相談に必要なのは、説明能力である。妖精はしみじみとそう思い知り、びすびすとふて寝を決め込んだソキを見下ろして溜息をついた。室内にはすでに、ナリアンの姿しかない。メーシャとハリアスはまた忙しく出かけて行き、次に会うのは夕食か、さもなくば寝る前の挨拶になるのだという。つまりソキは、自分の著しく低い説明能力のせいで、今日の相談が出来なかったのである。ナリアンはソキにやさしく、俺は今日は一日傍にいるからね、相談でもおはなしでも聞くからね、と告げてくれたのだが。
すっかりへそを曲げて転がるソキに、再びの意思が芽生えるかどうかは、分の悪い賭けのようなことだった。なにせ先程から、妖精の言葉にも満足に反応しないのである。寝るならふて寝してないでちゃんとしたお昼寝になさい、と告げても、ソキはちらりと拗ねきった翠石の瞳を向けるだけで、ぷいっと顔を逸らしてしまうばかりである。これで体調を崩されるのは避けたい、と妖精は心から呻いた。一から十まで完全なソキの自業自得だが、そうであるからこそ、関係者一同の努力をこんなことで水泡に帰す訳にはいかなかった。
昼食を食べ終えてさっそく、ソキは目をきらきら輝かせながら、あのねあのね、と相談を始めた。つまりは説明である。相談とは、相談したいこと、を相手に伝えて理解してもらわなければ始まらない。そしてソキは、始めてもらうことが出来なかったのである。ソキはソキなりにいっしょうけんめいに、ロゼアに対する窮状を訴え、それがどんなにひどいことなのかを力説し、寮長に対する文句を言い、ささやかに寮長のけがを心配し、ロゼアに会う為の作戦のあれやこれやを説明し、全部頓挫したことをしょげながら告げて。
だからぁ、ソキは困っているです、と締めくくった。一応、口を挟まずにいてやった妖精は瞬間的に頭を抱えて天を仰ぎ、ナリアンは困惑に視線を泳がせ、ハリアスとメーシャは視線を交わして首を傾げ合った。ソキの会話には一貫性がない。いつものことである。出発地点から、あれやこれやと思いつくままに話すものだから、目的地を見失って蛇行して蛇行して、そのうちなんとなく、訴え終わった気になって適当に終了するからである。ロゼアがいなくて困ってることだけは分かった、というのがメーシャの結論である。
だがしかし。それはそれとして、なにを相談したいのか、というのが、なにひとつ伝わってこないのは確かなことだった。魔術師と内面を接続している妖精にすら察せないことを、ソキの拙すぎてどうしようもない言葉で理解できる者など、この世にロゼアひとりだけである。リトリアはなにかしら感覚的な面で通じることがあるものの、通訳として連れて来るには翻訳の制度に不安があり、また依頼したとて来訪には時間のかかる相手である。頼りにすることはできない相手だった。
ソキはまず、どうすれば相手に伝わるのかを、ちょっと考えてみた方がいいね、と微笑んで言い放ったのはメーシャである。ゆっくり、やさしく、柔らかく、幼子にそぅっと言い聞かせる声の響きは、決して怒ったものでも突き放したものでもなく。そこには温かな親愛の情と気遣いがあったのだが、そもそもなにも伝わっていない、ということがソキには衝撃であったらしい。え、えっ、あ、えっ、と混乱した呟きを零し、おろおろおろ、と室内の誰もを見回して。それが場に置いての共通意見だ、ということを突き付けられて。ソキは拗ねたのである。
ソキがあんなに、あんなにいっしょうけんめうったえたですのに、なんということです、しんじられないことです、やっぱりソキにはろぜあちゃんがいないとだめです、ろぜあちゃんがいないとソキはなんにもひとりでできないです、ろぜあちゃんろぜあちゃ、びすっ、という涙声の拗ねの、その方向性に妖精は眉を跳ね上げたのだが。ううぅ、と泣きぐずる、ふりをして。ちらっ、と期待に満ちた顔でナリアンたちを見る目が、だからぁかわいそに思ってロゼアちゃんを連れて来てくれるのでは、という意思に満ちていたので。
妖精は容赦なく、魔術師のたまごたちに解散を言い渡した。なんでもかんでも利用する、その極端な前向きさは美徳と思ってやれないこともないのだが。それはそれ。相談事の説明すら満足にできないようであれば、そこは甘やかすべきではないのである。アタシがなんとかして反省して躾けてなんとか、なんとかするから行きなさい、アンタたちやることあるんでしょ、と追い払う仕草で手を振る妖精に、ハリアスとメーシャは苦笑しながら頷き、去って行った。そして、ナリアンだけが、護衛よろしく部屋に残っているのである。
さてどうしたものか、と妖精はふくれるソキを見下ろした。これはつまり、妖精のソキに対する教育の敗北であり。根本的なロゼアの躾の問題である。つまりはやはり、ロゼアのせいである。ぐつぐつと煮えたぎるものを感じながら、ちくしょうロゼアやっぱりけちょんけちょんに落ち込ませておいて正解なんじゃないのもうすこし反省してこいあのむっつり、と呻いていると、ようやくソキが己の意思で視線を持ち上げ、ぶぶーっ、と頬を膨らませて妖精に抗議する。
「ソキがこんなに恋しがっているというですのに……リボンちゃんたらいけないです……」
『……いや、冷静に思い出せアタシ。ソキは確か、説明ができた筈よ……? ……ソキ? 説明できたでしょう? 五王に対してやったみたいなヤツよ。ああすればいいの。ああしなさい。あれが、説明。さっきのは、脱線しまくった、ただのおしゃべり。分かる?』
「……んんぅ?」
妖精はなにも難しいことを言っていないのだが。眉をきゅぅ、と寄せて首を傾げたソキの顔は、難題を出された者のそれだった。ここで怒ったり、言葉を重ねても解決しないのを、ソキと違って学習できる花妖精は知っていたので。根気よく待っていると、ほよほよした疑問の声が、ソファに設えられた寝床から漂って来る。
「でもぉ、あれはぁ、ソキが、そうしてほしな? と思ったことにぃ、そうしてほし! ってなるようにぃ、したんですしぃ」
『発音をハッキリさせて、主張を明確に、ハキハキ話しなさい』
「ぷぷぷ! だから、あれは、誘導なの。説明、じゃ、ないの!」
言えばできるということは、やはり、やればできるのである。発音にせよ、主張を明確にまとめることにせよ。あー、そうよアタシの魔術師はやればできるのよ、ほんと、やれば、いややるべき時だった筈のさっきなんでやらなかったのかはよく分からないけど、やればできる、できるこなのよ、くじけるなアタシ、負けるなアタシ、ロゼア出てきたら覚えてろ真夜中にお前の前髪を思うさま蝶々結びにしてやる、と己に言い聞かせて額に手を当てて呻き。妖精はささやかに、ただ、そう、とだけ言葉を返した。深呼吸をする。
『説明と誘導の区別はついてるってこと……。そう。そうなの……』
「でしょう? そうでしょう? ソキ、かしこく、かわいく、そうめいなんでぇ」
『いや聡明ではないわよ思い直しなさい』
即座に心から突っ込んで、妖精は不満顔をするソキに言い聞かせた。
『いいこと? あれは、説明して、誘導したの。今度は、説明して、相談するの。違うのよ、分かる?』
「……ねえねえリボンちゃん? ソキはもしかしたら、相談って、どうすればいいのか? 分からないのでは?」
『ふ、ふふふふふ。堪えろアタシ。そこが、それが、分かるようになったのは進歩、進歩なのよ……!』
説明というものをしたいと思って、やりはじめるまでに気が付いて欲しかったことではあるのだが。もういいとしよう、と妖精は思い直した。深呼吸をして向きなおすと、ソキも寝床からもそもそと起き直っていた。もぎゅもぎゅと手慰みにアスルを潰している。ここ最近のアスルはどんどん平べったくなるばかりである。せっかく綿を詰めなおして貰ったんだから大事になさいね、と小言を向けてから、妖精はソキの傍まで飛んだ。
瞳を覗き込んで、告げる。
『簡単よ。さっき自分で言ってたじゃない。自分でして欲しいと思うように相手を転がすのが、誘導。ロゼアがいつもやるやつね。自分はこう思ってる、して欲しいと思うけど、どう思う? って聞いて、意見を述べて貰って、変化していくのが、相談よ』
「……変わらないといけないの?」
『いけないって程じゃないけど。……いい? ソキ。相談っていうのは、自分の意見が世の中の正解不正解、どちらに当てはまるのかを考える為にすることじゃないのよ』
きゅう、とソキは心細く眉を寄せ、むぎゅりとアスルを抱き寄せた。うりうりと頬を擦りつけながら、ソキは間違いが嫌いだもん、と訴える。そうね、と妖精はため息をついた。どうもこの『花嫁』は、心底、そういう問題を苦手としている。正解と不正解。正しいと、正しくない。しなければいけないことと、してはいけないこと。そういう風に区分けして、正しい方を選びたがる。正確にすれば、より、評価される方を。非難されないように、物事をそうして見つめている。そこにソキの意思はあるようで、ないのだ。
しなくていい悪事ばかり企てて実行して頓挫して、諦めないで何回も繰り返すくせに、どうしてこういうトコだけ頑ななのかしら、と呆れながら。妖精はぺちぺち、とソキの額を粗雑に撫でた。
『ロゼアがいなくて困ってるんでしょ? 困ってるから、ソキはどうしたいのかしら?』
「……ソキはね、ロゼアちゃんをお迎えに行きたいです。でも、みぃんな、駄目っていう……ソキは邪魔ばっかりされるです。いけないです……ひどいことです……」
『あのね、ソキ。見方を変えれば、ロゼアは悪いことをしたから捕まってるのよ。自主的にね。で、罪をつぐなう、という意味で、反省期間が終わるまでは独房なの。ソキはそれを勝手に連れ出そうとしてるのよ。止められるとは思わない?』
一応、それを理解している顔をして。でもぉ、だってぇ、という言葉をきゅっと我慢しているふくれつらで、ソキはしぶしぶ頷いた。分かってはいる。ソキだって分かってはいるのである。その上で、ソキがロゼアを求めているのに。それが最優先で処理されないのが、いっとう解せないだけなのである。なにせソキは最優の『花嫁』であるのだし、ロゼアはその『傍付き』であるのだから。あっ、もしかして、と。とある恐ろしいひらめきに、『花嫁』の瞳が怯えに歪んだ。
「魔術師さんたちは、も、もしかして……! ソキがかわいいあまり、なんでもいうことを聞いてくれる訳では、ないのでは……?」
『安心しなさい。魔術師のみならず、全人類規模でそうよ』
「た、た、た、大変なことですうううぅ……! ……う? あれ? でも? ということは? ソキのめろめろりょくが足りない訳ではなくて? もしかして、そういうことだったんです?」
なぁんだ、よかったですーっ、とぴかぺかした笑みで胸を撫でおろすソキに、妖精は心底頷いた。ソキの思考回路が分からない。そこからなんでその結論で決着して安心するのかも分からなければ、めろめろりょく、というものの存在がもう分からない。ソキがたまに口に出しているので、うっすら、概念的な理解をしているだけである。しかし、追及するまい、と妖精は口を閉ざした。面倒くさいことこの上ないからである。どうせ理解の及ばない説明をされるに違いないのだし、そっとしておくのが良いこともある。
「……あれ? つまり? ソキのめろめろりょくが通じないとすると? どうすればいいんです……?」
『ろくでもないひらめきで、ろくでもないことを考えて、ろくでもない疑問であれこれ考えるのやめなさい。今は必要じゃないでしょう、それ』
「はぁい……。これは、また今度。また今度にするです。大事な、大切な、ことですからね」
こうした緊急事態ではない限り、だいたいの魔術師には通じるし。そうであっても、パルウェですら一瞬いうことをきいてソキを見逃しかけた、という事実を厳重に隠蔽することにして。妖精は、じゃあどう相談するのかしら、と魔術師を導いた。むぅー、と拗ねた声で唸って、ソキはくちびるを尖らせた。
「でも、でも、ソキはロゼアちゃんをお迎えに行くです。だから、だからね……うんとね……」
むーん、むーん、としばらく言葉に悩み。ちょこちょこ、落ち着きなく首をかしげて。あっ、と声をあげたソキは、自信満々、妖精に向かって発表した。
「独房を壊しちゃえばいいのでは?」
『よし、ここまでにしましょう。時間の無駄という言葉の意味を思い知ってアタシが後悔する前にね。いい? ソキ。アタシが相談の仕方を教えてあげるから、今回はその通りにするのよ?』
「あれっ? あ、あれっ?」
あれ、ではない。担当教員との血の繋がりが、無いらしいが、ほんとうは実はあるのではないか、などという疑惑を持たせるのは本当に辞めて欲しい。どうしてこう、斜め上の方向性にばかり思い切りが良いのか。額に手を押し当てて頭痛と戦いながら、妖精は、とうとうソキが辿りつけなかった出発地点にして目的地を、ぴしりと指さすようにして告げた。
『ソキ、ロゼアちゃんを迎えに行こうと思うんですけど、どう思いますか? よ。はい復唱』
「え、え、えぇー……? ソキはお迎えに行きたいんだもん。そこじゃないもん」
『諦めなさい。まずここからよ。こ・こ・か・ら』
お、おぉ、と見守っていたナリアンから、感心しきった拍手が送られる。威嚇するように舌打ちをして睨みつけ、妖精は直刃のような髪をかきあげた。相談の、出発地点がまずはやいのである。戻らせなければどうしようもない。ええ、ええぇ、としばらく抵抗したソキは、やがてしおしおと力を失いながら、従順に、妖精の言葉を復唱した。それがあまりにも、心底納得していないのがよく分かる、しぶしぶしきった声であったので。妖精は微笑んで、ソキの頬をつつき倒した。
嫌がらせではない。教育的指導である。
ひとつ、ロゼアちゃんを迎えに行こうと思うんですけど、どう思いますか。ふたつ、寮長のお見舞いに行くのは、いつが良いと思いますか。みっつ、ソキは寮長に謝った方がいいでしょうか。妖精の指導通りに書き上げた質問状、兼相談の仕方見本を上下左右斜め上斜め下、などから矯めつ眇めつ未練がましく唸りながら見つめ、ソキはふぅうにゃあぁあ、と弱り切った鳴き声を発しながら、それをそっとナリアンに提出した。なにが嫌なのかというと、三分の二が寮長関連であることである。ロゼアがひとつしかない。ゆゆしきことである。
これじゃあソキがロゼアちゃんより寮長のことが気になるみたいです、いくないです、とぉってもいけないことです、誤解を招くのでは、というソキのいじいじとした主張は、そんなことないわよ、という妖精のびしりとした物言いであえなく退けられた。ロゼアの迎えを問うておきながら、寮長のお見舞いが確定とされているのも引っ掛かるらしい。どうして寮長のお見舞いはどう思いますかじゃないんですかぁ、とむくれるソキに、妖精は微笑んで独房じゃないからよ、と言い放った。独房と一般室の違いである。天と地ほどの違いがある。
ソキは、言われれば理解はできるのだろう。果てしなく納得できないだけであって。いやぁ、だの、うにゃぁ、だの、ぎゅうぅう、だの、鳴き声と威嚇と困惑と不満がごちゃごちゃになった声をあげながら、椅子の上でちたちたとして周囲に和みを振り撒いていた。本人としては感情の処理がしきれず、とんでもないことですううう、と主張する通りなのだろうが、その挙動と声が振り撒く印象はひたすらに癒しと和みであり、ぐずっていてかわいい、である。そうねさすがソキ、とんでもないわ、と違う意味で頷いてやりながら、妖精はひらりと食堂の高くへ舞い上がった。
高度をあげて、全体を睥睨する。夕食時ではあるのだが、やはり、朝と同じように閑散としている。僅かに人数が増えているような気もしたが、誤差の範囲内でしかない。食堂勤務の魔術師たちは、朝と昼と同じように忙しい出入りを繰り返し、動揺の収まりがないことを知らしめた。まあ、そうだろう、と妖精は納得する。一日、二日で解決するような問題ではないのだ、そもそもが。それでも悪化しきっていない、と妖精が感じるのは、戻ってくる厨房方の手に持たれているのが、空容器であることが大多数であるからだった。
配達は拒絶されず、また、食べられているのなら、どうとでもなるだろう。りぃーぼんちゃぁーん、なにしてるですうぅー、りぼーんちゃーん、ソキが呼んでるですよぉー、お傍にいて欲しいっていうことなんでぇー、すぐ戻ってきてくれないといけないでしょぉー、りーぼーんーちゃーん、ねえねえー、ねえって言ってるですうぅー、りぼーんちゃーん、といつまでもいつまでも諦めず、ふくれた声をほよほよ響かせてくる己の魔術師に、すこしくらいは待ちなさい、と言い放ち、妖精は軽やかな動きで食堂を一周、飛び回った。
学び舎の空気は、どこもかしこも淀んでいる。普通の妖精なら花園に引き込み、落ち着くまでは寄り付きもしないだろう。妖精は慈悲深いが、容赦もない。乞われてもいないのに助けてやるようなことは、ない。ないのだが、しかし、妖精はソキと契約をしているのであって。己の魔術師の心身を、健やかに保つ必要があるのであって。つまりは優しさや労りなんてものではなく、自身の体調にも通ずる健康管理の一環である。他意はない。そう念じながら適当な間隔でそこかしこに祝福を振り撒き、妖精は不思議そうな顔で首を傾げる、ソキの元へと舞い戻った。
うつくしい森の息吹。命の喜びを輝きながら歌い上げる、宝石色のみどりが、妖精をじっと見つめていた。ぱちくり、無言で瞬きをして。くふふ、と口に指先をそぅっと添えて、あまりにあまく、しあわせそうに笑われたので。妖精はなにか勘違いしてるんじゃないでしょうね、とソキの頬をふにふにと押してやった。
『ソキが体調を崩さないように、よ。他に理由なんてものはないの。分かった?』
「うふふ。リボンちゃんたら、おやさしいです」
『分かってないのよねぇ……』
重たい空気、澱みは、脆く弱いソキの体調を削っていく。だから消し去る必要があった。それだけだ。結果として、他の魔術師のたまごにも良い影響はあるだろうが、意図してのことではない。アタシはソキ以外のことを気遣ったりなんてしないわよ、と妖精が言っても、ソキはあまくくふくふと笑うばかりである。それが、あんまり楽しそうであったので。嬉しくて、しあわせで、ならないようだったので。もうそれでいいことにして、妖精は息を吐いてからナリアンを見た。じつはまだ、夕食の最中である。
やる気なくとろとろと食べては気が散って見本を書き、また食べては書き、を繰り返していたソキと違い、ナリアンはもうとうに食事を終わらせていた。機嫌よく夕食を再開したソキをうっとり眺めてから、ナリアンは渡された質問状、相談見本をもう一度確認して。いいんじゃないかと思います、と控えめに、妖精に向かって囁いた。
「寮長については、いつ行っても良いと思います……。起きてたし、なんか思ったより元気だったし、口数は減ってないし、ほんといつでも良いと……いや……なるべく早く、かな……。早くしないと、暇を持て余して徘徊とかしそうだし……」
『……ああ、そう。そうなの……。一応、事情が事情だから、見張りが付いている、と聞いているのだけれど?』
「そうですけど、寮長ですよ?」
謎の説得力がある。ナリアンが言うから、なおのこと。いやでもさすがに骨が折れてる状態で抜け出したりするかしら、あのひとにその手の一般常識が通じると思ってるんですか、アンタはシルのことなんだと思ってるの、なんとも思っていませんがあえて言うなら寮長ですそれ以上のものではありません、そんなだから反抗期だって可愛がられるのよナリアン、あぁあああやだぁあああっ、とぽんぽんと言葉を投げ交わし合っている、妖精とナリアンをきょときょと、と見比べて。
もきゅもきゅとフルーツヨーグルトを頬張りながら、ソキは不思議そうに問いかけた。
「ナリアンくんたら、いつのまに寮長のお見舞いに行ったんです?」
ソキがお昼寝で寝落ちている、ほんの三十分の間のことである。ちょっと用事ができました、と告げて部室からいなくなったナリアンの目的地を、妖精はあえて聞かなかったのだが。察しはついていた。びしっと動きを止めたナリアンを、ソキがねえねえ、と問い詰めている。ゆっくりと首を左右に振って、妖精はそっとソキに言い聞かせた。
『ソキ。アタシがあえて聞き流したことを聞くんじゃないの』
「だってぇ、ナリアンくんたら、りょうちょとおしゃべりもしてきたんでしょう? ねえねえ? なにか、ロゼアちゃんのことは言ってたです? ねえねえ? ソキに教えてくれなくっちゃいけないですよ」
ねえねえ、ときらきらした目で見つめられて、ナリアンはぎこちなく、ソキから視線を外した。深呼吸を何度かする。ええと、と押し出された声は、動揺に擦れていた。
「ちょ……ちょっと、分からない、かな……」
「えぇえ? なんで? なんで? ねえねえ、なんで?」
『ソキ。ナリアンをいじめる前に、そのヨーグルトを食べ切りなさい』
ちがうもん、いじめてないもん、きいてるだけだもん、と言いながら、ソキは再びやる気を失ったとろとろとした動きで、食事を再開する。食べたらお風呂に行きましょうね、と言い聞かせながら、妖精はちらりとナリアンを見た。なにやら頭を抱えて呻いている。心配とかほんと気の迷い、俺はこれから正気に戻る、などと声が聞こえた。これだから、ナリアンは反抗期だというのだ。反発しながら気にしても、可愛がられるだけだというのに。はやくそれに気が付けば、楽になるものを。
しかし、告げてやるだけの優しさは、妖精にはなく。やがて、たべおわったーですぅーっ、と自慢げにふんぞりかえるソキの意識も、再び、そこへ戻っていくことはなかった。
ソキはルルクによって整えられた部屋を、そこそこ気に入ったらしかった。ロゼアちゃんがしてくれたのがソキはいっとう好きですけど、ルルク先輩のも落ち着くです、綺麗で清潔でいい匂いがするです、気に入ったんでソキはここで寝てあげてもいいです、と言って妖精に特大の雷を落とされていた。ソキーっ、という怒り狂った絶叫が、先程まで幾度も響いていた。褒めたですうぅうありがとうってソキはちゃんと言ったですううう、言ってないわよどこが褒めでどこがありがとうなのーっ、というやりとりは騒がしく寮の空気を揺らしていたから、談話室で待機していたガレンたちの知る所でもあった。
それから、かれこれ一時間。寝かしつけに成功したルルクがそっと談話室に顔を出すと、さて、と言ってガレンは集まった者、それぞれの顔を順繰りに見て行った。ルルク、アリシア、ハリアス、メーシャ、ユーニャ。その中で一番けろっとした顔をしているのはユーニャだが、疲労感に差があるというよりは、性格だろう、とガレンは思う。誰より早朝に起きだして、精力的に動き回り、またルルクが来るまでは時間がありそうだから、と先程までは今日の進捗を、議事録よろしくまとめ上げていた。働きすぎである。
今からバテてもらっては困るのですが、とガレンは一応、窘めたのだが。それじゃあ明日はもうすこしゆっくりしようかな、と微笑むばかりで、手を止めることはなく。結局、ユーニャはルルクがやってくるまでの一時間で、見事に己を含めた五人の活動状況をまとめあげてしまった。その冊子をはい、と差し出され、ルルクは引きつった顔つきで受け取った。
「えっ、なにこの、私だけほんとなにもしてない感……。いや重大任務を遂行してはいたんだけどね……? 初日からみんなちょっと頑張りすぎじゃない……? 一人一枚以上書くことがあるってどういうことなの……というか、この量をさくさく纏められるのすごい……すごくてちょっと引く……休憩してくださいね……?」
「終わったらすぐ寝るよ。ルルク、明日の予定は?」
「明日? はい、明日は、ソキちゃんはじめての相談会に出席するので、引き続きこっちの活動はできません!」
優先順位を覆すことはないのだが、そこそこ罪悪感はあるのだろう。すっと手をあげて発言しながらも、ルルクはユーニャから思い切り視線を外していた。ユーニャはおかしそうに笑いながら、時間があったらすこし見に行こうかな、と囁き落とす。当然、ふたりともそれに参加するんだろう、と問う視線に、ハリアスとメーシャはちいさく頷いた。
「一応、時間ができたら、とはソキにも言ってありますが……。なにか事件が起こらなければ、ソキの方に行こうとは思っています」
「私も、です。今日、できる限りのことをした、つもりです。……アリシア先輩は? どうされますか?」
「私は今日とかわりなく。こちらのことは任せて……と、言っても」
苦笑して、アリシアは傍らで黙々と冊子に目を通すルルクの、その書き連ねられた文字列に視線を落とした。
「成果らしい成果は、明日もないままでしょうけど」
「いいんですよ、アリシア。二日で成果を出して欲しい、と伝えた記憶もありませんし、そのつもりもないことですし」
ユーニャは、いいからもう落ち着いて話を聞くだけにしなさい、と窘めてから、ガレンはアリシアに重ねて言葉を告げた。
「一週間程度は、徒労感との戦いにもなるでしょう。アリシアも、皆も、どうかそのつもりで挑んでください。張り切りすぎないように。特にユーニャ。あなたの罪悪感は理解しますが、勝負に出るのは今ではない。今はまだ、聞く耳を持つものに、そっと語り聞かせる。それくらいで十分です。分かりましたね?」
「はぁい。……ふふ、怒られちゃった」
「……問題は、寮長が回復され、ロゼアが出て来てからなんですから」
言葉に。思わず、という風に、誰もが口を噤んだ。しかし、それは一瞬のこと。すぐにはきはきと気を取り直し、はーい、と手をあげたのはルルクだった。
「ロゼアくんはいったん置いといて、寮長って今どれくらいの状態ですか? ナリアンくんがお見舞いに来てくれて、めっちゃはしゃいでうっとおしかった的な話を風の噂で聞いたんですけど」
「意識はあります。元気もあります。熱があります。絶対安静です」
「……なるほど?」
面会謝絶ではなく、体調が悪すぎる、ということでもないらしい。発熱は骨折故だろう。他にもどこか痛めている可能性は高かったが、元より寮長はここ最近、過労から回復したばかりである。回復しきった、とも言えない状態であったから、熱くらいは出るだろう。出歩かないといいね、と呟くルルクに、ガレンはそっと微笑み、そっと視線を外し、そっと胸を手で押さえてから囁いた。
「……そうですね」
「あっ、これもう目を離した隙に、自由奔放にのびのびと出歩こうとされた後だね……?」
「未遂、未遂ですから……」
世界がいくら寮長のいと尊き輝きを求めているからと言って、骨が折れて熱が出ている状態で出歩いて頂きたくない、その意見を聞き入れてくださる寮長の懐の広さに今日も世界平和を感じます、と告げて行くガレンの肩に、ぽん、とユーニャの手が乗せられる。
「ガレンも、これが終わったらすぐ寝ようね。すぐ寝る同士だよ」
「まあ……うん……ガレンが病気なのは……いやひとさまの信仰を病気とか言っちゃいけないわ、えーっと。えーっと……個人的な趣味と解釈において寮長がなんか神聖化されてるのは分かってた、分かってたし知ってたから……。えっと……。えっと、見張りいてよかったね……?」
「色んな意味で騒ぎにもなるだろうし、ロゼアが出てきて落ち着くまでは、お部屋にいて欲しいよね」
柔らかな笑顔と口調で告げるユーニャの、遠回しな軟禁の指示伺いである。察したガレンは数秒の沈黙の後、寮内の状況から総合的な判断を、また下しますが、と前置きをした後。なにごともなかったかのような表情で顔をあげた。
「それが良い、と私も思います。他にご意見は?」
「それについては、特に。賛成です」
ただ、と言葉を途切れさせて。迷いながら。メーシャはその問いを口に乗せた。
「……ロゼア、いつ頃出てきますか?」
「分かりません。一時間前の報告で、まだ通常の会話ができる状態ではない、とのことです。……昨日よりは、反応がある、とも聞いています。明日にはもうすこし改善があるでしょう。予想も、もうすこし経過しないとたてられない。そういう状況ですが、そうですね……」
数日後から一週間、発生日から数えて十日まで。それくらいを目途にしていいと思います、とガレンは言った。
「独房の連続滞在記録が、最長で十日。例外はなし。それが、いままでの記録で確かなことですから」
「はい。分かりました。……十日間、の、理由は?」
「後で、そのあたりの資料を配布しましょう。閲覧制限があるものでもないので、持ち出して構いません。……まあ、簡単に言うと、十日反省したら、あるいは、させたら、いったん不問とするように。そういう王命が下されているからですよ。数百年の昔から、ね」
大戦争の記録、歴史の授業でも習うことですから、これからの予習にもいいでしょう。微笑んでそう告げて、ガレンはさて、と椅子から立ち上がった。
「ルルク、メーシャ、ハリアス。明日は、ソキの相談会? ですか? なにを話していたのか教えてくださいね。差し支えなければ」
「はい。あとで議事録を作るので。あと祈るので……」
そもそもの開催理由、そして原因がロゼアの不在であるので致し方のないことではあるのだが。ロゼアの不在時に、ソキの、はじめての、相談、という事件が起きてしまったことに、ルルクはもう祈るしかないらしい。なにを祈るんですか、と問うたガレンに、ルルクは達観した微笑みで静かに言った。
「平和とか、ですね……。平穏、無事、和平、みたいな……ことを……」
「分かりました。解散!」
もうちょっと丁寧に取り扱って欲しい、と思いながら、ルルクは椅子から立ち上がった。ぞろぞろと出て行く、談話室の先の廊下は静まり返っている。その、暗闇を。しばらく、ルルクは無言で見つめていた。祈るように。誰もの平穏を、無事を。和平を。その暗闇の中に探し、その暗闇の先に。未来に。祈るように。
磨り潰されるように時間が過ぎて、炙られるような夜を過ごす。呼吸をする喉が痛い。もがくように手を伸ばして、ぬくもりの無い空白を自覚する。ソキがいない。ソキが。呼吸を止めるように、夢うつつから覚醒する。幾度目の目覚めなのかは分からなかった。数えることはとうに放棄していた。浅い眠りと覚醒を繰り返す。その繰り返しだけで時間が過ぎて行く。心を焦がすのは焦りだろうか。己の感情に名前を付けることさえできず、ロゼアは寝台の上で身を起こした。枕元には明りの絞られた灯篭が置かれている。そうした記憶はないままだった。
それでも、他者に侵入された覚えはないから、やはり自分でそうしたのだろう。いくら茫然自失状態であったとはいえ、眠っている状態で接近を許したとも考えにくい。そこまで呆けていたとも思いたくなかった。熱を求めるように灯篭に手をかざせば、封ぜられた火の熱は喜ぶように魔術師の指先をあたためた。しばらく、そのままでいた。ゆったりと火の熱を感じながら、ひかりを見つめて瞬きをする。ふ、と息が楽になるのを感じて、ロゼアは苦笑した。ようやくすこし、目が覚めたような気分だった。まったく、なにをしているのだろう。
思考は明瞭で、透き通っていた。己という意識が、手元まで戻ってくる。それは今まで遠くに置かれていて、ロゼアの手の届かない場所に転がっていて、眺めることしかできないでいた。そういう感覚で時を過ごしていた。は、と短く息を吐く。自嘲の強い吐息だった。なにをしていたというのか。到底許されないような失態だった。『花嫁』を奪われかけた『傍付き』としては全く正しい反応だが、魔術師のたまごとして、してはならないことだった。正統性を訴える感情と、罪悪感を覚えるその狭間で、意識がばらばらになりそうだ。
ソキの傍を離れて、一日以上が過ぎていた。用事があって離れることはこれまでもあったし、『旅行』の間は当然のこととして会えなかった。不在はいつものことではなかったが、経験したことのない事態ではない。それでも、あんな風に。声もかけず、いなくなったことはなかった。振り返りもせず、立ち去ったことはなかった。呼び止める声が背を追いかけなかったことは。これまでには、なかったことだった。ロゼアを呼ぶソキの声は響かなかった。失望された、のだろうか。怯えていただけだと思いたかった。驚いていただけなのだと。
ソキは泣いただろうか。泣いている、のだろうか。泣いてくれたのだろうか。今は、どうしているのだろう。眠れない夜を過ごしていなければいい。傍にいる者はある筈だった。ナリアンも、メーシャも、忙しくとも、決してソキを見捨てることはないだろう。ルルクもいる。なにより、妖精が。ソキを導いた妖精が、今はひとつのもののように、寄り添っている。アスルを洗濯して、綿を入れ替えておいてよかった、と思う。ロゼアの不在を慰める為のぬいぐるみは、ソキの慰めになるだろう。帰ったらまた洗ってあげなくては。
帰る、のは。いつだろう。そこへ本当に戻って良いのだろうか。ソキの元へ。ソキの傍に。求める声はなかったのに。ぞっと全身を冷えさせる思考に、ロゼアはつとめて息を深く、吸い込んだ。傍にいたい。なにをしてでも。なにを捨てても。なにを壊されても。傍にいたい。ソキがロゼアを、求め続ける限りは。でも。では、ああ。求められなくなったら。どうすればいいのだろう。行き場をなくした感情が、泥のように重く沈んでいく。首を絞めるように。息を止める瞬間、ふっ、とロゼアの目の前を赤いものが横切った。
赤い鉱石の蝶。透き通る石の羽根は、この暗闇でロゼアに親しく寄り添った、灯篭に封ぜられた火にとてもよく似ている。火のかがやき。火のぬくもり。揺らぎながら輝くもの。ソキの魔力、その風の具現は、自由を誘う太陽にとてもよく似ている。太陽の性質を持つ、ロゼアの魔力に、とてもよく似ている。思わず、手を伸ばすロゼアの指先に。赤い鉱石の蝶は、ふよふよと頼りない軌跡を描いてしがみついた。ちたちた、嬉しそうに羽根を動かして。やがて、ぱきん、と音を立てて儚く崩れて行く。
ソキの魔力が、どこかから零れたのだろう。赤い鉱石の蝶がロゼアの元にやってくるのはよくあることで、そう不思議には思わなかったのだが。見ればまた一匹、慌てたような速度で扉をすり抜けてくる蝶がいた。赤い鉱石の蝶。えっ、と思わず見つめてしまうロゼアの視線の先、赤い鉱石の蝶は辿りついたことを喜ぶように、その場でくるくると旋回し。ぴゅーっと舞い降りてくると、ロゼアの頬にぶつかるようにして消えてしまった。ぱきん、と音がしていなくなる。え、っと、と頬を押さえて、ロゼアは瞬きをした。
そうしている間にも、また一匹、二匹。赤と、黒い鉱石の蝶も飛んでくる。蝶は決まって、わーいついたー、とばかりくるくる旋回してからロゼアの元へやってきて、頬や肩、首筋、膝の上や胸元に落下しては、すぐ消えていなくなってしまった。ろぜあちゃぁん、と甘えてふわふわ響く、ソキの声が聞こえるようだった。ロゼアちゃんロゼアちゃん、ロゼアちゃん、あのね、あのね。あのね。ソキの魔力は、なにかをそっと囁くように。なにかそっと、伝えたいことがあるように。やわらかく響いては、それだけで消えてしまう。
ああ、とロゼアは落ち着いた気持ちで、空の腕を見下ろした。さびしいな、と思う。足りないな、とも思う。そこにあって当然の、ロゼアの『花嫁』が、いない。そのことが、ただ素直に悲しかった。蝶の訪れは、ソキが息切れを起こしているかのよう、たまに途切れながらも続き。それでいて、最後の蝶が訪れて、五分も空いた後のことだった。それまでの蝶より、うんと遅い、のたくたした動きで、赤い蝶がなにかを運んで来た。見ればソキの刺繍糸で、なにかが包まれた布の端切れをくくりつけられているのだった。
思わず立ち上がって、両手を差し出して出迎える。も、もうへろへろです、がんばったです、とばかり力なく落下してきた赤い蝶は、ロゼアの手の中でぱたぱた羽根を動かして喜び、ぱきん、と音をさせていなくなってしまった。その訪れが、ほんとうに最後のようだった。あとはしんと静まり返る夜があるばかりで、なにかが訪れる様子もない。また、侵入に気が付いていないのか、見逃してくれたのか、パルウェが様子を伺いに来る気配もない。ロゼアは寝台に座り直し、手の中に転がる包みを指先で開いた。
布にくるまれていたのは、飴玉だった。透き通る金の飴。甘い蜂蜜の、ソキのいっとうのお気に入りである。それを摘まみ上げて口に含み、ロゼアは布に、なにか書かれているのに気が付いた。模様かと思いきや、文字である。灯篭に近づけて文字を読み、ロゼアは無意識に、己の『花嫁』の名を呼んだ。
「ソキ……」
ロゼアちゃん大好き。言葉は、普段のソキの書き文字とは違っていた。『花嫁』はみな、訓練されたが故に、うつくしく整った文字を書く。ソキも例外ではない。ソキの文字は写本師にも負けず、整えられていて読みやすい。それなのにその文字は、くしゃくしゃに歪んでいた。震えながら書いたかのように。それはソキの字だった。『花嫁』ではないソキが書く、ロゼアだけに向けられた言葉だった。一言。他のなんでもなく、選ばれた想いだった。ロゼアはふっと笑って、その文字に指を伝わせた。なぞって、噛みしめるように。
俺もだよ、と囁いた。
アスルをぎゅむぎゅむと抱きしめて鼻先をうずめ、うと、うと、として今にも寝そうなソキを白んだ目で見下ろして。妖精は腕組みをしながら、心の底から息を吐き出した。
『状況証拠が揃いすぎてる訳なんだけど……? これはどういうことなのかしら?』
「そき、そき……おきたぁ……ぱち、っと、おき、た……。ぷす……む、む」
「あ、あの、とりあえず片付けて良い? 片付けるね? 危ないし……!」
お願いします、と拝んでくるルルクに眉を寄せながらも、妖精は鷹揚に頷いてやった。なにせソキと来たら、刺繍糸と針と鋏と、万年筆とインク瓶と、小瓶に入った飴玉と、ハンカチや端切れに埋まって眠っていたのである。ルルクがソキを寝かしつけて退室し、妖精も眠りにつくまでは、このようなものは出ていなかった筈である。夜中に起きてなにかしたに違いない。明らかに寝足りない様子でいるのも、魔術を使ったという程ではなく、けれども不自然にばら撒かれているソキの魔力にも、不安を通り越して達観しか感じなかった。
しかし妖精が目を覚まして結構な時間が経過しているが、ルルク以外に部屋に訪れる者もなければ、騒ぎになったような気配もない。見事に隠蔽して、欺いてみせたに違いない。見逃してくれたと思うには、状況を楽観視しすぎるだろう。この状況で、未熟で無許可な魔術行使など、それこそ独房ものである。ああぁアンタもアタシも纏めて監督責任に問われるんじゃないのコレ、アタシは誰かからなにか聞かれない限りは自白しないで葬り去るつもりだからアンタもそのつもりでいなさいよ分かったわね、とルルクに圧をかけながら。
妖精は、アスルに顔を突っ込むようにして夢の世界に旅立った、ソキの頭をべちんと叩いた。ぷぎゃっ、とびっくりしきった声でソキが顔を上げる。ぷるぷる震えながらあたりを見回し、不思議そうにぱちくり、瞬きをして。再びアスルを抱きしめて頬をくっつけ、うと、うと、ふにゃ、としだすソキに、妖精は微笑んだまま、額に手を押し当てた。誰かに叩かれたような気がしたんですけどぉ、リボンちゃんとルルク先輩しかいなかったですからぁ、きのせいです、というソキのどんくさい思考が手に取るように分かったからだ。
『……こ、このっ……あまえんぼどんくさうすのろソキっ! 寝る前に自白しなさいって言ってるのよ!』
「じはく……じはくです……? ……ソキ、わるなんで、よるに、あめを、たべたです。はちみつなの……ふふふ」
「ひっ! 朝ごはんに行く前、いや、すぐ歯磨きして欲しいな! 用意します!」
虫歯とか万死にすぎる、だってソキちゃん歯医者が嫌いって教わったしっ、と叫んで部屋から走り出してくルルクを見送り、妖精は深く息を吐き出した。歯医者が、というより。ソキは医者全般が嫌いな筈である。あー、もう、ロゼアが帰って来たらまず健康診断からさせるべきだわこれ、と呻く妖精の声に、ソキはふにゃ、とねぼけた声で顔をあげて。ふにゃふにゃの、あまく、とろける笑みであのねえ、と囁いた。
「これはとっておきの、ひみつ、なんですけど……。ソキはじつは、おてがみ……おてがみを……はちみつなの……」
『はぁん?』
「そき……そきは、はちみつのあじ、するぅ……? きらきら、なの……。らヴぇが、よく、そきをね、かわいい、はちみつさんって。そき、はちみつさん……ふんにゃ……」
あ、駄目だこれ、寝てるわ、と妖精は真顔でソキを凝視した。起きているように見えるだけで、実質寝言である。ああもういいわ、ちょっと寝なさい、と告げる妖精に、歯磨きをしてからでお願いしますっ、と半分悲鳴のような叫びでルルクが駆け戻ってくる。そうしてきゃいきゃいと、騒がしく声が零れて行く、その部屋を。通り過ぎる者たちは複雑そうに、すこし安堵交じりに見てから、足を進めて立ち去った。さわり、と朝の清涼な空気に学園が揺れる。平常にはほど遠く。どこか少し、以前に似た日常の気配を漂わせながら。
それでも。食堂に姿を現す者の数は、増えなかった。