長期休暇が残り四日ともなると、『学園』の空気はやや混沌としたものとなる。慌ただしく戻ってくる者、ようやく終わったと胸を撫でおろす者、課題が終わっていないことに蒼褪めて走り回る者、数日をゆっくり過ごしたがる者と、様々だからである。談話室の空気は、どこか長期休暇のはじめ、出発日のそれにも似ていた。ソキはわくわくしながら周囲を見回し、なにかが終わりながらも、なにかが始まるような予感に胸をときめかせ、目をきらきらさせてはきゃふふっと上機嫌に笑っていた。
そんなソキの傍らに腰かけながら、ロゼアもゆったりと口元を和ませている。ご機嫌だな、ソキ、と『花嫁』にかけられる声は穏やかな『傍付き』の色彩を保っていて、見守るナリアンとメーシャはくすくすと笑みを交わし合った。去年はそうと気が付かなかったのだが、この時期のロゼアは、まだ『お屋敷』の空気を引きずっている。自分が『魔術師』であるという自負よりも、『花嫁』の『傍付き』、ソキのロゼアという意識が強いのだろう。膝にこそ抱き上げていないものの、朝からずっと、傍を離れないでいる。
場所と周囲のひとが変わっただけだもんね、と談話室の定位置、いつもの隅で、メーシャはのんびりとオレンジジュースを飲み込んだ。長期休暇の間中、ロゼアが丹念に丁寧に心行くまでじっくりと磨き上げたソキは、いつもの八割増しでうるうるつやつや、ぴかぴかきらきらしている。『お屋敷』の中にあっては、ソキは今日も可愛いね、よかったね、くらいの感想でしかなかったそれが。談話室にあると、とてつもない存在感、違和感すら覚えさせるのだから不思議なものだった。そこに『花嫁』がいる、と素直にただ、そう思うのだ。
ソキがいる、と思うのと同時に。ともすれば、その意識よりはやく。『花嫁』だ、とメーシャですら、ナリアンですら、そう思う。『砂漠の花嫁』、輝かしい至宝。『花嫁』たるひと。ロゼアがやく二ヵ月かけて丹念に世話をし、磨き上げ、整えた少女は、もはや誰から見ても明らかに『花嫁』であった。普段のソキがそうでない、ということではない。普段は片鱗を感じさせる程度で留まっていたものが、最初から全面に押し出され、ぐいぐいと顔に押し付けられるがごとき決して無視できない強制力すらもって、提示されている。それだけのことだった。
ああ、『花嫁』だ。『花嫁』がいる、ううん、いらっしゃる、と。砂漠出身の生徒たちは殆ど震えながら息を吐き出しそう囁いては、ほんのすこし遠巻きに談話室に座し、夢見心地でメーシャたちのいる一角を見守っていた。砂漠ではない国を出身地として持つ者は、ソキを見てぎょっとしたように目をむくか、息を飲むか、まだしも耐性のありそうな砂漠の民の背にさっと隠れて様子を窺うか。だいたい、その三つに反応が分かれていた。
最高級の宝石が、いっそ無防備にぽんと机の上に置かれてそのままにされているような感覚で、いっそ恐怖すら覚える、というのが各々の反応の理由である。その途方もない価値と、触れれば簡単に傷をつけてしまうような柔らかさ、そしてそれが取り返しのつかないことである、ということだけが分かる。どうしていいか分からない、というのが恐怖心の理由だった。ソキは彼らの視線にきょとんとした顔をしたものの、反応に対しては傷ついた素振りもなく、そのまま、特になにもしなかった。
いいの、と問うナリアンにソキが説明したことによると、『花嫁』慣れしない者の、ごく一般的な反応であるらしい。対処法はない、とソキは教えられている。慣れてもらうしかないからである。時間をかけて、ゆっくりと。うつくしい観賞用の存在が、そこにあることを。慣れ、受け入れてもらうしかないのだと。それを聞いたナリアンは言葉にならない感情に眉を寄せ、メーシャもなにか言葉を探して口を動かしたが、適切なものが見つからず。代わって大丈夫、と告げたのは、結局はロゼアだった。
すこしやりすぎたかな、と口では言いながらも、反省も後悔もしていない目で微笑む『傍付き』は、ここには『お屋敷』ほどの設備はないから、と囁いた。そうそう時間も取れないし、環境も、水も違うし。このまま数日もすれば、向こうが慣れてくださるのと、ソキが長期休暇前の状態に落ち着くのとで、つり合いが取れてくると思うから。だから、大丈夫なのだと。それは本当に大丈夫と言っていいことなのかなぁ、という視線をナリアンとメーシャは交わし合ったが、言葉を重ねることはなく。
かくして、この数日というもの。『学園』の談話室には、殆ど無防備に『花嫁』の姿があった。しかも、物珍しい雰囲気にたいそう上機嫌な状態で。そんなソキを見て、しあわせそうにする『傍付き』を添えて。砂糖とは毒である、というのが、ここ数日の『学園』の総意であった。いっそ息苦しいくらいの穏やかさ、甘さであるのに、なぜだか意識を絶対に逸らせない。かつ、距離も取っていられない。気が付けば談話室にいてしまう。すこしでも、その姿を。見ていたいと思う。気が付けば、ただ、ただ、そうなっている。
洗脳よりもごく穏やかな。誘引、と呼ぶのにふさわしく。魅了とするにはまだ弱く。薬とするより毒のように。『花嫁』の、魔力を伴わない芳香が、あまやかに場を支配していた。ロゼアはともかく、ソキはそれに気が付いているのかいないのか、まったく普段通りの態度である。膝に開いた本に視線を落とし、かと思えばきらきらとした目で顔をあげてはきょろきょろし、ロゼアにやんわりと窘められては読書に戻る。その繰り返しで、とろとろと時間を消費していた。
ソキの予定は、今日も読書であった筈だ、とチェスを打ちながらナリアンとメーシャは確認しあった。長期休暇中に浮上したソキの『 』が上手く戻らない問題を解決すべく、『学園』に戻って来てからもせっせと文献を紐解いているのだった。進捗は悪くはないが、どうにも芳しくないらしい、という所感である。ソキが癇癪を起したり拗ねたりしていないだけで、成果に結びつくまでには至っていないのだった。妖精たちも、『花園』から戻らないままである。ソキの妖精でさえ、終ぞ姿を見せることはなかった。
なんでも長期休暇が終わる前の空気はたまごたちの魔力の欠片で混沌としていて、下手をすれば体調を崩してしまいかねないらしい。魔術師の契約妖精であれば特に影響を受けないでいるらしいのだが、面倒見の良い花妖精は、どうも同胞たちに付き合って、ゆったりと花園に引きこもっているようだった。ソキはうわきではないのですか、と頬を膨らませてぷんすか怒ったが、探しに行く程には切羽詰まってもいないようだった。お戻りになるのを待つんだもん、と言って、『 』の情報を集めるのに意識を注いでいた。
ソキ本人は気にしていないようだったが、ロゼアにとって誤算だったのは、その情報収集に手助けができないことだった。ウィッシュはソキの担当教員であること、また『花婿』であるから感覚的になにか掴めるものもあったのか、それとなく助けることができたようなのだが。なにせソキ自身が、なんの情報が足りず、なにか必要で、なにを探せばいいのかを分かっていない状態であるのだ。なんとなく、この本にあるような、気がする、で一冊に手を伸ばし。なんとなく、手探りで文面を追っていく。うちに、ほんの一行、ひとつの単語がひっかかる。
それは答えそのものではない。答えに辿り着くための布石であったり、あるいは道筋、入口であったりする、程度のものだ。そこから、また深く深く手探りで探して行き、ようやくたどり着いた砂粒程の情報が、ソキにとっての砂金になる。その砂金を、ソキがどう使用して『 』と成すかを、本人が説明できないままに。ひたすら、それを集めなければならない。途方もない作業だった。今どれくらい集まっていて、あとどれくらい必要なのかも、分からない作業。もはや終わるものなのかすら、定かではないことを。手伝えないのは苦痛なのだろう。
ロゼアはうんうん唸って読書をするソキを愛らしいと眺める一方で、時折。削られるのを痛がるように、ふと眉をしかめて視線をさ迷わせた。ロゼアの心痛は、癒される傍から積み上げられる一方である。どうしてあげればいいんだろうねぇ、と呆れ交じりに、それでいて真剣に悩みながら。ナリアンとメーシャは同時に、ふと、談話室の扉に視線を向けた。ひとが集まっている。誰かがまた、戻って来たのだろう。
あ、と声を漏らしたのはナリアンだった。旅装を纏って立っていたのは、見知った顔だったからである。視線を追ってその姿を見つけ出したメーシャが、納得したように頷きながら言う。
「ルルク先輩と、アリシア先輩だ。帰って来たんだ……予定より遅いよね。なにかあったのかな?」
生徒たちはみな、予め提出した日程に従って帰省する。長期休暇の枠を超えなければ、その予定を破っても咎められるようなことはないが、ルルクにしては珍しいことだった。ひとが集まっていることもあり、珍しがる、とするよりは不安そうに呟くメーシャに、ナリアンはそうだね、と頷き。それでいて真剣な顔で、首を横に振った。
「でもルルク先輩のことだから。聞かないでいようよ、メーシャくん。巻き込まれると、ことだし……」
「そうだね、そうしよう」
「残念ながらー! 聞こえてるんだなー、新入生たちー! はーい! お待ちかねの先輩ですよー! ルルクですよー! なんと今ならアリシアもついてくるー! やったー! ただいまー! おーい! ただいまったらー! ねえねえー!」
騒がしい、を通り越してけたたましい。ソキという『花嫁』がそこにいるのをしっかり認識して、なおその騒音めいた声ではしゃげるのだから、談話室中からぎょっとした視線すら向けられていた。ロゼアは微笑みながらもそっと額に手を押し当て、減点だの基礎が、だの呻いていたが、ソキはきょととっ、とあいらしく目を瞬かせ、嬉しげにきらきらと輝きながら、ルルクの名を呼んで手を振り返した。
「あっ、ルルク先輩ですぅー。おかえりなさーいです。遅くなっちゃったならぁ、ソキに教えてくれないといけないでしょ! んもぉー。いーい? 先輩? 遅くなっちゃったお話を、ソキにして? ねえねえ。こっちに来てくださいですー!」
「はーい。ソキちゃん、ロゼアくんも、おやすみゆっくりできたみたい? わー、ソキちゃんかわいいねー! 最高に目が幸せな感じ! 世界にありがとう感溢れてるー!」
なんでコイツあの状態のソキに普通に受け答えできるんだ、という畏怖の入り混じった視線を浴びても、ルルクはちっとも動じなかった。それ所か、あっいま注目浴びてるしちょうどいいや、と言わんばかりのけろりとした顔で、戸口に立ったまま両手を音高く打ち合わせる。
「はーい、注目ちゅうもーく! 皆、ただいまー! ルルクですよー! ということで、ここで報告があるんだけど、結婚しましたー! いぇーい! お祝いしてー!」
「なんて?」
「えっ? いやだから、結婚したの。結婚。祝って?」
思わず、と言ったように近くにいたひとりが突っ込むが、ルルクは平然として再度そう告げた。結婚、けっこん、と何人かがその単語を口の中で繰り返し、ロゼアがさっとソキの耳を両手で塞いだと同時、轟音と振動の域に達した悲鳴が、幾重にも入り混じりながら談話室を貫いて行く。若干迷惑そうな顔をするルルクに、ひとりが掴みかかるように問いただした。
「だっ、誰と! 誰がっ?」
「は? 私と、アリシアが。……あ、いけない、間違えちゃった。結婚ね、することにしました、祝って? だった」
「あぁああああ違いが完了形か進行形かの違いしかない訳なんだけどなんていうかそこじゃないそこじゃなくてそこじゃなっ、ああぁあぁあああ」
なんでそんなことに、長期休暇でなにがあったのっ、と渾身の叫びが響き渡る。なにがって、とルルクは顔を真っ赤にして両手を押し当て、積極的な肯定はせず、けれども否定もしないアリシアの腰を抱き寄せると、平然とした顔で言い放った。
「アリシアが引きこもりを辞めて部屋から出てきた以上、はやく手を打っておかないといけないでしょ? なに言ってるの?」
「いやお前がなに言ってるのなんだよなぁ……!」
「え? 同意? 同意あった? ほんとに? それは言質ではなく? え? 許可は? 王の許可は頂いたの? なにがどうしてこうなったの? 過程をすっ飛ばして結果だけ教えてくるのやめよう? 待って? 話がつかめないというか? なにもかもつかめないんだけど?」
アリシアは照れ切った弱々しい声で、ひとまえで抱き寄せないで、とルルクに訴えている。ルルクは怒涛の質問にも、アリシアの訴えにも全く答える気がない顔をして、まあそういうことだから、と言い放った。
「わたしの旦那様に言い寄ったりしないでね! よろしくー! はい、解散! ソキちゃん、いま行くねー」
「えっと……? アリシア大丈夫……? どういうことなの……?」
「だい、じょうぶ……ええと、その……便宜上、その、あみだくじで……?」
どっちが旦那で、どっちが奥方かを決めたのだという。またあとでねー、と離れていくルルクを見送るアリシアに問いかけたひとりは、うん、と空ろな顔をして頷いた。そうじゃない。そこではないのだが、とりあえず、無理にされたことでもないらしい、と察して、胸を撫でおろす。よかったね、と向けられる声は疑問形であっても、お幸せに、と告げる言葉は、誰もが心からのものだった。輪唱のように。幸せにね、と言葉が響いて行く。その中を潜り抜けるようにしてやってきたルルクに、ソキはちょっとくちびるを尖らせて。
「ルルク先輩? 結婚? するのぉ?」
「うん! いぇーい、新妻(仮)です。よろしくね!」
かっこかりって口に出して言うのすごいよね、という周囲の視線をものともしないルルクに、ソキはふぅーんですぅー、と言って頷いた。不機嫌、とはすこし違う。興味関心のない。つとめて、それを持とうとせず、感情をすこし遠くに置いた。そんな響きの声をしていた。
そもそも、五ヵ国の中で同性婚が法律で許可されているのは砂漠だけである。ルルクとアリシアの出身は砂漠ではなく、楽音であるから、結婚しますはいそうですか、と出来ることではなかった。まして魔術師である。王宮魔術師であれば所属する国の王の物であるから許可はひとりで事足りるが、『学園』在籍の魔術師は、どの国の物でもないからこそ、結婚には五ヵ国全ての王の許可が必要と定められている。許可が必要な理由は、ごく単純だ。伴侶を最優先としないことを、忠誠と共に誓わせる必要があるからである。
魔術師は王の物である。有事に優先すべきは王と、王の守護する民である。国であり、人であり、個人ではない。己の恋情の向かうひとではない。それが誓えるか。それを決して違えず、己の意思と感情を切り離し、それでいてまことの忠誠を、心からの献身を、己の王に捧げられるのか。そのことが認められてようやく、魔術師の結婚許可というのは下される。そうであるからこそ、例えば故郷に婚約者を置いて『学園』に来た、という特殊な事情を除いて、魔術師が結婚を申し出るのは、『学園』を去り王宮魔術師となってからが通例だった。
ただただ純粋に、果てしなく面倒くさくかつ高難易度の審査が、五回から一回に減る為である。ルルクがそれを知らぬ筈はなく、アリシアも理解していない筈はなく。『学園』は祝福に溢れながらも、かつてない騒ぎに陥った。そもそも、魔術師のたまご同士の結婚願い、というのは前例がない。手続きの複雑さを誰もが理解しきっているから、せめて片方が王宮魔術師になるまで待つものだからである。申請された王たちも、口ではおめでとう、喜ばしいと言いながらも、そっと頭を抱えたのだという。それで帰りが予定より伸びたのだと。
許可自体はすんなりくれると思うのよね、とルルクは言った。各国の王の性格からしても、それは明らかなことである。星降の王はおおはしゃぎで心から祝うことだと飛び跳ねたし、花舞の女王はくすくす笑いながらもおめでとうと告げ、楽音の王は僅かばかり申し訳なさそうな顔をして法律を改正しようと約束を交わし、砂漠の王はお前らこの時期に問題ぶちこみにくるんじゃねぇよと天を仰いで呻き、白雪の女王は混乱してえっ決闘した方がいいかなちがうかな新婚旅行はうちの国とかどうかな、と言ったからだった。
問題は、ルルクとアリシアが、伴侶を置いてでも王の元に駆けつける忠誠を示せるか。それを認められるか、否か。恐らくは、それだけだった。五ヵ国の、どの国の王宮魔術師として召し抱えられたとしても、同じように。王に忠誠を捧げ、ひとを愛し、国を愛し、まことの献身を捧げ、有事の際にはそれを第一優先として選び取れるのか。試験がある訳ではない。明確な基準があるものでもない。それは王の判断ひとつによって決められる。物の謀反は許されない。裁定ははやくとも、数ヵ月先にしか下されない。
魔術師の中には、結婚という道を選ばない者もいる。エノーラは特殊すぎる例だとしても。魔術師ではない、人に恋人を持つ者の中には、あえてそうせず、寄り添うことを選ぶ者もいる。それは愛と忠誠を天秤にかけて、後者が勝ったのだ、と王が告げることだからだ。なにかあった時に、選ぶのは王とその民であると、己にも伴侶にも突き付ける行為だからだ。伴侶を第一として選び取ることができず、そうしない、という宣言であるからだ。魔術師の結婚とは、単なる法律的な許可以上の意味を持つ。
『学園』中を、電光石火に駆け抜けて行ったそれら情報を、右から左に聞き流し、ソキはふーん、ふーんそうなんですぅー、とまったりと頷き続けた。興味、ほんとに、ないです、とうるわしい『花嫁』の顔にはでかでかと書かれている。そんなことよりも、ソキは『 』についての情報が知りたいのである。たくさん本を読んで、なんとか新学期までに、もうすこし情報に辿り着いておきたいのである。ルルクのそれは喜ばしいことで間違いはないのだが、魔術師の結婚、ということに意見を求められても、うまく言葉を成すことができなかった。
ロゼアの目が届かない女子風呂で、ソキが繰り返し繰り返し『それ』を問われるたび、じわじわ、じわじわ不機嫌になって行くのを察したのだろう。間に入って止めたのは、他ならぬ当人たちだった。アリシアは困った顔をしながら直接聞いて、と少女たちの好奇心を引き受け、その隙にルルクが、ソキをさっと湯からあげて着替えさせる。てきぱきと服を整え、髪を拭い、風呂場から連れ出して湯冷め室へ導く手際は慣れたものだ。時間が早かったからか、湯冷め室には誰の姿もなかった。その静寂が、いまは心地いい。
これ幸いと、ルルクは立ち入り禁止の札を戸口にかけてしまった。とっておきの内緒話をすることもあるから、こうした占有は、暗黙の了解として許されている。さ、これでよし、と告げるルルクが『お屋敷』の世話役と同じ雰囲気を持っていたから、ソキはもう遠慮なく、ぶんむくれた顔をしてソファにでんっ、と座った。ちたちたた、と足を揺らして、思い切り機嫌が悪いことを主張する。苦笑いで隣に腰かけたルルクに、ソキはんもおおおおっ、と癇癪を起した声をあげた。
「なぁああん、でっ! ルルク先輩のごけっこんー、のことをー! ソキにー! きくー! ですかぁあああああ!」
「うんうん。そうだねー。ごめんねー」
「ルルク先輩が御結婚なのは、おめでとうだもん! にこにこしてるのはソキだってうれしいもん! でも、でも、魔術師の、結婚の、御許可とか、そういうの、どうっていうの、ソキ、そき、しないもん! そきけっこんしないもん! ルルク先輩だもん!」
あと数分で落ち着かなければロゼアくんだな、という顔をして、ルルクは『花嫁』の背を穏やかに撫でた。夜にそんなに大きな声出したら、皆がびっくりするよ。しー、と囁けば、ソキは興奮してはふはふ息をしながらも、こくり、と素直に頷いた。むっつりとくちびるを尖らせて、ちたちたと足を動かしている。気持ちが収まらないのだろう。うー、と不機嫌に唸るのを抱き寄せても、ルルクではそれだけで機嫌を良くすることはできなかった。それでも、そのままでいれば、気持ちは落ち着いて行く。
ふすん、と拗ねたようにソキが鼻を鳴らしたので。ルルクはそっと体を離し、改めてソキに苦笑した。
「……嫌だったね。ごめんね」
「んん。やじゃないもん。ルルク先輩はぁ、ソキをぎゅっとさせてあげてもぉ、いいんですよ?」
「ふふ。……ふふふ、そっか。ありがとね」
むっつりとくちびるを尖らせながら、『花嫁』はこくりと頷いた。ふ、と細い息が零れて行く。興奮と不満が落ち着いて、代わりに浮かんだのは不安げな色だった。ああ、どうしようかな、と考えながら、ルルクはその色彩を覗き込む。『お屋敷』で受けた『世話役』の教育、知識から、『傍付き』を呼んでくるのが最適解だとは分かっているのだけれど。ルルクはソキの、先輩だった。魔術師の先輩で、そして。ソキは。ただ、あいらしい、後輩でもあったので。ソキちゃん、と囁いて、ルルクはその冷えた指先に触れた。
ぽんぽん、と温め、撫でるように触れながら囁く。
「ソキちゃん、結婚って、どう思う? 嬉しいことかな」
ソキは。ごく、不思議そうな、とうめいで無垢なまなざしでルルクを見た。ぱちくり、瞬きをして、無言で首が傾げられる。どうしてそんなことを聞かれるんだろう、と『花嫁』の瞳がうたっていた。『世話役』は決して、『花嫁』にそんなことを聞かない。だからこそ。目の前にいる者がなんであるのか、見定めようともするような目をしていた。ルルクは微笑んでその誰何を受け止め、言葉を待った。謝罪はせず、撤回もせず、待つことができた。『お屋敷』ではできなくとも、ここは『学園』であるのだし。
ふたりは『花嫁』と『世話役』ではなくて、同じ魔術師のたまごだからだ。先輩と、後輩で。仲のいいふたりだった。ソキはしばらくルルクを見つめ、ぱちくり、なんども瞬きをして。じわじわと眉を寄せ、おずおず、怖がるように、そっと、そーっと、くちびるを開いた。
「……ソキ、ルルク先輩がうれしいのは、嬉しいです。だからね、だから……嬉しいことだと、思うんですよ。ほんと。ほんとう、です」
「うん。ありがとう」
「陛下のね、あっ砂漠のね、陛下のね、御結婚も、ソキはすごくすっごーく! 嬉しいです!」
とたんに、ソキは頬を薔薇色に染めて目を輝かせた。彗星が空を流れるように。さんざめく喜びを瞳が宿す。それは砂漠の民の、うんと長い願いだった。安らぐ場所を持たないでいた王が、恋しいひとにそれを見出し、番う形で手に入れられたことがほんとうに嬉しい。陛下の結婚式をソキは絶対に応援するですっ、それでお祝いもするですし、こっそり遠くから見られちゃったりすることもあるかも知れないですっ、はうーはうーっふにゃあにゃっ、ときゃらきゃら笑ってはしゃぐソキを、うん、と微笑んで見つめて。
ルルクはそっと、問いを差し出した。
「ソキちゃんは、結婚って、どう思う?」
「……みんなが、にこにこする、嬉しいことですよ」
「うん。それはソキちゃんの気持ちじゃないよね。……いいんだよ? どんな風に感じても」
気持ちは自由だもの、とルルクは苦笑しながら囁いた。数多の制約を持つ魔術師であっても、自由な思考が禁じられている訳ではなかった。気持ちは自由だ。感じること、思うこと、そのものを許されない訳ではない。時に、嫌だ、とすることを、許されなくても。嫌だ、と思うことは、咎められない。ソキは、だって、でも、と言いかけて、はくとくちびるを動かした。戸惑い、恐怖に震えながら揺れる目が、言葉を待つルルクを見つめ返す。大丈夫、と囁くように、ルルクはソキに微笑み返した。
推測するのはあまりに簡単で、問いかけるならすぐ出来た。それでも、ルルクはただ待った。ソキは、やがて、ゆっくりと口を開く。
「ソキ……。ソキは、しない。もう、しないです……。うんと、ながいこと、いやだったもん……。でも、でも、ソキがいやだったことは、ふつうは、うれしいこと、だもん……。ソキが、ソキ、ソキはいや、だけど……ソキは、いやだけど……陛下とか、ルルク先輩が、それが嬉しいって、思って、にこにこ、してるのは、嬉しいもん。ソキも嬉しいもん。ほんとだもん。ほんと、ほんとなんですぅ……」
「……そっかぁ」
ルルクは手を伸ばして、ぞっとするほど滑らかに整えられた、ソキの頬をゆっくりと撫でた。そのふれあいに、なにかを許されたかのように安堵して、ソキはほわりと笑みを浮かべる。ああ、難しいなぁ、とルルクは冷静に思った。『お屋敷』で学ぶ『世話役』のひとりとして、ルルクはそれを、ソキが許すのが今後も非常に困難だと知り。魔術師のひとりとして、それを悔しいと、思う。悲しくはなかった。ただ乾いた、怒りのような感情がそこにあった。
いいんだよ、と言ってしまいたい。もういいんだよ。あなたは、私たちは、生まれた場所から遠く離れて、育った所から遠く、引きはがされて。自由な鳥籠から、鎖された花園に移送されてきて。わたしたちはなにも変わらなくて。変われなくて。だけど。だけど、もっと、許してあげて欲しい。言葉にするのは簡単だ。ただ、声にして告げればいい。言い聞かせるのは一番楽だった。胸のつかえは取れるだろう。晴れた気持ちになれるだろう。ルルクだけが。それを自己満足だと知っている。
届きもしない言葉は無意味だ。一方的に、押し付ける感情になんの意味があるだろう。正しさは受け止めるひとによる。魔術師は、己が心に抱いたものを正義と呼んで、それに準ずることを奨励されはするけれど。その形はひとそれぞれだ。誰かに押し付けて良いものではない。ルルクは慎重に息を吸い込んで、吐き出して、じっと見つめ返してくるソキを見た。怖くないよ、と言ってあげたい。誰かと同じように、ソキちゃんにだって、それは嬉しいことでもいいんだよ。
嬉しい、と思っても。ロゼアくんがそれを悲しむことなんて、決してないんだよ。
「……ねえ、ソキちゃん。いまはひとつだけ、これだけ、覚えておいてね」
ルルクの言葉は、あるいはソキに届くかも知れない。言い聞かせれば、そうなのかも、と考え直してくれるかも知れない。けれども、それでは、駄目なのだ。周りから与えられる言葉を、ソキは素直に受け止めすぎる。そうあるように整えられてしまった。そして無自覚に、意識的に、聞かされて受け入れた意思を、ソキは正しいことだと思い込む。正しいことを与えたいのではなかった。間違いだと感じることを、正したいのでもなかった。ただ、ルルクは、乾く怒りを覚えるほど、悔しさに息を詰まらせるほど、ソキに。ソキの。
ソキの、想いと、言葉が、欲しかった。他の誰でもない。他のなにから得たものではない。ソキ自身の。想いと、言葉は、失われずにあるものなのだから。
「私は、ソキちゃんの味方だから。……ソキちゃんにね、反対したり、怒ったり、止めたりすることも、きっと多いと思う。でもね、それは、味方じゃないってことじゃ、ないの。いつか、きっと、分かるから。それまで、どうか、覚えておいてね」
「……味方?」
「うん、そう。味方。……助けてあげる。必ず」
いつもじゃないよ。でも、もし、ソキちゃんが。私に手を伸ばして、助けてって求めてくれたら。その時は必ず、あなたのことを助けてあげる。そういうことだよ。忘れないでね、と笑うルルクを、ソキはじーっと見つめ返して。こく、とあどけなく、ゆっくりと。真剣に、一度、頷いた。
「……ルルク先輩は、なんだか」
「うん?」
「メグミカちゃんに似ているです」
でも、でも、ソキは似ているからルルク先輩が好きなんじゃないですよ。ルルク先輩が、ソキの為にとっても頑張ってくださってて、それで、それで、そういうのじゃなくても、ううん、と。言葉を探しながら、上手く表せずに。つむん、とくちびるを尖らせられたので、ルルクは破顔して、声をあげて笑った。ああ、じゃあ、覚えておいてね、と言葉を重ねる。『学園』にも、『お屋敷』にも。ソキちゃんがそうやって心から、まっすぐ、信じていられる味方がいるんだってこと。ロゼアくんじゃなくても。
ね、と微笑まれて、ソキはまたこっくりと頷いた。す、と意思を乗せない反射的な動きで、ソキの視線が戸口を向く。そこに誰の姿もなかったけれど、苦笑して、ルルクはソキの手を取って立ち上がらせた。恐らくもう数歩の距離に、ロゼアがいるのだろう。今のお話はふたりきりの内緒ね、と告げると、ソキは嬉しげにきゃぁっと声をあげて。もっちろんですうううっ、と内容ではなく、ただふたりきりの内緒、を喜んできらきらと笑った。
そもそも、と。ソキは、結婚ということはなんぞや、を考え、むっつりとくちびるを尖らせた。結婚とは永遠の別離である。そして、所有されることである。大前提としてロゼアとの別れがあり、その先には所有されること、がある。義務であり、責務だったことだ。そこに、誇りを果たす喜びがなかったといえば嘘になる。砂漠の民を救うこと、王の為の力となること。捧げられた献身に正しく報いること。そうする為の方法で、手段が、ソキの結婚。そういうものだった。
喜びも誇りも感じていた。ただそれを凌駕する勢いで、単純に純粋に嫌だっただけである。なにが、と問われれば、ロゼアとの別離が。そして、所有されることが。順番を考えれば、一番にそれはもう嫌だったのはロゼアに会えなくなることである。そしてその後、ロゼアがソキではない相手と恋に落ちて結婚したりなんだりすることである。そこにソキはいないのに。それはソキではないのに。ソキがどうしても欲しくて、得られなかったロゼアの好きを、与えられる相手がこの世のどこかにいるだなんて。到底受け入れられることではなかったのだ。
所有に対しての拒否感は、昔はそうは強くなく。嫌悪感が跳ねあがったのは恐らく、旅行に出てからのことだった。所有されること、が、どういうことなのかを。理解してしまってからのことだった。ソキは度々、旅行先で事故にあった。今にして考えれば、いくらかは仕込まれていたこともあったのだろう。反応を見られていたのかも知れない、と思い至れぬ程、ソキはものが分からない訳ではなかった。仕上がりを観察されていたこともあっただろう。なにに対して、とすれば、恐らくは。褥で体に触れられる。そのことに対して。
それでも、いくらかは、本当に事故だった。見張りや護衛を振り切って寝室にかけてきた者たちが、『花嫁』がそこにいるのに殺気すら放って周囲を怒鳴りつけ、ソキを大事に抱きしめてくれたことは、幾度もあった。万難は排されていなかった、ということではない。恐らくは『お屋敷』の想定をはるかに凌駕して、ソキの魅了が強かった。それだけのことだった。こと、魅了する、という点において、ソキは桁外れに存在が強かった。魔術師としての質が関係していたのかは、今ではもう分からないことだ。
けれども、ソキの魅了は魔術に関することではなく。ただ存在としての質が異なっている、ということは、『学園』でそれとなく知らされていたので。ウィッシュも、魔力を伴うものなら、もっと変質の範囲が広い、と言っていた。無制御のそれであるなら、つまり、人数と規模が違うのだ。ひとり、ふたり、ということにはならない。魔力を伴う無制御のそれなら、都市ひとつ、簡単に飲み込んでしまう。制御を失った魔術の怖さはそういうものだよ、とウィッシュは言った。だからこそ、『学園』に集められて整えられるのだと。
それはつまり、『学園』に入る前のソキにウィッシュがうっかり告げた、魅了に関して、の誤解を丁寧に解く説明だった。特に未熟な予知魔術師の言動は、その全てが魔力を帯びる。それはある程度、どの魔術師のたまごでも同じことではあるのだが。ソキは特に希少な適性を持っていたが為に、ようはウィッシュに過保護に不安にされていたのだった。言葉に気を付けなくてはいけないよ、と。それは同じ『花婿』であったからこその、忠告であったのかも知れないが。ソキの心に残り続けた、ちいさなちいさな棘でもあった。
もしも、ロゼアの感情が。好き、と言ってくれる言葉が。予知魔術師の魅了に由来するものであったのならば。その不安は『傍付き』に寄せる『花嫁』の信頼の前では無意味で、殆ど形も成さないものだった。しかし、時折。忘れられずに、ふと影を落とすものでもあった。もしも、もしも。ほんのすこし。魔力に由来するものであったなら。そうであっても、それを嘘だとは思わない。ロゼアのくれた、本物の気持ちだ。仮定がどうあれ。ソキはロゼアからもたらされる気持ちを、そういう風に疑ったことはない。一度も。
ただ不安に感じたのは、それをロゼアがどう思うか。そのことだった。ロゼアの意思を無視して書き加えた想いを。ソキがそんなことをしていたのだと。もし、本当で。もし、それが。もし、ロゼアに。伝わってしまったら。その想いを、ロゼアは。嘘だとは。偽りだとは、思わないのだろうか。『花嫁』の信頼は即座に、幾度でも、それを否定した。『傍付き』は決して、そんな風には思わない。けれども、ソキは。未熟な魔術師のたまごだった。己がなにも成せず、不安定で、けれどもなにもかもを叶えられると知っていた。
ソキはその悩みを、深刻には、誰にも相談することをしなかった。ロゼアは決してそう思うまい、と信じていたこともあった。それ以上に、そんなことを、口に出してしまうのが嫌だった。制御のきかない予知魔術師の、もし、は時として世界を書き換える。それでも零れてしまった言葉を、妖精だけが聞き留め、呆れながら怒りながら丁寧に否定するたび。ソキの誰にも見せない薄暗がりは、ひかりを与えられてほっと和らいだ。じゃあ、やっぱり、大丈夫だ。ぶり返すたび、そうして、繰り返し繰り返し。
いまも。
「……ロゼアちゃぁん?」
ロゼアの膝上でくつろぎながらも、考え事をして、むむっと眉を寄せて。もぞもぞと上目遣いに見上げて来たソキに、ロゼアは常と変わらぬ微笑みで、なぁに、と囁くように返してくれた。それだけでほっと、ソキの心は和らいでいく。くふくふ、込みあげてくるしあわせに笑いながら、ソキはぎゅむりとロゼアに抱きついた。首筋にもちもちと頬を摺り寄せながら、ロゼアちゃんろぜあちゃん、と甘えて名を呼ぶ。ロゼアは慣れた仕草で、うっとりするほど心地よく、ソキの髪を手で梳いてくれた。
「どうしたんだー、ソキ。……なんか考え事してるな。なに?」
「んんん。……あの、陛下のね、御結婚とね? ルルク先輩の、御結婚ね。ロゼアちゃんも、うれし?」
もちろん、とロゼアは微笑ましそうに囁いた。夜のしっとりとした静寂の中で、その声はあまく、やさしく響いて行く。ソキはふすすと鼻を鳴らしてロゼアに擦り寄り、一緒の気持ちであったことに満足した気持ちになった。ソキは別に、結婚そのものが全部嫌だと思っている訳ではないのである。ルルクのことは嬉しかったし、砂漠の陛下のことは、これでもかとはしゃぎ倒した。今でも考えると、うっとりしてそわそわした気持ちになる。砂漠の未来に、ひかりを得たような気持ちになる。
ロゼアはとたんにふにゃふにゃと嬉しそうに鼻歌をうたいだしたソキを、くすぐったそうに笑いながら抱きなおした。ぽん、ぽん、と背を撫でながら問いかける。
「御結婚が嬉しいかどうかを、考えてたの?」
「んんぅー……? むー……だってぇ、みんなが、あんまり、ソキに聞いてくるですぅ……」
この一年で、ルルクとソキの関りが急激に深くなった為だろう。結婚そのものに対してどう思うかだけではなく、魔術師のたまごがそうすることの、制度的な意見を求められることが多かった。上手く言葉を返せなかったのは、ちっとも興味がなかったのと、考えたこともなかったからである。ソキにはもう、身近な話題になることはない、と思っていたことだった。砂漠の出身であれば『花嫁』にそれを問うことは避けていたし、普段から話題にのぼるようなことでもなかったからだ。
ロゼアはじっとソキを見つめてから、そっか、とやさしく響く声で言った。
「困ったな、ソキ。明日先輩に、あまりソキに聞かないでくださいっておはなししておくから。もう大丈夫だよ」
「うん……。あ、でもね、あのね、アリシア先輩と、ルルク先輩が、ちゃぁんと助けてくれたんですよ」
ルルクがソキを連れ去ったあとの女子脱衣室で、アリシアはしっかりと釘を刺してくれたらしい。色々と動揺させてしまうようなことをして、長期休暇の終わりに、申し訳ないとは思っているけれど、と。いま、返す言葉を上手く持てないでいるひとに、あんな風によってたかって問い詰めるものではないでしょう。怒っておいたからね、ごめんね、と言いに来てくれたのだ、とソキが伝えると、ロゼアは和やかな微笑みでそう、と『花嫁』の頬を手で撫でた。
「それじゃあ、様子を見てもいいかな……。ソキ?」
「はい。なぁに? ロゼアちゃん」
「ほかに、なにか、辛いことはない?」
なにも。無垢に浮かび上がってくる言葉を口にはせず、ソキは一応、考えてくてんと首を傾げてみせた。つらいことはなにもない。ロゼアに抱き上げられていて、温かくてぽかぽかして、気持ちよくて。ふたりきりで。その終わりを、別れを、考えなくてもいいのが今だ。んー、んんー、と考えて、ないですよ、と頷こうとして。ソキは、あっ、と声をあげてぱちくり瞬きをした。
「ロゼアちゃんがぁ、寝る時にソキをぎゅーっとしてくれないの、つらーいです!」
「ん? いつもぎゅっとしてるだろ。……ほかには?」
「んん、んっとぉー、んーっとぉー……!」
でも、今日はいつもよりうんとぎゅっとして眠ろうな、と告げられたので、ソキは調子に乗っていっしょうけんめい考えた。いつもなら即座に雷を落としてくる、ソキの妖精が不在の今を逃してはならないである。
「だっこぉっておねだりした時に、だっこしてくれないの、つらーいですしぃ……。ロゼアちゃん? って呼んだ時に、ソキ、なぁにって言ってくれないと、つらーいー、ですー。あとねぇ、あとね? あっ、ソキは林檎の飴が食べたいです。いますぐです。食べられないの、辛くてとても悲しいです……!」
「歯磨きしたろ。飴はだめ。また明日な」
「ロゼアちゃんが、ソキに、だめっていったぁ……!」
どうもソキには、断られてもいいワガママを、ロゼアにだめだと窘められるのが嬉しいらしい。きゃらきゃらはしゃいだ笑い声で、とろけるように笑われる。ロゼアはふっ、と笑みを深めて、腕いっぱいに『花嫁』を抱きしめた。きゃうーきゃうーはうーはうー、と蜂蜜みたいなはしゃぎ声がとろとろと響く。
「さ、ソキ。髪も乾いたから、そろそろ眠ろうな」
「ソキの髪が、さらんさらんの、つやつやの、ふわふわになったですぅ……!」
頭に手をぺたりと付けてはにかんだあと、ソキはこれじゃあ髪のお手入れをしてっておねだりして夜更かしができないですぅ、とガッカリした声で呟いた。くすくす、笑いながら、ロゼアはソキを抱いたまま横に転がった。丹念に手入れした『花嫁』の髪を撫でおろし、心から、ロゼアは囁く。
「お手入れ、して欲しかったら、明日しような。今日はもう寝る時間だろ」
「はー、ぁー、いー……。ロゼアちゃん、明日はなにをするの? ソキねえ、図書館行くです」
本の閲覧と、寮からの外出許可をもらったのだという。明日には妖精が戻ってくる気がするのだ、と告げるソキに、ロゼアは戻って来たら行ってもいいよ、と頷いた。明日はあいにく、黒魔術師の授業の準備で集まる約束がある為に、一日傍にいられないからである。ソキは戻って来たら、という所を完全に聞き流している声で、はぁーい、と機嫌よく返事をした。それじゃあ、ご本を読んで終わったら、ソキがロゼアちゃんをお迎えに行ってあげるです、と『花嫁』は笑う。
それは、かつてロゼアが考えたことのない幸福だった。己の居るその場所に、ソキがひとりでやってくるだなんてこと。うん、と幸福に満ちて、ロゼアはソキを抱いて目を閉じた。ふふ、とこそばゆく笑いが零れて行く。ソキはすぐに眠りに落ちた。その寝顔を、しばらく見つめてから。ロゼアは灯りを落とし、瞼を下ろす。寝息はすぐに、ふたつになった。