前へ / 戻る / 次へ

 あたたかな体温と、髪を撫で続けてくれる手に胸の中がいっぱいになる。喉と、肺の奥が切なく震えてうまく息が吐き出せない。怖いのか、と問う声に首を振る。心配に彩られ、そっと耳元に口付けるよう囁く声に、指先まで甘く体温があがった。くちびるがひとりでに息を吸い込む。ストルさん。ささやく声に笑い交じりの、優しい響きが先を促す。なんだ、と問う声に息がつまる。ストルさん、ストルさん。首筋から背に回した腕に力を込めて、精一杯の気持ちで想いを告げる。怖くないの。悲しくないの。辛くはないの。ただ、ただわたしは。
「しあわせなの……」
 だからお願い、離さないで。ずっとずっと、傍にいて。泣き声混じりの懇願に、薄い布越し、腰を抱く腕に力が込められる。骨が軋む、痛い程の抱擁に体中が熱でいっぱいになる。この熱に溶けてしまうことができたら、どれくらい幸せなことだろう。
「ストルさん……」
「……どうした、リトリア」
「しあわせなの。……しあわせで、うれしくて、胸がいっぱいで……どうしよう、ストルさん。どうしよう……」
 瞬きで、大粒の涙が零れて行く。頬を伝い流れ落ちるそれがシーツへ吸い込まれるよりはやく、服の袖をひっぱった男の指先が、雫を丁寧に拭って行った。息をつめ、切なげにしゃくりあげるリトリアに、ストルが苦しげに眉を寄せる。悲しいのか、と問う声に、ちいさく首が振られた。全身を痛ませる程の甘い熱が、やさしい熱が、リトリアの声を奪って行く。なにも言葉にならないのに。なにも上手く伝えられないのに。リトリア。そう呼ぶ声が胸いっぱいの震えを押し上げて、くちびるを動かした。
「……き」
 体中の熱をあげ、指先をしびれさせる震えが宿る。
「すき。……ストルさん、ストルさん……ストルさんが、好き。……好き」
 はつこい。その衝動を。はじめて知る、夜だった。



 目の前の枕に両腕を伸ばす。ストルの匂いがするそれをぎゅうぎゅうに抱き締めながら、リトリアは無言で寝台の上でじたばたした。寮の四階にある、リトリアの部屋の寝台ではない。リトリアがいるのは、寮の三階。ストルの部屋である。なんで、なんでこんなことになったんだっけと寝台の上で恥ずかしさに打ち震えつつ、リトリアは枕に顔を埋めて息を吸い込んだ。昨夜の記憶はおぼろげに残っている。つまり正確な所はちっともさっぱり分からないが、それでも十分過ぎるくらい恥ずかしいので、ぜんぶ覚えていたらたぶん呼吸がおぼつかなくなるに違いなかった。泣きすぎて目の奥と、頭がすごく痛い。
『――泣かないで、くれるか』
 不意に。低く甘く掠れた囁きと、涙を拭って行く指先が肌を擦った感触を蘇らせてしまい、リトリアは全身を震わせて体温をあげた。ち、ちがうのちがうの今思い出したいのはそこじゃないのストルさん格好良かったもうだめすき、と思いながら枕をぎゅうぎゅうと抱きしめ、リトリアは涙目で寝台の上に座りこんだ。すん、と鼻をすすってから、落ち着くために息を吸い込む。部屋にはリトリアしかいなかった。ストルはなんのためか不在だが、戻ってくるにはもうすこし時間がかかるだろう、という不思議な確信を持っていたので安心して息を吸い込む。肺まで深く息を通し、吐き出すことを繰り返してから、リトリアはぱちぱちと瞬きをした。えっと、と首を傾げ、思考を巡らせて記憶を探っていく。
 真夜中のことだった。とても怖い夢を見て目を覚ましたことを、覚えている。怖くて、辛くて、寂しくて、もう一度眠ってしまうことも、ひとりで部屋で朝を待つこともできなくて。誰かのいる灯りや、熱や、声が欲しくて部屋を抜け出して談話室へ向かう途中に、声をかけられたのだ。四階から、三階へ降りて行く階段の途中。リトリア、と呼ばれた声になにも考えられずに腕を伸ばした。恐らくは寝起きの、すこし熱いくらいの体温の中に抱き締められる。こんな夜中にどうしたんだ、と宥める声にすがって、怖い夢を見たの、と訴えたことを覚えている。怖いの。辛いの。苦しいの。さびしいの。ひとりにしないで。ひとりはいや。おねがい、いいこにするから。いいこにしているから。だから、だからおねがい。そばにいて。すてないで。息をつまらせながら訴える声に、ストルはリトリアの足先を床から攫うように抱きあげ、おいで、と言って歩き出した。
 幾度か訪れた覚えのあるストルの部屋は、夜の静寂と闇の中しっとりとした眠りの気配を漂わせていた。片腕で開いた扉を閉め、ストルは無言でリトリアを寝台へ運ぶ。男の体温を宿したシーツで、熱いくらいに全身を包まれ、抱きしめられた。腕の中で守られるように、抱き寄せられて。ずっと髪を撫でてくれる手に、孤独も、怯えも、なにもかもが溶けて消えて行く。心を切り刻んで行った深い悲しみの夢は、形も分からなくなってしまった。そして、想いが溢れる。自分がなにを口走ったかを正確に思い出してしまったリトリアは、枕を抱きしめたままで寝台の上、悶絶した。ずっと、ずっと、ストルはリトリアを抱きしめて髪を撫でていてくれた。零れる涙を指先が拭い、目尻にそっと、口唇が触れたのを思い出す。
 肌に、肌が触れたのは、はじめてのことだった。そうされたのは。それを許したのは。はじめての、ことだった。ゆびと、くちびる。乾いた熱。一晩、ただ、涙を拭ってくれた。そのやさしい熱を、覚えている。
「……っ!」
 声にならない叫びをあげ、リトリアはぱたりと寝台に倒れ伏し、動けなくなった。どんな顔をしてストルに会えばいいのか分からない。だってリトリアの頬に、ストルの手は触れて行ったのだ。指の熱も、口唇の感触も、まだずっと、覚えている。リトリアは震える手を持ち上げて、己の顔に押し当てた。目を閉じて、思い切り息を吸い込み、吐き出す。
「ストルさん……」
 リトリア。これまでに聞いたことのない掠れた声で囁く声が、耳の奥で蘇る。耳を両手で押さえ、じたばたと暴れながら、リトリアはむずがるように首を振った。ストルの顔をちゃんと見て、おはようございます、とはとても言える気がしない。どうしようどうしよう、と悩むリトリアが、その朝、ストルと顔を合わせることがなかった。なぜならストルの部屋の扉をたたき壊すような勢いで開き、現れたツフィアが、有無を言わさずリトリアを立ち上がらせ。来なさい、と言ってツフィアの部屋へ引っ張っていったからである。



 怖い夢を見て起きちゃったからストルさんに一緒に眠ってもらったの、という説明を聞き終えたツフィアは、わかった、とだけ言って身を翻し、部屋から出て行ってしまった。扉の閉じる音が空虚に響く。静まり返った空気はそのままツフィアが廊下を進み、階段を下りて行った所までをリトリアの耳に伝えてくれたが、それだけだった。それ以上の言葉はなく、立ち止まることも、歩調が緩むこともない。えっ、と混乱した気持ちで辺りを見回し、リトリアはぶわっと浮かんでくる涙を手で擦りながら、なんとか椅子から立ち上がった。ツフィアは部屋に戻りなさいとは言わなかったが、このままいても戻ってくることはないだろう。ストルの部屋からリトリアを連れだした時の、ツフィアの様子を思い浮かべる。背後に猛吹雪が見えそうなくらい、冷やかに、少女は怒っていた。その怒りを欠片とも、リトリアに向けることはなかったのだが。
 なんであんなに怒っていたんだろうか。なにか悪いことでもしたかなぁ、とリトリアがすんすん泣きながらツフィアの部屋を出て、扉を閉じるのと同時、待ちかまえていた動きで腕が引っ張られる。
「リィ」
 どこか切羽詰まった、慌てた様子の呼び声に、リトリアは振り返るよりはやく息を吸い込んだ。聞き覚えはない。一度としてそんな風に呼ばれたことはない筈だ。記憶にある限り。塗りつぶされ壊された空白の記憶の中、その呼称が存在していない限り。知らない筈であるのに。目でそれを確認するよりはやく、リトリアのくちびるは、その男の名を呼んだ。
「フィー……フィオー、レ?」
 暖炉に降り積もる灰と、新緑の葉。その二色が入り混じった瞳が、やや睨むようにリトリアを見つめ、細められている。怒っているのとは違う、心配して、不安がっている表情だった。瞬きで涙の名残を頬に伝わせながら、リトリアはよく分からなくて首を傾げる。このひとに、そんな風に見つめられる心あたりが、まるでなかった。
「どう、したんですか……?」
「どうしたも、こうしたも……」
 苛立ったように首を左右にふり、フィオーレはリトリアが素足であることに気がつくと、珍しくも舌打ちを響かせた。その仕草にこそ驚いて、リトリアは目を丸くする。どうしたの、ともう一度問うよりはやく、フィオーレは無表情にリトリアの脇に手を差し入れ、ひょいとばかりその体を持ち上げてしまう。抱き上げるというより、単に足を床から離したがる仕草だった。そのままフィオーレはリトリアの部屋へ少女を運び、やや丁寧に寝台へ腰かけさせると、その前にしゃがみこんで視線を重ね合わせてくる。リィ、とくるしげに名を吐き出した口唇が、一度だけ強く結ばれる。眉を寄せて目を伏せ、フィオーレは間違えた、とばかり息を吐きだした。ゆったりと持ちあがった視線が、もう一度、リトリアの目を覗き込む。
「リトリア」
 はきと響く声で、フィオーレは言った。戸惑うリトリアの頬に手を伸ばし、慎重に、触れないように、その輪郭だけ熱を伝わせる。
「……誰にって聞くのは馬鹿みたいだな」
「フィオーレ……?」
「ストルはどこまで、どういう風にお前に触れた? ……お前はそれを許した?」
 怒ってないよ、とフィオーレは吐息に混じらせ、囁いた。
「でも、もうすこし年頃になれば香水とか、そういう理由で誤魔化せたのにとは思うけど……ストル、なんか言ってなかった?」
「なんか……?」
「……ちょっとおいで」
 仕方がないとばかり苦笑したフィオーレが、リトリアを指先で招く。首を傾げて体を寄せたリトリアに、フィオーレはやわらかく両腕を伸ばした。背を軽く指先で押すようにして胸元に体を倒れこませ、一度だけ強く抱かれる。これでいいかな、と呟きながら肩を押してリトリアの体を離し、フィオーレは混乱する幼子の目を、やんわりと覗き込んで笑った。
「だいぶ薄くなってるけど、まだ分かると思うよ。……俺の服からいい匂いしない?」
「……おはな」
 瑞々しく手折られたばかりの、数種類の花のような、きよらかで甘い香りが一瞬だけ鼻先を掠めて行く。首を傾げて、理解ができない、という風に見つめ返してくるリトリアに、フィオーレは苦笑いをして頷いた。
「一番簡単にいうと、お前はそういう体質なんだよ。恋しい相手に触れられると発動する、天然の芳香剤みたいな感じ。……言いつけは、記憶を消しても体が覚えてたみたいで、お前は今まで誰にも肌に触れさせなかった筈だけど。ストルと……ツフィアが、気がついてなければいいんだけどな。ずっと香ってる訳でもないし、触れられてからしばらくってだけだし……」
「……フィオーレは?」
「俺?」
 自身ですら具体的になにを問いかけたのか定かではない言葉に、フィオーレはやんわりと笑った。
「俺の唯一はここにはいない。触れることもない。だから、大丈夫。……で、最初の質問に戻るけど」
 ストルはお前にどこまでどんな風に触れたの、と問われて、リトリアは顔に、と言った。どうしてか、それにきちんと答えなければいけない気がした。そう問われた時の義務であると、意識の欠片に染み込んでいた。
「て……指、と、くちびる、で……泣いてるの、を、慰めてくれました」
「……顔だけ?」
 ちょっと意外そうにフィオーレが首を傾げる。リトリアは息をつめて、こくん、と頷いた。そこ以外はどこにも触れられていないと思う。記憶にある限りは。リトリアの意識しない所でその身に触れるようなことを、ストルがするとも思えなかった。なぜかなまぬるい笑みを浮かべながら、フィオーレはそっかぁ、と力なく頷く。
「じゃあ大丈夫かなぁ……うん、大丈夫だと思っておこう。よかった、ストルが紳士で。いや紳士は幼女に手を出さないとは思うけどそこは考えないことにしよっとほらストルの恋愛対象がまだ幼女趣味だって確定した訳じゃないし? 聞くの怖いから聞いたことないけど。そもそも本当に恋愛対象として構ってるのか、ただ単に庇護してるのかも定かじゃないし。怖いから聞いたことないけど」
「……フィオーレさん?」
「お前は気にしなくて良いよ、まだ。……さ、着替えて顔を洗っておいで。俺は部屋の外で待ってるからね。朝食を食べたら教室の前までは案内してやるから、あとはひとりで頑張れるな?」
 ぽんぽん、とリトリアの頭を撫でて立ち上がるフィオーレに、リトリアはなにかを忘れている気がして、戸惑いながらも頷いた。きょうしつ、とおぼつかない発音で繰り返されるのに、気が付いたのだろう。喉の奥で楽しげに笑いながら、扉に手をかけつつ、フィオーレが振り返る。
「今日は、はじめてちゃんと授業が受けられる日だよ、リトリア。……魔術師の授業の、さいしょの日」
「……あ!」
 そうだった、とばかり顔を明るくして笑うリトリアに、フィオーレも幸せそうに微笑み返した。扉の向こうからは朝の光が差し込んでいる。ひかりを背負い、微笑むその眼差しを、遠い昔に見たことがある気がした。失われたそれを探るよりはやく、憧憬を断ち切るように、フィオーレは扉の向こうへ姿を消した。部屋にひとり取り残される。不思議と、さびしい気持ちにはならなかった。



 カルガモみたい、というのがツフィアを追いかけるリトリアを見た魔術師たちの、一般的な感想だった。つかつかと早足で歩くツフィアの背を、本人的には早足で一生懸命追いかけているのだろうリトリアが、ちょこちょこと付いて行く。走っても歩いてもなぜかあまり早くないリトリアは、残念なことに、あまり体力もない。息切れして、徐々に距離がひらいてくると、つふぃあ、と半泣きでリトリアはその背に呼びかける。ツフィアの反応は、だいたい二例。一瞬だけ足を止めてまた歩き出すか、あるいは立ち止まり、振り返ってその秀麗な眉を寄せ、くちびるに力を込めて感情を堪えるか。名が呼び返されることは滅多になく、リトリアが追いつけたこともなかった。
 なんらかの魔術を使用しているのか、あるいは姿をくらます、ということが天才的に上手いのか、遠くから見守る魔術師たちの視線の先からも、ツフィアはきれいに姿を消してしまうのだ。ふっと、ほんの一瞬、意識を外しただけでもうそこに姿はなく。あとには辺りをきょろきょろと見回すリトリアが残されるばかりだった。リトリアはしばらく、辺りをちょろちょろと動きまわり、つふぃあツフィアと半泣きで呼んでは少女を探しているのだが。とうとう、見失ってしまったことを理解すると、まるでこの世の終わりのように悲しげに泣きだすのが常だった。リトリアのカルガモごっこがはじまったのは、幼子が通常授業に出席できるようになった日からだから、かれこれ半年は前のことになる。
 それは周囲も慣れてくる筈だろうと思いながら、フィオーレは椅子に背を預けて座り直した。湯気の立つココアのはいったマグカップをてのひらで包みこみ、口元に引き寄せてふぅ、と息を吹きかける。視線の先、談話室の入り口付近にいるのは、図書館の前で泣きじゃくっているのを保護されたリトリアと、保護してきた女の姿である。夜色の肌に、銀の髪をした、ふっくらとした面差しの女だ。フィオーレが一方的に若干苦手に思っている相手なので積極的に話しかけたことはなかったが、その上質なトパーズに似た瞳は好きだったので、名前はしっかり覚えていた。女の名は、パルウェ、という。
 あれだっけリトリアの面倒みてくれるような性格してたっけ、と思い悩みながらも見守る視線の先、パルウェはいやいやとむずがって泣きじゃくる幼子を、意外と手慣れた仕草でソファまで誘導し、座らせていた。フィオーレはそーっと息を吐き出し、風の流れを微調整して二人の会話が聞こえるようにした。リトリアの交友関係を恣意的に狭くたくはないので割って入るつもりはないが、成長過程で相応しくない会話をされていたらと思うと気になって仕方がない。雪がちらついてきた窓の外に視線を流しながら、ほらリトリアには淑女に育ってもらいたいなと思ってるからろくでもないこと吹きこまれてるとことだし、と寮の女性陣を全く信頼していない呟きを零し、フィオーレはココアをひとくち、喉に通した。
「リトリアちゃんは、本当にツフィアちゃんが好きだねー?」
 思わずココアを吹きそうになり、フィオーレはだんっと音を立ててマグを机の上に戻した。大きな物音に一瞬、談話室の視線が集中するが、ああフィオーレのいつもの奇行か、くらいの興味ですぐさま反れて行く。パルウェとリトリアに至っては、距離があるので視線を向けもしなかった。ひっくひっく、リトリアがしゃくりあげるのを耳にしながら、フィオーレはパルウェのつわものっぷりに戦慄を覚える。ツフィアは確かに、パルウェから見て年下の少女である。フィオーレから見ても年下の女の子なのだが、それでも、不思議と『ちゃん』をつけて呼ぶ気にはなれなかった。考える。怖い。よし止めよう、くらいの思考の早さでツフィアに『ちゃん』は付けられない。怖い。よく分からない種類の恐怖だが、本能の発しているなんらかの警告ということでフィオーレはそれを深く考えないことにしていた。女子を怒らすと怖い、そして長いからである。
 はー、と謎の溜息をつくフィオーレの耳に、すんすん鼻を鳴らしながら、リトリアが問いに応える声が聞こえた。
「うん。ツフィアのことね、すき。だいすき……」
「ツフィアちゃんとストルだと、どっちが好きかなー?」
 なんも飲んでなくてよかった、と心底フィオーレは思った。言い知れない戦慄に突き動かされるまま視線を向けると、ちょうどリトリアから視線を外したパルウェと、真正面から目が合う。にっこり笑って、手を振られた。盗み聞きはバレているらしい。女子怖い。心底思うフィオーレに、まだ半泣きの声で囁くリトリアの、不思議そうな響きが運ばれてくる。
「どっちも、大好きです。どうして?」
「ううん。そっかー、二股かー。リトリアちゃん、なかなか頑張るねえ」
 リトリアにそういうつもりはないと思うからそれ以上年齢に相応しくない会話すんのやめてくれないかなぁ、と遠い目をしかけ、フィオーレは無言で頭を抱え込んだ。フィオーレもそうだが、リトリアも、育ちを考えれば別にそういう精神構造をしている可能性が、ない訳ではない、という可能性に行きあたったためだ。決めてしまえばどこまでも唯一だが、『かけがえのない』それが、たった一人であるという保証はどこにもない。一人でなくとも。こころがそう、と決めてしまえば後戻りなどできない。傍に居られなくとも、例え結ばれることがなくても、永遠になる。フィオーレの愛し方はそういうもので、記憶を失う前のリトリアも、そうであった筈だ。今のリトリアがどうなっているのか、フィオーレには分からない。けれど。
 違えばいい、と思う。ツフィアと、ストルを想う心が、そういう風に定めてしまっていなければいいと思う。それは半ば本能で、血が巡らせる呪いのようなものだから、フィオーレにはどうすることもできないのだけれど。ただの、恋や、憧れであって欲しいと思う。もし、すでに手遅れだったとしても。やはり、見守ることしか、できないのだけれど。
 それにしたってもうちょっと落ち着いた気持ちで見守っていたいのでパルウェはなんというかそのうきうきした声で二股というのはどういうことなのかをリトリアに事細かに説明するのはやめてくださいお願いします、と白魔法使いはしくしく痛む胃のあたりを手で押さえながら真剣に思った。え、えっ、と挙動不審に辺りを見回したのち、リトリアは勢いよく首を横に降った。
「わ、わたしちがっ……ちがい、ます……! ストルさんとツフィアはそんなんじゃなくて、えっと……!」
「うふっ。そんなんじゃなくてー?」
「……えっと」
 じわわわわっ、とリトリアの瞳に涙が浮かんで行く。混乱して、もうよく分からないのだろう。あっなんか嫌な予感がするから逃げよう、と思ってフィオーレが椅子から立ち上がるのと、しっかりと風が答えを耳に運んできてくれたのは、ほぼ同時のことだった。
「お父様と……」
 こて、と幼く、リトリアは首を傾げる。
「お……お母様、みたい、な?」
 あのねリィのお父上とお母上は一般的なアレコレソレとはだいぶ違ったけどでもなんていうかそれはない、絶対ない、と瞬時に限界を突破した痛みを発する胃を押さえて床に崩れ落ちるフィオーレの耳に、パルウェの嬉しくて楽しくて仕方がなさそうな、うふふ、という笑い声が聞こえた。や、とリトリアが声をあげたのから察するに、人差し指で頬でも突いたのだろう。変わらず、リトリアは他者からの接触を極端に避けている。
「ぜったいにちがうと思うなー?」
「えっ……え、えっ? そう?」
「そう、そう」
 重ねて言われて、よく分からなくなってしまったのだろう。不安げに眉を寄せるリトリアの頭を、パルウェがぽんぽんと撫でた所で、談話室の扉が開く。瞬時に立ち上がり、フィオーレは窓を開けて逃亡を図った。ストルが来たからである。誰かが、泣いているリトリアが保護されたと知らせに走ったに違いない。そのたびに迎えに来るストルは正しく保護者めいていたが、ない、それはない、と首を振り、フィオーレは窓から談話室を脱出し、寮の裏口へ走っていく。今日明日くらいは部屋に鍵をかけて引きこもっていた方が良いだろう。安全のために。リトリアとフィオーレの間に明確な血縁関係があると感づいて以来、それを口に出して確認してくることはないものの、幼子のやや一般からかけ離れた感覚がなにか露見するたび、ストルはフィオーレを締めあげてどういうことだと問いただしに来ることが多いからだ。
 できれば教えてやりたいのだが、フィオーレにもそれができない事情というものがある。寮の裏口からそっと体を滑り込ませ、ほっと息を吐いた瞬間、フィオーレは視線を感じて顔をあげた。殆ど使われていない筈の廊下。上へあがっていく階段の背もたれに体を預け、行方をくらませていた筈のツフィアが、なぜかフィオーレに微笑みかけている。終わった。歩んでくるツフィアの足音を聞きながら、フィオーレは遠くを見つめる眼差しで、女子怖い、と呟いた。

前へ / 戻る / 次へ