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 ロゼアがいなくなって八日目。ソキは朝から晩まで懲罰室の入り口付近に陣取って時間を過ごしたが、成果はなにも得られなかった。ロゼアの面会謝絶は続いており、パルウェにソキがせめてここに居るっていうことだけでも伝えて欲しいですぅと強請っても、番人はことの良し悪しを告げず、伝えるとも伝えられないとも言わないあいまいな笑みを浮かべるばかりだった。妖精はあいにくと、懲罰室の規約については詳しくない。それでも、外部と遮断されるからこそ、の懲罰室である筈だ。情報の一切は禁じられているとみて間違いなかった。頬をぷくぷくに膨らませてそれだけでいいんですぅとごねるソキを、妖精は幾度もワガママ言うんじゃないのと叱り飛ばした。
 八日目はそうして過ぎるばかりで、ソキは食事やちょっとした用事で退席するたびに、座り込んでいた布にアスルをころりと転がして残した。ここにアスルがいれば、ロゼアちゃんにはソキがいたってわかるもん、という主張故のことだった。夜もうんと遅くまで頑張ってその場でぽてりと眠り込み、呼びかけにはふにゃむにゃおきてるですぅと答えるばかりのソキの為、妖精はため息交じりにナリアンを召喚した。部屋まで運べ、と告げるとナリアンはどうして俺にそんな試練を課すのと震えながら呻き、ルルクの所在を問いかけた。ルルクは昨日から、発熱で病欠である。明日には気合で復帰すると主張していたが、どうなることかは分からなかった。結局、ナリアンはソキをそろそろと揺り起こし、二人で手を繋いでとろとろ、ぽてぽてとロゼアの部屋まで戻っていった。
 九日目も、ソキは張り切って早朝から起きだし、懲罰室の前へ通っていく。ロゼアくんはねぇ、たぶん十日目が終わるど深夜まで出てこないと思うわよぉ、とパルウェがそっと教えてくれても、ソキはくちびるをつむんと尖らせ、その場から動こうとはしなかった。視線と意識はひたすらに、入り込めぬ場所、懲罰室の扉のひとつにだけ向けられている。
「でもでも? ソキは、周りにご相談ができ、ひとの意見を聞き入れられる、柔軟で、勤勉で、かわいく、かしこく、すばらしー! ソキなんでぇ。ここであんけとをとることにしたです。先輩たちにご質問をしていく、ということです!」
『……ここで?』
 突っ込みたい所は山ほどあるが、大事なのは事実確認をしっかりと行うことである。回復しきらないルルクの負担も減らしてやらねばならないだろうし。妖精は腕組みをして、敷物の上にちょこりと腰掛けるソキと、その隣に椅子を持ってきて腰掛けるルルクを、交互に見比べて眉を寄せた。
『ルルクの面倒も見てやりなさいよ?』
「わたしは、わたしはだいじょうぶ、だから……! 風邪とかじゃないって先生も言っていたし、つまりは気合! 根性! 気力! お薬! などでなんとかなるってことよ……! ただし今日明日を乗り越えたら明後日から数日寝込んだりしたいので、よろしくお願いいたします。ロゼアくんには、感染しない体調不良だったことを伝えてくれるように、アリシアにお願いしてあるし……。落ち着くまでは数日かかるだろうから、その間に今度こそ完全復帰してみせるし、そうだそうだって守護星たちも瞬いている気がするし!」
「うむぅ? ソキはね、ひとりでも、大丈夫ですよ。いいこにしているです」
 青ざめた、とまでは行かないがルルクの顔色は悪い。精神的なストレスが体調維持の限度を超えたのだろう。さもありなん、と誰もが思っている。ここ数日のルルクは、誰がどう見ても緊張のし過ぎ、かつ過労だった。ソキはきゅぅんと困ったように鳴き、妖精と、こちらの様子を面白がって見つめてくるパルウェにも助けを求めるような視線を向けたのだが、両者ともにそれについて、なにを言うことはなかった。ルルクもソキほどではないが、言い出したら聞き入れないタイプであるので、本人が大丈夫だと申告している以上は、自主性を尊重するのが一番である。ソキはちらちらと不安げなまなざしを送ったが、ルルクが椅子から立ち上がらない、と悟ったのだろう。こくりと頷き、決意にあふれた顔つきになる。
「ん。ソキが見守っててあげるですからね! ソキねぇ、体調不良の対処はばっちりなんですぅ! 任せてくれて、いいんですよぉ?」
「よ、よろしく……? 説得力がすごく、あるような、逆にないようなだけど……。それで、ええと。なにするって言ってたっけ? 手伝いとか準備とかいる感じ?」
 んん、とソキは首を横に振った。ちょこん、と座ったままで主張する。
「お手伝いもね、準備もね、しなくて大丈夫ですよ。ソキはね、ちゃぁんと準備してきたです! 通りすがりの先輩をつかまえて、あんけとをするの」
「……アンケート? するの? なんの?」
「あのね? ソキは、ロゼアちゃんのお迎えをしているんじゃないの。でもね、どうも不当な疑いをかけられているの。ゆゆしきことでしょ! だからね? ソキのこれがお迎えじゃないのを、多数決するの! ……あっ間違えちゃったです。多数決じゃないの。先輩のぉー、ご意見を、聞いて、んとんと、んん、そう! ごかい! 誤解をね、とくの!」
 ういしょ、とソキが取り出したのは四つ折りにされた紙だった。広げればそれなりの大きさになる紙面には、大きく枠が書かれている。ちょうど左右で均等になるように線が引かれ、上部には設問が書き入れられていた。妖精は、胡乱な気持ちでそれを読み上げてやった。
『……ソキはロゼアちゃんをお迎えに来てるんじゃないんですよ? 先輩はどう思いますか? お迎えだと思う、お迎えだと思わない、ねぇ……』
「それでね、どっちかに、このシールを張るです! くまさんと、うさぎさんと、ちょうちょちゃんと、いちごと、りんごと、れもんと、ぶどうがあるですよ」
「各種類、結構な枚数あるから、これなら生徒全員と、教員と……面白がって王宮魔術師が貼りに来ても足りそうだけど……。ソキちゃん、このシールなぁに? ソキちゃんの私物かな?」
 しっかりとした確認をし、なお慄いた声でルルクが尋ねたのは、ロゼアの個人所有物を無断使用する可能性を考慮してのことである。作りは単純な紙と糊に剥離紙がくっついたものだが、よく見れば絵柄にぶれがある。印刷物ではない。ソキはぱちくり瞬いて、手元のシールに視線を落っことした。こくん、と頷く。
「ソキのお名前シールなの。使い捨てのものとかにね、名前の代わりに貼るんですよ? これが貼ってあったらソキの、ということです」
「……所有者は、誰かな……? ロゼアくんだよね……? この絵ってまさかもしや全部ソキちゃんの手描きじゃない……? いや絶対ロゼアくんの私物だってこれ絶対そうだって……!」
「ソキが描いたからソキのだもん。あんけとするには、シールを貼るって聞いたですからね!」
 さっルルク先輩、どうぞです、とずずいと紙とシールを出してくるソキは、どうしてもやってみたいです、と目をきらきら輝かせている。諦めなさい、と妖精は言ってやった。
『ロゼアの私物だとしても、自業自得よ。ソキの手が届く所に、置いてある方がいけない。決まってるじゃない?』
「そ……そもそも、ソキちゃんは、お迎えと、お迎えじゃないを、どう区別してるの?」
 仕方なく紙とシールを受け取りながら、ルルクはそれを確認することにした。ソキの認識と、そもそもの言葉の定義が違う可能性がある為である。今までにも、いくつか前例がある。ソキはきょとんとした後に、比較的素直にあのね、と言った。
「お迎えはね、ソキがロゼアちゃんの所まで行って、ロゼアちゃんお迎えに来ましたですよぉってすることなの。ロゼアちゃんは待ってるの。ソキが行くの。それはお迎えなの。だからね、これはお迎えじゃないの! ソキはここでじっとしているです。するとね、ロゼアちゃんがやってくるです。ね? ね? わかったぁ?」
「な、なるほど。なるほど……。なるほどね……?」
 言いたいことは分かった。分かったのだが。ルルクはソキから視線を外し、素早い動きでシールを一枚、紙にぺたりと張り付けた。迎えだと思う、と。思わない、を区分けする、その線の上に。ちょうど等分になる位置に、動かぬ蝶々がひらりと現れる。
「こ、これで……!」
「あぁあぁああ! いんちき! いんちきをされたですうぅ! リボンちゃん! ルルク先輩がいんちきしたぁ!」
『ソキの意思を尊重してくれた結果よ。感謝しなさい、感謝!』
 定義が完全に間違っていない、個人の主観によるものであると判明した以上、ルルクからは否定も肯定もできなかったのだろう。これは紙を二枚に分けなかったソキの落ち度である。やぁん違うもんいんちきだもーっ、とぷんすかしていると、その声を聞いたのか、慌てた足音がひとつ、向かってくる。
「え、な、なに。どうした?」
「あっスタン先輩ですぅこんにちは! あのね、ルルク先輩がいんちきしたの!」
 夢と浪漫部。ルルクと同じ部活に所属する、寮内自治会議にて副寮長ガレンより直々に事態収拾の助力を乞われた、いま『学園』でもっとも忙しいひとりである。スタンはソキの訴えに不可解そうな顔をして、ずずずいっと差し出された紙面を見て、あぁ、と納得した声をあげる。
「なるほど? ……意見を聞くようになったんだな、ソキ。いいことじゃん」
「えへん。えへへん! スタン先輩もぉ、ちょうどよかったです! よろしくお願いいたしますです」
「いいぜ! ところでな、ソキ。この迎えって、どういう意味?」
 そつのない、気負いのない問いだった。なるほど、と妖精はスタンの気質と、ガレンの指名の正確さを評価した。明るく、ひょい、と懐に入り込んでくるのが得意な男だった。ソキとはほぼ初対面で魔法少女云々をやらかし、日常的に接する相手でないからこそ、未だにうっすらと苦手意識を持たれているようだが。浪漫に走らなければ悪い相手ではないな、と評価しているうち、スタンはするするとソキの定義する『迎え』を説明させ、ルルクのシールの意図を読み取り、なるほどな、と頷いた。ひょい、と紙がソキの手から取り上げられる。
「それなら、俺はこっち」
 ぺらん、と紙が裏返された。ソキがえっと声をあげる間もなく、スタンは持っていた筆記具で『所説あり』と書き込むと、クマのシールをその下に貼り付けた。設問外、第三の選択肢である。
「はい。ルルクもこうすりゃよかったのに」
「咄嗟に思い浮かばなくて……」
「体調悪いんだろ? 思考のキレが悪くなってんじゃね? 無理すんなよな」
 はい、と返却された紙を、ソキは茫然として受け取った。ぺら、ぺらん、と何度か紙をひっくり返して、確認して、ソキはぴぎゃぁああんっ、と怒りの声をあげる。
「い、い、いんちきですうぅう! いんちき増やされたですううぅう! なっ、なんでっ、なんでですううぅう!」
『一人目も、二人目も、ソキが勝てる相手じゃなかったってことよ。いい勉強になったわね?』
「余ってる紙ある? ソキに一々説明させるの、大変だし時間かかるだろうからさ。書いといてやるよ。迎えについてはこないだのヤツでいったん答え渡したヤツばっかりだろうし、変に誤解されて怒られないようにしとかないと」
 本格的に集めるなら場所も移動した方がいいと思うけど、難しいだろうから談話室にでも張り出してきてやろうか、というスタンの申し出を、ソキはぷぷくーっと頬を膨らませて断った。
「みんな、まだまだお忙しです。気持ちが落ち着かない人も多いです。することを、なにか増やすの、よくないです。それに、きっと、いんちき増やされるです!」
「増えない、増えない。それに、こんなん大した手間でもないことだし、きっとみんな嬉しいと思うぜ?」
「……うれし?」
 いぶかしげなソキに、スタンはそうだよ、と頷いた。
「嬉しいよ、こんなん。だってこれさぁ、ソキが聞いて、みんなが返事したヤツの答えだろ? えーっと、『ロゼアちゃんを迎えに行こうと思うんですけど、どう思いますか?』ってヤツ。色んな意見あった上で、それを聞いて、ソキは今こうしてるんだろ? それでまた、どうしようって聞いてくれるんだろ? ……嬉しいよ。くすぐったいくらい、なんか、嬉しい。結果はどうあれ」
 じゃ、シールいくつかもらうな。紙は複製して談話室に貼って、夕方くらいに回収して持ってくるから、と言い残し、スタンは風のように去って行った。ありがとー、と見送り、ルルクはしみじみと息を零す。
「分かる。いんちきは……どっちかって言うとソキちゃんだもんね、これ」
「ぴぎゅうぅうっ! ソキ、ソキ、いま、ふとうなそしりをうけたぁっ!」
『正当な指摘よ受け入れなさい』
 やぁああぁんっどういうことなんですうぅうう、と怒っていると、様子見をしていたパルウェがそっと歩み寄り。ころころと笑いながら、紙に一枚、ぺたりとシールを貼ってくれた。悲しげなソキの声があがる。お迎えだと思う、にリンゴがひとつ、増えていた。



 諸説ありが圧勝した。実に全体の七割を獲得した結果を前にして、ソキはぴるぴるぷるると細かく震えて涙目になり、うにゃぁあいにゃぁぎゃうううぅういんちきいんちきなんでですぅうぅうっ、と声をあげてひとしきり怒り、ぶんむくれた。妖精にとっては意外なことに、残りの三割はだいたい均等に、迎えだと思う、思わないに振り分けられていた。ほんの数票、迎えだと思う、が多いくらいである。ルルクのように、境界線や、欄外に投じられた票も少なくはなかった。ソキの言い分を理解した上で、そういうことであるのなら、と決めかねた者が多かったのだろう。妖精はいんちきです、ずるです、いけないですぅとぐずって床に転がってじたじたもぞぞとしているソキを冷静な目で見下ろし、埃がつくからやめなさいな、と静止する。
『これが民意よ。受け入れなさいな』
「ふぎぎぎぎ。ふんぎぎぎぎ! おかしいですぅう! ソキ、ソキ、先輩たちのいうことをちゃぁんと聞けて、それで、悪いことじゃなくて、それで、正しいことができたから、みんな、それでいいよ、よくできたねってソキを褒めてくれて、それで、それで……ふぎゅうううぅ! どういうことなんですうぅうう!」
『正当性を確保する為に周囲を利用するなーっ! どうもこうもないわよ!』
 目論見に気が付けなかった己にこそ舌打ちをしたい気持ちになりながら、妖精はだってぇだってぇとぐずるソキを睨みつけた。
『だってじゃない! まったく……スタンによくよく感謝しないといけないわね。ルルク、アイツ、変身魔法少女以外だとなにが喜ぶの?』
「えっ、なにいきなり? なんの話?」
 あ、もうソキちゃんったら、また床に転がって、とため息をつきながら小走りに戻ってくるルルクの腕には、いっぱいの食糧がある。すこし遅めの昼食だった。厨房方がはりきってお弁当にしてくれたそれをてきぱきと並べながら、ルルクは妖精から事と次第を聞き、ふふっ、と乾いた笑みで天井を仰ぐ。祈りの形に手が組み合わされた。
「スタンありがとう……! ソキちゃんのこういう、こういう、天真爛漫と天然と思いつきとその場の勢いに混じったり誤魔化されたり埋められたりして、そうと判明するまで分からない真意というか目論見みたいなの、よくよく考えると考えなくても純粋に怖いなって思うんだけど、ソキちゃん本人に目を向けるとうーんかわいい、かわいいねぇ、かわいいね? で思考が埋め尽くされてその恐怖感が押し流されて欠片も残らず消し去られるって、本人の性格とか人柄とかで押し通して良い範囲を結構超えてるんじゃないかなっていうかそこそこ問題だと思うんだけど、ロゼアくんに言っても誇らしげな顔で百年前から知ってますよみたいな感じにそうですよ、とか言われそうで、なーんだつまり『花嫁』ってことね! 理解理解! なるほどなーっ! っていう結論で終わっちゃうのよね! スタンほんとありがとう第三者の冷静な判断ほんと助かる……。私も取り戻していかなきゃ……! 客観的な判断力というものをね……!」
『ルルク、アンタ熱上がってない?』
「ううん? 昼食取りに行く前に、ついでに寮長にもお知らせがてらアンケートしてもらおー、と思って行ったらね。なんか哀れんだ顔をした白魔術師の先輩が回復させてくれて、朝より元気になりました! 根本的には睡眠で治せって言われたから全快はしてないけど! ということで、そこそこ元気な私です。いえーい! あっそれでスタンの喜ぶものだっけ? レースとか刺繍とか好きだから、ローブの端にでもなんか縫い付けてあげれば喜ぶんじゃないかな。消えものがいいんだったら、甘いものより辛いもの。最近の流行は唐辛子入りのチャイと、黒コショウとチーズのクッキーです」
 不調から解放された反動だろう。普段の三倍はきゃっきゃとはしゃぎながらよく話し、ルルクはだから安心してね、と囁きかけた。
「これで今日も明日もちゃんと傍に居てあげられるからね。もうすこしだからね、ソキちゃん! それにしてもアンケート素早く終わってよかったねぇ。聞いてきたんだけど、スタンが談話室に掲示した直後、白雪の人たちが見つけて全体に伝令してくれたみたいなんだよね。午前中に終わらせちゃおうって張り切ってくれたみたい」
『集計まで終わってると思ったら、どうりで……。……アンケートって祭りに含まれるの? そんな訳がないと思うのだけど?』
「アンケートは祭りじゃないけど、アンケート結果を予想する賭け事は予想を的中させる遊びだからすなわち広義の祭りに含まれるのでは? って言ってた」
 それこそ所説あり、である。それで不安が解消されるなら、と教員も止めないので、一部生徒はのびのびと活動を再開しているらしかった。野放しになる前に寮長にはなんとしても復帰してもらわないといけないな、と妖精は思う。そういう者たちの手綱をうまく操り、規則の範囲に収めてしまうのが非常に上手い男だ。だからこそ王たちから寮長に指名されている。頭の上を飛び交う会話を雰囲気だけでふんふん頷き、ソキはいただきまーす、と昼食に手を伸ばした。ぬるまったトウモロコシと豆のスープをむぐむぐ食べながら、そういえば、とソキは目をぱちくりさせる。
「ソキねぇ、気が付いちゃったんですけど? いまは本当なら新学期では? 今日もなんだか、先生たちが授業の準備をなさっているのを見かけたですしぃ……。もしかして、どこかで授業しているです? ソキはおさぼりさんになっちゃったんでしたら、ごめんなさいをしに行かないといけないです」
「授業の再開? まだだよ? もう何日から再開にするか協議するのもめんどくさいから、いっそ来月の一日からに延長して、今月は自習ってことにできないかって、意見を取りまとめたりしてるトコだから。その結論もまだ出てないし……まぁ、まだなし崩し的に長期休暇延長中ってトコ」
 教員の出入りが多いのは『学園』の状況を仔細まで王に報告する為でもあるだろうが、自習中の生徒の質問に答える為だという。教員たちが懲罰室の前を通っていくのは、そういった理由でロゼアの様子伺いをしに来る為だった。その誰にもパルウェは公平に、穏やかな笑顔で同じ答えだけを返した。ロゼアがいつ出てくるかは本人が決めることだが、恐らく十日の期限が終わるまではこのままであること。状態は非常に落ち着いていること。そして、面会はできないこと。教員たちは答えが分かっていた苦笑で各々頷くと、立ち去り際にソキのもとへ寄り、アンケートに答えてからいなくなる。午前中はずっとその繰り返しだった。
「ソキ、午後は自習をしようかなぁ、です。御本を読んだり、問題を解いたりするです。分かんなくなったら、通りすがった先生を捕まえて、聞くことにするです」
『廊下で? 部屋に戻りなさいよ。それか、談話室になさい』
「ややもん。ソキはお勉強するの。それに、ここでお勉強をしていれば、それは自習ということなので、さらにお迎えじゃなくなるのでは?」
 ふすん、と拗ねたそぶりで鼻を鳴らすソキは、もう決めてしまったようだった。教科書と問題集を取りにお部屋に行くだけで、ここに戻ってここでする、と言い張るソキに、妖精は深々と息を吐き。ルルクは明るく、よーしじゃあおなかいっぱい食べてお部屋でお昼寝をしたら、自習も頑張ろうか、と言った。ぷぷん、とむくれた顔をしたソキが、こくりと頷く。ロゼアが出てくる気配は、ないままだった。



 とてとてとて、と特徴的な足音が懲罰室の前、そこを通っていく廊下に響いたのは、ソキがお昼寝から戻ってきた夕方のことだった。廊下がゆっくりと茜色に染め上げられていく時刻。ソキー、とほわんほわんした甘くやわらかな声が、足音と共に近づいてくる。
「ソキ、ソキー。元気にしてた? リボンさん、ずっと傍にいてくれてありがとうな。変調はない? これはね、お土産のはちみつだよ。こっちがソキの、こっちがリボンさんの。これはルルクに。おいしいやつだよ。ルルクも体調悪いって聞いてたけど、顔色いいな。よかったー。でも、あんまり無理しないでいてな。見たとこ、ソキの魔力的な不調は、今はまだないみたいだから安心してていいよ。なんかあったらリボンさんに相談してもいいけど、俺にすぐ連絡取ってくれてかまわないからな。それで、それで、えっと、あっ! あとね、これ、新学期がはじまるまでの、ソキの宿題だよ。置いてくな。分かんないことあったら手紙して? お返事するからね。ロゼアが出てくるの明日? 明後日の夜だっけ? もっかい顔見に来るから、その時でもいいよ。不安なことがあったらね、誰かにすぐ相談していいんだからな。それじゃあ俺は帰るからね。お見送りはしないでいいよ。その間にロゼアがもし出てきたら泣いちゃうだろ。また来るからな」
『え? ほんとに帰るわけ?』
 とてとてとて、とやってきたウィッシュは、座り込むこともなく用事を終わらせてしまった。ぽかん、とした顔で宿題を受け取ったソキは、んと、んと、と戸惑いながらも頷いた。去り行くその背を見送りながら、おにいちゃぁん、と甘えた響きで声をかける。
「もう帰るのぉ? お散歩中なの? ソキのとこにまた戻ってくるぅ?」
「せんせい、だろー? ソキ。もう帰るよ。宿題渡しに来ただけ。すぐ帰ってくるように言われてるんだー。まだ落ち着かないから、俺たちがあんまり並ばない方がいいだろー」
 苦笑して振り返り、ウィッシュはひらひらと手を振った。
「大丈夫。寄り道しないで帰るよ。だからパパのことはまた今度聞くな」
「ぴえっ! そ、ソキはなにもしてなっ、ソキはなにも知らないですうぅ!」
「ふふっ。パパがしたおはなし、俺にも教えてねってだけだよ」
 ルルクが咄嗟に質疑応答の議事録がありますと告げれば、ウィッシュは嬉しそうに目を細め、それでいいよー、と言って今度こそ帰って行った。本当に、話の中身を知りたかっただけらしい。ぴるりるぷるると震えながら、ソキは受け渡された宿題をぎゅっと抱きしめ頷いた。
「慎重にしなければいけないです……。おにいちゃん、あっ、ウィッシュ先生ったら、ジェイドさんのことになると、ちょっぴりこわいですからね。心が狭いです」
『そうね。アイツもソキには言われたくないと思うわ』
 リトリアに、ラーヴェのおはなしをして、と迫っていた時のソキとだいたい一緒である。えぇえそんなことないもん、と頬をぷくぷく膨らませ、ソキはその場にでちんと座りなおした。宿題を開く。
「ふむむ? これまでの復習です? 基礎問題と、応用! それでこっちが、あっ! ちょっぴり新しいところです! この公式は見たことあるけど、こっちは知らないやつですからね。きゅふふ! 術式とぉ、国語と、算数と、歴史と、地理。あっ、家庭科もあるぅ! きゃぁっ、刺繍もあるですうぅう!」
「ソキちゃんって、いまの授業は座学、一般教養中心なんだっけ?」
「そうですぅ。ソキね、もちろん、いっぱんきょうよ、礼儀作法とかね、いっぱい知ってるんですけどぉ。そうじゃなくてね、えっと、えっと、しょうがっこ? 皆が通うね、学校で習う、お勉強をね、してもらってるの!」
 よくよく学びなさいよ、と妖精は頷いた。ソキはふんふん楽しそうに教本を整理して、とりあえずこれ読むです、と地理の教科書を膝の上に置いた。
「ソキねぇ、最近、地図が読めるかも? になってきたです。それでね? 建物の中で、ソキはこのへんにいるのかも? が分かってね、目的地があっちだから、こういう風に行くです! っていうのがね、頭の中で描けるようになってきてね。だからね、それでね、今度、地図を描いてみたいなと思っているです」
『地図? なんの?』
「寮とかね、談話室とかね、お部屋とかね、部室棟とかね、図書館とかね、いーっぱいです!」
 いいんじゃない、と妖精は即答に近い響きで、魔術師の望みを肯定した。
『明日だか明後日だか、ウィッシュが来たらそのこと、相談してみなさい。アタシは賛成よ。建築も学んでいくとなお良いと思うわ』
「やったぁー! ですぅー!」
『空間の正確な把握は、魔術師の戦闘においては場の制圧に使えるもの。よくよく学んで、いい魔術師に育ちなさいな』
 ひっ、ソキちゃんの教育方針をロゼアくんがいないトコで決めてるっ、と恐怖にまみれたルルクの声が落とされる。妖精はルルクを見て、いまだ開かぬ懲罰室のとある扉を見て、忌々しげにふんと鼻を鳴らしてみせた。
『アタシが契約した魔術師の方向性を、アタシが決めてなにがいけないって言うのよ。口を挟みたかったらとっとと出てくればいいだけでしょう? まさか、四六時中ソキがぺっそぺそに泣いて泣き伏して熱出して寝込んでるとでも思ってる訳じゃないでしょうし? 賭けてもいいけど、ソキはロゼアの予想より遥かに怒って怒り狂って、わんぱくに自由奔放に、多少は計画的に動き回ってるわよ。アイツどうせ、ソキが今ここにいるなんて思ってもいないでしょうけど!』
「そ、そうかな……。うぅん、そう、そうかなぁ……?」
『そうよ』
 なんの根拠か、妖精は力強く頷いた。ルルクは視線をさ迷わせ、ソキが置き去りにしていたアンケートをそっと持ち上げると、裏面を顔の前に提示する。所説あり、である。妖精はそのささやかな抗議と抵抗を、笑顔で黙殺した。所説などない。妖精はまぁ明後日ね、と呟いて目を細める。今日も、明日も、ソキが起きている時間にはロゼアは出てこないだろう。ソキにもそれは分かっている筈だ。ロゼアは誰にも会いたくない、と言った。その誰にも、の中に。ソキが含まれていたことを。ソキは、もう分かっている筈だ。妖精は無言で、己の魔術師を見下ろした。
 ソキは新しい教科書を黙々と詠み進め、時折、ふと顔をあげては懲罰室の奥を見つめる。そこにある、ひとつの扉。その先にいる、ただひとりを求めて。ゆるく、ゆるく、まばたきをして、視線が教科書へ落される。その日は、ソキはもう、ずっとそうしていた。その行為に含まれた感情と、意味は。妖精にもルルクにも、分からないままだった。



 懲罰室には停滞と、穏やかさだけが存在していた。ぼんやりと過ぎ去っていく時は、朝夕の判別や曜日、日付の感覚を拭い去っていく。いつから、ここにいるのだろう。いつまで、ここにいてもいいのだろう。思考は言葉になり、返答はあったが、それは指先をすり抜けていく砂のように、感触に似た僅かな輪郭を残すばかりだった。扉を叩く軽やかな音。それが入室を伺うものだと理解し、返事を響かせるより早く。無遠慮に、一息に、閉ざされていた扉が開かれた。
「やっほー! ロゼア、元気してたー? 最終日の健康診断のくじ引きに当選したから俺が来たよ。俺の名前分かる? 言ってみ?」
「……フィオーレさん。砂漠の、誉れある白魔法使い。どうして、ここに」
「おっけおっけ! それだけ話せるならまぁ大丈夫。あ、いいよ座ったままで。もうちょっと部屋に明かり入れるな。眩しい? ちょっとだけ我慢な」
 部屋には窓がない。差し込む陽の光はない。事故防止の為に、炎が揺れる灯篭もない。やわやわとした明かりは光を放つ魔術具によるもので、その穏やかな光源が、時の感覚を失わせてしまう理由だった。強まることも、弱まることもない、自然のものではない光。そこに遠慮なく灯篭を持ち込んだフィオーレは、よいしょ、と言いながら火を入れ、にこにこと機嫌よくロゼアに向き合った。
「十日目だよ、ロゼア。聞いてると思うけど、もっかい説明するな。ロゼアがこの部屋に引きこもってられるのは、今日まで。今日という日が終わるまで。あと十六時間ってとこかな。十六時間が経過しなくても、好きに出ていいし、時間が終わるまで待ってたっていい。好きにしていいよ。で、なんで俺が来たかっていうとね、懲罰室にかかってる特殊な魔術の関係で、健康に問題がないかを確かめる為だよ。健康診断です。お腹とか頭とか、目の奥とか、痛いトコない? 質問ある?」
「……俺の、沙汰は、どうなりましたか」
「聞いてない? 喧嘩両成敗だよ。ロゼアは過剰暴力。ちょっとやりすぎたから、そこだけちゃんと謝んなね。骨は俺が治してきたから。神経も確認したけど、元々そっちにはうまいこと影響が出ないように砕かれてたし、影響はなし。肉体的な後遺症は残らないよ。安心しな」
 魔法使いの使う術は、時にそのような後遺症すら消し去ると言う。教科書に記述がある事実だ。だからそれがフィオーレの優しい嘘なのか、事実そうであったのかを、確認することはできなかった。そうですか、と言葉短くロゼアは呻く。
「喧嘩……だと」
「それで収めろ、という命令だよ、これは」
 悔しいね、分かるよ、でも落ち着いてね、と。白魔法使いの手が、ぽんぽんと軽く、ロゼアの肩に触れる。
「個人の事情、背景、感情。色んなものがあっての事故……事件、というよりは、内情をいくつか知ったうえで、俺はもう事故めいたものだと思ってるから、そう言うけど……。今回のことはね、寮長が言葉を選ばず、過剰なまでに私怨に塗れた注意をして。ロゼアはそれに、反発の範囲を超えた、過剰な暴力を持って対応した。だからね、悪いのは寮長なんだけど、ロゼアもちょっとやりすぎ。……それ以上のものとして対応する訳にはいかないし、それだけのこととして……個人間の行き過ぎた諍いとして、処理せよ、ということだよ。わかるね」
「……は、い」
「談話室とか食堂とか。ある程度人目のある所で、互いに謝罪せよ。ここまでが陛下方からの命令で、決定だよ。それが終わったら謝罪文の提出。まあ、不安がらないで大丈夫だよ。意識を別方向に逸らしながらのごめんなさいの言い方とか、心を込めないでそれっぽく書く謝罪文の作り方とか、教えるんだーって筆頭が張り切ってたから!」
 張り切らないでいいし心から遠慮したいし、そんなことを嬉々として教えてこないで欲しい。返事をしないことで意思表示するロゼアに、明るい表情で、まぁそんなに深く考えないで大丈夫だって、とフィオーレは笑う。
「公開謝罪とか、謝罪文とか。誰かに怪我させて独房とかさー、べーつにロゼアが初めてやらかした訳でもなんでもないし? それこそ、シルが寮長になる前の治安悪かった時代は、独房三回で一人前、みたいな風潮あったらしいし? 一回目なんてまだまだ。おとなしいもんだって。俺なんて独房スタンプカード作られて、十回達成ごとに逆に祝われる謎現象起きてたくらいだし、だから……だからさー、ロゼアぁー。もー。そんなに落ち込むなよー。よーしよしよし、びっくりしたなー。もう大丈夫だからなー。失った信頼は大きいけど、これくらいなら取り戻せるって! な?」
「ちょ……な、撫でないでください」
「えー、もうちょっと撫でさせてよ。お腹痛くて弱ってる時の陛下そっくりなんだもん」
 だからなんだというのか。やめて、ください、としっかりと言い返せば、フィオーレはちょっと元気出てきたな、よかったよかった、と言ってロゼアの頭をくしゃくしゃにした。



 ぱちん、と音がする勢いで目が合ったので、フィオーレはにっこり笑い、パルウェに止められているソキに手を振った。ソキは反射的にちまちまと手を振り返し、それからすぐ、ふにゃぁあむぎゃぁああっ、と怒り一色の声をあげた。
「そ、そ、ソキにはだめって、ソキにはだめって入れてくれないですぅうう! ど、どうして! なんで! フィオーレさんはロゼアちゃんに会えるですかぁああソキもいくソキもソキもソキもおぉおっ!」
「おはよー、ソキ。パルウェも。ソキが駄目で俺がいいのはねー、俺が健康診断に来た白魔法使いだからだよー」
「ソキもするっ! ソキもロゼアちゃんのけんこうしんだん! けんこうしんだん! するうぅううっ!」
 身体能力故に捕まえて離さないでいることはそう苦ではないものの、あまりに怒っているので落ち着かせることができないでいるらしい。パルウェはええと、とひきつった顔をしてフィオーレと、ソキの妖精。そして、ちょうど到着し、息を整えているルルクを見比べると、誰かどうにかしてくれないかしらぁ、と助けを求めた。あと五分待ってくれるかしら、と遠回しな今は無理、と言い放ったのは妖精だった。妖精はうんざりとした顔で興奮しきったソキを見下ろし、深々と息を吐いて首を左右に振る。
『悪いわね、パルウェ。もうすこしだけそのままでいてちょうだい。あと五分もすれば疲れ切って動けなくなるから、そうしたらルルクが引き取るわ。フィオーレ、アンタはこれ以上刺激しないように、さっさとその扉の前から離れてくれるかしら。用事が終わってるなら帰りなさいな』
「ろ、ロゼアの様子とか、教えなくていい?」
『アンタはほんとに火に油を注ぐのが上手ねぇ……!』
 ゆるすまじですううぅううっ、とふわんほわん響くだけの、激烈な怒りが場にぶちまけられる。それをあまり真剣に受け止める様子なく、フィオーレはえぇえ、と困惑気味にソキの目の前にしゃがみこんだ。
「そんな怒らなくてもよくない? もうあと十六……十五時間ちょっとでロゼアに会えるんだしさぁ? 健康診断は必要だろ? 大丈夫。そんなに心配しなくても、異常なしだったよ。元気で帰ってくるよ」
「うにゃぁあいにゃぁぎゃうううぅうっ! きらいきらい! ふぃおーれさん、きらい! いーっぱいきらい! いいぃいっーっぱいきらいですううぅうう!」
 理由があるだとか、正当性がある行いだとか、規約だとか、そういうことは関係ない。ソキが会えないのに、会っている。怒りはただ、それだけに向けられているものである。今日だってソキはおとなしく、お勉強をして、時間が過ぎるのを待っているつもりだったのに。目の前を普通に通って、ソキが許されない一線をすいと抜けて、部屋に入ったりするのがいけないのである。きらぁーいっ、もうもうきらいですぅううぅっ、と叫び、力尽き、ぜいぜい息をするばかりのソキに、そーっと腕を伸ばしたルルクが、そーっとパルウェから身柄を引き取り、そーっと待機位置まで運んでいく。ぐす、ぐすっと鼻を鳴らしながら、ソキはいやんゃ、と身じろぎをした。
「抱っこだめですぅ……」
「抱っこじゃないよ! 猫ちゃん持ちは抱っこに含まれません……! ほーらよく見てソキちゃん、脇の下を掴んで持ち上げてるだけでしょう? 抱っこじゃない、抱っこじゃないよー。よしよし」
「……んむぅ……。それならいいです……」
 思うけどソキの抱っこ判定って意外と雑よねぇ、と呆れながら妖精がふたりを追い、かけ。ぴた、と滞空する。妖精はパルウェを振り返り、再度、悪かったわね、と告げた。
『今日はもうこれ以上騒がないと思うわ。だから、そこらに居ることだけは許してちょうだいね』
「いいわよぉ……。こっちも迂闊だったもの。まさかフィオーレが普通に表から出入りするだなんて……。ソキちゃんがいるから気をつけて欲しい、と連絡しておいたでしょう……?」
「あっ、姿を見られるなって意味だったの? えー、ごめーん。てっきり、ロゼアの体調確認を念入りにしろよってことかと思って……。元気だったよ大丈夫ー! って安心させてあげてっていう思いやりの心かと思って……?」
 パルウェにごめんごめん、と言いながらフィオーレが後をついてくるので、妖精は心底嫌な顔をして、追い払う仕草で手を振った。
『しっしっ。ついてこないで。帰りなさいったら!』
「悪かったってば。ソキの調子だけ診させてよ。これで体調崩したとなると、ロゼアにも顔向けできないし」
『……余計なことは言わないでちょうだいね』
 悪くなる兆候を妖精も感じていたから、どうしようかとは思っていたのだ。案の定、ソキは口に両手をあてて苦しそうな息を繰り返していた。焦りの滲む顔をしたルルクが、白魔法使いを連れてくる形になった妖精を見て、ほっと笑う。フィオーレは慣れた仕草で膝を折ってしゃがみ込むと、ソキ、と丁寧な響きでその名を呼んだ。
「ちょっと触るよ。診察だよ。……朝ごはん食べた? まだ? びっくりして、怒らせて、ごめんな。俺はもう帰るから、ゆっくり朝ごはん食べるといいよ。ルルクが用意してくれてたんだろ?」
「……けふ、ふ。う、うぎゅぅ……!」
 逆立った毛並みを、宥めるように。白魔法使いの指がソキの頬に触れ、前髪を撫でて、肩をぽんと叩いて離れていく。それだけで、すぅ、とソキの呼吸が深くなった。魔法使い、という魔力の量のみならず。その癒しの術において、フィオーレに並び立つ者も、前に立つ者も、ひとりとしていない。さ、これでもう大丈夫、と言って立ち上がるフィオーレを、ソキはいじいじと見上げた。んん、と手をもじもじさせながら、響かない声で告げる。
「ありがと、ございます、ですぅ……」
「ん、どういたしまして。ソキ、ロゼアは今日が終わったら、出てくるからさ。着替えとか用意してあげるといいよ。専用区画でお風呂入って、食事したらほんとに解放だからさ。お部屋で待っててあげるといいよ」
「……ソキ、ロゼアちゃんのご用意、する」
 拗ね切った声で告げるソキに、ルルクがそつなく、朝ごはん食べたら準備しようか、と言い添える。ソキが頷いたのまでを見てから、フィオーレは身を翻した。

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