前へ / 戻る / 次へ

 ソキが例の一件について相談会を開くという話は、夜から朝にかけて『学園』内をささやかに駆け回った。ルルクはあえて言いふらそうとはしなかったのだが、ソキ自身がふんすふんすと気合の入った興奮顔で、廊下で食堂で女子風呂で湯冷め室で談話室で行きかう先輩たちにことごとく、聞いて聞いてあのねソキ明日はじめての相談会なの聞きに来てくれてぇいいんですよぉ、と普段通りの調子でふんぞりかえりながら自慢げに告げていったからである。相手の気鬱そうな表情やひきつった顔や、ぎこちない応答を明後日に放り投げ切った、見事なまでに一方的な宣言だった。数回は怒って辞めてあげなさいと説教した妖精も、はぁいと不満げに返事した声が消えぬ間にあっ先輩あのねと続くものだから、しまいには面白がってまあ好きになさいと放置した、結果、その事実は足元走り抜ける火のように、ぞろぞろと静寂をなめながら学内にあまねく広まって行ったのであった。
 その事実をルルクが知ったのは翌朝、食堂でのことである。今日は相談会なんでぇとびきりかわいいお服にして欲しいです髪もあみあみしてお化粧もしてお爪もぬってそれでうぅんおもてなしのお茶とお菓子はどれにしようかなぁどれがいいかなぁ、いいから食事をしなさいと言っているのよソキ、もうおなかいっぱいになったもん、せめて一口だって食べてからその主張をしなさい、んもぉリボンちゃんったらすぐそういうこと言ってぇ、というきゃいきゃいしたやり取りを聞きながら、待ってソキちゃんの着替えはともかく化粧とか爪とかは私には許可されていない訳なんだけどこれ『お屋敷』には言わないでいればごまかせる気が、ぜんぜんしないからあっ詰んだどうしようどうしよう、と頭を抱えてうめいている最中のことだった。
 ささやかに空気が揺れる。それは人の気配だった。朝の食堂で触れるには慣れ親しんだ、それでいてここ数日は感じることさえなかったもの。ぴた、と妖精へ向ける言葉を止めて顔を向けたソキの、泣き濡れたような宝石色の瞳が、ぱちくり瞬く。あどけなく。それでいて、不思議そうに。
「先輩、おはようございますです。あのね、ソキね、今日はじめての相談会なの!」
「おはよう、ソキ。それについて……すこし詳しく、話を聞きたくて」
 ちょっとだけ、いいかな、と問う言葉がそろりと窺うものであるのは、ソキの前に置かれた朝食がまるで手付かずだからだろう。時間をおいて出直すけど、と告げる者たちに、妖精とルルクがなんの言葉を返すより早く、ソキは元気いっぱいにきゃぁんと声をあげた。
「もちろんですぅ! 先輩たちはもうご飯を食べたの? あのね、今日もとってもおいしいですよ」
『一口だって食べてから言いなさい!』
 ああもう手短にね、と妖精からも許可を出す。そうして妖精は、ぞろぞろと現れた者たちを改めて見た。男女の数は合わせて四人。どれも普段からそう親しくしている者ではないが、関わる機会がそうないというだけで、妖精の記憶に間違いがなければ、ソキたちに対してごく友好的な部類の上級生である。そして例にもれず、混乱と動乱に巻き込まれた者たちだった。彼らは表情をややこわばらせながらも目くばせをしあい、そのうち一人だけが、じゃあ、と言って足を一歩前に出した。十代半ばの、ルルクより年下の少女である。確か錬金術師、と妖精は思う。出身は白雪だったか、と思い、妖精は眉を寄せた。
 四人をじっくりと見比べて記憶をさらう。錬金術師、黒魔術師、白魔術師、占星術師。適正は一人として重なる所はないが、この四人の共通点が、ひとつ。彼らはみな、白雪の国出身の魔術師のたまごだった。それに意味がない、ということはないだろう。ごく慎重に警戒を深める妖精に構わず、歩み出た少女は胸の前で祈るように両手を組み、あの、とどこかすがるように、言葉を絞り出してソキへと問うた。
「今日……これから、相談会を、する、と聞いたのだけれど……。相談会、というのは……?」
「あのね、ソキがみんなに質問をするの。それでね、相談してね、考えるの」
 妖精が真顔で首を横に振り、ソキがえっと声をあげる。困惑しきりの四人に対し、すっと手をあげて発言したのはルルクだった。
「えっと……あの、例の件についてね、色々あるでしょう? そっちも聞きたいこと、あるだろうし。お互いに意見交し合いましょうって、まあそういう会な訳。ソキちゃんがいま思ってることとか、感じてることとか、したいこと、して欲しいことがあって、それについて皆どう思う? って聞くのがメインになると思うけど。だからね、相談会。あえて広報してないけど、あとで談話室に開催場所と時間の張り紙はしようと思っていて、参加と途中退席は自由にしようと思っていて……それが、ええと。どうかした?」
 暗に。だから、なにかあるのであれば、それまで待って欲しい、と告げるルルクに、少女はすがるような顔のまま、いいえ、とゆっくり首を振って。そういうことではないの、と口にも出して、その不安を否定した。
「そうではなくて、その、相談会というのは……催しごと、よね?」
「……うん、はい。そうですね……?」
 あまりに要領を得ず、意図が分からないので脳が混乱したらしい。思わず敬語で受け答えをしたルルクに、少女はやや興奮したように、こくこくと何度か頷いた。忙しく言葉が紡がれていく。
「そうよね。それで、催しごと、ということは、つまり……つまり……!」
「つ、つまり?」
 つまり、とその言葉を摘まみあげて何度か転がして、ようやく。少女はぱっと華やかに笑って、幸せそうに言い切った。
「祭りよね!」
「待って。……えっ、いや待って? 待って待って待って? まっ、いやえ? なに? なんて? いまなんて言ったの?」
「お祭りならまかせて! 私たちにも手伝わせて欲しいの!」
 待ってちょっと待っていやごめんちょっとじゃなくて待ってなんていうか事実認識に対しての差がすごいある絶対誤認があるお願いまって話を聞いて、お願いそんなこと言わずに協力させて私たち、お祭りに、飢えてるの、もうだめなのがまんできないのゆるしてお祭りさせて私たちだけじゃないから白雪出身に声をかけるからお祭りと聞けば皆すぐ飛び出してくるから秒だからほんと秒で集合するから安心して、なにひとつ安心できないしなにひとつ意味が分からないしなにひとつ私の話を聞いてくれている感がしないのだけれど号泣しても許される気しかしないからもう泣いていいかな、あっそうだ結婚おめでとうございます、なんで今、新婚といえばお祝いすなわち祭りだなって、話が通じていないことに対しての恐怖しかない、と交わされる会話に、妖精は深く息を吐いて。
 なにが起きているのかちっとも理解できない顔をするソキの頬を、ため息をつきながら突っついた。
『さ、朝ごはん食べちゃいましょうね。ルルクにまかせて』
「はー、ぁー、いー……?」
「やめて許して任せないで手に余る手に余る手に余ってる! あーっ! なにこれーっ! 私なにに巻き込まれてるのっ? えっ? なにこれっ? なにっ?」
 仕方がなさそうに焼き立ての白いふわふわパンをひとくちちぎり、も、きゅ、も、きゅ、も、とやる気がなさそうに頬を動かすソキを眺めながら、妖精はとある知識を頭から引きずり出していた。白雪の国。彼の国は確か、重度の祭り中毒者集団である筈だ、と。もきゅもきゅも、もきゅもきゅも、と精力的に食べ始めながら、同じ知識に到達したらしいソキが、納得と好奇心に満ちた目をきらんと輝かせる。冷めたミルクをくびー、と飲み干してから、ソキは未だぎゃんぎゃんと主張をぶつけてじゃれあう先輩とルルクに対して、くてん、と首をかしげて問いかけた。
「お祭り? なのぉ?」
「はい言質頂きました! ありがとうございます! それでは準備があるのでまた後で!」
「いや今の疑問形だった疑問形だったでしょちゃんと聞いて! やめてよして許して禁断症状に巻き込まないであーっ!」
 断末魔めいたルルクの叫びにも輝く笑顔を曇らせることなく、四人の男女はそれじゃあね、と言い残して食堂を駆け出して行った。蜘蛛の子を散らすような、鮮やかにして不吉なざわめきを感じさせる撤退だった。あぁあぁああ、と喉を絞められた鶏のような声をあげながら、ルルクが顔を手で覆って机に突っ伏す。いやもう、むり、なにこれ、と呻くルルクに、止める間も止める隙もなかったが故に放置していた妖精は、深く息を吐いて騒ぎを追加されたっていうだけじゃないの、と言ってやった。
 ソキ、はじめての説明会の日。同日、白雪祭りの乱が勃発、と寮の日誌には書かれている。



 欠片の世界に残された五国は、元々地続きの国ではなかった、らしい。そうであるからこそ各国には相互理解すらしにくい、それぞれの文化があり、歴史があり、習慣があり、信仰があり、神話がある。そして、そうであるからそれは、最大限尊重されるべきである。砂漠の『花嫁』と『傍付き』のように。各国は固有の、独特の一面を確かに持っている。それが白雪の『祭り』である。俗に『祭り中毒』とは誰が言ったか。今では歴史書にもその名で登場するそれは、歴史であり文化であり、習慣であり、そして信仰にすら近いのだという。白雪出身の者は、ほぼ例外なく、こよなく祭りを愛している。それは、言葉にしてしまえばたったそれだけの事実であり。重篤な病気めいた症状ですらあった。
 歴史書曰く。かつてこの世界が欠片として砕かれる前、大戦争が起こるよりさらに前。大陸、世界は混沌とした争いの中にあった。その覇権を争っていた一国が、白雪の国であったという。戦に長けた白雪の国は幾たびの争いを繰り返し、勝利しては平和を得て、打ち破られては開戦した。争いは根雪のようにこびりつき、春はめぐらず、いつまでもいつまでも、停戦と平和、開戦、戦争が繰り返された。しかして、民は恐怖という病に侵された。明日を知れない恐怖である。精神の死に直結する病であった。この平和はいつまで続くものか。あの戦いの日々はまた、いつ繰り返されるのか。不安は国中を多い、平和は黒く塗りつぶされてそこにあった。それを、白くよみがえらせる為の、国家の政策であったのだという。
 そう、つまりはそれが祭りって訳、と見せたことのないような心地よい緊張感に包まれた顔つきで、白雪出身者は声をそろえて言い放った。不安を払拭すべく投入されたのは、祭りだった。ただの祭りではない。王族主催の、国家規模の祭りである。それは春の訪れを、夏の盛りを、秋の豊穣を、冬の静謐を寿ぐものとして始まり、そしてどんどん増えて行った。あれもやりたい、これも祝いたい、あっこれも、こっちも、と、当時の施政者が調子に乗ってあれこれ試した結果、なぜか全部廃れずに定着してしまったのである。祭りが国中に熱狂を広げるまで、そう時間はかからなかったのだという。誰が呼んだか、祭り中毒。不安と恐怖と引き換えに、祝福と寿ぎで、彼の国は戦乱を乗り切って今に至る。
 いやでも一番ひどかった時期と比べれば回数も減ったし規模もちいさくなったし、首都では二年に一回しかお祭りしないし、と少女は談話室に正座しながら、欠片も反省の見えない態度で滾々とかたった。逃げないように縄でしばられ、ぺかぺか光る反省札に『私は祭りを先導しました』と主張されているのさえ、誇らしげであるから手に負えない。ソキはちいさなひとりがけのソファを移動させ、少女の隣にちょんと腰かけながら、それでそれでぇ、と目をきらきらさせながら話の続きを促した。各国の交流はいまも盛んではないから、出身者から語られる生の歴史、文化風習は貴重で楽しいものだった。妖精がソキの頭の上でうんざりした顔をしながらも止めないのは、語ることについてソキに学ばせたいが故だろう。
 未知のものを理解させるのに、どう話せばいいのか。その格好の教材が向こうからやってきたので、活用する他ないのだった。いやまったく反省してねぇなあれ、という騒ぎを聞きつけてやってきた教師陣たちも、談話室の隅から見守る中、積極的に咎めたりしないのは有用性を分かっているが故であり。なにより。談話室が、廊下が、寮が、そこかしこが。そこかしこに。すこし、息を吹き返した活気が満ちていた。ざわめきがあった。生徒たちが慌ただしくも、足取りを弾ませ行きかっては言葉を交わす。不安げに、楽し気に、不愉快に、笑いながら、うんざりと、いたずらっぽく。言葉は様々で、感情も多様だった。しかし、言葉があった。沈黙ではなく。言葉が交わされていた。言葉が息を吹き返しはじめていた。投げつける刃ではなく。
 言葉が。
「それでね、歴史によれば最盛期には一年に二十四回だか二十六回だか、三〇回くらいはお祭りがあった訳なんだけど、そうすると開催も準備もてんやわんや、どうにもこうにも立ち行かなくなるでしょう? お祭りしたい! いっぱいしたい! でもお祭りができなくなる! すなわち死、みたいになったご先祖様たちは一生懸命考えて、一ヵ所で集中してやるんじゃなくて、国内で分散して持ち回りすればいいんじゃない? っていうことに気が付いて」
『いやアタシはそういう歴史があったのも知ってるけどね? 改めて聞いても気が狂ってるわ……』
「で、今の各都市で一ヵ月ごとに開催して、国内ぐるっと回って、最後に首都に戻ってくる! 二年で一単位の円環を成す、現代の形式が出来上がったってわけ! 我ら白雪の民、なんの為に生まれ、生きるか? それすなわち祝祭の為である、という有名な言葉はこのお祭り最盛期に生まれた言葉なんだけど、この最高に魂に響く格言は今も白雪のどの都市に行ってもどの祭りの開催の時にも叫ばれるし閉会の時にも唱和するしあったぎってきたちょっと深呼吸するから待ってね!」
 これほんとに空気感染しないのかしら、と妖精が嫌な顔をして少女を睨む。少女は宣言通りに何度か深呼吸を繰り返し、表面的な落ち着きを取り戻すと、それでね、とさらに濁流のような言葉を続けた。
「つまり白雪の民はお祭り気質なの。祝いたいの。お祝い事とかお祭り騒ぎが大好きで、不安とか重苦しい雰囲気とかに耐えられないのね。これはソキがどうとか言ってるんじゃないから気にしないで聞いて欲しいんだけど、つまりここ最近の空気感が無理だったの。耐えきれなかったの。怖かった。怖くてどうしようもなかった。でも私たちはその恐怖とどう向き合い、どう対処していいかを知ってたの。そんな中、小耳に挟んだのが、ソキのはじめての相談会! ってわけ。相談会。それすなわち催しごと。催しごとというのは祭りのこと。祭り! 祭りを開こう! なぜならこれは祝祭だから!」
『ねえ一応確認するけど、コイツに鎮静剤打ったりしなくていいの? 錯乱してるんじゃないの? 錯乱してないとしたら逆になんでなの?』
 教師陣とかたまって一応、という風に待機していた保健医、レグルスは妖精からのうんざりした問いかけにすっと視線をそらして沈黙した。つける薬がないので、という風に首が横に振られる。役立たずめ、という意思を言葉にもきっちり表し舌打ちして、妖精はソキの頭の上で寝ころんだ。異文化にきらきら目を輝かせるソキは、ふむむ、と楽しそうに清聴している。ぱたた、と談話室に走りこんできたルルクが、ソキちゃんもうちょっとそこにいてねー、と声をはりあげて、一枚の紙を掲示する。ソキ、はじめての相談会開催のお知らせ。そう書かれた紙に記載された時間を確認して、妖精は昼寝の時間を思案した。早く終われば時間はあるだろうが、今日は諦めて早寝させるのが賢明かも知れない。
 ほんとうは朝からの予定であったのだが。騒ぎが巻き起こったので、用意を含めて時間が押しているのだった。改めて設定された時間は、午前十一時から。場所は、比較的大規模の聴講室が抑えられていた。あとたっぷり三時間はある。妖精にしてみればあと三時間、ソキの集中を切らさず、かつ体力切れを起こさせずにどう持たせるか、という所であるのだが。当の本人は久しぶりの活気ある空気にふにゃふにゃと幸せに頬を緩ませるばかりで。あるいは、あっ服をとびきり可愛いのに着替えたりしなきゃですんもぉルルクせんぱぁい、ひぎゃあああ待って待っていま『お屋敷』に超速達でいろいろ許可とるとこだから、と叫ばせるのに忙しく、当面の問題には気が付いていないらしかった。



 未だにレロクに対する微妙な妹心、かつ反抗期を継続中であり、『お屋敷』の『運営』というものが大嫌いなソキとしては、ソキがみぃんな内緒にしておいてあげるから大丈夫ですぅルルク先輩は早くソキをぴかぴかのふわふわの百点満点かわいいに仕上げないといけないでしょ、とめいっぱいごねたのだが。ルルクが断頭台の前に立つ罪人の顔で、いやごめんほんと許して、私は今胃がねじ切れそうで意識が朦朧とするほど困ってます、ソキちゃんには聞き分けよくすることで私を助けて欲しい、と申告され懇願されたのと。妖精に、ソキは自分で身支度を整える気がないんだったらワガママ言わないで大人しく待ってなさいっ、とひどく怒られたので、大人しく頬をぷくうううっと膨らませてソファにちょんっと待機していた。
 そうしながらソキはゆるゆるとひらいていく朝のまばゆさを眺め、そこに動き始める人の気配と意思を楽しんだ。少女の言った通り、白雪の民は祭りと聞いて、すさまじい勢いでこもった部屋から飛び出してきた。それが救世のお告げかなにかであったかのように。えっ祭りなの、ありがとうお祭り、日時は規模は概要は、いつやるのどこでやるのえっ今日これから、分かった手が足りてないトコを教えてあと指示ちょうだい、急ごしらえだけどないよりはいいよね花飾ろう花あとええととにかく華やかにしよう、色は明るく派手にならずそれでいて気分転換になるように、服とか統一させてる暇がないねうぅん、いや俺たちにはこの魔術師のローブがあるじゃん着ようぜ、天才、頭いい、大賛成、いぇええいお祭りおめでとうーっ、と言葉はぽんぽんと花開いて飛び交った。
 私の想定より規模が大きくされてるし私が管理できる範囲を大幅に超えてる、とルルクが天を仰いだのは五分ほどだった。もういい、やるしかない、と意思を切り替えたのだろう。ルルクはまず今の『学園』を取り仕切るガレンに騒ぎになったことを報告し、詫び、火種たる少女を捕まえて形式だけ反省させ、はしゃぎ倒す白雪の者たちに声をはりあげ、統率させてから準備に走り回った。普段は黒魔術師が実技の前に講義を受ける、『学園』でも比較的規模の大きい聴講室を押さえなおし、空気を入れかえ、隅々まで掃除して回る。丁寧に水拭きをして、窓をあけて光を入れ、魔術で風を循環させる。
 慌ただしく、机と椅子は撤去された。代わりに持ち込まれたのはふかふかのクッションと、何枚もの絨毯である。これはある程度は自由に使ってよいとあらかじめロゼアから許可を得ていた、四階に詰め込まれているソキの私物であった。色柄がなるべく喧嘩しないように苦心して床を絨毯で多い、ぽんぽんと不規則にクッションを放り投げていく。そして、美術室や占星術師の部屋にあるバインダーをありったけかき集めて、入り口の近くに設置した。聴講客は絨毯の上に直に座り、必要であればこれを用いて筆記する。あとはお湯とお茶とお菓子と、使い捨ての食器と、と確認に口に出す間にも、白雪の者たちが精力的に駆け回り、ルルクの手足となってそれを準備していく。
 いつのまにか白雪の民だけではなく、すこし気まずそうにしながら、あるいは心から晴れやかに張り切って、星降の民が、楽音や花舞、砂漠の出身者がそこへ混じっていたが、ルルクはあえてなにも言わなかった。ただ同じように協力を感謝して、指示を出して動いてもらった。ひとりの砂漠出身者が戸口から室内を眺め、声なく唇を震わせて目を滲ませ、それだけで身をひるがえして走っていく。そこにある感情を、まだルルクは理解できないままだった。けれどもすこし、触れられるようになればいいと思う。準備に駆け回っている者たちに、共通する意見である筈だった。分かるようにはなれないかも知れない。でも、もうすこし傍にいることが叶えばいいと思う。それは祈りで、意思だった。強い、願いとも呼ばれる想いだった。
 机と椅子を撤去する、というのはソキの意見だった。準備をしてくれるのがルルクだけではないと知って、まっさきに、あっあのねじゃあね、あのね、と急いで口に出された要望だった。自分で手伝えもしないのに手間暇を増やすんじゃないの、と叱った妖精に、『花嫁』はでもでもだってと口にした。椅子に座ると遠いでしょ、机があるのも遠いでしょ。ひとりと、ひとりが、いっぱいになっちゃうでしょ。ひとりで聞くのは寂しいでしょ。さびしいのは、いけないことでしょ。ひとりじゃないって思った時に、机の向こうより、隣の椅子より、もうすこしだけでも傍に。そっと誰かにいて欲しい。それがもし、親しい者でなくとも。
 ソキのつたない説明であるから、ルルクは意図を完全に受け止められた訳ではなかった。妖精もそうだろう。しかしまあ、それなら、と頷いたのはルルクの意思であり、ソキほんとうに説明が上手になりましょうね、と呻いた妖精の言葉は遠回しの許可だった。かくして室内は整えられ、戸口にも扉にも室内にも花が飾られ、筆記具やお茶や菓子が運び込まれていく。準備が終わった、とルルクが感じたのは十時前だった。正直、なにがどうなって終わったのかも分からないくらい、濃密で慌ただしい二時間だった。しかし室内の用意が整えど、ルルクにはまだやることがある。ソキの準備である。着替えやら化粧やら、爪やらがまだ待っている。最難関と言ってもいいし、そもそも本来のルルクには許可のない行為ばかりだった。
 いやでもそろそろ返事が届いてる筈だしなにもかも許されたいし私は無罪だし一時間はあと五時間くらいある筈だからっ、あとよろしく、と叫んでロゼアの部屋で駆け戻っていくルルクの背に、いやあと一時間だろ、と無情な声がぽとりと落ちる。ルルクはそれを聞こえなかったことにした。正論などというものは欲しくないのである。ひらめけ私の運のよさ、輝け私の守護星たち、と祈りながら階段をかけのぼり、ひといきに、戸口にかけられた布をはねあげて部屋に飛び込む。
「ソキちゃんごめん! お待たせしまし……は?」
「その入室はさすがにね、俺でもちょっと減点かなぁ、と思うけど。忙しいだろうし、ソキが気にしてないからね。見なかったことにしてあげる」
「はい、ありがとうございます。は?」
 うつくしい、男だった。柔らかに笑う男だった。きゃっきゃとはしゃぐソキをこの上なく幸せそうに宥めながら、男は『花嫁』を整えている。見覚えのない服を着せ、化粧を整え、髪型を変え、今は爪を塗っている最中だった。色はのせられていない。ただ透明な艶を与えている。ルルクは混乱したまま男を四度見し、幻覚ではないことを確かめ、頭を抱えてその場に座り込んだ。目の前の光景の意味が、分かるが理解したくないし、妖精の同情に満ちた視線が失いかける意識をなんとか留めてくれていた。ルルクは確かに、『お屋敷』に向かって手紙を出した筈である。砂漠の、『お屋敷』に。間違っても王宮ではない。そこを通過していくにせよ。ルルクは大事なことを忘れていた。魔術師の手紙には検閲が入る。それがどれほど急ぎのものであっても正規の道を通っていくなら、決して逃れられないことだった。
 そして、それが急ぎであればあるほど、重大な案件である可能性が高く。つまりは責任者が目を通して、配達の許可を出す。砂漠の王宮の、魔術師の責任者。すなわち筆頭である。砂漠の筆頭は、なるほどルルクにはできないだろうね、それじゃあ陛下行ってきます、とかろやかに王宮を抜け出して『学園』にやってきた。ルルクが準備に奔走しだした、二時間前のことである。それを聞いてルルクは、涙声で床に倒れこんだ。
「……いや私も頭の中にその可能性を感じなかったといえば嘘になるけど、いるかいないかというか、来るか来ないかでいうと、むしろなんで不在のままことが終わると思ったの? くらいの感じでなんかごく自然にいそう、と思わなくもなかったけど、だからってほんとに! いるとは! 思わないじゃない!」
「あ、安心してね。ロゼアは勝手に服触られるの嫌だろうな、と思ったから。これはね、ちょうど用意してあった新品の服だよ」
「ちょうどよういしてあったしんぴんのふくだよ? とは? どういうこと? えっまって、なにもかも。わたしをおいていかないで。いやつれていってほしくはないけどおいていかれたくな、は? え? なに? は? ……は?」
 ソキにぴったり合う服が、ちょうど用意されている確率などというものは、存在しない。存在しないのである。ロゼアくんへ、お許しください、私より、と言い残して床に転がって動かなくなったルルクを、妖精は同情に満ち切った瞳で眺めおろして。まあソキの準備が完璧に終わるという事実だけを見ていなさいな、とやさしい声で言い聞かせた。それ以外の全てを切り捨ててでも、己をも納得させようとする声だった。



 ソキは新しい服を気に入ったようだった。形としては、ソキが普段着ているワンピースに似ている。そちらの生地が白なのに対し、ジェイドが持ってきた服は生成色のやわらかな風合いを宿していた。襟や袖口、裾にレースはなくさっぱりとした整えだが、よく見れば白と金糸で薔薇の刺繍がなされている。上半身は動きやすい程度にやや大きめのつくりで、スカート部分は腰から穏やかに、足元までふんわりと広がっていた。ソキは普段とすこし違う服を見せびらかすようにくるり、くるりと回ってはしゃぎ、なんかねぇちぃさい頃に着ていた服に似てる気がするんですよ、かわいいです嬉しいですきゃぁんきゃぁん、と言ってジェイドの笑みを深めさせた。うんそうだろうね、よくお似合いだ、と微笑んで、ジェイドはソキを椅子に座りなおさせた。
 落ち着かせるように、ぽん、ぽん、と腕のあたりに触れてから視線を重ね合わせる。
「さあ、かわいいかわいい、ロゼアの『花嫁』さん」
 歌うように、男は言葉を紡いだ。砂漠の至宝、『花嫁』の碧玉の瞳が、上機嫌な『傍付き』の姿を映し出す。あ、と、なにかを、言おうとして。なにかを見つけられず、ソキはくちびるに力を込めた。言葉はなにもかも相応しくないように思えた。じっと見つめてくる『花嫁』に、ジェイドは手を差し出してささやく。
「時間だよ。行こうか」
 それは。花婿の元へ導く、父親のごとく。愛情と、優しさと、寂寥をひとさじ混ぜ込んだ言葉で、声だった。まっすぐな気持ちで手に指先を預けて、ソキはこくりと頷き、立ち上がる。
「うん! ソキはガッツと根性で頑張るです! ね、リボンちゃん! ね、ルルク先輩! ……ルルク先輩? どうしたの? 泣いてるの? どうしたの?」
「だ、大丈夫……。よく分からないけど、なんかこみ上げるものがね……?」
『ほっときなさい、ソキ。ルルクの挙動がおかしいのなんて、いつものことでしょう?』
 妖精の呆れ声に、ソキは素直に頷いた。ゆるく手を引くジェイドが、くすくすと笑う。幸せに満ちた。穏やかに満たされ切った、『傍付き』の気配。
「一緒にね、部屋にいて見守っているからね。頑張るんだよ」
「うん。……うん。あのね、ジェイドさんは、ソキを応援しに来てくれたの?」
「そうだよ。応援。……授業参観みたいなものだからね」
 がんばれっ、がんばれっ、と言うように、ジェイドの肩でましろい妖精がふこふこと収縮している。ソキはひかりがとろけるように笑い、うん、と甘えた頷きで歩き出した。ゆっくりと。手を引かれて、導かれて、前に進む。それは確かに、ソキが望むものを得ようとする為の。取り戻す為の、一歩だった。ちかちかと。星の瞬きのように。意識が、零れ落ちた魔力を視認して、乱反射する。そのささやかな隙間に響くものがあった。無意識に。そっと寄り添うように。どこかで。どこかで聞いた、誰かの声が。祝福のような、愛が。かつて確かに、告げたこと。諦めるな。諦めないで。どうか、どうか。ここへきて。ここへきて。いいえ。
 ここではない。この先へ。



 どこかで、声がする。
 かすかな記憶は形を成さず、やわらかにそっと、よみがえる。

『やがて、部屋にはひかりが降り、風が吹くだろう。外の太陽を迎えに行く為に、お前は鍵を開けなければいけない。』

 言葉が。希望を指し示す言葉が。

『ひとりきりで立ち上がり、ひとりきりで歩かなくてはいけない。恐怖と痛みがお前の足を止めるけど、歩き出す勇気をくれる者がいる。恐怖と、痛みは消えない。それでもお前は歩かなければ。』

 確かにそうと、指し示した未来へ。踏み出した。



 机と椅子が運び出された聴講室には、見慣れない広さがあった。訪れたはいいものの一歩踏み込むのに怯えるような、ためらうような者たちが戸口で立ち止まる。それに明るく声をかけたのは、受付の腕章をつけた白雪の民だった。白雪の民はこの度の騒動に巻き込まれたが、最初からある程度中立の者が多く、互いに『学園』で見知った者の顔でもあるから、誰もがほっと肩の力を抜いた。いらっしゃい、ありがとね、入退室自由だからそんな構えないで大丈夫、座る場所はお好きにどうぞ、お菓子はあっちお茶はあっち、持ち込みも自由だけどごみは各自で処理してね。注意事項はさらさらと耳障りよく告げられ、ひとり、またひとりと聴講室に生徒たちが集まってくる。街頭にぽつりぽつりと、か細く日が灯るように。部屋は来客を出迎えた。
 部屋の一番奥、壁際には教師たちの姿もあった。万一のことを考えて保険医も待機している。担当教員も何人か訪れていた。彼らは言葉すくなく挨拶をかわし、未だ動揺と嫌悪、敵意と混乱を隠しきれていない生徒たちに、言葉をかけずに見守った。いずれ、今回のことさえ教材として、導いて行かなければならない日は来るだろう。けれどもそれが今日でないことを、『学園』を卒業した先達たちは、ただ無言のうちに知っているのだった。顔をしかめて部屋を出ていく者や、言い争いかけて周囲に止められる者、泣き出しそうな顔をして俯く者や、冷静な顔をして教員すらをも観察する者、様々だった。部屋に入らず、廊下にたむろする者や、勝手に椅子を置いて眺める者もあった。
 息を殺して談話室で時を過ごす者も、図書館にこもる者も、部屋から出てこない者もいた。あえて普段通りの生活を、と集まって勉学に励む者たちもいる。職務を与えられた『学園』の管理者たちは、これ幸いと空き教室の整備や点検、補修に走り回っている。息をすこし、吹き返しているのだ。完全ではなくとも。ああ、とひとりの教員は、まばゆく目を細めて息を吐く。部屋に入らず、廊下にいる者も含めれば、実に『学園』の生徒の半分以上が集まっていた。足の踏み場もないほど、には及ばないものの、床は座る場所を探すほど埋まっている。集団と集団の間に、奇妙な緊張に満ちた空間が、あれど。ひとつのところに、集まっていた。
 やがて、廊下のざわめきが消えた。一瞬の、瞬きの後に訪れた唐突な空白に、室内の誰もが予感して、戸口を見る。はじめに現れたのはジェイドだった。端正な男は視線を一身に受けてはにかんで笑い、それから、背に隠していたソキをそぅっと導いて室内にいれた。とと、とソキが背から室内へと歩みだす。ひとりきり、歩いていく。て、ち、て、ち、とつたなく、ゆっくりソキは進んで、やがて部屋の前面、中央に設えられたクッションの小山の中に、そぅっと座り込む。ほ、と息を吐いて。そこではじめて、ソキは視線を持ち上げて室内を見た。ぱちくり、砂漠の至宝が瞬きをする。床のほとんどを埋める先輩たちに、教員に。そして廊下にも視線を動かして。
 『花嫁』が、とろけるように微笑む。
「……ひさしぶりに、いっぱい、お顔をみたです。ソキはとっても嬉しいです。うふふ」
『はいはい、そうね。嬉しいわね。それで? 始める時はなんて言うんだったかしら?』
「ういしょ」
 掛け声をあげて、ふらふらもちゃちゃ、と立ち上がり。『花嫁』は真新しいワンピースのスカートを指先でちょんとつまみ、見る者すべての視線を奪う優美さで一礼した。
「本日は、ソキの説明会にお集まりいただきまして、まことにありがとうございます。皆様がお聞きになりたいことは、たくさんあると思います。ですがいましばらく、先に、耳を傾けてくださいますよう、お願い申し上げます」
 砂漠の民は崇拝に近い顔つきで、それぞれに黙礼する。目を、意識を半ば暴力的なまでに奪われながらも、それに反発する者たちが、部屋にするどい気配を放ち始めた。それが、衝突してしまうより、早く。ぺちょん、とつぶれるようにその場に座りなおしたソキが、あのね、と甘える声で囁いた。
「あのね、それでね、ソキは先輩たちにご相談があるんですけどぉ」
「……っ、は……?」
「え? ……相談?」
 いずこからこぼれた声に、ソキは大まじめな顔をして、こくり、と深く頷いた。相談会って言ったでしょぉ、と甘えた声がほわふわと響く。いや確かにそれは、そう聞いたけど、と困惑と戸惑いに視線を交し合う先輩たちに向かって、ソキはぺちぺちとクッションを叩きながら主張した。
「ソキ、いま、とぉーっても困ってるの! だからね、先輩たちにご相談してぇ、困ってるのを助けてほしいの!」
「あ、そういう会……? え? これ、そういう会……?」
「そうなの! ソキ、困ってるの。だからね、先輩に助けてほしいの。ご相談なの!」
 場にぴん、と満ちていた緊張が、その一言で溶け消える。え、えぇ、と声をこぼしてソキに向き合う者たちは、『先輩』の顔をしていた。出身地や、そこから生まれた軋轢を、ひととき忘れた顔をしていた。なに、と問うような、耳を傾ける空気が生まれる。その気を逃さず、ソキは勢いよく言い放った。
「ソキ、ロゼアちゃんをお迎えに行くの! あっやん。間違えちゃったです。違うです。えっと、これは相談、相談ですからね。えっとぉー……あのね? ソキはね、ロゼアちゃんを迎えに行こうと思うですけど、先輩はどう思うか、教えてほしいです」
「どう、って」
「それとね、寮長のお見舞いに行くのは、いつが良いと思うです? あとね、ソキは寮長に謝った方がいいのかな? って思うです。困っていてね、ご相談なのはね、このみっつ。このみっつなんですよ!」
 いっぺんに三つ出すんじゃないって言うのを忘れてたわ、という顔をして、ソキの頭の上に陣取った妖精が腕組みをする。しかし言ってしまった後なので、すでに手遅れである。せめて相手の返事を待ってから次のを言いなさいね、ひとのはなしを聞くのよ、途中ででもでもだってで口を挟むんじゃなくて、最後まで聞くの。いいわね、と告げられて、ソキは素直にはぁいと返事をした。それから、室内にぐるりと意識を戻す。苦虫を噛み潰したような顔をしている者が多かった。うぅん、とソキは首をかしげて問いかける。
「だめな顔を、されているような? ……どれがだめなの? なんで、だめなの?」
「えー……っと。発言はどうしたら? 自由にしたら収集つかなくなると思うけど」
『挙手しなさい挙手! それで、ソキがあてなさい。発言を途中で遮るのはやめなさいね、ソキ。アンタたちもよ。どんな言葉でも、意見でも、意思でも、疑問でも、質問でも。最後まで言って、最後まで聞きなさい。言い争いのために呼んだんじゃないわ。聞くためよ。そして、考えるためよ。分かったわね? ソキ、返事は?』
 ソキは、言われなくったってできるもん、という顔をしながらも、はぁいと返事を響かせた。室内の女主人の同意である。瞬間、やわらかな制約として魔術師たちを縛ったのを感じ取って、教員は苦笑いをした。妖精がそれと意図して言わせたかはともかく、ソキは半ば無意識か、あるいは半分くらいは自覚的な行いだろう。己の意図せぬ謀略を許しはしない、という意思があった。ふわふわした、綿飴や蜂蜜めいた響きの声で。場を制圧する。手段は『花嫁』のやり口で、行使は魔術師の力だった。面白いな、と教師たちは一歩を踏み込まぬ傍観者のひとみで、場に座す女主人の姿を見つめる。
 その能力はなににでも使えそうだった。王がいなくてよかったと誰もが思い、この一幕の、特にソキの詳細について口をつぐむことを無言で交わした視線の中、案に意思を確認しあう。妖精は一瞬、しまったな、という顔をして完成した魔術師たちの姿を眺めやったが、積極的な有害ではない、という判断を下したのだろう。なにかあったら全員呪い倒して言葉と記憶を奪えばいいわね、と思いながら、妖精はソキの頭をぽんぽんと撫でて次を促した。ほら、手が挙がっている。やることはもう分るでしょう。
 順番に正解も不正解もなく、それが求められることではない。言い聞かされて、ゆっくり、息を吸い込んで。わからないことを、答えのないことを、選ぶ、という苦手さを。うっすらと感じる恐怖を連れながら、ソキはんと、んと、とひとりの先輩と視線を合わせた。ロゼアより、いくつか年上の黒魔術師の青年だった。
「お、おし……え、んぅ……教え、教えて、ほしいです!」
「教えるっていうか。その前に質問。あのさ、お前は、ロゼアがなにしたか分かってんの?」
 あの先輩は確か楽音出身だったな、と戸口に背を預けながらルルクは考える。並んで室内を見回すジェイドは、すこし面白そうな顔をしながら室内と、ソキを見て動かないでいた。ジェイドが動かないから、ソキと距離を保っているから、ルルクも傍についてあげることができないでいる。頑張って、と視線だけがソキを向く。ジェイドの肩の上でましろいひかりが、しきりに収縮を繰り返していた。しん、として音のない部屋に。弱くとも、まっすぐに響く声がする。
「わかっていますよ」
 それは、『花嫁』の声だった。『傍付き』を従者として持つ、主人の声だった。責任と、自覚のあるハッキリとした声だった。睨むのではなく、しっかりと、質問者と見つめ返して。ソキは静まり返った室内すべてに、宣言するように声を放つ。
「わかっているです。ロゼアちゃんは、寮長に、怪我をさせました。肩の、骨を、砕いたと聞いています。魔術師が……」
 震える手を隠すように、膝の上で握られる。視線はそらされずに、ひた、と前に向けられていた。
「魔術師が言葉ではなく、暴力によって事態の解決をすることなど、あってはならない、です。また、同胞に手をあげるなど、あってはならない。なにかを……ううん。いやな、ことを。嫌で、耐え難くて、どうしようもないことを言われた、のだと、しても。言われた、のだから。まず、返すのは、言葉であって。力ではなかった。魔術師であるなら、そうしなければいけなかったし、そう、あるべきだった、でしょう? ……それを目の当たりにしながら、ソキは止めなかった。先輩、ソキは、わかっているです」
 悔恨とも、つかぬ。慙愧とも、思えぬ声で。ひどく冷静な響きで、ソキはそう、言い切った。そのあとで少し不安げに首を傾げ、ぱちぱち、瞬きをしながら言葉を付け加える。
「ソキはわかっていると思うですけど……先輩は、ソキが、ちゃんとわかっていると思うです? ソキ、わかっている?」
「……分かってたんだな、と思うよ」
 次々と、また手があがる動きを見て、首が振られる。まだ終わっていないのだと。息を吸い込む音。外で風が吹く音。梢の揺れる音。鳥の羽ばたき。静かに、静かに、響いてくる音が。耳の奥まで触れていく。
「ロゼアは、なにがそんなに嫌だったんだ? 俺たちは、いや、俺は、それがずっと分からない。怒るのは分かるよ。嫌なこと言われたんだなって思う。でも、そこまでしなきゃいけなかったことか? 色々聞いたよ。砂漠の奴らから。自分でも調べたし考えた。だから、ああ嫌だったんだな、駄目なこと言われたんだなって思う。それくらいは分かる。でも肩砕くほどか? あんなひきこもるほどか? そこまでのことなのか? どうなんだ?」
「ロゼアちゃんは……」
「『傍付き』と、『花嫁』って、なに?」
 ごめん、遮るつもりはなかったけど、質問付け加えた、と告げられて、ソキは謝罪はいらないと首を横に振った。どう答えたらいいのだろう、と思う。どんな言葉なら、ソキの胸の中にある感情に届くだろう。どんな伝え方なら、あの日の、あの瞬間のロゼアにまで届くだろう。
「い……息を、するな。みんな、しない。それが普通だって言われたら、先輩は怒る?」
「は? なに言ってんだこいつって思う」
「生きてきた、意味と。誇りが、それはもう終わったことだからって、否定されたら、先輩は怒る? ……白雪出身の、ひとたちに。もう魔術師になったんだから、そんなことしなくていいだろ、お祭りなんていつまで続けるんだって、先輩、言う?」
 はじめて。白雪出身の者たちに、はっきりとした共感と理解の表情が浮かび上がる。戦慄と、困惑。吐き気をもよおしたように、口元をおさえる者もあった。青年は言わない、と言い切った。白雪出身者に、祝祭というものが、どれほどの意味を持つかを知っているからだ。だから、そんなことは言わないし、言えない。
「そういうことか?」
「ソキは、ソキはね、『花嫁』です。だからね、ロゼアちゃんのことは……『傍付き』が、どう、なのか、きっとほんとうは、全部は、わからないのかも、知れないです。でもね、でもね先輩、あのね、ソキは、ソキは魔術師のね、たまごなの。ロゼアちゃんもなの。ソキはもうほんとは『花嫁』じゃないし、ロゼアちゃんは『傍付き』じゃないの。でも、それが全部正しいんじゃないの。白雪出身のひとたちは、だってずぅっと、白雪の国で生まれて育ったひとです。でも、いまは、魔術師のたまごで、でも、長期休暇は、白雪のお家に帰る人だっているです。白雪のひとじゃなくて、魔術師のたまごだけど、でも白雪のひとじゃなくなってないからです。……砂漠の、『花嫁』っていうのは、生まれた時からそうなんじゃないの。自分で、選んで、努力して、なるの」
 立場なの。称号なんですよ。職業だって思うと、きっとちょっと分かりやすいです、と『花嫁』が言った。ん、といぶかしげな顔をして、男が発言を求めて軽く手を挙げる。いいですよ、と頷いたソキに、青年はやや混乱した声で言った。
「なる、もんなのか? えっと……生まれつきではない? 最初から、そう、じゃ、ない?」
「そうなるように育てられるですけど、最初から『花嫁』じゃないの。あのね、魔術師の適正みたいなのがあるの。その適正が、ソキは『花嫁』だったから、『候補』として育てられたの。それでね、いろいろ、いろいろなんですけど、条件を満たすと『花嫁』って呼ばれるようになるの。『花嫁』になるのはね、だからね、そこからなの。ソキは『候補』の前は、『候補見習い』だったの。ちーさくて、あんまり、覚えてないんですけど……」
「無条件で、最初からずっと、そうだったんじゃ……ない……?」
 天が、生まれつき。環境として用意して、ただ与えられたものではなかったのか、と。無意識にこぼす青年に、ソキは当たり前の顔をして頷いた。
「あのね。とびきりかわいくて、えらくて、すごーくて、かわいくて、かわいいだけじゃ、『花嫁』にはなれないの。……最後の最後に、『花嫁』になるって、決めたのはソキですよ。ソキが、決めて、選んで、『花嫁』になったの」
 心を削られて。意思を封じられて。自由を奪われて。そうなるとわかっていて。そう、あることを、決めた。青年はゆっくりと息を吸い込んで、もう一度、問う。
「ソキ。……『花嫁』って、なんだ?」
「『花嫁』は砂漠の至宝。生きた宝石。希望にして財貨。祈りの結晶。努力の結実。国のための贄。人々のための生きる糧。そして、御伽噺の続き、です。……一番最初の『花嫁』はね、御伽話の中に出てくるの。砂漠のね、古いふるい、御伽噺。いまだこの世界が砕かれず、世界に、幻獣たちがいた頃の……」
 迷いなく、誇り高く。『花嫁』は言葉を紡ぎ、歌うようにして囁いた。繋がれてきた言葉を。いつか、いつでも、誰もが、そうして話をはじめたように。



 お伽話を語る言葉。
 むかしむかし、あるところに。

前へ / 戻る / 次へ