熱砂の檻が解けかけている。ソキの為に丁寧に誂えられた魔力の檻。その形をした空調の魔術が。妖精は睨むように天井を見上げ、腕組みをしながら舌打ちをした。そこで完全に消えてしまわないのが、ロゼアの可愛げのない所である。途切れ、解け、緩んで消えかけながらも、編み上げられた魔力は室内の温度をソキに適切に保ち、ゆるゆると循環させながら湿度をも調節していた。この部屋にいる限り、ソキの環境は一定に保たれる。『お屋敷』の環境に似た穏やかさに守られる。その為の魔術だった。
意識的に成したことではない、とすでに結論は下されている。卒業資格を持たない魔術師のたまごには、到底組み上げることのできない精密な魔術であるからだ。無意識の行い。そうであるからこそ、害を成すものではないからこそ、見逃されていた魔術だった。しかし、そうであるからこそ。誰も補助や補修ができないものでもあるのだった。不在であればそれなりに、ソキがいれば活性化する魔力の檻は、呪いじみた発動の仕方をするからこそ、術者以外の手出しを拒んでいる。だからこそ。
ひっくひっく、えぅ、と泣き声が響き続ける部屋の中で、よりにもよって今、消えてしまいそうなのは如何なものか。妖精は深々と息を吐き、視線を天上から寝台の上へと戻した。アスルをぎゅむぎゅむと抱きつぶし、全身に力をこめて丸くなったソキは、飲まされた睡眠薬の効果もあって昼前となった現在でも、目を覚まさないままだ。ルルクが様子を見に訪れ、あれこれと困惑し心配し焦りながら確認しても、嫌そうな唸り声すらあげず、ソキは眠り続けていた。泣きながら。
ひっくっひく、ふす、ずびっ、ず、ふぇ、びすっ、ひっくっひっく、と音をさせながら、ソキは眠り続けている。意識の浮上を拒んでいるかのようだった。どうしたものかしら、と妖精は考える。ロゼアが戻ってくる目途が立たず、『学園』は、ともすれば例の事件前後よりも緊張状態に陥っている。互いが互いの敵であり、味方は同じ出身国のものだけだ、と言わんばかりのヒリついた緊張感、緊迫感。廊下はしんと静まり返っている。足音を立てる者がいない。恐れるように。
緊急事態の最前線。言葉を飾らないで表現するならば、戦争中の砦のようだった。いつ、どこから攻め込まれるとも分からない。そんな恐れと不安が、『寮』のどこへ行っても漂っている。ああ、いや、違うか、と妖精は冷静に思考を巡らせた。例外が二ヵ所、あるいは三ヵ所だけあった。まだマシな判断力がある者たちが打開策を探っている一室と、食堂と、そしてウィッシュが微笑んで座す談話室の一角だった。砂漠の民が身を寄せ合っている、その一角。そこに、恐れや不安はない。
その空気そのものを持ち込んではならない、という暗黙の了解。『学園』中に対立の引き金を引いた、砂漠の者たち独特の共通意識が、皮肉なことに、その周囲だけ安寧を保たせていた。俺ねぇいま空気清浄機なんだー、と。報告をしに行くのだというルルクについて行った先で、妖精は『花婿』の顔をして座る魔術師に、場違いな程穏やかで甘い声でそう告げられた。砂糖菓子の質感を持つ柔らかな声は、『学園』に来たばかりのソキを思い起こさせた。
それは普段、白雪の王宮魔術師として、頼りない印象をふりまきながらも凛として立つ青年の発する響きとは、まるで違うものだった。腕組みをして眉を寄せた妖精の言いたいことなど、王宮魔術師にはすぐ伝わったのだろう。肩を竦めてくすくすと甘く笑う、その仕草すらどこかくすぐったく受け止めさせる『花婿』の。その仕草。その装い。立ち居振る舞い、声すら、なにもかも、意識してそう作り上げられているものだった。
だってどうせなら本当の方がいいだろ、と妖精に言い聞かせるよう、『花婿』は囁いた。いつもだって別に嘘じゃないけど、仕事中とそうじゃない時の意識がちょっと違うのと同じで、俺とかソキとかは、その切り替えがひとより多いだけ。ひとよりちょっと、深いだけ。でもそうすることで効果があがるんだったら、やっておくべきだろ。あとほら、綺麗でうつくしくて可憐でえらい方が守りがいがあるだろうし、とじまんげな顔をして言い放った『花婿』に、妖精は心から溜息をついた。
それでいて放置してきたのは、歓迎できない気持ちはあれど、現状で最優の手だと分かってしまったからだ。砂漠の民に通じるのは、今は言葉ではない。理性的な物言いではなく、感情に寄り添う手段だった。荒れ果てた心の鎮静として、『花婿』を与えるというのはこれ以上ない方法だった。またウィッシュは、通りすがりの他国出身者がなにか言いたげな顔をするたび、視線を合わせてやんわりと微笑みかけていた。その、微笑みだけで。敵意、反発心、言葉を奪い、抑えつけ、消し去り、場の平定を保っていた。
空気清浄機、とはよく言ったものだ。便利すぎて頼らざるを得ない。たった一夜でこうなってしまった、原因のひとつでもあるというのに。なにが正しくて。正しさとはどんなことで。それをどう受け止めて行けばいいのか。『学園』は揺れている。生徒たちはこそこそと言葉を交わし合っては不安がり、足元がなくなってしまったような不安さに怯えたままでいる。妖精は眠るソキの涙を布で拭ってやりながら、まあ全員平等にダメなトコはあったわね、と呟いた。
駄目な所が駄目なまま、駄目に噛み合い災厄になっただけである。未熟者ばかりが詰め込まれた『学園』では、時折ある騒動だった。常にない所をあげるとすれば、寮長が当事者として負傷したことと、出身国で垣根が出来ていること、担当教員すら巻き込んだ大騒ぎになっていることだった。砂漠の、一国家の、『花嫁』『花婿』『傍付き』が、それだけのものだった、ということだろう。
うんまあでもロゼアが悪いわね、ロゼアが、と今日も理不尽に責任を全部押し付けながら、妖精はぐしょぐしょになった布を投げ捨て、新しい一枚をひっぱりだしてソキの目元に押し当てた。そろそろ乾いたハンカチがなくなりそうだったが、それまでにソキが泣き止むとは到底思えない。なにせ眠っていてこうなのである。起きたらさらに声をあげて大泣きするのは分かり切ったことで、それを宥められるとしたらロゼアしかいないのだが。
飛んで行ったシディが戻る気配もないので、妖精は腫れぼったいソキの瞼を撫で、うんざりとした気持ちで首を横に振った。
『とりあえず、目を覚ましたら水を飲ませるとして……お風呂に入れて着替えさせて、食事をさせて……』
どれひとつとして上手く行くとは思えないが、なんとかやるしかないだろう。特に水分補給だけは、絶対にさせなければならない。これだけ泣き続けているのだ。起きたら当然頭が痛くなっているだろうし、喉も乾いているだろうが、それとソキが素直に水を飲んでくれるかは別問題だった。ソキのことである。ロゼアちゃん、ロゼアちゃんがいないならソキはお水だって飲んであげないです、とぶんむくれてちたちた抵抗する様は、あまりに想像に容易かった。
普段ならそれでいいかも知れない。苦笑しながら、あるいは慌ててロゼアは戻って来たかも知れないが、今回ばかりは無理だった。なにせロゼアは、ソキすら拒絶したのである。懲罰室の管理者に、ロゼアは誰にも会いたくない、とだけ告げた。その誰にも、というのはソキも含まれる。それを知った瞬間の、ソキの怒りようといったらすごかった。そんなことはないです、なにかの間違いです、このひとはソキにいじわるを言ったです、ロゼアちゃんそんなこと言わないです、と怒りに怒り、手がつけられなかった。
数分で怒る体力がなくなったのだろう。ぴた、と止まったソキはものすごい勢いで涙を浮かべると、ロゼアちゃんロゼアちゃんと『傍付き』を呼び求め、いつまでも諦めずに呼んでは扉を叩き、呼んでは泣いてを繰り返した。副寮長たる男が、咄嗟に睡眠薬を飲ませたのは妖精にも褒められる判断であり。そうできたのは単純に運だった。ぜいはあぜいはあ息切れを起こして動きが止まった所に、なにも言わずに睡眠薬を溶かした液体を差し出したのだった。ソキはそれを、とても素直に受け取った。
ソキは恐らく、アスルを投げて部屋の扉を破壊し、突破しようとしたに違いない。はしっと受け取ったものがアスルではないと分かると、んもおおおおおっ、とかんしゃくを起こしきった声で怒り、そのままぐびーっと中身を飲み干したのである。暴れて叫んで喉が渇いていたのだろう。出されたものをそのまま飲む警戒心のなさは、それこそ普段のソキにはないものである。ロゼアちゃん飲んでいい、と問いがなかったのも事態が事態だったからだ。理由が幾重にも重なったからこその成功だった。
睡眠薬は、実によく効いた。飲んですぐ昏倒するような強いものではなかった為に、それから数分、ソキは手がつけられないくらいに泣いて怒って抵抗したが、体力が持つ筈もなく。すぐに抗えない眠気にうとうとしだし、寝ぐずって寝ぐずって、その場にぽてりと倒れ込んだのだ。ソキ、もう、ここで寝ちゃうです、という言葉を許さず、妖精はルルクに言いつけて部屋に運ばせ、そのまま半日以上が経過していた。その半日間、寝ながら、ソキは泣いているのだった。
そろそろ、体中の水分が全部出てしまうのではないか、と不安になるくらいである。妖精はため息をついて、ルルクが用意して行った水差しを見た。塩と砂糖、ハーブを数種類と輪切りにしたレモンをいれた水は、『花嫁』用の調合なのだという。ロゼアの棚を勝手にあさって書付を見つけ出したルルクの製作である。とりあえずこれを飲ませておけばいい筈、と言ったルルクは、ソキが目を覚ましたら呼ぶように、妖精に願っていなくなっている。
ソキが起きれば、泣き続けて腫れた瞼を冷やしたり、着替えさせたり、お風呂に入れたりするのがルルクの役目である。時期的にどうしても、妖精はひとと同じ大きさにはなれないので、それを託すしかないのだが。さりとて、上手く行くとは思えなかった。
『……泣いても、ロゼアは戻ってこないのよ』
誰かがソキを憐れんで、連れて来てくれることもない。それを不可能とするのが懲罰室であり、ロゼアは望んでそこへ行ったのだ。だいたい、と妖精は腫れたソキの瞼を撫でながら考える。なにを泣いているのだろう。なにに、泣いているのだろう。ロゼアへの怒りだろうか。悲しみだろうか。それとも混乱して、行き処を亡くした感情が、すべて涙になっているだけなのだろうか。呼んでも返事がないというのは、ソキにとっての絶望だ。それは妖精にも理解ができる。
まして、あの旅の最中ではなく。ロゼアはもう、傍にいたのに。
『あぁ……そう。ソキ、ようやく気が付いたのね……?』
魔術師の根源。魔力を共有する妖精だからこそ、意識が眠りに鎖されていても感じ取れるものがある。妖精は胸に手を押し当てて、呆れた気持ちで溜息を付いた。ソキは夢を見ている。呼んでも振り返ることなく、立ち去っていくロゼアの背。追いかけても声をかけても振り返らず、扉が閉じられてしまう。叩いても泣いても叫んでも返事はない。約束したのに。約束して、それなのに立ち去っていく。ロゼアの背の夢を見ている。そして、ソキは。
置いて行くばかりで。その、決意と覚悟をするばかりで。置いて行かれるつもりがなかったことを、突き付けられてしょげている。考えてみたこともなかったのだろう。ロゼアがそういう風に、ソキを置いて行くだなんてことを。離れてしまうだなんてことを。ソキが離れて遠ざけもしなかったのに。ロゼアが、自分の意思で、ソキから離れて。ソキを遠ざけた。そんな事態が起きるだなんて。考えたことすらなかったのだ。
ロゼアには、己の意思がある。ソキには考えもつかない、意思があり、感情があり、そして、それは。『傍付き』として、『花嫁』が知っていたものとは、まるで違う。違うのだ。ソキは、恐らくはじめて、それに思い至った。理解できないものを抱えている。ロゼアが。ソキの思う通りにはならない、知らない、希望とはまるで正反対な。約束の通りにはしてくれない。それは、ソキの知らないロゼアの姿だった。『花嫁』では得られなかった『傍付き』の姿だった。
ふたりでひとつの時が終わる。ひとつではなかったのだ、と分かって、『花嫁』は泣いている。だからこそ。それならきっと、目を覚ましたソキは大丈夫だ、と妖精は思う。しばらくは荒れて言うことも聞かないだろうが、感情が落ち着けば、ソキはきっと大丈夫だ。泣いて、泣いて、泣きながらでも、ソキはきっと立ち上がる。産声のようなものだ。だから。
『……そうね。大丈夫よ、ソキ。大丈夫。……ひとりじゃないわ』
ひとりなら、怖くて立ちすくむ暗闇を。妖精をつれたソキなら、歩いて行ける。怖くても、ふたりなら、ソキは先に行くことができる。そして妖精は、ソキが望むなら。望む場所まで、必ず、ソキを連れて行くと決めた。ロゼアの所に行きたい、と言うのなら。連れて行こう。ぐすぐす、鼻を鳴らしてまだ眠るソキを、妖精は幾分か安心した気持ちで見守った。夜は明ける。そんなに暗く、深く、長い夜でも、必ず。
太陽が昇れば。くらやみを遠ざけて、朝は巡る。
目を覚ましたソキはくしゃくしゃの声でロゼアを呼び求め、いないと分かるとぼたぼたと涙をこぼして泣いた。声もなく涙だけがこぼれていく様は見守る妖精の胸をひどく痛めたが、なにか声をかけるよりはやく、ソキは寝台でもちゃっと立ちあがった。ぐしぐし目を擦って、ぐしゃぐしゃの顔を拭いもしないままに部屋を出ようとする。水飲みなさい、とため息混じりに言い聞かせた妖精に頷くだけ頷いて、ソキはぐすぐす鼻をすすって階段を登った。思わず妖精は確認したが、ソキはあっと声をあげることも戸惑うこともなく、うしょ、うしょ、とのたくたと階段を登っている。
懲罰室は寮とは別棟にあるから、一階の接続部分から行かなければ辿りつけない。ついに方向感覚がアレしたのかしら、いやいつも方向音痴だけど、と思いながら、妖精は無言でソキの肩に座り込んだ。どこへ行くかわからないから、先導してやることもできない。なんか言いなさいよ、と囁いても、ソキは思いつめた目で頷き、のたくたと階段を登るだけで声を響かせはしなかった。こほん、と喉が咳をこぼしていく。熱っぽい顔つきのまま、ふらふらとたどり着いたのは四階にあるソキの部屋だった。物置部屋である。
鍵のかけられた扉を不機嫌な顔でべちべちと叩き、やんやでしょおおおおっ、と怒る。それだけで、予知魔術師はあっさりと部屋に侵入してしまった。妖精は無言で、頭を抱えて目眩を堪える。予知魔術師の、極小にして精密な魔力操作だった。寮長が万全の状態であっても、これを感知することは叶わなかっただろう。妖精とて、ソキと契約していなければ、肩に乗っていても分からなかったかも知れない。それほど、扉は鍵のかかっていない開き方をした。鍵が開いた、のですらなく。それは鍵がかかっていた、という事実ごと消し去られ、書き換えられた。
ソキ、と呻く妖精に答えず、『花嫁』はもちゃもちゃとした動きで様々な荷をひっくり返すと、お目当てのものをはしっと抱えて引っ張っていく。敷物と、ロゼアの上着に見えた。なにそれ、と尋ねる妖精に頷いて、ソキはぽてぽてと懲罰室へ向かっていく。普段は使われない一角は、妖精が思っていたよりもひとが多かった。懲罰室の管理者であるパルウェの姿があるのは当然として、その傍らにはチェチェリアがおり、『学園』の保健医たるレグルスの姿があり、副寮長のガレンと、ルルクとアリシアまでがそこにいた。
懲罰室の入り口。許可なくば何者も立ち入れない、立ち去れない強固な魔力が閉ざす『檻』の前で、ぽてぽて歩んでくるソキに気がついたルルクが、あっ、と言った。
「ソキちゃん……! えっ、どうし、えっ!」
『……ソキ、ほら。聞かれてるわよ? どうしたのか教えてあげなさいな』
ソキは拗ねた顔でつむんとくちびるを尖らせた。言葉はないままである。そのまま、そしらぬ顔をして懲罰室の中へ入り込もうとした所で、冷静な顔をしたパルウェに捕まった。こーら、とため息混じりにたしなめられるのに、ふぎゃああぁああんっ、とものすごい勢いで怒ってソキはじたじたと大暴れした。
「ソキに触ったらいやいやんですううぅう! ロゼアちゃん、ロゼアちゃぁあん! ソキはむたいをはたらかれてるですロゼアちゃああぁあん!」
『侵入阻止で捕まえられたのは無体に入らないわよ残念だったわね!』
「なんという慈悲のないことですううう! ソキがかわいそだと思わないですか! 思うでしょ! いけないですうう!」
うんうんそうだねぇ、とばかり見守る者たちの空気がほわっと緩む。昨夜の狂乱状態と比べれば、今のソキはあまりにいつも通りである。こちらは大丈夫そうですね、と呟いたガレンに、ソキはきしゃあぁあですううううっ、とものすごい勢いでいかくをした。
「ちいいぃいっとも! 大丈夫じゃ! ないです! ロゼアちゃん! ソキはロゼアちゃんをよーきゅーするです!」
「駄目よ。面会謝絶。誰も会わせられないわ。ロゼアくんの意思もそうだけど……魔力の安定がなさすぎるの」
懲罰室は罪を犯した者を閉じ込めておく性質上、魔力耐性が高く作られている。時には暴走した魔術師が落ち着くまで隔離しておくのにも使われるとあって、不安定な魔術師はそこにいる限り、己と周囲の被害から逃れられるのである。誰にも会いたくない、と繰り返すロゼアの魔力は、現在極端に不安定だ。それこそ、今にも暴走してもおかしくないくらいに。そうなってしまったら、ここにいることでしかロゼアを守れない。
太陽の黒魔術の魔力は灼熱の刃。全てを燃やし尽くし炭化させ、蒸発させ、あらゆるものを消し去るだろう。チェチェリアは難しい顔をして、祈るようにロゼアの名を呼んだ。だからね、せめて落ち着くまで待ってほしいの、と言い聞かせられて、ソキは物分りのいい顔をしてこくりと頷いた。
「分かったですぅ。ソキに任せるです!」
『いやなにひとつ分かってないわ。入り込もうと! するんじゃない!』
「ふぎゃああぁああんっ! ソキに触らないでくださいですうううやんやんやんやん! ロゼアちゃあぁあぁあ!」
頷いただけである。よし、と気合を入れ直して再び懲罰室に侵入しようとしたソキに、妖精はうんざりとした顔でため息をつく。昨日は扉の前まで行かせて貰えただけ、まだ慈悲はあったのだ。ロゼアの魔力が不安定な今、その距離を許すことはできなかった。しかし、ソキにはその事情が理解できない。腕を掴まれたまま、ものすごい勢いで怒ってもちゃもちゃと抵抗する姿からは、言葉での説得が困難であると誰にも感じさせた。
宥める言葉を重ねることをせず。パルウェは、ソキの体をルルクに向かって押しやりながら言った。
「はい。よろしくねぇ」
「はい……。ソキちゃん、駄目よ。今はね、駄目。もうすこし待とうね。……お水飲んだ? 顔を洗いに行こっか」
「なっとくできないですううう! そもそもー! そもそもですううう! 誰にも会いたくないに、ソキが含まれるわけないですうぅ! これはおおいなるかんちがいです! そうにきまっているです! ソキですよ、ソキです! だからソキはいいんだもん! ロゼアちゃあぁあん! ロゼアちゃあぁあーんっ!」
そう来たかー、という顔で、パルウェがそっと額に手を押し当てる。うーん、この、と言葉にできない感情で苦笑いをして、ルルクはその場に両膝をついた。高い位置から一方的に降る言葉を、そもそも『花嫁』は聞き入れない。そのことを思い出したからである。ソキと目の高さを合わせる。とたん、ぴたっと暴れるのを止めてじっと見つめてくるソキに、ルルクは静かな声で問いかけた。
「お水、飲みました?」
「……まだですぅ」
「じゃあ、すこし、飲みましょうか。ね?」
つむーん、と思いきりくちびるを尖らせならも頷いたソキに、ルルクは華やかな笑みで今持って来ますからね、と囁いた。はっとしたアリシアが部屋にあるのでいいのね、と確認して走ってくれるのを見送って、ルルクはいじいじ、視線を落とした『花嫁』にすこし待ってね、と言った。
「その上着はロゼアくんの?」
「……ロゼアちゃん、寒いのがお嫌いだもん。なのに、ソキも、アスルもいないです。きっと寒がっているです。ソキには分かるです」
「だから持ってきてくれたの? 偉いね、ありがとうね……。上着、渡してもらいましょうね? お願いしますって、言えるかな?」
ひとつ、ひとつ、思い出して。教本をなぞるように話すルルクを、ソキはじーっと見つめたあとで頷いた。そうしてくれる想いにこそ、報いる、とする仕草だった。ソキはロゼアの上着をぎゅーっと抱きしめ、めいっぱい頬を擦りつけたあとで、それをパルウェに差し出した。その場にいる魔術師すべてが視認する。夥しい魔力が、祝福と祈りの形を成して上着に染み込んだのを。術式が編まれ、発動するまでは一瞬の出来事で。止める間もなく。妖精は呻いて頭を抱え込んだ。
『……こ、この状況で……! 魔力の扱いも、魔術そのものも、上手くなってるけどアタシは褒めたりしないわよ……!』
「……ソキ、体調に変化は?」
「ロゼアちゃんがいないからもうだめです」
ずびずび哀れっぽく鼻をすすりながら、ソキはぶんむくれて上着を差し出した。完全に引きつった顔で、パルウェがそっと上着を預かる。それはすでに魔術具に等しいものだった。チェチェリアが諦めたような目をして、妖精に微笑む。
「落ち着いたらウイッシュを交えて、錬金術師たちを呼んでも……?」
『いいわよ好きになさい……。ソキ、いいこと? 本当に、本当に……戦時中じゃないことと、『学園』在席であることと、全員口がかたいことに感謝しなさいよ……! ほいほい恐ろしいことをするんじゃない!』
「してないもん」
しているから魔術師たちは皆遠い目をしているのだし、上着を預かったパルウェは顔が引きつっているのである。最初からそれ専用に整えられたものに魔力を付与するだけでも相当の訓練が必要なのに、ただの上着に、瞬時に祝福を織り込むなど聞いたことがない。世が世なら監禁され、道具を作り続ける便利なもの、として取り扱われただろう。大戦争で前線に送られた予知魔術師以外は、ほぼ室内で記録が途絶えていることを思い出し、それについて深く考えないことにして、妖精は首を振った。
ソキとは違う方向でどんくささが天下一品のリトリアにもできるとしたら、これはもう事件である。歴史の闇に葬り去るべきことである。それでいて、確かめておかなければいけないことでもある。呻いて、妖精はチェチェリアと、ソキに視線を向けながら言った。
『……ちょっと、あとでリトリアを呼び出してちょうだい。理由はなんだっていいわ』
「んん……? なんだか? ソキが怒られる気がするです。げせぬです」
『賢いわね、ソキ。その通りよ』
いやいやですうううう、と身をよじって訴え、ソキは廊下にぺたりと座り込んだ。立っている体力が尽きた動きだった。ちょうど戻ってきたアリシアから水を受け取って飲みながら、ソキはぐすぐすと鼻をすすって、足元に落っことしていた敷物を広げた。大きいものではない。ソキがひとり、てちんと座って、それでおしまいくらいの敷物である。ソキは仕方がなさそうな顔をしながらそこへもぞもぞと座り込み、水をくぴくぴ飲みながら、じーっと懲罰室の入り口を見つめた。そのままで動かない。
えーっと、と困惑しながら、しゃがみ込んだルルクが聞いた。
「ソキちゃん……? な、なにしてるのかな……?」
「待ってるです」
「う、うん? そっか? そうだね? ……そ、そうだね……?」
あからさまに助けて欲しい視線を向けるのはやめて欲しい。妖精は、パルウェが上着を届けに行くのにそっとついて行こうとして止められ、ぎゃんぎゃん怒りながらまた座り込んだソキの肩の上で息を吐いた。泣いて泣いて、寝ている間も泣いてどうしようかと思っていたが、起きてもこんなにどうしようもないとは、思っていたが気がつきたくなかったし本当にそうならないで欲しかった。
『せめて顔洗って……着替えたりなんだりしてきなさい。お風呂だって入ってないでしょう』
「ソキ、体を拭くので我慢するです。お湯と布ちょーだいです」
「ソキちゃん。ロゼアくん、まだ出てこないよ? 一回お部屋に戻ろう?」
やんや、と主張するソキに、ルルクが困った顔をする。この状態でお風呂に入れて気持ち悪くなるより、体を拭う程度で留めるのは正しいのだが。廊下である。お部屋に戻ろう、と再度繰り返しても、ソキはやんやっ、と言い放ってぷいとそっぽを向いた。
「もしかしたら、ロゼアちゃんが出てきたくなるかも知れないもん。ソキが一番のいちばんにお帰りなさいをするんだもん。それで、それで、そ、ソキ、ソキがいらなくなったんじゃないですって聞くんだもん……。ロゼアちゃん、ロゼアちゃんに、ソキ、ソキ、いちばんに……」
じわ、と『花嫁』の目に涙があふれた。慌てた仕草で目をごしごし擦って、ソキはロゼアちゃあん、とかなしみにくれた声で呟く。
「ソキ、いいこで、いいこ、してるです……。きっとなにかの間違いです……。誰にも会いたくない、は、ソキのことじゃないもん……間違いに気がついたパルウェさんが、ソキを入れてくれるはずだもん」
「うーん。それはないなー」
「どういうことなんですううぅうう!」
どうもこうもない。そういうことである。戻ってきたパルウェは微笑みながらチェチェリアになにかを耳打ちした。ロゼアの担当教員は達観しきった笑みで頷き、ごねてごねて敷物にしがみついているソキに、苦笑しながら問いかける。
「ソキ。あの上着は……なにを……?」
「ロゼアちゃんのあったかお服なの。それでね、ソキがなでなでぎゅうっとして、ロゼアちゃあぁあん、ふにゃんにゃ! なの」
『……なにひとつとして分からなくて逆に分かったような気持ちになるわ。どうせアレでしょ? ロゼアの魔力、暴走の兆候が消えたんでしょう?』
落ち着いた、とかいう話ですらなく。消えた、とするくらい、なくなったに違いないのだ。妖精は敏感に、空気を圧迫していた緊張感に似たそれが、消え去ったのを感じ取っていた。そのようだ、と苦笑するしかない顔で告げるチェチェリアに、ソキはめいっぱい胸を張って、でぇっしょおおおお、と自慢した。己という存在が、編み込んだ祝福が。そうできることを知って成した魔術師の、満足しきった声だった。
「さっ、パルウェさん? ソキをー、いれたくー、なったでしょー? ロゼアちゃんのトコに、連れて行ってくれて、いいんですよ? はやくぅはやくぅ!」
「うーん。顔を洗ったり、お着替えしてこようね。お水飲んだり、ご飯を食べてもいいんじゃないかな。ロゼアくんもきっとそう言うよ?」
「ぎゅうううう! てごわいですうぅう!」
やんやんやんやんやん、と抵抗するソキに妖精は深々と息を吐いて言い放った。
『顔洗って着替えないと可愛くないわよ、ソキ』
もちゃっ、ととろくさくも反射的な動きでソキが立ち上がる。あわあわ、と懲罰室と妖精を見比べる動きに、妖精は心からの微笑みで言ってやった。
『というか淑女は顔も洗わないで寝間着で出歩いたりしないわね』
「ち……」
ちがうですううぅうううぅ、と戦慄した声でソキが絶叫する。そのまま、わちゃくちゃも方向転換をしようとして。踏んづけた敷物を滑らせ、ソキはびたぁああんっ、と盛大な音を立てて顔から転んだ。一瞬だった。あまりのことに、しばらく、誰も動かず。え、と見守られてしまった先で、ソキは倒れたまま、ぴるぴるぷるると震えだした。声もない。相当痛かったらしい。ソキの頭上で、妖精は首を横に振ってため息をつく。
『どんくさい……』
顔から転べるのは、もはや才能である。数秒後、ぴぎゃああぁああぁんっ、と火がついたように怒り狂って騒ぐソキに、妖精はしみじみと感心した。
ソキは相当騒いだが、ロゼアが顔を覗かせることはなかった。懲罰室が、世界屈指の防音性能を誇るからである。それでもソキの声はわかる筈だもんだってロゼアちゃんだもんロゼアちゃんロゼアちゃんおかおいたいですロゼアちゃんくすんくすん、とソキは実に粘り強く訴えかけたのだが、望みが叶うことはなかった。したたかに打ち付けた顔面は、場に居合わせた保健医によって速やかに治療されていたから、あとに残るようなこともない。
なぜあの場に医師がいたのかと言えば、魔力が不安定だったこともあり、ロゼアの肉体的な健康が危惧された為である。殆ど食事をせず、水もあまり飲まないでいる為に、これが長期に渡るのであれば対策を講じる必要があり。昨夜からのことであるから、今現在はまだ影響は出ていない、というのが保健医の言葉だった。ソキはもうすっごくえいきょーがでているですううううっ、とぷんすかぷんすかしたソキの言葉は穏やかに無視された。
みぎゃあぁああっとじたばた暴れるソキをなんとか宥めすかし、ルルクは『花嫁』を手早く入浴させ、髪を洗い、肌を磨いて服を着替えさせた。転んだ時に髪に綿ぼこりが編み込まれてしまっていたから、風呂に入れて洗う他なかったのだ。ソキは案の定のぼせかけたが、補助をしていたアリシアがせっせと水分を取らせ続けていた為に、大事にはならず。慣れないルルクに、ぺか、くらいに磨かれたソキは、不機嫌を隠すことなく、食堂の椅子に座っていた。
通り過ぎる先輩という先輩を無差別に威嚇しては、ロゼアちゃんはぁあぁあっ、と呪い混じりの声で行方を聞くので、先程からはもう遠巻きにされている。それでも渦中のひとりである。気になるのか、出身地を問わずちらちらと視線が向けられては、不機嫌な威嚇声がほわふわと漂っていく。まったく、諦めの悪い。妖精は心底感心さえしながら、魔術師の額をぺちりと叩いてたしなめた。
『やめなさい、と言ってるのが分からないのかしら? ソキ。不機嫌を当たり散らすの辞めなさい。ロゼアは! 今日は! 出てこないのよ! 反省中なの。分かる? 悪いことをしたの。隔離されてるのよ。ただ引きこもってるのとは訳が違うの』
「でも、でも、でもぉ……! もしかしたら、やっぱりいいよって、ロゼアちゃんが出てきているやも知れないです。そうしたら、ソキにいちばんに教えてくれなくちゃ駄目です。……やっぱり、扉の前で待ってるのが一番では? ソキ、あそこに住むですううう!」
『断言してあげるけど、あんな寒くて埃っぽい所にいてみなさい。二時間で熱を出すわ』
ぷーっ、とソキの頬が膨らんだ。ちがうもん、そんなことないもん、が出てこないので、本人もそんな気はしているらしい。恒常魔術が巡っているから悪化しないだけで、体調がよくないのは自覚のあることらしかった。泣きすぎである。ソキはさっぱりと洗われて、なお腫れぼったい瞼に手を押し当てると、ううぅ、とむずがる声で鼻をすすった。
「なんだか、頭が痛いです……。おめめも痛いです……。なでなで……ロゼアちゃんのなでなでが必要です……あっぎゅうもです……だっこもですぅ……!」
『はいはい。アタシが撫でてやるわよまさか文句なんてないでしょうね?』
「ソキはぁ、リボンちゃんもだーぁいすきなんですけどぉ……リボンちゃんはロゼアちゃんじゃないんですぅ……。あっでも、でも? リボンちゃんも、ソキをなでなでしたいでしょう? なでなでしてくれて、いいんですよ……?」
この状態で上から目線でものが言えるのが、じつにソキである。ため息をつきながら適当に頭を撫でてやると、ソキはふふんっ、と自慢げな顔をして機嫌をすこし上向かせた。ちょろすぎて心配になってくる。様子を伺っていた者たちの中から、ひとり、歩み寄ってくる者がいたのはその時だった。ナリアンである。ニーアも一緒だった。
「ソキちゃん。……ここ、いい?」
「もちろんですー。あのね、いまね、ルルク先輩とね、アリシア先輩が、ご飯を持ってきてくれるの。ナリアンくんは? ご飯食べたです? ロゼアちゃんは?」
『ソキ。アタシはさっきも、ロゼアは今日は出ないって言わなかったかしら? 懲罰の意味考えなさい、懲罰の。どんな理由があっても、人様の骨を砕いたりなんかしたらいけないの。それくらいは分かるでしょう!』
寮長の骨がとびきり砕けやすかったに違いないもん、とソキは言わなかったが、むむぅっと尖ったくちびると不満いっぱいの目がそれを物語っていた。そもそも、ソキはすでにそこから疑っているのである。ロゼアは確かに、強くて格好良くて素敵で強くて格好良くて素敵で強くて格好良くて素敵なのだが、怒ったからと言ってひとを叩いたりするだなんてこと、しないのである。空腹もあいまってじわじわ不機嫌になっていくソキに、それを聞いたナリアンが、そうっと苦笑した。
「……じゃあ、ソキちゃんは、ロゼアがなにをしたと思ってる?」
「んん? ……けんか? です」
ソキは、それを、見ていない。妖精がソキの目の前に立ちふさがって、その光景を隠したからだ。そうしなくても、もしかしたら、ロゼアが背を向けていたから分からなかったかも知れない。ソキは結果を見ていた。寮長が倒れ込んで呻く。ロゼアが怯えたように遠ざかる。走って行く。離れていく。その背を見ていた。ソキが声をあげても、振り返ることすらせずに。
「ロゼアって、ああいう喧嘩、するの?」
「……ソキ、知らないです」
「ロゼア、いつも……ソキちゃん以外には、ああいう怒り方、するの?」
ソキは、困った顔で。すこし怯えるようにさえしながらナリアンを見て、知らないです、と繰り返した。そもそも、ソキはロゼアと喧嘩をしたことがない。ワガママが過ぎれば窘められ、怒られはするものの、それは喧嘩ではなかった。ロゼアとソキの間に、明確な立場の差があった為である。それは『花嫁』と『傍付き』の名で呼ばれる、主と従者であるからだ。ソキとロゼアは主従であり、決して対等ではなく、そうであるからこそ喧嘩、というものは起こらない。
ロゼアが『お屋敷』で喧嘩をしたことはあっただろうか、とふとソキは考える。あった、と思う。しかしそれは、ひとの口を借りてソキの耳に囁かれたことだ。どうもロゼアは、誰それと喧嘩をしたらしい。その言葉による情報は、『花嫁』からのとりなしを求めるもので、眼前の光景として繰り広げられたことは一度としてなかった。ソキだって喧嘩くらいはしたことがある。けれどもそれは、あんな風なものではなく。怪我をしたり、させたり、するようなものではなく。
考えて、悩んで、結局ソキは、知らないです、と言葉を繰り返した。知らなかった、ということを突き付けられて、自覚して、理解する。ソキの知らないロゼア、というものがあるのだ。
「ロゼアちゃん……ロゼアちゃん、いつもは、あんな風に、怒らないもん」
「ソキちゃんには、ね」
「ソキじゃなくても、ロゼアちゃんはしないですよ」
知らないことがある。想像も及ばないくらい、分からないことがある。その空白を知ってなお、ソキはまっすぐな目で言い切ってみせた。どうして、と問われても、ソキは迷うことなくナリアンの目を見つめ返した。どうしても、だった。
「ほんとうはね、しないことなの。でも、どうしてか、しちゃったことだったとしたら、ロゼアちゃんは、きっとすっごく、びっくりしたに違いないの。どうしてって思うに違いないの」
「そうかな」
「そうですよ。ソキだって、ほんとは、アスルをぽーんと投げないもん」
真面目な顔をして主張するソキは、例の事件からややアスルの投げ癖がついている。その為にやや信憑性に乏しい言葉だったが、ナリアンはふふっと笑みを零して、そっか、と言った。
「そっか。そうだね。……うん、そうだ。ロゼアは、しない。しないね」
「そうですよ。……ねえねえ、ナリアンくん。ナリアンくんは、ロゼアちゃんに、会った?」
じぃ、と期待を込めて見つめても、ナリアンは苦笑して首を横に振るばかりだった。様子は聞いたけど、と落ち込み気味の静かな声が囁いて行く。誰にも会いたくないって聞いたから、と告げられて、ソキはくちびるを尖らせて頷いた。ナリアンも、誰にも、に入っていることがなんだか受け入れがたい気持ちになる。ロゼアのいう誰にも、というのは、どこまでなのだろう。ソキは、でもソキは違う筈ですし、だってソキだもんちがうもん、とまたごね始めたソキを見下ろし、妖精はニーアを手招いた。
そろそろ、近づいてきたニーアの腕を掴み、魔術師に聞こえないだけの高度を取ってから確認する。
『ナリアンの調子が悪いって、ロリエスに連絡はしたんでしょうね? なんて?』
『……手元の仕事を片付けたら、なるべくすぐ、様子を見に来るって。あんまり落ち着かなかったら、ナリアンを連れて来いって、シルくんが』
『粉砕骨折絶対安静男は安静にしていなさいよ……』
シルの言葉の意図は、妖精には分かるのだが。負担と呼べるようなことではないので良いかも知れないが、この期に及んでそこへ気を回すという意識の割り振りが、『寮長』の名を頂く者だった。まあ、と妖精は呆れ交じりに、ソキとナリアンを睨みつけた。
『大丈夫だとは思うけど、楽観視はしない方がいいわね……。ソキの食事だけ見守らせたら、部屋に連れ込んで教科書でも読ませておきなさい』
『はい、そうするつもりです。……ルルクちゃんと、アリシアちゃんは』
大丈夫なのかしら、と不安がる視線の先を睨みつけて、妖精は無言で腕組みをした。中々戻って来ないのもその筈で、ルルクとアリシアは生徒たちに取り囲まれて、あれこれ話しかけられているのだった。ソキが気が付かないのは、そうなると察していたルルクが、妖精に意識を逸らしておくようにと願って行ったからである。途中でナリアンがやってきた為に、苦労することはなかった。さあ、どうかしらね、と妖精は人込みを見つめて息を吐く。
『言い争いにはなってない……。いや、させていない、のかしらね? ルルクもさすがだけど、アリシアもやるじゃない』
『みんな、不安なんですね』
『そうね。……『学園』の魔術師だからでしょうね』
様子を見に行っていないから断言はできないが、ここまでの動揺は『学園』にしかない筈だ、と妖精は思う。砂漠出身者は事情が多少異なるかも知れないが、王宮魔術師は恐らく、ある程度は落ち着いて知らせを聞いただろう。レディもストルも、すこし頭が冷えたかも知れない。
『時間をかけて、言葉を重ねて、ひとつひとつ解決していくしかないでしょうね……』
不安が不安を呼び、疑心が疑心を呼んでいる。いまの『学園』はそういう状態だ。発端がロゼアと寮長の争いにせよ、『花嫁』と『傍付き』の関係性への理解にせよ、今はもうそれだけではなくなっている。ロゼアは前からあんな、『お屋敷』のひとはああいう風に、ルルクも、と投げられていく言葉に、滲んでいるのは不安と恐怖だ。なにをされるか分からない、という混乱。ルルクは苛立ちに目を細め、傍らに立つアリシアに無言で手を握られて、そのたび、息をして気持ちを抑え込んでいく。
自覚してから言葉をつくりなさいよ、とルルクの、静かに押さえつけられた声が妖精にも聞こえた。
「自分が、そうと望めばいくらでも、ひとなんか殺せる力を持った魔術師だって、自覚を持ってからもう一回言いなさいよ。……分からないなら言ってあげる。私たちは全員、ロゼアくんと一緒よ。誰にだって簡単に『暴力』がふるえる。その力を持ってる。自覚なさいよ。私たちは魔術師なの。異質なの。ひとと同じじゃないの。だから隔離されてるの。だからここで、『学園』で、教育されてるの。異質さを飼いならして、首輪をつけて言うことを聞けるようにして、ああいう風にならないようにしているの。ああいう風にならないって認められないから、『学園』に在籍しているの。私も、ロゼアくんも、寮長も、あなたたちも! みんな、みんなね! わかりなさいよ!」
「……ね、みんな。みんなよ、私も、よ。武術大会、見たでしょう? 私たちは、誰もが、ああできる。でも、しない。……しない、ということを、選んでいるの。……怖いわね。なにをされるか、分からなくて、不安で、怖いわよね。その気持ちを忘れないでいましょう? その、気持ちが……いまの、気持ちが。人々が、私たち魔術師に向ける想い、そのものなのだから」
言葉をいくら重ねても、受け入れがたいと感じるでしょう。それを責めている訳ではないの。でも私たちはそうされる。私たちが、そうされてしまうのよ。しない、と言っても受け入れられず。しない、と言っても不安がられる。そういうことよ。そういうもの。淡々と言い放って、アリシアはさあ、と微笑んで首を傾げてみせた。
「……いったん、もういいかしら?」
ソキちゃんを待たせているの。ごめんなさいね。私もお腹が空いているの。またあとでにしてくれるかしら。穏やかな声に、気圧されたように。しん、と静まり返ったあと、ひとり、またひとりと取り囲む者の輪が崩れていく。ただそれを睨みつけながら、妖精は大丈夫よ、と繰り返した。その光景が、その問答が、幾度も、幾度も、『学園』で繰り返されたものだと知っている。何年かに一回は、こういうことが起るのだ。こういう事故が。ただ、今回は殊更事情が込み入っている。それだけのことである。
リボンちゃぁん、と妖精が離れていることに気が付いたソキの、甘えた声がほよほよと響く。はいはい、と頷いて、妖精はソキのもとへ戻ってやった。