予定時刻を一時間過ぎても、王に会うことは叶わなかった。どうもなにかが起きたらしい。深刻な事故ではない証拠に、王宮魔術師たちがひょいと顔を覗かせては、ごめんなーもうちょっと待っててねー、と言い残して、暇つぶしの本やら遊具盤やら菓子やらを置いて行くので、ナリアンとメーシャはくすくすと笑い、なにかできることがあったら遠慮なく声をかけてくださいね、と先輩たちに告げていた。ロゼアはありがとうございます、お待ちします、とだけ告げて、ソキの髪をゆったりと撫でていた。
ぷすぷすぴすす、と気持ちよさそうな寝息がずっと響いている。昨夜は随分遅くまで、明日『学園』に帰ると思ったらなんだか眠れないですぅリボンちゃんねむれないおはなしをして、しないわよ寝なさい目を閉じてじっとするの、おはなしをーしてーほしいですぅー、転がるんじゃなくてじっとしなさいって言ってるのよアタシは、おーはーなーしぃー、としていたので、睡眠時間を考えればちょうどいい、二度寝のようなものだった。
長期休暇中、朝に夕にとロゼアが丹念に手入れし続けた『花嫁』の髪は、幾度撫でようとも絹のような質感を失わず、さらさらと指の間を滑り落ちていく。透き通る肌は瑞々しく、頬もくちびるも、ほんのりとした花色に染まってあいらしい。ソキちゃんは今日も一段とぴかぴかだね、眩しいね、かわいいね、よかったねぇロゼア、とナリアンとメーシャが口々に、覗きに来た魔術師たちも目を止めては褒めるので、恐らくは『学園』に戻っても同じことだろう。
うにゅ、とちいさく声をもらして、ソキがころんと寝返りをうつ。腹に顔を埋めてくしくしと頬を擦りつけてくるのに、甘いくすぐったさを感じて笑いながら、背をぽん、ぽん、と穏やかに叩いた。すう、と寝息が深くなる。まだ起きないらしい。眠りが深い所で起こしたくはないから、逆にもうしばらく王と会えなくてもいいのだが。ロゼアはちらりと窓から外を眺め、太陽が真上に差し掛かるのを確認して、息を吐いた。
待たされることに文句はない。昨年帰省した時にも散々会えずにいたことだし、王には魔術師のたまごに会うことより、重要な仕事はいくらでもある。そうであるから溜息は不満ではなく、ただ困惑によるものだった。王宮魔術師たちがせっせと運び込んでくれた荷の山に目を向け、ロゼアはさてどうしたものか、と思案する。目に留まるのは菓子くらいで、軽食になりそうなものはなかった。なんのことはない。昼食を考えているだけである。
ソキの一食くらいなら甘いもので間を持たせ、おやつや夕食で栄養や量を調節すればいいのだが。食べ盛りのロゼア、ナリアン、メーシャの腹を満たすには、甘い暇つぶしの菓子では到底物足りないのだった。ソキ以上に優先することなどこの世にはないが、それはそれ、じわじわと迫りくる空腹はロゼアにとって大きな問題である。ひとりだけなら、一食くらい、我慢しきれないこともないのだが。待機がいつまでとも知れず、友も一緒、とあれば解決しておく方が無難だろう。
長期休暇の殆どを砂漠の王宮に滞在していたメーシャは、ロゼアからそっと食事について水を向けられると、ああ、と納得したように頷いた。空腹、とまでは言えずとも、現在時刻からそろそろどうしようかとは考えていたらしい。なにか買ってくればよかったね、と苦笑しながら、メーシャはすぴすぴくぴぴ、と眠るソキに目を向けた。
「食堂でお願いすれば、なにか作ってもらえると思う。俺とナリアンで行って来るよ。ソキにはどんなものがいいかな」
「俺と同じものでいいよ。果物があれば嬉しい」
「分かった。じゃあロゼアのを多めにしてもらうね。ソキの好きそうなスープがあればいいんだけど……まあ、任せてよ」
同じものを二人分用意するより、ロゼアのものを分けた方が、ソキはよく食べる。くすくす、と笑いながらお見通しの言葉を告げ、メーシャはナリアンと連れ立って部屋を出て行った。四人が通されたのは客間ではなく、予備の休憩室、と呼ばれる空間である。調度品らしいものはなく、床に幾重にもひかれた柔らかな布の上に座っているから、部屋そのものがやけに広々とした印象を受けた。すこし、『お屋敷』の一角に似ている、とも。
人々の動き回る気配。開けられた窓からふわりと忍び込む柔らかい風。心地よいひかりと熱に、落ち着いたソキの寝息が混じって行く。妖精たちは待ち時間に呆れ、それぞれ一足先に戻ってしまっていた。ソキの妖精は花園に戻る必要はないのだが、たまには皆に顔を見せてください、とニーアとルノンに引っ張って行かれたので、戻ってくるにしても夜だろう。送って行きますから、とシディが苦笑しながら囁いて行った。
ソキを撫でながら、ロゼアは笑い合う人々の声を風の中に聞く。穏やかな日だった。平和だな、と思う。日常の、優しい時間だった。うにゃ、とまたちいさく声を漏らしてころん、と寝がえりをうつソキを抱き寄せながら、ロゼアは満たされた息を吐き出した。かつて、想像さえしなかった日だと、思う。『花嫁』との日々は満たされきった、それでいて終わりを感じ続けるものだった。時間は有限で、減ることはあっても、増えることなど決してなかった。
いつか必ず別れがあった。どんな時も。なにをしていても。永遠などなく。終わりを感じない日はなかった。穏やかな日もあった。やさしい時もあった。それでいてどこかに、これで最後かも知れない、という不安があった。それは今日ではなく明日ではなく明後日でもなく。確定するものはなにもなく。どこかに、必ず終わりがあった。そうだと知っていて削られた。研磨された。その最後の瞬間まで、共にある為に。それが、ロゼアの望みだった。
傍にいたい。なにをしてでも。なにを受け入れ、飲み込んででも。心を削り、削られ、葬り、葬られ。どろどろとした暗闇を飲み込んで。それを永遠に『花嫁』に告げられなくても。傍にいるには必要で、それこそが代償なのだとされたから。差し出した。それだけのことだった。眠るソキの頬に触れ、撫でながら、ロゼアは満ちる幸福にこみあげるものがあって、口唇に力をこめた。見送らなくていい。もう、見送らなくていいのだ。本当に。そうしなくて、いいのだ。
ソキね、十五になったんですよ、ロゼアちゃん。ふわふわとした声が耳元で告げた声を思い出して、ロゼアはソキを抱き寄せなおした。昨年も、感じた傍にいる喜びを。別れないでいいのだ、という安堵を。一年が経過した今、噛みしめるように感じて息を吐く。俺の『花嫁』、と吐息に乗せてロゼアは呼んだ。くぴぴ、と愛らしい寝息が返事をする。なんてしあわせなことだろう。この腕の中で『花嫁』が眠っている。
新年を迎えてから、ソキは殊更にロゼアを呼び、くっついていたがることが多くなった。恐らく、ソキは意識してのことではなかっただろう。不安がる素振りではなかった。ただ、それまでは室内でロゼアが用事を済ませていれば大人しくしていたのに、ふとした瞬間に傍まで呼んでは、だっこだのぎゅぅだのなでなでだのを要求し、しばしば妖精に雷を落とされていた。そのたび、ソキはぴいぴいと、あまえたんじゃないもん、と主張しては頬を膨らませていた。
そうだな、とロゼアは眠るソキを見つめながら思う。甘えとも、不安とも違っていた。それはただ、確かめるようだった。ロゼアの存在を。そこにいることを。呼んでも、来てくれることを。そこにいるのだ、と何度でも、何度でも繰り返し確かめては、ソキは瞳をとろりとした幸福に蕩けさせた。求められていることを知る。言葉より多く、瞳が物語る。『傍付き』を確かめる『花嫁』の眼差し。そこにいる、ということ。
する、と指先でソキの頬の丸みをなぞり、ロゼアは目をゆるりと和ませて微笑する。言葉を待っている。ソキから与えられる、その言葉を。求めるままに口に出される、その許しの一言を。『花嫁』の傍にある為に、たったそのひとつを得る為に、手放した希望。その望みを持っていた記憶は、ロゼアの中に今も残っている。欲望は恐怖と嫌悪と共に抑え込まれているものだとしても。望んだ記憶は、ロゼアのものだ。
求めた。誰より、なにより、ソキのことを。それを忘れることはない。
「んー……んー、んー、んぅー、にゃーぁ……。ぷにゃ……? う、うぅ……?」
さわりと揺れた梢の音か。あるいはロゼアの、かすかに揺れた感情か。そのどちらかを、感じ取って。ソキはふにゃふにゃと寝ぼけた声をあげながら、ロゼアの膝に頭を擦り付けた。くし、くし、目が擦られる。まだ寝てていいよ、とロゼアはソキの耳元で柔らかく囁いた。ナリアンとメーシャが戻ってくるまでには、まだ時間があるだろう。三人の食べ盛りを支えるだけの食料は、そんなにすんなり運んでこられない。
手伝いに行けないのは申し訳ないな、と思いながら、ロゼアは腰にくるんと腕を回し、ぎゅーっと抱きついてくるソキの髪を慈しんで撫でた。とろけるような笑い声が零れる。
「ロゼアちゃーん。ソキ、ロゼアちゃんにぴとっとくっつくの、だぁいすきですー」
「俺もだよ」
「きゃふふふふ! はにゃー……にゃー……? あれ? ナリアンくんと、メーシャくんは? もしかして、先に陛下のところへ行ったです?」
たたたたいへんなことですっ、ソキもご挨拶に行かなくちゃいけないのではっ、ともちゃもちゃ起き上がろうとするのを、ひょい、と抱き上げて膝の上に下ろして。違うよ、とロゼアは苦笑した。
「陛下は、まだ。ふたりは、お昼ご飯を探しに行ってくれたんだよ。ソキはここで、俺とお留守番していような」
「ソキ、ロゼアちゃんとお留守番! するぅー! ロゼアちゃん? お留守番のぎゅぅは?」
きらきらした目で見上げられて、ロゼアはふっと笑みを深めた。求められるままに腕を回して、おいで、と囁きながら抱き寄せる。はふん、と満足したあいらしい吐息が、ロゼアの首をくすぐった。ふにゃうにゃ、ふにゃんにゃ、と鳴きながら体をくしくし擦りつけて、ソキはきょときょとと室内を見つめだす。なんだか物が増えているような、と訝しむのに、魔術師の皆さんが持って来てくれたんだよ、とロゼアはひとつひとつ指さし、丁寧に囁いていく。
あれが頂いた焼き菓子、あれがお裾分けの香草茶。入っている瓶はちょっとした魔術具で、赤い方が保温、青い方が保冷。あれが遊戯盤。黒と白の石を挟んでひっくり返すヤツだよ。ソキも好きなのだな。お昼食べても呼ばれなかったら一緒にしよう。あっちがナリアンとメーシャの、やり途中のチェス。あっちにあるのはお勧めの本。推理小説と、怖いやつ。読み途中で気に入ったら、紙に題名を書いておいてくれれば『学園』に持って行ってもいいって。返却は談話室の本棚に置いといてくれれば回収してくれるって聞いてるよ。
ソキはロゼアの囁きをひとつも聞き漏らさないきらきらした目で、ふんふん、と幾度も頷いた。
「お昼を食べても陛下がまだだったら、ソキはロゼアちゃんと、あの、お石をひっくり返すのをやるです。それで、それでもまだだったら、ソキはお散歩をして、それで、ご本を読むことにするです」
「分かったよ。じゃあ、そうしような」
ほのぼのとロゼアが頷くのと、ほぼ同時に。今日の王宮魔術師事務方、通称『内番』と呼ばれるひとりの魔術師が、新入生ごめんねぇええええ目途がついたよあと三時間から五時間の間かな六時間よりは伸びないからぁあああああっ、と残響を残しながら走り去っていく。戸口で立ち止まることはなく、中を覗き込んでくることもなかった。立ち止まる、ほんの数秒すら惜しむようだった。
無言になるロゼアの膝の上で、ソキがんしょ、んしょ、と指を折って数を数え、三と五の間に六はないのでは、とごく素直な疑問を口にした。最大六時間、それ以上は伸びない、ということだろう。その頃には夕方である。いっそ一度『お屋敷』に帰るか、明日以降に予定を改めた方が良いかも知れない、と悩み始めるロゼアの膝に、まったりと腰かけながら。ソキは不思議そうに、くんにゃり首を傾げて言った。
「……陛下は、うんとお忙しいです? なにかあったの? ロゼアちゃん」
事件や事故かも知れないが、警戒態勢を敷いたりする、深刻なことではない、ということくらいしかロゼアにも分からない。当然問いかけたロゼアに、王宮魔術師たちは一様に笑って、うーんちょっとねー、まあよくあることだから気にしないで待っていてね、ごめんね、いやほんとこの忙しさはよくあることだから、具体的に言うと平均して三日に一回、という情報にもならない言葉を返すだけで、詳しく教えてくれなかったのである。
それでも、不穏な空気がないのは確かなことだった。先程疾走して行った魔術師の声も、なんだか忙しすぎて楽しくなってきたような雰囲気を醸し出していたので。なにかな、なにかなぁ、と考えだすソキの背を引き寄せて、ぽんぽん、と撫でて落ち着かせる。好奇心でも、不安でも、興奮しすぎはよくない為である。
「なにかあったのかもな。……お昼を食べて、どなたか通りがかったら、聞いてみような」
ただし、砂漠の筆頭以外が通りがかって欲しい。なにかとめんどくさい予感しかしないからである。幸い、あれこれちょっかいを出しに来る王宮魔術師たちと一緒に来ることはなかったので、今日は絡まれていないのだが。とりあえず、戻る可能性があることを『お屋敷』に連絡しなくては、とロゼアが思っていると、膝の上でぴょこんっ、とソキが楽しく体を跳ねさせる。ふすす、と鼻を鳴らして戸口をじっと見つめるのに笑って、ロゼアはお出迎えしようか、とソキを抱いて立ち上がった。
ナリアンと、メーシャ。その他数人の笑い声、話し声と共に、食欲をそそる良い匂いが近づいて来ていた。
花舞の忙しさを綿密な計画による超圧縮高速情報処理戦闘型だとすると、砂漠は超高範囲同時多発術式並行処理戦闘型かな、とメーシャは言った。つまり、そもそもやっていることが違うので、どちらが忙しいという比較ができないし、専門的過ぎて手助けすることが難しいのである。その中に巻き込まれるナリアンは、だからすごいと思うよ、本当にね、と素直に褒めてから、メーシャは食後のお茶をひとくち、こくりと喉を鳴らして飲み込んだ。
熱いミントティーが、胃と喉にするりと冷えた気配を漂わせる。その不思議さに最初は面食らったものだが、砂漠の城で魔術師に給仕されるお茶といえば、ほぼほぼこのミントティーである。長く滞在した分、慣れもしたし、美味しいとも落ち着くとも思うようになった。『お屋敷』でもよく飲むよね、と微笑めば、ロゼアは『花嫁』には体調と好みによるけど、と一言断ってから頷いた。飲料水と同列に、常に用意されているものなのだという。
ソキはあまり飲みなれないらしい。ふぅ、と息を吹きかけて飲んでは、あついのにひんやりするうぅうっ、とちたぱたはしゃいで楽しそうにする、ということを繰り返していた。ソキが普段飲む香草茶にもミントは入っている。しかし数種類が混ざっている為に、ここまで特徴が出ないのだとロゼアは言った。だから楽しいんだと思う、と目を和ませるロゼアに、メーシャはナリアンと視線を交わし、ひそかな幸せにくすくすと笑い合った。
ここ半年程ずっと、ロゼアはなにかと心労続きである。件の言葉魔術師の事件前後は言わずもがな、長期休暇も様々なことで、ロゼアはゆったりと幸せそうに落ち着いている様を、ふたりはあまり見ていないのだった。なんだよ、と不思議そうに尋ねられるのに、メーシャはううん、と首を横に振った。やっぱりロゼアにはソキが一緒にいるのがいいね、と微笑むメーシャの隣で、ナリアンが真顔で頷き、コン、とチェスの駒を盤面に置いた。
「ロリエス先生の助けになれることは、もちろん嬉しいんだけど……。俺はすごくなくてもいいかな……。今が一番休んでる気がするし。……メーシャにはさっきから弄ばれてる気がするし」
「やだなぁ、ナリアン。そんなことないよ」
「そう……? そうかな……?」
さっきから勝ってるか負けてるかよく分からなくなってきたし、勝てる気がしなくなってきたし、でも負けるような気もしないんだけど、なにこれ、とナリアンが困り顔でロゼアに助けを求める。ひょい、とロゼアが覗き込んだ盤面は、拮抗しているように見えた。確かに、どちらが勝っているとも、負けているとも言い難い。一手で形勢は変わるだろうが、膠着状態、とロゼアは読み解いた。そのままを告げると、うつろな目をしたナリアンが首を横に振る。
「絶対メーシャに弄ばれてる……。ずっとこの状態なんだよ、ロゼア……。負けてないんだけど、なんか、勝てない……」
「そんなこと言わないで、もうちょっと付き合ってよ。ナリアン。ね? 俺も試行錯誤の最中だからさ」
「……ん? わざと?」
勝たず、勝たせず。負けず、負けさせない。相手の手を読み、自分の策を編み、盤面を見据えて、天秤を決して傾かせない。やろうと思って、すぐできることではない。疑問にまみれた声で、それでいてある程度の確信を持って問いかけたロゼアに、メーシャは華やかに笑ってみせた。ラティが眠っている間にね、と囁きながら、メーシャの指が駒を持ち上げ、ことん、と盤面に置き去りにする。
「色々考えてたんだよね。考えることしかできなかったから。……不安で、まあ、ろくでもないことばかり、嫌なことばかり思い出したし、考えたし……普段の俺じゃ、思わないようなことも、たくさん、たくさん、考えて……。それで、思ったんだけど。俺、ナリアンにも、ロゼアにも、ソキにもなれないんだよね」
言葉を告げる顔つきは明るかった。だからこそ不安がることなく、こくこくお茶を飲みながら、ソキは不思議さに首を傾げてみせる。メーシャは、メーシャである。同じ年に入学したお友達で、大好きなメーシャであるから、ロゼアにもナリアンにもならなくていいし、もちろん、ソキとは別のひとである。そのようなことを告げたソキに、メーシャはうん、と頷いた。そうなんだけど、と言葉が続けられる。
「つまりね……こんなこと言うのは、なんか恥ずかしいんだけど。俺はあの時、なんならできたんだろう、って」
「あの時……?」
「ひとつじゃないよ。たくさん。色々あったよね。『学園』が襲われたり、ロゼアが倒れたり、『扉』が使えなくなったり、ソキがいなくなったり、身動きが取れなかったり、ラティが倒れたり。そのあとも、色々。……その、そういう、ひとつ、ひとつに。あの時、なにができただろうって、考えた。どんなことならできたんだろうって。後悔、して、た、とも、違うんだけど……近いかも知れないけど、でも違って。そうじゃなくて、俺は」
過去を振り返って、その中に。未来を探そうとしたんだ、とメーシャは言った。あの時どうすればよかったんだろうっていうのは、後悔だよね。でもそうしながら、今の、冷静な気持ちでもう一度見つめて、こういうことならできたかも知れないって考えて、考えて、判断して、それを経験として持ってくるなら、それは次に繋げるって言うことだよね。そう思って、そう考えて。ずっとずっと、そういうことばかり考えてた。休みの間中。眠ってる横顔を眺めながら、俺はきっと、ずっと。
無力だって思ってた訳じゃないよ。なにもできなかったって思った訳じゃない。でもね、嫌だった。嫌だったんだと思う、と。己の心に触れながら。まだそれについて考えながら。メーシャは感情を解きほぐすように、ゆっくりと言葉を重ねて行った。
「それで、そんな時に……先生の試合を、見て。ああ、すごいなって思ったんだ。占星術師としての、極みだよね。先生は努力して、努力して、あの場所まで至ったんだって、それが分かって……すごいなって、思って。……あとちょっと、悔しくて」
「悔しい?」
話しながらだけど、ゆっくりでも、続けて欲しい、と求められて。ナリアンが考えながら動かした駒を見つめ、メーシャは指先をさ迷わせた。盤面の流れを脳裏に描くように、視線がゆるり、伏せられる。
「……先生、なんでそんなすごいの、教えてくれなかったんだろうって。子供っぽいとは、自分でも思ってるんだけど。俺が、まだまだそんなこと、教えるまでもない、未熟だっていうの、分かってるんだけど……。ナリアン、ロゼア、ソキ、俺ね、俺は、ね……」
つよくなりたい、ううん、なにか、思い描くなにかに、なれるように、なりたい。未来に、せいいっぱい、腕を伸ばしながら。占星術師たる魔術師は、照れくさそうに笑った。
「他の誰でもない、自分になる為に。どういう風にすればいいのか、ようやく分かったのかも知れないなって」
「メーシャくんは、なにになるの?」
「なにに、じゃないよ、ソキ。俺はね、俺になろうと決めたんだ。俺は俺にしかなれないけど、でも、俺にはなれるから」
ふぅん、と頷いて。むむっとソキはくちびるを尖らせてメーシャを見た。よくわかんないですぅ、とその顔には書かれている。ふふ、と笑ったメーシャに、ナリアンがすっと手をあげた。教師に発言を求める、生徒の仕草だった。
「メーシャくん……。それでなんで俺を弄ぶの……」
「誤解だよ、ナリアン。誤解。……情報処理と、調整、制御の練習」
自分がどういう風に動けば、相手がこうしてくれるのか、とか。相手にこう動いてもらいたければ、こういう道筋を作ればいいのか、とか。そういう、仮定と実践の繰り返し。一番難しいのが、自分も相手も動きながら、なにもしないし、なにもさせないっていうことだって先生が仰ったから、試してみてる、とにっこり笑うメーシャに。ナリアンは先に言って欲しかったと呻き、この一回だけだからね、とため息を付いた。
「普通に勝ったり負けたりしない……というか、俺は相手に向いてないよ、メーシャ。ロゼアにしなよ、ロゼア。こういうの上手そうだから、メーシャの相手にぴったりだよ。きっと」
「うーん、ロゼアは上級者向けっていう気がするから……。まあ、そのうちね」
「うふん? よく分からなかったんですけどぉ、じゃあソキも手伝ってあげるですぅー! えい!」
にょっと手を伸ばしたソキが、ナリアンの駒を持ち上げて、こちん、と盤面に置く。三人が同時に、あ、と言った。ふんすすすっ、とこの上なく自慢げにふんぞりかえるソキの顔には、褒めてくれていいんですよぉおおお、と書かれていた。ごめん、いいよロゼア、でもこれどうしようね、やりなおしてもいいよ、ううんいいよこのままにしておく、と三人は無言で視線を交わし合い、誰ともなく頷き合って。
えっと、と代表して、メーシャがそっと問いかけた。
「ソキ、聞いていい? この駒は、なんで、ここに置いたの?」
「ソキの手が届いたのがこの子だったです。それでこの子は、きっと、ここに置かれたかったに違いないです」
「そっかー……。そう、かぁ……」
作戦とか、そういったものではない。こうしたいから、した、というソキ理論である。次の手が読めない、という話ではない。もはや、なにをしてくるか分からない。そういう相手である。メーシャはそっと額に手を押し当てて考えたのち、ふ、と笑って顔をあげた。
「これもうロゼア向きだよね、ナリアン」
「そうだね、メーシャ。ソキちゃんだもんね」
「あっ、メーシャくんのこの子はぁ、きっとここに行きたいに違いないです。ソキがお手伝いしてあやややんやややん。ロゼアちゃぁん、ソキ、届かなくなっちゃったですううぅ」
ひょい、と抱き上げて遠ざけられたロゼアの腕の中で、ソキはちたちたもちゃちゃと抗議している。ソキもやるぅ、ソキもするぅ、とぐずられるのに、俺と石をひっくり返すので遊ぶって言ったろ、ナリアンとメーシャのに手を出すのは違うだろ、とロゼアが窘めているのを聞きながら。メーシャは笑って、ソキの動かしたかった通りに、コン、と駒を移動させた。いいの、と問うナリアンに、メーシャはうんと頷いた。
「ここまでにしておく。付き合ってくれてありがとうね、ナリアン。……普通に遊ぼう?」
「どういたしまして、メーシャくん。……そうだよ。これから『学園』に帰るけど、まだおやすみなんだから。休もうよ、メーシャ」
「うん。……あーあ、俺たちもしかして、休むの下手だったりするのかな?」
つい、時間があるんだからって思っちゃうんだよね、と首を傾げて苦笑するメーシャに、ナリアンはしっかりと目を合わせて頷いた。分かる。とてもよく分かる。そして時間があるのだから、と普段できないあれやこれをしてしまわなければ、と思ってしまうのだった。ロゼアの腕でもちゃもちゃしながら、だからふたりともお仕事でお忙しくなっちゃうですううぅ、とソキが言う。きゅ、とナリアンが口唇に力を込めて遠い目をした。
「……いけない。うん、いけないよ、メーシャ。俺たち、ちゃんと休むことも学ばなきゃ」
さもなくば早晩、メーシャもナリアンと同じ運命を辿らされかねない。ストルがそれを許すとは考えにくいものがあったら、王宮魔術師はどこも人手不足である。ちょっとだけだからあぁあ、と拝み倒されて断り切れないなんてことが、ある可能性は高かった。こちらが申し出ても断られることもあるけどね、とメーシャが肩を震わせるのは、砂漠の王宮魔術師たちの忙しさを、見るに見かねた四人が手伝えることはありませんか、と聞いた後だからである。
返答はきっぱりとしたものだった。ごめん気持ちはありがたいけど、ちょっと難しいから大丈夫。ありがとうね、待っていて。砂漠の王宮魔術師たちは一様にそう口を揃え、あっでもソキちゃんにがんばれがんばれって応援はして欲しいなありがとう思ったより可愛くてすごくて召されそうがんばる、と言ってまたどこかへ走って行った。もちろん、四人は全員が『学園』所属の魔術師のたまごである。関わらせることができないものも多いだろう。
しかし雑務も断られたとなると、本当に戦力外ってことかな、とやや落ち込むナリアンに、考えた末で結論を出したメーシャの言葉が、花舞と砂漠の忙しさの種類について、である。親友を慰めついで、情報収集と分析も兼ねていたのだろう。砂漠は休暇中に滞在して、王宮魔術師たちにかまわれてもいた分、見知ったことや感じることも多かっただろうし。休もうねー、と言いながら、ナリアンが駒をひとつ先に進める。
とりあえずこれを終わらせてからにしよう、という意思に、メーシャは逆らわず頷いた。なにを焦らなくとも、時間はまだまだたっぷりある。なにせ先程も部屋の前の廊下を疾走していった魔術師が、あと五時間あと五時間でなんとかなるかと言われるとちょっとどうああぁあああって感じなんだけどなんとかするからごめんねごめんねゆっくりしていてねぇえええええ、と叫んで行ったからである。縮まることはないんだろうな、と誰もが察した。
ロゼアはソキを片手でしっかり抱え上げたまま、ごとごととちいさな机を移動させ、それをふたりの傍らに置いた。机を挟んで椅子がふたつ。その片方にソキを座らせて、ロゼアは机の上にささっと遊戯盤を整えた。ぷ、ぷ、ぷぅ、と不満げに頬を膨らませたソキが、メーシャの腕をつむつむと突く。
「ねえねえメーシャくん? ソキのぉ、助けがぁ、欲しくなったでしたらぁ、すぐにお声をかけてくださいですよ。すぐですよ。約束ですよ。絶対ですよおおぉお」
「うん。ありがとう、ソキ。ロゼアと遊ぶんでしょ? 集中してあげようね」
「二回か、三回くらいしたら散歩に行くけど、ふたりはどうする?」
一緒に行こうかな、とナリアンもメーシャも頷いた。ソキはその答えに嬉しげにはしゃぎ、もそもそと椅子に座りなおすと、ロゼアに向かい合ってぺこりと頭をさげる。ロゼアちゃん、よろしくお願いします、と礼儀正しく告げたソキに、はいよろしくお願いします、可愛いな偉いなさすがだなソキ、かわいいな、とってもかわいいな、と心から告げて。ロゼアは心穏やかに、遊戯盤に向き合った。
廊下の端から、またぱたぱたと誰かが走ってくる。あぁああいまわたしなにをしてるんだっけ仕事だっけ仕事とはなにをすることだっけ仕事だねいぇえええい、と混乱しきった声が響くのに、ロゼアは思わず肩を震わせて、笑い。さっそく集中して、きゅぅ、とくちびるを尖らせるソキに手を伸ばし、その愛らしい形をふにふにと撫でた。
五時間二十五分は五時間にしちゃってもいいんじゃないかなぁごめんねごめんねほんとごめんねっ、という王宮魔術師渾身の叫びと謝罪にこくりと頷いたのは、ソキが物分かりの良いいいこだからである。また、五時間となる数分前。彼方でなにかが割れる音と共に響いた、おぎゃぁあああああっ、という叫びが、純粋な事故発生を物語っていた為でもあった。どうも花瓶を吹き飛ばして、水をまき散らしたあげくに割ったらしい。落ち着き、反省、深呼吸、と書かれた紙が、王の執務室、その出入口となる扉に貼ってあった。
四人が訪れた夕闇の気配漂う王の執務室は、混沌とした空気に淀みながらも、一応の落ち着きを取り戻しているように感じられた。室内で作業をする人の数は多かったが、誰も彼もが落ち着いた顔つきでゆったりとしていたし、話す言葉も急かす雰囲気を感じさせない。四人とは入れちがいに、お待たせごめんねもう大丈夫、またね、と笑って出て行ったラティの態度からも、完全に終わっていないにしろ一区切りついたことが察せられた。
砂漠の王は、ややぐったりとしてクッションの山に埋もれていた。濁点のついた、あー、という声が零れては、室内の空気を微笑ましく和ませていく。近くに行って声をかけてあげてね、と四人は言われたのだが、さりとて相手は王である。疲れてもいるようだし、気後れして戸口の傍、邪魔にならない空間に身を寄せ合って困惑していると、入って来たひとりの魔術師が立ち止まる。すい、と視線が動かされ、砂漠の王と魔術師のたまごを二度、往復した。
なるほど、とばかり笑みが深められる。
「ちょっと待ってね、起こしてあげる。……ふふ、ソキは今日もかわいいね」
「はっ、はにゃぁあああん!」
褒められちゃったですうぅやんやんやんやん、と照れくさそうにもじもじするソキを、隠すように抱きなおしながら。ロゼアは、ごきげんようはやくしてくださいませんか、と色の無い声で砂漠の筆頭に言い放った。安心してロゼアもかわいいよ、と砂漠の筆頭は心からの微笑みで言い放ち。あっメーシャもナリアンも今日もいいこでかわいいね、とさらりと告げてから。ジェイドはすたすたと部屋の奥まで踏み入って、呻く王の傍らに慣れた仕草で身を屈めた。
ぽん、ぽん、と起こす、というよりは寝かしつけでもしていそうな柔らかさで、王の肩が叩かれる。
「はい、起きましょうね、陛下。『学園』に戻る前に、四人が挨拶に来ていますよ」
「……お前も挨拶に来たんじゃないのか」
「俺は四人の後でも間に合いますから。先に、そちらから。ずっと待っていてくれたんですから、ほら、起きてください。……ごめんね、早いうちに、明日にしてあげた方がよかったね。待っていてくれてありがとう」
どうにも今日はちょっと慌ただしくて、悪かったね、と告げる筆頭の声には、やはり深刻さがなかった。筆頭に手招かれるまま歩み寄りながら、ロゼアはもう一度だけ、今日はなにがあったんですか、と問いかけた。ジェイドは目を和ませて笑い、ゆる、と首を傾げて囁いた。
「ちょっとね。大丈夫。怖かったり、痛かったりすることではないからね。安心していいよ」
「……そうですか」
本当に教えてくれるつもりがないのだな、ということが分かって、ロゼアは頷いた。雰囲気からすると、単に魔術師のたまごに緘口令が出ている、くらいのことであるらしい。帰省の許可はあれど、魔術師のたまごというのは、不安定な存在である。情報の規制があってしかるべきなのだ。特に国政に関することならば。ロゼアと同じ結論に、ナリアンもメーシャも、すぐに達したらしい。そして、そうであるからこそ。
あれ、なんで俺は休みの間中、なにをして、あれ、と遠い目で呻くナリアンの肩を、左右からぽん、とロゼアとメーシャで叩いて慰める。
「大丈夫だよ、ナリアン。一緒に講習受けただろ。残りの休みはゆっくりして、来年こそ……もう来年は花舞に戻らないで、なにか別の予定を立てるのがいいんじゃないかな」
「そうしようかな……うん、そうしようかな……。ロリエス先生が許可くれるといいんだけど……」
「担当教員の許可をもぎ取るのも、生徒のささやかな権利のひとつだよ、ナリアン。方法教えてあげようか?」
にっこり笑って囁いてくるジェイドは、ろくでもない先輩であることに間違いない。最終手段として頼ります、と告げるナリアンに、砂漠の筆頭は幸せそうにはにかんで笑った。どうあれ、頼って貰えるのが嬉しかったらしい。すごい、すごいあの、すごい、あの、顔が、いい、すごい、顔がいい、ロゼアこのひと顔がいいよ、と向けられる親友たちの眼差しに、ロゼアは虚無と戯れるような気持ちで、力なく頷いた。常に控えめにいてくれないものか。ありとあらゆる方面で。
ロゼアの腕から滑り降りたソキが、もちゃもちゃと立ちなおして砂漠の王に一礼する。その仕草だけで。極上の麗しさを感じさせる、『花嫁』の振る舞い。
「陛下におかれましては、ご機嫌麗しく。『学園』に戻る前の、ご挨拶に伺いました。お忙しい中、お時間を頂きまして、ありがとうございます。長期休暇の日々は、平和で穏やかなものでした。陛下の治世が、砂漠の金のひかりに満ち溢れるものである、なによりの証拠かと思います。心よりお喜び申しあげ、また、感謝致しております」
「……やればできる。お前、ほんっと、やればできるんだよなぁ……。ん、ありがとうな、ソキ」
「そして! ごけっこん! おめでと! ござい! ま! すぅうう! きゃぁあああんっ!」
握りこぶしで力いっぱい、興奮しながら、これでもか、と叫んだソキに、砂漠の王はふっと笑みを深めてみせた。やればできてたのになぁ、とちからない笑みが零れて行く。砂漠の王は一応の訂正として、結婚はまだしてない、これからだからな、と告げると、ソキに手を伸ばして頭をうりうりと撫でてやった。
「お前らちっとも顔見せなかったが、休みの間はなにしてたんだ? ……いや、顔は見せに来なくてよかったんだけどな。特に今回、それ所じゃないことばっかりだったし。……残りもう少ない日数だが、『学園』ではゆっくりしろよ、ナリアン。俺からも、花舞のには注意しておいてやるから……。『お屋敷』で勉強かなんかしてたと聞いたが」
誰から聞いたんですか、と喉まで出かけて、ロゼアはぐっとこらえて飲み込んだ。砂漠の王の傍らでにこにこと笑う、砂漠の筆頭その人以外に出所などあろう筈もない。可能性の一端として、『お屋敷』に出入りするリトリアやルルクも考えられるが、ロゼアたちの行動予定まで詳しく話した記憶はなかった。つまりは砂漠の筆頭そのひとである。愉快犯、という単語を頭にちらつかせながら、ええ、まあ、とロゼアは曖昧に頷いた。
それ自体は別に、機密情報でもないのだが。ジェイドの前でなにかを話して、絡んでこられるのに抵抗があるだけである。失礼にならない程度、なるべく視線を合わせないでいるロゼアに、ジェイドはふふっと機嫌よく笑った。反抗期で可愛いなぁ、とでも思っているのが伝わってくる笑顔だった。無視したい、と思うロゼアと、楽しそうなジェイドと、あまり面白くなさそうな砂漠の王を、ソキはきょときょと不思議そうに見比べた。
ふんにゃぁ、と疑問にまみれた鳴き声が、ほよほよふわりと漂っていく。
「なんだか? ロゼアちゃんがいじめられているような……? いけないのでは……?」
「ほっといてやれ、ソキ。ややこしくなるから。……あー、それぞれ、担当教員から課題が出てる筈だが。終わってるな?」
珍しい砂漠の王からの助け舟に、ロゼアは即座に頷いた。ナリアンもメーシャも頷き、ソキはしゅぴっと手をあげて、自慢げにふんぞりかえって申告する。
「ソキは、こないだ先生がいらした時に、ちゃぁんと提出しておいたです。百点満点の、花丸満点に違いないです! 他にも、読書だってたくさんしたですし、自由研究もめいっぱい捗ったんですよ? かしこくかわいいソキに磨きがかかった、ということです」
「挨拶の口上以外も頑張ってよかったんだがな、敬意とかな。……まあいいか。よーし、よく頑張ったな。各々、問題なく……終わり良ければ総て良し、ということで、問題なく、長期休暇を過ごせたようでなによりだ。残り数日となるが、問題を起こさず、問題に巻き込まれず、厄介ごとは避けて新学期を迎えるように。気になっているであろう授業の再開だが、いくつかは決定している。『学園』の談話室に張り出されているから、帰ったらまず確認するように。再開未定のものに関しても、順次知らせを出すので、慌てずに待つこと」
「はーい。わかりましたです」
ソキの今後の授業に関しては、ちょっと考えて申請している所だから待っててねー、とウィッシュは言い残して言った。件の騒ぎの最中に実施された、ソキの個別座学における成績が、顕著に良いものだった為である。ソキの性格やこれまでの生活状況を考えても、生徒たちに交じってひとつの教室で座学を受けたり、決まった時間ごとに教室を移動する、ということが、無視できない負荷であると明らかになったのだ。
その為にウィッシュは特例として、ソキの以後の授業の、形式変更を申し出ていた。共通授業、選択授業を問わず、談話室や図書館での単独座学に切り替えること。採点の手間や不明点の質疑応答をどうするか、といういくつかの項目が解決できれば、すんなりと認められる筈である、とウィッシュは言っていた。過去にも同様の事例があった為に、認められない、ということはない筈なのだと。
ソキが迷子になったり、迷子になったり、迷子になったり、行き倒れたりする危険性を考えれば、ロゼアの為にも良い筈だよ、と微笑むウィッシュに、ナリアンもメーシャも深く頷いた。以前と比べて妖精が共に行動しているので、『学園』内で道に迷うことはもうないだろうが、突発的な行き倒れの可能性はまだ残っているのである。ぜひともそうしてもらおうよ、というのがナリアンとメーシャの意見であり、『学園』の生徒たちも、だいたい同じ反応を見せたのだという。
申請に許可を与えたひとりであるから、砂漠の王もそれを思い出したのだろう。呆れと不安と納得の入り混じった奇妙な顔つきでソキを見た後、まあ結果的に終わればいいんだよ、と己に言い聞かせるように呟き、溜息と共に口を開く。
「まあ、いい。各々、知らせはこまめに確認すること。以上だ。……気をつけて帰れよ」
「はい。ありがとうございました、陛下」
「それでは、四人を『扉』まで送って、そのまま俺も出発しますので。陛下、次の戻りまで、どうぞお元気で。あまり周囲を困らせたりなさいませんように。報告はいつもの通りに、書状でお送りします」
砂漠の王は反射的に筆頭を引き留めかけ、心底仕方がなさそうに、ただ無言で頷いた。留守を不満に思う目に、ジェイドはくすくすと笑いを深める。またすぐに戻って来ますよ、と告げる砂漠の筆頭に、どうだか、と王は息を吐き出した。男の言うすぐというのが、半年に一回、一年に一回程度だというのを理解しているからである。御結婚の日が決まりましたら、その時にも戻ります、と笑って、ジェイドは四人の背を押して、王の執務室から退室した。
さあ帰ろうね、と魔術師のたまごたちを促し、ジェイドは旅装を翻して歩き出す。有無を言わさず先導されながら。ロゼアはソキをひょいと抱き上げ、ナリアンとメーシャと共に、その背を追いかけた。ソキがご機嫌にふにゃふにゃ鼻歌を歌う響きが、夕暮れの王宮をやわらかく揺らしていく。それに、幸福そのものの顔で笑みを深めて。ジェイドが立ち止まったのは、『学園』に続く『扉』の前だった。
振り返って。『花嫁』を抱いて、『学園』に戻って行く『傍付き』の姿を。すこしの間だけ見つめて、なにも言わず、ジェイドは『扉』を起動させた。もぞぞぞぞもふっ、と服の間から飛び出してきたましろいひかりが、ジェイドの頬にもうぜんと擦り寄ってちかぺか明滅する。あったんぽぽちゃんですぅ、たんぽぽちゃんまたね、とソキは機嫌よく、シュニーに向かって手を振った。
またね、またね、と言い交わすように、ましろいひかりはふこふこと収縮する。
「ジェイドさんは、これから、たんぽぽちゃ、あっシュニーちゃんと一緒に、どこに行くの?」
「うん? ……ふふ。お仕事だよ、ソキ」
砂漠の国のね、色んな所に行くんだよ。お城からは馬車で行くから、ソキたちをお見送りしたら向かうんだよ、と囁く砂漠の筆頭に。ソキはじぃっと視線を向けて。そうなんですね、とふんにゃり、嬉しそうに甘い笑みを浮かべて頷いた。
「一緒なら、寂しくないです。一緒、よかったねぇ、たんぽぽちゃ。……ジェイドさん。行ってらっしゃい」
息を、飲んで。衝動的に。ジェイドはソキの頬に触れて撫で、泣きそうな目で、うん、と言った。ミードさま、と吐息が呼んだのをロゼアだけが聞き、ソキはきょとん、として指が離れていくのを見送った。なんでもない、とは告げず。視線を合わせず。ごめんねロゼア、不用意に触れたね、気を付ける、と早口で囁いて。とん、と『扉』から一歩、離れ。顔をあげたジェイドは、もう、微笑んでいた。
「……お健やかに」
喉の奥から、押し出すように。告げられた言葉に頷いて、ロゼアはソキを抱いたまま『扉』に足を踏み入れた。ナリアンとメーシャも、失礼します、と一礼してその後を追う。ぱたんと『扉』が閉じるまで見送り、ジェイドはましろいひかりを引き寄せて、頬をくっつけながら目を閉じた。ふ、と息を吐き出して。それでも浮かんだのは微笑みだった。うん、そうだね、と誰にでもなく、『傍付き』は囁く。
さびしく、ないよ。
「……行こうか」
ましろいひかりが、しあわせそうに明滅する。ジェイドはゆっくりと、砂漠の王宮を歩いて行った。