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 ついにルルクは、己の敗北を悟ったらしい。ええぇえああぁあああごめんなさい、と嘆きと呻きが混ざった形容しがたい声をあげてから部屋の隅に頭を抱えて蹲り、それきりちっとも動かないでいる。時折、今の私には難易度が高すぎる、だの、ロゼアくん助けて戻ってきて今すぐそれが無理ならあと二秒で、だの、どこかに覚書でもないかな机あさったら駄目かな真夜中テンションのポエムとか見つけたら埋めればいいの燃やせばいいの音読すればいいの、だの聞こえてくるので、混乱しているだけで意識はあるらしかった。なによりである。けれども極めてうっとおしい。聞こえるようについた妖精の溜息にも、視線ひとつ向けられない。
 そうであるからこそ、寝台の上で楽しく夜更かし計画を立てるソキが、ふんにゃふんにゃと楽しそうになにを言おうとも、ルルクの加勢は望めないままだった。すっかり困り切った顔でメーシャがいくら窘めても、ナリアンが懇願しても、ソキはぺかぺかでぴかぴかの笑顔で、ふーんですぅー、とまったりとした仕草で頷くだけだった。話は聞いたです、という態度だった。ほんとうに聞くだけである。響いてくる音を、それぞれの声をしてきちんと認識した、それ以上の意味を持つ仕草ではなかった。言葉の意味など、彼方に投げ捨てられてそれきりである。ソキの得意な、ひとのはなしきかない、ちっとも、が絶賛継続中なのだった。
 時刻は夜。深夜とは呼べない時間だが、普段のソキならば早ければ談話室を引き上げ、寝台でロゼアにぽむぽむとお腹を撫でられて気持ちよくうとうとしているような時間である。それなのに、きらきらした目をして、ソキはすちゃ、すちゃちゃっ、とばかり、眠くならない飴だの濃く抽出した紅茶だのを次々取り出して並べては、ふんふん鼻を鳴らして気合の入った顔をしている。それら物品を強制的に取り上げることもできず、ああ、ああぁ、とおろおろしきった声を出したナリアンが、メーシャくん、と親友の名をしょぼくれた声で呼ぶ。
「ど、どうしよう……。ソキちゃん、夜更かしとか……て、徹夜とか、させていいのかな……? よくないよね……?」
「分からない、けど。ロゼアがそんなに遅くまで、ソキを起こしてたことがないことを考えると……」
 青年たちはこそこそと言葉を交わし合い、駄目だよね、やっぱり駄目だよね、頑張ろうナリアン、頑張ろうねメーシャくん、などと気を取り直して。よし、と気を取り直した顔で、ふんふん鼻歌を歌ってスケッチブックを開いたソキに話しかけた。
「ソキ。駄目だよ、お絵かきは明日の朝にしよう。今日はもう寝る時間だよ」
「そうだよ、ソキちゃん。明日にしよう? 明日。ね? おやすみしよう」
 む、とくちびるを尖らせたソキの視線が持ち上がる。絢爛の春を抱く森色の瞳。生きたる宝石はナリアンと、メーシャ、二人をゆっくりと見比べるように眺めた後。唐突に、ぱっと笑って頷いた。
「ナリアンくん、メーシャくん。おやすみなさーいです! またあしたー、ですぅー」
 ソキはぁ、ちょっとまだぁ、やることがぁ、あるんでぇ、と。甘くやわやわした『花嫁』の声でしっかり言い聞かせられ、ナリアンとメーシャは、ふっと微笑んで顔を見合わせ、無言で頷いた。ごめんロゼアほんとごめん。むり。ソキちゃんに言うことを聞いてもらうのってロゼアはどうしてるんだろうね、心が折れるよね、うん折られつつあーもうなんか可愛いからいいかなっていう気持ちになるよね、うん可愛いから仕方がないかなってなるね、ソキすごいね、ね、ロゼアごめんね、ロゼアごめんね、と役に立たない呻きばかりが響いてくるので、妖精は腕組みをしなおし、隠さず音高く舌打ちをした。
『この役立たずども……! だから言ったじゃない! 夕食に睡眠薬を混ぜなさいって! こうなったソキが誰かの言うことなんて聞き入れるもんですか! だーかーらー薬で意識を奪えって言ったのよ! アタシは! 言いましたからね!』
「服用間隔が規定より短くて……! 投薬は慎重にってロゼアくんからも散々言われてたんだもの……!」
 自分の言うことでも聞いてもらえない、という事実を鮮やかに棚上げして、妖精はルルクの嘆きを鼻で笑い飛ばした。ロゼアの言いつけなんぞを守るから、こういうことになるのである。ソキがなにか企んでいるな、というのを妖精が察知したのは、食堂でのことだった。ルルクとアリシアを苦戦させながら、好き勝手に気を散らし妖精に怒鳴られ、ソキは頬をぷーっと膨らませながら食事をしていた。その最中のことである。魔術師と契約妖精は、根源たる魔力を同じ所からすくいあげる。だからこその、勘として。妖精は、あ、と思ったのだ。
 ソキはなにかを企んでいる。しかも十中四十二くらいの確率で、ろくでもないことを。ソキが企てるなにかが、ろくでもなくはない良いこと、であったことなど、出会ってこの方こころあたりがちっともない妖精は、その時点で額に手を押し当てた。そしてすぐ、もうおなかいっぱいだもん、を繰り出すソキに苦労しているルルクに、きっぱりと指示をしたのだ。いますぐ保健室に走って睡眠薬を持ってこい。そして、ソキにそれを飲ませろ。契約妖精たるアタシが許す。やれ、と言ってやったのに。えっでも、と手帳の書きつけと妖精を幾度も見比べたルルクが、私には判断できないからできない、などと言うからこういうことになったのである。
 ソキが企んでいたのは夜更かしである。遅くまで起きていたい、というものではない。ロゼアが帰ってくるかも知れないから、それまで起きている、という主張だった。それを、ソキはロゼアがいないのを良いことに夕食を食べて、紅茶が欲しいですぅ濃くだしたのがいいんですぅつくってつくってソキが飲みたいって言ってるんですよねえねえ、とルルクに強請って用意させ、意気揚々と部屋に戻ってくるまで隠しおおせたのである。夜更かし準備に加担した罪を悟って、ルルクは真顔でごめんなさいと謝っていた。ロゼアに。そこで妖精ではなくロゼアに謝るのが最高に解せない所である。
 大丈夫きっと力尽きて寝落ちてくれるよ、日付変わったくらいにそっと見に来ておふとんかけてあげようね、など儚い希望にすがって祈るナリアンとメーシャを、ソキにしては最高に手際よく部屋から送り出して。ご機嫌な笑顔で、おやすみなさーいです、と手を振り。とてちて戻って来たソキは、よじよじと寝台に戻ってふんすっ、と鼻を鳴らした。その頃になってようやく、よろよろと立ち上がったルルクに、ソキは『花嫁』の顔をして言い放つ。
「ルルク先輩はぁ、夜はどうするの? お部屋に戻る? ソキのとこいるぅ? 眠たくなったらぁ、おやすみなさい、していいですからね!」
「ソキちゃん……。ソキちゃんも寝よう……? 夜更かしは美容の大敵だよ。ね? ね?」
「み、みぎゅううぅ……。そ、そうなんですけどぉ……。でも、でも、もし夜に、ロゼアちゃんが帰って来たら、おねむりのソキより、おかえりなさーい、をするソキの方がいいのでは? さびしくないです。ソキはそう思うです。この、ロゼアちゃん秘蔵の、眠くない飴もあるです。ばっちりでは?」
 ねえソキそれはロゼアに無断で引っ張り出したものなんじゃないの怒られるヤツなんじゃないの、と妖精のまっとうな突っ込みを、ソキはふんにゃふんにゃと鳴いて受け流した。ルルクが胃がねじ切れそうな顔をして額に手を押し当て、ひっくり返りそうなほどにのけ反っている。それを見る分に、どう考えてもロゼアがソキを、あるいはルルクをめっぽう叱るようなもので間違いはないだろう。なんだってロゼアは、ソキがちょっとひっくり返したくらいで手に取れるような位置に、そんなものを置いておくのか。ご安心ください、万一の時の為の偽薬ですので、とロゼアが苦笑する未来を知らず、妖精は心から憤慨した。
『ちくしょうロゼアむっつり野郎! 劇薬の管理はしっかりし、あーっ! ソキ! 口に入れるんじゃない!』
「うふん。これでばっちりー、ですー! おいしー薄荷の味がするです。ひんやりふわわです」
「……あれ? 味、薄荷……では、なかったような……?」
 恐る恐る記憶をたどった声で呟き、ルルクがソキに許可を取った上で、その飴をひとつ摘み上げる。矯めつ眇めつ飴を眺め、ルルクはそれを口に含んだ。うぅん、と眉が寄せられる。
「……知ってるのと味が違う、けど。味違いのものがあるかどうかは教わってない……うーん……?」
『毒にも薬にも希望にも塵にもならない情報をどうもありがとう』
「……な、なにかあったら、私が責任をもって保健室までソキちゃんを抱えて走るから。変調があったら教えてね」
 妖精は、ルルクの懇願に仕方なく頷いてやった。妖精の腕では、いくらソキでも抱き上げることは叶わない。ひとと同じ大きさになれる三日間は、いまではないのだ。まあ変調と言っても、とややうんざりした顔をして、妖精は絶好調ひとのはなしをきかない、を実行し続けるソキに視線を落とした。寝台の上で滑空している妖精が見る先、ソキは寝台にころんと横になってスケッチブックを広げ、せっせせっせとそこになにかを書いている。その線の雰囲気から察するところ、なんらかの魔術式である。点と線の描き出す幾何学模様。ぞっとするような緻密さに、妖精は深々と息を吐き出した。
『いいこと? ソキ。それが完成したら、誰よりはやくアタシに教えなさいよ? 褒めてもらいたがって、ちょろちょろ見せて回ったりしないのよ? いい? 聞いてる? 返事は?』
「はー、あー、いー、ですー」
『……変調はないけど、眠くもないわ。困ったこと』
 普段と違う環境に、興奮もしているのだろう。ソキの中にはロゼアの不在に対する押しつぶされそうな不安と恐怖があって、それから目を逸らしている為に、きらきらした希望をいまは見つめている。ソキのしたいことは、みんな駄目だと言われた後なので、待つ以外はもうどうすることもできないのだろう。まあ、ルルクの目をかいくぐって脱走して、独房に突入しようと画策しないだけ良いと思おう、と妖精は苦々しく羽根をぱたつかせた。可能か不可能かはともかくとして、その方法をソキが考えていない、という事実を大切にしていきたい。それも諦めた訳ではなさそうなのが、頭の痛いことではあるのだが。とりあえず今日は良しとしている気配がある。
 それにしても、と妖精は考えを巡らせる。ロゼアが出てくるとして。さすがに今夜はないと思うが、明日にでも明後日にでも、その先にでも。数日のうちには、出てくるとして。どうするつもりなのだろうか。さすがに自分のしたことは分かっているだろう。だからこそ逃亡したともいえるのだし。ただし、ソキが主眼を置いているのが、ロゼアが寮長に暴力をふるっていなくなった、ではなく、ソキが呼んでいるのにいなくなっちゃった、である以上、帰ってくる前に改めさせなければいけない認識が、片手では数えられないくらいにある。ソキはロゼアがしたことを知らなければいけない。ほんとうのことを。
 多くの者が受け止める事実を。それを、そのものとして。知り、受け止め、考えて、理解しなければいけない。それがロゼアを従者として持つ、主としてのソキの義務であり。引き金を引いた原因そのものともいえる、『花嫁』としての責務であり、そして。これからのソキとロゼアに、どうしても必要なことだからだ。幸いなことにして、それは今すぐ立ち向かわせなければいけないことではない。ロゼアが戻って来ない以上は、それまでの時間を費やせばいいからだ。長い夜を。言葉で埋めてしまうのは、今日ではなくていい。今日という夜はまだ、眠りで包んでしまっていい。
 だから、どうか。
『……ソキ。ロゼアが戻って来たら起こしてあげるわ。いいこだから寝なさい』
「ソキ、ねむたくない飴をたべたもん。だからだいじょうぶだもん」
 そういう声が、眠気でもうふわふわしている。おかしいのでは、とくちびるを尖らせながらスケッチブックに向かうソキは、ぱちぱち、のた、と瞬きをして、ぷわわ、と泡のようなあくびをした。それでも、眠りに落ちてしまうほどではないのだろう。恐怖から意識を逸らさせる興奮が、意識を体につなぎ留めている。もうこの際だから謝ることの数が増えても誤差じゃないかなごめんなさい、と言いながらロゼアの引き出しをあけて書きつけを探していたルルクが、一枚の紙を手にして、あ、と言った。
「香油……! あー! いいにおいさせよー! ソキちゃん、いいにおいさせていい? するねっ?」
『もうちょっと静かに聞きなさいよ……』
 すでに半分まぶたが落ちているソキが、くしくしと擦りながら、うぅんにゃぁう、と言葉にならない声でこくりと頷く。それを許可として受け止め、ぱたぱたと慌ただしく動き出すルルクを呆れた顔で眺め、妖精はそっとソキの元へ飛んだ。ころりと転がった万年筆を回収して棚の上に置き、スケッチブックを顔の下から引っ張り出して、寝台の端へ蹴りやる。う、う、と不満げに抵抗してぐずる声を、しずかな花の香りがふわりと包み込んだ。これでほどなく眠るだろう。ほっと胸を撫でおろしたルルクが、ソキの体にやわらかな布団をそっとかける。
 むぅー、とぐずった声をあげて。にょっと伸びてきたソキの腕が、アスルをよじよじと抱き寄せる。アスルをむぎゅりと抱きつぶして頬をくっつけ、ひとしきり、ふすふすと匂いを嗅いだあと。ソキはすぅー、と深く息を吸い込んで、吐き出した。こと、と。眠ったようだった。



 降り積もるような夜が始まる。陰鬱な気配を募らせながらひかりが消えて行くと、生徒たちはひとり、またひとりと寮から姿を消し、自室へと引きこもった。最も長く談話室に留まっていたのは、ウィッシュを擁する砂漠の一派だが、彼らも『花婿』に促されれば逆らわず、ひとりひとり、丁寧な挨拶をして部屋に戻って行く。無人なった談話室の灯りを消したのはウィッシュだった。はじめてかな、とくすぐったそうに笑いながら、普段よりうんとはやく、魔術師は一日の灯りを消した。
 食堂も、風呂場も、長居する者は誰もいなかった。普段ならそこかしこに満ちるひとの気配は音もなく消え、静まり返って夜に食いつぶされていく。なんとも分かりやすいことだ。灯篭を手に寮を見回って歩きながら、副寮長たるガレンは目を擦って苦笑した。夕方から数時間の記憶がない。いけないこは膝枕だーっ、とウィッシュに襲われて気が付けば寝台の上だったので、意識は落ちていたらしい。見張りはユーニャだった。青年はくすくすと笑ってガレンに灯篭を手渡し、夜だよ、と囁くように告げた。
 寝静まる夜だった。それでいて、誰もが息を潜めて緊張して、眠れないでいる。そんな夜だった。柱時計を確認すれば、日付が変わるまでたっぷり四時間はある。焦げ付くような時間の進み。息をするのも苦しくて、己の鼓動を自覚する。できることはした。ガレンは冷や汗を押し戻すように、胸に手を当てて深呼吸をする。できることは、した。している。もがくように。もどかしくとも。結果を待たなければいけない。焦りはもう、今はなにも生まず。悪化させるだけだ。それは分かりやすすぎる答えだった。
 無人の空間と冷えた夜が、気持ちを上手く宥めてくれる。しばらく、して。またゆっくりと見回りを再開し、戸締りもすべて確認した上で、ガレンが足を向けたのは昼に使っていた空き部屋だった。誰かの姿を、声を、求めていた訳ではない。もうすこしだけ歩いていたかった。もうすこしだけ、職務だと己に言い聞かせて、そこに意識を逃がしていたかった。廊下を通って、部屋の扉の前で立ち止まる。零れ聞こえるような騒がしい声はなく。けれども、そこからは灯りが零れていた。
 半ば予想しながら扉を開けば、予想外のあたたかな匂いが出迎える。遊戯盤を挟んで向かい合っていた者のうち、顔をあげて、ふんわりと微笑みかけたのはユーニャだった。
「お疲れ様、ガレン。さ、はやく座って。ご飯だよ」
「ユーニャのその、有無を言わせない感じ。誰かに似てる気がするのよね……?」
 悩みながら、白い石を黒にひっくり返したのはルルクだった。手元には焼き菓子があり、残りはもう数枚である。もっと食べよ、と言いながら木皿にざらざらと紙袋から出していく様は、この間食に罪悪やためらいを覚えている様子はなかった。ユーニャもさりげなくご相伴に預かりながら、のんびりとした口調で、いっぱい食べるのえらいねぇ、などと言っている。ここで食べないとあとで動けなくなるし、あと日付変わる前には寝ないと、と呟きながら、ルルクの視線がくるりと翻り、盤面から戸口のガレンへと向く。
 なにをしているのだか、と不思議がる顔で、ちょいちょいとルルクが手招いた。
「見回り、お疲れさま。寝てて、ご飯まだでしょう? 残りものだけど、用意しておいたから。食べて?」
「……あなたたちは、ここでなにを?」
「報告と、作戦会議と、気晴らしだよ。あと、こんな時だからね。ひとりでごはんを食べさせたくなくて」
 放っておけばそのままでまた眠るか、食べないでも起きてなにか色々しそうだし、と告げるユーニャに図星を突かれた顔をして、ガレンは戸口から離れ、あたたかな光のある場所へ歩み寄った。普段使っていない空き部屋だから、急いで机と椅子を運び込んで、そのままだった。生活感などあろう筈もないが、運び込まれた余分なものたちによって、どこかほっとする空間になっている。机の上には、暖かなスープがあった。深い器にたっぷりともられた野菜スープと、パンが二種類、ひとつずつ。バターがひとかけ。蜂蜜がひと瓶。
 空の陶杯に、ルルクが冷めた紅茶を注ぎ入れる。半分入れて、もう半分は牛乳が注がれた。それをガレンに差し出してから、ルルクはあ、と声をあげる。
「夜に紅茶飲んでも眠れるタイプだったっけ?」
「はい。特に問題なく……。ミルクティーなら甘くして頂いても?」
 まかせて、と微笑んだルルクが、蜂蜜を注ぎ入れてくるくるかき混ぜる。それをぼぅっと眺めながら息を吐いて、ガレンはスプーンを手に取った。いただきます、と声に出して囁く。はいどうぞ、とユーニャが笑った。召し上がれ、と頷きながら、ルルクが甘いミルクティーを置く。ふたりは特別ガレンに話しかけることなく、時折、視線を向けて意識を逸らしていないことを示しながら、ふたたび盤面に向き合って行く。白と黒に染めた石をひっくり返して行う、陣取りの遊戯盤である。白がユーニャ、黒がルルクであるらしい。
 盤面はもう半分以上、石が置かれており、色だけならルルクが優勢に見えた。が、ルルクは難しい顔をして一々悩んでは石を置き、ユーニャはひょい、と次を置いてはひっくり返している。ぽつぽつ、言葉が交わされていた。深刻なやりとりはひとつもなく、たまに、ちいさな笑い声がどちらともなく零れて行く。ガレンがミルクティーを飲み干せば、ルルクは無言でまたそこへ紅茶を注ぎ入れた。牛乳も、蜂蜜も、ガレンの舌と喉が、いま一番求めるぴったりの味に調整されていた。
 冷えて乾いていたものが、あたたかく満ちて行く。なにもいらないと思ったのに。なにも、喉が通らないと思ったのに。でも、お腹が空いていたのだ。喉が、とても乾いていた。暗くて冷えてしんとした場所から、明るくて暖かく、穏やかな声が響く場所に来たかった。そこに。いたかった。はぁ、と幸せな息を吐き出して食べ終えると、勝負のついたらしいルルクとユーニャが、ひょいと顔を覗き込んでくる。
「あ、顔色よくなった。よかったね。気分もすこし落ち着いたんじゃない?」
「はい。ありがとうございます、ユーニャ。ルルク。……アリシアは?」
「アリシア? ふふ。ねてる」
 それを、ルルクがあんまりにも幸せそうに、とろけた顔で言うもので。つられて笑って、ガレンはそうですか、と言った。アリシアはねぇ、と紅茶の最後の一杯を自分のカップに注ぎ入れ、蜂蜜もミルクもたっぷりいれてかき混ぜながら、夜は寝ちゃうの、とルルクは言った。
「早起きは得意だけど、夜更かしは苦手なの。昔から。……今日は疲れたでしょうから、ゆっくり眠れるなら、その方がいいね」
「あなたは? ルルク。あなたも眠らなければ。ユーニャも、ですよ」
「んー……うん、まあ、寝る。寝るわよ……?」
 考え込みながらの言葉だった。なにかしなければいけないことでも、と訝しむガレンに、そういう訳じゃないんだけど、と歯切れ悪くルルクは眉を寄せた。
「ちょっとソキちゃんの様子を見ながらにしたいな、と思って。あ、今は寝てるよ。妖精が付きっ切りで傍にいるし、いくつか音の出る罠も仕掛けてきたから、脱走して独房に行こうとしてもすぐ気が付くと思う」
「罠? ……はい? 罠?」
「ロゼアくんの上着を餌にしたから、引っ掛かると思う」
 真面目な顔をしてルルクは言ったが、ガレンが聞きたいのはそこではない。こう、上着を取ると棒が倒れて、籠が落ちてきて上に重しが乗っかって出られなくなるような、古典的なヤツ、とルルクが説明する隣で、ユーニャが笑いをこらえている。そうですか、とガレンは頷いた。
「そういう罠ですと、さすがにソキでも引っ掛からない……とは……思い……。……いえ、ソキなら捕まえられそうですね」
「でも、眠ったんでしょう? なら、そんなに気を張らなくても大丈夫だよ、ルルク」
 なにが不安なの、と柔らかく問うユーニャに、ルルクは全部かなぁ、と素直に言った。
「ロゼアくんが全然いない状況で、ソキちゃんの状態を見てるってはじめてのことだし……。あと、私の言うこと聞いてくれないし……」
「そう?」
「そう。全然。ぷいってされる。……ぷいってしてるの、可愛いねー、とは思うんだけど。思うんだけどー! うーん! どうしようかなー!」
 やり方とか、言い方とか。教えてもらった通りにできてないってことなのかなぁ、と不安がって手帳を取り出そうとするルルクを、ユーニャがやんわりとした仕草で止める。掴んだ手首を、きゅ、きゅ、と柔らかく握り込んで。そっと離して、ユーニャはひとつ、ルルクに問いかけた。
「困ってるって、言った?」
「言っ……ってないけど、困った顔はしたし態度にも出たと思う……。いや言ったかな……。困るとか、どうしようとか、あー、とか……?」
「うん。ソキに、困ってるって言うといいよ」
 ひとりごととか、呻き声じゃなくてね。ソキに、ルルクが、困ってることを伝えるといいよ、とユーニャは言った。ソキの言葉に、態度に、ルルクの言うことを聞き入れてくれないことに。ルルクが、困っている。そういう風に伝えるといいよ。やってみて、と告げるユーニャに、ルルクは縋る顔をしてこくこくと頷いた。
「そうしてみる……」
「うん。そういう風に伝えてみてね。……部屋を追い出されもせず、傍にいる? って聞かれたのなら。大丈夫だよ、ルルク」
「……詳しいですね?」
 ひと段落ついたとみて、つい。口に出してしまったガレンに、ユーニャは内緒だよ、という風に口先に指を添えて笑った。
「そういう生まれ育ちをしたからね、俺も。……比べることも申し訳ないけど、分かりやすく言うと、ロゼアみたいなものなんだよ。魔術師になったから、もうそういう風には、できないんだけど」
「えっ……それ私関わっていいやつ……? 知ってもいいこと……? 後々問題とか起きたりしない?」
「しない、しない。……でも、そうだな。ウィッシュは察してるだろうけど、ソキにはもうすこしだけ、聞かれないなら言わないでいようかな、と思うくらい。びっくりしちゃうからね。ロゼアも動揺するだろうし」
 ロゼアのびっくりした顔は、それはそれとして見たいけど、と。ろくでもないことを言うユーニャに、ルルクは嫌そうな顔をして、すすっと椅子を引いて距離を開けた。
「私はいまなにも聞かなかったから……。アドバイス以降、なんかこう、急激な記憶障害とか、そんな感じのアレが起きたから……」
「……この期に及んで亀裂が入るようなことなら、いま私だけは聞いておきますが」
 素早い動きで両耳を手で塞いだルルクの、手首を楽しそうに指先でつつきながら、そんな怖いことではないよ、とユーニャは言った。
「去年、俺の兄さんが結婚した相手が、ソキの異母姉の『花嫁』だっていうだけ。それで、俺の家は数代ごとに、『花嫁』や『花婿』をお迎えする家っていうだけだよ。各国にひとつか、ふたつくらいあって、『お屋敷』からは『花園』って呼ばれているひとつ。砂漠の筆頭、ジェイドさん、いるでしょう? あのひとも、元『花園』の家の出だって聞いたことあるよ」
「あー! 聞こえなかったあぁああーっ! うっすらとでも聞こえなかったー!」
「それは……それはあの……亀裂は走らないでしょうけれど、激震が生じるのでは……?」
 しかも、主に、ロゼアとソキに。そうだよねえ、とわりと他人事の顔をして、おっとりとユーニャは頷いた。
「だからまあ、今回のことが落ち着き切るまでは、言わないでいいかなって」
「そうしてぜひともそうしてほんとそうして……。え……? 他にそういう情報隠し持ってたりしない……? いや私なにも聞いてないけど、なにも! 聞こえて! なかったけど!」
「自分だと分からないけど、たぶん、ないよ」
 どうしよう全然信じられない、と思ったのはルルクだけではなかったらしい。分かりました、と息を吐いたガレンが、そっと手をあげて提案する。
「落ち着くまでは、特に、ロゼアとソキに対する個人情報の開示に注意するようにしてください。くれぐれも。それと、私たちに対して明かしてくれなくとも結構です。落ち着いた頃に、必要があれば、お聞きしましょう。必要があれば」
「いまは、必要ないかな?」
「それが例え全体から見たら誤差の範囲であっても、誤差であっても、これ以上、いま、問題を、増やさないで、ください。……いえ、失礼。なにが問題で、なにが問題でないのかを、考えて判別するだけの時間も、手間も、思考も気力も、ありません。増やさないでください。なんであろうと」
 そうだね、と満足そうな微笑みで、ユーニャは椅子から立ち上がった。ガレンの物言いがお気に召したようだった。食器はあとで片付けに戻るから、そのままにしておいて、と告げ、ユーニャはガレンの腕に触れて立ち上がらせる。
「部屋まで送るよ。おやすみって言うから、眠るんだよ?」
「……はい。では、そのように」
「あー、分かった誰に似てるか分かったジェイドさんだ……。気が付いたことに気が付かないでおこう……。忘れて私の記憶力……!」
 ルルクも記憶喪失を祈ってばかりいないで、ソキの部屋に戻るなら戻るで気持ちを休めるんだよ、と極めて他人事めいた物言いを残し、ユーニャがガレンを連れて立ち去って行く。ああうん、あのなんていうか、根本的な原因から自分を完全に抜いて気遣ってくれるあたりがとてもよく似ている私はなにも考えなかったこれについて考えることをやめよう、とうつろな目で呟いて言い聞かせ、ルルクもまた、溜息をつきながら椅子から立ち上がった。
 火を入れた灯篭をもって、暗い廊下を歩きだす。そうして、辿りつくべき場所に。迷うことはなかった。



 夢うつつ。ぬくもりを求めて伸ばした腕が、つめたい虚空だけを抱く。ソキがいない。半ば強制的な、反射的な動きで瞼を押し上げ、ロゼアはくらやみの中で身を起こした。ソキがいない。焦りと怒りに似た感情が意識を焼きながらも、訓練されきった感覚が、そこへ冷静であれとする意思を押し付ける。吐き気を堪えて口に手を押し当て、ロゼアは寝台に、次いで室内にゆっくりと視線を巡らせた。ソキがいない。ソキが。熱を失ったシーツを指先で確かめ、息を、吸い込み。ようやく、ロゼアの寝ぼけた意識は、現在位置を思い出した。
 独房である。『学園』の。ソキがそこに、共にある筈もないのだ。は、と気の抜けた息を吐き出して、ロゼアは寝台にぱたりと身を倒した。部屋の寝台よりいくぶん硬いが、十分に手入れされた台は、穏やかにロゼアの身を受け止めてくれた。目を閉じて息をする。ソキはどうしているのだろう。ひとりで眠れているのだろうか。食事はとれたのだろうか。湯を使って身を清めて、着替えは。くるくると、とりとめもなく。思考が浮かんでは、うっすらとした不安だけを残して消えて行く。ひとつも形にならない。それなのに。
 ソキのことばかり考えた。ソキのこと。ソキの言葉や、声や、普段のこと。日常のこと。ソキのことばかりを、考えた。他に考えるべきことはある筈なのに。火に触れた手が反射的に逃げるように、そのことに意識は怯えて、思考は形成すことすら難しかった。ほんとうに考えなければいけないことを、ロゼアは知っている。自覚している。理解している。己がなにを成したのかを。どういうことを、してしまったのかを。ひとの骨を砕いた感触が手から離れない。音が耳の奥にこびりついている。消えない。
 思い出す。『学園』に来る旅の途中。己を捉えようとする腕。暴走した魔力。その結果成したことを、まなうらから消したことはない。忘れたことはない。魔力というものがなにを成すのか。魔術師という存在が、なにをしてしまうのか。それを前にしたひとが、どこまで無力な存在であるのか。制御できないということが、そうある、己の意識が。どこまで無秩序な暴力であるのかを。思い知った。忘れることはない。忘れたことはない。けれど、あれは。あそこにあったのは悪意で。そこにいたのは、ロゼアを脅かすものだった。
 心身の自由を、明確に奪おうとするものだった。害ある敵だった。だから、とは思わない。だから、だけど、その上で。ロゼアはしてはいけないことをした。ひととして、魔術師のたまごとして。許されないことをした。許されてはいけないことだった。許容されてはいけないことだったのだ。ひとの、いのちを、奪うだなんてことは。許されない罪だった。ロゼアはそれを犯した。けれども本当の意味では捌かれることなく、『学園』に迎え入れられた。不幸な事故だと、されたのだ。あれは不幸な事故。事故なのだ。
 忘れなさい、とは言われなかった。覚えておきなさい、とロゼアは、誰かがそっとそれに触れるたびに繰り返し告げられ、己でも、その胸に刻み込んだ。覚えておきなさい。なにをしたのか。覚えておきなさい。あれはそう、不幸な事故ではあったのだけれど。不幸とは、とロゼアはたまさか考えた。しあわせに眠る『花嫁』を腕に抱いた夕暮れや、朝のきらきらしたひかりに満ちた食堂で、友と挨拶を交わした時。ほんの一瞬の隙間に、ふと、そのことを考えた。不幸とは、どちらのものだったのだろう。焼き消されたいのちか、それとも。
 もし、と意味もないことを考えた。もし、もしも、もうすこし、制御できる状態であったのなら。たとえば、いま、あの瞬間に戻ったとして。戻れたとして。魔術ではなく、魔力ではなく。相手を制圧して、逃げおおせることは叶ったのだろうか。想像はいつも、半々だった。できると思えることもあれば、難しい、と感じることもあった。もっと、魔力の制御ができていれば。あるいは、もっと、年齢を重ねていれば。いますぐに得られないものを得ていれば、あの時、あるいは、もしかしたら。そう、思っていた。けれど。
 存在を根底から揺るがされた時。その仮定のなにもかもが無意味だと知った。ロゼアが考えられたのは、ソキが直接関わっていないことだったからに過ぎない。己の身に直に降り注いだ危険よりも、『花嫁』を奪われるかも知れないという『傍付き』の恐怖と本能が冷静な思考と判断を塗りつぶしていた。その時に立ち戻り、考える。別の判断はできただろうか。あの時、寮長を排除すべき敵として認識してしまうのではなく。もっと他に。言葉で。対話で。ああ、とロゼアはくらやみで嘲笑う。無理だ。そんなことはできない。
 できないから、ロゼアはここにいる。ひとりで。
「……寒い」
 意識が途絶えるより前のこと。眠ろう、と思った記憶はなかった。いつ横になったのかも覚えていない。とりとめのない、なにひとつ形にならない思考ばかりが浮かんでは増えて行くばかりで、息苦しくて、ひととの会話さえ、食事さえ、呼吸さえ。くるしくて、くるしくて、自由にはならなくて、くるしくて、できなくて。パルウェが幾度か訪れ、ぽつぽつ、なにか、言葉を交わしたことは覚えていた。その内容は思い出せず、意味のある言葉を返せていたかすら定かではない。ロゼアの意思を乗せられた言葉ではなかった。
 そうであるから、休むだなんて。寝台に横になって目を閉じるなんてことを、どうしてしたのだろうか。どうしてそんなことを、しなければならないと。そんな風に混乱が満ちて行くばかりの意識が思ったのか。ふ、と布団をかけなおして、ロゼアは覚えのない上着が腹のあたりでくしゃくしゃになっているのを発見した。ずるりと引き出して確認してみると、それは確かにロゼアの上着である。ただし、部屋に置いてきた筈のものだった。談話室に持ち込んだ覚えはないし、袖を通していた記憶もない。それがどうして、ここにあるのか。
 パルウェが。断片的な、泡のような記憶が、ロゼアにほとりほとりと答えをおくる。パルウェが手渡してくれたものだ。それを。上着を。どうして。きっとここは寒いから。どうして。ロゼアがひとりでいるから。どうして。誰が。ソキが。ソキが、扉の前まで来ていて。ロゼアにこれを渡して欲しいと願ったから。ソキ、ソキ。ロゼアの『花嫁』。この世界にソキ以上に優先すべきことなどない。この世界に。ソキ以上に求めるものなど。けれども、そう、求めることは許されない。許されていない。だから。
 ソキに求められなければ、ロゼアは。
「……う」
 生存を脅かすような恐怖と不安感が、臓腑の底からロゼアを焼いた。求められることで、『傍付き』は『花嫁』の傍にいることを許される。そう、許されるのだ。なら、求められていないのだとすれば。それは不要ということだ。『花嫁』が『傍付き』を求めないというのは、そういうことなのだ。存在の否定。なにより、願い。なにをしてでも傍にいたいと、願い。その代償に、こころを差し出し、砕かれ。欲を差し出し、削られて。その痛みにも苦痛にも耐えて、耐えて、傍にいたいと願った果て。許された者が『傍付き』と呼ばれた。
 ソキはもう『花嫁』ではない。嫁ぐことがなくなったからだ。ロゼアももう、『傍付き』ではない。魔術師のたまごとして、『学園』に召集されたからだ。ふたりは共に、『お屋敷』の決めた枠組みから外れている。だから。だから。けれど、ずっと。そう、ずっと、ふたりは。一緒で、離れないでいていいのだと。思っていた。『花嫁』がそう求めていてくれたから。ソキがそう、求めていてくれたから。ロゼアは、『傍付き』は、その傍にあっていいのだと。そう思っていた。変わらず、求めてくれているのだと。
 分からなくなった。ロゼアの知る『花嫁』なら、寮長の言葉に烈火のごとく怒っただろう。いつまで、という言葉にはずっとですううぅ、とかんかんになって怒り。たかが、なんていう言葉を聞こうものなら、アスルでもなんでも、止める間もなく投げて、投げて、手がつけられないくらいに暴れたに違いない。それを宥めるのには苦労しただろう。いや、とロゼアは己の思考を否定した。苦労ではない。ソキを宥めることには苦労するだろうが、そのこと、そのものに対して、そんな風に感じたことはなかった。
 傍にいられる。触れて、宥めることができる。それは幸せだ。なににも代えがたい幸福。ロゼアの持つ、幸いの全て。求めて欲しい。世界でただ一対だと信じられた、あの頃のように。今も変わらずそうあるのだと。もし、もしも。あの頃と変わらぬ気持ちなら。『お屋敷』で二人、木漏れ日に心地よく微睡む幸福を、そっと味わっていた頃のように。ふたりでいたい。そう、思ってくれているのなら。それは今までならば疑うこともなく。疑う、という気持ちを持つことはなく。信じる、という気持ちを持つことはなく。ただ、そこにあった確信だった。
 揺らいでしまった。疑ってしまった。そこに不安があるのだと。ともすれば、ずっと、不安なことだったのだと。突き付けられ、貫かれて、逃げられない。ソキ、とロゼアは声に出さず、己の『花嫁』の名を呼んだ。ロゼアちゃん、と蜂蜜よりも甘くとろけた声が、耳の奥にふんわりと蘇る。ロゼアちゃん、ロゼアちゃん。ソキ、と呼んでも、声はなく。そこに、ぬくもりはなく。ロゼアは上着を抱き込んで、ただ、目を閉じた。朝まで時間があるのだと感覚的に分かっても、もう眠れる気はしなかった。腕の中にソキがいない。
 荒れ狂いかけるロゼアの魔力に、ふわ、とひかりが零れて。ほろほろと崩れるように消えて行く。上着に溶け込んだソキの魔力は、ただ。そこに寄り添い、撫でるばかりで。声にも、ぬくもりにも、ならなかった。



 時刻は真夜中。深夜二時。『お屋敷』を眠りの静寂が包む頃。儚い『花婿』めいた笑みで、来ちゃったっ、と言い放つジェイドほど迷惑な存在を知らないのだが、これは殴って埋めても許されるものなのだろうか、とハドゥルは考えた。時刻も時刻だが、来客予定に名が書かれていた記憶はなく。そもそもジェイドが来る、という話すら出ていなかった筈である。またか。また無断侵入なのか。瞬間的にいらっとされたのを察したのだろう。にこ、と笑ったジェイドが、ほぉら、と弾んだ声で差し出したのは、当主直筆の許可証であった。
 日付が自由に記入できる、その日限りの立ち入り許可証である。なぜそんなものが発行されているのか。ラギさまは御存知のものなのですかと呻けば、ジェイドはうーん、と不安にしかならない思考の声の後、のんびりとした仕草で頷いてみせた。
「俺にくれたのは知ってると思うよ。今日だとは思ってないと思うけど。まあ数日分あるから、安心して?」
「は? 数日分?」
「一々許可取るのめんどくさいだろ、俺に会いたくなったらいつ来てもいいんだぞって、レロクさまが。お可愛らしい方だ」
 こいつやはりたぶらかしたのかころそう、とハドゥルが決意を固めた、その瞬間だった。そういえば告げ口に来たんだけどね、とジェイドが言う。一緒に飲みながら話したりしようと思って、あっハドゥルこれ好きだったよね、と押し付けられたのは酒瓶である。それも滅多に手に入らない銘柄の、ハドゥルの好みを打ち抜くものである。あぁあああああああこういう所がほんとうにあぁああああああ、やだ、と全力で思いながらも思わず受け取り、ハドゥルはうつろな声で、それを反射的に確認した。
「……告げ口?」
「うん。ロゼアがね。なんか、喧嘩して相手の骨砕いて独房にいるんだって。いま。どうする? 反省文の書き方とか教えてあげる?」
「は? ……いや、うん。うん……? は……?」
 そこではない。仮に、数千歩譲って、ロゼアに、ジェイドに教えてもらわなければいけないことがあるにせよ、それではない。反省文ではない。というより、息をするように適当に、心をこめず、それでいて相手の真心にはしっかりと訴える反省文を捏造できるジェイドは、教師としての立場を与えてはいけない人種である。よしそれじゃあ心にもないことを文書にする練習からね、などと言い出しかねず、やらかしかねない。なぜってジェイドである。前科がある。ハドゥルに対してやったことだ。ロゼアにもやる。確信が持てた。
 いいです、なにもしないでください。遠慮しないでいいよ。いえフリじゃないので。もうハドゥルったら、そんなこと言って。フリじゃないって言ってるでしょう。うんうん、そうだね。ない期待に応えようとしないでください。そうだねー。応えないでくだ、あぁあああああああああああなにもするなって言ってんだろおおおおお。ハドゥル、しー、だよ、深夜なんだからね、というやりとりを廊下で繰り広げたのち、ハドゥルはなぜか、ジェイドを室内に招き入れ、机で向かい合って酒を傾け合っていた。
 どうしてこんなことに、と嘆くハドゥルに、ジェイドが心配そうな顔をして告げる。
「そうだよね……。ロゼアももっと、人目のない所で、上手に骨を砕けばよかったのにね……」
「なにもかもが違う……」
「ところで、落ち着いたらお祝いする?」
 意味が分からない。ちょっとではなく。全然分からない。なにを言ってるんですかなんのことですか、と酒を煽ってハドゥルは呻いた。正気で相手をしていたくない。ハドゥルったらたくさん飲むねぇ、と。気を付けなよと言いたげな口調で、空いたグラスにどぱどぱだぱぱ、と継ぎ足してくるジェイドの相手は、特にしたくない。瓶が空になったら帰ってくださいよ、という言葉に適当にでも頷かれたことを確認して、ハドゥルは言葉を促した。祝い。なんの祝いだというのか。
 ジェイドは柔らかく微笑んで、ロゼアのだよ、と言った。
「あのね、ロゼアったら、いつまでソキの世話をするつもりだ、『傍付き』なんてたかが職業だろう、って言われて、相手の骨砕いて独房に逃げちゃったらしいんだけど」
「祝う要素が……ない……」
 しいて言えば、そんなことを言って来た相手に対する、不快感と怒りならある。ロゼアもさぞ、傷ついたことだろう。先方に対する謝罪はしなけれないけないにせよ、ロゼアの負った傷が気がかりだった。はー、と息を吐きながらグラスをあおるハドゥルに、ジェイドはにこにこと笑った。
「もう、ハドゥルったら、そんなこと言って」
「あー、もうやだ会話したくない」
「だってさぁ? ハドゥル。そんなこと言われたら、普通、『花嫁』連れて逃げない? 俺ならそうすると思うけど?」
 そんな風に、引きはがそうとする者がいるのなら。ジェイドなら相手を叩きのめして、シュニーを連れて籠城する。確かに、とハドゥルは眉を寄せた。聞けば、ソキはひとりで、独房に入らずにいるという。ロゼアと一緒ではないのだと。どういうことだ、と考えるハドゥルに、ジェイドはだからね、と言った。
「つまり、『傍付き』ではないロゼアの成長ってことだよ。不安になって怖かったんじゃないかな」
「そうか。……ああ。ああ、そうか……」
「そうだよ。……ふふ、嬉しいな。ロゼアが俺のこと、いっぱい頼ってくれるようにしておかなくちゃ……」
 照れくさそうに言うことではない。息子の今後の心配をしながら、いいですかやめてください、と告げるハドゥルに、ジェイドは生き生きとした笑みで遠慮しないで、と言った。言い放った。
「ハドゥルの息子なら、俺の弟のこどもみたいなものだし」
「は?」
「魔術師としても先輩だし、あと、色々ね。ふふっ」
 すこぶる楽しそうである。ハドゥルは、もう一度、渾身の力を込めて言った。
「は? 正気を失っているのでは?」
「もう、ハドゥルったら、すぐそんな、可愛くないこと言って」
「うわ正気を失っている……」
 心からドン引きするハドゥルに、ジェイドはにこ、と笑ってグラスに酒を継ぎ足した。瓶の中身は、まだ半分以上残っている。朝が来る前には帰れるかな、と思いながら、ジェイドは苦い味のする酒で、心地よく喉をうるおした。

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