その部屋を訪れるたび、エノーラはいつもなにもない、と思う。寝台と、書きもの机と椅子と、本棚と。生活に必要なものだけ、ほんの最低限だけが置かれた部屋だと、そう思う。広々としたつくりの、天井も高くつくられた部屋であるから奇妙な閉鎖感こそないものの、窓はなく、空気はかけられた魔術によってのみ緩やかに循環する、風の訪れのない部屋。純粋な白ではなく、目に優しい穏やかな風合いに染め抜かれた空間に、リトリアがいた。書きもの机の前に置かれた椅子に座り、目を閉じて歌をうたっている。エノーラの訪れに気がついていないようにも、分かっていて目を開こうとしていないようにも、見えた。とうめいに空気を震わせる歌声が、一曲を終えてしまうまで、リトリアは目を開かない。
やがて、ふつり、と旋律が途切れる。夢からさめるように。リトリアはふるりと睫毛を震わせて、その瞼を押し上げた。ぱちぱち、眩しげに瞬きがされる。レディがいた間は歌っていなかっただろうから、目を閉じていたのはそう長い間でもないのだろうが、そうするのが随分と久しぶりのことなのだと、苦心するような仕草だった。リトリアは瞬きとは裏腹な、身軽く椅子から立ち上がると、嬉しそうに笑ってエノーラに駆け寄ってくる。
「エノーラ! こんにちは……! 元気にしていた? 変わりはない?」
腕にじゃれるくように抱きついてくるリトリアを受け止め、エノーラはぽんぽん、と背を落ち着かせるように撫でてやった。この部屋に閉じ込められてから、リトリアはこうして触れてくることが多くなった。ふれあいを拒絶していた『学園』での日々が嘘のように。嬉しげにはしゃぐリトリアに笑い返してやりながら、エノーラはいえ、と内心を否定した。確かに積極的に触れてくることが多くなっただけで、やはりリトリアはその肌に熱を触れさせないでいる。抱きつくのも、撫でられるのもごく慎重に、直の触れあいを避けているままだ。それでもすり寄ってくるのは、さびしくて苦しくて、つらくて仕方がないからだろう。
ストルとツフィアはリトリアに、触れ合うよろこびと安堵を教えた。そして永遠に引き離された。その空白を誰かで埋める気など、リトリアには無いに違いないのだけれど。抱きしめて、とその瞳が訴えている。お願い、お傍にいさせて。離さないで、離れないで、傍にいていなくならないでお願いお願い。お願い。ストルさん。ツフィア、と。花色の瞳が、その混乱と恐怖を拭い去れないのを自覚しないまま、ぐしゃぐしゃに歪んで、エノーラにずっと訴えている。エノーラは震えそうになる指先を一度強く握り、開き、息を吸い込んでから、もう一度リトリアの背を撫で下ろしてやった。
「エノーラ、エノーラ……ね、ね。おはなし、して?」
それでも一度も、リトリアは呼びかける名前を間違えることなく。あまくねだってエノーラに囁き、首を傾げながら椅子に座り直すのが常だった。
「ストルさんのおはなし、して? ストルさん、元気……? 怪我をしていない? お仕事はどんな風にしているの? かわりは、ない? ……また、閉じ込められちゃったり……監視、とか、されたり……嫌なことは、ない? ストルさんは、どうしているの……?」
繰り返されてきた問いだった。リトリアは必ず、ストルのことを聞きたがる。エノーラは椅子を引き寄せてそこに腰かけながら、息を吸い込んで、言葉をえらんだ。
「……ストルに、特に変わりはないと思うわ」
「ほんと?」
「ええ。風邪をひいたとも、怪我をしたとも聞いていないし……ようやく、楽音にも馴染んで来たと誰かに聞いたけれど。最近は大人しくもしているみたいで、監視もとかれたし……このまま、なにも問題を起さなければ、定期的な呼び出しと聴取くらいで、監視が戻されることもないと思うわ」
楽音の王宮魔術師として『学園』から外に出されたストルのことに、エノーラは特に詳しいというわけではない。同僚でないにしては、よく知っている、程度にしか情報が伝わって来ないからだ。ストルは殆ど内定していた星降の国の王宮魔術師の立場から、どういった都合あってのことか、楽音のそれに変更させられた。占星術師としての能力をひときわ開花させやすい彼の国に、いさせるわけにはいかなかったのかとも思うが、エノーラには分からないことだった。ストルの近況は秘されている。楽音の者にしつこく問い合わせなければ、とりあえず生きている、くらいしか手ごたえを得られないくらいには。
監視がとかれたというのも、楽音の王宮魔術師経由の情報ではない。白雪の女王がそっと耳打ちしてくれたからこそ得られた吉報だった。風邪はひいてない、怪我をしていない。大人しくしている、健康かどうかという意味合いであれば、元気にはしている。そんな他愛のない情報を得ることすら、大変な苦労が必要だった。楽音の陛下の厳命が下され、ストルの近況はその国の外に持ち出せない。それを許されていないのだ。咎められない、子供だましのような情報であっても、楽音の王宮魔術師たちがそれをエノーラに教えてくれたのは、錬金術師の口からそれがリトリアに伝わると知っていたからだ。リトリアが求めているからこそ、エノーラが問うのを理解しているからだ。
リトリアの居場所を知り、面会できる魔術師はこの世に三人。魔法使いであるレディとフィオーレ。そして魔力を封じ、その定期的な管理が必要であるが故にそれを許されたエノーラ。たった三人だけだった。
「ストルさんは……」
ほんの些細な言葉を。それでも宝物のように慈しみ、安堵して微笑んで。リトリアは、歌うように囁いた。
「ストルさんは、大丈夫。問題、なんて、起さないもの……」
「……そうかしら」
リトリアがある日突然寮から姿を消し、拘束されたという話を掴んだ瞬間、砂漠の王宮に乗りこんで奪還する為の手段を、ためらわず実行しようとしたような男が。このままずっと大人しくしてくれるとは、エノーラには思えなかった。どうしても、どうしても、思えなかったのだ。
どうもいまひとつ不安なのだと愚痴をこぼしたエノーラに、集まった女性たちはそれぞれに労わりと納得の視線を投げかけ、一様に深く溜息をついた。どうしよう誰からも否定の言葉が出ないんだけどってゆーか怖いからひとりくらいは否定してくれてもいいのよストルはそんなことしない考えすぎだよって、言って、と助けを求めてのろのろと視線を持ち上げたエノーラに、魔法使いたるレディは含みのある微笑みを向け、優雅な仕草で首を横に振ってみせた。
「だってストル、恋人も作らなければ彼女もいないじゃない。告白されても断ってるって聞くし」
「……こいびとと、かのじょって、ちがうものだったかしら」
「手を出してるか出してないか、みたいな?」
そういう意味でもストルは完全に女性関係綺麗よね、と呟くエノーラに、その両脇に座るチェチェリアとロリエスからは白んだ目が向けられた。砂漠ルール、ちょっと意味分かんない、と涙声で呻いたのは、レディとロリエスを挟む形で座っていたラティ。同じくチェチェリアの側に座っていたパルウェからは、砂漠の王宮魔術師が言っちゃいけないことだと思うわぁ、とのんびりとした、至極まっとうな言葉が向けられた。だってええええ、と悲鳴のような声で呻くラティに、火の魔法使いからはいささか不服そうな視線が向けられる。だってそういうものじゃない、砂漠的にはそんな感じだもの、と言わんばかりの視線に、ラティが理解不能というかあんまり考えたくないと言わんばかり、ふるふるふると首をふった。
いいかお前たちその男は私の同僚なんだ、ともうその事実を彼方へ投げ捨て踏みにじりたい感いっぱいの遠い目で、チェチェリアがゆっくりと息を吐く。様々な感情に彩られた息を吐き出され、円卓はしんと静まり返って行った。
「ともかく」
気を取り直したがって告げられるエノーラの声も、どこかうつろに響いて行く。
「ホントのところ、ストルどうなの……? 生きてて元気で病気してなくって、監視とけて自由にしてるの……?」
「自由にはしていない。行動には制限がつけられているし、監視も常時のものがなくなったというだけだ」
未だ単独行動は許されておらず、ストルが一人でいるのは睡眠と生理現象の時くらいであるという。もう見られて楽しいドエムに目覚めるしかないんじゃないかしら、と真顔で考えるエノーラに、お前は本当に天才だな天災という方向性の意味で、という優しげな眼差しを投げかけ、チェチェリアはつまり、と彼の男に対する情報提供を締めくくった。
「落ち着いたが好転はしていないし……することもないだろう。これまでと同じく」
「落ち着いているのは、学園くらいのものか」
ふ、と息を吐きながら呟くロリエスは、現在花舞の王宮魔術師でありながら学園の講師も兼任している。なんでも新入生の担当教員に指名されたらしい。同じ立場であるチェチェリアが落ち着きとはなんだったのか、という視線を虚空に投げかけてうんざりしているのに首を傾げつつ、ラティは身を乗り出し、学園の事務方であるパルウェに問いかけた。
「落ち着いてるの? 学園。今年はうちから……ひと……ううん、新入生が、入ってるけど」
「ロゼアくん、だったわよねぇ……それと、花舞からはナリアンくん。星降からはメーシャくん」
「……うん?」
あれ、そうだったっけ、と指を折り曲げながら首をひねったのはレディだった。
「新入生、三人? 四人だったと聞いてるけど?」
「え? でも講師として指名されたの三人だったじゃない? えっと、なんだったかな……ナリアンくんには、ロリエスでしょ? チェチェリア先輩には、あー……ロゼアくん? で、ラティが担当してるのが」
「えっ、なにメーシャの話していいのっ?」
がっと机に指を食い込ませるようにして身を起こし、砂漠の占星術師、ラティはきらきらの目で己の生徒にしてかつての養い子のことを語り出す。メーシャほんとにイケメンに育ったと思うんだけどねっ、と話しだす口調は、まるきり我が子自慢をする親のそれだった。
「魔力的にもすごく安定しているし、もうある程度なら星詠みもできるようになってるし、座学も結構良い感じの成績で行ってるし! お友達もいっぱいできてるみたいだし、もうメーシャったらさすがすぎる……! もちろん、同年入学のふたりとも仲良しさんだしね。よく三人で話ししてるの見かけるわ。談話室とか、図書館でも一緒なのみたなぁ……一瞬、え? 今年の新入生はなに? 高身長とイケメン度で選んだの? とか思ったけど。なにあの三人組すごい目がしあわせなんだけどどういうことなの……」
「女子生徒が浮足立っているのは確かだな。その点、落ち着きがないといえばないのかもしれないが」
苦笑いで、けれども微笑ましく肩を震わせ、ロリエスは柔らかく目を細めて囁く。
「ナリアンも、特に問題を起さないいい子だよ。私のいうことを、よく聞くし、勉学の成績も今のところ申し分ない。努力家で、素直で、従順だ。……まあ、意思が強いというか、頑固なところもあるが、年相応の反応だと思えばさほどのものでもないな」
「あ、そのナリアンくんだけど。どうも魔法使いなんだって? 寮長から報告来てた。時間ある時に私とフィオーレでちょっと見に来てくれないかって……予定調整してまた連絡いれるけど、魔力とか、どうなの? 寮長がいまはなんとか安定させてくれてるって話だけど……」
「ああ、そうだな……ナリアンは確かに魔法使いだろうよ。一人前に育てるのが楽しみだ」
そしてはやく花舞に就職して、私の女王陛下の為に馬車馬のように働けばいいのにもといそのお力のひとつになればいいのに、と笑顔でなめらかに言い切ったロリエスに、女性たちは微笑んで頷きあうことで突っ込みを放棄した。ロリエスの女王陛下絶対主義っぷりは学生時代からのもので、今更誰が何を言ったからと言って変わるようなものではない。なにより、多忙なロリエスがこうした場に姿を見せてくれるのは稀なことである。ささいなことで気を悪くさせてしまうのは、誰の本位でもなかった。ロリエスは本当に変わらないわね、と全世界の誰が言ってもお前にだけは言われたくなかった、という視線を一直線にその当人から向けられながらも言い放ち、エノーラはチェチェリアに視線を流した。
「先輩? ……先輩の、ロゼアくんは、どんな子なんですか?」
「……ああ」
珍しくも歯切れ悪い、と誰もが感じ、同じ講師であるロリエスとラティがもの言いたげに視線を交わし合う。学園に定期的に通う理由も義務もないエノーラとレディが、すこしばかり疎外感を感じながら視線を交わし、首を傾げる。講師と生徒の相性は最大限考慮されるが、それはあくまで魔術師の適性面が最大項目だ。人間的にあうかあわないか、というのはいざ会って授業を始めなければ分からないことなので、もしかしたらうまく行っていないのかも知れない。無理には聞きませんが、と困惑しながら呟くエノーラに、パルウェがそうじゃないのよねぇ、と溜息をついた。事情を知っていそうな学園の事務方に、魔法使いと錬金術師の視線が向けられる。
「そうじゃない、って? 先輩と相性がよくないとか、反抗的とか、問題児とかじゃないってこと? ああ、遠慮しないで言ってね? パルウェ。私、先輩の為だったらあんまりやりたくないけどその、男子生徒の心を折って性格的に矯正するのもやぶさかではないかなって思ってるの」
「エノーラの、その『あんまりやりたくない』っていうのは、どのあたりにかかってくる言葉なの?」
「え。性別」
男を調教してもあんまり楽しくないんだもの、とくちびるを尖らせるエノーラに、レディはいっそ安心したような微笑みを浮かべ、よかった、と言った。なにが良かったのかはレディしか分からないが、恐らくは友人のあまりの歪みなさっぷりに対して、だろう。突っ込みを放棄した微笑みで、パルウェは再度、ちがうのよねぇ、と否定しながら肩を震わせた。
「まず、先にレディが言ったのは正しいわぁ……新入生は四人よ」
「……担当教員は三人いるのに?」
一度口ごもってから、それについてほぼ黙秘を貫いていた砂漠の王宮魔術師にしてメーシャの担当教員であるラティが、呻くように三人だけど、と言葉を引きついだ。
「もうひとりには……どうしても、担当教員を決められなかったのよ」
「へ? なにそれ」
「……その子は、砂漠の花嫁、だった。シークが誘拐して壊した、被害者の」
強く。感情を抑え込む為に組み合わされて握られた手が、白く震えている。
「助けることは出来たの、生きてる、っていう意味でね。でも、その子は壊されてしまった……高い熱と、体調不良。寝ていても起きていてもずっと咳をするし、全身には痛みが走る。起きることはおろか、立ち上がることもできない。ずっと寝台に伏せてる。……その、体調不良の原因が、制御できない魔力の暴走。暴走、までは行かないかな。ずっと、ソキちゃんの体の中を、ゆっくりゆっくり巡ってるだけだもの。……魔術師として目覚めてしまうまでは、それでも、熱が引いて起き上がれる日もあったと聞くけど、案内妖精が迎えに行ってからは、もう……」
身体が、魔術師、という己の存在そのものに耐えきれていないのだという。少女は学園の一室で眠り、本当に時々目を覚ますだけで、それだけで、ただか細い生を繋いでいるのだった。本人の意識があまりにハッキリしないので、適性検査も、属性すら判明していない。当然、担当教員をつけることも叶わない。迎えに行った案内妖精は、眉を寄せて吐き捨てたのだという。この子は長く生きられないわ。それでも魔術師として『学園』に連れて行かなければいけないの。ここでゆるやかに看取ってやることはできないのか、と問うた妖精に、それを否定したのはほかならぬ本人だった。それは、否定よりも強い感情だったのかも知れない。
離さないで、と泣き叫んで、少女は己を抱き上げていた少年にすがりついたのだという。離さないで、離れないで。ロゼアちゃんが行くならソキもいく。どこへだって行く。いいこにしてるですから、おじゃましないですから、ソキをつれてって。お願いお願いロゼアちゃん。ソキを。一緒に。うん、と少年は頷き、少女を柔らかく抱きしめた。うん、一緒にいるよ。離さないし、離れない。ずっと、ずぅっと、一緒だよ。少女の名を、ソキ。シークの誘拐した『砂漠の花嫁』その当人。少年の名を、ロゼア。『砂漠の花嫁』の傍付きにして、誘拐事件に巻き込まれたもうひとり。チェチェリアの担当する、太陽属性の黒魔術師だった。
「とても素直な……魔術師としての成長も、安定も、ずば抜けてはやく、優秀な……座学も実技も、これ以上なく、優秀な……落ち着いた、穏やかな、少年……青年、で、あると、思う」
ただ、と言葉に迷いながら、チェチェリアは言った。
「ソキが……今はまた落ち着いたが、ソキの体調が一度、悪くなったことがあった。昏睡して、衰弱、した、時に」
一緒に死んでしまうかと思った、と恐れるような声で、チェチェリアは眉を寄せて囁いた。
「ずっと部屋から出てこなかった。鍵をかけて閉じこもって……どうにか合鍵であけた時、ロゼアはソキを膝の上に抱いて、撫でて、抱きしめていた。ウィッシュが……白雪のウィッシュだ。知ってるだろう? 彼の前歴は『砂漠の花婿』だ。どうもロゼアともソキとも顔見知りだったようで、緊急で呼び出されて一緒にいたんだが、その時に彼はふたりをみて……枯れかけてる、と言った」
「枯れかけてる?」
「『砂漠の花嫁』の……あるいは花婿の、死をさす言葉だそうだ。花は枯れる。そして彼はこう言った。本来、一度枯れかけてしまった花がよみがえることはないのだと。ソキは……『あの状態の花嫁から、傍付きを離すと、駄目だよ。すぐ枯れちゃう。離すっていうのはほんとに物理的にね。離れると駄目だから、しばらくロゼアをあのままにしておいてあげて』と」
お願いだよ、チェチェリア。そっとしておいてあげて、と。うつくしい青年はチェチェリアの両手を握り、すがるように、懇願するように囁いた。じゃないとソキは枯れちゃう。扉も閉じておかないと。ひとの気配がソキに負担になるんだよ。だからロゼアは閉じてた。お屋敷だと、ほんとに枯れかけないと許されないことでも、しないともう耐えられないって判断したからだよ。おねがい、ソキを枯れさせないで。掠れた声の願いを聞き届け、扉が閉じられて、数日後。ロゼアはお騒がせして申し訳ございません、と部屋から出てきて、チェチェリアに頭を下げた。
もう大丈夫なのか、とためらいがちに問うチェチェリアに、ロゼアは甘く微笑み眠らせてきましたから、と言って授業を受けて。終了と共に、その部屋へ駆け戻って行った。座学の合間に、実技授業の終わりに、ロゼアは今でもそうしているのだという。そういう風であるからロゼアの交友関係は狭く、親しいのも同じ新入生の二人くらいであるとも、チェチェリアは言った。その二人がどうにか、孤立してしまいそうなロゼアと周囲の橋渡し役として、また支えとして頑張ってくれている。ロゼアも排他的な性格ではないから、時間はかかるが、ほどなく周囲ともなじむだろう。
問題はソキの方だ、と学園に関わる魔術師、四人が意見を一致させて息を吐く。そんな風だから、ソキは一度も部屋から出たことがない。暖められた空気がゆるゆると循環する部屋の中、ただ伏せて、眠っているだけだ。周囲に興味のない一部の生徒は、新入生が三人だと思っている。ロリエスはそれでなんで学園が落ち着いてるって言えちゃったの、とうめくエノーラに、花舞の黒魔術師は微笑んで告げた。
「過度な問題が、起きていないからだよ」
ソキのことにしても、ロゼアのことにしても、個人の事情で片付けられなくはない範囲である。私たちがいた時のような、あの懐かしくも厭わしい空気は、今の学園にはないのだと。囁き告げるロリエスに、パルウェたちも同意して。レディがそう、と呟いたのを最後に、新しい言葉は落とされず。そのまま、茶会は解散となった。
暖められた空気が、微笑むように身じろぎをする。羽根で頬をくすぐられるようなあまい感覚に、ソキはぎこちなく瞼を押し上げた。のた、のた、まばたきをして、怖々と息を吸い込む。信じられないくらい調子が良いのか、喉も肺もどこも軋まず、痛まず、咳き込むことはなかった。けれども寝台に伏せた体を起こすことがどうしてもできない。ん、んぅ、とむずがって、なんとかころり、とねがえりをする。はぁ、と大きく息を吐き出すと、窓を開けて空気を入れ替えていたロゼアが、勢いよく振り返った。
「ソキ」
「ろぜあちゃん……」
「ソキ、ソキ。……顔色がいいな。調子がいい?」
すぐに寝台に乗りあげてきたロゼアの両腕が、ソキに伸ばされてその体を抱き上げる。あたたかな手は頬に触れ、首筋に押し当てられ、耳を撫でてくすくすと笑いながら額が重ねられた。ロゼアがあんまり幸せそうなので、ソキもうれしくて、くちびるを緩める。
「ロゼアちゃん。ソキね、きょう、お体、いたく、ないんですよ。咳もね、でないです。えらい? えらい?」
「えらいよ。すごいな、ソキ。いいこだな」
「でしょおおぉ……!」
震えるように。窓の外では葉が風にこすれる音がしていた。緑と、水と、土の匂いがする。森の中みたい、とソキは思った。この『学園』は森の中にひっそりと眠る古城のように、豊かな緑に囲まれているのだと聞く。うつくしい花が咲き乱れる園も、とうめいな水が満ちる泉も、その森の中にはあるのだと。朝早く出歩く者もいるのだろう。風に乗っていくつもの囁きが聞こえてきた。それは随分久しぶりに触れる、他者の気配だった。ざわざわとして不調を積み重ねていく、騒々しさとは違う。やさしいひとのざわめきと、生きている、気配。
「……ねえねえ、ロゼアちゃん」
「うん?」
そっとソキの体を寝台に横たえながら、ロゼアもその隣に寝転がってくれた。朝食や、授業まではまだ時間があるので、ソキと一緒にいてくれるつもりなのだろう。朝食も可能な限り、ロゼアは部屋で食べてくれる。ソキでも口にできそうなものを選んで、一緒に、食べてくれるのだ。うふふ、と淡く笑いながら、ソキはロゼアの首筋に、頬をぴとっとくっつけながら聞いた。
「がくえん、ってどんなところですか? じゅぎょう、って、ロゼアちゃんが、ソキに教えてくれた、きょーいく、とは、ちがうです? じつぎって、んと……んと、閨教育、の、ああいうの、とは、ちがう……? どんなひとが、いるです? まじゅつしの、たまごさんって、いうのは……」
「ソキ」
「こわ……こわく、ないです? いたいこと、しない? ロゼアちゃん、ろぜあちゃんは、いたいこと、されない……?」
涙ぐみ、震えながら問うソキを守るようにかたく胸に抱きよせ、ロゼアはされないよ、と囁き告げた。大丈夫。怖いことも、痛いこともないよ。皆、優しいよ。ひどいことは誰もしない。だから大丈夫だよ、ソキ。ソキ。震えて怯えるソキを宥めるように撫で、ロゼアは幾度も囁いた。誘拐された先でなにをされたか、ソキは多くを語らない。たくさんの言葉を発するだけの体力すら、保護された当時はなかったからだ。ロゼアもそれを知らない。けれども、ただ。瞼の裏にその光景が焼きついている。ようやっと辿りついたあの部屋で、くらやみのなかで、ソキは。魔力の水器を砕かれ、壊されきって、その激痛に、衝撃に、息だえる寸前だった。
もうすこしキミがはやく辿りつけば、間に合ったのかもしれないネェ、と嘲笑うように。告げた男に、ロゼアは熱の刃を叩きつけた。それは暴走ではなく。目覚めたばかりの魔術師として、それでも制御しきった力の流れ。熱の刃だった。彼の男はそれでも、一命をとりとめ、幽閉されていると聞く。その男の名も、姿も、どうしてかロゼアは、うまく思い出せはしないのだけれど。塗りつぶされてしまったかのように。きちんと書きとめておいた言葉が、ぐしゃぐしゃに塗りつぶされてしまったかのように。思い出せないままで、いるのだけれど。ソキも、恐らくはそうなのだろう。魔術師に対しての強い恐怖だけを焼きつけられたまま、思い出したかのように怯え、ロゼアの身を案じるのだ。
大丈夫だよ、と囁きながら、ロゼアはソキの髪をいとおしげになでた。
「……すこし眠ろうな、ソキ」
「うん……。うん、ロゼアちゃん。いる? ソキのおそばに、いるです?」
「いるよ」
ずっといる、とロゼアは言った。ずっと、ずぅっと、ソキの傍にいるよ。離れないよ。ソキは心から幸せそうに微笑んで目を閉じ、ゆっくりと深く、息を吸い込んだ。夢をみることはなく。ただ、あたたかな眠りに、守られて沈んだ。