自室へ戻るべく階段を登り切った先で、ツフィアはその歩みを止めた。腕へ抱えた教本が重たく、早く下ろして欲しいと訴えてくるがそれ以上は一歩も足を進めることが出来なかった。思考を感情に馴染ませるよりはやく、深く悔いたような息が吐き出される。一度かたく目を閉じ、処理した感情を、他の誰にも知らせることはないだろう。幸い、寮の四階には住み人がすくない。どこかがらんとした雰囲気が漂うのは空き部屋の多さ故であり、寮生の殆どが授業以外の時間を談話室や図書室などで過ごしている為、単純に自室へ割り当てる時間そのものが少ないからだった。その為に、発見が遅れているだけだろう。温かく世話焼きの多い、悪く言ってしまえばおせっかいの多い魔術師の卵たちが、これを知っていて放置しているとも思えなかった。ツフィアはようやく己の意識というものをはきと取り戻した表情で目を開き、一歩、また一歩と歩み出す。
硬質でちいさな足音が近づいてくるのに、それは瞼を持ち上げもしなかった。ツフィアの住まう部屋の扉の前に毛布をひき、そこにころりと横になった姿のまま、すうすうと寝息を響かせている。それは幼い、少女だった。淡く紫に色付く細く繊細そうな髪が、柔らかそうな頬に幾筋か散っている。瑞々しく甘そうな真白の肌。砂糖菓子や摘みたての花で作られたブーケ。そんなものを容易く連想させるあまやかな幼子。限りない喜びにきらめく瞳が、まっすぐにツフィアを見ていたのを思い出す。呼ぶ名を知らず、そのことにもどかしそうに震えたくちびるの色。服の端を摘んだ指先が震えていた。信じられないくらい繊細に磨かれた爪先の、真珠のような光沢。誰かに手をかけられ、愛されているのが一目で分かった。
今も。髪をくしゃくしゃにして眠る幼子の傍らには、横になる前に外したのであろう花飾りが置かれている。硝子で作られたその花にどれほどの値がつけられているのか、幼子はきっと知らないに違いない。それでも、ただ、大切にしていることだけが伝わってくる。花の髪留めは、白いハンカチの上にそっと置かれていた。幼子の身を包む淡い桜色の服は、とてもよく似合っていた。爪先とかかとを丸く包み込む焦げ茶の靴は、汚れひとつなく磨かれ綺麗に保たれている。これを成した者は、廊下に寝転んでいるのを発見したら嘆きはしないのだろうか。汚れるだとか体が冷えるだとか、風邪をひくだとか。こんな硬くてつめたくて寒そうな所で眠るなとか、無防備すぎるとか、叱りつけてはくれないものか。
もやもやとした気持ちを持て余し、ツフィアはしばらく、眠るリトリアを見下ろして。やがて唇に力を込め、くるり、潔い仕草で身を翻した。声をかけず。自室に入ることも、一時諦めて。来た道を戻り、階段を一段、下がる。靴底が奏でる、離れて行く、そのかすかな音に。あわく瞼を震わせたリトリアが、そぅっと目を開いた。
「……つふぃあ?」
呼び声は届いていた。あまく、じんとしたしびれを感じさせる声だった。返事はしなかった。立ち止まることも、振り返ることも。息を吸う。階段をトン、と降りて行く音に混じって、すん、と悲しげに鼻を鳴らしたのが聞こえた気がした。
いきなり、リトリアが泣いている気がすると言ってストルが早足に談話室を出て行った時は、コイツ禁断症状が出てついにちょっとアレしたものかとフィオーレは遠い目になりかけたものだが、数分もせぬうちに戻ってきた男の腕に、くすんくすんとしゃくりあげる幼子が抱きあげられているのを見て考えを改めた。あっ別に禁断症状じゃなかった通常運転だったごめんストルちょうごめん、引く、と思いながらうんうんと頷いている友人の腰かけるソファの前に戻ってきつつ、ストルは無造作にフィオーレの脚を蹴飛ばした。僅かばかりも立ち止まらず、進んで行く歩みに影響せず、腕の中に抱くリトリアの体に衝撃を与えもしない、実に流麗で慣れ切った一撃だった。
そのせいで、リトリアはストルがそんなことをしたとも気が付いていないのだろう。ほんのすこしフィオーレに零された眼差しは痛がるさまをひたすら不思議がっていて、それすら、ストルが名を呼びかけたことで意識の全てがひとつの所へ戻って行く。ソファに座り直すストルにぴったりと体をくっつけ、首に甘えるように腕を回して、すりすりと顔を肩のあたりに擦りつける。毛布で全身を包まれているからなのか、それは雨の日に拾いあげてきた子猫が、もう温もりから離されまいと必死で愛を乞う様を思わせた。ストルさん、と落ち込んだ声が男を呼ぶ。ストルは撫でるような穏やかな眼差しでリトリアの目を覗き込み、その名を落ち着いた声で響かせた。
「リトリア。……どうした?」
「つふぃあが、ね……!」
じわわわわっ、と涙を浮かばせた藤花色の瞳が、この世の終わりのような悲痛さをストルに訴えた。
「ツフィアが、私と、お話もしてくれないの……!」
「……そうか」
あっだめだこれ機嫌悪い時のストルだ俺ちょう逃げたい、と思いながらフィオーレは眼前の二人からそーっと視線を外した。数分前の己に問いたい。なぜストルが出て行った時に席を立ってしまわなかったのかと。えええちょっと嫌な予感しかしないんだけど誰か助けてくれたり、と談話室にぐるりと投げかけた視線は、温かな微笑みや無言で目を伏せる仕草で出迎えられ、激励され無視された。面白そうだからフィオーレはもうちょっと頑張ると良いと思う、ときらめく笑顔で頷いたエノーラの夕食に嫌いな食べ物が出ますようにと心底願ってから、そろそろと正面に視線を戻す。そして後悔した。だからなんで数秒前の己は正面を向きなおそうと思ったのか。
「お話するとね、ちゃんとお返事はしてくれるの。でもね、すぐどこかへ行っちゃうの。ツフィアって呼んでも聞こえてくれないの……。服のね、袖をね、ちょっとだけね、ひっぱって、ツフィアって呼ぶとちゃんと振り返ってくれるんだけどね、たくさんはお話してくれなくて……あっちへ行っていなさいっていうの。私、まだちゃんと名前も言えてない……ツフィアに名前呼んでもらいたいの」
「……そうか」
あのストルさん、そのリトリアの口から他の人間の名前が出てくるのを明らかに面白がっていない顔つきは無意識だと思うので今のうちどうにかしておいた方が良いと思うよ、とフィオーレは胃をきりきりと痛ませながら思った。口には出さなかった。話しかけるのが怖いからである。だいたい、リトリアはあんなに至近距離でいるのにどうして気がつかないのかと思うが、恐らくは肩に頬をくっつけて目を閉じて抱きついて甘えているからで、その髪をストルの手がずっと撫で続けているからだろう。指先をするすると絡め、髪を慈しみ梳く仕草は、見ているとなぜかじわじわ恥ずかしくなってくる。
毛布越し、しっかりとリトリアの腰を抱く腕に支える以上の力が込められていないのは、そうすれば軟く幼い体が軋んでしまうと知っているからだろう。痛いの嫌いだもんねストル、もうなんか嫌いとかいう意味が広すぎて俺ちょっとよく分かんなくなってきたけど、と生ぬるい視線でやりすごすフィオーレに目もくれず、男は己の腕の中でめいっぱい甘えてくるリトリアを、やんわりと抱きしめ直した。腕の位置が変わったことに気が付いたのだろう。ことりと肩に預けられた頭から不思議そうな視線が持ち上げられ、ストルの瞳を覗き込んでくる。くちびるが淡く、息を吸い込んだ。
「……ストルさん?」
あまく。よわく。もろく。崩れかける砂糖菓子のような声で、リトリアはストルの名を紡ぎ上げた。耳元にそっと触れ、はにかむように消えていく儚い響き。どこか不安げに、それでいて、返事のないことなど予想すらしていない信頼を帯びた。
「ストルさん……」
「うん?」
「なまえ。呼んで……?」
わたしの。薄くれないに色付くくちびるが、たおやかにねだる。微笑みを浮かべ、ストルはリトリアの瞳を見つめ返した。
「リトリア」
「うん。……うん、もっと」
「……リトリア」
ごく僅かに身を屈めて耳元に声を吹きこんでやれば、幼い体はストルの腕の中、くすぐったそうに身をよじった。くすくす、幸福な笑みが震わせる空気に、妙な苛立ちが溶けて行く。ぎゅぅと力を込めて抱きついてくる腕が伝わせる体温は、もうすっかりストルと同じ温かさだった。廊下で毛布の上に座りこみ、泣いていた時には冷えた水のようであったので心配もしたが、これで体調を崩してしまうことはないだろう。毛布越し、一度だけ強く抱き締めれば、リトリアは不思議そうにストルを呼んだ。ただ名を呼び返し、ストルはそのあまやかな体温に目を伏せる。このままどこへも行かなければいいのに。一瞬だけ浮かんだ黒々とした思考を打ち払い、ストルはきょとんと見つめてくるリトリアに微笑みかけてやった。幼子は嬉しげに頬を染め、はにかんでストルの肩に顔を擦りつけてくる。
その髪を慣れた手つきで撫でながら、ストルは吐息に乗せて囁いた。
「……可愛い」
びくぅ、とリトリアの体が跳ね、両の手がストルの服をぎゅぅと掴む。不安と期待にゆらゆらと揺れる藤花色の瞳をしっとりと覗き込み、ストルは悪戯っぽく口唇を和ませた。
「リトリア」
「は、はい……」
「ストル、と。呼んではくれないのか?」
しばらく、意味が理解できなかったのだろう。呆けた様子でストルさん、と呟き、ぱちぱちと瞬きをしたのち、リトリアは震えるような仕草で首を振った。首筋までを朱に染めてむずがる様をやわらかく見つめ、ストルは低く、喉の奥で笑う。
「お前は……本当に可愛いな、リトリア」
「……ストルはそのへんでやめてあげたほうがいいと思う。リトリアが息できなくなる前に。というか泣く前に」
「泣く?」
フィオーレの助けを混乱しきったリトリアが認識するよりはやく、毛布越しに伸ばされたストルの指先が、幼子のおとがいを持ち上げた。は、と乾いた音でリトリアのくちびるが息を吸い込む。絡め捕られたままの視線が、どうしても外せない。ストルはしばらく、リトリアの目元と震えるくちびるを見つめたのち、ふんわりとした、安心しきった笑みを浮かべて囁いた。
「まだ、泣きたいか?」
ふるふるふる、無言でリトリアの首が振られるのを見て確認を終え、ストルはリトリアの後頭部に手を添えた。口付けるように顔の距離を近くし、けれども触れることはなく、ちいさな頭を胸元へ押しつけるように抱く。ぎゅう、と服を掴んでくっついてくるリトリアの髪に指先を絡め、ストルは静かに、そこへ口唇を押し当てた。
学園が新たな魔術師の卵を迎え入れて、約一月が経過した。なにがなくともふわふわと漂う祝いの空気がようやく落ち着きを見せ、今は来るべき流星の夜に備えた準備がはじまろうとしていた。飾り灯篭の数を数え、点検し、ひとつひとつ埃を払って拭う作業はそれなりの重労働で、儀式準備部は部活動の水曜と休日の日曜が巡るたび、慌ただしく寮の中を駆け回っている。リトリアが四階の廊下に座りこみ、重い溜息をついたのは、そんな土曜日の夜のことである。翌日が授業のない休養日である為だろう。階下の談話室から響く声は四階でしょんぼりするリトリアの耳まで届き、切ない孤独感をいっそう大きなものにした。
さびしくなったらおいで、と言ってくれたストルは、きっと今日も談話室で夜遅くまで本を読んでいることだろう。皆が眠ってしまう時間まで帰って来なかったら、ストルさんの所へ行って、それで、と考え、リトリアはくすんと鼻をすすった。背を預ける扉の向こう、部屋の主は今日も戻って来ない。部屋が完全に使われていない、ということはないので、リトリアが眠るまで待っているのだろう。一度だけ、扉の前で眠ってしまったリトリアの、頭を撫でてくれた手を思い出す。触り方が違うので、すぐ、ストルではないと分かった。夢うつつ、眠くてどうしても瞼を持ち上げられないくるしさの中で、触れてくれる手は優しかった。すぐに指先は引いて行ったけれど。かけられる言葉など、ひとつもなかったけれど。でも、あれは。
ツフィア。返事のない名を呟き、リトリアはまたひとつ、溜息を吐きだした。結局、正面からきちんと顔を見たことなど、図書館近くで手を伸ばした初対面の一回。あれが最初で、最後である気がした。あとは追いかけて行く背と、すこしだけ振り返る面差し。もの言いたげに細められる目と、言葉なく、力を込めて閉ざされるくちびるの、色を失ったそのさまの、印象がただただ強かった。嫌われている、のではないと思う。憎々しげに一瞥されたことはなく、伸ばす手も力を込めて払われたことは一度としてなかった。ただ、避けられている。遠ざけられている。会おうとしてくれないし、会話をしようとしてくれない。それだけだ。仲良くなりたいのに、とリトリアは膝を抱え込んで俯いた。その体に、ふと影が落ちる。足音はなかった筈なのに。
息をつめて顔をあげたリトリアを、長身の男が見下ろしていた。細身の男だった。短く切られたあかがね色の髪に、特徴的な、勿忘草の色を宿した瞳をしている。学園に在籍する魔術師の数は、そう多くない。リトリアはもう二年、その場所にいる。だからその男と親しくはなくとも、なんとなく顔と、名前だけは見知っていた。リトリアと同じ、四階の住人。言葉魔術師、その名を。
「シークさん……」
よく呼べました、とばかり機嫌良く笑い、シークはリトリアの前にしゃがみこんだ。
「こんばんは。お人形ちゃん……いや、ストルのかわいこちゃん、かな?」
「……わたしのこと?」
「ツフィアを待っているのかい?」
リトリアがなんとなく、シークを苦手だと思うのは、こうして一方的に話しかけて来て、ちっともリトリアの望む返事をくれないからだった。むっとしてくちびるに力を込めながら、リトリアはシークの問いに頷いた。なるほど、と目を細め、シークはリトリアをじっくりと眺めてくる。居心地が悪いと思うより、リトリアが感じるのは薄ぼんやりとした恐怖だった。出会った時、まだ一声も交わす前から、リトリアはシークのことが怖かった。今も、その印象は消えてくれない。苦手な相手だと思う。けれども、それ以上に、怖いのだ。理由の上手く分からない、本能的な警告と恐怖。
「ツフィアと、ボクは、一緒だよ?」
強張った顔で沈黙するリトリアを宥めもしないまま、シークは楽しげに微笑んでそう言った。
「同じ、言葉魔術師だ。……ボクとは親しくしてくれないのかい?」
「シークさんは、わたしと、なかよくしたいの……?」
仲良く。その言葉を転がすように繰り返し、シークは肩を震わせて笑った。膝辺りに置かれていた男の腕が、リトリアに向かって伸ばされる。動けないリトリアの頬に落ちていた髪を、指先が摘んで耳元へ払った。
「そうかも知れないね。……もしかしたら、キミだって、使おうと思えば使えるのかも知れない」
「つかう……?」
「試してみようか? お人形ちゃん」
獲物を捕らえ、弄って遊ぶけものと、同じ瞳をしていた。いや、とかすれる声で呟いて、リトリアは扉に背を押しつける。それ以上は下がれず、それ以上はどうしても逃げられなかった。いつの間にか、座りこむリトリアの両側に、シークが腕をついている。喉を仰け反らせて男を見上げながら、リトリアはもう一度、いや、と言った。
「わた、し……シークさんと、遊びません。やだ……やだ、やだ。なにもしない……」
「つれないネ、お人形ちゃん」
けど、逃がしてあげる気はないよ。そう、囁き。リトリアの目を覗き込んだシークは、ごく幸せそうに笑った。その喉が息を吸い込む。言葉が、告げ落とされようとする、その間際。階段をのぼりきった廊下に荒々しく叩きつけられた靴音が、シークの吐息をかき消した。
「私の部屋の前でなにをしているの」
「こんばんは、ツフィア。良い夜だね?」
「私は、私の部屋の前でなにをしているの、と聞いたのよ、シーク。……手を出さないでとも、言っておいた筈だけど」
階段を駆け上ってきた疲労と怒りに息を乱しながら、ツフィアは早足で二人の元へ歩んでくる。それを見つめながら、シークはリトリアを腕の中へ捕らえた姿勢のまま、動こうとはしなかった。腕を払うには遠く、会話をしにくくはない距離で立ち止まり、ツフィアは不愉快げに眉を歪めた。
「離れなさい、シーク」
ツフィアよりシークの方が年上であるのに、それを全く感じさせない対等な物言いだった。当たり前のことを要求している、正統性すら感じさせるまっすぐな響きに、シークは面白くなさそうな顔になる。それだけで、動こうとはしなかった。苛立ちを隠そうともしないまま、ツフィアはリトリアに手を差し伸べる。夜明けの光のように。堂々とした仕草だった。
「来なさい」
その一声だけで、リトリアの体から緊張が解かれる。
「立ち上がって、こちらへ来なさい」
うん、と返事をしたかどうかも定かではなかった。気が付けば立ち上がり、するりとシークの腕を抜けだしていたリトリアは、足をもつれさせながらツフィアに手を伸ばす。向かってきたリトリアの両腕に手を伸ばし、掴んで己の元へ引き寄せながら、ツフィアは眦を険しくしてシークと向き合った。
「分かったでしょう? ……手を出さないで」
「まだなにもしていなかったよ」
「これからも、なにもしないで」
やれやれ、と言いたげなのんびりとした仕草でようやく立ち上がったシークを睨み、ツフィアはきっぱりとした響きの声でそう言った。シークは返事をせずに歩き出し、ツフィアとリトリアの横をすり抜けようとする。通り過ぎる、その瞬間。伸ばされた手が、リトリアの髪を一筋、指に巻いて引いた。
「シーク!」
「怖い顔をしないでよ、ツフィア。……ひとつ、良いことを教えてあげようね、お人形ちゃん。怖がらせたお詫びだよ」
「シーク、いいから手を……!」
苛々しきった声で言うツフィアを完全に無視して、シークは目を見開いて震えるリトリアの耳に、笑いながら囁き落とした。
「ツフィアに会いたければ歌うと良い。無視はできない筈だ」
「シーク。いい加減にしないと私にも考えがあるのだけれど」
「もう終わったよ。おやすみ」
するり、解かれた髪がリトリアの元へ戻ってくる。シークは振り返らずに手を振って歩み、廊下の一番端にある部屋へと消えた。その扉が閉まってもしばらく、威嚇するような目で廊下を睨みつけ、ツフィアはやがて、放心するリトリアの肩を両手で掴んだ。
「なにを言われたの」
「……つふぃあ」
「あの男になにを言われたのか、聞いているのよ!」
仲良くしたいって、使うって、と意図せず口から言葉を零しながら、リトリアは悲しい気持ちでしゃくりあげた。会いたかったのに。やっと会えたのに。どうして叱られなければいけないんだろう。なにも悪いことはしなかったのに。考えるたび、涙が滲んで、あっけなく頬に零されて行く。
「つふぃあ、怒ってる……!」
「おこ……怒って、ないわ。あなたには」
「おこっちゃやだぁ……!」
そのまま泣きだしてしまったリトリアの、肩を掴む手から力が抜けて行く。ツフィアはためらう様に唇に力を込め、戸惑うように、視線を彷徨わせた。一度、強く、目が閉じられる。ツフィア、とリトリアが名を呼んだ。次の瞬間だった。肩から滑り落ちるように背に回された手が、リトリアの体を抱き寄せる。深い溜息と共に抱きしめられて、リトリアはぱちぱち、目を瞬かせた。
「……ツフィア?」
「なに。……泣きやみなさい」
ほら、と怒ったような声で言いながら、ツフィアの手が背をとんとんと撫でてくる。ぎこちなく、けれど、優しい仕草だった。ふぇ、と涙を浮かべてしゃくりあげてしまいながら、リトリアはツフィアに手を伸ばし、ぎゅっと抱きついた。ツフィアは、それを、払おうとしなかった。そのことにまた、リトリアは泣きそうになる。
「ツフィア……ツフィア、おねがい、私のこと嫌いにならないで……避けないで、お話して、仲良くして……?」
「あなたが……あまり無防備でいないのなら、考えるわ。今みたいのは、もうやめて。心臓が、つぶれるかと、思った……」
あの男に一人で近づいては駄目よ、と言い聞かせられて、リトリアはほぼ無意識で頷いた。今も別にリトリアから話しかけた訳ではないのだが、ツフィアがそう言うのなら、それは絶対に守らなければいけないことであるような気がした。分かったならいいわ、と告げ、ツフィアはリトリアの体を離す。そのまま立ち去ろうとするツフィアに、リトリアは手を伸ばして服の端を摘んだ。振り返るツフィアに、あの、と慌ててリトリアは言う。
「あの、あのね、私ね……私のなまえ、リトリアっていって、あの、あのね、だからね……!」
名前を呼んで、とリトリアは言った。息苦しい程に柔らかな、願いの声だった。それを、どうしても拒絶しきることができない。ツフィアは一度目を伏せ、溜息をついてくちびるを開く。
「リトリア」
リトリアは、ぱっと口元に指先を押し当てて息を吸い込み、その顔にじわじわと喜びを広げていく。はにかんだ笑みのまま幾度となく頷き、うん、とあまく綻ぶ声が、胸いっぱいの喜びを伝えた。
「うん、ツフィア。……ツフィアに、なまえ、呼んでもらえた……!」
「……リトリア」
あまりにも喜ぶのでもう一度呼んでやると、リトリアはきゃぁ、と歓声をあげて涙ぐみ、そのままツフィアに抱きついてきた。すき。だいすき。うれしいの。すきなの。ありがとう、とても、うれしいの。そう全身で物語るリトリアがすりよってくるのを、しばらくは好きにさせて。やがてツフィアは諦めきった溜息をつくと、手を伸ばし、やわやわと幼子の頭を撫でてやった。