まえ、前は、あれでよかったです……。でも、ソキは、もう、リボンちゃんの魔術師のソキで、しろほんちゃんじゃなくて、あかほんちゃんなの。だからね、足りなくなっちゃったの……?」
ソキは感覚で物事を理解してそのまま口にするが、今回に限って、予知魔術師語に変換されず、擬音のような鳴き声のようなもので表現されなかったことに、妖精は心から安堵した。ソキ自身は未だ納得のいかない様子で、ああでもない、こうでもない、と首をひねっているが、妖精にはその説明で十分事足りた。つまり、そういうことなのだろう。言葉魔術師の、対たる、予知魔術師の『 』なのだ、あれは。
言葉魔術師の支配、隷属から逃れ、妖精瞳を持つに至った予知魔術師のものでは、ない。その変質に対応しきれていない。そういうことなのだろう。そもそも、魔術師の水器を喪失して正気のまま生き延びた前例が皆無であり、そこからの復元などひとつも前例がない。ましてや、予知魔術師。はぁ、と心から溜息をついて、今日はもう考えるのはやめになさいね、と妖精はやさしく、己の魔術師に囁いてやった。
『それなら、きっとそのうちどうにかなるから。……さ、ロゼアが来たわよ』
「だぁあっこおぉおぉー!」
ソキはちぃーっともねむくないですうぅうぅ、と寝ぐずっている声で主張してくる『花嫁』に、ロゼアは幸せそうに困ったなー、と囁いて腕を伸ばしている。ころん、と横になるロゼアに擦り寄って、びとんっ、とばかり密着するソキを眺め、妖精は目を眇めて『それ』を注視した。『 』はそこにある。陽炎のように。魔力は落ち着いている。魔術も滞りなく巡り、安定している。
『……まあ、ソキのことだから、一晩ロゼアにくっついて眠ったら、なにかしら改善しているかも知れないし』
「リボンちゃんはいいことを言ったです。ロゼアちゃん? ソキを離したらいけないですよ。ぎゅうですよ、ぎゅぅ」
『あー……いやでもソキのことだから……』
口実を作ってしまったことに舌打ちをしながら、妖精は万一の可能性にかけて、ソキが甘えるのを黙認してやった。なにせソキなので。一晩ロゼアにひっついていたら改善して、朝には『 』が復元していました、という可能性がなくもない。後年に残す記録の為にも、そんな再現不可能なことにはなって欲しくないのだが。ふすふすとロゼアの首元で匂いをかぐソキに、くすぐったいだろー、と歌うような声でロゼアは笑う。
眠れなくても目を閉じていような、ゆーっくり息をしような、いいこ、いいこ、と手際よく、ロゼアはソキを寝かしつけている。ぽん、ぽん、と背を撫でる手に、ソキの意識がとろりと溶けるのを妖精は感じた。ほどなく眠るだろう。妖精は半ば無意識に、振り返るようにして何処とも知れぬ場所を見た。砂漠の城。言葉魔術師の眠る一室。そこに、鍵は落ちていないだろうか。そこに。どこかに。
ふらり、探しに、無意識に飛び立とうとした妖精の手を、シディが捉えて捕まえる。駄目ですよ、とシディは言った。あなたがいなくなっては、駄目です。妖精はどこか夢うつつに、無言で頷き。しばらく、なにかを探すように、視線を揺らめかせて。しばしのち。ちょっとなに勝手に触ってるのよっ、と叫んで、シディの脇腹を遠慮なく蹴った。冤罪では、とシディが呻く。妖精は、聞こえなかったふりをした。
朝になっても、その次の日になっても、ソキの『 』がはきとした形を成すことはなかった。ソキは二日間はむくれたものの、どうすることもできない、となると諦めたようだった。いいもん、これから躾をするんだもん、あかほんちゃんだってそうだもん、とソキにしか理解できない、かつ説明させても分からない呟きでよしとすると、頭を抱える妖精にも困った顔で眉を寄せるロゼアにも構わず、せっせと『学園』に戻る荷物を詰め始めた。
長期休暇は残り一週間となる。『学園』での生活を取り戻し、また慣れてから授業を再開させる為に、その数日前には『扉』をくぐる者が大半だった。休暇が終わったとはいえ、すぐ授業が成されるか、については未だ発表がない。帰省すらギリギリまでどうなるか分からなかったくらいなのだ。二ヵ月が過ぎても全体の混乱は収まり切ったとはいえず、別の騒ぎも起きていたので、こればかりは各国の判断にゆだねるしかない所だった。
とはいえ砂漠に関しては、当面は問題がないらしい。なんとかするから教員の任にある者は『学園』に行くように、というのが、砂漠の筆頭からのお達しである。それ本当に大丈夫なんですか、とロゼアもナリアンも顔を見合わせたが、この休暇中に砂漠の魔術師たちと交流を深めたメーシャだけが、一定の理解のある顔つきでたぶんね、と彼の人を擁護した。恐らくは万全とも言い難い状態であるのだろうけれど。
なんとかなるから、ではなくて。なんとかするから、と彼の筆頭が述べたのであれば、勝算はある、ということである。そうすると黒魔術師関連の授業はだいたいある感じかなぁ、あとは共通授業のいくつかと、一般教養と、と考えるメーシャに、親友たちは微笑んで頷いた。疲弊しきっていた面影すらすでになく。精神的に強くなってくれてなによりである。誰の影響かは極力考えないものとする。
「ねえねえリボンちゃん。リボンちゃん、これから、ソキとずーっと一緒なの?」
ふ、と疑問に思ったのだろう。改めてそう問いかけてくるソキは、ロゼアの作った目録と、荷物の内容が本当にあっているかどうか、を確かめている真っ最中だった。ロゼアがきちんと鞄に詰めたものをひとつひとつ取り出し、ぐしゃぐしゃに広げて確認している様は、ただ徒労の一言に尽きた。この作業はなんの意味があってのことなのかしら、と言いたい気持ちをぐっとこらえ、妖精はソキの間近まで飛んだ。
『そうよ。なに? 改めて』
「うふふふん。つまり? ソキの授業も、休憩も、ご飯も、ぜぇんぶ、一緒?」
『そうよ。……なに、嬉しそうな顔しちゃって』
ソキは幸せそうに頬を赤らめ、うふふ、と口に手をあてて笑った。だってぇ、とくすぐったそうな声が零れていく。
「なんだか、嬉しいなって、思ったです。新年でしょう? 新学期でしょう? 淑女のソキでしょう?」
『最後のはともかく……そうね。新年で、新学期ね』
「ソキ、これからの新しいことを、みぃんなリボンちゃんと一緒にするんだなぁって、思ったです。嬉しいですぅ……! ソキね、ソキね、はじめての旅の終わりね、ほんとはね、リボンちゃんと一緒にいたかったんですよ。ソキはひとりで歩けるけど、でもね、リボンちゃんと一緒がいいなって、思ってたんですよ」
知ってるわ、と息を吐き出して。妖精は目をきらきらと輝かせる己の魔術師の、頬をふにふにと手で押しやった。
『なぁに、あまえんぼ。淑女になったんじゃなかったかしら?』
「淑女のソキでも、リボンちゃんはいいんだもん。ねー、アスルー。ねぇー!」
『……つまりアスルもいいのね』
まるっこくてもふもふの、ソキのお供。アスルは今日も、ソキの膝に乗せられたまま、こうして時折、頬を擦りつけられて会話の相手を仰せつかっている。これこそ淑女にはどうかと妖精は思っているのだが、ソキはきょとん、とした顔で、当たり前のことですぅ、と自信満々に頷いてみせた。
「アスルはソキの相棒だもん。今年も一緒に、ぽよよんと頑張るです。ねー、アスルー」
『いいこと? ソキ? あれは緊急事態だったから許されたんですからね』
「お休みの間に、メグちゃんが綿を入れ替えてくれたです。さらにぽよぽよ、ふわふわ、もっちりとしたですー! よかったねぇ、アスル。ソキがちゅうをしてあげるですからねー!」
予知魔術師の武器は、『本』である。アスルではない。アスルではないのだ。『学園』に戻り次第早急に教本を読み直させ、しっかり理解させておかなければ、と思い。妖精は、はっ、と気が付いてソキを見た。
『ソキ? 『本』は? 赤い方……どこへやったの?』
持っていない。近くに置いていなければ、寝台の上にもない。数日見た記憶が、妖精にはない。ソキもすっかり忘れていたのだろう。よじよじとしろうさぎリュックを引き寄せて中を覗き込み、難しい顔をして首を傾げてみせた。ないらしい。血の気が引くような事態に妖精が沈黙していると、ソキはぱちんと手を合わせて、そうだったですっ、と言った。
「ひとりだと寂しいと思って、本棚に置いておいてあげたです。やんやん、忘れて帰る所だったですー!」
『……気が付かなかったアタシも悪いアタシも悪い、んだけど……肌身離すなって言っておいたでしょう……!』
「ちょっとだもん」
ぷっぷくー、と頬を膨らませて抗議するソキに、数日はちょっとじゃない、と言い放ち、妖精は息を吐く。今度の赤い本も縮まないといいわねぇ、と呻く妖精に、ソキは大丈夫ですー、と言った。新学期の目標は、まず『武器』を常時携帯させる所から、にするべきである、と。妖精はかたく、心に決めた。