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 膝の上に置かれた白い手はきゅぅと握られ開くことなく、髪に指が触れるそのたび、緊張した様子で腕がかすかに震えを発した。俯く首筋を描く線はあどけなくも柔らかく、どこか甘い香りを漂わせている。時を経るにつれ赤みを増して行く耳や頬、掠れた吐息を繰り返す唇は瑞々しく、花が咲いて行くようだとも思う。かたく閉じられ、時折、恐る恐る開いてはまた隠れてしまう瞳は、一向に背後を振り向かなかった。そのことにひどく胸がざわめき、ストルはさらに身を屈め、背中から少女の耳元へ口唇を寄せた。
「……リトリア?」
 びくんっ、と肩が震えて、それなのに声は漏れなかった。はくはく、空気を取り込むばかりのくちびるが、落ち着かないままに閉ざされると、ようやく、泣き濡れた鉱石のような瞳が瞼の奥から現れる。俯く膝の上、あるいは正面ばかりを向いていた視線がそろそろと円を描き、己の背後へ回される。瞬きをすれば涙が零れ落ちそうなくらい、水に満ちた目だった。
「……嫌か?」
 声もなく。勢いよく振り返ったリトリアが、椅子の背もたれを乗り越えるようにして体を浮かし、ストルに両腕を伸ばしてくる。ぎゅう、と強く腰辺りの布を掴まれ、腹に顔を埋められて首が振られた。言葉が出てくるのを待ちながら、ストルはよく梳いたばかりのリトリアの髪に指先を伸ばした。一房を摘んで、悪戯に指に巻く。猫の毛のように柔らかく、髪はするりと肌を撫でてから逃げて行った。何度も、何度もそれを繰り返しているうち、くんっと服が下に引かれた。視線を落としてやるとようやく真正面から、リトリアと目が重なる。
「す……すごく、くすぐったい、だけ、です」
「本当に?」
「ほんとう……そんなに、そーっとしなくて、いいです。くすぐったいの。い……嫌なのでは、ないの」
 だから、行かないで。やめようとしないで。嫌いにならないで。声にならない感情がぐるぐると渦を巻く瞳を覗きこみ、ストルは吐息に乗せて微笑んだ。無理強いをしているのでないと分かれば、ストルとしても安心する。
「分かった、もうすこし努力はしよう。……が、難しいかも知れないな」
「どうして?」
「優しくしたい」
 指で摘んで撫でていた髪を、リトリアの背に落とす。その感触すらくすぐったく、背を仰け反らせたリトリアに、ストルはやわりと笑みを深めた。
「痛い思いは、させたくない」
「……髪の毛の、ちょっと痛いくらいなら、私ちゃんと我慢できます」
「我慢もさせたくないんだ。……さあ、リトリア、前を向いて。梳く間に、髪飾りを選んでおいてくれるか?」
 鏡台の前に置かれた小箱には、なないろ小路でストルが選んだ髪飾りがいくつも納められていた。月が変わるごと、季節が巡るごとに選ばれ、送られているそれはこの二年で随分と数を増やし、お気に入りだけを選んで納めた小箱だけでも随分な数となっている。それはどれも、色鮮やかな花の飾りだ。大ぶりな一輪だけのもの、小花がいくつも束ねられているものと様々あったが、リトリアの手が伸ばされ、迷いなく選んだのは青白い小花の飾り。水辺に咲く野の花だった。それを潰さないように両の手で包みながら、リトリアはすこし拗ねたように、つんとくちびるを尖らせる。
「くすぐったいのに……」
「嫌ではないのだろう?」
「がまんも、させたくないと、いま、言ったのに……」
 まったく腑に落ちないようすで呟きながら、リトリアの手が花飾りを膝の上におき、ざわめきを耐えるように手を握り締めた。文句にもならないささやかな呟きだけで元に戻ったリトリアに、ストルは耐えきれない忍び笑いを響かせる。
「ストルさん。やさしい、いじわる……」
「そうかな」
「そうです」
 花の。咲き初めるばかりの、藤の花の瞳が。振り返ってストルをまっすぐに見る。そのくちびるが息を吸い込むより早く、ストルは真摯に、問いかけた。
「嫌か?」
 いじわる、とめいっぱい詰りたがる意志が甘く砕け、リトリアの顔が赤く染まる。ふるふる、無言で首を横に振って正面を向きなおしたリトリアに、ストルはただ、静かに笑みを深め。梳いた髪に手を伸ばすと、一房を口唇に寄せた。甘い香りがした。ふわりと、空気を染めるように。花の、香りだった。



 昨夜の遅くに入学式を終えたのだという新入生の姿を、リトリアはまだ見ることが出来ないでいた。分かっているのはリトリアより年上の少女であるということくらいで、名前も、容姿の特徴も、出身国はおろか、なんの魔術師であるのかすら情報が回ってきていないのだ。そういう噂話に詳しい者ならいくつかは知っているかも知れないが、あいにくとリトリアは本人以外から聞く真偽の定かではない情報というものに、とんと興味がない性質だった。よって本人から聞くしか知る術はないのだが、その相手らしき者を見つけることすらできないでいた。
 『学園』に在籍する魔術師の数は、そう多くはない。一年を通じて、百名前後。卒業時期が決まっていない性質上、不意に減りはするが、増える日というものは決まっている。つまり、その日を過ぎて見慣れない相手がいたら、それが今年の新入生である。性別と、年上、という手掛かりはあるので見ればきっとすぐ分かる筈、と思っていたリトリアは、二日過ぎ、三日、四日目になっても遠目に見ることすら叶わない新入生に、多少拗ねた気持ちでストルの背中にぐりぐりと頬を擦りつけた。読書の邪魔をしないよう、膝の上に座るのは控えたが故の背後からのひっつきに、ストルは溜息をついて読んでいた本を閉じ、それを机に置いてしまうとソファの上で半身をひねり、振り返った。
 服をきゅぅと摘んでいたリトリアの指先を視線だけでやわく撫で、ストルは少女の腰を抱くように手を伸ばした。太股の下に腕を差し入れ、ストルはひょい、とあまりにあっけなく、手慣れた仕草でリトリアの体を横抱きにしてしまう。すとん、とばかり降ろしたのは己の膝の上だった。すぐに胸元へぴったりと体をくっつけてくるリトリアの、結いあげて綺麗に整えられた髪で揺れる、涼しげな花飾りを指先で愛でる。硝子で作られた藤の花飾りは、涼しげな音を立て少女の耳元で揺れ動いた。
「遠慮しないでこちらへおいで、といつも言っているだろう?」
「……本を読むのの、邪魔かな、と思ったの」
「邪魔そうに読んでいたことがあるか?」
 リトリアの定位置は、ストルの膝の上。その腕の中、である。ここ二年間で誰もが暗黙の了解のように知る事実に、一々注目する者は談話室にはいなかった。ふるふる、無言で首を横に振るリトリアに、ストルは甘く笑みを深めてみせる。
「なら、問題はないな。……ああ、もちろん、リトリアが嫌なら無理強いはしないが」
 ぎゅぅ、と服が掴まれ、リトリアはストルの腕の中で顔をあげた。薄紫の瞳は、息をつめ、一心にストルのことを見ていた。ストルのことだけを。考えて、揺れる、藤花色の瞳。
「いやじゃない、です。……ここに、いても、いい?」
 返事の代わりに、ストルはリトリアに腕を回し、その体を深く抱きこんだ。柔らかな、幼くちいさな体はなんの抵抗もなくストルに包みこまれてしまう。腕をいっぱいに伸ばしてストルの首へ回し、肩に頬をくっつけたリトリアは、安心しきった息を吐きだした。この世界で、一番安全な場所がこの腕の中だとするような、無垢で盲目的な信頼と好意だった。苦く、笑って。ストルは少女の耳元で、そっと囁く。
「本当に……無防備だな、お前は」
 ふるり、くすぐったそうに首を振って、リトリアの目が柔らかくストルを見つめた。花に降り注ぐ木漏れ日のような、透き通る清涼な好意。ストルさん、と声なく呼ぶ吐息がふわりと頬を撫でて行く。これほど近く、あるのに。リトリアは決してストルに触れてこようとはしなかった。その肌はひとの熱を知らないでいる。二年間。薄い布ごしに分かち合う体温、視線だけが繋がれている。触れた者はあるのだろうか、とストルは思う。七歳から九歳になるまでの二年、そうした者がないことは知っている。偶発的に手を繋がれることさえ、リトリアは己の予知魔術を駆使して遠ざけたかのように、誰にもそれを許すことがなかった。
 一番近しく触れさせるのは髪と地肌で、それすら、ストルだけを受け入れている。時折、親しい女魔術師が戯れに髪を弄りたがることがある為、許してはいるようなのだが。受け入れているのは、ストルだけだった。それでも、ストルはリトリアの直の熱を知らない。無防備に腕の中にあるちいさな体に、触れることはあまりに簡単に思えた。リトリア、とストルは呼ぶ。透き通る肌に指先を伸ばしかけ、それを途中で止めたのは、リトリアはふわりと笑んで目を閉じてしまったからだ。瞳は閉ざされたのに。それは、花が咲き零れるような印象を零して行く。ストルさん、と呼び囁くくちびるが幸せそうに笑う。そこに。触れさせたことはあるのだろうか。
「……リトリア」
 名を呼べば、ぱちりとリトリアは目を開く。はい、と微笑みながら問われて、ストルは少女に伸ばした指先を肩へ下ろした。
「それで、どうかしたのか?」
 今日は一日、図書館で自習の予定だと言っていただろう、と問うストルに、リトリアは困った様子で眉をゆがめてみせた。『学園』の教育には、年齢による区分が存在しない。入学してくる魔術師の卵の、年齢が一定ではない為だ。その中でも、リトリアは群を抜いて幼かった。だいたい、十歳になる前に入学してくることですら、ここ五十年で二人目というありさまである。一人目は三年ほど基礎教育を受けたのち、ようやく通常授業に参加できるようになった。難しくて付いていけない、というより半分以上なにを言っているのかよく分からない、というのが彼と、リトリアの言である。リトリアは、そろそろ通常授業に参加できそう、という見込みではあるが、未だ基礎教育の真っ只中であった。
 基礎教員専門の教員がついて勉強をすることもあるが、基本的にはひとりで学び、程度ごとに与えられる課題をこなして提出、添削されたものが戻され、また学んで行く。その繰り返しである。先日提出したばかりであるから、次の課題には時間があるとはいえ、リトリアは学ぶことを放棄してまでストルの傍に来ようとはしないのが常だった。終わったのか、と責めるでもなく問うストルに、リトリアはしょんぼりしながらごめんなさい、と告げる。
「まだなの……」
「そうか。分からない所があったのか?」
「……んと」
 リトリアはソファの上で膝立ちになり、ストルの耳元へそっとくちびるを寄せた。ストルさん、と蜜のような声が男の名を呼ぶ。さらりと水に溶ける甘露のような。きよらかで、透き通っていて、ほんのりと甘さを漂わせる。そんな、やわらかな、声だった。
「ストルさんは……もう、新入生さんに、会った?」
 それが、拗ねた風に、つまらなさそうに空気を震わせるものだから、ストルはすぐ、少女の不満に辿りつくことができた。なるほど、と笑いながら膝立ちを止めさせ、脚の上に座り直させながら、ストルは楽しげにリトリアの目を覗き込む。
「会いたいのか?」
「……ストルさんは、会った?」
 ずるい、と言いたげに服を引っ張られて、ストルは僅かばかり考え、否定の形に首を振った。
「会ってはいない。遠目に見ただけだ。……彼女は、確かリトリアと同じ階だった筈だが」
「えっ」
 寮は、魔術師の適性によって部屋を与えられる階が違っている。白魔術師と占星術師は二階。黒魔術師と、錬金術師は三階。四階はそれらに該当しない者。予知魔術師、時空魔術師、召喚術師、言葉魔術師。大戦争時代、相手方に存在すればただの一人で戦況をひっくり返し、脅威とされた適性を持つ者たちが、まとめて四階に放りこまれることになっている。その数は、脅威とされる恐れに反比例するかのように、ごくごく少ない。稀な、希少種とも呼ばれる魔術師たちの住処が寮の四階である。そこへ、新入生は入ったという。寮長が確かそんなことを言っていた気がするんだが、と呟くストルに、リトリアはえっえっと混乱しながら頭を巡らせた。
 そういえば数日前に隣の空室がお掃除されていたようなされていなかったような。そしてやっぱり数日前から、そこで誰か生活しているようなしていないような、気がするのだが。するのだが。じわわわっと浮かんでくる涙をストルの服に吸い込ませながら、リトリアはすん、とちいさく鼻をすすりあげた。
「どうしよう、ストルさん……私、ちがうの……ちがうの、気がつかなかっただけなの……!」
 リトリアが与えられた部屋に戻っているのは、ほぼ夜に眠る時だけのことである。私物を取りに立ち寄ることはあるのだが、その他の時間は全て、部屋の外で過ごしていた。図書館か、中庭の隅か、談話室か、食堂。この四つがリトリアの生活、および移動範囲であり、部屋はあまりそこに含まれていないのだった。夜も談話室の、ストルの傍で眠ってしまうことが多く、夜も更けてから部屋まで送ってもらう為、本当に分からなかったのである。今日は、とリトリアは、ストルにぺったり体をくっつけたままで言った。
「夕ご飯を食べたら、お部屋に戻ります。それで、ご挨拶するの……!」
「そうするといい。……俺は談話室にいるから、寂しくなったら、おいで」
 夜に顔を見ないでいるのは久しぶりのことかも知れないな、と微笑するストルに、リトリアはそわそわと視線を彷徨わせて。のち、そぅっと、おやすみなさいは言いに来ますね、と告げた。少女の髪を、指先でしっとりと撫でつけて。待っている、とストルは、腕の中の少女へ囁き落とした。



 図書館の傍にある巨木の根元が、リトリアのお気に入りの読書場だった。そこにはリトリア用の椅子まで置かれている。木の根に腰かけて本を読んでいることを知ったストルが、体のどこかを痛めるかも知れないだろう、と心配してなないろ小路で買ってきたそのちいさな椅子は、腰かけも背もたれも木で出来ているというのにクッションのいらない柔らかさで体を受け止め、夏にはひんやり、冬にはぬくもりを宿す魔術具の一種だった。錬金術師の一点ものであるという。読書をするたびに運んでくるのは骨が折れるので、主に雨ざらしになっているのだが、不思議と汚れもつかないし、砂まみれになることもない。ただ、淡い光だけを受け止めて、古木の葉のざわめきと共に、常にやさしくリトリアを迎えてくれた。
 そこへ腰かけ、リトリアは黙々と本を読んでいた。物語の類ではない。これから学ぶ魔術師としての授業を受ける為に必要な、大戦争から今日に至るまでの歴史書だった。難しい一文は何回も繰り返して読み、時には文節を遡り、理解できるまで考えるものだから、読み進める速度はひどく遅くなる。木漏れ日の角度が変わる頃、ようやく一枚紙をめくり、リトリアは目をすがめ、ぱしぱしと瞬きをした。頭上を風が通って行く。嵐の前のように揺れ動く、騒がしくも心地良い葉の擦れる音を聞いて、リトリアはのんびりとあくびをした。自然の中の空間。ひとの気配と声のない場所は、なぜだかひどく懐かしく、心地よく、安心することができた。図書館の中は、リトリアにはすこし窮屈で、不安に思える。
 幼い時分から文字を読むことが得意だった。ろくに教えてもいないのにどうして、と不安がる声。手の届かない高さの書棚。床に落ちる影を揺り籠のようにして眠った。しんしんと降り積もる不審と不安。今日はこれを読んだの、これを読めるようになったの。褒めて、お願い、一度だけでいいの。いいこにしているから。ひとりでもちゃんといいこにしているから。差し出した本ごと振り払う手。後悔と懺悔に満ちた目が向けられる。書棚の海でまどろむように目を閉じる。古い紙とインクと埃の匂い。暖められた、それでいてひんやりとした空気。広すぎてどこにも体を落ち着かせることができない。夜は怖くて眠れなかった。だから昼に。誰もいない場所を探して、誰にも見つからない場所を求めて。ひとがいる場所はこわい。これは誰の感情。これは誰の記憶、思い出。浮かびあがっては泡のように消えて行く、それすら、白く白く塗りつぶされて行く。再び。白く。
 世界が息を吸い込むように風が吹いた。緑のままの木の葉が一枚、開かれたままの本の上に落ちる。ぼんやりと瞬きを繰り返して、リトリアは眠たげな仕草で首を振った。今日は、どうも調子が悪いらしい。気持ち悪いくらいに魔力がざわりと揺れていた。不調になる程の影響はまだ出ていないが、落ち着かない気持ちになる。思い出せない筈のなにかを、蘇らせてしまう気がする。体の芯がすぅと冷えた気がして、リトリアはくちびるの動きで、ストルの名を呼んだ。あの温かな腕の中でまどろんでしまいたい。ゆるゆると体を温めてくれる熱。安心して身を寄せられる場所。そこにリトリアが、いても良いと思える、おそらくは初めての。
 風の吹く音が聞こえる。花散らす風の音。ひやりと水を抱く空気が雨の前兆を教える。見上げた先の曇り空。やがて叩きつけるような雨が降るだろう。土穿つ雨は緑の葉を千切り、それは窓に叩きつけられて叫び声をあげる。リトリアはそっと目を閉じた。降り積もる確信をストルに告げたことはない。こわかった。もし拒絶されたらと思うと、息を止めてしまいたい気持ちになる。こわい。怖くて悲しくて仕方がない。けれど、傍にあるたび、抱きしめられるたび、名を囁かれるたびに。漆黒の、ただ恐ろしいばかりであった夜に似た瞳に、見つめられるたびに想いが降り積もって行く。このひとだ、と確信的に本能が告げる。このひとだ、このひとが。このひと以外には誰もいない。世界でたったひとり、このひとが。
 風に流れてきたざわめきに、リトリアは視線を図書館の出入り口へ投げかけた。そこで行われていた座学が終わったらしい。幾人かが親しげに肩を並べて寮の方角へ歩き去って行くのを眺め、うんと伸びをしてから、リトリアは読書へ戻ることにした。この本も、あともうすこしで読み終わる。そうしたら、図書館へ返して、また新しく一冊を借りて、ストルさんの所へ行って。読み終わりました、次はこれです、と言うたびに髪を撫でてくれる手が、今はどうしても欲しかった。また褒めてくれるだろうか、と思いながら数行を読んで、リトリアはある記述に目を止める。指先でその一行をなぞりながら、声に出して読んだ。
「その武器は、彼の恋人の為に作られた。たったひとつ。……命を失わせる為だけに。痛みはなく。ただの一瞬で」
 魔術師を『選ぶ』武器についての章。文字はただ淡々と、書き連ねられていた。
『選ばれる者は男であり、女であり、ありとあらゆる適性の魔術師であった。残された書物は少なく、選ばれた者たちに共通項はない。ただ、一点、共通していることがあるとするならば、それはこの武器が命を奪った者は全て』
 続きは、読まなくても分かっていた。リトリアは目を伏せ、数行を飛ばして読み進め、本を閉じた。さあ、本を返しに行かなければ。ふあ、とあくびをしてリトリアが椅子から立ち上がろうとした。その時だった。強風がリトリアの真正面から吹きつけ、少女はぎゅぅと目を閉じた。しばらく、身動きができないくらいの風。収まるまで待って、リトリアはそろそろと目を見開き、息を飲んだ。いつの間に、歩み寄ったのか。目の前に少女が立っていた。濃い褐色の肌に、散らばる髪は星の眠る夜の漆黒。手折れそうな華奢で、ほっそりとした体を、真新しい服とローブが覆っていた。火の、ような。赤い瞳が、リトリアをまっすぐに見ていた。
「……っ!」
 告げる言葉もなく。リトリアは少女に向かって手を伸ばしていた。嬉しかった。嬉しくてたまらなかった。それは花揺らす風。それは花満たす雨。そして、花咲かす光。降り注ぐ祝福とそれに折りこまれた音楽。世界を満たす旋律と、同じものがリトリアの中で告げる。会えた。巡り会えた。この世界で、たったひとり。私を、まもってくれる、ひと。
「……あなたが」
 言葉は続かなかった。伸ばした手が動きを止め、凍りついたように立ちつくす少女の服の端を掴む。リトリアは椅子から立ち上がり、少女の前に立った。下から顔を覗き込むようにすると、少女はそれを拒絶するかのごとく、つよく瞼を閉ざしてしまう。声もなく。リトリアから顔をそむけて、少女は、泣いた。



 少女の名がツフィアといい、今年入学してきた新入生であること。そして、言葉魔術師であることを。リトリアはツフィアに手を振り払われ、走り去られた後、迎えに来てくれたフィオーレに教えられて、ようやく知った。涙の理由も分からないまま。払われた手の痛みに、動けないままで。

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