ぽやぽやした幸せに満たされたまま、ソキはあっという間に熱を出した。なにせ十日ぶりのロゼアだったのだ。それだけでも体調を崩すに十分すぎる理由ではあった。よって、ソキの記憶はその日の昼まででぷつりと途切れている。ロゼアが運んできてくれた朝食兼昼食をもしょもしょと食べ、やたらと重たい瞼をまったりと動かし、薬を飲んで寝台にころりと転がった。それがはっきりとした記憶の最後で、次にソキの意識がしゃんとした時、月日は一週間過ぎていた。一週間は寝る、起きる、食べる、寝る、の繰り返しで、ソキはふあふあとあくびばかりをしていた。その腕の中からアスルがいなくなることはなく、いつも傍にはロゼアの熱があった。
一週間、ロゼアは忙しくしていたらしい。担当教員との面談から始まり、調書が取られたり医師の診察を受けたり、あれこれと反省文や誓約書をしたため、親に事情説明の文書が送られたり、それに対して『お屋敷』から様々な手紙が届いたり。『学園』の先輩や王宮魔術師がひっきりなしに顔を出しては、ろくでもないことばかりロゼアに教えようとしたり。ナリアンとメーシャと喧嘩の練習をして、仲直りしたり。寮長との相互謝罪はまだ済んでいないとのことだった。体調がうまく回復しきらないのだという。白魔術師は相変わらず寮長の回復を拒んでいて、自然回復にはまだまだ時間がかかるようだった。
ソキは寮長がロゼアに謝ったりするのをぜひとも見たいと思っていたので、ほっと胸を撫でおろしながらも、きゅぅんと眉を寄せてくちびるを尖らせた。まったく、なにをしているのだか。体調が悪い時にはたくさん眠って食べて、じっとして回復をするのが一番だというのに。それをさぼって動いたりしようとするだなんて、いけないことだった。ぷうぷぅと頬を膨らませて主張するソキに、ナリアンとメーシャは顔を見合わせてくすくすと笑い、そうだよねぇ本当にそうだ、ソキちゃん元気になるの上手だね偉かったね、と明るく告げた。ソキは自慢げにふんぞりかえり、ふんすすと鼻を鳴らしてでしょおぉお、と言った。
ソキがぽんやか目を覚ましてからも、部屋を出入りする者の数は多かった。ルルクに始まり、ナリアンとメーシャは一日二回、朝に夕にと必ず顔を出しては『学園』の様子を教えてくれたし、スタンやガレン、ユーニャが訪れては、お見舞いと一緒にロゼアの様子を見て帰って行った。ガレンやユーニャは在籍年数の長さを伺わせるゆったりとした口調で、反省文とか資料とか相談事があったら受け付けるよ、とロゼアに囁き、助力の用意があることだけを告げて去って行った。ロゼアは気持ちだけで、と数日で慣れ親しんだ言葉を繰り返し、各方面へひっきりなしに文章を送った。
ソキの体調も、ロゼアの忙しさも、部屋を訪れる者の数も。落ち着いたのは、さらに一週間以上が経過してからのことだった。その環境で、起き上がって食事をしても、ソキの体が熱をぶり返さなくなるまでには、さらに数日。一日、発熱の兆候もなく過ごせた、その翌日。ソキはようやく部屋の外にてちんと足を踏み出し、朝のまばゆい空気を胸いっぱいに吸い込んで、きゃふふふっ、と嬉しそうに身じろぎをした。
「おはようございますーですぅー! 朝の、元気いっぱいなソキ! 元気いっぱいなソキがぁ、おはようをしに行くですよー!」
ロゼアが扉に施錠する間、ソキはきゃふきゃふと笑いながら、廊下を過ぎ去っていく先輩たちに元気いっぱい、楽しそうに宣言した。あ、起きられるようになったんだ、よかったねー、無理しないようにね、ソキちゃんおはよー、ロゼアおはよー、といくつも声が飛び交っていく。ロゼアはほっと緩んだ笑みでおはようございますと声を返し、あるいは目礼してそれらに答えた。ソキの機嫌がやたらと良い以外は、入学以来積み上げてきた、いつも通りの朝。いつも通りの日常である。それを大多数が、まだ意図して行いながらも。『学園』はようやく、ただ過ぎていく日を取り戻している。
ソキは今日はお熱じゃないの、お咳も出なくなったからお部屋の外に行けるようになったの、それで今日もロゼアちゃんが大好きなの、それで元気いっぱいだからおはようをいっぱいしに行くの、なんといっても元気いっぱいなソキ、元気いっぱいなソキですからね、というような内容をふんにゃふんにゃと歌っているソキに、忘れ物がないかを確かめ終えたロゼアが、ひょいとしゃがみこんで微笑みかける。元気なの嬉しいな、よかったな、と囁きながら、ロゼアの手がソキの頬を包むように撫でた。
「それで、ソキ。おはようをしに行くの? 誰に? どこに? どうして?」
「んん? ソキはたくさんお熱の、お咳の、おねむりさんだったですからね。みんなに元気になったって教えてあげなくっちゃいけないです。だからねぇ、朝ご飯を食べたら今日はお散歩をするです! あっロゼアちゃん? だっこぉだっこぉだっこぉ!」
「そっか。ソキは思いやりがあって偉いな、可愛いな。お散歩は、ご飯を食べてしばらくして、お熱が出なかったらにしような」
ひょい、とロゼアの腕がソキを廊下から攫いあげる。はふー、とようやく落ち着いたとでも言わんばかりの満足げな息を吐き、ソキはロゼアにぴとりと体をくっつけた。首にくるりと腕を回し、きゃっきゃとはしゃぎながら、楽しげに朝ごはんのメニューや、散歩のことなど、とりとめもなく話し出す。それに丁寧に、優しく、穏やかに、ひとつひとつ返事をしながら、ロゼアはゆったりと廊下を歩きだした。その背を上空から見下ろし、妖精は腕組みをして首を横に振った。
『……いやロゼアこれ悪化してない? 悪化してるんじゃないの? ちょっとシディどうしてアタシと目を合わせないのよこっち向きなさいよちょっと! 案内妖精としてなにか意見はないのかって聞いてるの』
『出てくるなりいきなり、ゆうに半月以上を寝込まれたロゼアの心痛を慮って、多少は大目に見ても良いのではないかな……多少は……と思っています』
『心痛を感じていたようには見えなかったから言っているのだけれど?』
妖精は苛々と髪をかきあげ、シディにロゼアの、ここ半月の様子を思い返させた。ロゼアが出てきた日の夕方。ソキが寝込んだと聞いてシディを引き連れ戻ってきてみれば、すでにその意識は夢に落っこちていた。ソキが微熱を出して寝込むのなんて、いつものことである。予想より発熱が早かったが深刻な体調不良に直結する感覚もなく、ロゼアの空気も張りつめていなかったので、特別な問題だとは感じなかった。ソキの機嫌がやたらと良いな、と思わなくもなかったが、強制的なロゼア断ちのあとである。大体、ソキはロゼアがいれば機嫌がいいのが通常である。妖精にしてみれば、こんなもんかしら、くらいの感覚だった。
引っかかったのはロゼアの方である。戻ってきたシディがおや、と目を瞬かせて首を傾げるくらい、身に纏う空気が緩んでいた。肩の力が抜けていて、まさしく重荷を下ろしたような佇まいだった。熱を出すソキの世話をする態度は落ち着いていて、穏やかで、幸せそうだった。その幸せそうな空気のまま、ロゼアはこの怒涛の半月を過ごしていた。面談と反省文と面談と誓約書と反省文と報告書と、報告書と面談と手紙と反省文の嵐。それを、ロゼアはどこか地に足のついていないような、ふわふわした幸せそうな気配でやりこなして。ソキを抱き上げては膝の上に乗せ、離れず傍にいた。
反省していないとか、行いを苦しく思っていないだとか、そういうことではない。ただ、どこか、浮足立っている。その様子はチェチェリアを逆に不安がらせ、心因性のなんらかを心配され、医師と面談まで組まれたと聞いている。健康だったとのことだ。その医者ヤブじゃないの、と疑ったのは妖精で、シディはロゼアもソキさんが十日ぶりということですから嬉しいのでは、と控えめに意見するに留まった。表面的にはいつも通りの、真面目で勤勉で、丁寧なロゼアである。多少の疲れは見え隠れしたが、それだけだった。過度に落ち込むことはなく。高揚しすぎることはなく。落ち着いていた。
落ち着いていたのだが。なぜか、なんとなく、ふわふわしている。魔力は落ち着ききっているのでそういう異変ではありませんから、と首を傾げ、食堂へ向かって飛びながら、シディはようやくそれに思い至った者の顔で、はっと息を飲んで目を見開く。
『もしかして! なにか良いことがあったのでは? とびきり嬉しくて、幸せになれるような良いことが。ソキさんのご機嫌もずっと良いですし、リボンさん、なにかお聞きでは?』
『聞いたわよ? 『じつはぁ、ソキぃ、な、なんと! ロゼアちゃんとずぅっと一緒にいることにしたんでぇ。それでこれは、とっておきのひみつなんですけどぉ、ソキ、ソキねぇ、ロゼアちゃんをしあわせにできるの! ソキ、ロゼアちゃんだぁいすきなの! きゃぁんきゃぁんきゃうぅー!』って言ってたわ。なにひとつ変わらないいつものソキよ』
『うぅん……? あとで僕からも、ロゼアに聞いてみますね』
結果は共有してちょうだいね、と妖精が息を吐く。大した成果を期待していない声だったが、シディは気を悪くすることなく、くすくすと笑ってはい、と言った。どちらも嫌な予感はしていないので、問題視する程でもないからだった。久しぶりに羽根の先までのびやかに広げるような気持ちで、シディと妖精は『学園』を飛んだ。おはよう、とそこかしこから声がかけられる。天気のよい、穏やかな朝だ。引きこもったり、誰かを避けたりして部屋に閉じこもっている者は、もう殆どいない。あとは時間と対話が解決していくだろう。新しい問題を起こされなければ。
それなのに。
「あ、あぁああー! たいへん! 大変なことですぅー! リボンちゃんりおんちゃんりぼんちゃ!」
『ふんわかふんわかした発音ばっかりして……! もう、なに?』
食堂の席にちょこん、と座ったソキがあわあわと妖精を呼ぶもので。なんの事件なのかと、妖精は息を吐きながら滑空してやった。ふわん、とソキが見上げなくてもよい高さで止まり、軽く周囲を見回す。周囲の視線はほのぼのとしていた。緊迫感などひとかけらもない。ロゼアも走って戻ってこない。よし、事件ではないな、と確信して、妖精はソキを促した。ソキは椅子の上ではわわと大慌てしながら、大変たいへんですうぅう、と身震いしている。
「そ、ソキ、ソキが知らない間に、さんがつ! 三月になっちゃったです! 二月あったぁ? ほんと? い、いまは三月なの? どうしてですぅっ!」
『……ああ、日付? 気が付いてなかったの。そう……』
ロゼアが独房に自主避難をした日が、すでに一月の末である。そこから出てくるまでに十日間。出てきてから、ソキが熱を出したのが一週間。そこから、熱が下がりきって咳も落ち着き、ロゼアがソキを部屋の外に出してもよいと判断するまでが、二週間。ゆっくり言いながらソキに計算させ、妖精は納得しきれない顔でむむっとくちびるを尖らせる己の魔術師に、諦めなさいなと首を振った。
『ソキがどう思おうとなんだろうと、事実として今は三月よ。三月三日』
「そう! だから今日はね、桃祭りの日って訳! とりあえずこれ、はい、蜜柑! 甘くておいしいよ。それで、おはよう、ソキちゃん。熱下がってよかったね。リボンちゃん先輩、シディくんも!」
『桃の祭りでなんで蜜柑が出てくるのよ』
そこは桃ではないのか。意味不明な顔をして突っ込む妖精に、ルルクは言われて初めて気が付きました、という顔で瞬きをした。
「さぁ……? あ、でも桃も食べるって言ってたよ? 夜はいっぱい桃のデザートがあるんだって。いま作ってるって聞いたけど……ただ朝は、桃じゃなくて蜜柑があった。山盛り蜜柑パーティーへようこそ! って感じ」
ほらあっち、とルルクが指さす食堂の、受け渡し口付近。確かに大量に籠が並べられ、蜜柑が山ほど盛られていた。いやなんでよ、と妖精が半眼で息を吐く。桃祭りだからねぇ、とルルクは立ったまま蜜柑を手でむいて、ひと房ぱくりと口に入れる。
「ん、あまーい! よしよし、大当たり! はい、ソキちゃん。食べる?」
「ルルク先輩? ソキに、あーん、をさせてあげるです。あーん」
『怠惰!』
指が汚れるのが嫌なソキがぱかりと口を開けてねだるのを、妖精が一言で叱り飛ばす。そうこうしている間に戻ってきたロゼアが、ルルクの手からひょいと蜜柑を取り上げた。ひと房をやはり、ソキより先に食べてから、うわあまい、と目を見開いて呟く。ひょい、とひと房をソキの口に運び入れて、ロゼアはあとはご飯を食べ終わったらな、と囁く。
「おはようございます、ルルク先輩。先輩は、朝食は? あと桃祭りとは……?」
ロゼアにはどうにも覚えのない祭りである。砂漠の文化ではない。はて昨年もあっただろうかと思うが、うまく思い出せなかった。ルルクは今年から新設されたお祭りなんだって、とさらりと告げ、どこか忙しなく食堂の出口付近へ視線をやった。
「朝ごはん、先に食べちゃった。ごめんね、午前中にちょっと用事が詰まってて。また後で来るから! 行動予定は一昨日とあんまり変わらない感じだから、あれを参考にしておいて? 桃祭りについて、詳しくは談話室に説明の紙があったと思うけど……春の訪れを祝ったりしながら、桃と蜜柑を食べる祭り? ううぅ、悔しい、説明しきれないだなんて……!」
「きゃぁん、あまぁーい! ソキ、おみかんだぁいすきー!」
つまり、祭り中毒の白雪出身者たちが、なんやかんやした結果ということだろう。白雪の祭りに対する情熱を、ルルクからの報告書でふんわり聞いていたロゼアが、なんとなくの理解でそうですか、と頷く。ソキに差し障りのない行事であることは、あとでしっかりと確かめておかなければ。そう思うロゼアに大丈夫だよと笑いながら告げて、ルルクはそれじゃぁね、と小走りに食堂を出て行った。あとで談話室へ行って説明の紙を読もう、と思うロゼアの傍らで、ソキが機嫌よく、ふんわかふんわかした響きで歌い始める。蜜柑おいしいの歌だった。
桃祭りとは、花舞の一都市で行われる祝祭ではない。国を挙げての祭りではなく、その都市特有の祭事である。その都市では毎年、いっとう早咲きの桃が、その日に一輪だけ花を綻ばせるのだという。たった一輪のその花は、たった一日咲き誇り、翌日には萼ごとぽとりと落下する。なんの為に一輪だけ咲くのか、萼ごと落ちてしまうのかは誰も知らず。その不思議な、けれど途絶えることのない奇跡を、早すぎる春の訪れとして祝うのが習いなのだという。ふむふむむ、と談話室に用意された『桃祭りだよ! みかん食べよ!』と題された小冊子を何度も読み込み。そこに蜜柑のみの字も登場しないことを改めて確認して。
ソキはちたちたぱたた、とロゼアの膝の上で足をぱたつかせた。
「ねえねえロゼアちゃん? なんで蜜柑が混入しているです?」
「……桃の旬が七月から八月、だから、かな……。というか桃はどこから手に入れたんだ……?」
「桃も楽しみですけどぉ、ソキ、おみかんだぁいすき! なんと、なんとね? な、な、なぁんとー! おみかんは、ソキでも剥けるんですよぉ? えへん。えへへん」
ロゼアの胸元にぐりぐりすりりと後頭部を擦り付けて自慢すれば、ロゼアはふふ、と笑ってソキの髪を指でさらりとくしけずった。
「そうだな。自分でできるの、嬉しいな。……蜜柑ばっかり食べて、おなかいっぱいになったら駄目だからな」
「はぁーい! 分かってるですぅー! うーん、次はぁ、どのおみかんにしよかなですぅ? うふふん、迷っちゃうですううぅ!」
目をきらきら輝かせるソキをじぃっと見つめて、ロゼアはゆるんだ息を吐きだした。そっと抱きなおすと、きゃぁあんきゃふふふふっ、と甘い笑い声があがる。とろとろの蜂蜜の声。ソキの笑い声。『花嫁』の淡い幸福。すり、とソキの頭に頬を擦り付けるロゼアに、室内からはややもの言いたげな、安堵と困惑と頭痛、小言めいた気配が流れるが、それを二人に差し出しに来る者はいなかった。ロゼアが懲罰室から出てきて、すでに半月以上が経過している。翌日にこの光景であったらさすがに声もあがっただろうが、なにせ出てきた翌日からソキが倒れて動けなくなり、そこから本当に久しぶりの室外なのである。
気持ちはわからんでもないしなぁ、という苦笑いが談話室の八割を埋め尽くしていた。半月以上の、ロゼアの反省と多忙の日々もある。その間に、ロゼアと会話する者も多かった。針のような警戒はその間に静かに溶け、今は各々が、情報と感情の咀嚼に勤しんでいる最中である。そうであるからの桃祭り、ということらしい。実行部隊は案の定、白雪出身の者たちだった。図書館に走って各国の行事一覧まで引っ張り出して、近日中に執り行われる催事を事細かに調べ上げ、きちんと王たちに稟議書まであげて許可を取ってきての実行である。執念の二文字が『学園』の誰もの脳裏にちらつたが、大きな反対の声はあがらなかった。
なにせ異国の文化である。好奇心が未熟な魔術師の心をやんわりと満たし、日々の張りつめた意識をほんのすこし解していく。恐ろしいのは『学園』内に、花舞の、その都市出身者がひとりもいなかったことだ。たった二人だけ、花舞のその近隣出身が、幼い頃に行ったことがあると口にしたが、思い起こす記憶は淡くぼやけたものだった。よって、正式な祭りの内容とは異なる可能性が大変にあります、と小冊子には記載があった。潔く間違いを認めているのがすごい、とは妖精たちの感想である。妖精たちは物珍しい『学園』の様子を見回りに飛んでいて、ソキの傍を離れていた。
妖精も、いいことみかんを食べすぎるんじゃないわよロゼアの言うことを聞くのよみかんを食べすぎるんじゃないわよみかんの食べ過ぎでおなかを壊したりなんてしたらみかんの木が受粉できないような呪いをかけてやるわよ、など言い置いて行ったのだが。小言はあまり、ソキに聞いていないようだった。ソキはふすふすと幸せいっぱいに鼻を鳴らし、甘やかで爽やかな柑橘の恵みを、思う存分楽しんでいる。そしてまたひとつ、籠の蜜柑にきゃっきゃと両手を伸ばしたので。それが果実に触れる前に、ロゼアはそーきー、と『花嫁』の名をやわらかく呼んだ。
「午前中はみっつ食べたらおしまいにしようなって約束したろ? それいくつめ?」
「ロゼアちゃん? みっつめのおみかんは、ロゼアちゃんと半分こしたでしょう? これもはんぶんこするです。そうすればみっつです!」
「だぁめ。半分こでも、みっつはみっつだろ。あとは午後にしような」
ええぇえ、とソキがちたちたぱたた、と足を揺らして抗議する。瑞々しく甘い、豊かな冬の恵みはことのほかソキの心を掴んだらしかった。ねぇねぇもうひとつだけ、もうひとつだけですぅ、いいでしょうロゼアちゃん、ね、ねっ、とぎゅっと抱き着き、もちもちと頬を擦り付けられる。ロゼアは蕩けるような笑みで囁いた。
「だぁめ」
「ふにゃぁあー! ロゼアちゃんが、ソキにだめって言ったぁあ!」
「ソキ。そんなに急いで食べなくても、たくさんあるから大丈夫だろ。ゆっくり食べような。お蜜柑いっぱいで嬉しいな」
ぽん、ぽん、と背を撫でて言い聞かせると、ソキの頬がぷぷくぅーっと膨らまされた。ぷーっと膨らんだまま頬をうりうりと擦り付けられる。ぷくぷくのソキさん、どうしたの、とロゼアの声が歌うように囁く。ぷくぷくさん、まぁるくてかわいいな。かわいい、かわいい、と何度も繰り返されて、ソキの怒りがやんわりと消えていく。やがて、ふしゅる、と空気が抜けて。うふふん、と自慢げに、ソキはロゼアの膝上でふんぞりかえった。
「ロゼアちゃん? ソキかわいい? ぎゅっとしてぇ?」
「かわいいな、ソキ。かわいい。かわいいな」
ぎゅーっとされたソキの、きゃっきゃうふふしきった笑い声がほわほわと談話室を漂った。それにほっこりと息を吐きながら、いつもの定位置にぽす、とナリアンが腰を下ろした。
「ソキちゃん、調子良さそうだね、ロゼア」
「ナリアン。うん。……あれ? メーシャは?」
「メーシャくんね、なんか呼び出されて行っちゃった。寮内の自治会会議? とかなんとか。お昼は一緒に食べたいなって言ってた。それくらいには終わるからって」
そっか、と返事をして、ロゼアはやや思考を巡らせた。自治会なんてあっただろうか。その疑問をすぐに察知して、ソキがあのねぇ、とお姉さんぶった顔で口を開く。
「こないだね、できたんですよ。自治会。りょうちょが、えっと……えっと、お熱出して動けなくてね、ちょっとあの、んと、んと、たいへんだったの」
「……わかった」
「ロゼア。そこの責任は負わなくていいからね。胃を痛くしないでいいからね」
ナリアンがぽんぽん、と肩を叩いて慰める。一瞬だけ緊張した談話室の雰囲気と、せいいっぱい頑張ったソキの説明で、察するものは有り余る程にあった。まだ、あんまり、その、と口ごもるロゼアに、ナリアンはふっと遠い目になる。
「大丈夫だよ、ロゼア。心配しないでも。いやほんと大丈夫だから、あのひと」
「おっ、俺の話か?」
「あぁああぁあー! りょうちょですうぅうー!」
ぴしっ、と凍り付いたナリアンより、一瞬息を飲んだロゼアよりも早い、ソキの大絶叫だった。一息分の空白。ぎょっとした視線が談話室中から、そこへ立つ一人の男に集中する。いつの間に入ってきたのだか、誰に悟らせることもなく。ごく普通の顔をして、ナリアンの顔を覗き込むようにして立ち。ロゼアとソキの前に現れたシルは、そんなに見るなよ、と珍しく、恥ずかしそうに苦笑した。
「まあ、な。世界が俺に輝けと今日も囁いた以上、注目を集めるのは仕方がないのかも知れないが……。いいぞ、各自の会話に戻って。というかこの蜜柑の山、なんだ?」
「今日はね、桃祭りなんですよ。……りょうちょ、知らないのぉ? なんで?」
「情報が差し止められてたんだよ……。桃祭り? 蜜柑じゃなくてか?」
そうなんですぅ、とソキは頷いた。談話室の中央には長机が運び込まれ、そこに所狭しと並んだ籠には、蜜柑がまだまだ山になっている。各机にも、ソキたちの前にも籠が置かれ、蜜柑の品種が書かれた紙が複数置かれていた。ふぅん、と気のない返事をした寮長が、ナリアンの髪をくしゃんくしゃんに撫でてから立ちなおした。いや今俺をくしゃくしゃにする理由なかったのでは、と釈然としない顔をするナリアンの視線を背に受けながら、寮長はロゼアとソキの前に立って。静かな声で、名を呼んだ。
「ロゼア」
「……はい」
す、と頭が下げられる。まっすぐに。
「言い過ぎた。すまなかった。……あそこまで、あんな風に、言うことではなかったと思っている。嫉妬、で、感情的になってた。八つ当たりだ。すまない」
窓の外を風が吹く音。森の木々が揺れる。葉が擦れる音。奇妙なまでの静寂と集中の中で、寮長は顔をあげた。その目をまっすぐに見ながら、ロゼアも息を吸い込む。黙礼する。
「はい。……俺も、やりすぎました。申し訳ありませんでした。……体調は、もう?」
「ソキの快気祝いだかなんだかで、ようやく白魔術師が治してくれたんだよな……。当分は安静にしてろとお達しだ」
「安静にしてるのぉ?」
ぺちぺちべちちっ、とソキの手がソファの座面を叩く。つむん、とくちびるを尖らせながら、座んないといけないでしょ、と求められる。ロゼアが苦笑して、どうぞ、と進めると、シルも力の抜けた笑みで返した。それじゃぁ、とロゼアの隣に、シルが腰かける。並んで座るのは、初めてのような気がした。互いになんだか落ち着かないでいると、ロゼアの膝の上から、ソキがうぅんと手を伸ばして。シルとロゼアの頭を、ぽすぽすぽす、とやや強めに撫でていった。
「りょうちょも、ロゼアちゃんも、ごめんなさいができて偉かったでしょ。これでね、仲直りです。もうしないでね」
「お、おう……。は……? ソキ、お前それ、なにから目線だ……?」
「あっ、りょうちょ、おみかん食べたぁ? あまくっておいしいですよ。ソキがむいてあげるですからぁ、はんぶんこさせてあげてもぉ、いいんですよ?」
ふたりが呆けている間に、ソキはうぅんと手を伸ばし、ちまちまとみかんを剥いてしまった。ぱこん、と半分に房を分けて。半分を寮長に押し付け、うぅん、と考えて、さらにもう半分をナリアンに受け渡す。四分の一になったそれから、ひと房をもいで。ソキはそれを、よいしょ、と言ってロゼアの口に突っ込み。ひと房を自分の口に入れて、もむもむもむ、と幸せそうに頬を動かした。
「きゅふふん! あまーいですぅー!」
「……ソキ、あのな」
「りょうちょ? ソキは、あまくて、おいしいものをね。一緒にわけっこして、おいしいねぇができるくらい、かんようで、かわいくて、すばらしソキなの」
ソキの手元に残った蜜柑はたったの四分の一だったから、食べ終わるのはあっと言う間だった。もむもむもむ、と幸せに頬を膨らませて、こくん、と飲み込み。ソキは談話室の集中を一身に受けながら、素知らぬ顔をして言い放つ。
「りょうちょがロゼアちゃんにごめんなさいをして、ロゼアちゃんがりょうちょにごめんなさいをしたから、それはもう二人のことなの。ソキはね、うんと、んと……いっぱい、いっぱい考えたですけどね、りょうちょがロゼアちゃんに言ったことは、すごくすごく嫌だったです。でもね、それと、それと同じくらい……ロゼアちゃんが、りょうちょに、してしまったことも、や、だった、です。でも、ロゼアちゃんがあの時、しなかったら、ソキがしてたです。ソキだって怒ってたです。あんなの、あんまりです。……あんなの、あんまりです。ソキは悲しかったです。びっくりして、悲しくて、大変で、つらくて、くるしかったです。みんなね、みんな、そうだったの。大変だったんですよ」
「……ああ、悪かった。すまなかったな、ソキ」
「ソキ。ごめんな。……ごめん」
シルからは真剣な声で。ロゼアからも、落ち込んだ声で謝られて、ソキはこくりと頷いた。なにせ寛容なソキなので。謝罪はきちんと受け入れるのである。ソキはもう一度うぅんと手を伸ばして、ロゼア、シル、もう一度ロゼア、の順番で、ぽすぽすぽす、とやや強めに頭を撫でた。
「ごめんなさいをしたから、これでおしまい。おしまいですよ! 仲直りなの」
「……ソキ。ありがとな」
「うん! ……あのね、寮長。みんな、心配してたですよ。顔を見せて行ってね、お話とかしてね、それでお部屋に帰るといいです。おみかんもいっぱい持っていくといいです。おみかんは美味しくて滋養があるです」
わかった、と言って渡されたみかんを口に突っ込み、飲み込んで、シルが立ち上がる。うまかったありがとな、じゃあな、と言って立ち去った背に。ソキを膝からおろし、立ち上がって、ロゼアはまっすぐに頭を下げた。肩越しに振り返ったシルが、笑って、ロゼアにひらりと手を振った。二人を見比べて満足げにしているソキに、ナリアンがそっと、ソキちゃんよく頑張ったね、と囁く。ソキは満面の笑みで、でしょおおぉ、と誇らしげにふんぞり返った。途切れた音楽が再開するように。談話室にさわり、と話し声が戻ってくる。すこしだけ緊張を残した、柔らかな、穏やかな。日常の音だった。
季節外れの桃は、白雪本国の魔術師から提供されたものなのだという。なんでも季節を関係なく植物を育てるにはどうすればよいのか、という実験中で、複数の錬金術師と黒魔術師が組んだ一大計画の只中であるのだそうだ。ソキは好奇心いっぱいに目をきらきら輝かせながらその説明を聞き、さりとてちょこりと首を傾げ、はぁいと手を挙げてから口を開いた。
「つまりぃ、授業なんです? レポートを書いて提出すればいいの? どういう所を見ればいいの? 見かけ? 味? おいしさ? 教えて欲しい項目とかは指定があるの? ソキにちゃんと教えてくださいでしょ」
「いや、特にそういうことではなかったと思うんだけど……? ちょっと問い合わせてみようか? 反応はあって悪いものではないと思うし」
「そういうことでないなら、なぜ提供が?」
ほぼ無償に近い提供であるという。戻ってきたルルクから追加の説明を受けながら、ロゼアは膝の上でちたちたとするソキを抱きなおし、訝しみの強い問いを向けた。ルルクはその体勢に僅かばかりもの言いたげな顔をしたのち、現在位置がロゼアの私室であることでよしとしたのだろう。ソキちゃんの体調が回復したばかりだし、と大目に見ている発言を零し、どうも持て余してるって聞いたけど、と告げた。
「なにせ完全な実験段階で、しかも魔力をふんだんに使って育成してるから、一般の食用に回すには残存魔力が規定値を超えてるらしくって。魔術師なら全然問題ない所か体調がよくなる回復剤みたいなものだけど、そういう理由で内輪で消化するしかないせいで、果物が結構余ってるみたいなのよね……。加工しても限度があるし」
「……そんなに豊作なんですか?」
「うん。なんでも、収穫までの周期をどれだけ早められるかっていう、性能実験みたいなことも同時にやってたらしくって……。つい我を忘れて楽しくなりすぎちゃったな! って主犯が言ってるんだって」
うっすらとした不安の残る供述である。それはなおのこと、一般には出荷できないものだろう。『学園』からの桃祭りするからください、のおねだりに、そんな都合のいいことが起きるんだやったーっ、と大歓迎だったというから、よほどである。限度を学ばせるのには言って聞かせるより事故起こさせたほうが早いから、と白雪の女王は放置していたのだという。それでおにいちゃんはお忙しかったですねぇ、とやや拗ねて甘えた声で呟いて、ソキはロゼアにうりうりと後ろ頭を擦り付けた。
「ロゼアちゃんは、チェチェリア先生に宿題もらったぁ? ソキねえ、宿題がいっぱいあるんですよ。授業が始まるまでに……。……三月になってるですから、も、もしや? 授業がはじまっちゃってるのではっ?」
「全体授業開始日だったら、三月十日からだから、大丈夫! 明後日までに時間割が談話室に掲示されるから、また確認しようね」
「よ、よかったですぅ! ソキ、そきね、まだ宿題、終わってないの……」
なにせソキは半月以上臥せっていたのである。ロゼアの出待ちをしながら勤勉に進めていたのだが、三分の一も終わっていない状態だ。終わるかなぁ、と眉を寄せるソキを、ロゼアは慰めるようにやんわりと撫でた。
「ソキ、ソキ。大丈夫だよ。一緒に進めような。終わらなかったら、理由を話して、もうすこし時間をもらえばいいよ」
「うん……。ロゼアちゃんは? 宿題終わったぁ?」
「もうちょっとあるから、一緒にしよう。大丈夫だよ、ソキ。焦らないでしような。今日は桃祭りをして、明日からにしような」
ソキはつむりとくちびるを尖らせ、やや不服そうに頷いた。終わるかなぁ、としょげた声に大丈夫だよと繰り返し、ロゼアはルルクへ視線を送る。ルルクは満面の笑みで頷き、両手でピースサインをする。ハッピーダブルピースである。
「終わってるから大丈夫! 手伝いが必要だったら言ってね!」
「ありがとうございます、ルルク先輩。……でも、すこし休まれた方がいいのでは? ずっと動いて頂いてましたし、今日も午前中は会議だったんですよね?」
「会議だったけど、寮長出てくるから引き継ぎの資料もっかい確認しとこっか! くらいだったし、さほどでも? まあ、そう言うならちょっとのんびりしようかな? あっ、とりあえずレポートの件は確認してくるね! 午後の桃搬入、今行けば捕まえられると思うし! まかせてー!」
言うなり小走りに駆け出していくルルクを見送り、ソキはこくりと頷いた。
「ルルク先輩が戻ってきたら、ソキも、お休みしなきゃだめでしょ、を言ってあげることにするです。ルルク先輩はうんと頑張ってくれてたですしね、ゆっくりしてほしです」
「そうだな。ソキからも言ってあげるの、偉いな。かわいいな」
「えへへん。リボンちゃんもシディくんもお休みの日ですしぃ、今日はお祭りですから、のんびりするです!」
正確に言えば、妖精たちは休暇ではなく、『学園』の見回りに傍を離れているだけなのだが。ロゼアは特に指摘せず、そうだな、と微笑んで擦り寄ってくるソキをやんわりと抱きなおした。なんでも、治安維持の観点から見た巡回警備であるのだという。些細な魔力の綻びや緩みが事故に繋がらないよう、修復しに行くんですよ、とシディは言っていた。いつもやっていることなのだけれど。浮足立った幸せの日には、もうすこし、慎重に見てあげようという。それだけのこと。毎日のこと。
そういうことですから気にしないでくださいね、とシディは言い、いや恩に着なさいよ心からね、と告げて行ったのはソキの妖精だった。ルノンやニーア、他にもたくさんの妖精たちが、今日は『学園』を飛び回っている。いつもと少しだけ違う、穏やかな日。当たり前のこととして、守られているのだと知る。見守られていたのだと。健やかであれ、と祈りのように。安寧は影日向の努力によって形作られ、そうして続けられている。『お屋敷』の日々がそうであったように。『学園』も、同じ。ふ、と肩の力を抜くロゼアを不思議そうに見つめて、ソキは背伸びして、ぺと、と頬をくっつけた。
「ロゼアちゃん? どうしたの? 嬉しいこと?」
「うん? うん。嬉しいこと。……嬉しいことだよ」
「きゅふふ。ロゼアちゃんが嬉しいの、ソキもうれしです! あ、あのね? ソキは桃をいっぱい食べたいです! それでね? みかんも! みかんもいっぱい食べるです!」
むいむいもちもちと頬を擦りつけながらのおねだりに、ロゼアはくすぐったく笑った。ぽんぽん、と背を撫でながら囁く。
「いいよ。でも、おなかがいっぱいになりすぎないようにしような」
「きゃぁーん! やったぁー! ロゼアちゃんだぁいすき!」
「うん。俺も好きだよ、ソキ」
はわ、とソキは口を手で押さえた。ぱちちちちっ、とまばたきをする。もじもじ恥ずかしがりながらロゼアの膝に座りなおして、ソキはきゃぁん、と身をよじって照れくさく笑った。
「きゅふ、きゅふふ……! ロゼアちゃんが、ソキを、すきって、いったぁ……!」
「んー? 好きだよ、ソキ。好きだ」
「はわわ、きゃぅ、きゅぅ……! こ、これはめろめろ……? ロゼアちゃん、ロゼアちゃんが、ソキに、めろめろ……! きゅふ、きゅふふふふ! きゃぁーん! やったぁー、ですぅー! なんといってもぉ、この間はちゅう! ちゅうもしちゃったですからぁ! きゃぁーん! ちゅうもしちゃったですからぁーっ!」
きせいじじつもちかい、ということですっ、はわわわわわぁですうぅうきゃぁあああっ、と顔を真っ赤にしてもじもじきゃっきゃするソキを、うっとりと見つめて。ロゼアはぽんぽん、とソキの背を宥めるようにやさしく撫でた。
「ソキ、ソキ。夕方まではゆっくりしような。なにかしたいことある? お昼寝でもいいよ」
「きゅふふん! はにゃぁ……。ん、んん? うーん……。あ、ソキねぇ、お絵かきしたいです。お絵かきするです!」
「お絵描き? いいよ。どれに描くの?」
ソキはしゅぴっ、と迷いなく一冊のスケッチブックを指さした。取ってぇ、と甘えてねだられるのにソキを抱いたまま立ち上がり、ロゼアはてきぱきと道具を用意した。ロゼアが膝から降ろそうとしないのを良いことに、用意が整ってもソキはもちゃもちゃと座り直し、ロゼアにぴとっと体をくっつけてスケッチブックを開く。ぺらぺらと紙をめくって、これです、と向き合ったのは描き途中の一枚だった。ソキがずっと取り組んでいる絵だった。もう八割がた、描き終わっているように見えた。器だ、とロゼアは思う。ソキが両手で包み込める大きさの、なにかの器のように見える。繊細な花の彫刻がなされた、白磁のうつくしい器。
ソキはじっと集中する顔をして、す、と鉛筆を手に持った。すとん、と着地するように先が紙に落とされる。迷いなく。残り二割が、するすると埋められていく。欠けていたものをようやく思い出したかのように。ようやく、取り戻したかのように。欠損が修復されていく。ひたすらに、細かく。花と植物の絵を描き入れ出したソキに、ロゼアは集中を乱さぬよう、そっと、そっと問いかけた。
「ソキ、これはなに?」
「……ソキのなの」
ぱたぱた、瞬きをして、ソキはじぃっと絵を見つめている。これはね、ロゼアちゃん。静かな声が指を指すようにして告げる。繰り返し、繰り返し。確信を深めて。
「ソキの、ソキのでね、それでね……それで、これはロゼアちゃんのなの」
「……俺の?」
予知魔術師の声がささやき、告げる。これは、かつて在ったもの。これは、かつて失ったもの。これは、かつて壊されたもの。そして。最後の花をソキが描きいれる。瞬きをして、息を吸って、祈るように目を伏せて。ソキははっきりとした響きで、それを口に出して告げた。
「これはソキの『器』」
ことん、と音がした。硬質のものが、机の上に置かれたような。ちいさな、確かな、音だった。
「魔術師の、ソキの『器』なんですよ、ロゼアちゃん。ソキはね、ずっとそれを描いてたの。それでね、いま描き終わったの」
「……終わったの?」
「完成したの。えへへん!」
室内に変化はない。ロゼアは机の上に視線を走らせたが、新しくものが増えた様子はなかった。魔力が動いた気配もない。気のせいだったのだろうか、と首を傾げ、ロゼアはソキの手元を覗き込む。精緻な、花と植物模様の彫刻がなされた、ちいさな器だった。これくらいの大きさなんですよ、と手で示すソキに、ロゼアはそっか、と頷いた。はきとしたことは分からないが、ソキが満足そうで、達成感に満ち溢れているのが可愛かった。よかったな、と囁く。
「一生懸命描いてたもんな」
「うん! えへへ、リボンちゃんが帰ってきたら見てもらうです! このね? このお花のとこ、かわいーでしょぉ? リボンちゃんのお花をちょっともらったですよ。それでね、それでねここのね、ここんとこね」
うきうきと説明しだすソキに、ロゼアはうんうん、と頷いた。なぜだか不安はなく。気持ちは落ち着いていた。ぱたぱたぱた、と彼方から足音が響く。ルルクが戻ってきたらしい。ぴょこんと顔を上げたソキが、ルルク先輩ですぅ、とはしゃいだ声をあげる。廊下から、みんなーっレポート祭り開催決定だよーっ、とルルクの声がして、呻き声とはしゃぎ声と歓声と罵声が同時にあがる。わっと騒がしくなる寮内に、ソキがきゃぁっと楽しそうに声をあげた。
「やっぱりレポートだったです! えらい? ソキえらい? ソキ、頑張って、満点のレポートを目指すです!」
「偉いよ。ソキは偉くて可愛いな。……俺も頑張ろう」
「ロゼアちゃん? 大丈夫ですよぉ、ロゼアちゃん。ロゼアちゃんも、もちろん! えらくて、とってもかわいいです」
そうではない。そうではないのだが。ロゼアちゃんかわいいですぅ、とはしゃいで抱き着いてくるソキが、あまりに可愛くて楽しそうなので。ありがとうな、と笑って、ロゼアはソキを抱き上げた。そのまま、戸口へと歩いていく。ルルク先輩をお迎えするです、とわくわくするソキに頷いて、ロゼアは半開きになっていた扉を押して、外に出た。
ふと、声がした。
『ロゼア、お前の虚無に祝福を』
廊下は明るくて、すこし眩しい。
『お前の生まれ持った鞘はもう存在しないけれど、それを蘇らせることは出来る』
「ロゼアちゃん?」
『それは今度こそ、失われることも奪われることもない』
ロゼアちゃん、とソキの声がする。不思議そうに。はっ、と。白昼夢から覚めた顔をして、ロゼアはソキと視線を合わせた。なんでもない、と自然に声がでた。ソキはロゼアをじーっと見て、やがて、ふにゃふにゃと甘い笑みを浮かべて体を擦り付ける。ロゼアはほっとして、ソキを抱きなおした。やわらかな熱。ロゼアの幸福。ロゼアの全て。それはもう、失われることも。奪われることも。ふふ、と心からの安堵でロゼアは笑った。腕いっぱいに花束を抱く幸福が、胸の中には満ちていた。
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