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 もこふわした白兎のリュックサックをよいしょと背負い、にこにこご機嫌にとてちて歩いて来たソキはどう見ても遠足だったが、パルウェは騙されず、溜息をつきながらしゃがみこんだ。ふんにゃふんにゃにゃ、と鼻歌を歌いながら通り過ぎようとするソキを、微笑んで捕まえる。
「はい。そこまで。駄目よぉ、入ったりしちゃぁ」
「な、なんという、むじひなしうち……! あ、ち、違うです。ちがうですううぅ! ソキ、ちょっとお散歩に来ただけなんですよ。ほんとなんです、ほんと、ほんとです。それでね? この先にお散歩に行くんですけどぉ、偶然、ロゼアちゃんがいるかも知れないんでぇ、でもそれはお散歩ソキの偶然の出来事なんでぇ」
 だからね、ちょっとだけ。ちょっとお散歩で通りがかっただけなんですよ、それでね、ちょっと向こうに歩いて行くだけです。自主的にお散歩をするソキ、なんてえらいことです、とふんぞりかえり、ソキはパルウェが門番をしていた先、懲罰室へ歩いて行く。それをうっかり、なぜか本当にうっかり見送りかけて。パルウェはハッと息を飲みながら、かたつむりに似た速度で進む、ソキの前に立ちふさがった。
「駄目よ。ロゼアくんには会えないの。それに、ここは立ち入って良い場所ではないのよ」
『ほら、だから言ったでしょう? 戻って来なさいな、ソキ』
 妖精の声に顔をあげてみれば、懲罰室へ向かう曲がり角に妖精と、胃のあたりを押さえて蹲っているルルクの姿があった。ソキが振り切って来た、というよりも、あんまりにも言うことを聞かないのでいったん自由にさせたのだろう。そこにはパルウェが止めない訳がない、という信頼があったが、厄介ごとをそのまま投げつけられたような気もした。もう、と息を吐き、パルウェはぷーくーっ、と頬をまんまるに膨らませたソキに、困りながら言い聞かせた。
「ここは、懲罰室。隔離されなければいけない魔術師の、反省の場よ。……分かるでしょう?」
 この場の意味が。そして。部屋に続く廊下、壁、柱、灯りの為の灯篭。薄く引かれた絨毯。そこに、魔力を封じ込める為の術式が、数えきれない程に書き込まれている。朝のひかりに満ちてなお、薄暗さと重苦しさを感じさせる空気がそこにある。それを、妖精眼を持つ魔術師のたまご。あなたが視られない訳はない。静かに、あまりに静かに窘められて、ソキはつむん、とくちびるを尖らせてみせた。重厚な叱責も、奥底にある怒りさえも、その仕草ひとつであまく解いてみせる、『花嫁』の仕草。
「分かってるです。でもね、うーんと、うーんと……あ! うふん。えっとね? それでね? それじゃあね? 勝手に入ったソキも、いけないのでは? 反省しなくてはいけないです。ソキ、あそこのお部屋ではんせーするです。いい考えでは? あとね、朝ごはんも持って来たですからね、ご一緒ごはんをするです。すばらしー! 考えでしょ? さっ、ソキはあのお部屋に行くですいややんいややん! ふぎゃぎゃぎゃん! ソキを抱き上げちゃだめぇえぇっ!」
 無言で。パルウェに力づくで抱き上げられ、差し出されながらちたちたぱたたと暴れるソキを、駆け寄って来たルルクが引き取った。ふぎゃんふぎゃんと機嫌悪くうなりながら、てちんっと廊下に下ろされて、ソキはじだんだを踏んで悔しがる。
「もーちょっと! もーちょっとでいけるとこだったですううぅうぅ!」
『はいはいそうね。惜しかった惜しかった。はい、じゃ、ソキ? 約束よ? 一回試して、上手くいかなかったらどうするんだったかしら? アタシと約束したでしょう? ほら。どうするんだった?』
「うぎゅううぅ……。う、うぅ……。ソキは、パルウェさんに、ごめんなさいをしてぇ……食堂に戻って、メーシャくんと、ナリアンくんと、ご飯を食べるですぅ……。うむぅ……リボンちゃぁん……」
 甘えた声でじっと見あげられても、妖精は腰に手をあててソキを睨みつけた。
『駄目よ、そんな顔したって。約束したでしょう?』
「……ソキはぁ、偉いんでぇ……お約束を守るソキ、お約束を守れるソキ、なんですよ。なんていうすばらしことです……えらいがすぎるのでは……? 一刻も早いロゼアちゃんの褒め、抱っこ、ぎゅうが必要なのでは……?」
『はいはいアタシが褒めてあげるから我慢しなさい。あー、偉い。えらいえらい。さ、パルウェに謝りなさい。騒がせてごめんなさい、無断侵入しようとしてごめんなさい。言えるわね?』
 ぷっくううう、と頬を膨らませてちたちたとした後、ソキはしんなりと力をなくし、そこそこ素直にこくりと頷いた。黙して見守っていたルルクがほっと胸を撫でおろす。ソキは膨らませた頬をふしゅるとしぼませてから、もじもじと今更人見知りを思い出したかのような仕草でパルウェの前に立ちなおし、ごめんなさいですぅ、と『花嫁』らしい、うつくしくもどこか儚い仕草で礼をした。
「朝からお騒がせをしてしまったです……。勝手に入ろうとして、ごめんなさいです……。見逃したりしてもらえるには、ソキの可愛らしさと魅力が足りなかったに違いないです……。ごめんなさいです……。いっぱい朝ごはんを食べて、めろめろりょくをあげて、出直してくるです……」
『いやこれ反省してないわ? というか、謝るトコがそこじゃなさすぎるのだけれど? ソキ?』
「パルウェさんにごめんなさいをしたんでぇ、ソキ、朝ごはんを食べに行くです」
 ルルクの服をちょん、と摘まんで持って自慢げにふんぞりかえって宣言して、ソキはとてちてと歩き去っていく。溜息をついて後を追いながら、妖精は悪かったわね、とパルウェを振り返った。
『落ち着いたらちゃんと謝らせるし、教育的指導はこれからするし、出直させたりしないから勘弁してちょうだい』
「分かったわぁ。それじゃあ、よろしくね……?」
「はい! 申し訳ありませんでした! ……さ、ソキちゃん。約束だものね。朝ごはん、いっぱい食べようね」
 ソキはつむむん、とくちびるを尖らせながら、ルルクの言葉にふすんと鼻を鳴らしてみせた。またそうやってすぐ拗ねて、と妖精の雷が落とされる。ぴぎゃぁあんいやぁああん、とソキの甘く、ふわふわとした泣き声が遠ざかっていくのを聞きながら、パルウェはそっと息を吐き、懲罰室を振り返った。しんと静まり返る、薄暗い廊下と、鎖されきった扉がいくつも並ぶ。その内側に音は届いていないだろう。なにものからも隔離され、守られる為の空間として作られたものだからだ。
 どの扉も同じ作りで、使用されている部屋と空室があるが、分かりやすい目印は置かれていない。零れる魔力の一欠けすらない。それなのに、ソキは。ごく正確に、ロゼアがいる部屋を示してみせた。パルウェは寮長にも、五王にすら、ロゼアの独房使用を報告したけれど、具体的にどの部屋を、という報告はしていなかったのに。その情報はロゼアと、管理者として全権を譲り受けているパルウェ。ふたりだけが知るものだ。手がかりはなく。情報はふたりの、頭の中にしかない。それなのに。ソキの瞳には確信があった。
 魔力を介する魔術師ではなく。『花嫁』の、『傍付き』との繋がりが、それを示させたのだとしたら。その呼び名を以て生きることがなくなったという、たったそれだけのことが、どれ程の意味を持つのだというのだろう。職業的な認定を受けなくなったというだけで、技術は、知識は習得した者の身に、心に、刻まれて残るのだということは、ナリアンやアリシアを見ても明白なことなのに。過去は消せない。連れて行くものだ。魔術師であればいつか知るその言葉を、ほんとうの意味を、かみしめるように呟いて。
 パルウェは、もう幾度目かも分からない息を吐き出した。考えるだけで頭が痛くなって来る。この度の事態は、ほんとうに困難なことだった。誰もがもう一度、生まれなおすような痛みを覚え、そしてその先に。あるものをまだ、誰も知らないでいる。



 朝の食堂はやや閑散としていた。時間帯はいつもなら混雑している頃合だから、これはもう、誰も彼もが引きこもっていると見て間違いはないだろう。来るまでにちらりと確認した談話室は、ねむたそうなウィッシュを砂漠出身者が囲んでいたから、今日も停滞する平和地帯として守られるに違いない。普段、談話室で多く時を過ごす者を、そこからはじき出して。火の粉に触れたような肌の、緊張する意識を置いたまま。時間は流れていく。夜は明けて朝になって、目をさませば、空腹を覚える。その繰り返し。
 食べなければひとは、生きていけない。魔術師とて同じこと。さすがに一食や二食抜いた所で即座に体調を崩す、ソキのような貧弱体質ばかりだとは妖精も思わないが、欠食を快く歓迎する気持ちにはなれなかった。どうしても食べたくないのなら、無理に詰め込む必要はない、とも思うのだが。そのあたり、食堂勤務の魔術師とは、意見の食い違いがあるらしい。普段は厨房から出てこない調理服を着た者たちが、今日はさかんに食堂の出入りを繰り返している。その手にはいっぱいの食料があった。
 部屋から出てこない者、空室に集まって避難している者たちに、朝食を届けに回っているのだという。この状況で飢えなんて覚えさせてたまるものか、という信念が、彼らの顔つきからは感じさせられた。未熟だからこそ、惑うことは多いだろう。衝突しあって、苦しいことばかりだろう。考えなければ、前にも後ろにも進めないでいるだろう。その気持ちも、状況も、分かるよ、と言って、厨房方は『学園』を走り回り、時に拒否されるその腕に、無理にでもあたたかな食事を押し付けて行った。
 わたしたちも、かつては未熟な魔術師のたまご。あなたたちだった。だから、分かるよ。いま、なにが苦しいのかも。いま、なにをつらいと感じているのかも。無力感も焦りも怒りも、悲しみも。きっと全部、分かるよ。理解してあげられる。だってわたしたちもそうだった。でもね、だからこそ。だからこそ。わたしたちは、その時された押し付けのやさしさを繰り返す。きっとこれが正しいのだと、信じて託された、その時の想いを繰り返す。食べることは生きること。生きるのは、これからのこと。
 おなかをいっぱいにして、怒っているひとってあまりいないよ。おなかをいっぱいにして、今と同じかなしさに襲われていることは、きっとないよ。つらいのは、苦しいのは、これからを考えるからだよね。今で途絶えさせてしまわないで、これから、どうすればいいのかを考えてしまうからだよね。今より先を、なにも諦めてしまっていないからだよね。良くなるかも知れない。悪くなるかも知れない。なにをすればいいのかも分からない。なにができるのかも分からない。考えたい。考えられない。走り出して行きたい。立ち止まっていたい。
 なにをするにしても。体に力を入れてあげよう。魂が、息をする為に。必要なもののひとつ。さ、おはよう。朝だよ。ごはんだよ。そう言って笑って、繰り返し繰り返し、厨房方は食堂と、魔術師のたまごたちの間を行き来した。食堂で直に食事をするソキたちは、ごく少数派である。そうであるからソキたちにも、普段のような朝食とは違い、届けられたのは同じ、おべんとう形式のものだった。ソキの好きなまあるい、白いふわふわパンに、ハムとチーズ、卵とレタスがふんだんに挟まれている。
 それを、あーん、あぁああーんっ、といっしょうけんめい、いっしょうけんめい、大きく口を開いてかぶりつきながら。ソキはもっきゅもっきゅと頬を膨らませ、きょろきょろあたりを伺った。
「ソキと、メーシャくんと、ハリアスちゃんと、ナリアンくんしかいないです……? つまり、これは、ぜいたくな、貸し切り、というやつです! あーむ、む、む……おいしーです!」
『この前向きにすぎる楽観思考よねぇ……』
 ルルクはナリアンたちにソキを預け、ロゼアの部屋に駆け戻っている。部屋がぐちゃんぐちゃんだからである。ソキは一応、あとでお片付けをするです、とちゃんと言ったのだが。そっちの方が手間がかかる、という意思をそこそこ隠したルルクから、うんまた今度ね、と言い渡されたので、先に食事をしてしまうことにしたのだった。ルルクの分はおべんとうとして、ソキの隣の椅子に置いてある。食事を終えてこれを届けてあげるのが、偉くて可愛く、かしこく、可愛く、そしてとっても偉くてかわいい、ソキの重大任務なのだった。
 褒めと呆れの中間の声で呻く妖精をちらりと見上げ、微笑ましそうに見守ってくる三人を順番に見比べて、ソキはふんすと気合の入った頷きを見せた。なんといってもかしこくかわいく、そしてえらーいソキなのである。
「ソキ、落ち込んだり、へこたれたり、拗ねたりしないんですよ? 物事に対する分別のある、淑女ですからね」
『はぁん?』
 ルルクが調子に乗せすぎたのでは、という疑惑の目を向けられて、ソキはもっきゅもっきゅと朝食を食べ進めた。あっすごい頑張ってるね、美味しいね、こっちのヨーグルトも食べるといいよ、とそつなく補助をするメーシャと微笑ましそうにしているハリアスはともかく、可愛さが目に染みる、と目頭を押さえているナリアンはどうにかならないものか。
『……というか、最高に都合よく忘れてるみたいだから指摘してあげるけど、落ち込んでへこたれて拗ねてあばれたから、部屋がぐっちゃんぐちゃんになってるんだけど? ソキ?』
 朝起きて、ロゼアがいないことに耐えきれず、声をあげて泣いてそこらのものを掴んでは投げ、掴んでは投げ、大暴れして泣き叫んで疲れて二十分程寝落ちし、復活して、お着換えするですううロゼアちゃんをお迎えに行くです行くったらいくですううう、と言い張って向かったのが、パルウェの所である。そこから一時戻って、またふぎゃんふぎゃんと寝台の上でじたばた暴れ、おなかがすいて動けなくなり、よろよろと食堂に向かって席についた末のことだった。食事をさせ、また傍を離れる為に、ルルクがよくよく褒め称えていたのだが。
 調子に乗りすぎである。額を手で押さえる妖精に、ソキは自信に満ちた顔でこっくりと頷いた。
「ソキは気を取り直したです。えらすぎるのでは?」
『いや偉くはないわ』
「えっ」
 えっえっと挙動不審に見守る三人と妖精を見比べ、ソキはおろおろと視線をさ迷わせた。ええぇ、と不満げな声の響き。ぱちくりあいらしく瞬きをしたソキは、んもぉ、と言いながら、ナリアンの差し出したうさぎさんリンゴを受け取った。あむむ、とかじりつき、もきゅもきゅと咀嚼しながらじっくりと頷く。
「リボンちゃんの勘違いです。かんように許すソキ。これは淑女の行いでは?」
 ふ、と笑った妖精に、心得た顔をしてナリアンが耳を手で塞ぐ。さ、さっ、と同じようにしたメーシャとハリアスを、ソキが不思議そうに見つめている。数秒、間を置いて。怒りに染まり切った妖精の雷が、食堂の空気を騒がしく貫いた。朝、ソキが目覚めてから。数えて五回目の、妖精の雷であった。



 部屋は掃除中、談話室は占拠され、図書館にもそこそこ人がいる為、ソキたちが移動したのは茶会部の部室であった。部室棟も人のいるざわめきに満ちていたが、しんとしすぎず、寮内よりは居心地のいい空気が漂っている。知らず込めていた肩の力を抜き、ナリアンは部屋の窓をあけた。今日は良い天気だ。白い雲が青空によく映える。風も穏やかで、吹き込んでくる心地よさはあっても、部屋の中のものを飛ばす荒れ方はしなかった。昼食は外で食べてもいいかも知れない、とナリアンは思う。このまま天気が穏やかであれば。
 ソキはごきげんにとてちてと室内を歩き回り、お客様なんですよ、おもてなしなんですよ、とメーシャとハリアスを歓迎した。茶会部は現段階でも、ソキとナリアン、ふたりきりの部活棟である。ほぼ常駐でロゼアがいるが、正式な部員は設立二年目であっても、二人のままで数を増やさない。元から、ソキがゆったりと過ごしたり、勉強をしたりする為に設立した部である。部長たるソキの頭からは、部員の勧誘、などということがすぽーんと抜け落ちており、取り戻される日は恐らく、来ないままだろう。
「ルルク先輩も、後からいらっしゃるんだっけ……? とすると、アリシア先輩も一緒かな? ソキちゃん、知ってる?」
「アリシア先輩、今日はお忙しいの。でも、あとで顔を見せてくれるって言っていたです」
 私の心身の穏やかな健康、具体的に言うと胃が爆発しないようにソキちゃんに守って欲しいことがあるんだけど、居場所は必ず知らせておいて、とルルクが真顔で懇願したもので。食堂から部活棟に移動する前、掃除を続けるルルクの元に朝食を届け、行って来ますをしたソキに、告げられた予定で知ったことである。その時も、アリシアはルルクの傍にいなかった。『学園』内のどこかにはいるそうだが、あれこれと忙しく動き回っているらしい。ふぅん、と興味の薄そうな声を出したソキに、ルルクはまあこちらのことは任せて、と苦笑した。
 アリシアの忙しさに推測のついたメーシャとハリアスは、それじゃあ俺たちも、と一行を離脱しかけたのだが。ナリアンだけだと押し切られる不安が残るから、悪いけど部室まで無事に送り届けてからにしてくれないかなぁ、というルルクの切実な願いを叶えた為に、なし崩し的な歓待を受けている状況だった。まあ、一息ついてからでもいいかな、と半ばあきらめてソファに身を沈めるメーシャの傍らで、ハリアスはすこし、落ち着かない様子でもぞもぞとしている。こうしている間も、この部屋の外の状態は停滞しているのだ。
 昨夜と比べて悪化はしていないだろう。朝の空気は変わらぬ緊張に満ちていたが、すくなくとも無為な衝突をしないよう、各々があえて距離を保っている。そういう風に感じられる肌のひりつきだった。それでいて、それは改善ではない。停滞だった。分かり合わないまま、分かり合えないままで、止まっているのだ。今はまだ。それを、どうにかせよ、と副寮長から任務を受けているのが、ハリアスとメーシャである。アリシアが勤勉に動き出しているのを見る分に、恐らくはユーニャも同じ目的で、『学園』をさ迷っているに違いない。
 ルルクが参加していないのは、それよりも単に、ソキにまつわることを優先しているからに他ならない。現時点で、ソキが体調を悪化させるのは悪手である。『学園』の空気にとっても、そしてこれから、戻ってくるであろうロゼアの精神面にあっても。ソキには元気でいて貰わなければならない。それが不安や恐怖から目を逸らす逃避であっても、それはそれ。とりあえず、熱を出すだとか、咳をするだとか、寝込むなんてことがあってはならないのだ。ルルクでは手の届ききらない領域でもある為に。
 それを防止する為に、ルルクは徹底的に部屋の掃除をしているのだった。もちろん、ソキがそこらじゅうに物を投げ、そこらじゅうにひっくりかえした、後片付けに難航している、というのもあるのだが。『お屋敷』での教育を書きつけた帳面と、ロゼアが日ごろから残しておいた書きつけを比較し、ああでもないこうでもないと悩みながら、『花嫁』の部屋を再編しているのだった。ロゼアくんが常日ごろ整えた環境がすでにあるから、それを復旧させるだけ、といえばだけなんだけど、とルルクは困った顔で、時間を問うた妖精に口ごもった。
 少なく見積もってもこれから半日。夕方ごろ。遅ければ夜にもなるだろう。初心者世話役にひとりで、完成された『傍付き』が『花嫁』の為に整えた環境を復旧しろっていうのは試練でしかないんだけど、わたしはやればできるこだからがんばる、とややうつろな目で、ルルクはソキたちを部室棟へと送り出したのだった。その気持ちが、ハリアスにはすこし分かる気がした。ここは平和だった。たった数日前、騒ぎが起きる前のような。ハリアスが見知った『学園』の雰囲気が残っていた。その場所に、ソキにいて欲しかったのだろう。
 ハリアスが悩んで、考えている間にも、部屋をとてちて歩き回っていたソキは、ふたりの歓迎準備を終えたようだった。お茶のご用意ができました、よろしければこちらでご一緒しませんか、と礼儀正しく呼ばれるのにくすくすと笑って、ハリアスはメーシャと共に立ち上がり、呼ばれた席に移動する。朝食を終えたすぐあとだからだろう。すっきりとした香りの立つ温かなお茶と、白い皿にはナリアンのクッキーが数枚。それだけが机に置かれていた。
 ありがとうねソキ、と微笑むメーシャとハリアスに、『花嫁』はどういたしまして、とややすました顔で頷いた。
「おふたりとも、ほんとうは、お忙しいでしょ? ソキにはお見通しです。だからね、ちょっと休憩したら、仕方がないから、行ってくださって構わないです。でも、お茶を飲んでからですよ。そうでなくっちゃ駄目ですよ。わかったぁ?」
「分かった。分かったよ、ソキ。ありがとうね」
「ありがとう、ソキちゃん」
 そのまま調子よく、お昼はできれば戻ってきてくださると嬉しいです、ご一緒したいです、お天気がよかったらお外のいい場所をソキが案内してあげるです、と続け、メーシャからもハリアスからも、できるだけ戻って来られるようにする、と約束を取り付けて。ソキは束の間ゆったりと、四人で歓談とお茶を楽しんだ。ロゼアがいない。どうしても。その苦しさとさみしさは、すぐ、ソキに忍び寄って。思い出させては、その空白にすこし、体温を下げたけれど。冷えた指を温めるようなぬくもりが、すこし、心を引き留めた。
 それじゃあ、行って来るね。行ってらっしゃい。したいと思うこと、しておきたいと思うことが、なるべく上手に行きますように。ありがとう、ナリアンもソキもここにいてね。うん分かったよ、と言葉を交わし合って。メーシャにやんわりと、現在位置から移動しないでいる、という言質を取られたことに気が付かず、ナリアンはふたりを見送って部屋の扉を閉めた。茶会部の部室には、滞在する為の準備が、元より整え切られている。不自由することはなく、とりたて不足するものもないから、時間を過ごすにはちょうど良かった。
 服の袖をべっしょべしょに濡らしながら茶器を洗い終えたソキが、妖精に猛烈な勢いで怒られながら、乾いた布で拭っている。どうしてナリアンに任せておかないの、お客様のぉおもてなしの後かたずけをするのもぉおんなしゅじんの役目なんですぅううぅうぺちょぺちょに濡れてしまったですふしぎなことですげせぬですぅ、袖をまくらないからそういうことになるのよ、ソキやったもんちゃんとやったもんあの水道がいけないんだもんソキじゃないもんソキじゃな、ああもう良いから日当たりのいい場所でじっとなさい祝福もかけてあげるからほらっ、と面倒見のいい妖精の叱責が、騒がしくも心地よく空気を震わせた。
 ああ、と思わずナリアンはほっとして笑う。ソキちゃんだ、と思う。努力家で、自信たっぷりで、いっしょうけんめいで。ロゼアのことが大好きな、ナリアンの知る、ソキが今日もそこに、ちゃんといるのだ。ソキは頬をふくふくさせながらも、妖精の言うままに日当たりのいいソファにとてちてと歩み寄り、指先を窓枠にちょん、と乗せてじっとした。
「いつものソキなら、こんなことにはならないです……。今日は調子がわるいのでは……? ソキ向きの日ではないのかもです……?」
 妖精はしぶい顔をして、なにも言わずに羽根をぱたつかせた。ソキの考えるいつもの水仕事と、今日の最たる違いは、ロゼアの存在の有無である。ソキがやるソキがやる、後かたづけだってソキができるぅ、と言い張る『花嫁』をでろでろに甘やかすロゼアが、じゃあお水で流すだけな、と洗い終わった食器をしっかり持たせ、ゆっくり水差しから注ぎだした水で流してくれる。それと、洗うのも流すのも全部ひとりでやった、というよりも、やらかしたことの違いである。割れなかったのは奇跡と、ソキの努力と妖精の叱責故である。
 ソキ向きの日になってくれないとぉー、困るんですけどぉー、と文句を言い出すソキに、風邪を引かないように祝福を与えながら。妖精は視線だけでナリアンを呼びつけると、乾いた布を持たせて、ソキの濡れた袖を拭いなおさせた。そうするとようやく、肌にぺたんとくっつかず、ちょっと湿っぽいくらいで落ち着いたのだろう。ソキはほっとした笑顔でありがとうです、とナリアンに囁き、あっと気が付いた様子で髪に両手を押し当てた。
「髪の毛がくしゃんくしゃんになっているような……? うーん、うーん……ソキ、ふたつみつあみにするぅ……!」
「……あれ? ソキちゃん、今日はいつもの赤いリボンはしてないの?」
「なくすといけないんでぇ、お服の中にしまってあるです」
 ナリアンはほのぼのとした笑顔でそっかと頷いたが、妖精は知っている。服の中にしまってある、というのは、部屋の棚に服と一緒に置いてある、という意味ではない。ソキの着ている服の、中、ということである。具体的にいうと胸の谷間である。下着の肩紐にきゅむりと結びつけた後、んしょんしょ、と谷間に挟み込んでいるのを見て、ルルクが虚無と戯れる眼差しで、うんまぁもういっかなーなくすと大変が過ぎるしそこだったらなくさないだろうしもういいかなー細かいことは考えるなわたし、と言っていたのを、妖精も眺めていたからだ。
 まあ、肩紐に結び付けてもあるもので。そうそうなくしたりはしないだろう。確かに。ソキにしては考えて、成功している方である。手段はともかく。真相に気が付かないままのナリアンからヘアブラシを受け取って、ソキはせっせと髪の毛をとかしはじめた。ふたつみつあみ、するです、と気合の入った顔で、子猫のいっしょうけんめいな毛繕いの印象を振り撒きながら、ソキは自慢げに妖精へと告げた。
「ふたつみつあみのソキはぁ、うさぎちゃんみたいでかわいいな、ってロゼアちゃんが言ってたです。ぴこぴこの、うさぎソキさん、かわいいなってしてくれるです。これでばっちりでは? かわいいうさぎソキになって、今度こそ……!」
『今度こそじゃないわよ。じっとしてなさい、ソキ。メーシャとも約束したでしょう?』
「メーシャくんが戻って来たらぁ、かわいいが増えたソキが行って来ますをするんでぇ」
 それでだしぬければパルウェさんもばっちりです、ソキのめろめろりょくのだいしょうりです、と鼻息荒く主張されるので、妖精は白んだ目で腕組みをした。まあ、何回でもやってみればいい。だいたいからしてソキには、そういう計画を口に出してひとに聞かれたら、その時点で駄目、という観点が抜け落ちているようだし。俺がしっかりしなくちゃ、と決意を新たにするナリアンに頷きかけて、妖精は、とりあえずメーシャたちが戻るまでは部屋でじっとしているらしきソキに視線を戻し、息を吐いた。
 髪を左右、二つの束にわけるのは、まあソキにしてはうまく出来た方ではないか、と思うのだが。肝心なのはそこからの、三つ編みである。緩すぎる、あるいは、一カ所だけぎゅっと力を込めて編まれた三つ編みは、がたがたのぐちゃぐちゃで、とても見れたものではない。そうだった、と妖精はうんざりと首を横に振った。この、刺繍と編み物は極めて精緻な作品を作り上げる『花嫁』は、基本的には殆どなにも出来ず、ロゼアがいてようやく、一人前、未満、くらいを成し遂げるのが常なのである。
 あれ、あれ、おかしいです、やっぱり今日はソキ向きの日じゃないのでは、と言いながら。だんだん目を潤ませ、すん、すん、ずび、と鼻を啜り始めたソキを見て、妖精は無言で、ナリアンに指示を出した。そこらへんで暇を持て余してる女子で、手先が得意そうなのをひとり連れて来い。今すぐ。お前にも相手にも拒否権などというものはない。ナリアンはぐずり始めたソキと妖精を見比べて、先輩お願いしますっ、と戸口から悲鳴じみた声をあげた。
 それに、えっなになに、とわらわら集まってくるのを感じながら、妖精はうーうーむずがるソキの前に舞い降りた。ほら、意地を張るんじゃないの、と言い聞かせる。
『誰かに編んでもらいなさい。ほら、好きなの選びなさいな。この際だからソキの好みの顔の女でも許してやるわ』
「えっ……あの……それはロゼアくんの許可があった上での行いだったり……? あとでこう、あの、笑顔で、笑顔で、先輩ちょっと話がありますこちらへ、とか言われないヤツ……?」
 戸口に群れた、ある意味では暇を持て余す少女たちが、顔をひきつらせてざわざわと不安がっている。不在の時の身支度くらい、手伝わせた程度で、と妖精は思ったが、思い直して遠い目をする。少女たちの不安は、ある意味まことに正しいものだ。ロゼアならばやる、というか、言うというか。ロゼアにはいくつか前科がある。妖精も知っていた。しかし、泣きぐずりかけたソキを、ぐっちゃぐちゃの髪のままで放置しておくのも、体調悪化の観点からしたくはなく。こんな所用でルルクを呼びつけるのも、躊躇われた。
 結果。ひとりがルルクに聞いてくる、というので走り去るのを見送って、妖精はソキの前にある、髪飾りばかりが入った箱を覗き込んだ。編むのはしてもらう、ということで納得し、なにで髪を結ぶか、ということで悩んでいるらしい。うーん、これがいいかなぁ、こっちの方がソキのかわいいがいっぱいかなぁ、とのんきに悩むソキに、好きなのになさいなどれだって似合うし可愛いわよ、と言いながら。ふと、妖精はあることに気が付いて、呆れ交じりに呟いた。
『編むのはできないのに、リボンを結ぶのはできるのよねぇ……』
「ソキ、リボンを結ぶのは、いっぱい、いっぱい、いーっぱい! 練習したんでぇ」
 どやーっ、とばかり褒めまちの笑顔でふんぞりかえるソキに、はいはいえらいえらい、と言い返しながら。妖精は、頑張ったんだな、と思った。リボンをひとりで結ぶ。ただそれだけのことが、できなくて。けれども、できるようになる為に。どれほど頑張ったのかを。なぜか知っているような、そんな気がして。



 それでソキの髪型が違うんだね、と戻って来たメーシャに納得されても、ソキはぷぷっと膨らませた頬をしぼませたりはしなかった。あっメーシャくんハリアスちゃんおかえりなさいです、ソキかわいーでしょうじっくり見てくれてもぉいいんですよぉ褒めだっていっぱいしてくださって構わないです、それじゃぁソキには御迎えという重大任務があるんでぇ戻って来たら皆でお昼にしましょうねぇふふん、ロゼアちゃんろぜあちゃんろぜあちゃぁあああっ、と気合たっぷりにとてちて脱走しようとして、あえなく捕まったからである。
 戸口から廊下に出ることすらない、脱走のだの字も達成できていない動きだった。三つ編みかわいいねどうしたの編んだの、と言いながら扉を閉めるメーシャの微笑みはソキの企てを予想しきっていたし、苦笑しながらお昼を食べましょう、とランチボックスを机に置くハリアスの囁きは『花嫁』のぴぎゃぁああああんっ、という悲鳴に絆されてはくれないものだった。内鍵を閉めたのはナリアンである。えっ、あ、あっ、あぁあうっ、と涙を滲ませてソキに見上げられ、ナリアンはうっ、と言葉に詰まって揺らいだのだが。
 それを、さっナリアンも椅子に座ってねお昼だよ、とメーシャが後ろから肩を叩く動きは、そつのない救いそのものだった。天気がいいけど、外で食べるのはやめておこうか、と告げたのはメーシャなのだという。ちょっと目を離した隙に、ソキがどこかへ行きかねないからである。ハリアスはその意見に半信半疑であったものの、戻るなりいなくなろうとするソキを見て、しっかりと考えを改めたようだった。少女はソキの隣に椅子を置き、メーシャと挟み込んで座りながら、運び入れた昼食をせっせと机に並べていた。
 不機嫌にうーうー唸りながら、ソキはきちんと編まれた三つ編みを摘まみ。ぴこぴこと揺らしながら、つむん、とくちびるを尖らせた。
「こんなに可愛いうさぎちゃんソキですのに……リボンだって、こんなにきれいに結んでもらったですのに……。これはソキを見せびらかしに、お外に行ったりしてもいい流れなのでは……? ねえねえメーシャくん。ソキをお外に連れ出してくれてもぉ、いいんですよ?」
 普段と髪型の違うソキは、見慣れた者でもすこし目を見張る程、見慣れない愛らしさに満ちていた。ぴこぴこ揺らしながら主張される三つ編みの先端では、翠の細いリボンが繊細な花の形に結ばれている。ソキがそこそこ綺麗な蝶々結びにしたのを見て、上手だけどどうせなら、とさらに飾ることを提案してくれたのだ。手芸部渾身の一作である。やりとげた、という顔をした少女らは、どうかロゼアくんに慈悲を乞うてね、と妖精に懇願して立ち去って行った。今はそこらの部室で、同じように昼食を取っている頃だろう。
 少女たちは、なにやらスッキリした顔をしていた。どうすることもできない悩みを、趣味に注力することによって、いくらか発散したようだった。なるほど、『花嫁』とはこういう使い方もできるのだ、と妖精はひそかに関心した。宗教行事のように談話室に篭らせておくより、いくらか健全なのではないか、と思うくらいである。ソキもしっかり、魅了してしまわないか、ということには気をつけていたようでもあるし。ソキを飾らせて発散させる、というのは中々に良い手かも知れなかった。その後のロゼアの不機嫌はともかくとして。
 いや、職人の留守に完成品を好きにいじられたら普通は怒るんじゃないかな、とうつろな目をしたルルクが震えあがるようなことを思案しながら、妖精はひとり、空で角砂糖を口にする。精神疲労が重いのか、ふたつめの角砂糖である。通常なら、一日ひとつで事足りるというのに。あー、騒ぎが収まるまでにでぶにならないといいんだけど、と思う妖精は、外出と脱走の機会をそわそわ伺い、メーシャを見つめるソキを見下ろした。ね、ね、いいでしょう、見せびらかしてもいいだなんて、ソキはなんていうかんようさでしょう、とにこにこするソキに。
 メーシャはやんわりと笑いかけて。きっぱり、駄目、と言い放った。
「お外はあぶないよ、ソキ。お部屋でゆっくりご飯食べよう?」
「え、えぇえ、ええぇええ……! あぶないですぅ……? なにが? なにが?」
「ウィッシュ先生も、そう仰っていたよ。あぶないから、なるべく、お部屋にいるのがいいよって」
 なにが、というソキの質問を上手に包みこんで。ゆっくり、説得するように告げたメーシャに、ソキはむーんとくちびるを尖らせた。しかし、ウィッシュがそういうなら、と受け入れたらしい。しぶしぶしきった声で、それじゃあお部屋で食べるですぅ、と告げたソキは、どうも外出そのもの、脱走してロゼアの元へ迎えに行くことを、諦めてはいないようだった。昼食の間は、ということだろう。ハリアスも、メーシャも、ナリアンも、それはよくよく分かっているようだった。しかし、とりあえずは、と胸を撫でおろす。
 お昼を食べてゆっくりしたら、ナリアンと手を繋いでお散歩に行くのならいいんじゃないかな、と提案されて、ソキはこっくり頷いた。その顔に、あっおててを繋いでいたのに外れちゃったです、そしてなんだかこっちの道がソキを呼んでいるような、をしちゃうです、と書かれている。迷子紐かしら、と容赦のない判断で悩みながら、ハリアスがそっと溜息をついた。安心なさいアタシがいる限るそんなことは、絶対に、許したり、しないわ、と言い切って。妖精は平和に悩む魔術師のたまごたちに、びしりと響く声で問いかけた。
『そんなことより、『学園』の状況はどうなの?』
「思ったよりは、対話と勉強に応じてくださる方が多いな、と。アリシア先輩も、ユーニャ先輩も、同じことを仰っていました」
「ただ、かたくな、と言うか……。まだ、それどころではない方も、多くて……。逆に、部室棟に集まっているひとたちは、落ち着いている分、静観している方も多いというか……。積極的な対立がない分、情報収集もご自分で制限してらっしゃるから、知ってもらうにはどうすればいいかな、と思っていて……」
 このままではいい訳はなく。前のようには戻れない。それは、誰もが分かっていることで。それでいて、以前のような状態になることを、息をひそめて、時間が過ぎるのを待って、落ち着いていくことを望んでいる。そういう者が部室棟には多いのだという。それが決して悪いことではないのですが、とハリアスは困った顔をして眉を寄せた。ただ、これまでの知識や経験だけで、今から得ようとせず、これからを乗り切って行こうとするのなら。それは逆に、変化を受け入れないが故の障害ともなりうる。
 初日としては悪くない成果ですよ、と昼前に報告を受けたガレンは告げたのだという。ハリアスはすこし、後ろ向きに捉えすぎだとも。まだやりはじめたばかりなのだから、思いつめないでください、とも告げられたのだというハリアスに、そうでしょうとも、と妖精は頷いてやった。初日の昼前までの短い時間で、そこまで思いつめなくとも良いのである。あれだけの混乱だ。己の気持ちひとつ、自分で受け止めるにも時間が必要だろう。まだ時間が足りない。それだけのことだった。
 まあ、そういう手合いはルルクにでも纏めて残しておきなさいな、と妖精は言った。アリシアやユーニャ、ハリアスとメーシャが、初期の地道な努力向きなら、ルルクは中盤から後半の、ド派手な説明向きである。多少の静観くらいなら、そこに、はーい私ですよ説明するねっ、と突入していき、あれよあれよという間に嵐に巻き込んで根こそぎなぎ倒す。そういうのが得意な相手である。決して地道な努力が苦手、という訳ではないのだが。適材適所で考えるとなると、ルルクは逆に、今は温存しておく一手だった。
 そして恐らく本人も、ガレンも、それが分かっているのだろう。ルルクがソキを優先していても呼び出されたりしないのがその証拠で、妖精は密かに、副寮長の手腕に舌を巻いた。あれで寮長に傾倒しすぎていなければ、もっと妖精からの評価も高いのだが。そう、寮長といえば、と妖精は豆のスープをむぐむぐと頬張って幸せそうにしているソキが、それらをきちんと飲み込んだのを見計らって話しかけた。
『ソキ。落ち着いたらお見舞いに行ってあげなさいな』
「おみまいぃ……?」
『寮長の』
 ソキはなにも聞こえなかったんでぇ、と言わんばかり、ぺかーっとした笑顔が浮かぶ。そのまま、むぐむぐと食事に戻られたので、妖精は腰に手をあててお見舞いよ、と繰り返した。
『今日じゃなくてもいいから、お見舞いには行きなさい。それで解決することもあるのよ』
 ソキにだって、分かっている筈である。これで『花嫁』というのは、『傍付き』以下、多くの人々を仕え人として持つ、主であったので。『花嫁』同士で喧嘩した時だって、どっちが悪いはさておいて、一回謝ったりしたでしょう。今回も同じよ。せめて顔を見に行きなさい、と完全に聞こえないふりをして食事を続けるソキに話す妖精に、ナリアンが眉を寄せ、首を横に振った。
「リボンさん……。ソキちゃんをそういったことに巻き込むのは、ちょっと……」
『巻き込むとかいう前に、ソキは当事者だし、アンタは寮長に近寄らせたくないだけでしょうが!』
「それはあります」
 きりりとした顔で告げるナリアンが、素直に自白したことは褒めてやってもいい、と妖精は思った。主張を認めてなどやりはしないが。メーシャも、ハリアスも、妖精の言葉にそれぞれ思考を巡らせているらしい。今すぐでないのなら、ソキちゃんがそうしてくれるなら、と『学園』の調停役が口々に呟くのに、雲行きのあやしさを感じたのだろう。やですううう、というのを隠そうともしない顔で、ソキは思い切り、眉間にしわを寄せながら言った。
「ソキはりょうちょに、ごめんなさいなんてしないもん……。あれはりょうちょがいけないんですぅ……!」
『ソキ。アタシがいつ、ソキが悪いだとか、謝れだとか言ったのよ』
「……んん? ちがうの?」
 目をぱちくりさせるソキに、妖精はしっかりと頷きかけた。中立的で公平な立場から見て、今回の一件は喧嘩両成敗である。どちらにも悪い所があった。火種を用意して着火したのは寮長だが、派手に爆発させたのはロゼアである。そこにどんな事情と感情があるにせよ。寮長はしっかり悪かったし、ロゼアもそれなりに悪かった。そしてどちらも、その悪事の報いをすでに受けている。他者からもたらされたものか、自主的なものかはともかくとして。
『ソキは別に謝らなくてもいいのよ、ロゼアにも寮長にもね。どーしても謝りたいならしてもいいけど、必要性は感じないわ』
「そ……そうなんです……? そう、そう、かなぁ……?」
『あら、なぁに? ソキ。それとも、謝らなければいけないことに、自分で心当たりでもあるって訳? それはなに? どんなこと?』
 ソキは、大好きなしろくて丸いふわふわしたパンに、ロゼアが不在であるのを良いことに、蜂蜜をたっぷりかけながら。視線をややさ迷わせ、拗ねた声で、そーういうんじゃー、ないんですけどぉー、と言った。
「……そういうんじゃ、ないです。ないんですけどぉ……。ソキ、寮長に、ごめんなさいをしなくてもいいの? ほんと? なんで?」
「……ソキちゃんは、寮長に謝りたいの?」
 ひょい、と隣から顔を覗き込んだハリアスが、すこし楽しそうにソキに問いかける。そっ、と甲高く途切れ、ひっくり返った悲鳴じみた声をあげて。そんなんじゃないんですけどおおぉおっ、とほわふわした声で『花嫁』は叫ぶ。
「でも、でも、だって、ロゼアちゃんの、いなくなた、あの、だって、寮長、お怪我を……。お怪我を、された、ですし……。寮長は、ソキに、とっても、とっても、分かってくれないことを言ったですけど、でも、でも、お怪我を……ろ、ロゼアちゃんが、お怪我をさせてしまった、ですし……。だから、あの、あの……。りょうちょがいけないです、いけないんですけど、でも……でも、ソキは……ソキ、ソキは……ソキだって……」
 わるいとおもって。せきにんをかんじているです。『花嫁』は涙の滲む、甘くぽしょぽしょとした声でしょんぼりと囁いた。俯きながら呟かれた言葉は聞き取りにくかったが、場にある者たちに届き切らないものでもない。そっか、とハリアスは、ソキの罪悪感を否定せずに受け止めた。妖精は密かに関心する。ハリアスの受け答えにも。ソキの、その成長にも。ああ、ほんとうにロゼアのことだけで完結する、ソキの世界は終わっていたのだった。
「……ソキは、ごめんなさいをしなくていいです? ほんと? それとも、ほんとは、ソキはごめんなさいを、した方がいいです?」
「決めてもらうの楽だよね」
「うゆ……メーシャくんが、ソキを叱るぅ……」
 叱ってないよ、とメーシャは苦笑した。どっちか分からなくて、決めてもらいたい気持ちはわかるっていうだけだよ。ソキと同じ年に入学した魔術師のたまご。共に歩んできた友は、そうであるから容赦なく。うるり、目を滲ませるソキに、怒ってないよと繰り返した。
「でもそれ、ソキが決めた方がいいんじゃないかなってこと。相談するのはいいよ。一緒に考えてあげられるからね。でも、決めて貰って、そうするのは、どうかな? 楽だし、正しいように思えるけど、今回のことは……このことについては、ソキが悩んで決めるのが良いと思うよ」
「……寮長に、謝ること、です?」
「うん。それも。ロゼアのことも。ぜーんぶ」
 なにをどうするのか。どうしたいのか。そうすることで、なにが変わるのか。周囲にどんな影響があることなのか。怖いね、とかつてひとと距離を取り。世界を俯瞰しながら、ひとりでいた魔術師のたまごは、微笑んで言った。
「自分ひとりじゃないんだ。なにもかも。すごく怖くて……でも、楽しいことだよ、ソキ」
「たのしい?」
「俺たちは、いつでも、どんな風にだってなれるんだなってこと。変化とか、成長とか、こういう些細なことからはじまって……こういう風にしていけるんだなって、思う。それは、俺はすごく楽しいと思う」
 ソキは、どうかな、と問いかけられて。『花嫁』はきゅぅ、と眉を寄せて考えた。決める、というのはソキの不得意だ。いくつもの選択肢や意見から、最適だと思われるものを選んで実行するのが、いつものやり方だからである。そこにあるのは選択であって、ソキの意思や希望そのものではない。それでは今回は駄目なのだ、とメーシャはいう。駄目な時もあるのだと。うー、と困り切って唸りながら、ソキはちょこりを首を傾げてみせた。
「……分からないです」
「そっか」
「だから、ソキ、相談したいです。メーシャくん」
 それでも、ソキは。もう、助けて、と告げて。誰かの力を借りることを知っているので。ひとりきりではないので。世界はもう開かれている。そのことを、ソキもちゃんと、知っているのだった。リボンちゃんも相談を聞いて欲しいです、と告げられて、妖精は言祝ぐように頷いた。それじゃあお散歩が終わったらお部屋でじっくり考えるといいよ、分かったです、ソキは偉いね、など、そつなく在室の言質を取っている、メーシャの手際が良くなってきていることについては。そっと考えないことにした。

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