花を散らす強い風の音。土を穿つ酷い雨の音。窓を叩く千切られた葉の囁き。空気を震わせて空が叫んでいる。それと同じ音楽が私に告げる。あれが花散らす風。あれが土穿つ雨。千切られた葉のように降り積もる確信。泣き叫ぶように心が告げる。それと同じ音楽が。そのひとだ、と私に告げる。告げる、告げる。耳鳴りのように響く音楽が。意志よりも強いなんらかの響きが。
恐ろしい程に細い糸で編まれたレースは、蛍火のように淡い、青い光を揺らめかせていた。レース糸自体は白いのだが、その仄明るい青みのせいで、揺らめく夜明け空のような印象がある。その糸でちいさな花模様を編み込み、作りあげられたワンピースを身に纏い、リトリアは落ち着かない気分で身じろぎをした。そろそろと視線を持ち上げると、リトリアの、頭の先から素足の爪の先までをやわりと撫でるように眺めていたストルと正面から目が向きあい、少女はこちんと体をかたくした。じわじわと頬に熱が集まっていく。なにか言わなくては、と思うのだが、唇は紡ぐ音を忘れ、はくりと息を食んだだけで凍りついてしまう。ふ、と吐息に乗せて甘やかに笑む音がした。
「……回って、見せてくれるか」
こくん、と無言で頷き、リトリアは怖々としたぎこちない動きでストルに背を向け、くるん、とその場で一度回ってみせた。ふわり、ひざ丈のスカートが広がって踊る。それをぱっと両手で押さえたリトリアに、ストルはこの上もなく優しい顔で、うっとりと笑いかけた。
「可愛い。よく似合ってる……これも買おう」
「あのすみませんストルさん? 俺の記憶が確かならそれで四着目ですね? あとお金出すのは俺ですよね?」
「この子の、記憶を、損なわせたのは……誰だった?」
背後からかけられた引きつった声に、ストルは一言を強調するように区切りながら告げ、打って変った不機嫌な表情で振り返った。その、一人くらいは殺せるよねというか確実にやったことあるよね絶対ね、と判定を下せそうな視線を向けられ、フィオーレはしおしおとしょげながら俺です、と両手を肩の高さまで持ち上げた。分かっているのなら特に問題はないな、なにも、とばかり頷いて、ストルは挙動不審にフィオーレと己を見比べているリトリアに向き直り、気にしなくて良い、と温かみに溢れた声をかけた。
「リトリアが、過去のなにもかもを思い出せない魔力暴走を引き起こした、その原因たる男が、責任を金銭的に取ってくれるというだけの話だからな。さあ、着替えておいで」
そう言ってストルがリトリアに受け渡したのは、幼子がここに来るまでに着ていた服ではなかった。リトリアが試着室でワンピースに袖を通している間、また店内のどこぞからみつくろって来たのだろう。大人しくその服を受け取り、リトリアが照れた仕草で試着室へ姿を消すまで見送り、ストルは厳しい視線を背後へと投げかける。ああ、怒ってる、それもすごーく怒ってるよ、と遠い目をしながらしみじみと想い、フィオーレは礼儀的な声でなに、と問いかけてやった。
「ごめんなさい、もうしませんって俺ちゃんと謝ったじゃん……リトリアは許してくれたよ?」
「お前に反省の色が見えないことに怒っているんだが?」
「さっきも言ったけど、俺は申し訳ないしごめんねとも思ってるけど、やったことに対して後悔はしてないから厳密に言うと反省できない。これについてもリトリアは許してくれたけど? 本人が良いって言ってることを、なんでお前がそんなに怒る訳」
どちらも厳しい顔つきで、友好的な声の響きを表面にだけ纏って交わされた言葉だった。リトリアが試着室に消えている間だけ交わされる、そんな二人のやりとりが原因であるのか、はたまた別の理由であるのか、店内には微笑ましそうに彼らを見守る店主の他、客の姿は見られなかった。『中間区』にある商業区、なないろ小路はちょっとした街のような様相で、ありとあらゆるものが売りに出されている。学園で勉強をする為に必要な筆記具や、ちょっとした小物、お菓子などは購買部でも売られているのだが、服となるとここへ買い出しに来るしかない為、休日は生徒で溢れることが多い。新入生を迎えてすぐの休日である今日は、彼らを引っ張って案内する熱心な先輩格の姿がちらほらと見られるのだが。なんらかの伝令でも回されているのかと勘繰る程、この奥まった場所にある少女向けの服屋には、ひとりも近づいて来なかった。
新しく入学してきた数人のうち、未だ少女と呼ぶにもためらう幼さをもった者はリトリアしかおらず、必然的に、服の大きさが合わない、ということなのかも知れないが。なにかと話題の中心を攫うリトリアの様子を遠巻きにですら見に来ないのは、保護者役を買って出ているフィオーレと、なぜかいつの間にかその場に収められているストルの間に漂う空気が、あまりにも一触即発であった為だろう。原因は、今日という日の朝まで遡る。朝食の席の、何気ない一言だった。もぐもぐ、一生懸命パンを食べるリトリアを眺めながら、フィオーレがやんわりと目を細めてこう言ったのだ。食欲戻ってきて良かったな、と。不自然さはなにもない言葉だった。ようやく緊張が解けたのだろうと、安堵した響きの声だった。
ほんのかすかに漂う違和感に、ストルが気がついたのはその安堵の中に、うっすらとした安堵と懐かしさの気配を感じたからである。他者の感情に触れ、時に無遠慮に読みとってしまう魔術師としても制度の高い感応を、そのときほど、ストルはありがたく思ったことはなかった。フィオーレが懐かしさを感じているのだとしたら、理由はひとつ。知っているのだ。学園に来る前のリトリアのことを。机に肘をついていた腕を先に掴み、逃げられないようにしてからフィオーレ、と名を呼んで来た友人の機嫌が、悪いを通り越して奈落に落ちていることを白魔術師は瞬時に察したらしい。同時に、その理由にも思い至ったのだろう。あ、やっべ、と暢気な呟きが響くにあたって、ストルはなにかが千切れる音を聞いた。
ストルが、本人曰く穏やかにごく淡々と冷静に理論だって説明を求めたところ、フィオーレは世を儚みそうになりながらも学園に来る前のリトリアのことを知っていたことを認め、同時に、入学時の魔力暴走についても事故ではないことを白状した。ごめんなさい、俺がやりました。それで、俺がある程度消えるように魔力の方向性を決めました、と言われて、ストルはごく正直にこの白魔術師との友情を白紙にしようかと考えた。純粋な気持ちとして、どうしてそんなことをするのか、恐れるような気持ちで、分からない。理解が出来ない。途方もなく、そんなひどいことを、どうして成したのか。思いつくのか。混乱するストルを静かな目で見て、フィオーレはすこしだけ困ったように、微笑して告げた。
『俺がリトリアを知ってたように、リトリアは、俺を覚えていた。それがね、駄目だったんだよ。……俺には守りたい人がいて、そのひとを守る為なら、どんなことだってするってもう決めてる。産まれた時を知ってる可愛い女の子の、記憶を、思い出せないくらい白く塗りつぶして壊してしまうことだって、するよ。……ごめんね、リトリア。もうしない。あのひとに害が及ぶ可能性がない限り、これ以上は、俺はお前になんにもしないよ』
裏を返せばそれは、フィオーレの『あのひと』に害ある限り何度でもなにかをするという宣言であるのだが、目の前の朝食を口に詰め込むのに一生懸命になっていたリトリアは、大した感情の揺れも感じさせない表情で、わかりました、とだけ告げ、牛乳の入ったマグカップを両手で持った。それは、ほのかにフィオーレの告げる『あのひと』に対して察しがついているからこそ納得したようにも思える態度であり、また、己という存在のなににも価値を見出さず、無関心であるかのような仕草だった。己というものに対しての興味が、あまりないのだろう。記憶を失っても悲観的になることもなく、ただ淡々と受け入れた。それは過去を消し去られた反動ではなく、リトリアの本来持つ、性質的な不変さを思わせる。
朝食に戻ったリトリアに、フィオーレがそれじゃあ今日はなにしようか、荷物の整理はもうだいたい終わっただろ、となにもなかったかのような気楽さで声をかけたところで、ストルは決心した。そうだ、とりあえず全部支払わせよう、と。なぜそういう思考に辿りついてしまったのかはストルにしても不明だが、恐らくはフィオーレの趣味のひとつに貯金があることからくる純粋な精神攻撃と、なないろ小路にリトリアの、足りないものを買いに行く計画があった為だった。服を買っているのは、リトリアが学園に持って来た服が二着しかなかったことが発覚した為である。あとは靴と髪飾り、下着なんかも必要か、と首をひねるストルに、フィオーレは預金残高が死に絶えることを決意した目で、そろそろと手をあげ、発言した。
「いくらなんでも俺たちが一緒に下着買いにいくのはいけないと思うというか、捕まると思う……」
「安心しろ。二時間後に、チェチェリアと待ちあわせた」
「なんで! なんでよりにもよってその人選んだのストル! 他にも仲良い女子いんじゃんエノーラとかパルウェとかラティとかフィレイラとか! なんで! チェチェリアにしたの! あとが怖い!」
お前のその発言を待ち合わせた時に余すところなく伝えてやる感謝しろ、あっやめてやめてごめんなさい俺まだ死にたくないですごめんなさい、という会話を視線で交わしたのち、ストルはごく当然のことを演説してのける自信に満ちた表情で、堂々として言った。
「リトリアが懐いている」
「……えっ、そ、そ……う、なの……?」
ぎこちなく問い返すフィオーレに頷いただけで視線を外したのは、リトリアがおずおず、試着室から顔を覗かせたからだろう。にこりと笑ったストルが、出て来て見せてくれないか、と囁くのに戦慄しながら、フィオーレはたぶんあの服も買うんだろうなぁ、と予想し、深く息を吐きだした。
はいじゃあこれで買ってね、と財布を渡した瞬間にチェチェリアから向けられた、動いてしかもしゃべるゾウリムシを見つめるがごとき視線は、素直に女の敵として睨まれた方が百倍はマシだったくらいの衝撃をフィオーレに与えていた。二人の買い物が終わるのを待つことに決めた喫茶店で、フィオーレはいやそういう視線を向けるべき相手がいたのならそれは俺じゃなくてこっちだから、と泣きたい気持ちで真向かいに座るストルに視線をやった。散々買い物をさせて、気持ちをすこし落ち着かせたのだろう。朝よりは不機嫌でなく、それでいて常よりは無表情気味になんだと呟く男の視線はフィオーレを向かず、店の外、その道の先をひたすら注視していた。リトリアがチェチェリアに連れられて行った店のある方向だということに気がつき、フィオーレは反射的な笑いを我慢して、ぐったりとしながらしみじみと思った。
「……ストルちゃんさぁ」
ごすん、となんのためらいもなく硝子の器が机に寝伏せるフィオーレの頭に向かって振り下ろされた。中身がすでに半分ほど消えているとはいえ、関係なく痛い。ちゃん、と呼ばれたのがお気に召さなかったらしい。ストルさあ、と呼びかけなおせば視線はようやくフィオーレを向き、目を細める動きだけで、言葉の続きを促して来た。この男は案外めんどうくさがりだ。
「リトリアのこと、そんな可愛い?」
「言っている意味が分からないが、リトリアは一般的に見て可愛らしい子女であると思う。……良家の子女だったとも、思うが?」
遠回しな確認に、フィオーレはストルのこの妙な勘の良さだけはどうにかならないものかと思いつつ、それに対しては口を噤んだ。あれくらいの年頃の幼子として、リトリアの所作は研ぎ澄まされ、落ち着いて、洗練され過ぎている。恐らくは高度な教育を受けていたのであろう話しぶりであり、様々なことに対して頭の回転がはやく、情報の処理が極めて早い。人見知りの気を最大限発揮している現在であるから、それを知るのはストルとチェチェリア、あとはフィオーレくらいのものだろうが、人並みの社交性を発揮するようになれば誰にも分かることだろう。どういう生まれ育ちなんだと追及してくる視線をのらりくらりと交わし、フィオーレはそうじゃなくてさ、と笑ってみせた。
「どんな女の子にだってしてあげたことないじゃん。服選んだり、着せたり、靴選んだり、履かせたり、髪飾り選んだり、つけたりすんの」
「不特定多数と付き合っていたように聞こえる。その言い方は止めてくれるか」
「……つきあったりはしてない女の子に、買い物に付き合ってくださいって言われて。承諾するのも稀なら、珍しく一緒に行ったげたと思いきや、本気で荷物持ちしかしてやらなかったストルがどんな風の吹きまわしでリトリアにかいがいしくしてんのかと。すごく不思議で」
ごく正確に言い直したフィオーレに、ストルは嫌そうな顔つきで沈黙したものの、事実から大きく外れてはいないと己でも納得してしまったのだろう。ものすごくなにか言いたげな顔でしばし沈黙したのち、ストルはぼそりと、彼女たちとリトリアは違うだろう、と言った。やばいこれにやにやする、すごくにやにやする、と思いながらフィオーレは机から体を持ち上げた。違うっていうのは、と会話を終わりにしようとしないフィオーレにうんざりしてきたストルの眼差しが送られるが、言葉が止まることはなかった。
「なにが? 年齢が?」
「印象が」
「……いんしょう?」
思ってもみなかった言葉に、フィオーレは言葉を繰り返し口に乗せ、不思議そうに目を瞬かせた。
「印象って、えっと、たとえば……どんな? ちっちゃくって、可愛いとか? それとも、育ちが良い感じとか?」
「いや、そういうのではないな。それらも、確かに、そう感じはするが」
ちっちゃくって可愛い、と。育ちが良い感じ、という印象を否定するどころか肯定しておいて、ストルは道の先にすい、と視線を投げかけた。
「可憐な、花のようだと思う。手を伸ばして、すこし力を込めれば、簡単に手折れてしまいそうな」
「……だからつまり?」
「守ってやりたい。それだけだ」
極めて単純で分かりやすい理由だろうときっぱりと言ってのけ、あとはもう聞くなとばかり口を閉ざしてしまったストルに、フィオーレはえーっとちょっと待ってあのさそれってさぁと頭を抱え、どうしたものかと息を吐いた。それは果たして単純な庇護欲として片付けてしまって良いものだろうか。つい先程、チェチェリアにリトリアをお願いし、別れた時のことを思い出す。本当はそれで、ストルとフィオーレは寮に戻ってしまう予定だったのだが。それを引き留めたのがリトリアで、待つことに決めたのがストルだった。帰る、というのを察したリトリアの顔が泣きそうに歪み、ちいさな手がそっとストルに向かって差し出される。指先がよわくローブの裾を握りこみ、見上げた視線は言葉よりはやく、行っちゃいや、と告げていた。あんな風に。一心に、ひたむきに、純粋に。こころを傾けられて、慕われて。可愛いと思わない相手は、いないに違いない。
ストルさん、とまだ呼び慣れない風にたどたどしく、紡がれた名に、考えた間は数秒もなかっただろう。ストルはリトリアの前に片膝をついてしゃがみこみ、視線の高さを近くして、分かった、と微笑した。待っていよう、行っておいで、と見送りの言葉に、リトリアはじわじわと零れる喜びにはにかみ、嬉しくてならない様子で頷いた。あんな風にリトリアが笑うのはじめて見た、と思い、フィオーレはそれを口には出さなかった。代わりにひとつ、溜息を零して。渇いたのどを潤すべく、水滴の浮かんだグラスを、口元へ運んだ。
おやすみ、また明日。そう告げ、ひとり、またひとりと立ち去って行った談話室の扉が、また閉められた。温かみのある開閉音のあと、耳を澄ませば、ゆっくりとした足取りで階段を上って行く靴音までが聴き取れた。夜更けの、ひやりと静まり返った静寂が建物の外ばかりでなく、寮の中まで染み込み切っている。月明かりに咲く花たちはようやく寝ぼけたまどろみから醒め、風に身を任せ囁いている頃だろう。リトリアを見つけたのは、そんな白い花が咲き乱れる中だった。銀の月明かりと白雪の花灯りに照らし出され、その姿はくっきりと世界から浮かび上がって見えた。思い返せば、なにかが恐ろしいほど胸の奥でざわめき、ストルを落ち着かない気持ちにさせる。視線が絡んだ一瞬を思い出す。それは月夜のことではなく、その数日前。魔力で閉ざされた部屋の中。意識を失い、倒れ伏す寸前に向けられた瞳。花の色。藤の花色。
助けを求めて、ひたすらに伸ばされていた白い手。
「……ん」
ちいさな安堵に綻んだ声と、もぞり、身動きする気配にはっとして、ストルは己の腰かけていたソファと、その背もたれの間を振り返った。なにかが刺激になったのだろう。そこに寝転んで眠りこんでいたリトリアが、もぞもぞと身動きをしたのち、ぼんやりと目を開く。ふぁ、と幼く息を吸い込んだくちびるが半開きのまま、リトリアは体を起こす。くんなりと中途半端に首を傾げてひたすらに眠たそうにしながら、リトリアはふわふわと瞬きをし、もう一度あくびをした。
「……ストルさんは」
「うん?」
「ねないの……?」
なんでねないの、とばかり寝ぼけた顔で見つめてくるリトリアに、ストルはやんわり笑みを深め、読んでいた本をぱたりと閉じた。
「そうだな、そろそろ眠ろう。……さあ、部屋の前まで送るから、おいで、リトリア」
すっと音なく立ち上がるストルをほけほけと寝ぼけた顔つきで見つめたのち、こくん、と頷いたリトリアが床に足をつけ、立ち上がる。怖々と伸ばされた手が、ストルのローブの端をちょこんと摘んだ。
「……ストルさん」
「どうした?」
「あの、今日はほんとうに、ありがとうございました……服も、靴も、たくさん……」
形の綺麗な薄い爪は、桜の色をしていた。この少女は木の花の守護でも受けているのだろうかと真剣に思いながら、ストルはその場に片膝を折る。微笑みながら顔を覗きこめば、リトリアはどぎまぎした様子で頬を赤らめ、すこしばかり困った様子で眉を寄せた。ストルさん、とどこか半透明に響く声が男の名を呼ぶ。ふっと笑みを深め、ストルはリトリアの瞳を覗く。
「気に入ってくれると嬉しい。……一方的に買ってしまったから、リトリアの意見はあまり聞かなかったな。すまない」
言葉が出てこない様子で、リトリアは一生懸命首を横に振った。大丈夫、好き、とたどたどしい言葉が漏れ聞こえ、ローブの端がぎゅぅと握りこまれる。あまりひとに、触れてこない少女だった。リトリアが手を伸ばすのはだいたいが服の裾や、余った布の波打つ部分で、手を繋ぐことすらごく慎重に避けているふしがある。星空の元で震える体を抱きとめた時も、華奢な体は布に包まるようにストルの腕の中にあるだけで、真白い肌がぬくもりを直にうつすことはしなかった。意識してやっている風には見えないので、どれもこれも、無意識なのだろう。それを侵してまで手を伸ばし、どこまで許されるのかを試す趣味はない。けれど、ストルは手を伸ばし。
俯くリトリアの髪を一筋、てのひらで撫であげた。
「なにか、困ったことがあったら……教えてくれ。どんなことでもいい」
「……ストルさん」
「リトリア、どうか……」
はい、と、そう言ってくれないか。吐息に乗せて囁き、ストルのてのひらがさらりと、髪をすくっては撫で、背へ落としていく。くすぐったそうに時折肩を震わせながら、リトリアは握っていたローブから手を離し、その指先をもっと男へ近く、伸ばした。膝をついてしゃがみこむ、その肩と喉の中間辺りの服を、指がくっと掴む。ストルさん、と囁き、リトリアはその場所に身を寄せ、顔を伏せた。はい、とちいさく呟き男の望みを叶えたリトリアに、ストルはありがとう、と囁き、着ていたローブの袖から腕を引き抜いた。床へ落とすように脱いだローブを片手で拾いあげ、ストルはそれでリトリアをくるみこむようにしてから、寄せた体を離される前に抱きあげる。
ん、やっ、とむずがるように怖がった声をあげ、リトリアがストルの肩に額を擦りつけた。さあ、部屋まで送ろう、と囁いて歩き出しながら、ストルは耳まで真っ赤に染め、ふるふると震えて顔をあげようとしないリトリアの髪を、指先で撫であげる。
「あまり、そう、可愛いことをしないでくれないか」
「わ、たし……ひとりで、あるけます、から」
「顔を見せてくれたら考えよう」
ふるふるふる、とストルの肩で藤の髪が揺れる。もうすこしだけ待ってください、とお願いされて、ストルはそれはまた今度にしよう、と笑みを深め、歩き出した。談話室の扉が開き、閉じられる。殊更ゆっくりと歩む靴音が遠回りをして部屋の前に辿りついたことを、リトリアはついぞ、気がつかないままだった。