さっき注意したばかりなのに、またソキはふにゃふにゃと上機嫌な鼻歌を響かせていた。響かせる、という言葉を当てはめるのにためらいが生じるくらいの、ほわほわとした音である。周囲の視線を集めている訳でもないので、放置してやってもいいのだが、と考え。思い直して、妖精はため息をつきながらソキの頭をぺちぺち軽く叩いて言った。
『ソキ。図書館で歌うんじゃないの』
「だぁあってぇー……! リボンちゃん? リボンちゃんが帰ってきたんですよ。帰ってきたんですよ!」
『はいはい。アタシが戻って来たことがそんなに嬉しいのね……』
もぉっちろんですぅ、と目をきらきらと輝かせてソキは頷いた。背の高い本棚の隙間でのことである。朝のはやく。朝食を終えてすぐの時間だからか、周囲の空気はまだきんとして冷えていた。はふはふ吐き出される息は綿雲のように白く染まっていて、ソキがもこもこの手袋やマフラー、防寒具をしっかり着込んでいなければ、訪れることさえ許したくない寒さである。もうほんの五分もすれば図書館勤務の魔術師が暖房の魔術を作動させるから、それまでの間のことにせよ。
空気が温かくなる、五分、十分さえ待てずに。意気揚々と寮をとてちて飛び出してきたソキは、朝から上機嫌のままである。薄暗い寮に響き渡る大絶叫で、りぼんちゃんかえってきたあぁああああっ、と大喜びしてから、延々、ずっと、機嫌がいい。さりとて、不在の間に不機嫌だったという話は誰からも聞かなかったので、これはもう本当に帰って来たのが嬉しいだけなのだろう。きゃぁんきゃぁんとはしゃぎまわって、じっとしていられないくらいに。
食堂で朝ごはんを食べている間も、談話室で図書館へいく準備をしている間も、ソキはとにかく機嫌よくはしゃいでいた。おかげで、食堂でも談話室でも、ロゼアはあまり機嫌のよろしくない寮長に絡まれていたが、ソキがそれを深く気に留めることはなかった。長期休暇で『学園』に戻ってきてからというものの、寮長の機嫌がよくないのは分かっていたからである。なにくれとロゼアに絡んでは、ソキの世話を焼きすぎだ、というようなことを言う。
寮長は長期休暇の間、戻らないでいる組の一人だ。入学してからずっと、例の事件のような急用を除いては、『学園』のある世界の欠片からも出ないでいるのだという。理由は明かされないままで、秘められているものだった。なにかしら事情があることは誰もが理解していて、長期休暇終わりに不安定になるのはよくあることだったから、それを先輩たちから聞かされたロゼアも、上手にいなしては、すこし心痛を重ねて息を吐き、ソキを抱きしめる。その繰り返しだった。
ソキもだから、あまりはしゃがないようにはしていたのだが。妖精が戻って来てくれたことがあんまり嬉しくて、食堂でも談話室でも、図書館でも、我慢ができなかったのである。一週間も二週間も不在にした訳ではあるまいに、とこそばゆさを踏みにじりながら顔をしかめる妖精に、ソキはそんなことないもん、と頬をぷくっと膨らませ、ちま、ちま、と指折り数えながら主張した。
「昨日だって、一昨日だって、その前の日だって、いなかったです! ななななんということです。これは大変なことです」
『特に寂しがってなかったって聞いたんだけど?』
「ソキはちょっと忙しかったです」
でも、リボンちゃんが帰ってきてくれたんでぇ、きゃふふっ、と幸せに身をよじられて、妖精はソキの頭の上で深々とため息をついた。相変わらず、でも、の使い方が一般的ではない。前後の文脈に繋がりが見受けられない。あー、これはロゼアの教育なのかしら本人の言語能力なのかしらロゼアのせいにしておこうかしらロゼアあのヤロウ、と流れるような理不尽で呻き、妖精は図書館に広がる魔力を感じ、ほっと羽根を震わせた。暖房の魔術が起動したのだった。
ソキは目をぱちくりさせて図書館の天井を見上げ、迷うことのない口ぶりで青金、と言った。葉脈。地脈。隅々までを覆い流れていく水のように。呼吸、鼓動のように。図書館に金を帯びた青色の魔力が瞬く間に広がり、流れ、熱を発して温めていく。ソキは眩しさを堪えるように幾度か瞬きを繰り返し、そうしながら、今度はすこしためらいのある口調で黒魔術師さん、のような、と言った。
「おひとり……? じゃないです。でも、おふたりでもないです……? む、むむぅ……?」
『あー、誰もいなくてよかったし、戦時中じゃなくてほんっとよかったわ……。世界平和に感謝する日が来るなんて思わなかったわよアタシは……ソキ、それ、うかつにするんじゃないのよ聞いてる? 聞こえてる? 聞こえてないわね?』
「……あっ、おひとりの魔力の、溜めておいたのを、違うひとが、ほわほわきゅーっ! っとしているです。なるほどー、ですー!」
聞いている妖精にしてみれば、なにもなるほどではない、と天を仰ぎたくなる発言だった。しかしそれにしても、周囲に誰の姿もないことを、妖精は心底安堵する。その術が起動した、というだけで。その魔力の色と性質を捉え、そこから人数を推測し、発動の形まで解析してのける。妖精瞳を持つ予知魔術師としても、感知、解析能力が桁外れにすぎる所業だった。なにせソキは、殆どなにもしていないのである。ただ、見ただけ。それだけで、全てを解き明かしてみせた。
いいこと、と妖精は繰り返しソキに言い聞かせた。
『興味があるのは良いことだけど、あんまり口に出して言ったり、やったりしないのよ? 頭の中で、そーっと考えるだけにしなさい。わかった?』
「ソキの考えが、勝手に口から出ちゃったです。しかたのないことでは?」
『こどもっぽいって言ってるのよ? ソキ。淑女のふるまいとは違うんじゃないの?』
なにをどう言い聞かせるにせよ、今のソキにはこのやり方が一番効く。案の定、ソキは真剣な顔をして口を両手で塞ぎ、こくこくと何度も頷いた。淑女、淑女ですからね、と言ってきゅーっとくちびるに力をこめ、ソキはまたとてちてとつたなく図書館を歩き出した。目指すのは予知魔術師関連の書籍がある棚ではない。それはもう通り過ぎていた。ソキは自由気ままに迷路をさ迷い歩くような足取りで、本棚の間をさ迷っては、またほわほわふにゃにゃ、と鼻歌を響かせた。
三回注意して四回目で諦め、やさしく放置してやりながら、妖精はさあどうしたものか、と腕組みをする。ソキの鼻歌に、ではない。予知魔術師の求める本の所在について、である。ソキが求める『 』復元の手がかりとなる本は、それそのものがある訳ではない。些細な記述を点として集め、線を引き、絵を描く。その為に、とにかく読書をしているような状態だ。途方もなさすぎる、と妖精たちも、話を聞いた教員たちも意見を一致させたが、それでいて有効な手段が見つかる訳でもなかったのだ。
そもそも復元ができないものだからである。魔術師の『水器』とはそういうもので、破損の前例は残されているにせよ、復元したという逸話は過去にひとつもなかったのだ。壊された時点で、魔術師の気が狂うからである。それほどの激痛と衝撃に、どうしてソキが耐え抜いたのか。未だ持って妖精は不思議なのだが、うっすらと、答えを理解してもいた。耐えたのではない。ソキは恐らく一度、途切れ、そして。繋がれたのだ。
太陽の魔力。成長、という性質を持つ、生命そのものに直結するかの魔力が、その途絶えをほんのかすかな空白として、線を繋いでみせたのだ。意図的か、あるいは偶然にせよ、言葉魔術師もそれを利用したに違いない。そうすることで、縁は深くなる。予知魔術師の繋がりも。そして、操ろうとしたであろうロゼアとの繋がりさえも。連れ去られ、壊された瞬間から魔の手はもう離れることなくそこにあって、それを誰もが見逃していた。ああ、よく、逃れたものだ。妖精は冷えたこころを宥めるように、静かに息を吐き出した。
幾重にも重なる奇跡の先を、いまのソキは歩いている。じりじりと続いていた外出制限や、閲覧制限が緩められたのも、その為だった。いったん好きにさせていいのではないかな、という意見が出た為である。もちろん、本人と後世の為に記録は取るし、全部なんでも好きにしていい、という訳ではないけれど。復元の手段、記述を集めるそのことすら、本人の勘でしか辿りつけないとするのなら。こちらにできるのは、見守って導いてあげること。それしかない、として、ソキの図書館への道行、閲覧の許可は下されたのだった。
そうであるからこそ。あー、妖精瞳のことはともかくとして、この桁外れという言葉すら可愛く思えてくる解析能力についてはどうにか隠蔽しないと、と頭を抱えて呻く妖精に。当人はとてちて歩きながら、なんとなく不満そうに、つむん、とくちびるを尖らせた。
「んもぉ、リボンちゃんたら。ソキがけんめいに探しているですのに、褒めもないです……!」
『はいはい、えらいえらい。はいはい、えらいえらい』
「でぇえっしょおおお? うふふん」
雑かつ適当この上ない褒めでも、完璧なちょろさで喜ぶソキを見下ろして、妖精の決意は深まった。本当にどうにかアタシが守ってやらなきゃ、アタシの魔術師であることだし。とりあえず、こちらの意図せぬ記述を残そうとする魔術師は呪っていくとして、と計画を立てはじめる妖精を、器用に頭の上に乗せたまま。とてちて、とてて、と歩きさ迷うソキは、ふ、と一冊の本を目に留めて立ち止まった。
『それ?』
あえて。妖精は言葉にして問うた。魔術師の淡い、期待の入り混じる不安を感じて、その背を押してやる為だった。ソキはうん、と言って頷き、一冊の本を棚から抜いた。白雪の、地形に関する専門書だった。大戦争終結後の、古い学術書。その一部だけを切り取った、写本である。ソキはなぜその本だと思ったのかすら理解していない、オロオロとした視線をさ迷わせながら、本を矯めつ眇めつ眺めやって。あ、と嬉しそうな声を零して、ほっとした表情で本を胸に抱いた。
「ナリアンくんの字です! これ、ナリアンくんの写本では? ねえねえ、リボンちゃん。ナリアンくんの御本ですよ、ナリアンくんの」
『そうね。よかったわね。嬉しいわね。さ、本を読むにはどうするの?』
「明るくて、あったかい所の、お席で! 読むです!」
アイツ、そんな本も写してたのねぇ、と感心しながら、妖精はソキの頭の上で運ばれていく。今日はリボンちゃんはソキにぴとっとくっついてなきゃいけないでしょ、と朝から文句を言う口調でごねられた為である。あたたかいからいいけれど、とのんびり腹ばいになりながら、妖精はすっかり暖かくなった図書館の、閲覧席をぐるりと眺めた。長期休暇の終わり。こんなに朝から図書館に来るのは、ソキのような事情持ちか、あるいは課題が終わらずに追い詰められている者くらいであるから、やはり人影はなかった。
座る所が選び放題、ということですね、と嬉しそうにしたソキは、端から順番に椅子を引いて腰かけては、あっやっぱりこっちがいいかも、こっちもいいかもです、という遊びを五回繰り返した所で妖精に雷を落とされた。日当たりのいい、窓から離れた椅子を選んで、粛々と座りなおす。うぅ、とまだ名残惜しそうに、無人の席を眺めてソキが足を揺らす。
「こんなに座れるのは、きっと、今日くらいですのにぃ……」
『ロゼアがいないからって、すーぐそういうことして……! アタシだって許さないわよ。椅子で! 遊ぶな!』
「遊んでないもん。いっぱい座っただけ、座っただけー、ですぅー」
遊ぶ時はもっとこう、とろくでもない説明をしだそうとしたので、妖精は読書なさい、と言い放った。はぁーい、と素直に返事をしたソキは、机の上にぽんと本を乗せると、きゅぅ、と難しそうに眉を寄せた。
「……なにが書いてあるのか、ソキにも分かる本かなぁ……? リボンちゃん、地形に、お詳しい?」
『それはね? 詳しいわよ。でもそんな昔の本だから、あまり助けにはなれないんじゃないかしら』
「うぎゅううぅ……。とりあえず、読んでみるです……。分からなかったら、ナリアンくんの所に行くです……。きっと説明してくれるに違いないです……!」
写本師は地形の専門家ではないから、どうかしら、と思いつつ、妖精は読書に取り組むソキを見守った。なににせよ、とりあえず、と読み始めるのは良いことである。案の定、ソキは内容が専門的すぎてすぐにうむむと唸ったが、幸いなのは、読み解いて理解する必要がない、ということだろう。分からなくともいいのだ。手がかりとなる、その記述に触れることさえ叶えば。しかしそれにしても、分からない、難しい本を読むのは大変なことである。
ううぅ、むぅーう、と半泣き声でちたちたしだすソキに、妖精はそんなに真剣に読まなくてもいいのよ、と宥めて諭す。
『地形の勉強しようっていうんじゃないんだから。今は流して読みなさい。興味が出てきたら、また今度、勉強の為に読み直しましょうね』
「ううぅ、ううぅ……! こ、これが、意中の彼を手籠めにする百の方法とかだったらよかったですのにいいいいい! あっ、それか、ソキが禁止されちゃった本の中に、ぴんとくるのがあるかもです? ぴぴんとしちゃうかもです! そっ、そんな気がしてきたです!」
気のせいだからこれを読みなさい、と冷静に言い放つ妖精に、ソキがぴぎゅううううっ、と泣き声をあげる。その時だった。困惑交じりの声が、そっとソキを呼んだのは。あの、と控えめに、声がかけられる。
「お、お取込み中……? かな……?」
「あっ! リトリアちゃん! リトリアちゃんですー! おはようございますですよ」
『アンタ本当に……タイミングがいいのか悪いのか分からない時に来るわね……』
えっ、と戸惑う声をあげながら、リトリアはそろそろと椅子に座り、おはよう、とソキに挨拶を返す。周囲にあるのは、リトリアの気配だけである。アンタひとりで出歩いていいの、と確認する妖精に、リトリアはえへへ、と照れくさそうに笑った。肯定でも否定でもなかった。
あまりの怪しさに問い詰めた妖精に、リトリアは素直に口を開いた。なんでも、楽音の生徒が落とし物だか忘れ物をしたことを知った王が届けに行くというので、随行してきたらしい。そう、とだけ呻いて、妖精は額に手を押し当てた。突っ込み所がありすぎて、どこから手を付けていいのかが分からない。分からないが、どうりで開館から時間が経過しても、ひとりの訪れもない筈である。ソキを呼びに誰も走ってこないということは、予定がある者はその通り、自由にせよとでもお触れが下されたに違いない。
『いやそもそも、生徒の落とし物を王が届けにくるってなによ……? あり得るかあり得ないかで言うと、完全に無しでしょうよ……!』
「え、ええっと、その、あのね……? 訪問、視察……そ、そう、視察! 視察なの!」
しどろもどろになりながら、ほら五ヵ国の王陛下は本来なら持ち回りで、半年に一回の視察を行うという取り決めがあることだし、それなの、と告げるリトリアに、ソキは心底不思議そうに頷いた。半年に一回なの、とソキはぱちくり目を瞬かせる。
「ソキが入学してから、はじめてのような……? 砂漠の陛下は一回来られた気がするですけど」
「ちょっと……あの、色んな事件が起こりすぎて、皆お忙しかったというか……そ、それ所じゃなかったと、いうか……。忘れていたというか……と、ともかく! 本当は、本来は! 半年に一度、順番に、陛下が視察に来られるのが習わしなのよ」
『ということを思い出したから、気晴らしの息抜きの口実に使ったんでしょ?』
リトリアは無言で、すっと視線を外して頷いた。そこで無駄な抵抗を重ねないのが、妖精から見た少女の美徳のひとつである。最初から素直に認めていれば、もうすこし可愛げもあるのだが。はー、とソキの頭に腹ばいになったまま息を吐き出して、妖精はうさんくさいものを睨む目で、藤色の予知魔術師を眺めやった。
『で? 王に随行してる筈の王宮魔術師? なーんで一人で出歩いてるのか・し・ら?』
「……陛下が、『そういえばソキに用事があったのではないですか? いい機会だと思って会いに行きなさい。会話の内容は詳しく報告するように。あと楽音に来たいです、ロゼアと一緒に、など言質を取って来るように』って仰るのだもの……。あと、なんだか、寮長の機嫌がよくなくって……怖くて。あんまりお傍にいたくなかったし……」
それに加えて、行ってきて良いですよ、ではない以上、それは王が王宮魔術師にくだした命令に等しい。かくしてリトリアは、諦念と不安と諦めをごしゃごしゃに詰め込んだ目をした同僚たちに見送られ、ソキを探してやって来たのだと妖精に告げた。あの方も本当に自由というか横暴というか、丁寧で穏やかな暴君よねぇ、とうんざりとした息を吐き、妖精はソキの頭をぺしぺしと叩きながら告げた。
『ソキ? 分かっているでしょうけど、どこぞの国に就職したいです、なんていう誘いには乗らないのよ。それこそ、ルルクとアリシアの一件より、しちめんどくさくて大変なことになるんだから。分かった?』
「はーいです」
「あ、そう! ルルクさんとアリシアさんに、お祝いを渡して帰らなくちゃ! お会いできるかな……」
楽音有志一同から、祝福を織り込んだユーカリの、フラワーリースを作って来たのだという。楽音でもふたりの結婚希望については様々な意見があり、騒ぎにはなれど、おおむね好意的に受け入れられているのだという。『学園』と一緒です、とソキは嬉しそうに頬を緩めて頷いた。他の国ではどうなんです、と不安そうに問うたソキに、リトリアは安心させるように笑いかけた。
「同じかな。急な話でもあったから、皆ちょっとびっくりしてる。でも、ふたりは同郷だし、幼馴染でもあるし……色々事件というか、騒ぎというか……うん、これまでも実は、そこそこあった、ことだし……。難しいことはたくさんあるけど、許されるといいねって、思ってるの。私も。それに、ルルクさんは、先日のお願い事については、持ち出さなかったのよ」
五ヵ国の王が、ほぼなんでも言うことを聞いてくれる権利、という絶対的な切り札を、今のルルクは有している。先日の、魔術師大会の優勝賞品である。ソキとリトリアの魔法少女と、ロゼアたちの女装を撤廃して結婚の許可を求めれば、もしかすれば今頃は半ば許可されていたのかも知れないのに。ルルクはそれを口にも、態度にも出さず、正式な手順に乗っ取って結婚の申請をあげて来た。その誠実さは王にも、王宮魔術師たちにも、ただ好ましいものだった。
ずるはいけないですからね、と頷くソキに、妖精は半ば同意してやりながらも首を横に振る。
『いやでもアイツのことだから、それはそれ、これはこれ、絶対に女装は見たいし魔法少女を実現させてみせる、っていう執念よね……。どっちを優先させたとか、誠実にとか、まあそれもあるでしょうけど、ふたつとも諦めたくなかっただけよね……』
「リトリアちゃん、頑張ってほしいです! ソキは見学の係をするんでぇ」
「えっ、ソキちゃんは? えっ」
ソキ、なぁんにも分からないですーっ、と言わんばかりのぺかーっとした笑みが浮かんでいる。あっ読書をしないといけないですー、と言って、ソキはまた難しい地形の本を手に取った。え、ええぇえ、と困惑交じりの半泣き声でおろおろするリトリアに、妖精はまあ言わせておきなさい、と己の魔術師の暴挙を放置させた。
『何回か痛い目見れば学習するかも知れないし、というアタシの希望は捨てさせないわよ』
「ふんふんふー。よくー。わからなーいー、ですぅー。むずかしーいー、ですぅー」
もしかしてこういう時こそ、『よちまじゅつしのでんごんちょう』で先輩たちに助けて頂けばいいのではっ、と目をきらんと輝かせたソキに、リトリアからぎょっとした視線が向けられた。その本の存在は、リトリアも知っている。だからこそ、そういう使い方をするとは考えもつかなかったのだ。いいのかな、と戸惑う予知魔術師に、妖精はどうせ暇してるだろうからこき使えばいいんじゃないかしら、と平然と言い放つ。それにもしかしたら、同じ予知魔術師同士、ソキの成そうとしていることの助けを知るかも分からないのだし。
梯子の上り下りがひとりではできないソキの為に、本はリトリアが取って来た。ソキは、リトリアの手にある時は『予知魔術師の伝言帳』だったのに、触れた瞬間に慌てて『よちまじゅつしのでんごんちょう』に変わってしまった、とひとしきりぶんむくれたが、中身は同じものである。託された予知魔術師たちの残滓に接続し、必要な知識を分け与え、受け継ぎ、享受するものだ。こしょこしょと耳元に囁かれるように、必要な解説が正しくなされ、ソキの読書を助けていく。
それでも、あまりに興味がない分野の本だからだろう。半分も読んだ所ですっかり飽きて、ソキはリトリアにじゃれ始めた。ねえねえ、と甘い声で囁かれるのは他愛ない話と、魔術師のことば。朝ごはんの白パンがおいしかったこと、食堂のご飯はいつもどれもおいしいこと、料理にちょっぴり興味があること、魔術師の『水器』についてのこと、ついに完成したソキの『 』の絵のこと、それにまつわる調べもののこと、手がかりの本はなんとなくぴぴんと来るのでどう選んでいるかの説明ができないこと。
白雪ではまだ決闘騒ぎが続いているらしい、とリトリアは言った。魔術が結婚するということ、その古くから続く制度のこと、なぜ砂漠以外に未だ同性婚が法整備されていないのか、逆になぜ砂漠だけがそれを導入するに至ったのか。その理由が『お屋敷』にあるらしいと聞いて、ソキは目をきょとりとさせ、瞬時に察した妖精はロゼアあのヤロウと今日も理不尽な呻きを空に投げかけた。それはつまり、優秀な人材を集め、また流出させない政策のひとつであるらしい。
『花嫁』『花婿』が『傍付き』として選ぶ異性同性の割合は、平均してだいたい同程度である。そしてどの組み合わせであっても、宝石を見送った『傍付き』が、婚姻そのものに乗り気ではなくなる、といった事態が発生する。そもそも乗り気ではなくなるのだ。だが『お屋敷』としては次世代を、そうでなくともせめて、安定した勤続の継続を『傍付き』に願い、求める。その過程、あるいは結果こそが、ソキの知る『傍付き』のお見合いや、結婚。『花嫁』は知らぬ、『傍付き』婚姻の義務である。
『花嫁』を、『花婿』を愛しぬき、一心にすべてを注ぎ続けた彼らは、その空白に耐えられない。じわじわと精神が均衡を保てなくなる。それを防ぐための、義務としての婚姻。それがソキの知る、見送った者たちがすぐに恋人をつくる、あるいは結婚する、という事情の正体である。そうしなければ『お屋敷』に留まることは許されない。精神の均衡を欠く『傍付き』ほど、危うい存在はないからである。そして、彼らは総じて優秀だ。それらを悪戯に流出させてしまうことは、砂漠の財貨の損失にも直結する。
砂漠が許されたのはそういった事情あってのことであり、他の四ヵ国が未だ異性のみの婚姻に留まっているのは、この世界が狭いからである。世界からの承認により王となる者たちの血が、確実に繋げられていく為の法である。王家の為の政策なのだった。五王は全員、それを理解している。だからこそ、もう王家に限り、のこととして撤廃してしまってもいいのではないか、と意見が出ているのだった。正直に、様々な騒ぎがめんどくさくなってきた、白雪の女王からである。
それが今許されるだけで解決することが八割ある、と言って呻いているのだという。星降も楽音も花舞も、特別に反対する理由もないことから、数年後には五ヵ国で許可されるのではないかしら、というのがリトリアの見通しだった。ふーんですぅー、と極めてどうでもいい、とでかでかと文字を背負いながら頷くソキの頭の上で、まあ好きになさいな、と妖精はあくびをした。好きなら好きで一緒にいればいい。それを許す枠がもうひとつ増えるのなら、それはそれで歓迎してやらぬ訳でもないし。
ソキちゃんはあんまり興味ないね、と意外そうに首を傾げるリトリアに、なにかを言おうとして。ソキは、あっ、と声を発し、きらんと目を輝かせた。好奇心に満ち溢れた、新緑色の瞳。
「リトリアちゃんはっ?」
「え? ……私が? なぁに?」
「結婚するです? どっちとするです?」
えっ、と言ってリトリアが真っ赤になる。え、えっ、と視線をさ迷わせて、リトリアはもじもじと手を擦り合わせた。
「け、けっこんなんて、そんな……そ、その、その、まだ、お付き合いもしていないし……!」
『はぁん?』
「だ、だって! こっ、こいびとになって、ほしいとか、あの、まだ言ってな……い、言われても、いない、し……!」
なるほどー、と目をきらんきらんに輝かせながら頷くソキの頭の上で、妖精は深々と息を吐き出した。あちらはあちらでそれ所ではなかったのだろうし、未だ持ってそれ所ではないのだろうが。そう、付き合ってすらいなかったの、と恐ろしささえ感じながら呟く妖精に、リトリアは顔を赤くしてもじもじしながら、頬に両手を押し当てて力強く頷いた。
「そう、そうなの……! だから、そのっ……とりあえず、はやく、ふたりとも、私のものになって欲しいなって……。……えっ、あ! 違うの! 違うの! わ、私の、予知魔術師の、守り手と殺し手にね! なって欲しいなって! そういう意味でね!」
『このポンコツはホント、ホント言うことが違うわ……』
「ち、ちがっ……! だ、だって、だってえええぇえ……!」
真っ赤になって狼狽えたリトリアが、とんでもない失言を零し続けるのを聞きながら、ソキはうぅん、と首を傾げて考えた。リトリアが、特別焦ったりしていないのが、ソキにはすこし不思議だった。だってソキはこんなにも、ロゼアが欲しいし、一緒にいたいし、離れたくないと思うのに。結婚とかそういうことは、まだ分からないにしても。それでも、ロゼアをしあわせにするおんなのこになると決めたので。もしかしたらいつか、ロゼアがしたい、というのかも知れないし。そうしたらソキは、ロゼアがしたいことなので、きっと、うん、と言うのだし。
でも、そうでなくとも。そういえば、ロゼアは、ソキのものなのである。リトリアがなって欲しい、とふたりに望むような所に、すでにロゼアはいてくれるのだった。だってソキはロゼアの『花嫁』で。ロゼアはソキの『傍付き』で。ふたりは同じ『魔術師』で。これからずっとそうなのに。そこで落ち着いてしまえないのは、どうしてなのだろう。なにが足りないのだろう。なにが、欲しくて。なにが、苦しくて。なにが。なにを、どうして。
どうしてソキはそれだけで、今のままで、満たされてしまえないのだろう。
「……ソキが頑張れば、分かるようになるかなぁ」
すすん、と鼻をすすって。ソキはすっかり飽きた読書に、一生懸命に戻ることにした。ちま、ちま、と文字を読み進めては、分からなくて首を傾げる。そうしながら、時間をかけながら、ソキはふ、とその言葉に辿り着いて。触れて。必要なものを得て、ぱたん、と本を閉じてしまった。よし、また本を探しに行くですぅ、とこぶしを握るソキに、妖精は休憩しながらにしましょうね、と囁き。リトリアは、もうすこしお付き合いしてから帰ろうかな、と微笑んだ。
てちん、とソキはひとりきりではなく、図書館をさ迷い歩いて行く。長期休暇も、もう残り三日となる、騒がしくも穏やかな午前のことだった。
新学期まで、あと二日。壁にぺちりと張った暦表に花丸を書き込みながら、ソキはわくわくと頷いた。長期休暇も、今日と、明日でおしまい。つまり明後日からはついに、新学期。待ちに待った新学期である。冬が終わって春になって、夏がきたら、三年生。後輩だってできてしまうかも知れないのだった。当分、世界が落ち着いてしまうまでは、新しい魔術師のたまごは現れないだろう、とは言われているのだけれど。それでも、可能性が全くない訳ではない。ソキ先輩、とか呼ばれてしまうかも知れないのだった。
先輩。つまりはお姉さんである。ソキはふんすすすっ、と興奮気味にこぶしを握りながら、とてちててっ、と寝台に戻る。脚をゆったりと伸ばして読書をしていたロゼアの膝に、ぽすんっ、と体をくっつけてどうしようですうううっ、と照れくさく訴えた。あと半年でもしかしたら、ソキは『ソキ先輩』になるかも知れないのである。ないわよ安心して落ち着きなさい、とうつろな目で注意してくる妖精の言葉を聞き流して、ソキは柔らかく微笑んで言葉を待っていてくれる、ロゼアをじっと見つめて考えた。
ということはもしかして、ロゼアも『ロゼア先輩』になるし、ナリアンも『ナリアン先輩』になるのだし、メーシャも『メーシャ先輩』になってしまうのではないだろうか。一大事である。
「ろっ、ロゼアちゃん……! ロゼアちゃんが、後輩ちゃんに、お話があるって呼び出されちゃうです……!」
「……うん? ソキ、なんの話?」
「ソキのロゼアちゃんがとびきり格好良くて素敵で、みんながめろめろになっちゃうっていう、たいへんな、たいへんなお話ですううう! ロゼアちゃんはソキの! ソキのぉ!」
頬をうりうりすりりと擦りつけてくるソキに、ロゼアは心から和んだ笑みで囁きかけた。
「うん。俺はソキのだよ。……どうしたんだー、ソキ? なにが不安なの?」
「夏になったら新入生ちゃんがやってくるかも知れないでしょう……? ロゼアちゃんはとびきり格好良くて素敵だから、きっとみんなめろめろになっちゃうです。たいへんなことです……。……ソキ、ちゃんと先輩できるかなぁ……?」
『いいから、そんなありもしない不安を作るより、新学期の準備をしなさい、と言っているのよアタシは!』
恐らくは来年度もその次も、『学園』の人数が増えることはない、と知らせが来たでしょう。星降の陛下の言葉を疑うっていうの、と雷を落としてくる妖精に、ソキはつむむとくちびるを尖らせた。違うのである。疑うとかそういう話ではなくて、もしもの時の話をしているのである。しかしソキがいくら訴えても、妖精がそれを聞き入れてくれることはなく。妖精の苛立ちに比例して、羽根を引っ張られているシディがぐったりしてきたので、ソキはしぶしぶ、しぶしぶ、仕方なく、頷いた。
「はぁい……。ソキ、新学期の準備をするぅ……。ロゼアちゃん? ロゼアちゃんは、なにをしてるの?」
「ん? 教科書を読んでる。予習だよ」
「んー、んー。ソキも、ロゼアちゃんとご一緒に予習をしようかな、です……。ふふ。うふふ! ソキはなんと! なんとですよ? な、なんとー! 新学期から、ちゃぁんと授業を受けられるようになったですー!」
新学期まで残り二日となった本日の朝。談話室には各国から、実に様々な知らせが届けられた。殆どは全体に対するもので、新学期から再開する授業の告知であったり、担当教員からの言葉や必要な道具や準備の指示であったり、未だ休みの担当教員の名や、再開未定とされた授業の一覧などであったりした。それは四つ折りの手紙や、壁一面を覆う大きな紙であったり、大小様々であったのだが、共通していたのは、それが郵便妖精、と呼ばれる者たちの手でもたらされたことだろう。
多くは『欠片の世界』たる五ヵ国に、耐性がある、とされている樹木妖精が担っているのだ、とソキの妖精は囁いた。彼らの仕事はこうした郵便役で、運ぶものは手紙が多く、時には魔術的な物資を届けてもくれるのだという。『学園』に外からもたらされる手紙、荷物は、全てがこうした郵便妖精の手によるものだ。普段は決まった時間、決まった道しか通らず、早朝や深夜が多い為に、ソキはいままで一度も、その姿を見たことがなかったのだが。
妖精たちが群れを成して飛ぶ、その姿は。あまりに綺麗で、うつくしく、目が離せないものだった。きらきらと、微細な氷のように輝く、魔力の色彩が。七色が、万華鏡のように響き合う。すごーいですぅー、とロゼアの腕の中からうっとりと見上げていたソキの元に、はい、と知らせは届けられたのだった。それはウィッシュからのもので、各国の王が許可したことを示す、正式な印鑑と名が書き連ねられたものだった。許可証で、つまりそれは、実質、魔術師のたまごに対する命令書に等しいものだった。
なになに、とナリアンとメーシャも覗き込んでくる中でソキが読み上げたのは、新学期からの予定表だった。主に授業に関することである。曰く、ソキは集団行動による授業ではなく、談話室、図書館、自室等、本人の体調や集中力に合わせて適切な場所を選び、所定の時間、指定した教材を使い、学習を進めること。ぱちくり目を瞬かせたソキに、ロゼアは柔らかな声で、この間みたいに勉強していいってことだよ、と囁き告げた。例の事件の前のように。
つまりソキは今年こそ、皆と一緒でなくとも、勉強して、授業を受けて、成長していくことが出来るのだ。またしても、殆ど一からやり直しをするような状態ではあるが。一年半遅れでも、ようやく、魔術師としての知識を積み重ねていくことができる。嬉しいですー、どの教科書から読もうかなぁ、と目をきらきらさせるソキを、ロゼアが膝の上に抱き上げて甘えさせる。それを見下ろしつつ、妖精は慎重にソキを観察した。その魔力の動きに、変調がないかを。
『学園』に戻って来てから、妖精はソキ本人にもしっかりと話をした上で寮長に許可を取り、恒常魔術を復活させていた。『学園』に至るまでの道のりで、ソキの体調を幸運と共に支え続けた、予知魔術を根幹とする回復の術である。それを不調で失ってしまってから、ソキの体調が安定せず、それも学びから遠ざかる一因となっていたのだ。『花嫁』には、集団行動そのものが負担になりすぎる。支える力を失ってしまえば、維持することすら叶わなかった。それを突き付けられ続けた一年だった。
ロゼアが丹念に確認する先で、ソキはただくすぐったそうにきゃふきゃふと笑い、身をよじって機嫌よくはしゃいでいる。蜂蜜より甘い笑い声。ふ、と安堵に緩んだ表情で、ロゼアがソキを抱き上げる。きゃぁあんきゃぁーっ、と声をあげてソキが笑った。はー、とため息をついて、妖精はぐいぐいと羽根を引っ張る。
『これであとは、ソキのアレがなんとかなれば……どうにかならないかしら』
『あの、リボンさん。羽根を離して頂けないでしょうか……今日はなにもしていないと思うんですがいったっ』
理由もないし意味もない。そこにシディの羽根があって、掴みやすそうで引っ張り心地がよかったから、そうしているだけのことである。悩んでいる時の手慰みにもちょうどいい。シディの控えめで優しい抗議を羽根をひっぱることで答えとし、はー、とまた息を吐いて空を漂う妖精に、ロゼアからは不安げな、ソキからはきらきらした視線が向けられる。
「はにゃ……! リボンちゃんったら、シディくんの傍から離れないです……!」
「うん……。うん、ソキ、談話室にでも行こうか?」
「つ、つまり! ふたりきりー! にしてあげるですっ?」
きゃぁああぁあんロゼアちゃんったらあぁあああっ、ソキそうするです、ときりっとした顔で言い放つ己の魔術師に、妖精は思い切り舌打ちをした。ぽいっとシディの羽根から手を離し、ソキの目の前まで滑空する。
『待ちなさい、アタシも行くわ』
「ふにゃんふにゃにゃん。リボンちゃんたらぁ、照れ屋さんなんですからぁ」
「シディ、シディ。こっち」
ふらーっと力なく漂っていきそうなシディを、ロゼアがそっと引き寄せて保護している。ロゼアの目論見通りに動いてしまったことにさらに舌打ちを響かせ、妖精はソキの胸の上に着地した。妖精をぽよんと乗せたまま、ソキはロゼアに抱き上げられて部屋を出た。廊下はすこし冷えた空気があるものの、ロゼアにぴっとりくっついていれば気にする程のものではない。とん、とん、とロゼアが階段を下りて行く。ぬくもりと、その音が、なんだかとても幸せだとソキは思った。
目を閉じてくっつくと、ふ、と耳元でロゼアが笑う。
「ごきげんだな、ソキ。どうしたの?」
「ロゼアちゃんと一緒。嬉しいです」
「俺もだよ。……いつもの場所でいい?」
昼前の談話室は、やや騒がしかった。朝の様々な発表で準備に追われる者や、残り少ない休日を過ごす者たちでいっぱいである。談話室の席に特に取り決めはないものの、ロゼアたちの座る場所はいつも決まって窓際の、日当たりのいい一角である。そこは今日もふたりぶん空いていて、ナリアンとメーシャが向かい合ってチェスをしている所だった。そろそろお昼どうするって呼びに行こうと思ってた、と笑う二人に出迎えられて、ソキはソファに滑り降ろされる。
さっそく、ソキは持って来た教科書を膝の上に置いた。なになに、と覗き込んでくるナリアンとメーシャに、ソキは自慢げに胸を張って報告する。
「ソキ、明後日から授業していいことになったんでぇ、お勉強をするです。予習なんですよ? えらい? 褒めて?」
「偉い! 偉いな、ソキ。というか……ソキは本当に勉強熱心だよね。ロゼアも」
「ロゼアも教科書持って来てる……。俺もなにか読まないといけない気がしてきた……」
いやナリアンはいいから遊んでろよ、そうだよナリアンは長期休暇中はもう遊ぶって決めたでしょ、と口々に宥められ、ナリアンはぐるぐる悩む表情でチェスの駒を持ち上げた。
「休むって……休むって、難しいね、ロゼア……。働いてる方が楽なような気がしてきた……。遊ぶってなんだろう……なにをすれば遊びになるんだっけ……」
「うん、うん。ナリアン。ほら、俺はもうさしたよ。次はナリアンだからね。難しいこと考えないで、俺とチェスしようね」
「なにか、飲み物でも持ってこようか。ソキはなにがいい? リンゴのジュース?」
苦笑して、毛布の下に教科書を挟み込んで隠しながら、ロゼアが立ち上がる。ソキは張り切って頷きながら、いってらっしゃいのぎゅうですぅーっ、とロゼアに向かって両腕をあげた。ふ、と微笑んで、ロゼアはソキの前に跪く。慣れ親しみ、そして、慈しむ仕草で。ロゼアはそっとソキを抱き寄せ、ぽんぽん、とすりよってくるその背を撫でた。
「それじゃあ、ちょっと……」
「ロゼア」
食堂まで行って来るな、と言おうとした声が途切れる。不機嫌な、呆れたような顔をした寮長が、通りすがりにロゼアを呼んだ為だった。砂漠から『学園』に戻ってきてからというものの、ロゼアはよく寮長に絡まれる。またか、という顔を丁寧に隠しながら。なんですか、と立ち上がったロゼアに、寮長は眉を寄せて息を吐く。
「お前、いつまでそんな風でいるつもりなんだ」
「……そんな風、とは。どういうことでしょうか?」
「いつまでソキの世話を焼くつもりなんだ、と聞いている」
ロゼアたちの一番近くに座っていた、砂漠出身のひとりが、ぎょっとした目を寮長に向ける。なにを言っているのか信じられない、とする視線にも動じず、寮長はロゼアを睨みつけるようにして立っていた。うわぁよく分からないけど機嫌悪い、ロゼアほっときなよ、とナリアンがそっと囁くのに、頷こうとして。
「……たかが職業だろう、『傍付き』なんて」
ロゼアの動作が凍り付いた。言葉もなく。聞き留めた砂漠出身者が数人、立ち上がるのに訝しげな目を向けて、寮長は身を翻した。会話を続ける気もないようだった。ともかく、と男は告げる。
「ひっついてないで、もうすこし離れろ。いいな?」
「ロゼアちゃんはソキの! ソキのなんですうぅ!」
「お前もいい加減にロゼア離れしろよ……」
寮長ちょっと、と即座に砂漠出身者から怒りの声が飛ぶ。なんだよ、と男が立ち止まる。その背に、ロゼアは一歩を踏み出した。意識は白く焼け落ちていた。そこにあったのは怒りではなく恐怖だった。少しずつ荒れては宥められ、摩耗しては撫でられていた心が、その一言で焼き切れる。軽んじる者を。『花嫁』と『傍付き』を理解せず、引き離そう、とする者は。ただ、ただ。ただ、敵だった。そしてそれは、排除しなければならない。理性より、感情より、本能に近かった。
歩き去ろうとする寮長の肩に、手を乗せる。振り返る、首を狙う動きを、不思議そうに響く甘い声が引き留めた。
「……ろぜあちゃん?」
一瞬で。力の制御に全霊を注ぎ込む。それでも。止めるには、あまりに、遅かった。
ばきん、と。ひとの、壊れる音が響く。
肩の関節を外され、付近の骨を砕かれた男が、灼熱のような痛みに場に蹲る。苦悶の声と悲鳴は、石を投げ込まれた水面のように談話室に広がった。は、とロゼアは息を吐く。は、は、と息を整える。目の前はまだ焼き切れたように白い。蹲る者を、敵としてしか、認識できない。これを、排除しなければ。排除しなければ。排除しなければ、引き離される。『花嫁』と。声は遠い。幾重にも遠く、遠く、ロゼアには届かない。世界の音もなにもかもが遠くて、現実味を帯びず。
けれども、『花嫁』の声だけは柔らかに響く。
「ろぜあ、ちゃん……? ロゼアちゃん、なに……?」
ああ、ソキが呼んでいる。ロゼアの『花嫁』が。怯え、震える声で『傍付き』を呼び、求めている。応えなければ。そう、思って振り返りかけて、ロゼアはふと気が付いた。いまさきほど。ソキは、あの敵の言葉に。否定を返しただろうか。そんなことはない、と。告げただろうか。否定を。その声を。聞いた覚えは、ロゼアにはなかった。急に込みあげてきた不安に、口元に手を押し当てる。幾度か咳き込むと、口の中に胃液の味が広がった。
ロゼア、と聞き覚えのある声が名を呼ぶ。ナリアン、メーシャ、と思って、ロゼアはそれを思い出した。敵、ではない。男は。寮長だ。魔術師の先達。たまごたちを束ねる者。それに、いま。なにを。
「……室、に……いれて、ください」
「……ロゼア?」
「俺を! 懲罰室に入れてください! はやく、はやくっ……!」
違う。場所は知っていた。そこへ行けばいい。引き留める声を振り切って、ロゼアは談話室を走り出た。振り返らず。一度も振り返ることをせず、ソキの前からいなくなった。ソキはひとり、ぽつん、とソファに取り残されたまま。なにが起こったか分からない呆けた顔で、おずおずと、両腕を伸ばして呼びかける。
「ロゼアちゃん……?」
いつものように。すぐ、抱き上げられることを。呼び返されることを。疑うまでもなく、そうされると、信じて。
「ロゼアちゃん?」
けれども、ロゼアは。
「……ろぜあ、ちゃん……?」
戻ることがなく。昼が過ぎ、陽が暮れて夜になっても。ロゼアは戻ってこなかった。じわじわと広がり、胸を食いつぶして行く不安に。浸食されていくような恐怖に、ソキは幾度もロゼアを呼んだ。考えたこともない。こんな風に、ロゼアがソキから離れてしまうことがあるだなんて。こんな風に、戻ってこなくなる時があるだなんて。ふたりが離れてしまうのは、その時が来るのだとしたら、それはソキが。ソキが、ロゼアから、離されてしまう時だけで。ソキから、ロゼアが離れていくだなんて。
周囲の声を聞かず、ソキは懲罰室の前までとてとて走ってロゼアを呼んだ。喉が切れて血の匂いがしても、扉を叩く手が痛くなっても、ロゼアを呼んだ。求めた。帰ってきて。帰ってきて、帰ってきて、帰ってきて。戻ってきて。ロゼアちゃんロゼアちゃんろぜあちゃん。おいていかないで。ひとりにしないで。ロゼアちゃん、ロゼアちゃん。悲鳴にも、言葉はなく。声はなく。抱き上げる腕が、戻ってくることもなく。呼んでも、呼んでも、返事はない。罪を犯したものが封じられる扉が、開くことはなく。
ソキの声は届かなかった。呼んだら。ソキが呼んだら、ロゼアは。来てくれると、そう、約束したのに。約束していたのに。何度呼んでも、ロゼアは、ソキに応えてはくれなかった。約束したのに。こんなにも求めているのに。約束したのに。何度も呼んだのに。やくそくしたのに。呼んだのに。扉はしんとしてソキを拒絶した。やがて白魔術師と、看守役の魔術師が訪れ、ロゼアは誰にも会いたくないって言ってるよ、とソキに告げた。事情は聞いている。ロゼアだけが悪い訳ではない。でも、あんな風な暴力を『学園』は許容することができない。
数日、頭を冷やす時間が必要だ。ロゼアにも、寮長にも。砂漠出身者たちにも。もちろん、ソキ、君にも。落ち着く時間が必要だよ。すこし離れているのも大事かも知れない。さあ、ここは冷える。部屋にお戻り。幾人にそう促されても、ソキは血の匂いのする悲鳴をあげて、半狂乱になって扉を叩き続けた。だってこの向こうにロゼアはいる筈なのだ。たったひとりで。ソキを置いて。でもまだ、そこにいるのだ。そこに。ロゼアが。なのにどうして。呼んでいるのに。呼んだのに。ロゼアは振り返りも、立ち止まりもしなかった。
ソキから、離れていってしまう。ロゼアは、ソキから、離れていくことができるのだ。自分の意思で。ソキが呼んでも。振り返ってくれることも、立ち止まってくれることも、名を呼んでくれることもなく。約束したのに。呼んだら来てくれるって、約束を、したのに。ソキにとって、その約束が希望だった。暗闇に輝く星のように、『花嫁』の旅行を、そのひかりが勇気づけた。しあわせになれる、とロゼアが言うならそれは本当のことで。ソキも頑張るけど、でも、どうしても、駄目だったら。その約束が、迎えに来てくれる。
でもソキはもう『花嫁』ではないから。嫁ぐことをしなくなったソキはもう、ほんとうには『花嫁』ではないから。ロゼアは迎えに来てくれない。呼んでも、呼んでも、叫んでも。どんなに恋しく、ソキが求めても。ロゼアは。ふ、と目の前がくらくなる。軋み続けた喉が大きく咳をする。ソキの名を何人もが呼び、けれどもその中にロゼアの声はない。扉の向こうにいるのに。『花嫁』ではないソキの声に、『傍付き』ではないロゼアが応えてくれることは。ない。ふたりは共に、魔術師になった。だから。あの約束は、きっと。
目の前が黒く、塗りつぶされるようだった。体中から力が抜けていく。や、とソキは弱々しく泣いて、扉を叩いた。手が痛い。手も喉も腕も足も、お腹も、心臓も、ぜんぶ、ぜんぶ、いたい。息ができない。声も出せずに、くちびるで、ソキはロゼアを呼んだ。応えはない。かしゃん、と繊細な細工物が壊れるような音がする。ひび割れて壊れていく。そして心の、柔らかな場所に鍵がかけられていくように。希望が鎖されていく。世界には夜が訪れる。光のない夜の、闇。くらやみ。それと同じものが胸に広がっていく。その感情の名を。ひかりなき、そのくらやみの、名を。
絶望と呼んだ。
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