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 ソキの旅日記 二十日目(夢)

 不思議なことに、怖いとは思わなかった。もしもその時が訪れたなら、ソキを殺すのはこの青年である筈なのに。害意なく、ただ愛のみで、予知魔術師の命を終わらせる者。一目で、それが分かってしまった。それなのに、怖くも、恐ろしくもなんともない。なんて優しい目をするひとなんだろう、と思った。胸の中に愛おしさがいっぱいになっていて、溢れてしまいそうで、そのことを心から幸せだと感じている瞳。その瞳をまっすぐにソキに向けたまま、青年はとうめいな蜜のような声で囁いた。
「……きて、くれたんだね」
 穏やかに伸ばされた腕が、ソキの体を抱きしめてくる。普段ならばこみあげる拒否感は、不思議なくらいうまれることがなかった。温かい体からは、薬草の香りがした。
「ソキ……」
「……お手紙、書いてた、ですか?」
 あなたはだれ、と言いかけて、ソキは別の言葉を口にする。それは言ってはいけないことのような気がした。きっと青年は答えてくれる。けれどもすこしだけ、相手を傷つけてしまう言葉だった。抱きしめられる肩越しに机に視線を向ければ、書き途中の手紙から、名前を知ることができた。
「メーシャ、くん」
 ふしぎに、舌に馴染む響きの名前だった。何度も、何度も、呼んだことがあるような気がした。ソキを抱きしめる腕にぎゅぅと力が込められて、泣くのを堪えているような吐息が響いて行く。うん、と青年は頷いた。
「でも、急ぎじゃないから、いいんだ」
「……はい」
「ソキ。……ソキは、今、何歳?」
 すこし、気持ちを落ち着かせたのだろう。抱きしめる腕は離され、てのひらが頭を撫でてくる。目を覗きこんでくる瑠璃色の瞳が、眩しいくらいの喜びに満ちていた。あいしているよ、と囁いてくる。あいしているよ、あいしてる。君に会えて、ほんとうに嬉しい。
「十三歳、です。……ソキは、学園に行く、途中で」
 すっと息を吸い込んで、ソキは改めてあたりを見回した。砂漠の国、ではないような気がした。見知らぬ部屋であるのに、不安な気持ちになることがない。
「ここは、どこですか?」
「俺の部屋。講師室だよ」
 そういうことが聞きたい訳ではないです、と向けられた不満そうな目に、メーシャは口の端をそっと緩めた。
「ごめんな。教えてあげられないんだ」
 ここはソキにとっての、未来の分岐点のひとつだから。今はまだ、なにも教えてあげることができないんだよ。そっと言い聞かせてくる声に、ソキは目を見開き、改めてあたりを見回した。手掛かりになりそうなものが、なにもないことに気が付く。恐らくは慎重に、精密に、場所の特定も時代の特定もできないよう、気を配られて整えられた空間なのだ。物でごちゃごちゃしているのに空気は清浄で、天井からつるされたドライフラワーが、良い香りを漂わせている。花舞の国にだけ咲く、赤い花だった。
「メーシャくんは……」
「うん」
「ソキが来ること、分かってたですか?」
 立ってるのも疲れるだろうからお座り、と手を引いて椅子まで誘導されながら、ソキは不思議に思って問いかける。メーシャは、ソキが現れたことに、特別な驚きは抱かなかったように見えた。ようやく望みが叶ったような、祈りが確かに聞き届けられた瞬間を目の当たりにしたような、満開の愛と喜びを示しただけで、未知のものを恐れる恐怖はどこを探しても見つけられない。今も、保温のできる水筒から香り高いお茶をカップに注いでくれているのだが、メーシャの手元にあるのは違う飲み物だ。
 ソキの為に用意して、待っていたに違いなかった。メーシャは困ったように微笑んで、唇に人差し指を押し当てる。どうしようかな、と迷う、こどものような笑み。
「……来てくれるかどうかは、分からなかった。俺が干渉……観測、か。分かるのはあくまで未来で、ここに到達する可能性を持った過去じゃないから」
「ソキは、メーシャくんの……昔、じゃないですか?」
「俺が通ってきた時間と、ソキがこれから進んで行く時間が、完全に同じっていう保証はできないんだ。……クッキー食べる?」
 もらいものだけど、と言ってメーシャが差し出した白い小皿には、赤い果実の入った手作りのクッキーが置かれていた。一枚を摘みあげ、両手で持ってから口に運んで、ちいさくかじる。見ていたメーシャが、くす、と笑った。
「それ、選ぶと思った。おいしい?」
「はい」
「よかった。ナリアンが喜ぶ」
 今度帰ってきたら教えてやろう、と幸せそうに微笑んで、メーシャはもぐもぐとクッキーを食べるソキを、なにも言わずに見つめている。一枚をゆっくり食べ終わったソキに、心得た動きで濡れたタオルが差し出された。ありがとうございます、と言って指先を拭ってから、ソキはちょっと困ったように眉を寄せる。
「あの、メーシャくん……メーシャ、さん?」
「くん、でいいよ。呼び捨てでもいい。メーシャ、って呼んでみて?」
 ソキの声に呼び捨てされるってちょっとないから、聞いてみたい。やんわりと目を細めて笑いながらねだるメーシャに、ソキはふるふると首を横に振った。メーシャは、二十代の半ばくらいに見える。そんな年上の相手を、呼び捨てにするなんて、ソキには難しい。
「ちゃん、でもいいよ」
 それなのに、メーシャは嬉しそうにソキを見つめながら、どれかを選んで欲しがった。メーシャくん、と呟いて、ソキはなんだか残念そうな顔をする青年の前髪をとめる、ちいさなピンクの花飾りがついたヘアピンに目を向ける。
「メーシャくんの、それ……」
「借りたんだ。忙しくて、しばらく会えないっていうから。すこしでも一緒にいたくて」
 生徒には似合うって評判なんだけどな、というメーシャは、別に部屋の中でだけそのお花ピンをつけている訳ではなく、その状態で出歩いているらしい。明らかに女物の花飾りなのに、なぜか、しっくり似合っている。告げながらヘアピンに触れる手は愛おしげで、指先はそのまま、口唇へ押し当てられる。伏せた目で、元の持ち主を想ったのだろう。呟かれた名はソキには聞こえる音量ではなかったが、それでも、本当に愛おしい相手なのだと分かった。
「……泣きそうな顔させたのは、俺かな」
 申し訳なさそうに告げられて、ソキは勢いよく首を振る。勝手に思い出してしまっただけで、メーシャに悪い所なんて、ひとつもない。膝の上に置いた手を、ぎゅっと握った。
「メーシャくんは……なんで、ソキを待っててくれたんですか?」
「幸せになって欲しいから」
 ごく簡単な、単純な理由だよ。そう言って笑って、メーシャは立ち上がり、ソキの前に来ると握り締められた手に指先を触れさせた。指の腹で撫でられ、込めていた力がゆるゆると抜けていく。どうしてだろう。胸がいっぱいになって、ソキは目に涙を浮かべた。息を吸って、気持ちを落ち着かせようとする。そんな風に想ってもらえるひとを、どうして選んでしまったのだろう。どうして、この先で選ぶことになるのだろう。触れるだけで嬉しくなるような、優しくなれるような、そんなぬくもりを分かち合えるひとなのに。
 その愛で死なせてもらう未来の可能性を、選んで、託してしまった。メーシャはきっと、そのことを知っている。
「……ソキのせいじゃない。ソキは、なにも悪くない。俺も選んだんだよ」
「でも」
「いいんだ。だから、ソキにも選んで欲しい。……皆で、幸せになろう。ここへ辿りつくのは、本当に難しいことだけど、それでも俺は信じてるよ。……幸せになって欲しいから待ってたって、言ったよな。俺はなにも言えないけど、伝えてはいけないけど……でも、これだけは、たぶん、大丈夫だから、教えてあげられる。いろんな意味があると思うけど、俺がソキを待ってたのは、これを伝えてやれるからだって、思うよ」
 よく聞いていて、とソキと手を繋ぎ、視線を合わせてメーシャは言った。
「会えるよ。……ロゼアに、会える」
「……え」
「疑わないでやって。不安かも知れない、怖いと思う。けど、どうか俺の言うことを、信じて、ソキ。ロゼアは……心から、ソキのことを愛してるよ。本当に、大事に想ってる。今は傍にいないかも知れないけど、会える。絶対に会えるから」
 心に、温かな風が吹き込んだ。体の隅々まで、光が満ちて行くような言葉だった。手が震える。メーシャはソキを見つめたまま、ちいさなこどもにするように、何度か優しく握りこんだ。ここにいるよ、と告げる仕草。迷子の手を繋ぐぬくもり。力を込めて閉ざされたソキの唇から、ん、と声が漏れる。瞬きで、ころりと、涙が零れ落ちた。
「ほんとう……です……?」
「本当。絶対。必ず。会えるよ。ロゼアに、会える。嫌いになって離れた訳じゃない。それだけは絶対にない。どうしても、行かなければいけない理由があったんだ。ソキと同じように。……いいよ。泣いていい。辛かったら、辛いって言って。悲しかったら、悲しいって言って。思ってることを言っていい。大丈夫だから。予知魔術師っていうのは……言葉を、望みを実現させる力を持ってるけど、でも、全部がそうなるわけじゃない。まだ分からないかも知れないけど、今、ソキの魔力は閉じてるよ」
 ぎゅうぅ、と手に力が込められた。
「メーシャくん……」
「うん」
「メーシャくん、メーシャくん。……メーシャくん」
 せつなく、何度も呼ばれて、メーシャは目を伏せてソキを片腕で胸に抱き寄せた。背を撫でてやると、体を預けるようにぬくもりが寄り添ってくる。名前を呼ぶだけ。それだけが精一杯の恐怖を、消すことができるのはメーシャではない。メーシャの知る再会の時までは、まだ時間があった。この場所から元の時間に戻ったソキは、法則に従い、記憶を保持することができない。それでも、今、どうにかしてやらなければ、ソキは怯えて歩きだすことが出来ないだろう。
 落ちつかせるようにソキの背をぽんぽんと撫でたあと、メーシャはすこしだけ待ってて、と言い残して少女から離れ、ごちゃごちゃと物が置かれた机へと歩み寄る。『それ』を手に入れた時、本当に渡すことができるだろうか、と不安になった。けれども、諦めたくはなかった。『それ』は、これからのソキの希望だ。そしてメーシャの時間軸に存在する、希望でもあった。ビロードの張られた小箱を持って、ソキの前へ戻る。涙をすでに消し去った瞳が、痛々しくて唇を噛んだ。
 ソキの前にしゃがみこんで、小箱を開ける。中に入っているのは、銀の指輪だった。飾り気の一切ない、ただのリングだが、実際には、内側に一ミリにも満たない大きさのアメジストがひと粒、埋め込まれている。
「手を出して、ソキ。……右手の、ひとさしゆび」
 小箱から指輪を抜き出し、混乱するソキの指に、それを通してしまう。恐ろしいほどにぴったりと、リングが指に通された。混乱しているのだろう。まじまじと右手を見つめているソキに、メーシャは自然に笑みを浮かべていた。
「それが、ソキのトリガー」
「……トリガー?」
「引き金ってこと。これを右手にしていれば、ソキの予知魔術師としての力が勝手に発動することはない。普通の魔術は使える……筈だけど、発する言葉が全て予知になるような無差別発動を、ある程度までは抑え込んでくれる。逆に、これを左にすると」
 すっと指輪を引きぬいた指が、ソキの左手を取って、人差し指に通してしまう。変化は劇的だった。体の中で、ぐるりと風が巻いているようだった。行き場を探して荒れ狂うなにかが、喉を通して意識を焼き、世界に放たれたがっている。悲鳴をあげる寸前にメーシャは左手の人差し指からリングを抜き、再び、右手へと移動させてしまう。ぐらり、と眩暈を感じた。白黒に目の前がちかちかとするのを、メーシャの腕の中でなんとかやり過ごす。恐ろしい奔流は、今は、遠い所に戻されていた。
 無くなった訳ではない。内側に、確実に存在している。それはソキの魔力だ。
「……分かった?」
「は、い……」
「これは、あくまで補助。ソキがちゃんと自分で切り替えられるようになれば、お守りくらいの効果にしかならないけど……指輪の移動で切り替えるのを意識の上でのトリガーにすれば、もっと強力に封じ込めていられるから。そう簡単には暴走しなくなる」
 あと、これは本当にお守り、と笑って、メーシャはまだくらくらしているソキの左手を取り、小指にちいさなアクアマリンの石が輝く、銀の指輪を飾ってしまった。
「こっちはもしかしたら、持って行けないかも知れないけど」
 大事なのは気分だよな、と呟いて、メーシャはソキのことを強く抱き締めた。それだけで、なんとなく理解する。お別れだ。
「……ここにおいで、ソキ。この未来に、どうか、辿りついて……ううん、違う。ここじゃない。ここよりもっと良い未来が、あるよ。あるんだよ、ソキ。そこへ行くんだ。ロゼアと一緒に。……俺たち、みんなで、そこを目指そうよ。何度でも、何度でも……俺は、それを、諦めないから」
「メーシャくん」
「愛してる。……ロゼアも、本当に、心から、ソキのことを愛してるよ」
 信じて欲しい、とメーシャは言った。
「ソキが信じてくれたら、未来になる。絶対。待ってる。待ってるからな……!」
 もう一度、ソキはメーシャの名前を呼ぼうとして。吸い込んだ息を吐き出す前に、存在がかき消える。残ったのは星屑のような、金に輝く微細な光だけだった。音も立てず、降り積もらずに消えていくそれに口唇を寄せて、メーシャはそっと、目を開く。ソキが居た場所に、託した指輪は残っていなかった。微笑んで、メーシャは立ち上がる。さて、手紙の続きを書いてしまわなければ。とびきりの愛を込めた、甘い甘いラブレター。告げても告げてもまだ足りない愛だから、分かったと言われても囁いていたい。
 椅子に座って作業を再開し、ようやく書き終えた頃、てってちっ、てちっ、とこの部屋を目指してくるたどたどしい足音が聞こえた。慌てているのだろうか。普段よりずっと危なっかしい気配である。あんな風では危ないだろうに。思った瞬間、びたんっ、と転んだ音がしたので、メーシャは心配になりながらも、思わず声をあげて笑った。慌てて駆け寄る気配が、さらにメーシャの笑みを深めていく。ほら、言っただろう。会えるよ、ソキ。必ず会える。微笑みながら手紙を封筒に入れ、それを持ってメーシャは立ち上がった。ふと気がついてヘアピンもとり、封筒につけてしまう。
 ソキと、ソキの『彼』と一緒に、メーシャの愛おしい『彼女』はもう、そこまで来ている。扉が開いたら『彼女』をまっさきに抱きしめて、愛を囁いて、それからラブレターを渡そう。



 砂漠の国に、星が流れる。すぅ、と息を吸い込んで、ソキは深い眠りについていた。その手には、指輪がはめられている。右手の人差し指に、ひとつ。左手の小指に、ひとつ。少女に夢を送った占星術師はあでやかに笑い、未来からの贈り物を祝福した。

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