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 むかしむかし、あるところに。砂と岩と、きよらかな水でできた国がありました。今は失われた美しい名を持つ国。今は砂漠の国と呼ばれるその土地は、人が住める場所ではありませんでした。なぜならそこは幻獣たちの住処。彼らの安らぐ地であったのです。祝福の地、豊穣の地と人はそこを呼びました。立ち入ってはならぬ聖域であるとも言われました。けれどもむかし、むかし、そこには人がおりました。何処から流れた罪人とも、幻獣が転じた者とも、創世の時より砂とともにあった民ともされました。ただひとつ確かなことは、彼らはその国の外では生きていけぬとされていた者たちでした。水が合わないのかも知れません、空気が、食べ物が合わないのかも知れません。ただひとつ確かなことは、砂漠の地から出れば、生きる術がなかったということです。砂漠の民は砂の地を、日々をさ迷い歩いては、ただただ生きておりました。
 安住の地などありませんでした。夢物語にすら語られませんでした。芳醇な水と豊かな果物の実るオアシスは幻獣たちのものでしたから、生きるためにそこへ忍び込んでは殺され、あるいは稀に、生き延びて戻ってくれば、いっとき、彼らは渇きを忘れることができました。長い長い時間、渇きと死と共に、砂漠の民は生きておりました。砂漠の国は獣の土地でした。それでも、そこで生きるしかなかったのです。そこでしか生きられなかったのです。そこで死ぬしか、生きる末はなかったのです。周りにも国はありました。そこにも人はおりました。けれども彼らは、助けられませんでした。そこでしか生きられない民です。他にどうすることもできず、生きるだけの民です。長い長い時間が過ぎました。砂漠の民は増えず、けれども絶えず、命を繋いでいきました。
 ある時、砂漠の民のもとへ、獣が訪れ言いました。
『お前たちの所有するうつくしい宝石と引き換えに、豊かな地で生きることを許そう』
 宝石。それは財宝ではありませんでした。そう砂漠の民に呼び表された至宝たる、一対のうつくしい男女のことでした。それは親子であったとも、兄妹であったとも、夫婦であったとも、伝えられています。確かなことは、それが人であったこと。砂漠の民であったということです。失えぬ宝であったということです。戸惑い、怒り、嘆き、悲しみ、苦しむ砂漠の民たちに、獣はなおも言いました。
『豊かな地だ。水は枯れぬ、果物は腐らぬ、肉もパンも余るほどにあるだろう。空腹で眠れぬ日などない。木陰で嵐を耐える日は訪れぬ。それでも足りぬと言うのなら、望むものをなんでも、すべて与えよう』
 それでは、と言ったのは望まれた宝石でした。宝石はきよらかな、うつくしい、静かな声で囁くように言いました。どうかいつまでも愛すると誓ってください。永久の幸福を約束してください。痛みも苦しみもないのだと。祝福をもって迎え、それが終わることなどないのだと。誓ってくださるのなら、それが破られないのであれば。わたしは、わたしたちは、望んで共に参りましょう。それが残される同胞の慰めになると信じて。悲しまないで、愛されて望まれたのです。苦しまないで、幸せになりに行くのです。嘆くことはありません。わたしたちは幸福になりに行くのだと、どうか信じて。
 砂漠の民は、宝石を獣に差し出しました。それは婚姻でした。婚姻だと、宝石たちが告げたからです。獣が、そうと頷いたからです。そうして、砂漠の民はその地を手に入れました。宝石と引き換えに、安住の地を手に入れたのです。彼らだけの国が成ったのです。宝石を連れ去る幻獣たちは言いました。約定を違えることはないと。砂漠の民はそれを信じました。信じて、けれども別れに泣く砂漠の民に、宝石たちは告げました。子が為されたら、砂漠の民の元へ戻しましょうと。望まれたのは宝石だけ。ふたりだけ。その子らは含まれず、だからこそいつの日か、わたしたちは砂漠の民の元まで帰るのだと。
 それから長い、長い時が過ぎました。宝石たちの噂はようとして知れず、砂漠の民がなにと引き換えに安住の地を得たのか、そのことすら忘れかけるくらい、ながく、ながく。時が過ぎました。ある日、砂漠の民は、砂に埋もれるようにして倒れる、幼い子らを見つけました。うつくしい少年と、少女でした。ふたりは砂漠の民に言いました。ふるい約束のとおりに。父が、母が、わたしたちを、あなたがたのもとへ戻しました。帰しました。砂漠の民は彼らを、失われた者の名で呼びました。宝石と。そしてふたりを末永く、大事に、大切に、しました。
 語り終えて。ソキはそっと、息を吸って微笑んだ。うつくしく、きよらかな『花嫁』の笑み。『宝石』と呼ばれる者の。
「……『宝石』は、そのふたりの血を引いている、と言われています。そのうつくしさ故に、幻獣のもとへ嫁いだ宝石と。その宝石を、父母だと告げた者たちの。一応……家系図? です? 血がどういう風に繋がっているか、というのは、『お屋敷』に書いたもがあるですし、ソキも見たことはあるですけど……。過去に何度も焼失、紛失して作り直しているとも聞いているですので、きっとあんまり正確じゃないです。『花嫁』がね、『花婿』が、国の為に尽くすのは……嫁いでいくのは。御伽話の続きであるのは、そういうこと、です。……先輩、あのね、『花嫁』はそういうものです」
「……その、血のつながりは、証明されてるのか?」
「疑われることさえなく、信じられているものに、証明なんていうものが必要ですか? ……証明、というのは、どういうものであれ、と思いますか? 納得するだけの材料を? ……それは本当に必要なものですか? ソキが……『花嫁』がいまもここに、あるのに? ……証明です?」
 『花嫁』は質問の無礼を咎めず、ただ己の存在というものを誇示するように、花開くようにして微笑んだ。その御伽話を、にわかに信じさせるほどの表情だった。存在ひとつでなにもかもを魅了する『花嫁』の、ソキはその『最優』だ。静かな説得力があった。その上で、気圧され切らず。疑問を消し去ることはなく。青年は息を、吸った。
「それは、砂漠に……砂漠の国を出身とする奴らには、共通する信仰か? 全員知っていることか?」
「知らなければ、砂漠の国出身とはみなされない、くらいのことです」
「……なんで他国に知られてない」
 その疑問に。ソキはぞっとするような笑みで、言った。
「なんでなのか、先輩もきっと知ってる筈です。……世界が分断されたからです。この世界に、もう」
 尽きぬ豊穣を約束した、幻獣がいなくなってしまったからですよ、と『花嫁』は言った。住む土地は残った。砂と岩ばかりの土地に、投げ出されることはなかった。けれども水は枯れて底をき、果物は腐り果て、肉もパンも到底行きわたるものではなくなった。楽園は消えてしまったのだ。与えられたもので生きていた砂漠の民は、再び空腹を抱えて眠りにつき。けれども、彼らの元には、まだ宝石がいた。そして砂漠の民は知っていた。その存在が、どれほどのものと引き換えになるのかを。その途方もない価値を。かくして、砂漠の民は、砂漠の国は、その罪を飲み込んだのだ。
「はじめてしまったから、続けるしかなかった。続ける為には、その情報がこぼれていくのは、望ましくなかった。だから伏せられた、です」
「なぜ、望ましくないと? ……なんて教わったんだ?」
「また同じことをするのかと。まだ、同じことしかできないのか、と。そう言われてしまった時に。手段が、他にあることを、知らない訳じゃないんですよ。でも……でも、それじゃ足りない、です。到底、足りない。……だって今、いま、そうしなければ、零れてしまう命が多すぎることなんて、わかってるのに……。いま、飲み込むための水がない。いま、空腹を満たすだけの食料がない。十年後じゃ足りない。到底間に合わない。いま、いま……そうすれば、みんな、助かるのに……駄目って言うなら、じゃあ、どう、助けてくれるんですか……!」
 できることは、きっとある筈だ。他にも。合法的な人身売買だと影で囁かれるようなこと、ではなく。できることはある筈なのだ。けれどそれでは届かない。今に、もう、届かない。はじめてしまったから。そうして末端まで救う為の構築は成され、はじめられ、続いてしまっているからこそ。これからもきっと、続いていく。
「……『花嫁』は砂漠の至宝。生きた宝石。希望にして財貨。祈りの結晶。努力の結実。国のための贄。人々のための生きる糧。そして、御伽噺の続き」
 さわさわと空気を震わせて。歌うように、そうソキは囁いた。言葉を告げる。
「それが『砂漠の花嫁』。それが、ソキですよ。先輩」
 それでも。それが責務であったのだと、誇り高く微笑んで。これで答えになりますか、と問う言葉に。わかった、と息苦しく、掠れた声が零れ落ちた。
「はい。それじゃあもう片方は俺が話すね。『傍付き』について。……俺でいいかな? 俺がおはなししても、いい?」
 前半は質問者たる青年に、後半は女主人たるソキに。終わったらちゃんと、回答はソキに返すよ、と告げたのは傍観を決め込んでいたジェイドだった。ああ絶対口挟むと思ったのよ、と妖精はうんざりした顔をして、戸惑うソキの頭にぺちぺちと触れた。
『めんどくさいから、『傍付き』に対しての説明は任せなさいな。なんで説明できるのか分からないけど……本音を言うなら関わりたくないけど……。でもソキよりはうまく説明してのけるだろう確信があるもの』
「ぷ。ぷ。ぷ! ソキ、うーんと説明をがんばってるですのにぃ!」
『そうね。よく頑張ってるわ。だからね、すこしアイツに任せて休憩なさい。ルルク、飲み物』
 はーいと心得た声をあげたルルクが、ぬるくした香草茶を用意し、ソキに差し出した。ソキはんもぉと機嫌を損ねた声をあげながらも、素直にこくりと喉をうるおす。それじゃあ、お願いすることにするです、と許可されてはじめて、ジェイドは壁から背を話した。ふんわりとした笑みが浮かべられる。気合いっぱいにまぁるく膨らむましろいひかりを肩に乗せ、砂漠の筆頭魔術師は優美に、室内に、そしてソキに向かって一礼した。
「それでは、挨拶から。俺は砂漠の筆頭魔術師、ジェイド。普段はこれだけなんだけど、今回は特例でもうすこし付け加えるね。……ふふ。これはね、内緒じゃないんだけど、ちょっと色々あるから言いふらすなって言われてて……。言われてるんだけど、まあ、必要なことだから仕方がないよね」
『待って? 機密事項だけど漏らすねって聞こえたわ?』
「そこまで深刻なことじゃないよ。安心してね。……それでは、ロゼアの『花嫁』。宝石の姫君へご挨拶申し上げます」
 男の手が、魔術師のローブを翻らせるように動いた。ばさ、と布の音。何処に秘めていたものか。ジェイドが取り出したのは短剣だった。よく使いこまれ、きちんとした手入れがなされているそれを、ジェイドは音もなく顔の前にかかげて。慣れた動きで抜刀すると、きん、と音を立ててすぐ鞘にしまう。その、仕草の意味を。『花嫁』は知っていた。男は、やわらかな花のごとく笑った。
「『花嫁』シュニーの、『傍付き』ジェイド、だよ。もちろん、現役じゃなくて、元だけど。当事者が話したほうがいいよね?」
『そ……。え? ……え? 『傍付き』? アンタ『傍付き』?』
「ロゼアと同じでね、元、だよ。役職としては、元『傍付き』。今の職業は王宮魔術師」
 そういうことを言ってんじゃないのよアタシは、と妖精は天を仰ぐ。ジェイドという男の、ありとあらゆる不審について納得できてしまった。思えば何度も、その印象は受けていたのだ。まるで『傍付き』のようであると。身のこなしや、声のささやき。ソキに対する接し方や、やけに詳しい『お屋敷』の事情。なにより。『花嫁』と『傍付き』というものに対しての、理解。当たり前だ、と妖精は思う。『傍付き』当人であったのだから。なんてこと、と思って、妖精はぎょっとして思考を停止させた。いまなんと聞いただろう。誰の、『傍付き』だと、そう言ったのか。
「……しゆーちゃん?」
 ぱちくり、あどけなく瞬きをして。ソキがすい、と指先を伸ばす。ジェイドの肩の上にいる、幼い妖精に。『花嫁』だと感じて、そう口にもして、訊ねていた、その存在を。呼ぶ。
「しゆーちゃんが、ジェイドさんの、『花嫁』さん……?」
「そうだよ、ソキ。……ふふ、それでね。ウィッシュのママがシュニーだよ。俺がパパ」
『情報量が! 多い!』
 必要な説明だけに留めなさいよ混乱するでしょうが、と怒鳴られても、ジェイドは照れ臭そうに肩をすくめるだけだった。顔がいい。まるで反省していない。すこぶる顔がいい。ごめんね、という言葉から謝罪の意思が感じ取れない。顔がいい。えにゃ、え、んと、んと、と目をぱちくりさせながら、ひとつひとつ、指折り数えて情報を咀嚼していくソキに、ほのぼのと目を細めて。ジェイドはそれじゃあ説明するね、と自由にのびのびと説明をはじめた。
「『お屋敷』の説明はある程度、省略していいかな? 砂漠の国内、首都に存在する『花嫁』『花婿』の実家で、養育機関のことをそう呼ぶよ。『傍付き』はその『お屋敷』の職業のひとつで、『花嫁』に名を呼ぶ許可を与えられ、そうと許されて、花を腕に抱く権利を持つ者だけがそう呼ばれる。おおまかには『花嫁』の世話係、教育係、『花嫁』を主君とした従者、身辺警護なんかを請け負います。体調管理を含めた身の回りの世話とかね。どんな感じかは、普段のロゼアを思い浮かべてね。あんな感じだよ」
「あの……すみません、あの、筆頭……すみません、あの、もうすこし、もうすこしゆっくり……!」
「うん? ああ、シュニーの話から、する? シュニーは俺の『花嫁』でね、世界で一番可愛くて可憐であいらしくて、シュニーがそこにいるだけで世界は輝いたし生きていこうと思えたよ。それでね」
 脱線するんじゃないわよーっ、という妖精の絶叫がなければ、そのまま、いつまでも語りそうな勢いだった。ああ、そっか、とすこし残念そうに口を噤んで。砂漠の筆頭は、ええと、とすこし考えながら囁いた。
「そうだな、『傍付き』について……。どんな、というのはロゼアと一緒に過ごしてれば分かると思うから省略するね。あんなだよ」
『いや雑じゃない? アンタほんとに説明する気あるの?』
「あるよ。うーん……じゃあ、それで、その上で……俺がロゼアより年上で、卒業した王宮魔術師で、だから分かる齟齬の話をしようかな。『傍付き』とはなにか? 職業の名称である。正解だよ。では、ただ、職業であるのか? 立場を示した名称であるのか? その認識でもね、正解だよ。思っていることは間違ってない。ただね、正確ではない。『傍付き』というのは……そうだな、さっきソキが言っていた言葉を借りようか。適正だよ。魔術師にはその言葉が一番分かりやすい。適正。それが、あるか、ないか。その上で、選ばれるか、選ばれないか。選ばれた者だけが『傍付き』と呼ばれる」
 誉れだよ、と男は言った。目を細めて、とろけるように笑いながら。思い返す。いまもまなうらに、鮮やかによみがえる。その腕に。『花嫁』を、シュニーを抱いて、笑いあった。輝かしいあの日々を。



 さあ、『傍付き』とはなにか、と男は歌うように口を開いた。その顔に浮かぶのは常にある微笑みでありながらも輝かしく、人の意識を魅了して奪う底知れないうつくしさが刷かれている。砂漠の秘された伝承、神話、信仰にいまもあざやかに歌われる『花嫁』『花婿』の、現在へ尊く続いていくそれらと共にある『傍付き』とはなにか。職業である、とジェイドは言った。立場であり、名称であり、誉れである。それ、そのものが称号と言っても差し支えないであろう。『傍付き』とは称号である。選ばれた者の証。『宝石』を砂漠のひかりそのものとするのなら、『傍付き』こそが影。一対。離れては存在しえないもの。選ばれてそうあるもの。それは生まれながらの天命に似て、それでいて努力の末につかみ取るもの。最後の選択だけが己の手ではなしえないもの。
 具体的にどうやって育っていくのかは機密中の機密だから俺とロゼアを見て普段の会話とかから察してね、と有無を言わさぬきらびやかな笑顔で言い放ち、『傍付き』はいまだ混乱する室内へ、容赦なく言葉を響かせていく。
「たぶん、一番知りたいのは『傍付き』とはなにか? という根幹より、ロゼアがなんであんなことをしたのか。それが『傍付き』だから、として砂漠の民に理解されているのはなぜか? という所だと思うんだよね。違うかな?」
「……そう。そう、です」
「うん、そうだよね。そこが分かってるから俺としても、ひといきにその答えをあげたい所ではあるんだけど、それじゃ到底理解には届かない。届かないからこそ生まれた混乱が、今回のことの根幹であるとも思ってるから、説明は遠回りに、一から十まで順番に、全部説明し終えてようやく、その答えたる十一までたどり着けると思う、から。もどかしくて、分からないとは思うけど、しばらく話を聞いてくれるかな。質問は途中でも適時受け付けるよ。分からないな、と思ったら手をあげて? 疑問はあったら口にして? どんなことでもいいよ。こんな機会は滅多にないし……今後、あるかも分からないからね」
 ほら、言っちゃダメって言われたら、俺だってそれを破って口にするのは心苦しいこともあるし、とすこし照れくさそうに片目をつぶってはにかんでみせた筆頭に、妖精はうんざりしきった気持ちで天を仰いだ。発言の内容がなにかに抵触するであろうことが分かっていて、命じられたら口を噤むが言わない、と言っている訳ではないことが、この男の悪質性のすべてを物語っている。見学に来ていた教員の中、砂漠の国に所属する者たちが、一様に首を絞められているような表情で筆頭を呼んで呻いたが、うつくしい男はきよらかな笑みを浮かべるだけで、なにか言葉を返すことはなかった。なにもかもを許さざるを得ない、と思わせる顔のよさだった。
 うううぅう、と涙声の呻きを暗黙の了解として受け止めた横顔で、『傍付き』はそれじゃあ続けるね、と囁いて口を開いた。さらり、指先が、肩の上でふこふこするましろいひかりを撫で下ろす。恐らくは無意識に。愛おしさと慈しみのこもる、やさしい、柔らかな仕草だった。
「砂漠における『花嫁』とはなにか、を今聞いて、理解できたひとは少ないと思う。なんとなく分かった、気はしている、というのはせいぜいなんじゃないかな。そういうものである、というふわっとした理解があればいいとは、俺は思うけどね。とにかく、砂漠の民の……人々が、生きていく中で。心の深い場所に根差している存在、というのは分かったと思うよ」
 視線は撫でるように、室内をゆっくりとめぐっていく。そこにあえて足を運んでくれた者を、そうであるからこそ、一人も取りこぼしていかないように。ゆっくりと、ゆっくりと、言い聞かせながら続けられていく。
「一言で、こう、と言い表せるものではない、と。分かってくれたと、思っているよ。……その役職を降りたのだから、もうそんな職業意識に囚われて行動するのはやめろ、という寮長の叱責、忠告が、どれほど乱暴で的外れで、できないことなのか、というのも、すこし分かってくれたと思うし……うぅん、俺はね、ロゼアと比べてちょっとだけ不真面目だし、不良だし、反抗的だし、なにより『外側』に出て長い、王宮魔術師でもあるから……その指摘が、そう思ってしまう、というか。そう思ってくれる、そう言ってくれることの、ありがたみというか……。寮長の気持ちも理解できるし、それはそれで正しい、とは思ってるよ。わー、と思って笑ったけど」
 砂漠の民からぎょっとした、珍獣を見るような目を向けられても、どこ吹く風よと常変わらぬ微笑みを浮かべながら。砂漠の筆頭は場にぺたりと座り込み、休憩ですからね、と乾燥果物をもきゅもきゅ頬張っているソキに、うっとりとした眼差しを注いで目を細めた。ふふ、と満たされた、幸福そうな吐息が零れていく。
「正しさはひとつじゃない」
 それでいて、言葉はつめたく、頬を打った。
「なにが正しかったのか。どちらが正しかったのか? どちらが悪かったのか。そういうのを決めてもらうのに話をね、している訳ではないからね。全員、そういう勘違いはしないように。それは単純に思考停止だと思うし、魔術師が絶対にしてはいけないことのひとつだ。善悪は決めなくていいんだよ。ただ、自分の心の中には持っていないといけないけど。……心の中にだけ、しっかりと持ってね。失わないように。それを、誰かに……押し付けたり、共有したり、しなくていい。しなくていいんだよ、そんなことは」
『ソキ。アイツ、いま大事なこと言ってるから。ちゃんと話聞きなさいよ?』
「きーてるもん。ソキ、えらくて、かわいく、かしこく、うつくしく、えらーいから、ちゃーんとお話、聞いてるもん。このオレンジおいしいです!」
 聞いてたらその最後の感想は出てこない筈なのよ自由奔放に休憩するんじゃない、という小言をソキの頭をぺちぺち叩くことで集約させ、妖精は視線で男に促した。本題に戻れ、という求めに、『傍付き』は恭しい一礼で応えてみせる。
「そうだね、それじゃあ……齟齬の話に移ろうか。理解を妨げている、と俺が思う所からはじめるね。恐らく誰もが知るように、『傍付き』は『花嫁』『花婿』を『育てて』『送り出す』ひとだ。そういう『職業』で、そういう『役目』のひとだよね。これは共通認識としてあるものだと思う。そしてこれはね、正しい。その認識であってるよ。で、たぶんここからじゃないかな? どうして『職業』で『役目』であるひと、なのに、執着していて独占欲があって、『送り出す』、あるいは、『離される』ことに抵抗、拒否感があるのか? ロゼアがどうして、あんなにも反発したのか。……つまるところ、『傍付き』とはなにか?」
 静まり返る室内に。満面の笑みで、男はそれを言い放った。
「一目惚れした相手に、期間限定で選ばれるとそう呼ばれるよ」
「まっ……ってください。待ってください。いやほんと待ってください」
「俺たちに夢見てくれてる所、ほんと悪いんだけど。つまりそういうことなんだよね……」
 待って辞めて許してください、となんとか声になった悲鳴をあげて砂漠出身者が顔を覆って突っ伏していく。言葉にならなかったものたちは胸を押さえてうずくまり、動かなくなった。あっという間に屍を作り出して見せた筆頭に、他国出身者から恐る恐る、質問の手があがっていく。ひとりを、はい、と言ってあてた男に、困惑しきりの声が向けられた。
「ど……どういう、ことなんですか……?」
「うん? 好きな相手の傍にいたいよねっていう話だけど」
「どういうことなんですかっ?」
 もはや出身国など関係なく、誰もが頭を抱えて悲鳴をあげている。大惨事である。説明は委ねたけど惨事を起こせとは言わなかったわよ、とため息をつきながら、妖精はちらりとソキの様子を伺った。『花嫁』は。『傍付き』の言葉を聞いているのか、いないのか、理解しているのか、いないのかも誰にも悟らせない、静かな、浮かぶ感情のうすい、人形めいた顔をして。こく、とぬるまったお茶を飲み込んだ所だった。どうと言われても、となぜか困った微笑みで『傍付き』が首を傾げる。
「そのままの意味、としか……」
「待ってくださいまっ……え? いやでも、あの? 結婚させる為に育てるんですよね? ……え? 地獄では?」
「そうだよ?」
 けろっとした顔で肯定して、『傍付き』たる男は何度か、まばたきをした。
「でも、それでもいいから傍にいたい。誰より、一番傍で生きていたい。……それまでで、いいから」
 くらやみに。誰もいない場所にだけ、そっとささやく懺悔のように。瞼の裏に感情を押し込めて。そうして告げられた言葉だった。
「シュニーが……『花嫁』が、砂漠の国の為の、どんな存在かなんて分かりきった上で。宝石が、そうあることの手助けをできる、そう育てることのできる、誉れある、誇りある職業だよ、『傍付き』っていうのは。この手で育てた存在が、この国を救う手立てになる。希望を育てることができる。俺たちはね。でも、一番最初はそうじゃない。そういう思いで『傍付き』を目指したんじゃない。『傍付き』になりたかったのは、たった一人に選ばれたかったのは、そのひとが」
 巡り合った瞬間の、運命ではなくとも。かつても、いまも、それを羨んで思いながらも。それでも、いばらの道を素足で走り抜けたかごとき、数年を思いながら。ジェイドは柔らかな声で、それを。
「好きだから。傍にいたい。終わりの日、その時まで。傍にいたい。その、たったひとつの望みの他、なにもかも、全部捨てて壊して亡くして失って、奪われて、それでも……それでも、傍にいたい。そう、望んで望んで、努力して、『花嫁』に選ばれて『傍付き』になれる。職業だけどね。最終的に任命するのは『花嫁』の他にない。そこにどんな思惑も、誰の意思も介在しない。まあ俺はちょっと……結構……かなり特殊だから、そのあたりあんまりほんとは参考にならないんだけど……いくつかやらなかったこととか、あるし……」
「……『花嫁』って、それ、知ってる、の?」
「好きだってこと? 知ってるよ? ただ、うん……うん、まあいいか」
 ちら、とソキに視線を向けて。今更、だと思ったのだろう。ジェイドはちいさく頷いてから、知ってるよ、と苦笑交じりに繰り返した。
「正確に伝わらないだけで。結婚しようね、幸せになれるよ、って言うのと同じ口で好きだよって言われても、伝わりきるかというと無理があるなって、俺は思えるし……」
「は? え? いや、うん、え……? いやそう、そうなんだけど、そうなんだけど……? え……?」
「伝わりきったら、こちらとしても嫁がせることができるかって言われたら、は? 無理です殺すぞってなるし……」
 照れくさそうに言わないでほしい、と室内の意識がひとつになった。体感気温がひややかに下がった室内で、ひとりのほほんと乾燥果物を口に運んでいたソキが、ぷくぅ、と不満そうに頬を膨らませる。なぁにその顔、とひそひそと話しかけてやった妖精に、ソキはだってぇ、とごねる声で、ひそひそと話し返した。
「だって、だって、結婚する時まででいいよっていう好きなのに、ソキの好きとおんなじみたいなこと言うんだもん」
『いやそこが通じかけているというか分かりかけてるのに、なんで理解できないのよ?』
「ぷーぷぷぷ!」
 ぷっぷー、と頬をさらに膨らませて、ソキがぷいっと『傍付き』から視線を外す。ソキはいますっごく拗ねてます、という横顔に、ジェイドは肩を震わせて笑った。
「行かないでって、言われないからだよね?」
「ぷーぷぷぷぷ! ソキ、いじわるを言われているです!」
「……そうだね。いじわるだね。いじわるなんだよ……」
 深く、息を吐きだして。ジェイドは室内へ向き直った。
「もう分かってると思うけど。万一、ロゼアがソキに行かないでなんて言ったらソキは絶対に嫁がないし、ソキが行きたくないって言ったらロゼアは連れて逃亡してでもソキを嫁がせなんてしないけど、そうすると砂漠が滅ぶんだよね」
 ひとり、ふたり、くらいなら持ちこたえられるかも知れないけど。もちこたえたんだけど、と。いまや多方面からの内情に精通しきった砂漠の筆頭が、さらりと首を傾げて思案する。
「そして、そんなことは無意識でも、意識的にも、『花嫁』『花婿』『傍付き』は分かっている。自分がなんのために生きているのか。なんのためにそうしないといけないのか。……ソキ、ソキ。教えて? いじわる言ってごめんね。ごめんね。でもひとつだけ教えて、ソキ。ロゼアのかわいい『花嫁』さん。砂漠の至宝たる方。うつくしき我らが宝石の姫君」
「……なぁにぃ?」
「ソキは嫁ぐの嫌だったね? ……つまり」
 その言葉が、刃だと分かっていて。その言葉が、誤りだと分かっていて。理解していて。『傍付き』は一瞬の覚悟のために目を閉じてから、まっすぐ、『花嫁』を見て問いかけた。
「砂漠の為に、国の為に。役目を果たすのが嫌だったんだね?」
「無礼者」
 火、だった。その言葉は火そのものだった。室内の誰もがその言葉の主を一瞬見失い、ソキに視線を向けて息をのんだ。その火は、花の形をしていた。業火ではなく。そう至ってなお、強くはなれず。それでも、それは火のようだった。焼き尽くす怒りだった。
「侮辱だと理解して、なぜ口にしましたか」
「……言われないと分からないからです。申し訳ございません」
「役目を果たすのは、誉れです。誇りです。それを、それを……! ……ち、ちが……ちがうもん……!」
 おおきく見開かれた瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。ひっ、としゃくりあげて。ソキはこの世の無理解に、なにもかも絶望したような顔で、声で、弱弱しくちがうもん、と繰り返した。
「ソキ、それが嫌だなんて、言ったことないもん……! 思ったこともないもん……! ソキ、ソキは、ロゼアちゃんと一緒にいたかっただけだもん。一緒じゃないの、だれかほかのひとが、いやだっただけだもん……! ロゼアちゃんじゃないのがいやだったんだもん……! 役目を、果たすのが……! 『花嫁』として果たすことが、嫌だったんじゃないもん……!」
「はい。分かっております。……ごめんね、ソキ。いじわるを言ったね。ごめんね」
「ううぅうぅう……!」
 癇癪を起したソキの手が、なにかつかんで投げるものを探してあたりをさ迷った。しかし、適切なものがなかったのだろう。ううぅう、と涙声でぺちぺちと敷物を叩かれたので、ジェイドは苦笑して、傍らまで歩み寄った。す、と片膝を折って身を寄せたジェイドに、ソキはふぎゅぅうううっ、と声をあげ、目をぎゅむーっと閉じながら頬を手でぺししと叩く。
「いじわる! いじわる、きらい! ソキ、いじわるされるの、きらいきらい! いじわる! いじわる!」
「うん。もうしない。もうしません。ごめんね。もう言わないよ。ごめんね。言ってごめんね。……ごめんね」
「ソキの誇りを否定しないで! ソキ、いやだったけど、ちゃんと、ちゃんと、するつもりだったもん! できたもん! ほ、ほんとだもん! ほんとだもんっ!」
 なおもぺちてち頬を叩かれながら、ジェイドは目を伏せてうん、と言った。興奮して怒り狂ってせき込む『花嫁』の体を甘く抱き寄せ、ぽん、ぽん、と背を叩いて宥めながら頷く。
「そうだね。知ってるよ。……あなたたちがどれほど、その胸の誇りに忠実で、それに準じて嫁いでいくのか。知ってる。知ってるよ。知ってるよ……」
「ソキだって、ソキだってできたもん! できたもーっ!」
「そうだね、そうだ。ごめん、ごめんね。ひどいことを言ったね。ごめんね」
 そう、ジェイドは知っている。首都を遠く離れて、国の隅々を巡りながら、幾度も。幾度も幾度も、紙面で彼らを見送った。人を伝って幾度も聞いた。泣きながら、離れたくないと泣きながら、別れの淋しさに泣きながら、恋の終わりに泣きながら。泣きながら、泣きながら、それでも。最後の最後に、宝石たちがどんなに誇り高く、誉れで胸を満たして、笑って旅立っていったのかを。嫁いでいったのかを。どうしようもなく引きはがして、そうさせてあげることができなかった悔恨も、いくつか、いくつも、知るけれど。宝石たちは、そう。誰より誇り高く。砂漠の国へ希望を振りまいて、撒き散らして、そうして。嫁いでいくのだと。
 ジェイドは知っている。ソキもそうある筈だった。泣きながら、苦しみながらも、誰より可憐に微笑んで、誇り高く。『花嫁』は嫁いだことだろう。夏至の日に、それを目指して旅をするべく、妖精が。閉ざされた部屋に、ソキを迎えに来なければ。
「ソキは、ちゃんと、できたもん……!」
 魔術師として目覚めることさえ、なければ。泣き騒いで暴れるソキを宥めながら、ジェイドはそうだね、と目を伏せて囁いた。そうして、誰より誇り高く、胸を満たされるその瞬間が。永遠に奪われてしまったことを。奪ってしまったことを。罪悪感と共に、それでも幸福だと呼ぶ、そのことを。その、想いを。恋だなんていうきよらかな言葉に、していいのかは。分からなかった。



 ぶんむくれて拗ねに拗ねたソキが、機嫌をなんとか上向かせるまで。かかった時間はそれなりのものだったが、室内の混乱は収まっていなかった。砂漠の民は突っ伏したまま動かないでいる者の数の方が多く、例外なく同情に満ちた視線が向けられている。信仰そのものの当人から、とんでもない言葉で告げられたのだ。さぞ嘆きは深かろう、と沈痛な眼差しがそっと捧げられていた。薄々そうではないか、と思っていたにせよ。明らかにならないで欲しかった真実、というものはある。屍がごろごろと転がりゆく室内を眺め、ジェイドはいたずらっぽく、ふふふ、とかすかに声をあげて笑った。
「まあ、俺とロゼアだと、ロゼアの方が正統派というか、純正品に近いから。つらいなら、あんまり気にしなくてもいいよ? ……所で、聞きたかったことはちゃんと分かったかな?」
「そ……それ所じゃないと……いうか……? 砂漠の暗部を軽やかにぶち込んでくるの勘弁してくださいというか……機密を、機密を漏らされたのでは? このあと口封じの時間になったりしないですよね?」
「ふふふ」
 いや笑ってないで否定してくださいよおおおっ、という全力の懇願にも、砂漠の筆頭は楽しそうに笑うばかりだった。肯定ではなく、けれども否定はされないままだった。阿鼻叫喚の室内を見かねて、ぷくぷくしたソキの頬をつついていた妖精が、うんざりしながら声をかける。
『遊んでないで、説明責任を果たしなさいよ。それとも終わりなの? 終わったら早くいなくなって。しっしっ』
「終わりでいいのか確認しているところだよ、もうすこし待ってね。……終わりでいい? もう質問はないかな? 大丈夫?」
「大丈夫じゃない……それ所じゃない……ちょっと深呼吸とかしながら待っててもらっていいですか……大丈夫じゃないんで……それ所じゃないんで……!」
 だって、と困ったようにジェイドが肩をすくめる。その肩の上で、ましろいひかりが非常に申し訳なさそうにふこふこと収縮を繰り返していた。こころもち、ひかりが弱まっているように見える。アンタ全方面に心労をかけてひとり涼しくしてるんじゃないわよ足の小指の骨でも折ったらどうなの、と一息に罵倒したのち、妖精はなんとか落ち着きを取り戻したソキを覗き込んだ。
『ソキ』
「りぼんちゃ。ソキは、たいへんとってもいじめられたです……。ゆゆしきことでは? ゆゆしきことでしょ! これはロゼアちゃんに言いつけないといけないです。絶対です。必ずです。このうらみはらさでおくべきかでしょ!」
『恨みとかいう感情の持ち合わせがあったの?』
 半ば引きながら問いかけると、ソキはぴぎゃぁああんっ、と怒りの声をあげた。ソキをなんだと思ってるですかぁああああ、とちたちたしながら怒られるのに、妖精は胸を張って言い放った。
『ソキだと思ってるわよ。アタシの魔術師だって』
「……ふふ? うふん?」
「あ、ちょっとご機嫌になったね。かわいいね。はい、これはお詫びだよ。終わったら食べてね」
 一瞬の機を逃さず。すっと寄ってきたジェイドが、ソキの膝上にそっと菓子を置いた。ソキはむっとくちびるを尖らせながらも、お菓子に罪はないですし、と視線を落として。きゃわっ、とはしゃいだ声で顔を明るくした。
「ま、ま、ま、ましゅまろー!」
「好きなだけ食べていいよ。食べ終わったら、また新しいのをあげるからね。……ごめんね?」
「ふふふん? ソキは、寛大で、寛容な心の持ち主なんでぇ、今回だけ、許してあげることにするです。今回だけ!」
 ささっとマシュマロを背に隠したソキに微笑みを深めて、ジェイドは質疑応答へと戻って行った。ソキはすっかり集中とやる気を失ってしまった様子で、ぽんぽんと飛び交う言葉たちをぽやぽやと聞き流している。これはもう一回眠らせるか、小休止じゃなくて本休憩でもさせないと駄目なのでは、と妖精は思った。かつてなく怒って泣いて暴れてぶんむくれたせいで、集中を戻すだけの体力がなくなっているのだ。放置しても体調を崩すには至らないものの、場の女主人としてふるまうには難しいものがあった。幸い、場も大惨事の混乱で疲れ切っている、仕切りなおすには良い機会であるように思われた。
 ふ、と質疑の声が途切れる。疑問が解消されたというより、混乱を落ち着かせて言葉にするだけの時間が、誰も彼も足りないでいるのだろう。妖精はよし、と頷いて、十五分の休憩をソキに提案した。ついでに、全員一度、部屋から退室することも。十五分は好きにしていいが、なるべく部屋には戻らず過ごすように。ソキはよく分からない顔をしながらも、リボンちゃんがそういうならそうするのがいいです、と頷き、ふんにゃふんにゃと鳴いて場の注目を集めた。のち、いいですかぁ、お外で休憩です、みんなです、十五分です、と言い放って、もちゃ、と立ち上がる。
「それで、戻ってきたら、もう一回です! ジェイドさんはぁー、もー、おはなし、しちゃ、だめ! めっ!」
「うん? だめなの?」
「だめなの! いじわるを言うですからね! ぷぷぷぷぷ!」
 んもぉー、ちっともお話が進まなかったですぅ、と怒られて、ジェイドは幸せそうに笑った。そうして、どうぞ、と差し出された手を。ソキはみぎゅううう、と怒りながらぺちぺちぺちちと叩いて払い。ひとりでできるもんっ、と言って、てちてちと歩き出した。そうだね、と笑いながら、ジェイドは『花嫁』の後を追う。ソキはちら、と振り返ったものの、それを追い払いはしなかった。しかして、十五分の空白ののち。部屋に戻ってきた人数は休憩前より増えていたが、新顔をそうと指摘する真似は誰もしなかった。ソキも気が付きはしたものの、にこにこと嬉しそうに笑うばかりで、お菓子があるですからね、お茶もありますからね、と言うに留まった。
 質疑は仕方なく、ジェイドに戻された。いじわるをされるのでソキは話して欲しくなかったのだが、こと『傍付き』の詳しいこととなると、告げる言葉を持たないのが本当だったからだ。ソキが話すことはできても、それで相手の納得する答えになるとは限らず、わからない、知らない、で終わっていい場でないことを、誰より理解していたからである。しかしそれはそれとして、面白くはなく。ソキ分かっちゃったんですけどぉー、ジェイドさんたらいじわるでは、いけないひとでは、と文句を言いながら、女主人は仕方なく、交わされる言葉たちを聞いていた。流すのではなく。ひとつ、ひとつ、手繰り寄せて、言葉を手元に引き寄せて。言葉を、意思を。聞いていた。
 語られる言葉。『傍付き』とはなにか。『花嫁』に対する想いはどんなものか。ジェイドはそれに、ひとつひとつ、誠実に言葉を重ねて行った。言葉に。ソキは、納得できない、そうじゃない、と思うこともあったのだが。それならそれでいいよ、と他ならぬジェイドが言ったので、否定することなく、ただじっと、見て、言葉を聞いていた。俺とロゼアは別だよ。言葉も思いも別々で、同じことも、似てることも、違うことも、あるよ。だからこれは一例。共通項が多い、かも知れない、一例。俺の話だよ、と言って、ジェイドはソキには捌ききれなかったであろう、様々な言葉に答えてくれた。
 刃のようなものも、薬のような言葉も。火のような感情も、水のような意思も。様々だった。けれども言葉と意思は間違えようもなく、最終的に、ひとつの疑問、ひとつの不安を指し示しては揺れていた。『花嫁』と『傍付き』とは、なにか。最後の最後に、もう一度問われて、ジェイドは笑いながらこう告げた。かつて、俺とシュニーだったもの。そして、と。かつての『傍付き』はまっすぐ、ソキのことを見つめながら言った。
「ソキと、ロゼアのことだよ。そうあるべし、として生きてきた、ふたりに対する呼び方のひとつだよ。そしてそれは、誰にでもある、今に続いている、失えない過去。今を形作る足元。……『傍付き』は、砂漠の影にある至宝。宝石を生かす者。財貨のために希望をつくる者。願いの結晶。努力の結実。国のための司祭。人々のための生きる術。御伽噺を続けていく者。そして……誰より、なにより、自分の『花嫁』を、ずっと、想う。……俺は、ずっと、シュニーを」
 そっと、そっと。くらやみに灯る。明かりのように。
「愛してるよ。この世の誰より、なによりね」
 ささやいた。

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