リトリアの体調確認を終えた白魔術師たちが一息ついても、部屋に漂う薄ぼんやりとした緊張感はそのまま消えることがなかった。集った魔術師たちはリトリアの姿に誰もが顔を綻ばせたが、それでいて、どこか悔いるような、痛みを堪えるような雰囲気で、今は殆どの視線が伏せられている。申し訳なく思っているような。それは、罪悪感にも似た気配。肌を撫でていくぞわぞわとした悪寒を、その予感を、その罪悪と共に問わなければ、と思うのに。ひとつも言葉にならず。ひとつも、声に出すことはできず。リトリアは不安げな視線を閉じた扉、その向こうへ、すがるように投げかけた。そこに。ストルも、ツフィアも、姿を見せない。
誰もが言葉に迷い、声を出せないでいる緊張に満ちた静寂の中。カツ、と足音を響かせて歩み出たのは砂漠の王の右腕と囁かれる、王宮魔術師の男。部屋までリトリアを迎えに来た黒魔術師、ジェイドだった。
「さて。確認を終えたことだし……時間が解決してくれることではない。残念なことに」
カツ、カツ、ゆっくりとリトリアの前まで歩み寄り。少女が座る寝台の前に、男はすとん、と片膝をついて座り込んだ。視線の高さが近く、瞳を下から覗きこまれるように重ねられて、リトリアは淡く息を吸い込んだ。男の、星々が眠りに落ちる砂漠の夜のような黒い瞳は、相手の意思を逃がさぬ強さを持っていた。どこにも、逃げられない。どこへも、逃がしては、もらえないのだ。リトリアは震えそうになる手をぎゅぅと握り締め、ジェイドの瞳をまっすぐに見つめ返した。部屋に迎えに来た時に、ジェイドはリトリアに命令、と告げた。わざとそう、言葉を選んで。リトリアに。
してもらわなければいけないことがあると。
「私は……なにを、すればいいんですか? なにを……」
求められて、それから。逃げることを誰にも許されないの。問う、少女に。黒魔術師はふと笑みを深め、雫をこぼすように囁いた。やさしく響く、雨のような。そんな、やわらかな、声だった。
「君になら話すと、そう言うんだよ。だから君は話をして、君が望むだけの潔白の証明と……事実、真実を、引き出して来なければならない。君に偽りは許されない。どんなことも、なにもかも」
「おはなし……? ……誰とですか?」
尋ねてから、リトリアはぞわりと背を震わせた嫌な予感にくちびるに力を込めた。悲鳴じみた声が零れて行きそうになる。予知魔術師としての本能めいた感覚が、今すぐここから逃げたいと泣き叫んでいる。どうして誰も守ってくれないの、どうして誰も助けてくれないの。私はそんなことをしたくないのに。守ってくれる筈なのに、助けてくれる筈なのに。どうして、ふたりとも、この場所に。私の傍にいてくれないの。震え、涙を滲ませるリトリアが、理解してしまっていることを知りながら。ジェイドは視線をそらさず、深く暖かな声で囁き告げた。
「言葉魔術師、シークと……なぜ、『砂漠の花嫁』を誘拐し傷つけ壊したのか。なぜ、そんなことをしようと思ったのか。それに君は……予知魔術師、リトリアは、本当に関わっていなかったのか。君の……愛する、大切なひとたちは、本当に、それを、知らなかったのか。また、彼らはそれをしないのか。その意思はないのか。世界と、国。五ヶ国と、王陛下方に対する反逆の意思がないのか、その確認と証明は……君に託された。シークは、君になら話すと、君でなければなにも告げないとずっと沈黙を保っている。正直に言っておこうね。彼のその頑なな態度が、リトリアに対するいろんな疑いを今も消すことのできない理由のひとつだ。予知魔術師。君は、共犯を疑われてる。『砂漠の花嫁』の、誘拐の」
もちろん、とリトリアがなにを言うよりはやく、強い語調でジェイドは告げた。
「俺も、この場に集う魔術師の全員と、『学園』の魔術師の卵たち。君と親しいすべての魔術師が、それを完全に否定した。五王も……君の関わりを心から疑っている訳ではないんだよ。花舞の陛下と楽音の陛下、星降の陛下がまっさきにそれを否定した。君はしない、って。白雪の陛下も、砂漠の、俺の陛下も、考えて考えてそれを否定した。君はしない。でも、絶対に、そうではないと言い切れなかった。関与を肯定する理由ではなくて、否定しきってしまう材料が足りなかったからだ。それゆえに、君は一室に封じられた。そのまま封じられている筈だった。シークが君との関わりを疑わせていたからだ。……君を、あの部屋から出すのには、長い時間と根気が必要だった」
リトリアと親しい魔術師たちが中心となり、五王に嘆願書を出し続けたのだという。何度も、何度も、魔術師たちは署名を書き入れ、王宮魔術師たちは己の陛下に、学園の生徒は五ヶ国に対して、それを願い続けた。リトリアを出してあげてください。あのこはなにもしていない。疑うのであれば、どうか潔白を証明する機会を。繰り返される懇願に五王たちが決意を揺らがせた頃、それを見計らっていたかのように、沈黙を続けていた言葉魔術師は囁いたのだという。
いいよ、君たちが知りたいことを全部話してあげる。ただし、リトリアちゃんだけに。君たちが封じ込めた予知魔術師をボクの前まで連れて来てくれるなら、その自由を引き換えに、ボクは彼女にすべてを話してあげるよ。君たちが望む真実のすべて。彼女が尋ねた言葉のすべてを。さあ、かわいいかわいいお人形ちゃんを、ボクの前まで、連れて来てごらんよ。くすくすくす、と楽しげに笑い。言葉魔術師は囁いた。だからこそリトリアは、これから、シークと話をしなければいけないのだ。閉ざされた部屋からの自由と引き換えに。研がれ終わった刃のような、どろどろに煮詰められた毒のような。言葉魔術師。あの男と。
アア、なんてカワイソウに。ヒドイコトをするねぇ、と。いびつに響く、ことばとは裏腹の嘲笑うような意思を感じ取り、リトリアは思わず、己を抱き上げている筈の存在につよくすがりついた。その腕に力を込めた筈の感覚すら、いまのリトリアには感じ取ることができないのに。己の心音すら分からない静寂と、暗闇と、無感覚。リトリアがシークと話をするにあたって面会する場所まで、予知魔術師に与えられた枷がそれだった。視覚を失わせ、聴感を閉ざし、肌から感覚という感覚を拭い去る。
目元にぐるぐると、包帯のように巻かれた真っ白な布には夥しい魔術師式が書きいれられ、耳元で揺れる飾りには恐ろしい程の魔力が灯されている。最後に首に直に書きいれられた封印式が、リトリアから皮膚感覚そのものと、声を奪っていた。ジェイドに抱きあげられた状態の少女にそれを成したのは、部屋に集っていた錬金術師たちだった。エノーラ、キムル、そしてパルウェ。キムルがリトリアの目元に布を巻き、パルウェが少女の耳に飾りを揺らし、エノーラがその指先に滲む血でもって感覚遮断と声を失わせる魔術師式を、そのやわらかな肌の上に書きあげた。
だいじょうぶだよ、俺がすぐ傍にいるから。ジェイドがずっと抱き上げてくれてるから。部屋にはレディも一緒に行くし、ラティもいるよ。だから、すこしだけがまんして、リトリア。だいじょうぶだよ、だいじょうぶ。だいじょうぶだからな。泣くように声を震わせて。リトリアの魔力を封じ込めた白魔法使いは、今も傍にいるのだろうか。分からなかった。なにもかも閉ざされた、時間の感覚すら狂ってしまいそうな塗りつぶされた世界の中で。どうしてその意思がいびつに響き、届いてしまったのか。分からなかった。
言葉魔術師、シークの意思だけが。
『カワイソウにねぇ、お人形ちゃん……君はなんにもしてないのに、君こそ罪人ノヨウじゃないカ』
くすくすくすくす、楽しげに。いびつに響く意思だけが、聞こえる。
『カワイソウなお人形チャン』
耳元で囁くように。
『ストルと、ツフィアは』
告げる。
『キミを助けに来てくれないノ……?』
「リトリア」
ふ、と世界に音が戻る。シークの声ならぬ意思ではなく。落ち着いた、穏やかな声が、耳元で囁いた。じわじわと首の、あごの下あたりが指先で擦られているのも感じ取る。ふ、と体に感覚が戻ったのが分かって、リトリアは息を吐き出した。
「リトリア、聞こえるか? ……今、目も外そう。フィオーレ」
「ん。いいよ、ジェイド。問題ない。……リトリア、どう? へいき? 気持ち悪かったり、痛かったりするとこ、ない? ごめんな、魔力は戻してあげられないし、声も出せるようにはまだ、してあげられないんだけど……」
リトリアはぎこちなく頷くことで、いくつかの問いの答えにした。大丈夫です、と伝える声が出ないことがもどかしかった。うん、と申し訳なさそうな囁きがさわりと空気を震わせる。かすかな衣擦れの音を立て、目元に巻かれた布が解かれて行った。きゅぅ、と瞼に力を込めてから、恐る恐る、持ちあげていく。どれくらい、ひかりを失っていたのだろうか。それは一時間にも満たないようにも思え、あるいは数日間続けられていたような気さえした。は、と息を吸い込み、吐き出して、リトリアは何度も瞬きをし、眼前に広がるせかいに意識を宿らせた。
そこは地下牢の一角、に見えた。あるいは孤立した塔の一部屋であったのかも知れないが、その空間を、リトリアは地下牢だと思った。重苦しい意思が頭の上から広がり、全身をずしりと重たくするような、妙な息のしにくさがあったからかも知れない。やけに高くつくられた天井から、等間隔に光の帯が、斜めに空間を照らし出していた。その眩さと、照らし出されぬほのあまい闇の暗さに。息がしにくい。眩暈がした。目の前には鉄柵があり、広大ともするような空間をふたつに隔てていた。光のこちら側と。闇の向こう側。その鉄柵の向こう。ほのあまい闇の中に。一人の男がゆったりと、脚を組んで椅子に座っている。
「ヤあ」
いびつな声で、男はリトリアに笑いかける。ぐしゃぐしゃの、歪んでしまった妙な声の響きで。それがなぜかひどく恐ろしかった。リトリアは震えながらその男の名を胸中で囁く。シークさん。それは声にならなかったのに。言葉として響いたように、シークはふふ、と肩を震わせた。
「久しぶりダネェ、お人形チャン」
男は魔術師の証たる黒いローブをはおることなく、その身を白い砂漠の伝統衣装に包みこみ椅子に座りこんでいた。上下ひとつながりの、薄く軽やかな生地でつくられたガラベーヤ。脚を組み、微笑んで椅子に座るその姿に目立った拘束具はつけられておらず、リトリアの傍で射るような視線を向ける魔術師たちさえいなければ、首に魔術師式を書かれた少女の方がよほど罪人めいていた。苛立った様子で歩み出たラティが、鉄柵を乱暴に足で蹴る。がん、と音を立て、靴底を鉄柵に押し当てたまま、ラティが憎悪すら滲ませる声で黙りなさいよ、と言った。その腰には魔術師らしかぬ長剣が、鞘におさめられていた。
「話しかけて良い許可を与えた覚えなど、ないのだけれど?」
「次に。質問の回答、それに準ずること以外で自分から話しかけてみなさい。燃やし殺すから」
宥めるようにラティの肩を叩きながら、火の魔法使いが指先に燐光を漂わせて吐き捨てる。レディが腕に纏う光の欠片は、あともうほんのすこし魔力を与えられるだけで、恐ろしい程の火となり鳥の形を成すだろう。俺、女子を怒らせるのやめようっと、と言わんばかりの微笑みでフィオーレがじりじりと二人から距離を取り、リトリアの背を守るように立つ砂漠の魔術師筆頭、ジェイドが深々と息をはく。
「二人とも。一応言っておくが、殺害の許可は『言葉魔術師が、リトリアに害成した場合。あるいは場に同席した魔術師を傷つけ、国家に対して反逆の意思ありとみなされた場合』に限られている。忘れないように」
「……条件があることを感謝しなさいよ」
もう一度がつんと鉄柵を蹴り、ラティが忌々しそうな足取りでそこから距離を取る。どうすればその許可に背かない形でうまく殺せるか思い悩む表情で、レディも鉄柵に背を向けて離れていった。二人はそれぞれ部屋の隅に背を預け、怒りをおさめぬまま、くすくすと喉を震わせ笑うシークを睨みつけていた。はー、じょしこわい、ほんと、まじ、こわい、と溜息をつきながら、フィオーレが用意を終え、リトリアの膝上にノートとペンをぽんと置く。祝福を帯びた魔術具はリトリアの意思と繋がり、少女の思考をそのままノートに書き記してくれる。それが正確に起動したことを確かめ、リトリアは不安に揺れる瞳でジェイドを仰ぎ見た。
ペンが文字を書き滑っていくノートを指先で示し、言葉を伝える。
『……ころすの?』
「君を傷つけた場合は、そうして良いと五王から正式な許可がくだされている。安心していい」
ちがう。不安とか、それが怖いとか、そういうことではないのに。リトリアはもどかしく首をふり、言葉にならぬ意識を反映したように動きを迷わせるペンを、じわりと涙の浮かんだ瞳でみた。声が出れば、もっとちゃんと、伝えられるのに。言葉魔術師を殺害してはいけない。その理由を、リトリアは正確には知らないのだけれど。してはいけない、という事実だけは分かっていた。がり、と紙をひっかけてペンが動く。
『だめ』
ジェイドは、ふ、と笑みを深めて君がそう言うなら、と微笑ましそうに告げた。少女らしい潔癖さと優しさが、それを受け入れさせないとでも思ったのだろう。そういう気持ちがないとは言わない。けれど、違うのだ。もどかしい。そんな優しい理由でリトリアは言っているのではないのに。ペンが迷いながら動きかけるのをさえぎるように。くすくすくす、とシークの笑い声が響いた。予知魔術師の魔力の暴走を、利用を恐れるあまり封じ込めた弊害を嘲笑い、哀れむような笑みだった。シークさん。声なさぬくちびるを動かし、リトリアが呼びかける。その、震える意思に。言葉魔術師は勿忘草の瞳を持ち上げ、ゆるく微笑みを深めてみせた。親しげな。毒のしたたる、おぞましい笑み。
「キミたちがとてもトテモ気になっているコトを、最初にヒトツ教えておいてあげようネ?」
「シーク」
エノーラとラティを挑発するな、と言わんばかり厳しい声で名を呼ぶジェイドに、言葉魔術師はアア怖い、と笑いながら囁き、鉄柵の向こうでゆるりと脚を組みかえた。背もたれに体を預け、悠々とした態度で、シークは咎められたことを完全に無視して言葉を響かせる。
「ナニモしていないヨ? お人形チャンハ、ボクのやったことに、なーんにも、してない」
「それは……」
「イイヨ。証明でもなんでも、すればイイ。書いてあげようネ」
フィオーレが鉄柵に駆け寄り、シークへ向かってバインダーと筆記具を投げ渡す。鉄柵と男が座る椅子の間には距離があり、差し出した程度では指先が触れることすら叶わない。シークは微笑み、椅子に座ったままで腰を浮かそうともせず、投げられたそれを受け取った。さらさらと文字を書き入れていく様を見つめながら、リトリアはぼんやりと考える。シークは動くことができないのだろうか。見えないだけで、なにか魔術的な拘束を受けているのかも知れない。リトリアが聞いても恐らくは教えてくれないことであるし、目視だけでは未熟な魔術師たる少女に、それが分かることもなかった。
強制的に魔力を封じられた状態であるから、リトリアの意識は気をつよく持ち続けていないと、ぼんやりとしてしまって思考がうまくまとまらない。あの部屋の中にいた時と同じように。もうその外にいる筈なのに。自由に、してもらった筈なのに。周りには信頼できる親しいひとたちが、守ってくれている筈なのに。ひかりあふれる空間で、ひどく冷えた気持ちで、リトリアは考える。ここは、ひとりきりで、とてもさみしい。
『……カワイソウなお人形チャン』
笑い声が忍び込むように、リトリアに触れていく。声ではなく、空気ふるわせる音ではなく。体の内側から染み込んでくる、それは魔力そのものにすら似て。言葉魔術師の意思が、予知魔術師に語りかける。
『ストルと、ツフィアが、今どうしているかも知らないんだネ……?』
ストルさん。ツフィア。たすけて。
『あのフタリは、キミを』
ひとりきりで。
『助けに来てはくれないヨ……』
ここはさみしい。
「ハイ、書けたよ。どうぞお好きに?」
夢と現を淡く行き来しているかのように、リトリアの意識はどちらが現実なのかで僅かばかり、迷った。どちらにもシークの声が響いている。笑い交じりのいびつな声が。フィオーレが閉じて差し出されるバインダーを投げ渡すように要求し、受け取り、眉を寄せながら確認している。複写式の紙を切り取り、とんとん、と白魔法使いの指先がバインダーを叩いた。告げる。
「正しさのみであれ、偽りは燃え落ちよ」
それは静かな声だった。静かな、静かな声だった。感情という感情がまるで凪いでしまったような、それでいて泣きだしそうな、青く深く染め抜かれ、底が見えない湖面のような声だった。フィオーレはかつての同僚を、今は罪人として鉄柵の向こうに幽閉する男をまっすぐに見据えながら、淡々と声を紡いで囁きかけた。
「正しくあれば祝福を、偽りあれば赤き炎で塵と化せ。火よ、青き火よ……偽りなければ踊りたまえ」
ごう、と音を立て、くらやみを照らし出したのは青い火だった。はらりと黒い塵と化してのひらの中で朽ちていく紙を見据えながら、フィオーレはお前さぁ、とシークに向かって息を吐き出した。
「それを今証明できるなら、もっとはやくしろよ……リトリアがかわいそうだったろ?」
「ボクは最初から、お人形ちゃんが関わってるだなんて一回もいわなかったヨ? 関係あると思うのカイ? って聞いただけだろうに。カワイソウナお人形チャン。だぁれにも信じてもらえなかったんだネ……?」
「お前、なんでリトリアになら話しするって言ったわけ? 答えろよ、シーク」
苛立ちながらも、ひどく静かな声でフィオーレは尋ねていた。あとお前そうやってわざと人が傷つくようなこと言うのもやめろよ、と不愉快げに吐き捨てながらも、その声音には火の魔法使いがみせたような憎悪の色は現れなかった。リトリアは眠りにつく寸前のような、穏やかなまどろみのなかで想う。この二人はもしかしたら、ほんとうに。リトリアが知らなかっただけで。真実、友人同士であったのかも知れないのだと。シークは勿忘草の瞳をそぅっと細め、それまでとはすこし違う穏やかさで口元をゆるく和ませた。
「さぁ……どうしてだったか、忘れてしまったヨ。でも……キミには話したくないネ」
「なんでだよ」
「秘密ダヨ。さあ……さあ、白魔法使い、いいのカイ? こわぁい魔法使いのオンナノコと占星術師チャンが睨んでいるよ」
フィオーレは真顔で、それは分かってるからいまおれふりむかない、と頷き告げた後、そろそろとぎこちなく視線を地に伏せ、深く息を吐き出した。それを最後に、情を切り捨てることにしたようだった。ふと持ち上げられた視線はひどく冷たく、言葉魔術師は満足げに笑みを深める。ソレデイインダヨ、と口唇の動きで告げられるのにも眉を寄せただけで鉄柵から数歩距離を取り、フィオーレはジェイド、と砂漠の魔術師らを束ねる王の側近たる男に呼びかけた。もういいよ、と告げられるのに苦笑して、ジェイドはぽん、とリトリアの両肩にてのひらを乗せる。さあ、と耳元で、やさしい声がリトリアを促した。
「君が聞くんだ」
なぜ『砂漠の花嫁』を誘拐したのか。どうして、そんなことをしようと思ったのか。リトリアの意思を読みとってペンはするすると紙の上を動き回り、文字を書き終えるとぱたりと横倒しになる。リトリアは言葉の書きしるされたノートをシークに向かって掲げ、こたえて、とくちびるを動かした。ぼんやりする。いきがくるしい。めまいが、する。なんにも、うまく、かんがえられない。シークは、哀れむようにリトリアを眺めた。
「キミには分かる筈ダヨ、リトリアちゃん」
ぱちん、と目の前で光が弾けたように。その瞬間、リトリアの意識が澄み渡った。濁され乱されていた水が、きよらかに甘く透き通るように。己という意識が手元まで戻り、呼吸が楽になる。魔力が、ほんのすこし、体を巡って流れるのを感じた。とくとくと流れる血液のように。指先まで届けられる魔力が、リトリアの意識と呼吸を守っている。は、と息を吸い込むリトリアに笑いながら、シークは首を傾げて囁き告げた。
「キミだって、ツフィアを見た瞬間に『そう』感じた筈だ……これはボクたちの本能ダネ。キミがツフィアのお人形チャンであるのと同じように……彼女が、ボクの、お人形さんだった。それだけのコトさ」
「……どういうことだ?」
訝しむジェイドの声に応えることなく、がり、と音を立ててノートにペンが走っていく。
『でも、ツフィアはわたしにそんなことしない……! ツフィアは、わたしを、壊したりなんか……!』
「キミはたまたま、まだ、そうされていなかっただけなのかも知れないダロウ? ツフィアに使われたことがあるカイ? ないだろう? カワイソウにねぇ、お人形チャン。キミは、キミこそが、ツフィアに用意されたお人形チャンなのに。キミはいらないって言われたも同然ダヨ。一度も使われたことがないんじゃネェ……」
『わたしは、ちゃんと……ちゃんと、ツフィアの力になれるもの! ツフィアが、そうしたい、って思ってさえくれれば、わたしちゃんと……できるもの! わたし、ツフィアの助けになれるもの!』
その為にがんばろう、って決めたの。だからわたし、一人前の魔術師になって、ちゃんと、ツフィアの。ツフィアのちからに。なれる。できる。がりがりがりと音を立て、乱れる文字がリトリアの意思を紙の上に刻み込んで行く。かんしゃくを起す寸前の表情で椅子の上で身を強張らせるリトリアに眉を寄せ、ジェイドが指先でフィオーレを呼んだ。なんの話をしているか分かるか、こころあたりは。ない、俺には分からない。レディとラティは。私たちにも。分からない。これじゃまずい。こんな風であれば共謀して疑いを晴らしたとも受け取られてしまう。でも真偽判定の炎は青だと。レディ、あなたも知っている筈。あれは厳密な判定であるが故、ほんのすこしの言葉の差異で結果が分かれてしまうこともあると。そしてあれは言葉魔術師。言葉を、つかう、専門家よ。頭の上で奏でられていく響きを、リトリアは耳にしていながらも視線を向けなかった。
くすくす、笑う声が、耳元で響いている。
『キミは、ツフィアの助けにはなれないよ、お人形チャン……だって』
「ツフィアは、いま」
がっ、と。紙面につきたてるような音を立てて止まったペンに、魔術師たちの囀りが一瞬にして静まり返る。ほんの僅かな空白だった。誰も、リトリアがなんと問いかけ、シークがなにを告げたのかを聞いていなかった。息をつめてレディがリトリアの手からノートを奪い、そこに書かれた文字に視線を落とす。予知魔術師は問いかけていた。ツフィアが、いまどこで、なにをしているのか。知っていたらわたしに教えて。鉄柵の向こう、言葉魔術師が哄笑する。
「アア、カワイソウニカワイソウニ、ダレもキミにソレをオシエテくれなかったんダネ! 君のダイジなツフィアが、ストルが! キミを庇い、キミを助けようとしたタメニ!」
「……ほんと?」
「ツフィアは幽閉され、ストルは拘束サレテイル! キミの無実ガ証明サレヨウト、自由ニなるかはワカラナイ! カワイソウニ、お人形チャン! カワイソウなツフィアとストル、キミを愛したばっかりに!」
自由を奪われ羽根をもがれた。二度と飛び立つことはない。君の愛したあの二人は、君が愛したそれ故に。リトリアは椅子から立ちあがって、鉄柵を背に魔術師たちに問いかけた。
「……ほんとに?」
その喉元には手が触れている。書きこまれた封印式を乱しかき消し、リトリアはおおきく息を吸い込んだ。リトリア、とフィオーレが手を伸ばして叫ぶ。だめだ、やめろ、と告げられるのを拒絶するように。リトリアは己の魔力を解き放ち、その場の全員に叩きつけた。
予知魔術師リトリアに、五ヶ国に対する反逆の意思あり。魔力の封印に、その場に同席した魔法使い二名が対処。意識の喪失。昏倒を確認。協議の後、予知魔術師の封印を決定。しかるべき処置を行い、その身柄は花舞の王宮へ移送。最深部。『棺』と呼ばれる空間に、幽閉が決定。報告は淡々と、魔術師たちの間を流れ。嘆願書をいくら送れども、処分の撤回は、ならず。時だけが、流れた。