前へ / 戻る / 次へ

 寮長の肩が粉砕された当日の夜を一日目と数えれば、ソキがお見舞いに訪れたのは七日目のことだった。実に、事件発生から一週間。慌ただしく、目まぐるしく、一瞬のようで永遠に程近い。儚くも終わりのない日々だった。いち、にい、さん、し、と過ぎた日を数えて、ソキは努めて冷静に、それがロゼアから離れた日数とも等しいという事実から、意識の焦点を丁寧にずらした。もうやだ、もうやだ、ロゼアちゃんに会いたい。ロゼアちゃんをかえして、ロゼアちゃんの所に行かせて。ロゼアちゃんは、ソキの、ところへ。ほんとうにもどってきてくれるのだろうか。ふとした瞬間訪れる、足元にぽっかり空いたくらい穴へ、落ちてしまわないように。奪われた怒りで塗りつぶした恐怖が、息を吹き返してしまわないように。慎重に、丁寧に、息をして。ソキはその日、隔離された保健室へ足を運んだ。
 寮長の容態は、悪くないが回復しきってはいないと聞く。正確にすると、回復させきってはいない、らしい。脱臼と粉砕骨折と全身打撲、というのが男に下されている診断で、当日の深夜に緊急会議に出席させる為、それに必要な分だけ回復させて、あとは自然回復を基本とさせる、という名目での放置なのだそうだ。看護と監視を兼任している白魔術師にそう説明されて、ソキはちょこりと椅子に腰かけたまま、りょうちょったらぁ、と甘くほんわりとした声でため息をついた。
「扱いが罪人に近いのではないんです……? ソキの知らない、なにか、とんでもない悪いことをしたに違いないでしょ。りょうちょ、あのね、自白の方がね、罪が軽くなるですしね、じょうじしゃくりょうのよちがあるんですよ」
「見舞いに来たんじゃないのかよ……」
「ふにゃん? ソキはお見舞いに来たんですよ。おみまいなの。りょうちょ、おかげんいかがです? お医者さまのいうことはね、ちゃぁんと聞かないといけませんですよ。それでね、お薬もね、がんばって飲まないといけないです」
 お姉さんぶった顔でつらつらと言い募るソキに、寮長は極めて適当な態度で頷いた。白魔術師がため息をつくのを見上げて、ソキは見知らぬ顔だとふと思う。恰好からして王宮魔術師。楽音から出張で来てくれていることは分かるのだが、『学園』にも保険室勤務として、複数の白魔術師が在籍している。なぜ彼ら、彼女らでは、ないのだろう。やはり国外から監視に来るような、なにかとびきりの悪いことを寮長はしたのではないだろうか。ソキにもあまり心当たりはなかったが、見知らぬ間に犯した罪というものは、本人にはどうしようもないことがある。
 不安と困惑の入り混じるソキの視線に、気が付いたのだろう。白魔術師の男は違うよ、と穏やかに囁いた。そういうんじゃないよ。
「確かに監視もしてるけど、絶対安静を守ってくれない相手を純粋に、ただ監視する意味でのことだから。罪人の逃亡防止じゃないんだよ。逃亡防止だけど、そういうんじゃないよ」
「……お兄さんは、でも、じゃあ、なんで、出張されてるの?」
「各国、白魔術師の持ち回りでね。ロリエスの精神も安定させてあげないと、という所かな。意図せぬ複数同時多発事故がこれ以上は、ちょっとね」
 ソキは、ふぅんと気のない声で頷いた。それを寮長は、こら、と咎めようとしたのだが。ソキの気のなさが、相手の気づかいを無碍にしたのとは違うと、すぐに気が付いて口を閉ざす。花嫁の面差しは、静かだった。寮長が知らない顔だと思うくらいには、滅多に表れない静謐さを保っていた。静まり返った水面のようだ。凍り付いてはおらず。ただ、ただ、ひたすらに、森の奥深く。広がる湖面が、風にすら揺れないように。満ちて、満ちたものが、それ故にぴんと張りつめて、そこへ留まっている。
 森の。うつくしい新緑の、宝石を宿した瞳が、ツバメが飛ぶようにすいと視線を動かして、白魔術師を見上げる。
「それは、寮長がお怪我されたから、花舞だけではなく、影響が出ている、ということです? ……いろんな人が、助けてくれてるの? 陛下たちはご存知?」
「『学園』だけで収めてしまうには、大きすぎる騒ぎだよ、これは。……だからと言って、なにか命令があってのことではない。今はまだ」
「ソキ。ロゼアが王から処罰されることはない」
 淡く息を吸い込んで。断言した寮長に、ソキの視線が移される。なんでですか、と問う言葉は淡く。弱くはなく、けれども響かなかった。それでも、震えてはいなかった。
「寮長。ソキは……ソキは、ロゼアちゃんが、なにを、して……しまったか。ちゃんと、ちゃんと、分かっていますよ」
「ふぅん? お前、ロゼアが悪いと思ってんのか」
 からかう声だった。ソキの視界が一瞬にして白く焼き切れる。処理しきれない怒りだった。暴虐的な感情だった。怒鳴り声より悲鳴に似た響きで喉が軋む。ちがうです、と歪んでぐしゃぐしゃの、それでも耳に甘い声が、空白ばかりが広がる保健室を揺らした。
「ソキは、わ、悪いとか、じゃ、ない、です! でも!」
「分かった。悪かった。今のは俺が悪かったから、落ち着け。……ああ、ほんとに分かってんだな、お前」
 きゅぅ、とくちびるを閉ざして。怒りを叩きつけることを堪えて。ソキはきゅぅ、とシルを睨みつけた。誰も彼もがソキをそうして疑う。こうやって侮る。なにが起きているのか理解していないのではないかと。なにが起こされたのかを、その罪の所在を。ソキは分かっている。知らないふりをした方がうんと楽だったことも。分からないふりをして、自分のことをも騙して、駄々をこねていた方が、もしかしたら上手く行くことだってあったかもしれない、その可能性も。無知は罪だ。無理解も罪だ。けれども白痴は、武器にすらなる。それを見抜かれることがなければ。
 ウィッシュがいるから、装いぬくのは無理だったろう。ジェイドが知れば怒られただろう。それでも、そうすることだって、ソキにはできた。やろうと思えばできたのだ。わからないふりなんて。理解しないでいることなんて。簡単だった。見なければいい。意識しなければいい。理解しなければいい。閉ざしてしまえばいい。待てばいい。それでいい。それだけで終わりまで、息を殺していればいい。やり方は魂の底までしみついている。『花嫁』として、ソキは何度もそうしてきた。そうすることが必要だった。どうしてもどうしても。無知と無理解を武器として。そうしなければいけない屈辱からも目を反らして。何度だってそうした。何度だってできた。何度だって。何度だって。離れない為なら。定められたその時まで、一緒にいるためなら。一緒に生きるためなら。
 ソキはなんだってできた。ロゼアと共にあるためなら、そう、どんなことだって。今だってできる。ソキはロゼアのためならなんだってできる。ロゼアと共にあるためならどんなことだって。ふたりでいたい。ふたりきりでいたい。ずっと一緒にいたい。でも、ソキはもう。ふたりきりの、外側にある世界が。うつくしいことを知ってしまった。そこへふたりで行きたいと思ってしまった。だからこれはきっと、ソキのわがままで。ロゼアのいる所ごと救いたい、ソキの祈りなのだった。ソキはシルを見て、分かっているです、と重ねて告げた。悪かった、とまた、謝罪も再び告げられる。
「……陛下たちからは内密に、喧嘩両成敗ということで、『学園』の中で話をつけるように、と命令が下っている。それができなければ、大事にするしかないってことだ。ロゼアの意思確認はされないままだったが、俺はそれを是として返事をした。ソキ、お前に先にこれを言うのも妙なことではあるんだが……」
 続きを。ただ、事実として受け止めている声で、シルは告げた。
「俺が悪かった。……悪かったが、いかなる事情があれ過剰暴力だ。やりすぎ、という所はロゼアに認めて、謝罪してもらう必要がある……んだが、なんだその顔」
 口開いてるぞ、と言われても、ソキはぽかんとあいてしまったくちびるを、閉じることができなかった。まじまじと目の前の男を見る。寮長である。ソキはきょろりと白魔術師の男を見た。視線を寮長へ戻す。きょと、きょと、と何度か見比べて。どうして見比べたのかも分からないまま、ソキはえっ、と声をあげて寮長を凝視した。なぜか間違いもなく、そこにいるのはシルだった。
「え……お、お熱……おねつ……? い、意識が……あ! 頭が……っ?」
「ソキお前俺に怒鳴りつける元気と動ける両腕が封じられていることを感謝しろよ……!」
「絶対安静を守れず抜け出そうとする意識をいつまでも持ち続けているから、監視が必要なんですよ反省してください?」
 ひややかにかけられた白魔術師の言葉に、シルはだって、と言いたげな顔で、それでいて視線をそらした。
「俺が原因の動乱だろうよ。本人が行けば、多少落ち着くものだってあるだろ」
「時期尚早です。ふつうに安静にしてろ。……意識を保った監視は、ただの慈悲ですからね? 昏睡させておく方が、こっちとしてはずっと楽だということを、お忘れなく」
「……りょうちょ、わるいって、おもえた、ですね……?」
 お前はほんと俺のことをなんだと思ってんだソキ、いやこれ普通にあなたの素行だと思いますよ積み重ねた信頼の結果がこうというだけでしょう、俺だって悪いと思うことはあるし謝ったりもするしソキに謝ったこともあるんだが、ハッキリ指摘するとあなたとソキの間にはまず根本的な信頼関係が築き上げられてないということではないでしょうか、うぐっ、おや心当たりのある顔をしてる。頭の上をするする行き交っていく言葉を、なんとか拾い上げて。ソキは、不安にまみれた顔で寮長を見た。そういえば、とは、思うのだ。そういえばこの男は、花婿たるウィッシュが、あれほどまでに好意を捧げていた相手であるのだと。信頼するだけのものが、ウィッシュの目から見て、ある、ということなのだと。思いはするのだが。
 え、えぇえですぅ、と零れていった疑惑の声に、白魔術師は天を仰いで笑い、シルは悔しそうな面持ちで眉間にしわを作った。
「……嫉妬に狂った挙句、無理解故とはいえ、相手をあまりに尊重しない発言だった、のは、どう考えても俺が悪いだろ」
「ぴっ! ろ、ロゼアちゃんは、ロゼアちゃんはソキのですううぅ!」
「お前らじゃねぇよ安心しろ!」
 ついに白魔術師が腹を抱えてしゃがみこむ。笑いすぎて、立っていると危なかったらしい。それを気に留める余裕もなく、ソキはおろおろとして寮長をみた。
「い……いまは、ロゼアちゃんと、ソキのこと、分かってくれてる、の?」
 寮長は、いったんはそれに答えなかった。分かっている、と告げられる程に理解したとは思えず。分からない、と伝えてしまえる程には、無理解でもないという自負もある。追々な、とだけ告げた寮長に、ソキは静かな仕草で頷いた。なぜだか、まっすぐに、その言葉を受け止めることができた。あのね、とぽそぽそした声で、ソキは聞いてくれたらおはなしするですよ、と言った。ソキはきっとね、聞いてくれないとね、わからないの。寮長がね、なにがわかんなくてね、ソキがね、なにをわかんないと思われているのかね、全然わからないの。いっしょうけんめい考えたですけどね、でもね、それが間違っているかもしれないからね、そういう間違いはね、だめだから。わからないの。
 だからね、ソキはね、聞いてほしいの。分かるようにお話できるかは、わからないですけどね。でも、ソキはおはなしをするの。おはなしが、できるの。わかったですか、と贈られた言葉に、シルは分かった、と頷いた。お前ほんとうにひとりにしとくと、わりとできるしちゃんとしてるんだよなぁ、ソキはもうだめですそのことについてはかんがえないよにしてるから言わないでほしです、分かった悪かった。ずびび、と鼻をすすって、ソキはくちびるを尖らせた。もうそろそろお見舞いおしまいにしよですぅ、と思っていると、シルが最後にひとつ、と問いかけてくる。顔が赤かった。
「……なんに対しての嫉妬だったか聞かないのか」
「ロゼアちゃんじゃなくて、ソキじゃなかったら、もうお兄ちゃんしかいないですぅ……。お兄ちゃんのことはね、あきらめるといいですよ、りょうちょ。お兄ちゃんはね、あっソキもなんですけどね、うんと一番に好きなひとがいるですからね、そのひとじゃないならね、一番にすきすき! ってしてくれないとね、いやなの」
 うずくまった白魔術師が、ごふっ、と笑いに咳き込んで動かなくなった。俺はいまもしかしてソキに遠回しに二股を咎められるようなことを言われなかったか、いやうん気のせいだな、寝よ、という顔をして、シルがぎこちなく頷く。それに、ふんすと鼻を鳴らして頷きかえして。ソキは、それじゃあね、と言って、椅子から滑り降りるようにして立ち上がる。お見舞いの終わりだった。



 ソキは結局、寮長にロゼアが怪我をさせたことについて、謝罪を口にしなかった。謝らないと決めた訳ではない。今、ロゼアより先にソキがそう口にすることは、ただ自己満足だという結論を下したからだった。それは先輩たちのたくさんの意見を決めて、そこからは誰に相談することもなく、ソキがひとりで決めた気持ちだった。謝らない、お見舞いには行く。落ち着いて、もっと色々、『学園』も、寮長も、ロゼアもソキも、気持ちも状況も、怪我も、なにもかも落ち着いて。そうして向き合えた時、ソキはシルにだけ、そっと、ごめんなさいと言うつもりだった。妖精はソキの考えに、いいんじゃない、とだけ告げた。そうしなさい、と背を押すのではなく。こうしなさいな、と助言するでもなく。あるがまま、そっと、認めてくれたことが、ソキには嬉しかった。
 詳細は伏せたままで、ソキはそのことを、ルルクやアリシア、ナリアンにもメーシャにも伝えていた。お見舞いには行く。謝らないで行く。ひとりで行く。ルルクも、リボンちゃんも。一緒じゃなくて、ソキだけで行く。だって監視兼の看護はついていると聞くけれど、シルはひとりで療養しているのだという。それならばそこに、ソキが誰かについてきてもらうのは違う気がしたのだ。誰もがそれに積極的な賛成は示さなかったが、最終的には部屋の前まではついてきて、室内にはソキひとりで入る、ということで合意となった。そうであるから、ソキは保健室の扉をぱたんと閉めて、歩き出すことはなく、すぐに廊下をきょろりと見まわした。右、左、と確認して、もう一度右を見て、あっと声をあげてそちらへ歩んでいく。
 右の廊下の突き当り。階段下の踊り場に、椅子と机を持ち込んで、ルルクとアリシアが向き合って座っていた。ソキの妖精も、その頭上に浮かんでいる。
「リボンちゃぁん。ルルク先輩、アリシアさん。ただいまーですぅー」
『よちよちにこにこしちゃってまぁ……。体調はどうだったの? ちゃんと話はできた?』
「あのねぇ、あのね。りょうちょったらね、絶対安静ができないからね、昏睡させないでね、起こしといてあげてるからね、監視がついているです。お元気だたです。おはなしも、ちゃんと、できたです! えへん!」
 妖精はしばし沈黙し、ソキの説明を何度か頭の中で繰り返した。ルルクはふんふんなるほど、と言いながら慣れた仕草として手元の紙にソキの説明を書き写し、アリシアは最初からその筆記を覗き込んで読み上げる。ソキは空いていた椅子にちょこりと腰かけて、目をきらきらさせながら足をふらつかせた。
「あのねぇ、あのね。怖いことなかったですよ。大丈夫だたです。あのね? それでね、ソキはね、頑張ったです。それでね、ほっとしたらね、なんだかおなかがすいちゃったです。おなかーがー、すいた、ときーの、うたー、ですぅー。おなかがすきす……あっ! あ! ソキ、りょうちょにおみまい! 渡すの! 忘れちゃったですうぅうぅぴやぁああんっ! ど、どっど、どうしよ、どうしよです……! ……おいしそです!」
『食欲に目が眩むんじゃないわよーっ! 恥ずかしかったら監視役を戸口まで呼んで、そっと渡したらいいでしょう? ね、そうなさい。今すぐが行きにくいんだったら、また午後の……おやつの時間にでも行けばいいでしょう』
 あわあわとしながら下げていたちいさなポーチを探り、飴の小瓶を取り出してじっと見つめるソキを、妖精は即座に叱責した。はぁい、わかってるもん、リボンちゃんの言う通りするもん、ほんとだもん、と言いながら飴から視線を外さないソキは、朝食をほとんど口にしなかった。気持ちが悪い訳じゃないの、元気がないのとも違うの、でももうおなかがいっぱいなの、と言って、ぬくまったお茶とちいさなビスケットを二枚、かりかりとかじって、それきりだった。緊張していることを指摘すれば、崩れそうだった。だから、妖精もルルクも、アリシアも、なにも言わなかったのだが。
 よかったね、とだけ告げて、ルルクはそっとポーチにお見舞いの飴をしまい込ませてから、入れ替わり、ソキの手に朝食と同じビスケットを握らせた。ルルクの手製であるが、製法はロゼアの帳面から引っ張ってきたのだという。それをソキはもぐりと口に含みながらも、不思議そうな顔をしてかりかり齧っている。ロゼアちゃんの味がするのにロゼアちゃんのがおいしです、げせぬ、と思っている顔だった。
「食べたら早めにお昼をお願いできるか、ちょっと聞いてくるね。すぐに戻るから、アリシアはソキちゃんと一緒にここにいてくれる? 机と椅子の片付けは、戻ってきたら一緒にするからね!」
「ルルク? ソキちゃんは妖精さんが見てくださっているでしょうし、私も一人でこれくらい」
「私がアリシアと一緒にやりたいなって言ってるの。ね? いいでしょう? それに一人で片付けして、もし怪我なんてしたら、この机と椅子の今後の保証はいたしかねるっていうか……焼却かな? 破砕かな? みたいな」
 アリシアは一度目を伏せ、音なく茶器を持ち上げて唇を湿らせた。うぅん、と呻きとも、迷いともつかない音がこぼれていく。
「……あなた最近、私にまで過保護ではない?」
「私がアリシアに本気で過保護したらこんなもんじゃないってこと、ロゼアくんを見ていて分からない?」
「ルルク。ソキちゃんと私は、その、前提もなにもかも違うでしょう……? よくよくもう一度考えてみなさいね? いい? 学んだことがあるからと言って、なにもかもを日常生活に生かそうとしなくてもいいのよ? 向上心と好奇心をはき違えてはいけないわ」
 好奇心に目をきらんきらんに輝かせ、ソキはきゃふふふふっ、とふたりを密かに見比べた。いきなり痴話喧嘩はじめるんじゃないわよ、と白んだ目で息を吐き、妖精は足をちたちたぱたたとさせて興奮するソキに、いいこと、と小言交じりに言い聞かせる。
『食べたら行くわよ。巻き込まれる前にね』
「リボンちゃ? ソキ、ルルク先輩のいう通り、お戻りになるまでぇ、ここにちゃぁんと座っていられる、良いソキなんでぇ」
「えーっと、じゃあそういうことだから、待っててね?」
 苦笑しながら立ち上がったルルクに、ちょっと、とアリシアが声をあげる。ルルクはただ静かに距離を詰めた。座ったままのアリシアに身を寄せて、額を重ねて目を覗き込む。両腕は甘えるよう、アリシアの首筋と肩に絡みついていた。
「怒んないで、アリシア。……大事にしたいだけ」
「ちょっ……っと、ルルク、あの」
「大好きで大切な相手に、どういうことができて、どうすればいいのかを教えてもらったから。つい、アリシアにもいっぱいしたくなっちゃうだけなの。ねえ、いいでしょ? 大事にしたいの。大好きだもの。ねえねえアリシア? いいでしょう? ね?」
 息をするのが精いっぱいという面持ちで、アリシアがぎこちなく、首を縦に動かす。やったぁ、と明るく笑って額に口付けて、それじゃあ行ってきまーす、とルルクがたかたか廊下を走っていく。いつもならその背を追う、走るんじゃないの、という声はいつまでも響かなかった。きらんきらんのわくわくのおおはしゃぎでじーっと見つめてくるソキに、しばらくしてアリシアは、弱々しく、ちがうの、と言った。
「違うのよ……。あの子は昔から、ああいう所が……あって……。わたしが、あのこの、かおに、よわいからって……。ど、どうしてあんな風に育っちゃったのかしら……昔から今までずっと、あんなに可愛いだなんて、どうして……なんの奇跡なの……」
『アンタがはちゃめちゃにルルクの顔が好きで、弱いってことはよく分かったわ』
 そして十中八九、ルルクはそれを理解している筈である。結婚はルルクに押し切られたのかと思ってたけど、と妖精はうんざりと息を吐く。アリシアがこうなら、なにも心配することはなさそうだった。ソキはまじめな顔をして、昔可愛いなら今もうんと可愛いんですよぉソキだってそうでしょぉ、と自信満々に言い放った。きゅふん、と幸せそうに笑って身をよじる。
「ルルク先輩が幸せそうで、ソキはとってもうれしです! アリシア先輩にはぁ、ルルク先輩のどういう感じにどきっとしてぇ、ときめきを感じるか、詳しく教えてほしいんですけどぉ。特にその、お顔がすきすきで、言うことを聞きたくなっちゃうあたりとかぁ、どういう時に、どういう風に、どうされるといいのかぁ、ソキに教えてください!」
『辞めなさいよかわいそうでしょうが……!』
 顔の使い方くらい、他にも聞けるヤツがいるでしょう、と言いかけて、妖精は嫌なことに気が付いて沈黙した。一番手っ取り早いウィッシュは、顔を近づけてにこっとすれば大体大丈夫だよー、ソキだってできるだろー、くらいのふわふわした話しかできないだろうし、歩く事故物件と名高いジェイドは、詳しい所は俺にもよく分からないんだよね、と心底思っていそうな悪質さを持っている。リトリアはそもそも論外だし、ロゼア本人に聞いた所で、そういう質問が発生した事実自体を記憶から消して来そうでおしまいだった。ソキがいやいやレロクに聞いたとて、満足の行く答えは得られないことだろう。意図的に顔の良さのみで相手をたぶらかす、というのは、つまり『花嫁』『花婿』のやりくちと、似ているようで全く手段が異なるのだった。
 もしかしてルルクがソキの傍で世話役なんていうものをしているのは、教育に結構な悪影響なのではないのだろうか。ロゼアがうっすらと感じている事実に直面し、妖精はひとまず、その問題を彼方に投げて忘れることにした。どうあれ、妖精がひとりで立ち向かうには重すぎる問題である。最終的にはロゼアの好みに合うか、という所もあるだろうし。ねえねえ、ねえねぇ、とソキが机から身を乗り出すのを眺め、妖精はあまりアリシアを困らせるんじゃないわよ、と控え目の注意をした。
『それより、ロゼアのことはどうするのか決めたの? もうちょっと待つか、懲りずに迎えに行くか悩んでたじゃない』
「ソキとしてはぁ、きょーこーとっぱ、しちゃうのがぁ、だいいちきぼう、なんですけどぉ」
『ソキ? わざとちゃんと発音しなければ、見逃されると思うんじゃないのよ? それくらいなら通じますからね? アタシにも、アリシアにも』
 ぷっぷくぷーっ、と頬を膨らませるソキに、アリシアからはほのぼのとした視線が向けられた。ルルクでの疲れをソキで癒そうとするあたり、コイツもしかしなくても面食いだな、と妖精に思われていることを、アリシアは知らない。
「むー、むぅ……。だってぇ、ソキはロゼアちゃんに会いたいんですから、これはもう仕方のない意見の衝突、見解の相違、理解の不一致、というやつでは? ソキは会いたいのに、ダメって言われるです。かなしいことです。だからね? 最終的には強くごちんとする方が勝つですよ。諦めないでいる気持ちと、突破力があれば、ソキは見張りをかいくぐって侵入できると思っているです!」
『秩序ある法に乗っ取った行いをなさい! 対話での解決を諦めるんじゃない! 相談してまで出した結論がそれなら、アタシにだってそれなりに考えがあるわ……!』
「ソキはぁ、いま、第一希望のおはなしをしただけ、だもん。ソキ、ちゃんと考えたもん。ほんとだもん。ほんとだもん」
 ただ、うっかり第一希望が通るようであれば、その通り諦めず強行突破を仕掛けようとしていただけで。いじいじと指をつつき合わせ、ソキはちゃんと相談してもらったから、けんめいに、たくさん考えたんだもん、と言った。
「でもでも、ソキはもう一週間もロゼアちゃんなしなんだもん……。一刻も早く、温情のある行いがあってしかるべきでは……?」
『ソキ?』
「ぎゅうぅうぅ……! う、うぅ……。ほ、ほんとの、ほんとに、考えたんですぅ……。だって、先輩たちは、みんな、たくさん、ソキがロゼアちゃんに会うのは、だめって……だめって、いう……。お迎え、よくないよって。ソキは、ロゼアちゃんをお迎えに行きたいのに、ソキは、したいですって、思ってるのに。みんな、それはだめだよって、したらいけないと思うよって、ソキに、いう……」
 珍しく。事実誤認の集計無視をして結果を捻じ曲げたりしていないな、と妖精は思った。アリシアにしてみても、ソキがそう言うのは意外なことであったらしい。あら、と感心した声で呟いて、静かに言葉の続きを待っている。ソキは悔しくて、悲しくて、ぐちゃぐちゃになった、傷ついた顔をして、すすんと鼻をすすり上げた。きっと、みんな、いいよ、と。ソキに言ってくれると思っていたのに。
「ロゼアちゃんは……りょうちょにお怪我をさせて、自主的に、独房に行ったです。逃げちゃた、て、いう先輩も、いたです。それで、それで、だから……。だから、ソキがお迎えに行くとね、反省したから、もういいよ、って。そういうことになりかねない、からね。迎えに行っちゃだめだよって。独房に入れるのは、最大でも十日間だから、もう数日もないし、出てくるのを待って、おかえりなさいって言ってあげるのが一番だよって。……ソキが、ソキが、許しちゃいけないよって。ロゼアちゃんがひとにけがをさせたことを、ソキが、ゆるすことに、なりかねないから、そこを肯定しちゃいけないよって。迎えに行っちゃいけないよって……」
『ふぅん? 中々、正確に言われたことの理解ができてるじゃないの。ソキ』
 その上で、第一希望として強行突破を持ってくるのがソキである。そう言われて、それでも、ロゼアに今すぐどうしても会いたい、と。口にして、態度にも出して、実行しようとするのがソキである。いざやる前に報告してきただけ、今回は進歩したとみなしてやれなくもない。
「……それで、だから。……だからね、ソキ、ソキ、これからすることを、考えたです! これは、相談して、ソキが考えた、こと、です。ソキの、ソキだけの気持ちは、第一希望の強行突破なんですけどね、相談をして考えた、今日これからのソキのしたいことはね、ちょっと違うの」
『強行突破とちょっと違うことってなに? 不安しかないのだけれど?』
「ふふん。大丈夫ですよぉ、リボンちゃん。ただ、隙あれば、かいくぐって、ソキはロゼアちゃんに会いに行けたり? しちゃうかも! なんですけどぉ、それを目的としたことじゃ、ないんでぇ」
 いや不安しかないわこれ、と妖精は真顔で言い放った。いいから中身を教えなさいなにするつもりなの、と問い詰めるより先に、ルルクがお待たせー、と戻ってくる。とりあえず片付けちゃおうか、と談話室へ机と椅子を戻そうとするのを眺めながら、妖精は、ソキになんとしても詳細を説明させなければ、と思った。



 元気いっぱい早めの昼食を平らげたあと、ソキは今のうちですぅと保健室にちょこちょこと駆け戻り、戸口から顔だけ覗かせて白魔術を呼んだ。幸い、寮長は眠っていて起きもせず、ソキは首尾よくお見舞いの品を受け渡すと、その足でちょこちょこと談話室へと向かった。ソキの意識として、これはもしかして走っているつもりなのかしら、と妖精がまじまじと見つめ、ルルクが手を繋いだまま緊張気味に並走する、慌ただしい動きだった。ソキははふはふ息切れしながら談話室の端、いつもの定位置に辿り着くと、すぐさまソファに横になる。
「おやすみなさいです! ソキ、お昼寝するんでぇ、おやつの時間には起きるですからね。おやつはねぇ、んと、んと、起きたらソキが考えるんで、いくつか用意しておいてください。よろしくです」
『……ソキ? 寝るの?』
「いっぱい食べてよぉく寝ると元気になるです。おやすみなさいです」
 ふふん、と自慢げに言い放ち、ソキはすぐさま目を閉じた。ふわふわの睫毛が、まぶたに淡く影を落とす。すぴ、すぴ、すぴりっ、と寝息が聞こえるのは実に早かった。妖精は無言でルルクと視線を交し合い、これなんか絶対企んでるヤツよね、はい、という意思を確認する。疲れ果てたとか、体調不良だとか、そういうことではない。午後に活動する為の体力回復のため、さっさと眠っただけである。いいことなんだけど、とルルクは額に指先を押し当てて呻いた。
「ふ、不安……! なにも聞き出せなかったし……! 午後は私ひとりしかいないし……」
 アリシアの空き時間は、午前中のみである。『学園』の空気はだいぶ落ち着いたとはいえ、混乱と恐慌状態が消えてなくなった訳ではない。いまは全員が、意図して凪の空気を作り上げていて、表面的な穏やかさが漂っているような状態だ。寮内自治会議にて求められた、相互理解の為の活動は、ずっと続いている。顔を見て挨拶をして、ひとこと、ふたこと、言葉を交わす。それだけでも、強張ってヒリつく心をそっと癒すことがあるのだと。その時、その瞬間には分からなくとも。振り返って、確かに、そうした行いに救われていたのだと。知っているから、だから、とアリシアは『学園』中をゆっくりと散策しながら、穏やかさを刺激しないよう努めながら、暗く深く沈んでいこうとする気持ちに、手を差し伸べ続けている。
「メーシャもハリアスも忙しいし、スタンとガレンはソキちゃんとちょっと相性がよくないし、ユーニャにはガレンの補佐でそっちにくっついてて欲しいし……。仕方ないか……! リボンちゃんさん、一緒に頑張ろうね!」
『もうすこしマシな呼称を考えなさい!』
「親しみと尊敬をほどよい距離感で包み込んだのにっ? だっていつまでもソキちゃんの妖精さん、とか。花妖精さん、とかだと他人行儀だし、かと言ってリボンちゃんって呼び捨てするのはためらいがあるし……」
 ルルクが極度の疲労状態で頭が停止しかけている可能性を考え、妖精はいきなり怒ったりはしなかった。慈悲である。息を吸って、吐き出して、妖精は思い悩む魔術師のたまごに問いかける。
『確認からしてあげるわ感謝なさい。アンタ、アタシの名前をなんだと思ってる? 言ってごらんなさいな?』
「花妖精さんの本名は置いとく話? ソキちゃんからの呼称としてなら『リボンちゃん』が名前でしょう?」
 実の所は。本当に、嘘偽りのない、真実としては。ルルクの認識が大正解だった。ソキが出会った瞬間に定めた呼称は、リボンちゃん、である。名称としてのリボンに、かわいいからちゃん、がついている、という形式ではない。ちゃんまでくっついた、ひとつながりの呼称として、存在しているのが真実だった。妖精たちはそれを察した上で、さらに愛称めいた呼びかけで「さん」や「先輩」をつけて変形させている。ロゼアやナリアンがそれらに倣い、リボンさん、と呼んでいることも誤解を招くもとだったろう。妖精はいままで、あえてそれを口にしなかった。ちゃん、まで含めて呼び名で登録されてしまっているなど、事故めいて不本意であることは確かだったからだ。ルルクが気が付いているのは、守護星が四つもある異常特殊型の魔術師だからである。
 妖精は聞かせる為に舌打ちを響かせ、いいこと、とルルクを睨みつけた。
『変形を甘んじて許してあげるから、それ以外にしなさい』
「えぇ……。うーん……じゃあ、リボンさん先輩、とか」
『コイツもしかしなくても手強い馬鹿ね? という感想を抱かせないでちょうだい』
 だってソキちゃんの契約妖精さんっていう存在に対する敬意とかがこう、いっぱいあってねっ、と言い募るルルクに、妖精は首を横に振った。そんな呼びかけには返事をしたくない。妖精さん、という個体識別のない、間違いのない呼称があるのだし、もうそっちで呼んでほしい。
『……まあ、アンタがアタシに用事があって話しかけたい時なんて限られてるだろうし、注意を払ってあげることにするわ。感謝なさい。だから呼びかけないで』
「えっそこをなんとか……! リボンちゃん先輩……!」
『アンタここ数日の睡眠時間は平均してどれくらいな訳? ソキが起きたら起こしてあげるから、いったんここで寝なさい。これは提案じゃないわよ? 言ってることが分かるわね?』
 呪いで強制的に意識を落とされる前に自主的に眠りなさい、という宣告である。ルルクは無言で指示に従い、ソキの眠るソファの前に座り、座面にもたれて目を閉じた。寝息になるのはすぐだった。はー、と深くから息を吐きだし、妖精はあと何日だったかしら、と独房の期限を思い返す。今日が七日目。一日目の日付変更も近かったので、その日数をどう計算するかにもよるが、明後日か、し明後日にはもうロゼアの身柄は解放されることとなる。本人の意思がどうあれ、十日以上の拘留は認められていないのだから。あと三日。あるいは、四日。誰もの精神がじりじりと削られる、その負荷が。ゆっくりと、確かに、浸食してきている。



 ロゼアが事件を起こして不在となると最も影響を受けるのはソキなのだが、今の所、表面的に一番影響がなく見えるのも予知魔術のたまご、そのひとである。普段からソキはロゼアがいようといなかろうと怒る時には手が付けられないくらい怒るし、ぐずったりヘコんだりしているし、用事があると廊下や食堂、談話室をちょこちょこ出入りする姿は元気であるようにも見えた。これが高熱を出して意識を戻すこともなく寝込み、ずっとその状態が続いているとなれば、また印象は異なるものになったのだろうが。ソキはその日の午後も起きだすと、談話室から四階の己の部屋に出入りし、なにかを準備し、勤勉ささえ感じさせる態度で『学園』の中をちょこちょこと動き回った。数日のことを思い返し、普段より運動になってるんじゃないかしら、と妖精が訝しむくらいである。
 それなのにソキは熱を出さず、けふこふと弱い喉を咳でいためることもなく、人目のある所では疲れたともぐずらないのだから、逆に普段よりなぜか元気では、と思われる材料は山ほどあった。しかし妖精はそれを理解しているし、ルルクも日々、祈るような気持ちで息をつめて見つめている。単純に、回復とソキの意地と怒りと装いが完全に釣り合っているだけである。ロゼアがいなくても意外と平気に見える、という疑惑はとんでもない誤解だった。ソキはずっとずっと、悲しんで絶望して怒って苦しんで、もがいている。あと三日。もしくは、四日。その、きれいに整え切られて発露する激情が、脆い身体を修復不可能なまでに痛めることが、ないようにと。空白が埋められるのが、それに間に合いますようにと。どうか、どうか、と祈っている。
『……で? 強行突破を目論見ながら、いったん諦めたようなことを言ってるアタシのかわいい魔術師さん? お迎えはしないんじゃなかったかしら?』
「ソキ、お迎えをしに来たんじゃないもん。皆に相談して、ソキは本当はお迎えをしたいんですけど、でもそれはよくないこと、かなって、思ったです。ソキがね、うんと考えて、そう思ったんですよ。あっ、でもね、勘違いしないで欲しいです。ソキはロゼアちゃんのお迎えがしたいです。これはソキの、絶対に変わらない気持ちで、いたしかたのないことですぅ!」
「……うん? それじゃ、なにをしに来たのかしらぁ?」
 おっとりと、困惑した声でパルウェが問いかけてくる。なにせソキの現在位置は、懲罰室に続く廊下のただなかである。廊下に布をしき、いそいそと座り込もうとする、まさしく出待ちの構えそのものだ。妖精とパルウェの疑いはもっともなのだが、ソキはよくぞ聞いてくれました、と言わんばかり、自身満々の顔でふすっと鼻を鳴らした。
「これはね、お迎えじゃないの。ロゼアちゃんはね、んと、んと、いつ出てきてもいいの。それでね、だから……んと、んと、あのね? だってロゼアちゃん、いつ出てくるか、分からないんでしょう?」
 そうねぇ、とパルウェはやんわりと、ソキの不安を肯定した。ロゼアの状態は、最悪ではないが良いとは決していえない、という所だ。魔力の暴走こそ、ソキからの支援物資やあれこれで完全に収まっているが、本人の気持ちが追い付いていないのである。会話には応じてくれるようになった。挨拶はある。三食は食べて、眠る。それだけである。懲罰室はそもそもが反省の場であるから、見張り、見守り役との交流が多い訳ではない。そのすくない交流の中で、ロゼアはいつこの部屋を出て行っても良いことと、残りは四日であることをパルウェは告げていた。ぴったり十日間。十日目の深夜を期限として、ロゼアは解放される。いつ出てもいいだなんて陛下方もお優しいことね、と妖精は息を吐き、ソキを見下ろした。
 『花嫁』の面差しは凪いでいた。硬質な、宝石の瞳がゆるく世界を睥睨する。
「寮長から、喧嘩両成敗にする、と聞きました。寮長がまず、悪かったって、言うんだって。……過剰暴力に関しては、ロゼアちゃんにも認めて、謝ってもらわないといけないって。……そう。そういう、ことに、なったですか」
「……そうよ」
 相容れぬものの諍いではなく。『学園』を巻き込んだ異常事態、恐怖と恐慌の日々の、その発端ではなく。ただの、喧嘩。それで収めろ、ということだろう。ソキは一度、なにもかもを閉ざし、なにもかもを切り離すように、まぶたを下ろして。ゆるく、ゆるく、息を吐きだした。
「ソキが『花嫁』だからじゃ、なくて。ロゼアちゃんが『傍付き』だからじゃ、なくて。魔術師のたまごが、寮長と争って、怪我をさせた。自主的に懲罰室に入って反省している。双方の謝罪と和解は不可欠だが、それ以上の大ごとになるべきでは、ない。魔術師のたまご同士の喧嘩だから。……だから、懲罰室に入った時点で反省の意はくみ取れているから、いつ出てもいいが、いたかったら期限は十日間までを限度とする。そういう……理解で、あっている、ですか?」
「そうよ。そう。……その通りよ。でもね、ソキちゃん、これは」
「尊重しないことで、尊重してもらってる、ですね」
 分かっていますよ、と。『花嫁』は瞼を持ち上げて、微笑みすら浮かべてパルウェを見た。恐らくこの決定が下されたのは、ソキの説明会以後。ジェイドが『学園』の状況を砂漠へ持って帰ったあとのことだろう。無視されている訳ではない。『花嫁』と『傍付き』の、その在り方を。それでいて、触れることもできないのだ。王という立場から行えば、それは命令となる。命令であれば、さらなる反発を生むだけだ。ようやく、ようやく向かい合えている、その理解と、穏やかさがひび割れるだけだ。だから、あえて、不問にされたのだ。自分たちでやれ、ということだろう。ソキたちが、していい、ということだろう。大丈夫、ソキはちゃんと分かっていますよ、と『花嫁』は笑った。魔術師のたまごの顔をして。まっすぐに背を伸ばして、言った。
「ただ……ただね。誰もね、そこだけ分かってくれてないですからね、ちょっとだけ言いたいんですけどね」
「うん? ……なぁに?」
「もしも、言われたのがロゼアちゃんじゃなくて、ソキでね。ソキがね、ロゼアちゃんみたいに、動くことができていたらね。ソキはロゼアちゃんと同じことをしたですし、でもきっと、ロゼアちゃんみたいな反省はしなかったです」
 怒り狂って、ロゼアとソキ以外のすべてを薙ぎ払って、それで。きっと今も、ふたりでどこかに閉じこもって出てこなくて、誰のなんのいうことも聞かないだろう。
「ソキだって。……ソキだって、しましたよ」
『ろくでもないことをまっすぐに宣言するんじゃないわよ……。ソキは、今回しなかった。今後もする機会はないわ。よかったわね? それで? ここにはなにをしに来たのかしら?』
「ぷーぷぷぷぷぷ! んもぉ! ソキも、がおーってしたら怖いんですからねぇ! めためたの、へちょへちょの、けちょんけちょんにして、くしゃくしゃにして、ぽいなんですぅうぅ!」
 座り込んだままもちゃくちゃと抗議して、ソキはお迎えじゃないんだもん、と言い張った。
「ソキはね、ここにいるだけなの。それでね? ロゼアちゃんが出てきたら、ロゼアちゃんだっこぉ! をするの」
『迎えじゃないって言わなかった? ルルクの熱があがるようなことはやめなさい』
「ちがうのぉ! ソキは、いついかなる時でも、ソキがロゼアちゃんが大好きで、傍にいたくて、一緒がいいのを、すぐさま分かってもらう為に、ここにいるです。だからね、お迎えじゃないです」
 昼寝明け。顔を赤くしてふらふらしだしたルルクは、熱があった。大丈夫と言い張るので、すでに一服盛ってアリシアに引き渡した後である。代わりにアリシアに来てもらえばよかったかしら、と呻く妖精の前で、パルウェはしゃがみこみ、ソキと目の高さを合わせて微笑んだ。
「……お迎えじゃないの?」
「ないの!」
「そうなのぉ」
 ほら屁理屈って思われてるわよアタシだってそう思ってるわ、ちぁうもんちぁうもんっ、と騒がしく言葉が響き渡る。ソキはがんとして動かず、廊下に座り込み、その場を動こうとはしなかった。夕食と、お風呂の時にだけその場を離れ。あとはうとうとと眠り込み、妖精に叩き起こされて部屋に戻されるまで。ずっと、ずっと、そこにいた。

前へ / 戻る / 次へ