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 季節は巡っていく。誕生日を思い出せないリトリアの為に、学園に入学した夏至の日を境に祝いが贈られるようになり、もう数年が経過していた。初夏の風が肌を撫でていく爽やかな日。なないろ小路から戻ってきたリトリアは真新しい衣服を身にまとい、幸福そうな微笑みで、ツフィアの前でくるりと回ってみせた。繊細なレースが飾りに付けられたスカートの裾が、膝のすこし上でわずかばかり危なっかしくふわりと広がる。
「ツフィア、どう? どう……?」
 フリルやレースがたっぷり付けられた、愛らしいワンピースである。ほの甘い白い生地でつくられたそれは手触りもよさそうだった。まるっこい革靴も新品だろう。とてもよく似合っている。文句なく可愛い。スカートがやや短いことと、膝を隠しながらもふとももがちらりと覗く長さの靴下だけ気になるが。上から下までをじっくりと長め、ツフィアはふっと口元に笑みを浮かべ、もじもじと指先を擦り合わせて待つリトリアの目を覗き込んでやった。藤色の瞳が不安げに、ふるふると震えるさまがいとけなく、あいらしい。
「リトリア」
 思わず。だから本当に思わず手を伸ばして、頬に触れて撫でたのは、常にあるツフィアの決意が揺らいだ結果ではないのだ。断じて。決して。嬉しげに目をとろりと和ませ、ひかり滲むようにくすぐったく笑うリトリアに、ツフィアは心からの感想として告げる。
「よく似合っているわ。可愛いわよ」
「きゃ……!」
 褒められたことがあまりに嬉しく、安心もしたのだろう。悲鳴染みた声をあげて頬を赤らめたリトリアは、そのままツフィアに両腕を伸ばし、腹に顔を埋める形でぎゅぅと甘えて抱きついてくる。先日十三になったというのに、リトリアの感情表現はどこか幼いままである。書きもの机に向かっていた椅子ごと振り返ってリトリアを出迎えていたから、少女は床に両膝をつく形になっていた。せっかく綺麗な服を着ているのにこの子は、と溜息をつき、ツフィアはぽんぽんとリトリアの頭を軽く撫で叩き、ほら立ちなさい、と言い聞かせた。ぎゅうぅ、と腕に力を込めて甘えたあと、リトリアは比較的素直にはぁいと返事をし、立ち上がって膝のあたりを軽く手で払う。
 動きに従ってふわふわのスカートが愛らしく揺れ、ツフィアは無言で眉を寄せた。やっぱりちょっと短いのではないだろうかこのスカート丈。すこし動くとずり落ちてしまうらしい靴下を引きあげているリトリアに、ツフィアはうっすらとした嫌な予感を感じて口を開いた。リトリアの好みであるならまあ、下着が見えないように注意して膝をちゃんと揃えて椅子に座りなさい、膝の上にちゃんと手を置いておくのよ、と言い聞かせるくらいで好きにさせてやってもかまわないのだが。かわいいし、似合っているし、かわいいし、かわいいし、かわいいので。けれども。
「ねえ、リトリア?」
 談話室では新入生の歓迎会とリトリアの誕生祝いを兼ねて、ちょっとしたパーティーが開かれているのだという。ついでに昼食会にもしてしまえとのことで、正午前から階下はひどく賑やかだった。午前中になないろ小路に出かけ、パーティーに顔を出しておなかが寂しいのを落ち着かせたあと、どうしてもツフィアに見てもらいたかったの、と四階までこっそり戻ってきたリトリアは、また談話室に戻るつもりであるらしい。ツフィアも一緒に行こう、と誘いたくてでももじもじとためらっているのを知りながら、それを促してやることはなく。ツフィアは、ぱっと明るく笑ってなぁに、と首を傾げるリトリアに、やわらかく微笑んで首を傾げてやった。
「その服は、あなたが選んで買ってもらった……訳がないわよね……」
 問いかけの途中で絶望的な可能性のなさに気がつき、ツフィアは額に手を押し当てた。そんな筈がない。ないというか絶対にない。リトリアはきょとんと目を瞬かせたあと、えっとえっと、と赤らんだ頬に両手を押し当て、もじもじしながら呟いた。
「んとね。すとるさんがね」
「良いこだから今すぐ全部脱ぎなさいリトリア」
「えっ」
 先日。夏至の日。新入生に混じって、お誕生日おめでとう、の声を親しい上級生からかけられているリトリアを目を細めて眺めながら、あと二年か、とストルが呟いていたのをツフィアは知っているのである。あと二年がどうしたっていうのよ。あと二年したら成人だろう。そうね成人するわねだからそれがどうしたというの。成人までは待とうと思っているという話だがなにか問題でもあるのか。問題しかないに決まっているじゃないのというか二年と言ったわね二年はあなたなにもしないんでしょうねどうして視線を逸らしているのストル。いやちょっと。ちょっとってなに。ストルだからどうして視線を逸らしているのか私は聞いているのよ返事をなさい無視するのではなくっ、と言い争ったことを思い出し、ツフィアはえっえっと戸惑うリトリアの肩に手を乗せ、真剣な顔で言い聞かせた。
「いいから、今すぐ、その服を全部脱ぎなさい?」
 アタシ、男は狼なのよ気をつけなさい射程距離に入ったら一撃で確実にころしなさいってリトリアにちゃんと言ったんだけど、あの馬鹿困ったことにストルに対しての射程距離というものが存在していないのよね、とやや死んだ目で少女の案内妖精がいつぞやぐちっていたことを思い出し、ツフィアはずきずきと痛む頭にぐっと息をのみ込んだ。リトリアは、すでに半分泣いているような表情で、くすんと鼻をすすりあげている。
「どうして……? 似合うって言ってくれたのに……だめなの?」
「似合うわ。可愛いわ。かわいいわよ……!」
 でもストルが選んでそのスカート丈と靴下の長さの組み合わせであるというのなら、ツフィアは早急に手を打たなければならないのである。なにがあと二年だあの男。呪うぞとばかり舌打ちしたツフィアに、リトリアは嫌がるようにぎゅぅ、とスカートの裾を握り締めた。
「ストルさんも……かわいいって、言ってくれたのに……」
 だから問題なのだが。涙ぐんで落ち込むリトリアに溜息をつき、ツフィアは椅子から立ち上がると、その前にしゃがみこんで名前を呼んでやった。リトリア。やわらかく響くように心がけた言葉は、涙でいっぱいのリトリアの視線をツフィアへと向け、きゅぅと力のこめられたくちびるから、なぁに、と声を零れさせていく。ツフィアは微笑みながらリトリアに手を伸ばし、スカートを掴んでいた両手をそっと包みこんでやる。
「かわいいわ。本当よ」
「……うん」
「でも……すこし、スカートが短いのではないかしら。あなた、わりと走ったり、動き回ったり、するでしょう? だから、もうすこし、長めのにしましょうね。どうしてもこれがいいと言うのなら……タイツかしら……」
 これから冬になっていくのであれば問題ないのだが。この上から普段着ているローブをはおらせるにしても、ぱたぱたあっちへこっちへ走りまわるリトリアのそれは常にひらんひらんと動いているので、防御力としては心もとない。はぁい、と返事をしながらも、ストルさんからの誕生日ぷれぜんとだったのに、と落ち込むリトリアに、ツフィアは取り組んでいた課題を舌打ちと共に投げ捨てる決意をし、財布の中身を確認した。余裕はある。よし、と頷き、ツフィアはリトリアに囁きかけた。
「リトリア。その服を脱ぐと約束できたら、私と一緒に買い物に行きましょう」
「……おかいもの?」
「ええ。誕生日のお祝いに」
 私にも服を贈らせてちょうだい、と囁かれ、リトリアはきゃぁ、と歓声をあげる。ツフィアだいすきっ、と抱きついてくるリトリアを撫でながら、ツフィアは一度ぐっと堪えた後、どうしてもこぼれてしまったような囁きで、私もよ、と告げた。私も。あなたのことがとても大切なのよ、リトリア。囁きに、リトリアはうるんだ瞳で顔をぱっとあげ。しあわせそうに、うれしそうに、微笑んだ。今まさに咲き零れた。花のような、笑みだった。



 随分と人が少なくなってしまったような気がするのは、リトリアと仲の良かった者たちが近年、相次いで卒業してしまったせいだった。パルウェだけは学園の事務方として就職した為に時折顔を見ることができるが、それでも生徒であった時のように談話室に顔を出したり、部屋に遊びに来てくれることはない。また、なにかと忙しいのだろう。廊下で顔を合わせても二言三言を交わすだけですぐに別れ、ストルと仲良くねぇ、と笑って手を振ってくれることが多かった。仲の良かったチェチェリアも、よく構ってくれたエノーラやラティも、すでに卒業してしまっている。王宮魔術師は誰もが多忙だ。ぽつぽつと交わされる手紙だけが、今もリトリアと、年上の女性たちをか細く繋いでくれる糸だった。
 なにかとリトリアを気にかけてくれたフィオーレも、卒業してしまってそう簡単には会えなくなった。ただ、なにかと手紙をくれるのでさびしい想いをしたことはないのだが。リトリアはチェチェリア、エノーラ、ラティにあてた手紙にしっかりと封をしたあと、それをフィオーレへ向けて書いた封筒の上にぽんと置き、さらに便箋を引き出してペンにインクをつけた。パルウェさんへ、と書きだす文字は未だたどたどしく、おせじにも綺麗とは言い難いが、読みにくくはない程度に整えられている。ゆっくり、一文字づつ、苦心して、丁寧に手紙を書き、リトリアはふうと息を吐き出した。中々会うことはできなくても。傍にいても、ゆっくりお話することが難しくても。
 今でもちゃんと大好きだと、告げて。病気をしていないか、怪我をしていないか心配して。忙しいことを案じて。楽しいことがありますように、笑っていてね、と祈りを。苦しいことがあったら一緒に考えさせて、素敵なことがあったらおしえてね、と囁くその手紙に、言葉に。忙しさに押しつぶされるように日々を送る王宮魔術師たちから、あるいはこの学園に散らばった者たちから、手紙が帰ってくる頻度はすくなくとも。リトリアの元に、必ずそれは戻ってくるのだ。二通に一通の返事であったり、あるいは五通に一通だったり。数ヶ月後であったり、半年後であったりするけれど。それは枕元に灯るささやかな火の熱にすら似て。魔術師たちをか細く繋ぎ、暖め、脚に力を込めてまっすぐに立ち上がらせている。
 パルウェにあてたものを書き終え、もう何通かを苦労して書き終え、リトリアはぐーっと腕を伸ばして椅子の上で脱力した。
「おつかれさま」
 くすくすくす、と笑いながら顔を覗き込むように囁いてくれたのは、顔見知りの一人だった。あまり言葉を交わすことは多くないのだが、誰とも分け隔てなく優しいその人柄がリトリアの警戒心もといてくれたので、わりと緊張せず話せる相手のひとりである。ユーニャさん、と呼ぶリトリアに、青年はゆるりと目を細めて微笑み、少女の前に暖かな茶を給仕してくれた。
「毎月のことだけど、頑張ってるね。また数が増えた?」
「はい。あんまり会えないから……パルウェさんとか、学園にいるひとにも、おてがみ、書くことにしたの」
「そう。みんな喜ぶと思うよ」
 年末年始が楽しみだね、とまだ半年以上先のことを気も早く笑いながら告げるユーニャに、リトリアはけれどもくすくすと笑い、幸せそうに頷いた。学園では授業が休みとなるその時期、王宮魔術師にも休みが与えられる。十日間から二週間の休みをどう使うかは個人の自由であるのだが、授業がなくとも寮へ留まり続けるリトリアに会いに、王宮魔術師たちが次々と姿を見せてくれるのがその時期なのである。チェチェリアも、ラティも、エノーラも、フィオーレも、誰も彼もが、皆。手紙と、ちょっとしたおみやげと、満面の笑みで、リトリア、と呼びながら談話室にかけ込んで来てくれるのだ。ただいま、元気にしていた、と。まるで家族のように。まるで、家に帰ってきたかのように。リトリアを抱きしめて、手紙をありがとう、と言ってくれる。そのことが、ほんとうに、しあわせだと思う。
 未だ先のことにうっとりと思いをはせながら、リトリアはでも、と期待に口元を緩ませる。
「来月のパーティでも、ちょっと会えたりするんじゃないかしら、って……思うんです」
「そうだね。毎年、護衛以外の王宮魔術師も、新入生の顔を見に来たりするし……うん、フィオーレは来るかもね。リトリアちゃんのダンスのお相手しに。リトリアちゃん、今年はまだパートナー、決めてないんだろ?」
「はい……」
 一月半後に控えた新入生の歓迎パーティーの準備で、学園はにわかに慌ただしい。新入生に対する告知は一月前に行われるが、それにまつわる準備はすでに進められている為だった。リトリアも当日の料理のメニューを考えたり決めたり、食材の手配をしたり準備をしたりとなにかと忙しいのだが、それはもう例年のことである。慣れたといえば慣れたことであり、心悩ますものではないのだった。ユーニャがくすくすと笑い、リトリアが眉を寄せてくちびるを尖らせた言葉のとおり、少女をすこしばかり困らせているのはダンスパートナーのことだった。新入生は自動的に案内妖精がエスコートを務めるので関係ないのだが、在校生はパーティーに参加するとなると、相手を自分で探してくる必要がある。
 ダンスをしなければエスコート役なくパートナーなくとも問題はないのだが、リトリアは踊りたいのである。やや引っ込み思案でひとみしりのけのあるリトリアが、ほぼ唯一積極的にしたい、と主張するものがこのパーティーでのダンスである。一昨年まではよかったのだ。リトリアが入学してからというものの、ずっとパートナーを務めてくれたフィオーレが在学していたし、去年はわざわざ休暇を取ってまで一日相手を勤めてくれた。今年も、休みは取れなかったものの、リトリアを踊らせに来てくれる、とは言っていたのだが。手紙で。
「決めては、いないんですけれど……」
 返事をしていない、というだけで。どうしよう、と恥ずかしげに頬を染めて困るリトリアの視線を追いかけ、ユーニャは笑みを深めてああ、と納得に頷いた。視線の先ではストルとツフィアが一つのテーブルを覗き込むようにして、延々となにかを言い争っている。かれこれ二時間程。リトリアが談話室に現れ、ふたりにかまってもらいたかったけど忙しそうだからおてがみ書くことにする、と一度部屋に戻って道具をとって来て書き始め、それが終わっても、まだ男と女は意見の合意をみせていないようだった。
 なにをそんなに考えているのかしら、と首を傾げるリトリアに、ユーニャは肩を震わせて、そのうち分かると思うよ、と言った。なにせ通りすがりに覗き込んだテーブルに置かれていたのは、少女向けのドレスのデザイン画であったので。あのうちのひとつが、今年のリトリアのドレスだ。もうすこししたらふたりにお茶を運んで行こう、と決意するリトリアに喜ぶと思うよと頷き、ユーニャは少女の顔を覗き込んで問う。
「それで。どっちに誘われたの?」
「……んと、ね」
 幸福そうに目をうるませ、赤らんだ頬に両手を押し当てながら。うっとりと響く声で、リトリアはユーニャに、こっそりと囁いた。
「ツフィアがエスコートしてくれて……ストルさんが、ダンス、踊ってくれないか、って」
「ふぅん? ……で、リトリアちゃんはなんて言ったの?」
「踊るのは……えっと、ストルさんだと、私、あの、どきどきしちゃって……うまく落ち着けないし、脚を踏んじゃうかもしれないから……」
 考えさせて下さい、と。お願いしたのだという。ああそれで数日前にストルがマジヘコみしてめずらしくツフィアに慰められていたんだ、としみじみと納得し、ユーニャはだってえぇ、と涙ぐむリトリアの頭を、ぽんぽんと撫でてやった。ストルが、じつは去年も誘うつもりでタイミングを逃して言えないまま、フィオーレと踊る姿を見ていたのをユーニャは知っていた。今年こそはと思っていたに違いない。というか遠回しに半分断られるとは思っていなかったに違いない。あのツフィアが慰めるくらいなのだ。ほぼ誰とも交流をせず、リトリアにだけはなにかと構う孤高の言葉魔術師。高嶺の花のような。あのツフィアが。
 ぷぷ、とストルのヘコみぐあいを思い出して笑いに肩を震わせ、ユーニャはこっそりと、でも一曲くらいはストルと踊ってあげてもいいんじゃないかな、と囁いた。嫌じゃないんでしょう、足を踏んだりしちゃうのが怖いだけなんだよね、と問うユーニャに、リトリアはこくりと頷いた。
「あのね、でも……でも、すごく緊張するんです。考えるだけで……どきどきしちゃうんです」
 はじめてなの、とリトリアは言った。ストルさんがダンスに誘ってくれるのも。もし、それをお受けしたとして。ストルさんと、踊るのも。どうしよう、と震える手を柔らかく握り、リトリアはけれどもそっと目を、幸福そうに細め、満ち足りた息を吐き出した。
「おんなのこ……だって……思ってくれてるの、かな。めんどうみる、ちいさいこ、じゃなくて」
「うん」
「一緒に……おどって、くれる、くらい。女の子に」
 嬉しいの。それがすごく嬉しい。しあわせなの。恋の至福にまどろみながら囁くリトリアに、ユーニャは優しく微笑みながら、うん、と静かに頷いてやった。きみは気が付いていないだろうけれど。ようやくすこし、表に出すくらいになっただけなのだけれど。ほんとうはもうずっと前から、きみはストルの、たったひとりの女の子なんだよ、と。笑みを深め。よかったね、と告げるユーニャに、リトリアはあどけなく、こくん、と頷いた。



 面会に客が来てるぞ、とリトリアが寮長に告げられたのは、八月末のことだった。談話室の片隅でお手製のパウンドケーキを食べ、ココアを飲んでほわっと落ち着いていた時のことである。今日のリトリアの授業はもう終わりで、あとは夕食まで図書館で本でも読んでいようかなと考えていた最中のことだった。ストルは今日の午後は実技授業で埋まっていて会えないし、ツフィアは授業こそないものの、だいたい図書館でひっそりと本を読んで過ごしている。その周囲にひとはなく、ツフィアがそれでいいのよと言い切りながらもどこか寂しげであるのを知っていたので、リトリアはなるべく邪魔をしないように、だめと言われるまでは傍にいたいのだ。これまで避けられることはあっても、傍に来ないでだとか、だめだとかいう拒絶はされたことがないもので。避けられたり逃げられたりすることも最近ではなくなっている。
 ツフィアは今日もひとりで勉強しているのかしらと思いながら、リトリアはちっとも心当たりのない様子で目を瞬かせ、ことりと首を傾げてくちびるを開いた。おきゃくさま、とたどたどしく繰り返すリトリアに、シルは苦笑いをしながらそう言っているだろう、と頷きをみせる。
「面会室にいるから行って来いよ。別棟の二階の、一番奥の部屋な。茶と菓子は置いてきた。リトリアの分もあるから持って行かなくて良い」
「……べっとう?」
 また、幼い響きで繰り返したリトリアに、シルはどこか根気強さを感じさせる仕草で、ゆっくりと頷いてくれた。魔術師の卵に会いに来る者など、限られている。王宮魔術師か、あるいは五ヶ国の王か。王は半年に一度、視察を兼ねてこの学園内を歩きまわる。護衛に王宮魔術師を連れてくるのがだいたいで、ひとりで忍んで来る者はあまりいない。ことになっている。明確な決まりこそないものの、王がひとりでこの『中間区』に立ち入ることは歓迎されていないかあらだ。シルは、誰が、とは言わなかった。だからこそもしや、五王の誰かなのかと思い悩み、着替えた方がいいかしらと己の服装を見下ろすリトリアの本日の衣装は、ひらひらふわふわした印象のパスリーブのシャツと、やや長めのスカートだ。
 スカートは無地のシンプルなつくりながらもふんわりと広がり、座っていても膝が見えないくらいの丈がある。腰で交差しながらきゅぅと結ばれた幅広のリボンが可愛らしい。裾にはたっぷりとフリルが取り付けられ、夏にしては布地がやや重く、リトリアがあっちへこっちへ走って飛んでを慌ただしくしてもひらひらとなびかないようになっている。ツフィアか、と思いながら寮長はいやいいんじゃねぇのと首を傾げ、不安がるリトリアにそっと耳打ちしてくれた。
「五王じゃねぇよ。王宮魔術師。……砂漠の」
「フィオーレさん?」
 もしかして先日、ストルさんと頑張って踊ることにしたのでフィオーレは今年はだいじょうぶよ、と書いた手紙についてのことだろうか。ストルとツフィアが目立っているだけで、実際の所はフィオーレも、すこしばかりリトリアに対して保護者めいている。怒られるのかなぁと溜息をつきながら立ち上がったリトリアに、シルはいいや、と首を振って囁いた。
「違う。行けば分かる。……まあ、あんま駄目そうだったらこれで俺呼んでいいから、ちょっとは話してやれ。な?」
 王宮魔術師とは、全員が学園の卒業生である。特に生徒たちの生活棟に来てはいけないという決まりもないから、誰かに用事があればそのまま普通に寮の寮の部屋に直行するのすら普通のことだった。だからこそわざわざ面会の為の別棟を使うことは珍しい。加えて寮長が、最後まで誰、と言わなかった理由を、呼んでいいとも告げてくれた理由を、リトリアは不思議がりながら向ったその一室の、扉を開けた瞬間に理解した。ぎしり、とばかり扉を開けたそのままの姿で動きを止めてしまったリトリアに、窓辺から広がる森を眺めていた男が、振り返りながらくつくつと笑う。おいでおいで、とひらひらと手で招かれた。
「入っておいでヨ、お人形ちゃん」
「シークさん……」
「久しぶりだね。元気そうでなによりだ」
 三年、いや二年ぶりくらいかな、と微笑む砂漠の王宮魔術師。言葉魔術師、シークから視線を反らせないまま、リトリアはそれくらいだと思います、とぎこちなく頷いた。怖々と扉から指先を離し、体を正面に向けたまま、後ろ手に扉を閉める。どうしてか、分からないのだけれど。視線をそらせばその瞬間に、喉元に食らいつかれるような恐怖があった。シークの瞳は決して危険な色を帯びず、それどころか学園では見たこともないくらい穏やかな色をはいてリトリアを見つめてくれていたのだけれど。本能的な警鐘がそれを知らせていた。
 これは研がれ終わった剣にすら似て。準備を整え終わってしまった毒そのもの。これは花枯らす水ではなくとも。砂散らす暴風ではあるのだと。ぱたん、と扉が閉じる。きゅぅとくちびるに力を込め、もう一度シークさん、と呼びかけたリトリアに。男は静かに、ゆったりと、微笑みを深くした。
「逃げないのかい?」
「逃げて……いいの? 追いかけてこない? シークさん」
「どうかな。どうするかは今考えているよ、お人形ちゃん」
 穏やかであるのに。とてもとても、落ち着いて見えるのに。言葉はそれを裏切って、どろどろと、煮詰められた飴のように絡みついてくる。一度、きゅっと目を閉じて息を吸い込んで。リトリアは脚に力を込めて、立ちなおした。
「シークさん」
「うん、なにかな?」
「わたしに……おはなし? 用事が、あるんですか……?」
 だったら。ちゃんと。聞きます、と。怖がりながらも告げたリトリアに、シークはすこしだけ意外そうな顔をして。くすくすくす、と喉を震わせて笑い、そうだね、と頷いた。用事があるよ。だからとりあえず、お座り。君の為のお茶とお菓子があるよ、と指し示された椅子を引いて腰かけて。リトリアは震える指先を宥めるように、膝の上でゆるく握りこんだ。

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