トン、と靴底を奏でて、エノーラは『扉』の向こうへ降り立った。ぱたん、と『扉』が閉じられると、膨大な魔力がくるりと円を描いて鎖されたのを感じ取る。国と国、国境、あるいは『学園』を繋ぐ『扉』は、エノーラにしてみれば微細な筆で描いた幾億もの線とも思えるものだった。世界に存在するありとあらゆる色を、糸のように捩り合わせ、布のように織り上げて、空間と空間と繋ぐというでたらめな術を可能にしている。『扉』の形をしていることと、繋ぐ、という性質上、錬金術師ではない魔術師たちは、それを『道』とも受け止めているそうなのだが。エノーラはそれをひどくうつくしい手毬や、紡ぎ糸や、毛糸玉の形で思い描くのだ。閉ざされればそれは、円を成す。ほつれた糸を隠してしまうようにして。
目の奥をちかちか瞬かせる魔力の名残が完全に落ち着くまで『扉』を見つめ、エノーラは未練のない態度で身をひるがえし、花舞の王宮を歩きだした。開け放たれた窓から吹き込む初夏の風に、前髪が乱れるのを神経質に耳にかけ直す。行く、という連絡はしてあるし、エノーラがこの日この時間に『扉』を使うのは五王の命令によるところだ。花舞の王も、王宮魔術師たちも当然知っている筈なのだが、出迎えの者はなく、白亜の廊下はしんと静まり返ってまっすぐに続いていた。遠くで陽気な笑い声が響く。花舞の王宮魔術師たちは明るく、軽やかで、誰もかれもが花咲かすひかりのようだった。大丈夫だよ、と笑いかけ。世界に対する祝福の在り処を、指差し囁き告げるような、魔術師たち。
とりあえず落ち着きという単語の意味を辞書に記載するところからはじめてみようか、だとか。ツッコミが不在すぎてボケという概念がいっそのことよく分からなくなってきたというかボケってなんだっけ花舞魔術師組のなにを示す言葉で単語であるのだっけ、だとか。精神的に元気がなくなったらそうだ花舞に行こう、というか花舞魔術師を呼んできて部屋の隅においとこう一時間くらい。一時間でいい。一時間以上はいらないうるさいから、だとか。言われようとも。散々勝手に言われようとも。花舞に集められた魔術師たちは、その魂の性質が祝福を帯びている者たちばかりなのだ。まっすぐに、ひかりに背を伸ばして、晴れやかに笑う。しあわせに、全力をつくす。そういう者たちが、花舞の魔術師を、名乗る。
白雪には苛烈な者が多い。その魂と引き換えにしてまで譲れないもの、守りたいもの、大切にしたいものを持つ者が白雪の国に引き取られる。それぞれの魔術師としての適性や、属性。魔力量、攻撃性なども重視される。各国に偏りが出すぎないよう、天秤が崩れてしまわないよう、それはごく繊細に調節されるのだが。最後に所属する国を決めるのは、その魂の性質によるところが大きい。エノーラは、だから、白雪の国へ戻ることを認められた。そうでなくとも、恐らく、花舞ではなかっただろう。この国はすこしばかり、エノーラには眩すぎる。憧れに目を細めるように。まっすぐに立つには明るすぎるのだ。
リトリアが、もし。王宮魔術師として微笑むような未来があれば、白雪の国であったのだろうか。ふと頭をよぎった可能性を振り払い、エノーラは深い溜息をついてガツン、と苛立った足音を響かせた。その思考を止めようと思うのに、ぐるぐると感情が渦巻いてうまく停止させられない。砂漠は白雪と同じく苛烈な者が多く、ただし花舞とは真逆の性質すら帯びる。それを奪われれば己の魂すら穢してしまうような、呪いにすら転じる者は砂漠に集められる。王宮魔術師とは、魔力の安定と知識を得て『学園』を卒業した者たちに与えられる新たな檻だ。それぞれの、国のかたちをした枷を。一番しっくりはめられるのは。適切に閉じ込められるのは、どこか。それによって選ばれて、魔術師たちはそれを名乗る。
砂漠では、ないだろう。打ち切った筈の思考が頭の隅に引っかかって、エノーラは眉を寄せて舌打ちをした。立ち止まって額に手を押しつけ、深呼吸をするも、勝手に話しだすような言葉が止まってくれることはなかった。リトリアは普通に『学園』を卒業したとしても、砂漠にやられることはなかった筈だ。それがもし、シークの一件がなかったにせよ。奪われたからとて、世界を呪うような性質ではない。五王はもしかしたら、それに眉を寄せてそうかしらと呟くかも知れないのだが。うっすらと目を開き、深呼吸をしてエノーラは笑った。数年前。リトリアの幽閉が決められてしまうあの日の事件が疑いを持たせるのだろうけれど。あれは呪いではない。あれは、ただ、悲鳴だった。
思い出す。集められた一室でひたすら祈るように仲間たちの帰りを待っていた時間。背をはいずり臓腑を撫であげるような不快感が、不安が、どうしても消えなかった。分かっていたのかもしれない。だって誰もリトリアに告げなかったのだ。ストルの拘束を、ツフィアの幽閉を。あのふたりにどんなにかリトリアが心を預けていたか、その場にいる誰もが、見知っていたというのに。たとえば、苦手な相手とこれから会いに行くのだから、そんな風に心惑わしてしまう情報を与えるべきではない、とか。そんな風に告白をごまかして、先延ばしにして。その結果が足元から天空へたちのぼり、魔力というそれを震わせて消えて行った悲鳴だ。あれは悲鳴だった。呪いとか、そういうものではなく。
怒りや、悲しみですらない。さけびごえ。無残に手折られ、踏みにじられる一輪の花の断末魔。それは反逆ではない。ちがうのに。それを幾度も訴えてなお、五王は、エノーラの女王は、リトリアの自由という求めを退け続けた。いまも。ここへ来る前に願って、切り捨てられた言葉を、エノーラは鮮やかに耳奥で蘇らせることができる。白雪の女王は、己の愛す魔術師にこう告げた。リトリア、ちゃんは。その名をひどく呼び慣れないのだと告げるように、ほんの僅か、眉を寄せて。その呼び慣れなさだけに眉を寄せて、その存在を厭う感情など、どこに抱くこともなく。
『あの場所から……『棺』から出すことはできないわ、エノーラ。聞きわけて』
『どうしてですか、陛下!』
『魔力が、全然制御、できていないって、聞くし……』
それは真実の一端。けれども、それだけが理由、という訳ではない。制御ができていないのなら、『学園』に戻せばいい。それだけの話だ。リトリアは元より、卒業もできない未熟な魔術師のたまごだった。年齢的な幼さだけではなく、魔術師としての成熟が足りないことなど、誰もが知って分かっていた。ならば『学園』に。彼女をどうか、魔術師のたまごたちの檻の中へ。あの場所へ、せめて、戻してあげてください。お願いします陛下、お願い、と必死に頼みこむエノーラに、白雪の女王はすいと視線を反らし、地に伏せてくちびるを震わせた。
『ツフィアを……ツフィアの幽閉をとくことができないなら、同じことになるだけだもの』
魔術師として。完成させてしまう危険は犯せない、と白雪の女王は告げた。
『あの子は必ず取り戻そうとする。ツフィアのことも、ストルのことも。私には、わかるもの……ううん、みんな、みんなわかってる。ツフィアにしたことも、ストルにしたことも、あの子は……許す、許さないとかじゃ、なくて。もうそういうんじゃなくて……取り戻そうとする。だって不当なことだもの。分かってる。あの子の傍からあの二人を取りあげるべきじゃなかった。そんなこと、絶対にしちゃいけないって……私たち、みんな、分かってて、でも……。……やっぱり、許すんじゃ、なかった』
言葉に迷って。考えながら。苛々と、苦しげに、それでいて悲しげに、エノーラに理解させようともせず、白雪の女王は囁き告げた。
『あの子を『学園』に行かすんじゃなかった。許してしまうのではなかった。……ずっと、あのまま、私たちの傍で……』
『……陛下?』
『あの子は魔術師だった。そんなの誰もが分かってた。でも、六年! 六年はここにいたじゃない! 私たちの傍に順番に、来て、それで……なんの問題も起きなかった。リィはいい子だったもの。かわいかった。リィのご両親は確かにあのこを愛さなかったけど、でも、私たちは……何回も、悔いたくらい、あの子が、好きだった。どうして生まれた時すぐ、会いに行った時すぐ、あの二人から取りあげてしまわなかったんだろう。あの二人が、あんな、国を捨てて……恋に走って逃げたようなものたちが、どうして、リィを、愛してくれるだなんて私たちは……どうして……あんなに壊されて、しまうまで……守ってあげられなかったんだろう……ぜんぶ、忘れるしかないじゃない。忘れさせるしか! フィーが、忘れさせてくれて……よかったって、思うしか、なかったじゃない……!』
血を吐くような告白を、エノーラはうまく理解できないままに叩きつけられる。ぐらぐらと意識が揺れた。陛下がなにを言っているのか分からない。分からないのに、不安が、目の前を黒く塗りつぶす。フィオーレは時々、リトリアのことを、リィ、と呼んだ。白雪の女王も、リトリア、ではなく。リィ、という響きを慣れ親しんだものとしてくちびるに乗せていた。この世界で。正式な名をそのまま呼ばず、愛称を呼びあう習慣があるのはごく一部だ。それは神聖なものであるから、特に魔術師の耳に触れさせ、呼ぶことをさせてはいけないのだという。そうすればそれは契約にもなる。妖精の真名と同じ、明かしてはいけない大切なもの。
この、五つの国に砕かれた世界の、王族だけが。名を持ちながら、正式な形ではそれを口にしない。眩暈を感じてエノーラはうずくまった。ああ、と息を吐く。そうだ。リトリアは。あのちいさな、薄紫の、おんなのこ。あのおひめさまを、エノーラは。『学園』に魔術師として召喚される前に、遠目に見たことが、あった。それは春の日であったように思う。雨上がりの瑞々しく麗しい光の中を、五王が肩を並べて歩いていた。それは白雪の国だった。なにか会議があった折りのことであったのかも知れない。詳しくは知らないが、未だ年若い少年少女の施政者たちを、エノーラは憧れと感嘆を持って遠目に見つめていた。彼らが散策していた庭は、一般にも開放されている場所であったので。
リトリアはそこにいた。木の影で大人しく本を読んでいた幼子が、王たちに愛称を呼ばれ、ぱぁっと顔を輝かせ駆け寄っていく様を、中庭にいる誰もが見つめていただろう。薄紫の姫君は花舞の女王をおねえさま、と呼び。楽音の国王をおにいさま、と呼んだ。誰かがエノーラの傍で囁く。あれは行方をくらませた先王方の血を継ぐ姫君であると聞く。花舞の姫君と、楽音の若君の。あの手に手をとって何処へと姿を消したあのお二方の。そんな方がなぜ白雪に。聞くところによると嵐の夜、彼の姫君と若君が城を訪れ、そのまま我が子を託されて行ったのだと聞くけれど。花舞も、楽音も、幼い姫君が身を置くにはまだなにかと落ち着いていない。その間は我が白雪や、星降、砂漠に身を寄せているのだと聞く。
さわさわさわ。花を震わせる淡い風のように、囁く声はきっと届いていたのだろう。楽音の国王は幼子の手を引き、膝をついて座り込みながら、きれいに響く声でリィ、と呼んだ。リィ、おうちに、かえりましょうか。幼子は目をうるませ、うん、と頷いて王たる青年に抱きついた。それは優しい光景だった。なんの曇りもない幸福であるとは、思えなかったけれど。どうしてそれを忘れていたのだろう。思い切り殴られたように痛む頭に手をそえ、よろりと立ち上がるエノーラに、白雪の女王は溜息をついて告げた。
『王族は……たった一人の相手、というのがいるのよ、エノーラ。私は、それを……剣、と呼ぶの。私の剣。わたしの……『傷つけぬ剣』と』
その言葉に。魔術師が感じ取ったのは、怖気立つほどの祝福だった。魔力とは違う。魔術的な祈りの込められた祝福、ではない。王族だけにね、と白雪の女王は静かに微笑む。
『許された……残された、かな。言葉なのよ、エノーラ。私に扱えるのはこのひとつきり。各国の血にひとつ、それはあって、各々で言葉は違うものなのだけれど……その、言葉を捧げられる相手、というのがね、いるの。必ずいるの。この世界のどこかに、いて、巡り合った瞬間に私たちにはそれが分かる。このひとだ、と思うの。心が……魂が確信する。このひとが、私の唯一。たったひとり。『傷つけぬ剣』なのだと』
一番分かりやすく言うと運命の恋の相手かな。同性であることも珍しくはないけれど、と笑い、白雪の女王は囁く。それはこの砕かれた世界に残された王家に対する、世界からの愛で呪いで祝福で守護。そのひとを見つけられることが。そのひとを得られることが。
『……リィにはそれがふたり、いたの』
『ストルと……ツフィア……?』
『忘れてると……思ってた。忘れてるから、きっと、そんなんじゃないって……お父さんと、お母さんみたいって、言ってるって聞いてたから。あの二人の、代わりに……両親、みたいに。愛して。愛して欲しがってて、愛してもらって、そういうのだけだと思って……期待してた、のに』
魔力を封じられ五王の前に連れ出されて、リトリアは半狂乱で叫んだのだという。かえして。ストルさんとツフィアをかえして自由にしてなにもしないでさわらないでおねがいやめてやめてやめてかえしてっ。あのひとはわたしの『透明な水』、あのひとはわたしの『輝ける歌』。わたしの、たましい、しゅくふく、なにもかも、すべて。だからおねがいやめて。じゆうにして。
『……ストルの軟禁は、監視に切り替えることくらいなら出来た。でも、ツフィアは……ツフィアが、せめて……言葉魔術師でさえ、なければ。あのこの願いは叶えられた! 自由だってあげられた! なのに、なんで……っ! なんで言葉魔術師なの……なんで、リィが、予知魔術師だったの……!』
どちらも。自由にしてしまうにはあまりに危険で。そして、たくさんの事件が、起き過ぎていた。祈るように両手を組み合わせて握り、白雪の女王はエノーラに告げる。ツフィアを、言葉魔術師を自由にすることはできない。どうしても、どうしても。なぜならあれは言葉魔術師。砂漠の『花嫁』を穢し惑わし、そして予知魔術師をも言葉巧みに操って私たちに刃を向けさせた魔術師と、同一の適性を持っているから。そして、予知魔術師も。その力が不安定だからこそ自由を与えること叶わず、危険であるからこそ、安定させ完成させてしまうことも許してはあげられない。どうしても。どうしても。完成してしまえばあの子は、今度こそ、どんな手段を使っても彼と彼女を取り戻そうとするでしょう。
『……だから、リトリアを……『棺』から出すことはできない。できないのよ、エノーラ』
『リトリアちゃんが……この世界に』
あなたたちに。
『害を成すから、と……お考えだからですか、陛下』
白雪の女王はそれに微笑むばかりで、答えを告げなかった。けれども、出さない、とはそういうことだ。エノーラはくちびるに力を込めて、泣きだしそうな気持ちで息を吸い込む。それを説明しきる言葉を持たないことが、なによりも歯がゆく、悔しかった。五王は確かにリトリアの幼少を知り、エノーラの知らない時間と記憶を共有している。だからこその判断であるのだろう。それでも、エノーラは違うと言い張りたかった。泣き叫んで説得し続けたかった。あれは反抗の意思ではない。傷つけてしまったかもしれないけれど、あれは。あの瞬間の魔力は。世界に解き放たれた魔力の色彩は、ただただ、悲鳴。それだけで。
あいたいよ、と泣き叫ぶ。その声ひとつきりだった。
『棺』が具体的に花舞の城のどこに位置しているのか、何度訪れてもエノーラは知ることができなかった。ぐるぐると円を成す階段は下へ降りているようであり、上にあがっているような感覚を与える。組まれた石の作りや形、色合い。恐らくは魔術的な仕掛けも施されているに違いない。それも天才と呼ばれた錬金術師、複数名の作。それは歩む魔術師の感覚そのものを狂わせて、いくら慎重に歩めど、どこをどう進んで行ったのかを把握させはしないのだった。エノーラは感覚が狂ったが故の吐き気にくちびるを震わせて、弱々しく溜息をついた。視線の先、もう数歩階段に足を乗せれば辿りつける距離に、粗末な作りの扉がある。空間に無理矢理ねじ込んだような。古ぼけた木の、扉。
深呼吸して、意識を集中して、エノーラはその扉に歩み寄り、一息に押し開いた。トン、と靴音がその先の空間に響きわたる。静まり返った冷えた空気に呼吸を楽にしながら、エノーラは舌打ちをしたい気分で閉じた扉を振り仰いだ。やはり、何度来ても分からない。このいびつな扉がただの、本当にただ普通の扉なのか。それとも魔術師の使う、空間と空間をねじまげ繋いでしまう『扉』なのか。魔力は感じ取れなかった。けれども散々に狂わされてきた後のことであり、広がる空間があまりにも、通ってきた狭い円階段とは印象を異ならせるものであるから。ここが本当に花舞の王城の中であるかどうか、エノーラはいつまで経っても確信を持つことができないのだった。
五ヶ国の外。この世界の外。たとえば『学園』から繋がっている魔術師の武器庫のように。この世界の外に存在する無数の、砕けた欠片のひとつではないと、どうして断言できるだろう。そこはあまりに穏やかだった。半地下の、天井ぎりぎりに灯りとりを兼ねてはめ込んである硝子窓からは、乾いた土と毛足の短い草、細い細い線のように見える青空を確認することができる。天井はひどく高い。両端は乳白色に染め抜かれた壁がそびえ、ひとりで歩くにはゆったりとした幅をエノーラは歩いて行く。行き会い、すれ違うようには、元々つくられていないと分かる幅だった。まるで王墓のようであると思い、自嘲にエノーラは口元を歪める。よう、ではなく。そのものだ。
ここは『棺』と呼ばれている空間。その奥に封じ込められているのは、まさしく。姫君、なのだから。
「……エノーラ?」
ふ、と空間の先から名を呼ばれ、エノーラは深く沈めていた思考と意識を表層へ戻し、幾度か瞬きをして息を吸い込んだ。どう表情をつくればいいのか分からなくて、結局、ぎこちない笑みになる。
「レディ。こんにちは。……あなたは」
なにを、と問いを向けかけ、エノーラは馬鹿みたいと思いながら言葉を打ち切った。廊下の行きつく先に立っている火の魔法使いが、『棺』でなにをしているのかなんて、分かりきっている。監視と、食事の運搬だ。レディは苦笑して空の編み籠を腕にひっかけ、エノーラの元へ歩み寄ってくる。籠からはまだほのかに、焼きたてのパンの香りがした。
「そっか。もう……今日だったわよね」
エノーラが問わなかったように、レディも、錬金術師に訪れた用件を尋ねることをしなかった。五王から命じられたレディの役割は、リトリアの監視と食事の運搬。そして最有事の歯止め役。エノーラに与えられたのは、定期的なリトリアの魔力封じ。それは三ヶ月のサイクルで行われる。肌に魔術式を書き入れ、その魔力が少女の体の外側へ、決して解き放たれないように封じ込めるのだ。それは魔法使い二人にも可能なことではあるのだけれど。力技でぎゅうぎゅうに押さえ付けるか、方向性を惑わして外へ漏れて行かないように調整を重ねるか、というだけの違いであって。結局、やっていることは同じなのだけれど。リトリアの身体に負荷をかけすぎないのは、後者なのである。
そしてそれは、エノーラにしかできない。水属性の錬金術師。それもとびきりの、災厄めいた天才とまで囁かれた者であるからこそ。それが、可能なのだ。けれども属性が火や、風であるなら出来なかっただろう。火は花を弱らせ、風は葉を散らしてしまう。土では逆に芽吹いてしまった。エノーラの属性が水だからこそ、それは溶け込み、めぐる血のように魔力を内側に留まらせる。レディはなんの気負いなくエノーラに歩み寄り、狭い廊下で苦労していき違いながら、その耳元でそっと囁いた。
「いつもの通り、いい子にしてたわ。……魔力の乱れも、無理に……魔術を発動させようとした形跡も、私からは見られなかった」
「そう。……分かったわ」
「ね、どこか分かりやすい場所で待ってるから、終わったら帰る前に声をかけて?」
じつはラティとチェチェリアと待ちあわせをしていて、もしかしたらパルウェも来るって。だからいっしょにお茶でもしましょう、と微笑む、その集いになんで最初から声をかけられていたのかと落ち込みかけ、エノーラは思わず、あ、と呟いた。そういえばラティからなにか手紙が来ていたような気がしたのだが。うっかり実験中に火で燃やしてしまい、声にならない叫びをあげて罪悪感にばたばた暴れたのは、つい昨日のことだった。あれもしかしてそのお誘いの手紙だったりしたのだろうか。エノーラのうっかりを、レディはすっかり見抜いているのだろう。くすくす笑いながら、慰めるように肩に手が置かれた。
「ラティはそんなことくらいじゃ怒らないわよ。エノーラも、時々うっかり放火魔になるのは、皆知っていることなのだし」
「ちょっと、放火魔とか言わないでちょうだい……!」
「うん、うん。……ふふ、じゃあ、待ってるから。待ってるからね、エノーラ」
浮足立って楽しみにしている、にしては切実な響きで囁き落として。レディはまたあとで、と言ってエノーラが来た道を歩き去っていく。ええ、と振り返らず、言葉にはせず、エノーラは振り返ることなく頷いた。大丈夫よ、分かっている。情に負けて連れ出したりなんか、しないわよ。大丈夫。そんなことは。しない。ぐ、と手を握り締めて息を吐き、エノーラは歩みを再開した。廊下の突き当たりはすぐそこにある。その先の一室に。そこから出ることを許されず、リトリアが今日も、歌っている筈だった。食事と、睡眠。その他の生理現象。それをしているほんのわずかな時をのぞいて、リトリアは『棺』に封じられて以来、ずっと歌をうたい続けている。童謡であったり、流行歌であったり、恋歌であった。実に様々な歌を、リトリアはずっと、ずっと歌っている。
リトリアの歌は祝福を帯びる。魔力を灯らせなくともそれは心地よく響いて行く。なぜリトリアがそうして歌っているのか、誰も知らない。五王に問われても、リトリアは微笑むばかりで答えなかったからだ。ただ、ずっと歌っている。扉の前まで来ると聞こえてくる旋律に、エノーラは深く息を吐いた。それは耳に心地よく、聞いていて悪くない気分にはなるものなのだけれど。あいたい、と泣くことをやめて。あわせて、と願い続けることをやめて。そこへ、どんな想いをこめているのか。その感情が、なんなのか。エノーラにも分からない。歌声が響いている。ずっとずっと、途切れることはなく。『棺』で少女は歌っている。それを、きっと。あのふたりは、知らない。
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