長い夢からようやく目を覚ました気持ちで、ロゼアは肺の奥まで息を吸い込んだ。腕を持ち上げて手のひらを見つめる。指先まであたたかな血が、確かに巡っていて心地良い。食事と風呂によって身も心も清められた、満たされた気持ちである。ロゼアはぼぅっとしながら数歩前に出て、はっとして今出てきたばかりの懲罰室を振り返った。忘れ物がないかをロゼアに確かめさせたパルウェが、部屋の鍵をかけている。パルウェは顔をあげ、微笑みでロゼアの歩みを促した。感謝も、謝罪も、今日はもうおしまいにして。行きなさいな、ともう告げられていた。言葉はなく。ロゼアは一度しっかりと頭を下げて、その区画の外へと歩き出した。
十日ぶりの外は静かだった。時刻は深夜二時を回っている。人の気配はまるでなく、うっすらとした明かりだけが廊下に光と、弱い影だけを落としている。ことことと窓が風に揺れていた。遠くで木の葉が雨のような音を立てる。天を仰げば雲一つなく、星が夜空に瞬いていた。音のある、静かな夜だった。取り残されたような気持ちで、ロゼアは息を吐く。懲罰室には特殊な魔術がかかっているのだと聞いた。それは精神の起伏をごく穏やかにし、肉体的な時を殆ど止めるに等しいものなのだと。だから、十日ぶりに出歩くにせよ、肉体的な衰えはなく。その時間がとろとろと癒した精神が、そのまま体に戻ってくる。
悪い夢のようで、ロゼアは己の手を見下ろした。いつの間にか、寮まで戻ってきていた。談話室の扉が見える、部屋に戻る階段の踊り場。その場所で。動きたい気持ちにはなれず、手のひらを見下ろしていた。瞬きをする。意識せずとも思い出せる。あの瞬間の感触。あの瞬間の感情。ぞっとするような怒りと、恐怖の記憶がこびりついている。
『ロゼア』
「……シディ」
くらやみに、ひかりを灯すように。ふわりと階段を下りてきたシディが、ロゼアの前でぴたりと止まる。
『迎えに来ました。出た所で待っているつもりでしたが、思ったより早かったですね。はい、これ。どうぞ受け取ってください』
ふわわん、と浮かんで、漂うように連れて来られたのはアスルだった。黄色くてまんまるい、ソキのぬいぐるみ。え、と戸惑うロゼアの胸元にぽすりとぶつかり、転がり落ちていくアスルを、床にぶつかる前に慌てて抱き留める。まだ毛並みに、あまい体温が残っていた。ソキのぬくもり。
『ソキさんが、アスルをお迎えに連れて行って欲しいと仰るものですから』
「……ソキは、寝てるのか?」
『ええ。つい先ほどまでは頑張って起きていましたけど』
ルルクは体調が優れず、早めに眠りに行ったから傍にはいなかったと聞いて、ロゼアは静かに頷いた。さぞ心労も苦労もかけたと思う。明日になったら謝罪と感謝と、いなかった間のことを聞ければいい、と思いながら、ロゼアは踊り場から上へ続いていく階段を見上げた。部屋は途方もなく遠く。踏み出す足が重くて、持ち上げられないでいる。シディはそっと笑って、ロゼアの肩に降り立った。
『気分はどうですか? 体調が悪いところは? 白魔法使いが行ったと聞きましたが、遠慮せず、苦しいことがあれば言ってくださいね』
「大丈夫……悪いところは、ないよ。……シディは、俺がいない間は、なにかしてたのか? 怒られたり、とか、しなかったか?」
『事情聴取は受けましたが、さほどのことではありませんよ。怒られてもいません。安心してくださいね。……一緒に旅をした間のことを聞かれました。ふふ。懐かしくて、いろんな話をしてきました。大変なことばかりでしたが、思い返すと不思議と、とても楽しかった。……本当に、話を聞かれただけですよ』
ロゼアは、『学園』に向かう旅の途中でひとつの事件を起こしている。それを忘れたことはなかった。それを、ソキに話したことはなかった。ナリアンにもメーシャにも。シディも、殊更それを口に出すことはなかった。今も。けれど、触れずにはいられなかった。
「加害性が、ある、と……。判断、された、かな」
『ロゼア。あれは事故でした。今回のことは……僕は正直、シルがあまりに無神経だったと思っていますからね! だから』
「シディ。俺はどっちも、自分の意志でそうしたんだ」
慰めも。許容も。否定も。なにもかも聞きたくなくて、ロゼアはシディの言葉を遮った。忘れたことはない。忘れることはできない。あの瞬間の恐怖も怒りも。なすべきこととして、それを成した。生きなければと思って。そうしなければソキが壊されてしまうと思った。
「寮長のことだって、俺は」
『ええ』
シディはあっさりと、ロゼアの意思を認めて肯定した。
『手加減ができていましたね』
「……シディ?」
『だってロゼア、一番最初は首を狙ったでしょう? でも直前で、狙いを肩に無理矢理切り替えた。ソキさんの声を聞いて、ロゼアはちゃんと、そうした。……それは、ロゼアの意思でしょう』
意図しない暴力事件というのは、じつのところ『学園』では起きやすいんですよ、と鉱石妖精は告げた。魔術師のたまごは、まずその未熟な魔力の制御を叩き込まれる。不意にこぼしてしまわないよう。そうであるから、しっかりとした教育がなされていくにつれ、不平不満は時に直接的な暴力となって振るわれてしまうことが多いのだと。もちろん、そうしない者も多くある。けれども、だからこそ、魔術師は多くを制御されるのだ。魔力を持たぬ者に、決してその形で発露しないように。同胞に殊更、言葉を尽くせと言われるのも。
『己の意思で成した、制御のできる暴力については、魔術師は寛容ですよ。結果はどうあれ。多少の混乱はあれども、ね。ウィッシュの祝福を見たでしょう? あれと同じです』
「シディ」
『心配しなくても、明日からうんざりするくらい怒られますよ。僕も怒りますし、小言もたくさんありますからね! 覚悟しておくように。……でも、出てきたばかりの夜にくらい、うんと優しくされておきなさい。みんな、そうされてきました。先達にならって、僕も同じようにしているだけですよ』
ロゼア。みんな、君のことを心配していました。みんな、君のことで怒っていました。みんな、君のことを怖がっていました。みんな、君がいなくて寂しく思っていました。みんな、君が不安でないようにと祈っていました。みんな、君の帰りを待っていました。静かに、静かに、囁いて。シディはほら見てください、と階段の手すりや、火の揺れる灯篭を指し示した。
『埃ひとつない。どこもかしこも、ぴかぴかできれいでしょう? 気持ちよく戻ってこられるようにと、みんなで掃除したんですよ。誰が言い出した訳ではなくて、自然にね。……そのうち、取りまとめた方が動きやすいからと言って、結局は大所帯の大騒ぎになりましたが』
「ソキも、掃除したのか?」
『ソキさんも、ええ、多少は……。多少……ロゼアの部屋の……机の上の整理整頓、ですとか……。多少……ほんのすこし……。……頑張っていましたよ!』
その光景が見えるようだった。そっか、とすこし笑って、ロゼアは腕に持ったアスルを無意識に抱きしめた。ふにゃりとしたやわらかい感触に頬が緩む。息を深く吸った。とん、と一段、階段を上る。一段、また一段、もう一段。もう一段。ゆっくり、ゆっくり。途切れずに。
「ソキは、どう過ごしてたんだ?」
『一生懸命だったと聞いています。毎日、毎日、ずっと』
ずっと、懲罰室の前にいたそうです、と聞いて、ロゼアはぴたりと足を止めた。ちょうど階段を登り切り、あとは廊下を歩いていけば部屋に辿り着く。
「ずっと? ……前に?」
『基本的には大人しく、じっと座っていたと聞いていますよ。基本的には。ロゼアがいつ出てきてもいいようにと、夜寝る時や、席を外すこともあったようですが。……しばしば隙をついて侵入をもくろんだり、あれこれ、色々……色々、ええと、やんちゃな……わんぱくな……ことも、していた、ようですが……』
複数人の尽力により体調を崩すことはなかったと聞いて、ロゼアは心から安堵した。
『詳しくはリボンさんに聞くといいでしょう。ルルクが机に報告書を……小冊子のような報告書を置いていましたから、そちらも。……ソキさんが待ってますよ、ロゼア』
「……うん」
踏み出す。足音はしなかった。ゆっくりゆっくり、最後の廊下を歩いていく。たどり着いた部屋は、当たり前のように鍵がかけられていなかった。扉を開き、室内に足を踏み入れようとして。ふ、と足元に視線を落として、ロゼアは己の案内妖精の名を呼んだ。肩の上から、はい、と答える声が笑いに震えている。ええと、と純粋に困惑して、ロゼアは床に点々と散らばっている、鈴や手毬や、ドミノ倒しに等間隔に置かれた本などを見つめた。
「……これは?」
『ルルクが帰った後、ソキさんが設置した罠です』
「は?」
ソキは起きて待ってるつもりなんですけどぉ、ねむたくて、ねむむないですけどぉ、ねむ、んん、おきて、る、ですけどぉっ、もしもの時のために、ロゼアちゃんが帰ってきたら音がするよにしておくです、とせっせと設置したのだと言う。鈴や手毬は転がればちりりと音が鳴り、本はぱたぱたとして騒がしいだろう。罠は扉付近に集中して置かれており、そこから寝台に近づくにつれ、てんてんと様々なものが置いてあった。籠に入ったソキの好きなお菓子や、ふかふかの枕、予備の毛布、読みかけの本、しまっておいた筈のロゼアのローブ。眠たくて、力尽きた跡。
部屋の奥。寝台の上。すぴ、とあいらしい寝息が響いている。すぴ、すぴ、きゅぅ、すぴ、とほわほわ響いてくるその音を、しばらくじっとして、聞いてから。ロゼアはふふ、と笑って、アスルをしっかり抱いたまま、てきぱきと罠を撤去した。そうですよねぇ、と結果を予想していたシディが肩の上で頷く。
『そのままにしておいたら、朝にルルクか、まぁ誰か絶対引っ掛かりますものね……転んで怪我をしてしまうかも分かりませんし』
「うん。……こんなちいさい鈴あったかな」
『手芸用の鈴だそうですよ。裁縫箱から出していました』
なるほど、と頷きながら丁寧に片づけ、ロゼアは寝台に歩み寄った。きちんと抱いていた筈のアスルが、ぽてんと落ちて寝台へ転がる。ふにゃ、とあまい声。
「あすぅ……。む、む……ぴ……くぴ……」
伸ばされた手に引き寄せられて、アスルはあっという間にむぎゅむぎゅと抱きつぶされてしまった。反射的な反応で、目を覚ました訳ではなかったのだろう。ソキはすぅすぅと眠っていた。なぜか、だぼだぼのロゼアの寝間着を着ている。寒かったのかな、とひとりごちるロゼアに微笑み、シディはその肩から飛び立った。
『さあ、おやすみなさい、ロゼア。僕ももう寝ます』
「おやすみ、シディ」
『はい。……眠れなくても、目を閉じて。横になってじっとしていてくださいね。朝になったら話をしましょう。いまはもう、おしまい』
枕のすぐ傍。折りたたまれたハンカチの上に身を横たえて、シディは目を閉じてしまった。探せば、ソキの花妖精は同じように置かれた籠の中、やはりハンカチをシーツ代わりにして眠っている。ほどなく、シディは眠ったようだった。ロゼアは寝台に腰かけたまま、すこし振り返るような体制で、眠るソキを見つめていた。これまでならソキを抱き寄せて、目を閉じて眠っていた。『傍付き』として、そうして『花嫁』を抱くことは当たり前のことだった。
いつまで、と告げられた言葉が、くらやみの中で蘇る。『傍付き』としての意識がすぐに答える。いつまでも、ソキが望む限り。ソキが望んでくれるから、ロゼアは『花嫁』に手を伸ばせる。ああ、と意識がくらやみに溶ける。ああ、でも、あの時。否定の言葉はあったのだっけ。聞こえていた気がした。けれども、よく分からなかった。もしも。もしも望まれていないのだとしたら。ロゼアはそっと手を伸ばし、寝乱れたソキの前髪を払ってやった。ふにゃむにゃ、ソキがなにかを話して、笑う。
ロゼアは囁くように笑って、寝台に乗りあがった。ソキの隣に腰掛けるようにして、膝を抱えて目を閉じる。息を、吸う。朝が来るまで、傍にいたかった。
くらやみで、ひとり。ソキは目を覚ました。ふにゃふにゃしながらアスルに頬をこすりつけ、あくびをしながら身を起こす。
「ねむったです、いくないです……。……ろぜあちゃ! あ、あっ! ろぜあちゃん!」
ソキのすぐ傍に、ロゼアはいた。寝台に座り込み、膝を抱えて眠っている。それをじっくりと眺め、ソキはきょとりと首を傾げた。どうしてこんな姿勢で眠っているんだろう。いつもならソキをぎゅっとして眠ってくれるのに。
「んむぅ……? んん、しかたがないです。それならこうです」
ふにゃむにゃと寝ぼけた声で言いながら、ソキはよじよじとロゼアのおなかと、足の隙間に頭から体をねじこんだ。ぐいぐい、ああでもない、こうでもない、と寝心地のいい場所を探しているうちに、暖かくて、ロゼアのにおいがして、うとうとと瞼がおりてくる。くぴ、とすぐに寝息が響いた。ロゼアに抱き着いている、というよりは中途半端に引っかかったような妙な体勢のまま、くぴくぴ、すぴり、とソキは完全に寝入ってしまった。だから眠ってしまってからすぐ、ロゼアが泣き笑いの顔で目を開いたことも。すぐに、いつものように横に並んで、ぎゅっと抱きしめてもらったことも。朝になるまで気が付かず。十日ぶりの安心した眠りを堪能していた。
朝、ソキはぽやぽやと目を覚ました。ふわんふわんの寝ぼけ声で、ロゼアちゃんですぅロゼアちゃんすきすきぎゅぅしてほしですぎゅぅきゃふふふふっもっとぉもっとぉきゅふふふふっはうーはうーふにゃんにゃぁ、と普段通りに甘えてはしゃぎ、そのままくぴりと夢の中へと戻って行った。きっかり十五秒の目覚めであった。それからはロゼアが声をかけても妖精が怒っても、ふにゃふにゃおきてるですぅ、と寝言を返すばかりで瞼も開かず眠り込んでいる。ロゼアにぴたっと体をくっつけてすり寄り、ぬくぬくと甘える姿は安心しきっていた。うーん見慣れたソキちゃん、とその姿を評したのはルルクである。
ルルクは気負うことなく、普通に部屋にやってきた。おはよー、入りまーす、と戸口から声をかけ、ロゼアの返事を待ってから足を踏み入れる。ソキの姿を認めるなりふっと緩んだ笑みには、安堵と喜びが滲んでいた。よかったねぇとひとりごち、ルルクはおはようロゼアくん、とごく普通に挨拶をし、追加の報告書置いておくね、と机に小冊子を追加した。それから十日前と変わることなく、じゃあ朝食は持ってくるからここにいてね、と部屋を出ていこうとするので、ロゼアはあの、と戸惑いながら声をかける。ルルクは振り返って、言葉が続く前にくちびるに指を押し当てた。
「しー。いいよ、なにか言おうとしないで。……大変だったね、お疲れさまでした。今日は夕方から面談とかあるけど、それまでの予定はない筈だから。そのままゆっくりしているといいよ。……それまでに、ソキちゃん起きるといいんだけど。どうだろうね?」
「午後には、すこし、起きると思いますが……面談?」
「懲罰室から出てくるとね、担当教員と面談しないといけないの。ちょー怒られるから、意識を明後日に逃がす方法、あとでご飯食べながら伝授するからね!」
ロゼアくんってやらかしたり、それで怒られたりするのに慣れてないと思うし、と告げるルルクは、かつて一般人に石を投げ返して重傷を負わせた咎により、懲罰室に入ったことがあるのだという。その情報を思い出し、ロゼアはぎこちなく話を聞くだけなら、と言った。指導には真面目に向き合うべきである。意識を逃してやりすごすべきではない、と思った。チェチェリアがそれを見抜けぬとも考えられない。ルルクは笑って、まあ脱法の方法を知っていて悪いことはないから、と朝食を取りに姿を消した。
控え目に、シディが言い添える。
『脱法の方法は……知っていると、悪いことですからね、ロゼア』
「うん……。うん、分かってるよ、シディ。大丈夫」
『覚悟なさいよ、ロゼア。これ多分、悪い先輩がよってたかって面白がって、悪いことをみっちり教え込みに来る流れだわ……』
それまでにソキをどうにか離しておきたい、と考える顔で、妖精が眠る『花嫁』の頬をほにゃほにゃと突く。ソキは迷惑そうな声で、おきてるですぅと繰り返し、ロゼアの胸に顔をぐりぐりと擦り付けた。そのまま動かなくなる。苛々と腕組みをし、妖精はいやこれ寝てるわ、と断言した。
『意識が全然浮上してないもの。……まあ、いいわ。どうしようもない。夕方前に様子を見に来るわ。それまでに起きて、必要だったら呼んでちょうだい。行くわよ、シディ』
『え? 僕もですか?』
『慈悲の心でソキとロゼアふたりきりにしてやろうっていうのよ文句でもある? 午後には起きるでしょうから、できれば面談前に話し合いしなさい。アンタたちに必要なのは、会話よ、会話! 話し合え!』
ソキもロゼアも、お互いにすこしの言葉で理解したつもりになってるからいけないのだ、と言いおいて、妖精はさっと飛び立った。シディの羽根をつかんで、春風のような勢いでいなくなる。入れ替わりに姿を見せたのは、ナリアンとメーシャだった。ふたりはルルクが食堂でアリシアに捕まってたから戻ってくるのにすこし時間がかかると思うよ、と告げ、眠るソキを見ると口々に、よかったねぇと笑った。
「ソキちゃん、うんと頑張ってたよ。……ロゼアはちゃんと眠れてた?」
「……あんまり。でも、休んだよ」
「そっか。……そっか、うん、じゃあ、いま、すこし話があるんだけど。いい? いいよね? するよ?」
ロゼアがなんの声を返すより早く、ナリアンはやや勢いよく寝台に腰を下ろした。そのまま、ロゼアとしっかりと目を合わせる。
「ばか」
「えっ」
「ばか! もーロゼアはいつもそうやって! ひとりで問題を抱え込む! 俺はそんなに頼りない? 頼れない? これからは絶対に頼らせてやるから覚悟しておいて……! ロゼアが問題を起こすたびに、ナリアンどうしよう……って言うようにしてみせるから!」
悔しかったよ、とナリアンは言った。助けも求められないで。振り返ることさえしないで。立ち止まりさえしてくれずに。ひとりで。ひとりきり。いなくなってしまって、悔しかったよ。寂しかったよ。苦しかったよ。どうしようって言ってくれてよかったんだよ。一緒に考えたり、なにかしたり、したかったよ。友達だろ。友達だって思ってくれてるだろ。頼ってよ、頼れるようになってよ。ロゼアが俺を、頼れるようになるから。感情を揺らして、泣きそうになりながら。ナリアンは言った。そうだよ、とメーシャも微笑んで告げた。
「今まで聞かないでいたこと、たぶん、たくさんあるから。聞かせて欲しい。分かっていたつもりだったこととか、分からないでもまあ、いいかなって思ってしまっていたこと。それが本当は、どういうことなのか。……ロゼアの常識と、砂漠の常識と、俺の常識。たぶん本当に、全然、違うんだって、思い知って、でも……ちゃんと尊重しあえるようになりたい」
「……言えないこと、多いと思う」
「言えないことと、言いたくないことは、いいよ。それは言えないとか、これは言いたくないとか、でも教えてね。ロゼア、俺たちはね、言われないと分からないんだよ。ああ、そういう意味だったんだって、こんな形で思い知るのはね、もう嫌だな」
言ったつもりと、分かったつもりで、すれ違ってしまうばかりで、悲しかったね。悲しくて辛くて苦しかったね。だからもうこんな風にならないようにしよう。こんな風には、別たれてしまわないようにしよう。その為に話そう。たくさん、たくさんのこと。大事なことも、なんでもないことも。きっとうんざりするくらい、分かり合えないし、通じ合えないし、理解できないことなんていっぱいある。でも話そう。でも、話そう。何度でも話そう。俺はそうしたいな。ロゼアとそういう風にしていきたい。だからね、俺のワガママに付き合ってよ、ロゼア。
「それで最終的に、ロゼアが困った時には、メーシャたすけて……って言うようにしてみせるから!」
「そ……そんなに困ったり、問題を起こしたり、しないと思う、けど」
「ロゼア。問題と困りごとはね、ロゼアが避けても向こうから絡んでくるんだよ。今回の寮長みたいに」
だから一緒に避けたり、迎え撃ったりしようね、とメーシャは煌びやかな笑顔で言った。覚悟が完了している笑顔だった。ナリアンもしきりに頷き、落ち着いたらお茶しようね、と言って立ち上がる。
「それまでに俺も勉強しておくからさ。砂漠のこととか、寮長の埋め方とか」
「証拠隠滅って大事だよね。……うん。次は上手くやろうね、ロゼア! とりあえず今度、喧嘩の練習しようね。俺とナリアンが相手だよ、よろしくね」
「よろしくしたくない……!」
そもそも喧嘩をしたくない。しかし、それが担当教員からの指示であると聞いて、ロゼアは額に手を押し当てた。どうあがいても逃げられない。ナリアンとメーシャは、ロゼアの肩に左右それぞれ手を置いて慰めると、他にも色々あるけど、と告げた。
「追々ね。しばらくはロゼアも忙しいだろうから、心配しないで、自分のことにだけ集中するんだよ。困ったら、メーシャ助けて……って呼んでね」
「そうそう。問題になる前段階とかでも、ナリアンどうしよう……って言ってくれていいから」
「ふふ。絶対、ソキも参加してくるよ。『ロゼアちゃんの助けても、どうしようも、まずソキ、ソキでしょ! ソキもするロゼアちゃんの助けてと、どうしようをするっ』てちたぱたするよ。楽しみだね」
もぞぞ、と動いたソキが、眉を寄せながらロゼアの胸元に顔を擦り付ける。起きてるですぅ、と弱々しく訴えるのに笑って、ナリアンとメーシャはおやすみ、ゆっくり寝てね、と囁き落とした。すぴ、ふす、と寝息が深くなるのを確認してから、それじゃあね、と出ていこうとする二人に。ロゼアは言葉を探して、迷いながら口を開いた。ナリアン、メーシャ、と呼ぶ。ん、と気負いなく振り返る二人に、ロゼアは頭を下げた。顔を上げて、告げる。
「ごめん。……ありがとう」
「どういたしまして。これからもよろしく、ロゼア」
「よろしくね、ロゼア」
よろしく、ありがとう、と言うロゼアにくすぐったそうに笑って、二人は部屋を出て行った。今日の朝ごはんはなんだろうねー、と声が遠ざかっていく。ルルクが食堂にいるのを見て、ちょうどいい、と先にロゼアの元へやってきてくれたらしかった。足音と、声が部屋の前を通っていく。いくつかは緊張交じりに。いくつかは、普段通りに。ひょい、と部屋を覗き込んで手を振っていく者もいた。そうしてすぐにいなくなる。穏やかなざわめきの間を縫って、駆け寄ってくる足音がひとつ。それは戸口で勢いよく止まると、はー、と大きな息を吐き出した。
「お待たせしましたー。ごめんね、遅くなりました! 聞くの忘れてたけど、ロゼアくん、食欲ある? そのままでごはん食べられそう?」
「あ、はい。お気になさらず……。行ってくださって、ありがとうございました。食欲はあるし、食べられます」
「ふにゅぅ。そき、そきはぁ、おきてぅ……おきてる、です……」
ぐりり、とロゼアに額をこすりつけたソキが、またむにゃむにゃと主張をする。今度こそ起きるのかと見つめるルルクの視線の先、ソキはもちゃもちゃと座り心地を調整し、ぎゅむりとロゼアに抱き着きなおし、くぴぴー、と気持ちよさそうに眠りなおした。しあわせそうに、くふくふと笑っている。なるほどなぁ、とルルクは微笑みながら頷いた。
「夢うつつだねぇ。私もこれ食べたら、食器片づけにまたいなくなるから、安心してね。もうちょっと静かな方がきっとよく眠れるもんね」
「音や話し声は、そう大きなものでなければ大丈夫ですよ」
「うん。じゃあ声が大きくならないようには、気を付けるね。まず、意識を明後日に受け流す方法なんだけど、意識の焦点を前方右斜め四十五度に落としてぼやけさせつつ、視線は前にいる人から外さないでおくのね。表情は真剣、かつ、大変なことをしてしまった……申し訳ない……反省してます……もうしません、みたいな感じを滲ませて、瞬きはゆっくりめ、時々目をぎゅっと閉じて深呼吸して、相手の罪悪感を刺激していこう!」
ロゼアは微笑んで、素早く、その話題やめにして頂いていいですか、と言った。ええぇ、とルルクはサンドイッチにかぶりつき、ハムおいしいね、と告げるのと同じ口調でもしかしてなんだけど、と目を瞬かせる。
「ロゼアくん、お説教は長く受けたい気持ち? 夕方からの面談なんでしょ? 深夜まで及んだらことだよ? 昨日だって夜遅かったんだし……」
「いえ、真剣に向き合いたいので、そういったことはちょっと」
「そう? そう言うなら……。まあ、面談終わって気が変わったら言ってね! いつでも伝授するからね!」
ありがとうございます、とだけロゼアは言った。うん、とルルクは嬉しそうに朝食を頬張り、眠るソキを嬉しそうに見つめた。ロゼアの腕の中へ。損なうことなく、ソキを受け渡せたことに、心から安堵しているようだった。ふ、と純粋な好奇心で、ロゼアは口を開く。一応、どれくらいで戻れるのかを知って、ソキのことを託さねば、という気持ちもあった。
「ちなみに、ルルク先輩の……その、出てきた時の面談って、どれくらい時間かかったんですか?」
「開始から? 途中二回休憩を挟んで、四時間二十八分五十秒」
「……計られてたんですか?」
意識の逸らし方といい、そういうことをするから長引いただけでは、という疑惑のまなざしに、ルルクはいやちょっとその、ともじもじ手をこすり合わせて、思い切り視線を逸らした。
「私の場合は、なんというか……。石を投げたのもそうなんだけど……。こう、胸倉を掴んで顔を殴ってそのまま後頭部を床に叩きつけたのと、刃物で首を狙ったのは明確な害意があったと……認定され……。私もそれを認め……。結果としてちょっと洒落にならない重罪になりかけ……。それをちょっと、こう、あの、うやむやにするために、しなければいけないことが多かったというか……。一人で立ち回るな助けを呼べ的なお叱りが……なっがくて……」
「あの? なんだか聞いてた話と違うような……うん? 待ってください。何人いたんですか?」
「ちっ、気が付かれたか。三人です」
あ、アリシアにはナイショにしててね。公的にも石を投げたことだけしか残ってないというか、公表されてないからね、と告げるルルクに、ロゼアは深く息を吐きだした。えへへ、とルルクは照れ臭そうに笑っている。かける言葉に迷って、ロゼアはご無事でなによりです、と言った。うん、と眩し気に目を細め、ルルクはロゼアくんと寮長もね、と囁く。その形が損なわれなかったことを。心から安堵して、喜んでいる声だった。
ロゼアはずっと、眠るソキを抱き上げていた。膝の上に乗せて、片腕で体を引き寄せぴったりとくっつく。慣れ親しんだ『花嫁』の抱き上げ方。ソキはすっかり安心した様子ですぅすぅと眠り、時折、ロゼアが抱く腕を変えるのに体勢を変えても、おきてるですぅとむずがることはなかった。やんわりとした線を描く額。まあるい頬。ちいさく開いたくちびる。時折動くまぶた。かすかに響くやんわりとした、声の形を成さない音。心音、体温、あまいぬくもり。全幅の信頼を預けてもたれかかる体。ロゼアに絡みついたソキの腕には、きゅぅ、と力がこもっている。
ひとつ、ひとつが、大切で。ひとつ、ひとつ、すべて、いとおしかった。指先で頬を撫でるとくすぐったそうに笑う。『傍付き』の幸福のすべてが、そこにあった。ロゼアのしあわせのすべてが。だからずっと、見つめていた。眠りに満たされたソキが、ふあぁ、と息をして、その瞼を開くまで。
「んむ、むぅ……。よく、ねた、です……。ソキ、なんだか、よぉく、ねむった……」
「……起きる? ソキ」
「おきるです。ろぜあちゃん、おはようのぎゅぅ……。おはようの、ぎゅうをしてほしです。はやくぅはやくぅ」
ふ、と笑みを零して。ロゼアはソキをぎゅっと抱きしめた。ぽん、と背を叩きながら、おはよう、と囁き落とす。幸福そのものの、蜂蜜めいたとろとろの声がくふくふと笑う。
「ろぜあちゃん、ろぜあちゃん。おはようございますですよ。ろぜあちゃんあのね、あのね……。……あ、あ! あぁあっ! ろぜあちゃん! ロゼアちゃんですぅ! ロゼアちゃん、そ、ソキですよ! ソキ、ソキですぅ!」
「うん。うん、うん。俺だよ、ソキ。ソキ、ソキ」
「会いたかったですうぅうう! ソキいっぱい会いたかったですぅ! 寂しかったですぅぎゅっとして! いっぱいいっぱいぎゅっとして!」
ねぼけまなこが大慌てで瞬きし、朝露と共に見開かれた瞳が輝きを取り戻す。息を吸うように、深く。翠の瞳が鮮やかに輝く。
「ろっ、ろぜあちゃ、どうしてソキを置いて行ったですか! いけないでしょ! ソキも連れて行ってくれないとだめですぅ! ソキをどうしてお部屋に入れてくれなかったですか! ソキ、ソキ、いっぱい呼んだぁ!」
「……うん。ごめんな、ソキ。ごめん」
背中に回された腕が、淡い力でめいっぱい引っ付きながら、ぺちぺちとロゼアのことを叩く。癇癪を起して泣き叫ぶソキに、ロゼアはごめんな、と繰り返し告げた。苦しいくらい、言葉が体の奥まで響く。求められている。求められていた。『花嫁』に。ソキに。ひたひたと、足元から満ちていく。
「飴、送ってくれたろ。届いてたよ。ありがとな、ソキ」
「ほんとはね、ソキがお届けしたかったんですよ」
「そっか。……ありがとうな、ソキ」
ぐしゅぐしゅ鼻をすすって、ソキはロゼアをじっと見つめた。つむん、とやや不満そうにくちびるを尖らせながらも、こくんと頷く。ロゼアは微笑んで、ソキの頬を幾度か撫でた。あまくやわらかで、すこしだけかさついて、ざらりとした肌。『傍付き』が十日も離れた『花嫁』としては、十分すぎる程に整えられている。ルルクの苦心と努力が見て取れた。損なわれなくてよかった、と息を吐く。けれどもそれは、ロゼアがいなくても。ソキが損なわれないということだ。『花嫁』が弱り切りはしないということだ。ソキ、と囁いて、ロゼアは『花嫁』を腕に抱いた。ソキはもう、『傍付き』が運ばなくとも生きていける。
いつからだろう。それが不安だったのは。『学園』で再会した時に、その存在を一瞬信じられなかったのは、その為だった。一人でどこかへ行くなんて。ロゼアがいなくとも、どこかへ行くなんて。そんなことはなかったのに。腕の中に『花嫁』がいるのは幸福だった。ロゼアの幸せのすべて。それが脅かされると感じたのはいつだっただろう。いつからだっただろう。息を吐く。目を閉じる。ソキの存在を腕いっぱいに感じて満たされる。己の存在が許されるような気持ちになる。それなのに、目をそらし続けた不安が蘇る。いつまでだろう。幸福のすべて。ロゼアの幸いが、この腕の中にいてくれるのは。
別れの時は過ぎ去った筈だった。ふたりは共に魔術師になり、そうであるから、離れ離れにはならない筈だった。『傍付き』と『花嫁』ではないから。魔術師のたまごだから。ソキはひとりで歩いて行ける。この腕を離れても。『花嫁』ではないから。『傍付き』ではないから。ふたりは、もう、魔術師となり。魔術師として、生きていかなければならないから。
「……ソキ」
「ロゼアちゃん?」
「ソキ、ソキは……」
それでも。『傍付き』の形に、加工された魂が血を吐くように叫んでいる。求められるなら。求められている、その最後の瞬間までは。離れたくない。それでも、それでも。それならば。
「ソキは」
確かめなければ、いけないのだと。
「ソキは、これから俺と、どうなりたい?」
求められるなら、望まれたように。その願いを叶えることが、ロゼアのしあわせ。だから求めてほしい。望む言葉を削り取られた『傍付き』の、ロゼアの、それがせいいっぱいだった。ソキの。『花嫁』の、あまい輝きを宿した瞳が、ぱちくり瞬いてロゼアを見る。それだけで、ソキは迷わなかった。声はすぐに響いた。なんの為にか震えて、かすれた、淡く甘い声で。ソキは囁く。ただひとりを求めて。
「ロゼアちゃん、ソキはね。『花嫁』じゃなくてね、魔術師の、たまごでもなくてね。ソキはね、ソキはね……。ソキは、ロゼアちゃんと離れたくない。ずっと一緒にいたいです。それで……それでね、それで。だからね……だから、ね」
「……うん」
「ソキはね、ソキはね……? ロゼアちゃんを幸せにできる、女の子になりたい。『花嫁』じゃなくてね、魔術師のたまごでもなくてね、女の子になりたい。ロゼアちゃんを幸せにできる女の子になってね、それでね、ロゼアちゃんのお傍にいたいです。は、離れたくない、です」
ロゼアには、深く心に沈めたものがある。鍵をかけて。目隠しをして。そうして壊されないように、隠し続けたものがある。いつか、もしかしたら、と夢を見て。失わないように抱え続けたものがある。こころを。『花嫁』になる前の、ソキに。抱いた心を。ソキが『花嫁』になってからも、抱き続けた心を。鍵をかけた心を。
「だ、だからね。だからね……ロゼアちゃん」
「うん」
鍵を持つたったひとりに。
「ロゼアちゃんがソキを、どう思ってるのか、教えてほし、です。……そ、ソキはね、ロゼアちゃんが好きなの。『花嫁』のソキも、魔術師のソキも。そうじゃないソキも、ロゼアちゃんが好きなの。『傍付き』で、魔術師さんで、でも、それだけじゃなくて、ロゼアちゃんが好き。ロゼアちゃんにソキを、す、すきに、なって、ほし、です。だ、だからね、だからね……。そき、ソキ、頑張るです。頑張るですからね、ロゼアちゃんがいま、ソキのこと、どう思ってるか教えてほしです……!」
解き放たれるのをずっと、待っていた。
「ソキ」
「ろぜあちゃ」
視線を重ねて、微笑んで。そっとくちびるを重ねる。ぱちくり瞬いたソキの目は、ただロゼアのことを見ていた。
「愛してる」
「ろ、ろぜあちゃ……」
「愛してるよ、ソキ。誰より、なにより、ソキのことを愛しているよ。ソキはもうずっと、俺を誰より幸せにしてくれている。俺を幸せにしてくれる、女の子だよ。ずっとずっと、そうだったよ。ずっと、そうだよ……!」
一緒にいような、と囁き落とす。傍にいような。これからも、これまでみたいに。ずっとずっと、一緒だ。
「好きだよ、ソキ。好きだ。俺の『花嫁』、俺の最愛の宝石。ずっとずっと、ソキが好きだよ。ずっと好きでいたよ。ソキのことを愛してるよ」
「ほ、ほんと? ほんと? ロゼアちゃん、ほんと? ほんと……?」
「ほんと。……ソキ、ソキ、泣くことないだろ。おいで」
息をつめて。目をぎゅぅっと閉じて。ぽろぽろ涙をこぼしてしゃくりあげるソキを、ロゼアは強く抱き寄せた。ロゼアの幸福。幸いの全てを、腕いっぱいに閉じ込めて。ぎゅむっと抱き着いてくるソキの頭に、頬をくっつけて笑った。
「『花嫁』のソキも、魔術師のソキも。変わらないよ。俺を幸せにしてくれる。俺のかわいい女の子だよ。……好きだよ、好きだ。ソキのことが好きだよ、愛しているよ」
「ソキも、ソキも。ロゼアちゃん、ソキも!」
「……好きだよ。だから、ずっと一緒にいような」
ソキは幾度も頷いて、一緒にいるです、と繰り返し告げた。一緒にいる、ずっといる。ロゼアちゃん好き、大好き。離れたくなかった。どこにも行きたくなんてなかった。ロゼアちゃんの傍にいたかった。それでも、でもね、ロゼアちゃんの『花嫁』はソキがよかった。ソキだけがロゼアちゃんの『花嫁』で、ロゼアちゃんだけがソキの『傍付き』がよかった。他の誰にも、なんにも渡したくなかった。腕の中でぐずるように告げられていく『花嫁』の言葉を、ロゼアはひとつひとつ、うん、と言って受け止めた。俺もだよ、と囁く。俺も同じだよ。なにも、なにひとつ、ほんとうは。どこにも。誰にも。
ずびずび鼻をすすって顔をあげて、ソキは瞼を手でこすった。息を吸う。他の誰に理解できなくても。ロゼアならそれを分かってくれると、知っていた。
「ロゼアちゃん」
「なに?」
「ソキは、ソキは優秀な、ロゼアちゃんの『花嫁』だったでしょう? ソキ、誰より、とびきり、一番! かわいくって、かしこくって、すごい、えらーい! 『花嫁』だったでしょう?」
誇らしく、胸を張って。わくわくと答えを待つ『花嫁』に、『傍付き』は破顔してもちろん、と告げる。
「ソキは最優の『花嫁』だったよ。誰より、世界一、可愛くて素敵な、俺の『花嫁』だったよ。『お屋敷』だって認めたろ? 最優の『花嫁』、俺のソキ。……ソキ、ソキ。よく頑張ったな。よく頑張ったな、偉かったな。可愛いかわいい『花嫁』のソキさん。俺の自慢だよ。誇らしく思っているよ」
「うん! ……えへへ、そうなの。ソキね、とっても頑張ったの。とってもとっても頑張ってね、だからね、ロゼアちゃんもなの!」
「俺も?」
きょとん、とした問いかけに、『花嫁』だったソキは告げる。満面の笑みで。花束を差し出すように。
「ソキの『傍付き』のロゼアちゃん。とってもとっても、よぉく、頑張ってくれていたです! 頑張ってくれていたの、ソキはちゃんと知ってるです。知ってるですよ! ロゼアちゃんがどんなに、どんなに、頑張っていたか……。ソキはね、うれしです! いっぱい自慢で、誇らしく思うです。ソキの『傍付き』のロゼアちゃん。いっぱい、いっぱい、頑張ってくれてね、ありがとう!」
苦しかったことも。悲しかったことも。筆舌に尽くしがたい痛みも、なにもかも。包んで、ぎゅっと抱きしめられるような気持ちで、息を吸う。報われた、とするなら、この時だった。なにもかも全て。失われたものは、戻らないけれど。手放したものは、もう遠くにあるばかりだけれど。そうしてよかったと、思う。心から。ロゼアの幸い。幸福の全てが、それを祝福してくれるなら。満ちて、満ちて、溢れるくらい。いっぱいになる。
「ありがとうな、ソキ。……ありがとな」
「うん! きゅふ、きゅふふふふ! あ、あのね、ロゼアちゃん。あとでね、ロゼアちゃんがいなかった間のね、ソキの頑張りのお話をね、聞いて? ソキはねぇ、説明会したり、りょうちょをけちょけちょにはんせーさせたり、うふふん、いろいろ頑張ったんですよ!」
「うん。聞くよ。話して、ソキ。……あとでで、いいの?」
うん、とソキは頷いた。いまは、おはなしより、ロゼアをいっぱいに感じていたいので。ソキはきゅふきゅふごきげんに笑いながら、ロゼアに体をくっつけてすり寄った。ふ、と笑ったロゼアが、いつもよりうんと強い力でソキを抱きなおしてくれる。胸いっぱいに息を吸い込んで、ソキはぱちちっ、と瞬きをした。
「……ちゅ、ちゅ……ちゅうですうぅうぅ!」
あわわわわわっ、とソキはちたちたと興奮した。夢とか幻とかそういうのでなければ、確かにソキはロゼアにちゅうをしてもらった。してもらったのである。は、はわ、はぅにゃ、とぷるぷるしながら上目遣いにロゼアを見ると、にっこり笑って額が重ねてこすりつけられる。
「ちゅう? したい?」
「したいですぅ! えっろぜあちゃソキにちゅうしたぁ? したぁ? ねえねぇ、ほんと? ほんとにした? して? やぁんソキよくわからなかったですぅいっぱいしていっぱい!」
「いいよ。ソキが満足するまで、いっぱいしような」
ふふ、と笑って。くちびるにも、額にも、頬にも、鼻先にも、ロゼアが触れていく。きゃぁ、とソキはあまやかに笑った。笑って、笑って、ころりと涙が零れていく。それを指先で拭って、唇ですすって、ロゼアは泣かないでもいいだろ、と囁いた。もうずっと、一緒だ。繰り返し、繰り返し、囁いて。囁かれて。ソキのとろりと熱にうるんだ瞳が、ロゼアを見て笑う。ソキは手を伸ばして、ロゼアの頬に触れた。零れ落ちた涙を拭って、笑う。ずぅっと一緒ですよ、とソキは囁いた。約束のように。ロゼアは、うん、と笑ってソキに口付けた。
約束のように。誓いのように。