体を滑り落とすように降ろされた寝台は、どこもかしこも、ストルの匂いがした。脚が触れるシーツが冷たい筈なのに、熱い。はく、とリトリアはくちびるを動かし、じわじわと頬を赤くした。腕の中いっぱいに抱き締められているのと、なにも変わらない気がして、動くことが出来なくなる。扉の鍵がかけられた音がして、リトリアはぱっと顔をあげた。扉から、寝台までの短い距離を、硬質な靴音を響かせて戻ってくる男の名を、呼ぶ。
「ストルさん……」
「……リトリア」
あまく、どこか苦く微笑み、ストルは一度だけリトリアの名を呼び返した。ぞわりと得体の知れない感覚が身をかけのぼっていくような囁き声に、リトリアは思わず口に手をあて、息を吸い込んだ。パルウェと共にいた談話室からリトリアを攫うように抱きあげ、寝台へ降ろしてから戻ってくるまでの間、ストルは一度も、リトリアの名を呼んではくれなかった。名前を呼んでも向けられる視線だけで応え、その声が名を紡ぐことは一度としてなかった。だからだ、とリトリアは思う。呼んでくれたことが嬉しくて、それで、びっくりしてしまったのだ。
口元を手で押さえてそわそわと視線を彷徨わせるリトリアに、ストルは柔らかに微笑んだまま、その手を伸ばした。きょとん、と見つめ返してくる視線を絡め取るように重ねながら、耳元に口唇を寄せ、肩に指先を触れさせる。リトリア、と名を囁けば震えるように力の抜けた体を、ストルはそのまま寝台へ、指先の動きだけで柔らかく押し倒した。戸惑いに震えながら、視線を反らすことを許されないリトリアの、藤花色の瞳がストルを見上げる。一心に。ストルのことだけを考え、ストルのことだけを見つめる、その瞳に引き寄せられる。頬を包み込み撫でる男の指先に、リトリアがむずがるようにきゅぅ、と目を閉じた。
「っ……ゆび……」
「……嫌か?」
ほんのりと温かさを伝える幼子の肌は、滑らかで瑞々しく、触れるだけでもひどく心地良い。けれどもリトリアが過度に接触を避けているのはストルも知っていたから、残念に思いながらも手を引こうとした。すん、と泣いているような響きでリトリアが鼻を鳴らし、うっすらと目を開いてストルを見る。
「嫌じゃない……けど、でも、あんまり触るの、は……だめ。だめなの」
暖められ、光を宿した。蜂蜜のように甘くゆがむ、リトリアの瞳。
「ストルさんが、すごく好きなの……ばれちゃうから、だから」
あんまり、たくさん、触らないで……。うっとりと瞼を伏せながら吐息に乗せて囁かれた言葉に、ストルは凶暴なまでの苛立ちに僅かばかり息をつめた。だめ、と困ったように囁きながら、リトリアの手がストルのそれを押しのけようとする。許さず、指を絡めるように繋ぎ合せて寝台へ押しつければ、リトリアの目が泣きそうに歪んだ。じわじわと涙を浮かばせる瞳は、雨に濡れ香る咲き初めの花のようだった。
「お、おこってる……?」
か細い声が弱々しく響き、ストルの手の中で華奢な指が、怯えるように震えた。
「ストルさん、怒ってる……。なんで……? わ、わたし、わるいこと、した? だから? ……怒っちゃ、やだぁ……」
「……俺が怒っているように?」
そう、思うのかと問うストルの言葉に、リトリアは無心に頷いた。
「だめって、いうのに、やめてくれない……」
心底困った様子で涙を浮かべ、リトリアはふるふると震えながらその雫を頬に伝わせた。涙がシーツに零れる前に指先で拭い、ストルはやんわり、言い聞かせるように囁き落とす。
「駄目だが、嫌ではないのだろう? ……触れさせてくれないか」
「……ストルさんが」
そう、したいなら。きゅぅと眉を寄せてふるえながら、リトリアは吸い込んだ吐息を、弱々しく吐き出した。触れてくれる手が心地いいと、告げるよう、甘えた仕草で手に頬が擦りつけられる。すり、と懐いて、やんわりと伏せられた目がまどろんでいた。幸せな夢だと囁くようだった。ストルさん、とリトリアは呼ぶ。ストルさん、ストルさん。だいすき。
「……おこるのおわった?」
こて、と手に懐きながら首を傾げて問われるのに、ストルは未だ、と言うべきか言うまいか思い悩み、深々と息を吐きだした。この存在の前で怒りを持ち続けること自体が馬鹿らしくなってくるが、それでも、じりじりと焦がすような想いがまだ残っている。リトリア、と溜息混じりに呼びかけながら、ストルはきゅぅ、と寝台に押し付けたままの手に力を込めて問いかけた。
「お父様、と。……言ったそうだが」
「えっ」
あっそういえばパルウェさんがなんかお話してたえっえっ、と混乱した顔つきで、リトリアの顔が恥じらいに赤く染まる。そろそろとストルを伺うように見上げた瞳に絆されそうになりながら、男はリトリアを怖がらせないよう、やわらかく笑みを深めてみせた。
「どういう意味だ?」
「えっ……えっと、えっと、あの、あの……!」
「俺は、父親になったつもりは、一度もないんだが」
こうして、触れる意味も。囁きながらストルは、リトリアを捕らえていない方の手を動かし、指先で幼子のまろやかな頬を撫で擦った。半ば怯えるように震えるリトリアから、甘い匂いが立ち上る。摘みたての花のように。清らかで、あまい、香り。
「父性だと間違えられるのは、困るな……?」
すき、だと。心を全部差し出されるような瞳で見つめられて、言葉にも出して、告げられて。その好意を取り間違えられる程、ストルは鈍い訳ではない。リトリア、と半ば笑いながら説明を求めれば、困り切った瞳がしょんぼりと見つめ返してくる。だって、とどこか拗ねた響きで、リトリアはたどたどしく告げた。
「お父様、と……お母様、なら、なにがあっても……」
「……うん?」
「血が、繋がってるって、特別なことでしょう……? だから、そういう風に、なりたかったの……」
私の、特別に、なって。なにがあっても決して消えない事実のように。ただ、それだけの為に。そう告げたのだと言うリトリアに、ストルはやや脱力した。なんとなく言いたいことは分かってやれたのだが。もう怒ってるの終わった、と再度確認してくるリトリアに、未だ、と告げるよう繋いだ手を強く寝台に押さえ付けて。ストルは溜息をつきながら身を屈め、リトリアの瞼に口付けた。花の香りがした。雨に濡れた咲き初めの花のように、瑞々しくきよらかな、胸の奥に染みいるような。うすむらさきの。花の香りだった。
日曜日の午前。春先の冷えた空気をきよらかに漂わせる談話室は、穏やかな静寂で包まれている。授業のない一日を堪能しようと、ある者は朝食後に部屋に戻り二度寝を決め込み、ある者は図書館へ出かけて文字の世界へ没頭し、またある者はなないろ小路へ買い物に出かける為、談話室を訪れる者の数は夕刻まで、意外な程にすくないのが常であった。薄く開かれた窓から、花開きだした植物の香が瑞々しく差し込んでいる。真白の雲が浮かぶ空は透明に青く、外を歩くには良い天気だった。談話室を訪れ、なにもする気が起きない様子で椅子に座っていた者も、春風に誘われ、寮周りの森を散策しに部屋を出て行く。
もうすこし、空気が光に暖められたら気分転換に外を歩くのも良いかも知れない。そう思いながら、ストルは特別重たくも思っていない様子で、膝の上に座らせたリトリアの手元に視線を落とした。まるっこい文字がちまちまと、ノートに文字を綴っていく。一生懸命に書いて行く様をひどく柔らかな眼差しで眺めながら、ストルはすい、とノートに指先を伸ばした。トン、と指先を紙に下ろし、ペンの動きを遮る。
「綴りが違う」
「えっ……え、えっと、えっと」
息を飲み、顔を赤くしてリトリアは恥ずかしくてたまらない様子でストルのことを振り返った。綴りが違う時、単語が間違っている時にすぐ指摘してもらえるように膝の間に座っていても、いざ告げられると、どうしてもいたたまれなくなるらしい。ふにゃり、泣きそうな弱々しさに瞳を歪めながら、リトリアはノートをストルに差し出した。
「……よろしくお願いします」
「ああ、もちろん」
リトリアの髪を指に絡めるようにして一度梳いてから、ゆっくりと正しい綴りを書いてくれるストルの手元に注がれる視線は、真剣そのものだった。ストルの文字と、己の書いた文字を何度も、何度もみつめたリトリアの、眉が困ったようにきゅぅと歪められる。えっと、と呟いた声は必至で、それでいて混乱しきったものだった。声をかけず、ストルはリトリアが落ち着き、納得して受け止められるようになるまでを待ってやる。膝上に乗る幼子の髪をゆるゆると撫でながら、ストルは相手に悟られないよう慎重に、この場にいないフィオーレへの苛立ちに目を細め息を吐きだした。リトリアは、まだ二つの文字を見比べて考え込んでいる。桜花の色をしたくちびるが、声なく、その言葉をなぞった。
その問題が浮上したのは、リトリアが魔術師としての正規の授業をはじめて幾許もない頃だった。それまでの一般教養を学ぶにあたって、なぜその問題が出てこなかったのかと言えば、単に文字を書くという機会が極端に少なかったからである。リトリアは、正確な単語を書くことができない。読むことは出来るし話すことも問題はないのだが、妙に綴りを間違えたり、まったく意味の違う単語を当てはめてしまったりする。そしてそれを、自分で正確に認識できていない。本で読む文字と、自分が書く文字の綴りが違っていることを、すぐには理解できないその理由は、ストルに無言で預金通帳を差し出して来たフィオーレの行動によって白日に晒された。記憶を白く塗りつぶした影響の一種であるらしい。
リトリアが己の過去を白魔法の中に失ってから、三年半以上。四年近くが経過しても、塗りつぶした魔力や記憶は未だ落ち着いた状態に安定しておらず、それ故にそういう影響が出ているのだろう、とストルに締めあげられたフィオーレは言った。ただ、もう数年で落ち着くとは思う、とも。そして落ち着くまでの間に改善できないこともない、というのが原因たる白魔法使いの言葉だった。間違ってるの見つけるたびに指摘して、間違ってるものだって認識させてから、正しいものでちゃんと上書きしてあげればそれ以上間違えることはないよ。ただ問題は、全部混乱してるわけじゃないってことと、どれくらい混乱してるのか分からないってことと、本人にもそれが分からないってことなんだけど。
「……あ」
ストルの胸にゆるく体を預けながら、リトリアがふと声を零す。ようやく、間違っていること、を認識できたらしい。はにかんだ笑みがじわじわと広がり、喜びに溢れたまなざしが、そっと持ちあがってストルを見る。
「……わかったか?」
やわらかに問うストルに、リトリアは嬉しくてたまらない様子でこくん、と頷き、両腕を伸ばしてぎゅぅと抱きついてきた。
「ストルさん、ありがとうございます」
それに、ストルがいいや、と微笑んで抱きしめ返すより、早く。ちょっと、と険しい声にストルの肩に顔を伏せてすりすり懐いていたリトリアが顔をあげ、ぱああぁっ、と顔を輝かせた。
「つふぃあ……! ツフィア、ツフィアっ! ツフィアこんにちは! どうしたの?」
きゃあきゃあはしゃぎながらストルの肩ごしに手を伸ばしてくるリトリアに、ツフィアは険しい顔でつかつかと歩み寄った。リトリアの手を取ることなく、答えることもなく、ツフィアはソファに座るストルの前まで来て。無言で、べりっ、とばかりリトリアを男から引き剥がした。なすがまま、突然抱きあげられてきょとんとする子猫のような顔つきで目を瞬かせるリトリアを、ソファの空きスペースに座り直させて。ツフィアはストルを、ややきつい目つきで睨みつけた。
「むやみに膝の上に乗せて抱かないで。あなたがそうやって甘やかして、この子が誰彼構わず甘えるようになったらどうするつもりなの」
「ツフィア。ねえねえ、つふぃあ。つふぃあは、座らないの? すわって、おはなし、しないの?」
「しないわ。いいからすこし黙っていなさい」
両手で服の端を掴み、やわやわ引っ張りながら問うたリトリアに、ツフィアは視線も向けずに言い放った。しょんぼりしつつ、それでも返事をくれたことが嬉しいのだろう。はにかんだ笑みで指先をはなし、リトリアはふふ、と幸せそうに笑った。言われた通り、静かにしているつもりなのだろう。膝を揃えてソファに座り直すリトリアをやわらかな眼差しで見守り、ストルは淀まぬ声でさらりと言った。
「誰彼構わず甘えたりなんてさせないさ。もちろん」
「そう。……誰彼はあまえさせないようにするのね」
そもそも、ひとみしりのリトリアが無差別に誰彼甘えに行く、ということはありえない。それを十二分に知っているであろうストルの、告げる言葉の裏を読めぬ程、ツフィアは幼くも無知でもなかった。けれどもまだ、リトリアには分からないのだろう。大人しく口を噤みながらもきょとん、として首を傾げているのを一瞥し、ツフィアは罪悪感はないのかと問い正すような視線をストルに向けた。
「結構なことだわ」
「君もすればいいだろう」
「それをさせるつもりがあるの?」
ひどく静かに凪ぐ湖面のような印象の、しっとりとした笑みを浮かべ、ストルは言葉を告げなかった。しかし、それが、全てだ。呆れた、と言わんばかり眉をしかめるツフィアの服が、また、くいくいと弱々しく引っ張られる。黙っていなさい、と言ったのはツフィアである。なにかを堪えるような表情でただ振り返ったツフィアに、リトリアはその瞳にじわじわと涙を滲ませた。
「あまえるのだめなの……?」
涙が、いまにも零れてしまいそうだった。
「ストルさんと……ツフィアには、甘えていいの? ……ストルさんもだめなの? つふぃあにはいけないの……?」
好きなの、と。ひたすら、その声が告げていた。離れたくない、傍にいたいと訴える意志は、ひとりにされることを恐怖と感じているようでもあった。ツフィアはリトリアを見つめ返しながらなにかを言いかけ、意識して唇に力を込め、言葉を消した。
「……リトリア」
名が、呼ばれる。しゅんと俯いてしまっていた顔を即座にあげたリトリアに、ツフィアは淡々と言い聞かせた。
「教えてもらうなら、並びなさい」
言いながら、ツフィアの手が落ちていたノートを拾い上げ、リトリアの胸元に押し付ける。反射的にそれを受け取ったことで離れた手が、届かないように一歩距離をあけながら、ツフィアは静かな声で言い切った。響く声は闇のように暗く、火のように赤く。リトリアの意識に、まっすぐ染み渡る。
「膝の上に乗ってするものじゃないわ。……別に私の話を無視したければすればいいけれど……なら、私はあなたの話は聞かないわ」
もちろん、読むことも。あなたの話はなにも聞かない。なにもかも。あなたの、はなしだけを。
「っ……ツフィア!」
リトリアの呼び声に、ツフィアが応えることはなかった。言いたいことは告げ終わったと言わんばかり、鮮やかに身を翻して歩き去っていく。姿は談話室のどこへ留まることもなく、一直線に扉の外へと消えて行った。その背を走って追いかけたがる眼差しで見送り、リトリアはノートをぎゅぅ、と抱きしめた。
「……すとるさん」
「なんだ?」
「文字を教えてもらう時に、お膝にのりません……隣に座るから、おしえてくれる……?」
今日やろうと思っていた所まで、まだ終わっていないの、と半泣きの声で告げるリトリアに手を伸ばして。その髪を一筋だけ指先で撫で、ストルはもちろん、と目を細めて笑った。ぽん、と手で、膝ではなくソファを叩く。
「おいで、リトリア」
「……うん」
しょんぼり、よじよじ、ソファの上をちまちまと座ったままで移動して、リトリアはじぃっとストルのことを見つめた。怒っていないか、嫌われていないか、確認したがる視線だった。ストルさん、と弱く呼んだ声が怯えている。リトリア、と名を呼ぶとようやく、幼子は安心したように肩の力を抜いて。やんわりと響く声で、ストルさん、ともう一度囁いた。その声は、花の蜜のように甘く。風に揺れる葉のように、かすかに掠れ、震えていた。
毒だと思うよ、とフィオーレは言った。夜の、なにもかもが眠りにつく静けさの暗がりを、一条切り裂く月明かりのように。ひどく透明で、研ぎ澄まされた刃のように。責めるでもなく、悔いるでもなく、あるいはそのどちらでもあるかのように。ソファの上で眠ってしまったリトリアを眺め、視線を伏せて囁いた。その声こそ、毒のように。じわじわとストルに染み込んで行く。
「悪いって言ってるんじゃないけど」
「悪い、と言われているようにしか聞こえないが」
「……良い、とは、言ってないけど」
苦笑しながら言い直すフィオーレの眼差しが、ストルの服の裾を掴むリトリアの、力のこめられた指先を哀れむように見つめた。眠っていてもこれでは、起きた時には腕を痛めてしまっているだろうと思わせる程、力が込められている。緊張に強張ったそれを和らげてやる術を、フィオーレはもたない。溜息が、ひとつ。
「でもやっぱり、俺から見て……こんなにお前に執着しているのは、リトリアには毒だと思う」
もうちょっとまわりと関わらせてあげるとどうかな、とちいさく首を傾げて提案してくるフィオーレを、ストルは呆れの眼差しで眺めやった。その言葉を、三年半くらい前に聞いていたのであれば、もうすこし考えることもあったのだが。今更、と浮かび上がる意志を正確に読みとったのだろう。笑顔のまま肩をすくめて、湯気の立つ陶杯をフィオーレは机に置いた。明かりの落とされた談話室には、もう眠るリトリアと、言葉を交わす二人しかいなかった。かすかな音が、やけに耳に着く。
「昔はそれでいいと思ってたんだもん、俺も。……誰かにすごく大事にされて、そのひとを、大切に想うことが、この子には初めて経験することだったからさ。あんまり邪魔したくなかったし、ストルなら、まあいいかなって思ってたし……」
俺じゃなかったらどうするつもりだったんだ、という言葉をストルは飲み込んだ。目の前でうっそりと笑う白魔法使いは、己の唯一を守る為、幼子の記憶を混乱させ消しさる所業をためらわず実行した張本人だ。手段は選ばれない。恐らくは、これからも。あくまで柔らかく、フィオーレは微笑む。
「それに、泣くようになるのは良いことだと思ってた」
「……泣かなかったのか?」
「涙が出てるのは見たことあるけど、泣く、となるとどうかな……すくなくとも俺の記憶にはないよ」
だから泣くようになって、甘えるようになって。いいことかな、と思ってたから放置してたんだけど、と無責任な発言を響かせ、フィオーレは立ち上がる。もうそろそろ眠りに行くつもりらしい。
「でもまあ、俺はストルの好きにすればいいと思うよ。リトリアは基本的にツフィアの言うことを聞くけど、ストルが言えばそれに従うと思うし……リトリアから、どうしたい? っていう答えを引き出すのは、たぶんほんとものすっごく難しくかつ根気のいる作業だから気力体力忍耐時間が必要だから、三日四日は覚悟しとかないといけないと思う。ちなみに一個の質問につき、平均時間がそれくらいね」
「……どういうことだ?」
「嫌われたくないから、相手が望むことをしたい。相手が望む答えが分からなければ、どうするのがいい? って聞く。リトリアはそういう風だよ、わりと常にね。残念なことに、そこは前と変わってないかな」
言っとくけど生まれつきの性格か、そういう風になっちゃったのかまでは俺は知らない、と言い切って、フィオーレは陶杯を指で包みこむように持ち上げた。一息にあおって飲み込んだ中身は、生温くなっていた。
「リトリアは、お前が……あるいは、ツフィアが、そう望むようになりたいんだよ。己の意思とか望みが二の次っていうより、心から、そういう風に望んでる。だから、この先、どういう風になるかは」
お前次第だよ、と告げ、フィオーレは口元に手を押し当ててぶふっ、と唐突に笑った。うろんな目を向けるストルに、フィオーレは談話室の出口へ向かいながら、ひらひらと手を振って告げる。
「子育て頑張ってね、お父さん。お母さんと教育方針が対立してんのかと思うと俺もうだめ笑いが止まらない予感しかしない……!」
「笑いすぎて呼吸困難にでもなれ」
「り、りとりあが将来おとうさんと結婚するのとか言い出したら……!」
想像したら駄目だったらしい。口元を手で押さえてその場に崩れ落ちたフィオーレを、コイツ本当に笑いすぎて腹筋でもつってしまえばいいのに、と思う眼差しでひややかに睨み、ストルはくうくうと眠るリトリアに手を伸ばし、乱れた髪をそっと整えてやった。
あたたかな寝台にそっと下ろされる衝撃で、リトリアは眠っていた瞼を持ち上げた。すぐに離れていく手を捕まえて、半分ねぼけながら名前を呼ぶ。
「つふぃあだ……」
心の底から幸せでたまらないと告げる、満ち足りた声だった。あんなに眠りこんでいたのになんだって今起きるのかと無言になるツフィアに、部屋の戸口からストルが訝しげに顔を覗かせる。いいからこっちへ来るな早く部屋に帰りなさい、そして早急に寝なさいとばかり手を払って追い返しながら、ツフィアはきゅぅ、と赤子のように指を握って半分眠りの世界へ落ちているリトリアに、心の底から溜息をつく。指を引き抜くよりはやく、あのね、としあわせな響きで告げられる。
「おしえて、もらうの……ちゃんと、となりに、すわってしたよ」
えらい、とばかり首を傾げられて、ツフィアはなんとなく、リトリアの手の中から指を引き抜くのをやめにしてやった。片手で毛布を引きあげて肩までくるみ、ぽん、と体を叩いてやる。
「眠りなさい。……あまり遅くまで起きているのではないわ」
「……つふぃあは、ねるの?」
「ええ」
うん、とリトリアがちいさく頷く。それなら寝る、と言いたげな仕草のあと、すぐに瞼が下ろされた。寝息が響く。与えていた指先を見つめながら立ち上がり、ツフィアは振り返らず、リトリアの部屋を出て行った。扉の閉じる、音がした。