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 男は無残に踏み穢された、勿忘草の瞳をしている。傷つけられ今にも死に絶えてしまいそうな、塗りつぶされた浅紫と菫色の、ぐるぐるとかき混ぜられ濁ってしまった、濃く深く、忘れられないような色を、している。それは愛されなかった花の色だ。光に口付けられることも、きよらかな水を与えられることもなかった花の。ただ、ただ摘み取られてしまった、花の。そのいろを。リトリアは確かに知っていた。塗りつぶされた筈の記憶が、深く沈めた水底で存在を主張する。かつて、わたしもそうであった筈だと。誰かがリトリアの耳元で囁く。わたしはこのいろをしっている。だからこそ、なお、わたしはこのひとが怖いのだ。これはわたし。かつてのわたし。わたしとこのひとは、とてもよく似ている。
 とても、よく、似ていた。
「……リトリアちゃん」
 パチン、と眼前で指を鳴らされ、リトリアはびくりと椅子の上で身を震わせた。はっ、とくるしく息を吸い込み、はじめて、リトリアはいつのまにかそれをやめてしまっていたことに気がついた。けほ、けふ、と軽くむせながらせわしなく息を繰り返し、リトリアは机に肘をついて苦笑するシークを、ぼんやりとした眼差しで眺めやった。シークが、リトリアの名を呼ぶというのは、ひどく珍しいことで。在学時代を含めても、片手で足りるほどしか記憶にないことだった。だんだんと呼吸を整えていくリトリアが、己の内側にあるいくつかの不思議さを、声にして響かせようとくちびるを震わせる。リトリアの、青ざめたままのくちびるが声を紡ぐのを拒絶するように。す、と目を細め、ところで、とシークは笑った。
「この間は手紙をありがとう。びっくりしたヨ。お人形ちゃんがボクにまで書いてくれるだなんてネ」
「……ご迷惑、でしたか?」
「いいや、嬉しかったヨ。……フィオーレには、お前なにしたの、なんて言われてしまったけどね?」
 くすくすくす。いたって上機嫌に肩を震わせるシークに、リトリアはごめんなさいと呻くように声を吐き出し、赤らんだ頬を両手で包みこんだ。シークと在学がかぶっている魔術師であるなら誰もが知る事実として、リトリアはこの男のことが苦手である。怖い、と思うし、積極的に話しかけたことは一度としてない。二人きりで言葉を交わしたのも一度や、二度くらいで、そしてどちらも大人数での雑談の輪に加わるような性格をしていない為に、接点があるとすれば共に四階の住人であったということくらいだろう。寮長が面会の申し出を受け付けておきながら、駄目そうだったら呼べ、と言ってくれたのはその為だった。
 フィオーレが訝しんだのも同様の理由だろう。白魔法使いは数少ない、シークの会話相手のひとりだった。友人と呼べるような、呼べないようなあいまいな距離感で、フィオーレとシークが言葉を交わしていたことをリトリアは知っている。交流はか細く、けれども途絶えることはなく。二人が共に砂漠の王宮魔術師として、同じ日に学園を卒業して行ってからも、リトリアの知るままに続いているようだった。そのフィオーレといえば、今日は星祭りの準備で早朝から慌ただしく、王の傍で働いているらしい。星祭り、と言葉を繰り返し、リトリアは説明を求めて首を傾げた。星降の国の流星の夜に似たものだろうかとは思うものの、そんな大事な祝いを前に、なぜシークが暇そうにしているのかが分からない。
 素直にそれを問えば、シークはくつろいだ様子で椅子に背を預け、仕方がないと言わんばかりあまく笑みを深くした。
「ボクの陛下は……ボクのことが嫌いだからね」
「きらい……?」
「ああ、もちろんボク個人のことも嫌いだろうケド、ごく正確に言うとするなら……我が陛下は言葉魔術師という存在そのものが嫌いなのさ。苦手、というよりも。嫌悪している、という状態に近いだろうネ」
 それをまるで、なんでもないことのように、笑って言って。シークは泣きそうな顔で押し黙るリトリアの顔を、下から覗き込むようにして見た。
「ボクは気にしてない。……キミも、陛下も、ボクを受け入れられないのには理由がある」
「……シークさんには、それが、分かるの?」
 わたしにも分からないこの怖さの理由を。知っているの、と問われ、言葉魔術師は微笑みのままに頷いた。
「お人形ちゃん」
 けれど。
「ツフィアと……ストルは、キミに優しいかい?」
 その理由を、告げることなく。シークはそう問い、リトリアは迷うことなく頷いた。もちろん。ふたりとも、とても、やさしいの。ツフィアもね、ストルさんのこともね。わたし、とても、とても、すきなのよ。大好きなの。それでね、ふたりが、私のことをとても大切にしてくれていて。そのことが。なにより、とても、うれしいの。しあわせなの。あいして。くれているの。ふたりは。わたしを。
「……愛して、くれたの……」
 歌うよう、囁くようにそう告げたリトリアに、シークはそうだろうね、とくすくすと笑い。だからこそキミはボクを受け入れることができないんだよ、と響かぬ声で呟いた。首を傾げるリトリアに、なんでもないよと囁いて。シークは結局、面会の理由も、リトリアの問いに対する答えも告げることなく時間を過ごし、砂漠の国へと帰って行った。事件が起きたのは、その翌日のこと。砂漠の王宮魔術師による、『花嫁』誘拐事件。事件を起こしたのは言葉魔術師、シーク。連れ去られた『花嫁』の名を、ソキ。
 七日間の後に終結したその事件こそ。リトリアの悪夢のはじまりだった。



 学園を卒業した魔術師が一般人に害を成すということは、本来ありえず、なによりあってはいけないことだった。それを成さない為に、魔術師たちは未熟なうちに『中間区』に閉じ込められ、ごく慎重に整えられ磨きあげられていくのだ。己を召抱える王たちへの絶対的な忠誠と、魔力を持たぬ者たちへの献身にも似た敬愛。王宮魔術師とは誰もがその国の王の僕であり、施政者が愛する国に住まう者へ恵みを与える者たちだ。そうであるべきだ。その筈であったのだ。事件を聞いた王宮魔術師の誰もが、反射的な吐き気すら伴いながら、まず一度はこう叫んだのだと言う。ありえない、と。
 それはシークという人物が、そのような事件を成しとげえないという否定では、なく。彼らに施された教育、培われた思想、そしてなにより己の国民を思う王への敬愛が、どうしても一度は事件そのものの発生を魔術師たちに拒絶させたのだ。私たちは絶対にそんなことができない。できる筈もない。私の忠誠を捧げた、俺の献身を捧げた、たった一人の王。我が陛下。あなたさまが愛し守り抱く民に、わたしたちは絶対にそんなことができない。できる筈がない。たとえそれが狂気の末のご命令であったとしても。あなたの愛を傷つけ惑わし害すことなど、わたしたちにはできる筈がない。信じてと懇願するような、泣き叫ぶような、否定であったのだという。
 事件の仔細がじわじわと伝わっていくにつれ、特に混乱したのは砂漠を母国として持つ王宮魔術師だった。シークが惑わしたのは『花嫁』であるという。『砂漠の花嫁』。不毛の土地にその身をもって祝福を、恵みを、幸いをもたらす、うつくしくあいらしく脆い子ら。そのひとりが。王宮魔術師に。言葉魔術師に。囚われ、惑わされ、壊され、害された。『砂漠の花嫁』とは、砂漠を母国に持つ者たちにとって聖域に等しい。こころの、一番やわらかで、きれいで、透き通る。一番うつくしい思い出が眠るのと同じ場所に、彼らはその存在を捧げ置く。己が膝をおり頭を下げる王とはまた別に。砂漠の者たちは『花嫁』に、あるいは『花婿』に感謝と共に心を捧げ、祝福を織り祈るのだ。
 それはきよらかな湧水に捧ぐ感謝の気持ちに似ている。恵みの雨に、雲間から射す金色のひかりに。風にそよぐ花に向ける憧憬、冷え切った指先をあたためていく火の熱。くらやみに柔らかく灯る灯篭。きらきらと瞬く星明り。うつくしいもの。あこがれ。世界を愛おしく思う。願いにも似た感情を、砂漠出身者は『花嫁』に対して想うのだ。だからこそ彼らは二重の意味で否定した。わたしたちにそんなこと、ぜったいに、できるはずがない。学園を卒業した王宮魔術師が。私たちの、ただひたすらきよらかでうつくしく無垢で柔らかな、想い。そのもののような、存在に。そんなことができるはずがないのだと。彼らは泣き叫び、否定した。けれども覆せぬ事実として、シークは『砂漠の花嫁』を連れ去ったのだ。
 事件が解決するまで、かかった時間は七日間。それと同じだけの時間が経過しても、王宮魔術師たちの動揺は収まらず、それは当たり前のように学園にも伝染した。学園にまで届く情報は、そう多いものではない。それでも砂漠の国の王宮魔術師が、言葉魔術師が。シークが、『砂漠の花嫁』を惑わしたのだという事実はどうしても響き。そして、ひとつの出来事が、その響きを研ぎ不穏なものに仕立てあげていた。シークが一番最後に接触し、言葉を交わしたのは学園の魔術師。予知魔術師。リトリアである。リトリアは事件が発生し、シークが容疑者であると断じられてすぐ、砂漠の王宮に呼び出されていた。シークの居場所を知らないか、最後に交わした言葉は。どんなことでもいい。手掛かりになりそうなことを知らないかと。向けられる言葉に、リトリアはただ首を横に振ることしかできなかった。
 リトリアはそのまま、七日間、砂漠の王宮に留め置かれた。学園に帰ることは許されず。学園の、誰と連絡を取ることも許されず。一日目、二日目はひたすら懇願めいた言葉に分からないと告げ、三日目からは部屋から出ることを許されなくなった。呼び出され、繰り返し繰り返し、リトリアは問い正された。最後の会話は。なにを話したのか。なにか予兆めいた言葉を告げられなかったのか。シークの目的は。居場所を知りはしないのか。リトリアはただ、それに、分からないと告げた。分からない。シークさんがなにを考えていたのか、どうしてそんなことをしたのか、どこにいるのか、いまなにをしているのか。どうして、それを、わたしがしっていると、おもうのか。
 わからない。なにも、なにもわからないの。しらないの。だからおねがい。ねえおねがい。おねがいおねがい、かえして。わたしをかえして。すとるさんと、つふぃあのところに。おねがいだからわたしをかえして。だめだというなら、せめて。ここにいるっておしえて。リトリアは真夜中に起こされ、人目を避けて砂漠の王宮まで連れてこられた。寮長はリトリアがどこにいるのかを知っているが、それを告げてはならぬと厳命されているのだという。伝えることは叶わないだろう。ねむい目をこすりながら歩いた廊下はひどく静まり返っていて、夜遅くまで書きもの机に灯りをともしていたツフィアの部屋からは物音もせず、ストルは談話室から部屋へひきあげたあとで、リトリアはふたりの顔を見ることすら叶わなかった。
 四日目から、リトリアはただただ泣いて訴えた。かえして。おねがい、かえして。ストルさんとツフィアに会いたい。会いたいの。ねえ会いたいの。かえして、かえして、おねがいかえして。わたしを学園へ。わたしを。ふたりのところに。ストルさんとツフィアのところに。かえして。それは出来ない、と誰かがリトリアに囁き告げた。あの言葉魔術師が捕らえられるまで。この事件が終わってしまうまで。リトリアが。予知魔術師が。奇跡を願い起すことのできる術者である、君が。本当の、本当に、この事件に、彼のたくらみに、なにも関わらず。なにも知らず、なにもしていなかったのだと、証明できるまで。誰もが納得してしまうまで。どこへも行かすことはできない。
 鍵のかけられた部屋の中で、リトリアはお願い、と訴え続けた。
「おねがい……!」
 なにを、だれに、願っているのか。願っていたのかも、分からなくなるくらい。喉が枯れて声が掠れて咳き込んで血をはいて熱を出してしまうくらい、泣いて泣いて訴えて。それでも。部屋の扉は鍵をかけられたまま、ひらかれることがなく。七日間が過ぎ。けれども、そのまま。リトリアは、囚われ続けた。



 記憶は。ひどくあいまいで、とぎれとぎれで、繋がっていてもその繋がりが、よく分からないほどの断片で。リトリアは部屋を出ることを許されなかった時のことを、思い出すことができないでいる。どれくらいの時間が巡っていたのか。その間、なにをしていたのか。眠って、目覚めて、また眠りについた記憶はあれど、起きていた間なにをしていたのかは分からないままだった。なにもしていなかったのかも知れない。なにをすることも、許されていなかったのかも知れない。閉ざされたきりの部屋に、訪ねてくる者がいたような気もするが、それが寂しさがみせた夢でなかった確証を、リトリアは持てないでいる。それでも、それはおそらく、夢幻であったのだ。
 その日。かしりと音を立てて鍵がひらいた。その音を。リトリアはほんとうに、ひさしぶりに、聞いたと思った。
「……気分はどう?」
 やわらかな印象の苦笑を浮かべて。リトリアにそう問うたのは、砂漠の国の王宮魔術師だった。年の頃は三十の半ば。落ち着いた、穏やかな雰囲気の男である。砂漠の民特有の煮詰めた飴色の肌ではなく、よく日焼けした小麦色の肌をしていた。藍玉を砕いて染めたような髪と、眠りにつく砂漠の夜のような、落ち着いた黒色の瞳をしている。そのひとをリトリアは見たことがあるような気も、まったくの初対面であるような気も、した。名を問うことはためらわれた。元より、本当に初対面だとして、リトリアがそれを自ら問うことはひどく難しいのだが。部屋の、片隅に置かれた椅子に、ただ整えられ置き去りにされた人形のように座っていたリトリアを見つめ、男は戸口から踏み込まぬまま、もう一度、囁くようにそれを訪ねた。
「気分は、どう? ……俺の、言うことが、わかる?」
 こくん、と無言で頷きかけて。リトリアは慌てて息を吸い込んだ。随分と使っていなかったような気も、昨日も泣き叫んでは痛めてしまったような気もする喉が軋み、けふけふと咳き込んで行く。それをひどく痛ましそうに見つめて。男は、ただ、リトリアの返事を待った。部屋の入口と、そこから遠ざかるように奥に置かれた椅子の上。奇妙な空白と距離感で、ふたりの魔術師の視線が絡みあった。
「わかり、ます……」
 なんとか、落ち着いて、息を吸い込み。そこでリトリアは、男の名を思い出した。砂漠の国の王宮魔術師。王の側近と呼ばれる男。うつくしい宝石の名をもつ、水属性の黒魔術師。名を。
「ジェイドさん……」
 ふ、と微笑みを深めて。よくできましたと言わんばかり目を細め、男は一度、ゆっくりと頷いてくれた。
「すまなかったね。俺がもうすこしはやく戻って来られれば、ここまで長く、留め置くことはなかっただろう……リトリア」
 五ヶ国の王宮魔術師の中でも最も多忙、とされている男だった。砂漠の国内を巡回し、とある職務を遂行しているとのことだったが、詳細は伏せられて誰も知らないのだという。同僚である砂漠の王宮魔術師たちですら。なぜ一年に一度、数日も、ジェイドが城へ戻ることすら難しいのかを、知らない。リトリアは、ただその忙しさ故に、会えない相手だということだけを知っていた。だからこそ、なぜ、と思い、姿勢を正して返事をする。それほどまでに戻って来られない彼の魔術師が、なぜ、いまこの場にいて。王の傍ではなく、リトリアの所へ来ているのだろう。
「わたしに……どんな、ようじ、ですか……?」
「用事。うん……用事、というよりは、命令かな。君にどうしても……してもらわないといけないことがある」
「めい、れい……」
 たどたどしく繰り返し、リトリアはそれになにを感じることもなく、ただ素直に頷いた。
「……はい。ご命令に従います。……私は、なにを?」
 痛ましげに。一度、閉じた瞼を震わせて。ジェイドは息をはき、首を振って、リトリアをまっすぐに見た。
「とりあえず」
 かつ、と一度だけ足音を立て。ジェイドが部屋へ踏み込んでくる。それきり足音のないしなやかな歩みでリトリアの前まできた男は、視線を重ねたまま、少女の座る椅子の前にしゃがみ込んだ。微笑み、ごめんね、と囁かれる。両手が伸ばされた。
「や……!」
 反射的に体をひねって逃げようとしたのは、その手がリトリアへ触れたからだ。頬に、そっと、てのひらが触れる。肌に。それを許したくなど、ないのに。ストルでも、ツフィアでもない、誰かに。触れられることを許したくなど、ないのに。ごめん、と囁きながらジェイドはリトリアから手を引かず、頬に手を押し当て、それを首筋へ滑らせ、考え込むようにしながら額へと押し当てた。ふるふる、震えて嫌がるリトリアに息をはき、ジェイドはやはり一度フィオーレに診てもらうのが一番か、とひとりごち、ばさりと音を立てて魔術師のローブから袖を抜く。
「リトリア」
 そのローブで少女の体を包み込んで。
「……ごめんな」
 ジェイドは、そうするのに慣れた仕草で、リトリアの体を抱き上げた。いやがるのを宥めるようにぽんぽん、と背を撫でながら、ジェイドが部屋の扉へ向かって歩き出す。目を開いていなければ、歩いている、ということすら分からないような。静かな、なんの不安もない、ゆったりとした歩き方だった。はなして、いや、とむずがりながら、リトリアはジェイドの肩ごしに、連れ出された廊下をみる。そこから広がる外の景色。ひえた空の色を、みる。乾いた、冷たい空気が喉を軋ませた。それに、けふ、と咳き込んで。リトリアは耐えきれず、ジェイドの腕の中で涙を零した。どれくらいの時間が経ったのだろう。リトリアが連れてこられたのは八月の終わり。それから、どれくらいの時間が過ぎてしまって。わからなくて。けれど。ひとつだけ、確かなのは。
 リトリアはツフィアに手を引かれることも、ストルと踊ることも、できなかった。ふたりの名を呼び泣くばかりのリトリアの背を、そっと撫でて歩きながら。ジェイドはもう一度、悔いるように、ごめんな、と言った。ごめんな、リトリア。ほんとうに、ごめん。繰り返し、繰り返し、謝られたけれど。リトリアは泣きやむことができず。ジェイドは、ふたりの元へ帰っていいよ、とは、言わなかった。帰れるとも。言ってはくれなかった。



 うわああぁああっと悲鳴をあげながらジェイドの腕からリトリアを受け取り、寝台に座らせて、まずまっさきにフィオーレは少女の体を抱きしめた。室内で待っていた者たちも、じわりじわりと、そこにリトリアがいる、ということを受け入れられたのだろう。誰かが涙まじりによかったと呟き、リトリアの耳元でもフィオーレが、涙声でごめんな、と囁いた。そんなことは気にしなくていいので、とりあえずちょっと離してほしい。だいじょうぶですから、ともぞもぞ身動きして訴えれば、ああ相変わらずなんでいうかひとみしりっていうかそうなんだけどストルとツフィア以外にはデレ無いよねお前、と溜息をついたフィオーレが、ぽんぽんと背を撫でた後にようやく離れてくれる。
 ほっと息を吐きながら座り直し、リトリアは眼前のフィオーレをじっとみて、首を傾げた。
「フィオーレさん……ちょっと、痩せた……?」
 というか、やつれたような、疲れた顔をしている。部屋に集った魔術師たちは誰もかれもがそんな風であったのだけれど、フィオーレは特にそれを感じさせた。言われた瞬間に、感情を堪える為だろう。一度強く瞼を閉ざしたフィオーレは、ゆるゆると息を吐き出しながら頷いた。
「ちょっとね……でも、俺のことなんて……俺の、心配なんて、しなくて、いいんだよ……!」
 あの部屋を閉ざす魔力が誰のものだったか、リトリアも、それくらいのことは分かってただろ、と苦しげに告げられて、リトリアは眉を寄せながら首を反対方向へ傾けた。リトリアが囚われていた部屋は、ずっと、誰かの魔力に包まれていた。それは思考を鈍く、体の動きを自由にはさせず、それでいて強制的に抑えつけられる水面のように、魔力はまったく動かなかった。何度か瞬きをしてこくりと頷き、リトリアはずっと、と問いかけた。ずっと、フィオーレが、守っていてくれたの、と。白魔法使いは顔を両手で覆い、そこでまもってたとかいってくれることにおれのりょうしんがたえきれない、と呻いて、そのまま動かなくなった。
 ちょっと反省するなら場所を選びなさいよっ、とフィオーレの体を横から蹴ったのはエノーラだった。白雪の国の錬金術師である女性が、どうして、砂漠の国にいるのだろう。エノーラさん、とやや嬉しそうな顔で囁くリトリアに、女性はぱっと顔を明るくして腕を伸ばしてくる。が、直前で、抱きしめてもあまり良い反応を得られないことを思い出したのだろう。あああもうストルほんとまじ、ほんとまじっ、と呪うような呻きをぼたぼたと落とし、エノーラは仕方なく、リトリアの髪を撫でることで己の欲求と折り合いをつけたようだった。なでなでなで、と可愛がる動きでリトリアの頭を撫でながら、瞳を覗き込んでエノーラは笑う。
「ひさしぶり。……ひさしぶりね、リトリアちゃん。気分はどう?」
「飲むか? 体も温まるだろう」
 言いながら、湯気の立つマグカップをリトリアに持たせてくれたのは、チェチェリアだった。その傍らにはパルウェも立っている。二人ともやや疲れた顔をしているが、リトリアをみる瞳は穏やかな喜びに輝いていた。チェチェリアは楽音の魔術師、パルウェは学園に勤務する魔術師である筈だ。エノーラと同じく、そう簡単に国を離れられない筈なのに。どうしたんだろう、とふり積もっていく疑問を問うこともできず、リトリアはこくんと頷き、チェチェリアのくれたココアをひとくち、喉に通した。あたたかくて、あまくて、とても、安心した。
「……食欲はあるのかな。おなかすいてるならなにか持ってこようか? 俺、運んで来れるよ?」
「いや、お花さんはもう大人しくこの部屋にいて欲しい」
 リトリアを囲む女性たちから一歩退く形で、部屋にはユーニャと、ウィッシュの姿もあった。ユーニャさん、ウィッシュさんと笑って手を振るリトリアに、二人はほわりと和んだ笑みで手を振り返してくれる。寮長はどうしても学園を離れられなかったから俺たちが代表で来たよ、と囁くユーニャに、リトリアはよく分からないまでも、そうなんですかと頷いた。と、いうか、と苛々した様子で吐き捨てたのは、レディだった。火の魔法使い。
「本当に大丈夫なんでしょうね? なんの影響もないんでしょうね……!」
「え、ええぇっと……うん、たぶん……?」
「これだから、他国出身者は……! だから私とか、砂漠出身者に相談なさいって言ったでしょう! 馬鹿! あなたたち、ほんとだめっ! 監禁のルールとマナーと作法が全然わかってないっ!」
 あのやり方はいくら魔術師であっても法律にひっかかるでしょうがっ、と叫ぶレディに、涙ぐんだフィオーレが監禁はどのみち法律にひっかかるだろうがっ、と叫び返す。レディは、ふふん、となぜか自慢げに胸を張って答えた。なぜか。どうしてか。自慢げだった。
「だから分かってないっていうのよ。いい? 砂漠にはちゃーんと! 監禁に対する法律があるんだから!」
「え……? ……えっ、いまのおれにはりかいできないっていうか、いやいっしょうりかい、したく、ないんだけど。ちなみにどんな?」
「どんなって。だから、期間とか、ルールとかマナーとか作法についてよ?」
 あなたなにを言っているのとばかり訝しむレディに、いやお前がなにを言ってるんだ、とばかり室内の視線が集中する。やだやだやだおれかんきんとかきらい、ちょうきらい、と半分死んだ目で呻くウィッシュを、そうだねー、とユーニャが慰めていた。室内の微妙な沈黙を代表して、仕方なく、本当に仕方なく、こころゆくまで仕方がなさそうに、のろのろとチェチェリアが片手をあげた。
「レディ」
「なに?」
「監禁、に……ルールと、マナーは……普通、存在しない」
 なぜならそれは犯罪だからである。ええええそうかなぁ、と言わんばかり首を傾げ、レディはあっさりと、まあいいわ今はそんなこと、と言い放った。ちっともそんなことではないのだが。とりあえず話が先へ進まないし、それは今論ずるべきではないと、室内の誰もが分かっていたのだろう。これだから砂漠は、と部屋の隅で静観していたロリエスがぼそりと呟き、シンシア、キアラ、ジュノーたち花舞の魔術師たちもこくこくと頷いている。室内にはキムルの姿もあった。チェチェリアの夫たる、楽音の錬金術師。男はリトリアを部屋から連れ出したジェイドとなにかと話していて、視線に気がつくとやさしく微笑み、ひらひらと手を振ってくれた。
 いったい、どうしてこんな数の魔術師たちが、集まっているというのだろう。リトリアと、特に親しい者ばかり。その中でも特に、各分野に精通した、腕ききの者ばかりが。はぁ、と様々な衝撃から立ち直ったフィオーレが、とりあえず体調確認と回復だけ終わらせるのでエノーラお願いそこどいて、と懇願し、許されているのを眺めながら、リトリアは不思議に思ったのだが。なんとなく、場の雰囲気が安堵しながらも張り詰めていたので、どうしたの、とその一言を、くちびるに乗せることができなかった。室内を何度も見回し、扉にすがるような目を向け、こちらへ向かってくる足音がないか、注意深く確認しながら。何度も、何度も、待ちながら、リトリアはどうしても尋ねることができなかった。
 ストルと、ツフィアの姿は。ないままだった。

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