夜のざわめきは不穏ではなく、ただ風に揺れる葉音のように、柔らかく穏やかに広がっていく。ソキの説明会を終えた『学園』は、静寂を抱くざわめきの中にあった。落ち着いたとするには騒がしく、狂乱とするにはもう、それは手の届かない過ぎ去った場所を呼ぶものだった。なににせよ、一段落ついたということなのだろう。本来の当事者たちはともかくとして、嵐に巻き込まれ傷つき、傷つけあった者達は、いまようやく立ち止まり、息と言葉を取り戻しつつある。そんな風に、妖精には思えた。希望的な観測かも知れないが、少なくとも悪化だけはしていない。それがソキの得た成果であり、きらびやかに現れて去って行った、砂漠の筆頭その人の残した結果だった。『学園』に訪れたのは、久しぶりに伸び伸びと手足を投げせる、ゆったりとした穏やかな夜だった。
そこに広がるのはぽっかりとした暗闇、得体の知れない恐怖ではなく、塗りつぶされた漆黒ではなく、見上げれば星の瞬く夜だった。それをようやく、生徒たちは思い出すことができたのだ。夜は怖いものではない。暗闇さえ、魔術師の傍らにあっては友たりえるのだと。導きの星は変わらずにそこにあるのだと。息を吸って、吐いて、言葉にして、考えて。傷つける武器とするのではなく。差し出して、受け取って、悩んで考えて。そうするための言葉を、持っていること。自分も、相手も、ただ、ただ当たり前にそうすること。そう出来ること。目の前の相手はなにもかも分からない敵ではなくて、仲間で、言葉が通じて、考えあって、そうして進んで行けるのだと。分からなくても、分かり合えなくても。理解しなくても、理解ができなくても。拒否感があっても、受け入れられなくても。それでも、その気持ちをそのままにしても。そのまま、どうすることも叶わずに、理解できず受け入れられず拒否してしまって、気持ち悪くて分からなくて、でも。
それを理由に攻撃しなくてもいいのだと。していい事では、ないのだと。思い出して、魔術師の卵たちは混乱に一区切りをつけ、あるいはつけようと意識の舵を切ったのだった。傍観者たち。当事者ではなく、傍にあった観測者たちの、巻き込まれ事故じみた火種は、もうゆるゆると鎮火して行くことだろう。魔術師にはそれができる。卵として『学園』に身を置く未熟な立場であろうとも、言葉を知り、それを尽くすことを求められ、そうして学んでいく者達は。何度間違えても、必ず、それを可能としていくことができる。だからこそ、そうであるから。それはもちろん、ソキにだって出来るし、可能なことであるし、出来る筈だし、可能でなければ困るのだが。
談話室の片隅、いつもの定位置にて。いつもとは違いひとりきりで、うむうむふにゅにゅと不満そうな声をあげては、ちたちたとしているソキに。妖精は疑い深い視線を向け、声を零した。
『……落ち着き、落ち着き。……落ち着きねぇ?』
「あっ! なんだかふとうなうたがいをかけられているきがするです! いくないです! いくないですぅ! ソキは落ち着きのある、気品だってある、先輩たちに説明会だってできた、すばらし淑女でしょ! 可愛いがいっぱいでしょ! えへへん」
『諸説ありってとこだけど? まあ、うん、いいわ……。よし、それじゃ、説明会終わったアタシの魔術師さん? ふにゃふにゃしてないで寝に行くわよ』
夜更けという時間ではないが、早寝のソキには遅い時間である。いつもならば瞼だって閉じているだろうに、ソキはもちゃもちゃと不満そうにソファから立ちあがりながらも、その目はきらきら輝いて、ちっとも眠そうには見られなかった。昼間の興奮が続いているのは明白で、加えてソキには、まだ飲み込みきれていない不満があるのだった。談話室はしんと静まり返っていて、ソキ以外の姿がない。その、張りつめてはいない、それでいて緩くもない静寂をとろとろと漂うように。ソキは談話室の戸締りを丁寧に確認して、ひとりきり、誰の姿もない廊下に出た。部屋から出ているのは、もうソキだけのようだった。食事も風呂も、今日はみな早々と終えて、部屋に戻っているようだった。
妖精はソキが怯えないよう、顔のすぐ近く、目の高さに合わせて、とろとろと空を飛んでいく。てち、てち、とて、とゆっくり階段を登りながら、ソキはこしょこしょと潜めた声で、ようやっと、温め続けていた不満を口にする。
「ねえねえ、ねえね? リボンちゃ。ソキ、ソキね、それでね、けっきょ、く、ね、聞け、なかた、の、で、は?」
『ソキ。いいこだから、おしゃべりは階段登り終わったら、落ち着いて、ゆっくりしましょうね。部屋まで待てないの?』
「んん。むぅ。だって、だって、だぁっ、てぇえ……」
よ、ち、よ、ち、と階段を登り終え、ソキはぜいはぁと肩で大きく息をした。咳き込んだりむせたりしなくて本当によかった、と妖精は息を吐く。魔術師と契約した妖精がある限り、そのような不運は訪れないものではあるのだが。ソキの場合は不運ではなく、体の虚弱さに起因するものであるから、防いで守ってやりきることは難しい。はふん、と落ち着いた呼吸をひとつ。ふふん、ひとりで階段登っちゃったです、と誇らしげにとてちてロゼアの部屋に戻っていく魔術師には、まだ眠さの気配が見られない。
さてどうして寝かせたものかしら、と妖精が悩んでいるうちに、ソキはもちゃくちゃと寝台の上にあがり、枕をひとつ抱きしめてころりと素直に横になった。そのままなにもかも忘れて寝落ちないかしら、と見つめる妖精に、ソキはふんすと鼻を鳴らして、それでねぇ、と口を開く。忘れていなかったらしい。
「ソキ、りょうちょのことも、ロゼアちゃんのことも、ちゃぁんと相談できなかったのではないです? リボンちゃん、どうおもう?」
『なにもかもその通りなんだけど、確かな成長を感じてる。から、アタシはもうそれでいいと思ってるわよ』
ええぇ、と不満と納得していない響きの声で、ソキが枕をもぎゅりと抱きつぶす。やぁあんソキはちゃぁんと先輩にご相談して、したくて、それで、それで、ソキはソキはとぐずりだしたのを見つめながら適度に放置して、妖精はしみじみと、己の魔術師の成長に感じ入った。そこに気がつくのが、成長である。結果としては確かにソキの言うとおり、なにも聞けないままに終わってしまった、というのが正しいだろう。ソキの相談したかったこと、聞きたかった三つのことは、ひとつも解決しなかった。それどころではなかったからであり、そこに行きつく所の話ではなかったからである。その話をする為には、必要な前提と言うものがあった。前提が足りなさすぎたのである。
仔細を補足しきって混乱させきった愉快犯は、ソキの質問がひとつも解決していないことなどわかりきっていただろうに。それについては助けの一つも残すことは無く帰って行ってしまったので、妖精からは諦めて今日は寝なさい、としか送る言葉がないのだった。言えばぶんむくれて暴れることが分かり切っているので、寝ぐずりだしたのを放置しているだけである。ソキはしばらく枕をもちもちしながら、だってだの、でもだのと宛てのない文句と不満をどんくさく並べた後、ずずびっ、と鼻をすすりあげた。
「ロゼアちゃんに会いたいですぅ……。これはもう強行突破しかないのでは……。ソキならばできるのでは……。あとで、ソキのしたことだし、ソキはかわいいから、しょうがないね、で許されてしかるべきこと、ですから、だいじょぶ、うぅ、だいじょうぶに、ちがいな……ねむ……ねむ、ねむ……ねむむないですぅ!」
『いやもう寝なさいよ。ほら、ね? いいこだから。いいこだから思考を暴論方面に進めるんじゃないわよ……! めんどくさくなるんじゃないの!』
「えぇんですぅ! ソキもーやになっちゃったですうぅ!」
眠気でくじけているだけである。投げ出さないで欲しいが、いまそれを言ったとて通じないのは分かりきっていることだった。この会話そのものも、明日の朝起きたら覚えていないことだろう。いつものことだった。ソキはしばしば、寝る前の思考と言動が極端に振り切れるが、それは恐らく本人の幼い残虐性故で、本音とはもうすこし違う所にある戯言だ。なににせよ真に受けないのが一番である。無視している、のではなく、適切に聞き流しながら、妖精はやわらかく、ソキの元へ舞い降りた。ぐずぐずと枕に頬や額をこすりつけている、その隙間にそっと触れて。疲れちゃったわね、とささやき落とす。ぐすぐす、鼻を啜りながら、ソキはこくりと頷いた。疲れてしまったのだ。
うんと頑張って、頑張って、頑張りきって、それなのに、目指す所にはちっとも辿り着けなくて。やり方はもう分かっていて、方法はもう明白で、どうすればいいかも判明しているのに。もうすぐそこ、だと思うのに。もうすぐそこだ、と見えているようなのに。手を伸ばせば届きそうなのに。それなのに、上手くいかなくて。疲れて、ちょっと、くじけてしまったのである。ううぅ、うぅ、うーっ、ふ、ふえ、えぇ、ぐずっ、と本格的に泣き始めかけるソキに、妖精はやわらかな音を崩さないまま、静かにそっと、繰り返して告げた。
『疲れちゃったわね。……いいこと、ソキ。ソキは今日、よく頑張った。本当の本当に、よくよく、頑張ったわ。それはアタシも認めて、分かってる。本当よ。……よく、頑張りました。偉かったわね』
「うぅ、ふぇ、え、えん……。ろ、ろぜあ、ちゃ……。そき、そき、ろぜあちゃんに、会いたい。会いたいだけ、だも……。ロゼアちゃぁん……」
『そうね。……そうね。さ、ソキ、ソキ……。今日はもう眠りましょう。本当に頑張った、大変な一日だったわ。だからね、眠りましょう。眠って、明日を待つの。待つのよ。……大丈夫、大丈夫。明日はちゃんと来るわ。ちゃんと、届く。もうすこしよ、もうすこし』
もどかしいばかりだろう。苦しくて、はち切れんばかりで。ようよう耐えきれない、と思えて仕方がないばかりだろう。ソキの内心は、妖精にもよく分かった。一部が通じ合っているからということばかりではなく、ソキを知る者なら誰もが理解しただろう。だからこそ、それが今、しっかりと届かないことは分かっていても。妖精は根気よく、もうすこしよ、と心から繰り返してやった。ソキの望む場所まで、ようやく、手が届く。その為の準備、その為の前提が、ようやく終わった。『学園』は狂乱を抜け出して進んでいける。塗りつぶされたくらやみに、ようやく、光が差し込んでいく。この夜を超えれば。この夜さえ超えれば。待ち焦がれた朝へ、ようやく、届くだろう。
『……信じて、ソキ。大丈夫よ、大丈夫。明日はきっと、きっと……いい日よ』
「ほんと? ほん、と? ほんとに、ほんと?」
『本当』
そう、心から妖精は告げられる。ソキはもう言葉を投げかけた。みっつ。これについて、と誰しもに告げた。怒涛の情報でいっとき、忘却されてしまっていたとしても。言葉が告げられた、その事実は消えないでそこにある。だからこそ、息を吹き返すように。きっと、みな、朝の光の中で思い出す。それについての答えがなかったこと。その時にはなかったこと。そして、いま、かすかでも、わずかでも、それに。妖精はそれを信じ切って、ソキを夢まで見送った。幾度も、幾度も、己が信じた希望を、必ず巡るものとして囁いた。疲れ切ったソキは言葉を信じ切れず、不安そうに何度も問い返し、それでも最後には、わかったです、と頷いて眠りに落ちた。リボンちゃんをね、信じるです。
ソキはね、もうわかんなくなっちゃったですけどね、でもね、でもリボンちゃんがそう言うなら。リボンちゃんを信じるです。きっと、きっと、明日には。明日は。ころん、と深く眠りに落ちた魔術師の、泣きはらした瞼をそっと撫でながら。妖精は明日を想い、祈るように、それでいて確信に満ちた意思で目を閉じた。翌朝目覚めたソキは、妖精の予想通り、寝ぐずり始めてからの会話を覚えていなかった。いつものことである。しかしなんとなく、気持ちだけは残っていたのだろう。もそもそと起き上がりながら、なんだか悲しいがあった気がしたですけどぉ、リボンちゃんが今日はいいことがあるって言ったですから悲しいのなくなったです、との報告は、相変わらず都合のいいように一部改変されていたが、妖精は特にそれについての意見を述べなかった。
はいはいそうねよかったわね、朝ご飯を食べに行きましょうね、と促す妖精に素直に頷き、ソキはやってきたルルクの手を借りながら身支度をし、ご機嫌に部屋を出た。その、廊下。食堂へ行く道々。いつもと同じ、変わらない朝。そうであるのに。その、差し込む光がひときわまばゆく。晴々と広がっている。そう感じたのはソキだけでなく、妖精やルルクだけでもなく。廊下には、おはよう、と響く声があった。くじけず、いつもと同じと心がけて、毎朝響いていた声があった。それに応じて、おずおずと。戸惑いながら、罪悪感がありながら、それでもまだ警戒しながら、敵意を捨てられないままに。それでも、応じて。あるいは、先んじて。
おはよう、と響く声が確かにあった。いつもより、うんと多く。繰り返されていた日常より、なお多く。言葉が響いていた。人の姿があった。笑顔と、強張った表情。普段通りではなく、それでも。誰もが部屋の扉を開いて、外に出てきていた。明るいざわめきがあった。廊下も、談話室も、食堂も。どこも人の姿で満ちていた。昨夜、ソキがひとりきりであったことが、悪い夢そのものであったように。ソキと手をつないだまま、ルルクがはっ、と泣き笑いの息を零す。ルルクを見上げて、ソキはきゅぅ、と繋いだ手に力を込めた。
「ルルク先輩。ソキ嬉しいです。……嬉しいですね」
「うん。……うん、嬉しいね、ソキちゃん」
食堂は、座る席を見つけるのが困難なくらいひとで溢れていた。生徒ばかりではないようだった。見ればなぜか各国の王宮魔術師の姿があり、その顔はみな、こそばゆい笑みで溢れていた。入れ替わり、立ち代わり、見知った姿も、見知らぬ姿も、たくさんの人の姿があった。とりあえずご飯食べちゃおう、人がいっぱいだけど頑張ろうね、と告げられて、ソキはふんすと気合いの入った頷きで、食堂の端、なんとか見つけた空席に腰を下ろす。待っててねーっ、と人込みへ突入して行ったルルクを見送ってひとりになっても、過度の視線が集まることはなかった。意識して、逸らしている者もあるだろうが。ソキちゃんだ、おはよう、と向けられる声に、気負うものはなく。ソキもただ、普通に、いつものように、おはようございますです、と挨拶を返した。
ソキはルルクを待ちながら、きょろりと視線をさ迷わせ、ナリアンとメーシャを探した。アリシアや、ユーニャや、ガレン。特に尽力してくれた者たちの姿を探したが、ソキの視線を不意に受け止めたのは、その誰でもなく。昨日。ソキの説明会で、一番最初に指し示した、ロゼアより、いくつか年上の黒魔術師の青年は。ソキと視線があうと、あ、とだけ言って、小走りに机まで駆け寄ってきた。
「おはよう、ソキ」
「おはようございますです」
「ん。……あの、いま、いいかな」
す、と少しだけ緊張の為に息を吸って。背を伸ばして。ソキは、はい、と答えた。あのな、と青年が口を開く。そして告げられたのは、確かに、ソキが向けた質問の答え。助けて、と差し出された後輩の困りごとに対する、先達からのアドバイス。ソキが待ち焦がれた、本当に待っていた、ただ普通の言葉だった。
ソキの元に訪れる者は、途切れなかった。朝食の最中こそ傍にいたのはルルクだけだったが、終わるとみるや、すぐに何気なさをよそおって声がかけられた。おはよう、いまいいかな。すこしだけ、昨日のことなんだけど。言葉はなにげなさを装ってかけられ、あるいは幾度も練習してきたかのように緊張まじりの滑らかさで告げられた。一人がそうしていなくなると、すぐさま一人がやってくる。おはよう、ちょっと時間あるかな。怖いことじゃないよ。あの、話がしたくて、すこしだけ。ソキは誰にも、嬉しくて嬉しくて、にこにこしながら挨拶を返した。こんなふうに誰かにおはようを言うのも、言われるのも、随分と久しぶりのことだった。
告げられた言葉は様々だった。昨日のソキの相談に返答する者や、質問をいくつか向けてくる者、またああした会を開いて欲しいと要望する者。お茶と菓子がおいしかったからどこのものか教えて欲しいと言った他愛もない願いや、長期休暇の間の過ごし方を尋ねてくる者など、質問も言葉も実に様々だった。ソキは、そのどれもを、嬉しいと思っていっしょうけんめいに話しをした。なにを聞かれるのも嬉しかった。質問も、疑問も、解け消えはしなかった疑念も、恐怖も、異質さを忌避する言葉すら、中にはあったけれど。それに触れるのは緊張したけれど、それでも、それすら、嬉しくて。にこにこ笑って、なにか考えを巡らせることが出来ないくらいの嬉しさで、あのねそれはね、あのね、と言葉を響かせた。贈り物を渡すように。大事に、大事に、響かせた。
ルルクは訪れる者が途切れず、三人目になった時点で、諦めて場を整えた。ちょっと待ってと会話を止め、ソキに談話室に移動させて、自身は小走りにあれこれ用意して回る。とりあえずこれっ、と最優先で設置されたのは、おひとりさま五分までの札である。大体のものに苦笑いされたが、ルルクは真顔で死活問題なのでと言い切った。定めなければ、ソキのか弱い喉が悲鳴をあげるのなんて本当にすぐなのだ。続いてルルクがお茶やら飴やらを備蓄から引っ張り出す頃には、妖精も来訪者をうっとおしく追い返すことを諦めたようだった。五分に大きくバツが付けられて三分までに書き換えられ、妖精が持ち込んだらしき砂時計が、一秒の延長も許すまいと時をさらりと落としていた。
嬉しくてきらきらして、いっしょうけんめいに話すソキが、あれ、と気がついた時にはその準備が終わっていて、来訪者はみな、笑いながら粛々とその取り決めに従った。幸い、魔術師の卵は数え切れるくらいの数である。何日も何日も続くことではないだろうし、ソキにも他の者にも、良い機会であるのは確かなことだった。なにせソキは、社交的な性格ではなく、交友関係も極めて狭い。見知った顔であろうとも、一度も話したことのない者が大半だった。全員がソキの元にやって来た訳ではない。砂漠出身者は顕著に少なかった。避けられているのではなく、一晩と言う時間は彼らにとってあまりに少なかった。それだけのことである。折り合いを付けるにはまだまだ時間がかかるだろう。
ソキはそれに気がついているのかいないのか、普段より遅めの昼食を平らげ、午後にもなって途切れぬ先輩の対応をしているうち、幸せそうに寝落ちて夜まですこしも起きなかった。ルルクは青ざめて発熱の確認をしたが、幸い、体調がそのまま悪くなることはなく。談話室で陽光と、人の気配に囲まれながらすぴすぴと夜まで寝過ごし。夕ご飯を飛ばして入浴をし、そうして起きている間、ソキに降り注ぐ言葉は途絶えることがなかった。放っておくと深夜まで長引くと踏んだ妖精が、アンタたち全員あとは明日よっ、と雷を落として、随分早く部屋に引き上げさせたのはその為である。普段の十倍は話している。それを咎めようとは決して思わなかったが、休まなければ明日と言わず、今夜寝ている間にも、ソキの喉は使い物にならなくなるだろう。
ルルクがてきぱきと喉によい香りを室内に漂わせているのを横目にしながら、妖精はすでに半分夢の中にいるソキに、いいこと、と丹念に声をかけた。
『明日もたぶんこんなでしょうけど、はしゃぎすぎないのよ。今日みたいに、しっかり時間は守りなさいね。ほんとに喉痛くないの? 頭痛は? 熱は? 頬が筋肉痛になったりしてない?』
「ソキ、ソキねぇ、んきゅふ……くふ、きゅふふ!」
『幸せそうにしちゃって、もう……! 痛いとこないのね? ソキ? な、い、の、ね? 返事は?』
ソキは昨日と同じく、枕をぎゅっと抱きながら寝台にころろんと横になった。大丈夫ですぅ、痛いのないのぉ、とくふくふ笑いながら、枕に顔をぎゅっと押し付けて深呼吸をする。
「きゅふん。むむむ……この枕も、ロゼアちゃんのにおいが、うすくなてきちゃったです。ゆゆしきことです……」
『はいはい。気のせい気のせい。おやすみ! よーく寝なさいな』
ソキはおやすみなさいですぅ、と納得していない声で返事をしたあと、枕に顔を埋めたまま寝入ってしまった。寝違えないといいんだけど、と不安になりながら、妖精はほっと一息つくルルクに、アンタもお疲れさま、と声をかける。
『ソキにも言ったけど、明日もこんな感じなんじゃない? まあ、明日か、明後日にはまたもうすこし落ち着くでしょうから、それまでの辛抱よ。頑張ってちょうだい』
「はぁい! もちろん! ……もちろん、なんだけど」
いや現状は多分すごいいい感じというか、いいことなんだけど、と首を傾げて、ルルクはさすがに疲れた様子で椅子に腰を下ろした。
「今日と同じじゃ、ソキちゃん疲れすぎちゃう。明日は熱を出すかもだから、もうすこし厳格に……いや厳格にしてもなぁ……? 今日だって三分厳守でこれだったから、休憩時間を増やすべき? 一人話して、休んで、また話して……? それとも、何人か連続させてから長めに休みのほうがいいのかな。うーん。どうしようかな……。代表質問制度に切り替えてもらうのが一番、効率としてはいいんだけど、今回ばかりは効率追うものじゃないしなぁ……」
『半分くらいはソキと一緒に聞いててやったけど、結構雑談ばっかりよ?』
「雑談大事よ。敵意がないって表明だもん。……あなたに適度に興味があります。敵意はありません。あなたも、私には敵意ないですよね? っていう、暗黙の了解? 確認みたいなものよ、雑談なんてね。……だから、それができるようになって……そういう、ことを、あえて皆がしないといけないと思っていて。あえて、しに来るっていうのは、すごくいい。いいこと。本当によかった。ほんとに、ほんとに……でもなぁ」
今じゃなくてもいいし、今でしかない、とも思うんだよね、と。ルルクは眠るソキを見つめながら、難しそうに眉を寄せる。
「……とりあえず明日までに今日の分の集計かな。明日もこうなら、それで大体は出揃うはずだから、動けるのは明後日。……明後日動くとすると、明日はやっぱり、今日みたいな寝落ちじゃなくて、しっかりお昼寝してもらうとして……。お昼寝食べて、すこし早めにおやつ食べてもらって……お昼からすこし時間早くした方がいいか。夕方まで寝てもらってるあいだに集計して、夜もしっかり食べてもらわないと。明日も早めに寝てもらいたいから、そうすると、うーん十五人、六、七……。二十、だと多いな。あー、やんごとないなにかしらの事情があって絶対人数が一時的に減ったりしないかな! しないな! ごめんなさいなんでもありません! やめてそんな目で見ないで! ごめんったら!」
『……変なとこソキと似てるのなんでなのかしら』
事件が起きてからというものの、ルルクが昼に夜にと走り回っているのは妖精も知ることだ。上手いこと細切れに睡眠は取っているのも知っていたが、それにしても限界はあるだろう。妖精は眠気の見えないルルクの目を覗き込みながら、アタシはアンタの面倒まで見てあげませんからね、と言い放つ。
『大丈夫って言うなら、そうなの、としか言わないわよアンタにはね。でもね、無理して倒れてなんてみなさい? 手がつけられなくなるわよ、ソキが』
「しゅ、集計だけしたら寝ます……。いやほんとに、集計だけ、それだけさせて……!」
『集計って、なんの集計よ?』
この状況で、ルルクがしなければいけない仕事などない筈である。なんなのよ言ってみなさいよと睨み付ければ、ルルクは唐突に、花が綻ぶように笑った。
「心配してくれてありがとね。……ソキちゃんの、質問? 相談に対する、各々方の回答の集計、しておきたいなって」
『そんなものソキに自分でさせなさいよ。甘やかすんじゃないわよ』
「あ、違う違う。もちろんね、ソキちゃんも自分でまとめると思うけど、これは個人用の資料としてね? こう、備忘録というか、日記も兼ねておくというか、報告書というか、提出資料というか……ロゼアくん、絶対この手の資料欲しいと思うんだよね。それに確か、なんかそういう提出? 情報とか、状況の共有義務があったと思うし……提出が必要ですってなってから作成に取り掛かると、時間がかかるしめんどくさいし、記憶違いで間違いになったりするから。大丈夫! 提出用のを書くための資料として、ぱっとまとめるだけだから! そんな精密な集計はしないから!」
妖精はため息をついて、ルルクの好きにさせてやることにした。言葉を交わす時間が無駄に思えたからである。一分でも早く取り掛からせるのが、本人の為にもなるだろう。ありがとね、と言って鼻歌混じりにさらさらと書き連ねていく様は、慣れ切った作業だと感じさせた。聞けば実家でこうした作業はよくしていたのだという。例えばパンが売れた数をまとめたり、アンケートの意見をまとめたり。今回は設問も三つだし、回答の傾向も大まかに可否その他で振り分けられるものばかりだから楽だよ、あとは雑談多かったしね、とその雑談の内容もざっくりと紙に書いているのだから、大したものだと妖精は感心した。本当にやり慣れている。
ルルクはあらかじめの言葉の通り、三十分程度でおおまかな筆記を終え、上から下までざっと目を通して立ち上がった。
「よしよし。いい感じにできました。さすが私! あとは明日、ソキちゃんが寝てる間にまとめれば、まぁいいでしょ」
『終わったのね? 寝なさいよ?』
「はーい。あっ、なんか甘いもの飲みたいな。それだけ作りに行っていい?」
妖精は心底うんざりした声で、好きにしなさいよ、と繰り返した。
『ただし、倒れたりしたらソキに影響があることだけは肝に銘じなさいな。あとは自己責任の範囲で好きになさい。歯磨きはしなさいよ!』
「はーい! おやすみなさーい!」
明るく笑いながら、足取り軽くルルクが出ていく。ほんとに寝るのかしらと疑いながら見送り、妖精はソキに視線を戻した。ぴくりとも動いた気配はなかったのだが、深く眠っているようで、目を覚ます様子もない。朝までは眠っていることだろう。夜中に目を覚まして、また悪さしなければいいんだけど、と呟き、妖精もソキの傍らに身を落ち着けた。瞼を閉じる。そのまま朝まで、ソキは眠ったままだった。目を覚ましてからは、ソキは昨日と同じように、積極的に言葉に手を伸ばした。やわらかな飢餓感を埋めるように、ソキは誰をも迎え入れ、大切に言葉を交わしてはひとり、ひとり、送り出した。朝から昼まで、昼から定められた眠りの時間までそうして、ぱったりと横になって即座に寝たソキに。くすくすと、ナリアンとメーシャは視線を交わして肩を震わせる。
「寝ちゃったね。やっぱり無理してるね、ソキったら」
「頑張ってるもんね」
「ね。リボンさんと、ルルク先輩が見てくれてるから、体調の心配なんかはしてないけど……体調といえば、ナリアン? 寮長の調子、どう? 起きて落ち着いて話とかできそう?」
ナリアンは、すい、と天井を見上げて沈黙した。ほんとーにやだ、という気持ちと、折り合いを付けているようだった。メーシャは友人の葛藤を微笑ましく見つめ、その視線がよろよろと墜落してくるのを沈黙と共に待ち構える。やがて、ふ、と疲弊した笑みを零して。ああ、うん、とナリアンが抑揚に乏しい声で言う。
「いいんじゃないかな……。たぶん……。骨は折れたままだけど熱は下がっ、てない、けど、いや、うん……下がることもあるし……熱があろうとなかろうとたいして状態変わらないみたいだし……。あんまり仕事を与えないでいると脱走しかねないって理由で、寮内の一連の報告書とか読んでたし。精神的には落ちついたらしいし」
「ひとには言うけど、寮長も自分では休むの苦手にしているよね。困ったね」
「骨くっつけると即座に動いてあれこれしそうって理由で白魔術師に治療拒否されてるんだからそこの所をよく考えて反省できるようになるまで何度か骨折れればいいのに」
メーシャはそうだね、とは言わず、やや虚ろな目になるナリアンの肩を、強めに幾度か叩いてやった。
「よしよし。ナリアン、プリン食べに行かない?」
「行く……」
「よし、行こう。……それじゃあ、また、リボンさん。ソキによろしく」
妖精は無言で、追い払う形に手をひらつかせた。なにをしに来たのか分からなかったが、理由はなく、ソキの顔を見に来ただけなのかも知れない。あの二人もあの二人でもうすこし休ませなければ、と悩みつつ、妖精は健やかに眠るソキを見て頷いた。ナリアンの言葉からひとつ情報を拾い上げ、妖精は確信する。恐らく、明日には。ひとつ、ソキの願いが叶うだろう。
妖精とルルクの予想とは異なり、その日、ソキが昼寝から目覚めた午後は緩やかなものだった。訪れる者がいなくなった訳ではないのだが、それまでの連続した来訪とは異なり、ぽつりぽつりと現れるばかりで。結局、ソキは夜ごはんに行くので今日はもうおしまいです、閉店です、とするまで、四人を数えるのみとなった。その四人も、特別なにかを話しに来た訳ではない。ソキちゃん元気にしてるお昼寝したから顔色よくなったねよかったよかったそれじゃあまたね、と通りすがりに声をかけたくらいのもので、腰を据えて三分、きっちり話して行ったのは四人のうち一人だけだった。明らかに数が減っている。
誰かが口を挟んだりしたのかしら、と首を傾げたのは妖精である。ルルクはよく煮込んだミネストローネにかたいパンをためらいなく突っ込みながら、そういう感じでもなさそうだったけど、とソキを見る。
「ソキちゃんはなんでだと思う? なんか起きてから、人の来方が妙にすくなかったよねぇ? そんな気しない?」
「んん? ソキもその食べ方をする! ソキも! スープにぺちょぺちょパンにする!」
『もうちょっと美味しく聞こえるように言いなさいな。……一応確認するけど、ロゼアがいい顔すると思う? これ』
ルルクは妖精の指摘に、す、と視線を反らしてソキの服の袖をまくりあげた。膝の上にもう一枚布を引いて、まあこのあとお風呂だし、と呟いて、ソキにはひとくち大にちぎり直したパンを、スプーンと共に受け渡す。
「堅焼きのパンはスープでびたびたにすると美味しいっていうのは、古来からの言い伝えにある通りだから」
『アタシの目を見て言ってみなさいよ』
「ソキはスプーンなの? ルルク先輩は手で持って、おくちであむ、ってしているです。ソキもあむっとするぅソキもそきも」
ソキは噛み千切れないでしょうが素直に切ってもらいなさいよくよく噛んで食べるのよいいわね口に入れる前にちゃんと冷ますのよ分かったわね返事は、はぁいですぅう、えーっとなんて書けばいいかな今日はミネストローネとパンを食べましたパンが堅かったのでパン粥みたいにして食べました情状酌量の余地は十分にあると認識しておりなにとぞ寛大な是非をお願いいたしますで許されるかな許されたいなうふふふふ、許さないとか言われたら独房なんぞに入ってるからそういうことになるのよ反省しろ二度とするなって言ってやればいいんじゃないの、切れ味があまりに鋭くて致死量を超えるというかそれ私かロゼアくんのどっちかが死ぬと思うし可能性でいうと十中八九私しか死なないからただただ普通に許されたい。
残りの一と二の可能性ってなんなの、ソキちゃんを巻き込んで共倒れというか全滅というか、アンタたちなんで食事一つでそんな大惨事になるのよ、どうしてかな私にもよく分からないんだけどロゼアくんにも譲れない主義主張はあるだろうしそれは存分にのびのびと主張していいと思ってるんだけどそれはそれこれはこれ些細な間違いというか解釈違いを許していく寛大さが欲しいなって思ってるあー許されたまえ許されたまえほんとマジ、アンタどこで呼吸してるのそれ、エヘヘ、えへへじゃないのよ息してるのかって聞いたのよアタシは、ソキスープをぜぇんぶたべたぁーっ、ごちそうさまでしたです、おなかがいっぱいなったです、えへん、えへへん。
にぎやかに、軽やかに。交わされていく言葉の間に、ソキのほわほわとした、甘い、満足げな声がにじんでいく。食堂の空気は晴れやかだった。夕食時とするにはすこし早い、外も暗くなりかけた時間であるから、窓から差し込む光もまだ真昼の眩さを残している。そこに、たくさんの声があった。全員が急に活動的になった訳でもないから、食事の配達へ忙しく動き回る厨房方の姿がなくなった訳ではない。けれども、ぐっと数が少なくなっていた。ひとりきりではなく、ふたりだけではなく。誰かと、同じ空間で。誰かと、おなじものを食べる。そのひとときを、共有する。それが常ある、『学園』の食堂の姿だった。ソキの目に映る光景は、だいぶそれに近づいていた。
いつもよりは、まだ寂しく。いつもよりは、違和感も残っているけれど。明日ではなくとも、明後日よりは遠くとも。もうそう遠くないうちに、ここは普段通りの姿を取り戻すのだと、思える。そう信じられる、風景。うふ、と思わず笑みを零したソキに、機嫌が良さそうでなによりだこと、と妖精はそっと注意を向ける。それを口にして指摘することはしなかった。ソキの体調も、精神も、ずっと綱渡りをしていることは確かだったからだ。祈るように。いま見える平穏を壊さないように。そっと、そっと、ルルクも、だから言葉を選んで声をかける。
「よし、じゃあ、お腹いっぱいなら、お風呂へ行こうか? ゆーっくりのんびりして、夜はお部屋でごろごろしよ?」
「ごろごろしないと、だめです?」
駄目、という程のことはない、とルルクは思っているのだが。ソキの体調を考えると、ゆっくりするのが最善であることに間違いはない。活動的な気分なのだろうか、とルルクはすこし首を傾げて、なにかしたいことがあるの、と問いかけた。あえて聞いたのは、ソキの声が切羽詰まっておらず、妙な野望にきらきらと輝いてもいなかったからだ。ロゼア関連ではないな、という直感的な判断もあった。妖精が無言でルルクを支持し、なりゆきを見守る中、ソキはもじもじと指をこすり合わせた。くちびるをつむ、とさせて、ん、ん、と言葉をけんめいに編み込んでいく。
ん、んと、んとんと、えっと、あの、あのね、あ、あのねぇ、と。あまく、あまく、いとけなく。やわやわと響く意味なき言葉は、やがて、それでもはきとした形を成し。ソキはえいっと顔をあげると、あのね、とルルクにしっかりと視線をあわせ、いっしょうけんめいに主張した。
「ソキねぇ、あのね、明日からの計画をね、たてるの。いろいろね、考えてね、それで決めたの! ソキ、ソキ……ソキ、りょ、りょうちょの、おみまい……おみまい、する! し、したい、です!」
「なるほど」
なる、ほど、と言葉を繰り返し、ルルクはすぅっと息を吸い込んだ。一瞬にして静まり返った食堂は、誰も彼もがソキに意識を向けていたことの証明だ。表面的な穏やかさは、未だ各々が努力して引き寄せているものにすぎず。その中でのソキの言葉は、各個人が穏やかに受け止めるには、難しかった。いい、とも。いけない、とも言わず。言えずに。ルルクはよぉしっ、とあからさまに元気いっぱい、椅子から立ち上がると、満面の笑みで宣言した。
「ちょっとこの話題先送りにしよっか! 先にお風呂はいろ! やー、なんだか今すぐソキちゃんとお風呂に入りたくなっちゃったなー。なににも優先してソキちゃんとお風呂に入りたいなー! どーしてもどうしても今すぐ今すぐいますぐ! ひゅー! この話題はちょっと私ひとりじゃ手に負えなくて胃に穴が開きそうだし許されたい! 許されたい! なにもかも!」
「んん? ……だめなんです?」
「えぇえっとねぇ……。そ、それについての、ありとあらゆる話を、今ここではしたくない、です。……とても、すごく、たくさん、困っています」
分かって、と訴えるルルクに、ソキはあっさりと頷いて、口を両手でぺちんと押さえた。うふん、もの分かりのいいソキですからね、困らせちゃうのはいけないことです、と言うソキに、妖精は息を吐きだした。
『その調子で、この発言を今しても誰か困ったりしないかな? くらいに思慮を深めて生きて行きましょうね……。どうして落ち着いた所に着火しようとしたのよ……ルルクによくよく感謝してお風呂入りましょうね……』
「はぁい。ソキ、お風呂はいる」
「ありがとうありがとうね……! うぅ、危なかった……。世話役の講習を受けてなかったら即死する所だった……。えーっと、えーっとどうしようかな……。どこがいいかな……。談話室だとちょっとだし、ロゼアくんの部屋だと手狭……。詰め込めばなんとか行けるかな……。えーっと、ナリアンに寮長の体調の確認をして、アリシアには来てもらって……ガレンに根回ししてユーニャに助けてもらおう……。あとお願い私を見捨てないで傍にいて……。病める時も健やかなる時も離れないで傍にいてソキちゃんを止めたり怒ったりして……」
妖精はすがってくるルルクを極めて嫌そうに一瞥したのち、指先を蹴飛ばしてひらりと空へ舞い上がった。ソキに必要だと判断したら、その分の助けはもちろんしてやらんこともないのだが。
『アタシはアタシの判断で好きにするわよ。あてにしないでちょうだい!』
「あっ、リボンちゃん! ルルク先輩をいじめちゃだめぇ!」
『いじめてないわよーっ!』
妖精の特大の怒りに、ソキがぴえぇと声をあげた。もちゃくちゃと逃げまどって食堂を出ていくどんくさい動きをこれ幸いと追いながら、出入り口で立ち止まったルルクは、誰にともなくごめん、と言った。あとで落ち着いたら結果をいい感じにまとめて談話室に掲示しておくから、うかつなことはしないからあぁあソキちゃん待ってお願い待って転ぶころ、転んだあぁああぁあっ、と声が、食堂から勢いよく遠ざかっていく。残された者たちは一様に、ただ、詰めていた息を吐きだし、顔を見合わせて苦笑した。それだけで。後を追う者はなく。怒りや、恐怖や、悲しみに。声を荒げる者もなく。文句を言う者も、終ぞ現れることは、なかった。
ソキが先達に向けた言葉は、みっつある。
ひとつ、ロゼアちゃんを迎えに行こうと思うんですけど、どう思いますか。
ふたつ、寮長のお見舞いに行くのは、いつが良いと思いますか。
みっつ、ソキは寮長に謝った方がいいでしょうか。
ひとつめに対する答えは、実に様々だった。否定的な意見が多く、けれども肯定的な意見も少なくはなかった。そうであるから、それを、ひとつひとつ。考えなければいけない、とソキは思っていて、それでも、迎えに行きたいという気持ちを失うことはなかった。ロゼアのお迎えは、いつだってソキの最優先である。けれども、最優先のまま、立ち止まらなければいけない、と思わせたのは、ソキに返されたたくさんの言葉がそこにあったからだった。どう思うか。なぜ、そう思うのか。ソキが本当に欲しかった言葉は、きっと、今すぐ行っていいよ、という許可だったのだけれど。そうでなくとも。向けられた言葉を、ひとつ、ひとつ、受け止めて、うれしいと思って、それをソキは、大事にすると決めたのだった。
ふたつめに対する答えも、実に様々だった。そもそも、寮長の状態が悪化もせず回復もしきらず、それでいて元気にしていて、たまに寝込む、という不安定極まりないものだったからだ。大多数がせめて骨くっついてからにした方がいいのでは、という一般的な判断だったが、寮長のそれはただの骨折ではない。折れたのではなくて、粉砕骨折であるから、通常の治療には膨大な時間がかかるものだ。痛みと熱で常時寝込んでいていいくらいの状態であるのに、なぜか元気に起き上がって動き回るので、白魔術師が逆に療養のために回復を拒否するありさまである。だからもう逆にいつ行ってもいいのではないか、という意見も、多かった。
みっつめに対する答えは、ソキの覚悟を問うものだった。謝った方がいい。謝る必要はない。意見は完全に分かれていて、どうして、とソキに問い返す者が圧倒的に多かった。なにもしていないよね、とソキは重ねて告げられた。ソキちゃんがなにかした訳ではないのに。ソキが、ロゼアに、そうせよ、と命じた訳でもないのに。当のロゼアがいま不在であるのに。なぜ、ソキが謝る必要があるのかと。誰もがソキに問いかけた。それに、ソキはすぐに言葉を返せず。考えても、言葉が見つけられず。苦しく、息を吸い込んで。ソキは、とだけ言った。
「ソキは……」
言葉は途絶えて。それきりだった。けれども、誰も、それを怒らなかった。促して、待って、それでも言葉がないと分かると。それきり、ただ、それを、誰もが許して受け入れた。ソキが目を逸らさなかったからだ。言葉が、意思が、そこにあって。そこに、確かにあって。形を成し切らないだけなのだ、と分かったからだった。みっつめの対応を保留にしたまま、どうすればいいのか分からないまま。その日、ソキは寮長を見舞う予定を組み立てて、行って良いかと問いかけた。返事は、すぐ。いつでも、とだけ書かれた紙片が、ソキのもとへ戻された。