窓のない、外の見えない、光の差し込まない、外部から完全に切り離された部屋に、時間の感覚というものは存在しないに等しかった。この場所に連れて来られて何日が経過しているのか。ふり積もった月日が、何年くらいになっているのか。どれくらい、ストルとツフィアに会えていないのか。リトリアにはよく分からなかった。ただ、ずっと昔のように思う。ストルに大切に髪を梳いてもらったのも、ツフィアに仕方がないわねと苦笑されながらも、行くわよ、と手を差しのべられてそれを繋いで歩いたのも。大切で、きれいで、きらきらした思い出は、ぜんぶ、ぜんぶ、ずぅっと昔に置いてきてしまったように思う。それはこの部屋の外にあった。それで、ずっと、リトリアが迎えに来てくれるのを待っているのだ。
ここにあるよ、とそれらが囁くのは閉ざされた扉の向こう。鍵がかけられ、魔術的な封印もされた、かたく閉ざされた扉の向こう。力のない、魔力を封じられたままのリトリアには、とうてい手の届かない場所に置き去りにされているのだ。どうすればそれに手が届くだろう。どうすればそれを大切に抱きしめたままでいられたのだろう。そうすればひとりきりだって寂しくはなかったのに。愛してくれた記憶をこの胸の中にちゃんと、抱きしめておくことができたのなら。リトリアはきっと、どんなつらいことだって耐えられたのに。どんなことだって出来たのに。思い出が遠くて、いまはもう、なにもできない。
不意に。風がふわりと動いた気がして、歌っていたくちびるを結んで、リトリアはゆるく首を傾げた。誰か来たのだろうか。この部屋を訪れる者は限られていて、その誰もが訪問の予定にはすこしばかりはやいような気がしたのだけれど。正確でない時間間隔しか持たないから、間違えてしまったのかも知れなかった。扉に視線を向ける。はい、と返事をするよりはやく、ためらいがちなノックの音。どうぞ、と囁き告げれば扉はあっけなく、鍵を開かれ足音が響いた。現れたひとを、リトリアはきょとん、として見つめてしまう。
「……だぁれ?」
青年だった。まだ年若い、身長がとても高い青年だ。褐色の肌に、銀の短髪。紫の水晶めいた瞳の、優しげな面差しをした青年である。風の気配がした。風の。魔術の。
「だれ……?」
魔術師であることは間違いがなく、けれども、リトリアには見覚えのない相手だった。青年は困ったように笑いながら戸惑うリトリアの眼前に歩み寄ると、その場に膝をつくようにすとん、としゃがみ込み、その瞳を覗き込んでくる。
『こんにちは。……はじめまして』
やわらかに香る、花のように。意思を灯した魔力が、揺れた。
『俺は、ナリアン。もうすこしで学園を卒業する、風の……黒魔術師。花舞の王宮魔術師になる者です』
「ナリアン、さん……?」
『できれば、あなたの話相手になってくれないかと、女王陛下が……俺で、いいかな』
花舞の女王がそう告げたのであれば、そこにどんな思惑があるにせよ、リトリアにしてみれば命令に等しい。戸惑いながらもこくんと頷くと、ほっとしたように深い宝石色の瞳が揺れた。夥しい魔力を秘めた瞳。フィオーレやレディから感じ取るそれと、同じ印象を青年は持っていた。思わず微笑んで、リトリアは理解する。魔法使いだ。リトリアに面会を許された、三人目の魔法使い。これからこの世界の為の奉仕者となる彼は、数えて三つ目の、リトリアの魔力の封印具に他ならなかった。それでも、まだ学園を卒業しきっていない立場故か。それとも、なにか他に理由があるのか。ただ話相手としか、この青年には告げられていないようだけれど。
リトリアは息を吸い込み、たどたどしく、慣れない響きとしてナリアンの名を紡ぐ。それをきちんと呼べるくらいになった時。この青年はきっと、リトリアの枷のひとつにされるのだろう。
もう授業もないし、試験もすべて終わってしまったから、卒業の日が決まって花舞の王宮へ迎えられるまでは暇なのだ、と微笑んで。ナリアンはよく『棺』を訪れ、リトリアにたくさんの話をしてくれた。来れば必ず三日ぶり、昨日も来たけど今日も来たよ、五日も来られなくてごめんね、と告げてくれるので、ナリアンが訪れるようになってから、リトリアはにわかに日が進んで行く感覚、というのを思い出していた。一日はリトリアの手の届かない、どこか遠くで降り積もり、死んでいくのだけれど。その数を数えられる。時の流れがゆっくり、手元まで戻ってくる。そのことを、誰もいない空虚を、さびしいと。くるしいと、つらいという、感覚まで、ゆるゆると戻ってきたのだけれど。
リトリアがそれに押しつぶされてしまう前に、ナリアンはトン、と扉を叩き、風をまとって現れる。こんにちは、リトリアちゃん。おはなし、してもいいかな。目を会わせて、柔らかく微笑んで。ひとりきりのさみしさを、ほんのすこしだけ、忘れさせてくれるひとだと。リトリアは、ナリアンを、そういう風に感じ始めていた。
「……手間、ではない、ですか?」
『手間?』
おかしな言葉を聞いてしまった、という風に笑って。ナリアンは運び込んで来たマグカップに温かなココアを注ぎ入れ、リトリアの前にことん、とおいてくれた。外は冬であるらしい。『棺』には常に暖かな光が満ち、温度も一定で穏やかなばかりだから、寒さも感じたりはしないのだけれど。今日は冷えるから温かくしてね、と笑うナリアンの手渡してくれたブランケットが陽の熱を宿していて。湯気のたつココアは、すこし熱いくらいで。体も、指先も、冷えていたことを思い出してしまったようで。泣きそうになりながら、リトリアはこくん、とココアを飲みこんだ。あたたかくて、あまくて、とてもおいしい。
「ここへ来るのは……許可が必要、でしょう? その、申請とか……なにか持ってくるのも、お話する内容、だって」
『俺はそんなの、手間だなんて思ったことないよ』
ふ、と大人びた表情で。仕方がないなぁ、と言わんばかりの微笑みで、ナリアンはリトリアの向いの椅子を引き、そこへ腰を落ち着かせた。
『俺は確かに女王陛下の頼みでここに来ることを許されたけど……ずっと通ってるのは俺の意思だ』
「どうしてですか……?」
『……俺は、君のことを知ってたよ。君に会う前から』
リトリアの問いに笑みを深めて囁き、ナリアンはおたべ、とクッキーを差し出した。白い小皿にざらりと袋から流しだされただけのクッキーは山になっていて、どれも形はいびつだったけれど、とてもおいしそうに焼き上がっていた。
『俺の担当教員は、ロリエス先生。……先生は、時々、君の話をしてくれた』
「どうして……? どんな、おはなし?」
『どうしてかな。俺が……話を、してみたいけど、それがうまくできない子がいて……どうすればいいのかな、って相談したから、だったような気がする。俺のね、同期は……三人いて。ロゼアと、メーシャと、ソキちゃんっていうんだ。ロゼアとメーシャは男で、ソキちゃんは女の子。三年半とすこし……今年の夏至の日でもう四年になるけど、その四年間、俺はソキちゃんとこうして話ができたことは、ないんだ』
俺がすごく授業をつめて、忙しく学んだってことはもう話したよね。俺は学園の中でも相当慌ただしく学んだ方だと思うけど、俺にそういう時間がなかったとか、そういうことじゃないんだよ、と目を伏せて笑って。ナリアンは囁くように魔力をくゆらせた。
『入学式の前に、ソキちゃんとはじめて会った時……ロゼアの腕の中で熱を出して、苦しそうに、辛そうにしながら、あの子はうとうとしてた。ソキ、ってロゼアに呼ばれて、うっすら目を開いて、俺とメーシャをみて……恥ずかしそうに笑った。ひとみしりするんだ、ってロゼアが笑って、挨拶できる? ってソキちゃんに聞いた。ソキちゃんはやっぱり、すごく恥ずかしそうに、照れた風に、ほんとにちいさな声で、ソキですよ、って言ってくれた。ナリアンくん、メーシャくん、こんばんは。……ロゼアちゃん、ソキ、ごあいさつできた? ちゃんとできた? って笑って、それで』
うん、ちゃんとできたよ。いいこだな、ってロゼアに告げられて、本当に幸せそうに笑って目を閉じてしまった。ねむたいですって呟いて、それで終わり。それがたぶん、ちゃんと話ができた、最初で最後。ソキちゃんは入学式にも出られなかったし、授業も、もちろん実技もそうだけど座学だって受けたことはないんだよ、一回も。ずっと、ずぅっとロゼアの部屋で眠ってる。起き上がれないんだ。たまに体調が良くて動けたとしても、ソキちゃんは魔術師が怖いって言って、部屋の外に出てこようとはしなくて。話がね、できないんだよ、とナリアンは悲しげに微笑んだ。
『時々、メーシャくんと一緒にソキちゃんに会いに行った。ロゼアに、調子はどう? って聞いて。今日は起きられてる、元気だよ、って言ってくれる日を選んで。おはなししていい? できる? ってお願いして。……ロゼアがソキちゃんを抱き起こして、ナリアンとメーシャだよ、って言ってくれる。おはなしできるか? ソキ。大丈夫、怖くないよって言ってくれて……ソキちゃんは恥ずかしがるみたいにロゼアの背中にくっついて、隠れたまま、俺たちを見てる。ほんとに怖くないのかなって、考えてくれてた。……でも、起きていられないんだろうね。すぐ、うとうと眠そうにして、ロゼアにくっついたまま寝ちゃうんだ。ロゼアはごめんなって言ってくれる。いつも。ごめんな、無理みたいだって。ひとみしり、するんだって。昔から。まだすごくちいさいころは、ロゼアにもそうやってたんだって。大人の、うまれた時から傍にいる世話役のひとの脚にぎゅぅってくっついて、恥ずかしそうにしながら、でもじぃっと見てくれたんだって。どこかへ行こうとすると、寂しそうにするから、嫌ってる訳じゃないんだって……』
ナリアンのことも、メーシャのことも、ソキは怖がってないよ。だから、もうすこし、慣れればきっと。告げるロゼアに、ナリアンはいつも、頷いて仕方がないねと苦笑したけれど。そのもうすこし、の時間を積み重ねるよりはやく、ナリアンの卒業が決まってしまったから。
『手紙のね、話を……ロリエス先生はしてくれたんだ。手紙を書けばいいんじゃないか、って。会って話すことができないのなら、書いて託せばいいんじゃないかって……君のくれた手紙の話も、してくれた。いまも』
それは魔術師たちを繋ぐか細い糸であるのだと。それは今も途切れずに存在していて、リトリアを助けようとしているのだと。ナリアンは戸惑うリトリアに笑いかけ、いつかきっとここから出られるよ、と言った。この『棺』の外へ。きっといつか君を連れて行くよ、と。そう聞こえた気がした。
冬が巡り、春になる。薄紅色の花びらを部屋中に振りまくように、編み籠いっぱいに運び込んで、ナリアンは外はいま皆この色だよ、と教えてくれた。メーシャくんが女の子はお花を見るのが好きだから、きっと良い気晴らしになるんじゃないかなって言ってくれたんだ。俺がリトリアちゃんに会えるっていうことは、本当は誰にも内緒にしておかないといけないんだけど、どうすれば喜んでくれるのか分からないから。こっそり相談したんだけど、どうかな。ナリアンを愛する風によって部屋中に、書きもの机の上や棚の上、その裏側にまで落ちて飛んで行ってふり撒かれた、雨のようにぱらぱらと散っては舞いあがる花びらに、リトリアは声をあげて笑った。お掃除が大変そう、と肩を震わせるリトリアに、ナリアンは俺も手伝うよ、と囁いてはにかむ。
春から、初夏へ。世界が新しい魔術師のたまごを迎える季節。いくつになったのか思い出せないの、と眉を寄せて考えるリトリアに、ナリアンが入学年度の記録を調べてきて教えてくれる。リトリアは、今度の夏至の日で十九になる。何歳でこの『棺』に閉じ込められたのかは、リトリアは尋ねなかったし、ナリアンも言いはしなかった。お祝いをしようか、なにか欲しいものはある、と聞かれて、リトリアは咄嗟に、それを言いかけた。ストルさんに。ツフィアに。会わせて。ここから出して。私を。連れて行って。凍りつき、くちびるを震わせ、やがて悲しげに、ない、と呟くリトリアに、ナリアンはそっか、と息を吐いた。
真夏。そういえばそろそろ、本当に卒業できそうなんだ、と告げたナリアンに、リトリアはそうですか、と呟いた。そうすればナリアンは花舞の王宮魔術師になって。リトリアの話相手はしてくれるけれど。リトリアの、枷のひとつに、されてしまう。ナリアンさん、とリトリアは囁いた。もし、卒業して、とても嫌なことを命令されたとしても。私は大丈夫。私は大丈夫ですから、どうか。逆らわないで。分かりました、と言って。抵抗をしないで。お願いだから。震えながら押し出した声に、ナリアンはリトリアをじっと見て。俺は君が嫌なことをしたくないよ、と言った。はじめて会った時のように。しゃがみこんで、下から目を覗き込むようにして。
夏が終わる。一つの季節が終わろうとする。はじめてナリアンが訪れてから、半年あまり。いち、にい、さん、と取り戻した日の感覚で指折り数え、リトリアは『棺』で目を伏せた。ふるえる手を握り締める。くちびるから歌が零れ、悲しげに空気を震わせていく。訪れる者の足音はなく。はじめて、なんの連絡もなく。半月が過ぎても、ナリアンが姿を現すことはなかった。
檻がある。冷たい鉄の柵。握り締める指を冷やし、骨まで貫いてしまうかのようにそれは冷たい。その奥の暗闇から声がする。
『……カワイソウニ、ネェ』
床に崩れて座り込み、鉄柵を握り締めて泣くリトリアに、声は囁きかけてくる。
『これでまた、キミはひとりぼっちだよ、お人形ちゃん……ミンナ、みぃんな、とりあげられてしまうネ』
光はなく、風はなく、熱はなく。
「……傍にいてなんて、わたし、いわなかったもの」
檻の向こうにも、こちらにも、誰もいない。
「会った時、から、ちゃんと……わかってたもの……!」
くらやみに閉ざされて。
「だからお願いしたのに! わたし、ちゃんと、逆らわないでって……! おねがいしたのに!」
『キミの言うコトを、聞いてくれるヒトなんていないのさ。結局、だぁれも』
ひとりきりだ。むこうも。こちらも。
『……まあ、もうすこしイイコで待っておいでよ、お人形ちゃん』
互いに鎖されていて。
『またツフィアに歌ってあげたらどうだイ? 予知魔術師の歌は、ボクたちのチカラを強めテくれる……同時に、キミたちの歌声はボクらの呼び声なのサ。いつか教えただろう? リトリアちゃん』
誰も、傍に、いない。
『会いたければ歌えばイイ。ツフィアには聞こえている筈ダヨ。キミの歌がネ』
誰の声も届かない。互いのもの以外は。
「……シークさん」
泣きながら、リトリアが囁く。
「ストルさんに、会いたい……ツフィアには、歌を届けられるけど、わたし、ストルさんには……なにも……できない、の」
『ウン』
てのひらが。闇の向こうから、檻の間から伸びてきた手が、リトリアの頬に触れる。
『会わせてあげるヨ。ボクが。必ず』
「……うん。うん、うん……うん……!」
だからチカラを貸してくれるネ、と囁く男の声に。リトリアは泣きながら、うん、と頷いた。
瞬きの間に秋が終わり、世界には冬が降りて行く。『学園』は定期試験を終え、二ヶ月の長期休暇を無事に巡らせ、数日前から新学期が始まっていた。二月も半ばを過ぎた頃。寒さに身を震わせながら落ち着いた空気が漂う時期、メーシャは親しい先輩や同年代の友人らと共に、談話室で会話に花を咲かせていた。話題は様々だった。魔術のこと、魔力のこと、授業のこと、担当教員のこと。長期休暇にはなにをしていたか。言葉は弾み、尽きることはなく、しかしふとした瞬間に影を落として鈍くその場に留まらせた。誰かが言ったのだ。メーシャに気遣わしげな、それでいて淡く期待の籠る眼差しを向けながら。なあ、と申し訳なさそうに。
「メーシャは、ナリアンがなにをしてるのか、知らないか……? アイツさ、急にいなくなったろ? 卒業、花舞に行くって決まってたから……連絡したんだけど、返事なくて。本、さ。借りてたから、返したいんだ……俺とか、あんまり……そんな、すごい親しくなかったから、名前見て、もしかしてうまく、思い出せなくてさ。忙しくて手紙も読んでなかったり、すんのかも知れないけど……メーシャなら、なんか、連絡……できるだろ?」
卒業したての王宮魔術師と音信不通になってしまうことは、残念ながらよくあることだった。彼らが無視するわけではない。あまりに多忙な日々に押し流され、連絡する、ということが難しいだけだった。どんなにまめな相手でも、一カ月で手紙が戻ってくれば良い方で、だいたいは半年か、長ければ一年近くは風のうわさだけが近況を知らせるすべてなのである。あるいは、そこそこ余裕が出てきた花舞の王宮魔術師たちに問い合わせるか。彼らもまた、通ってきた道だ。苦笑しながらも教えてくれるのが通例だった。けれども、誰もそれをしようとはしないのだった。遠慮があるからではない。ナリアンが姿を消したのはあまりに唐突で、なんの前触れもなく、荷物すら部屋に残されたままだったのだ。
手紙を無視してしまうだなんて、誰かからの言葉に反応をしないだなんて。そう親しい相手だったからといって名前を思い出せないことなんて。そんなこと、ナリアンには絶対にない。喉奥まで出かかった悲鳴じみた言葉を、けれどもメーシャは飲みこんだ。ナリアンはそんなこと、絶対にしない、と思うのだけれど。じゃあどうして、と問われた時に、なにも言葉を持っていないのだった。ナリアンは本当に、花舞の王宮魔術師として迎えられたのだろうか。半年前。まだ暑い、夏の日。姿を消す前日。メーシャはひどく青ざめた顔で泣きだしそうなナリアンの姿を、遠目に見ていた。吐き気を堪えているような、限界まで耐え抜いた悲しみに心を浸しきってしまったような、寂しげな苦しげな悲しげな、不安定な姿だった。
声をかけるのをためらううち、ナリアンはふらり、と歩いて部屋の中へ消えてしまった。その後を淡く、妖精の光がついて行ったことを思い出す。あれはきっと、ニーアだ。ナリアンに恋する案内妖精。ナリアンがもっとも心を砕き、いとおしく思う少女。ニーアが傍にいてくれるなら、大丈夫。明日になったら朝食の時にでも声をかけて体調を聞いてみよう。もう卒業なんだから、気をつけて、それで。言葉を考えながら、どうして、その日のうちに扉を叩かなかったんだろう、とメーシャは何度もくいた。真夜中のことだった。ばたばたと寮をひとが走りまわる慌ただしい気配がした。なにごとかと起き出す誰かの声。訝しげに問う声に、聞いた覚えがあるような、ないような落ち着いた響きで返答がある。
寮生は扉を閉めて、誰も廊下を見ないで、朝まで過ごすこと。この夜に起きたことは全て忘れなさい。すべて。問うことも、覚えていることも、私たちにも、あなたたちにも、許されることではないの。ナリちゃん、と悲鳴そのものの声で妖精が叫んでいる。ナリちゃん、ナリちゃん。いかないで、いかないで、いかないで。ニーアをおいていかないで、ニーアも一緒につれていって。ナリちゃん、私はここ。ここにいるの。ナリちゃん、ナリちゃん。薄く開いた扉の隙間から、どくどくと怯える心臓を宥めて、メーシャは廊下を盗み見た。広くはない廊下の一角に集っているのは王宮魔術師だろう。見覚えのない黒いローブに身を包んだ男女が五人ばかりと、花舞の王宮魔術師たちが何人も、廊下を走り回っていた。
ニーア、と誰かが泣くような声で妖精を呼んでいる。落ち着いた声の響き。あれは確か、ナリアンの担当教員だ。泣き叫ぶように明滅する光を両手で包むように抱き寄せ、そっと囁きかけている。ニーア、ニーア、すまない。すまない。私は守ってやれなかった。また私は、守ってやることが出来なかった。ナリアン。私の教え子。私の。ゆるゆると風が吹いていた。夜の静寂をかき乱す風。花守る風が吹いていた。甘い香りをふりまきながら、泣き叫ぶ者の頬を撫でるように。ナリちゃんナリちゃんナリちゃんっ、妖精が叫ぶ。ニーアも一緒に行くわ、今度こそ。だからねえ、ナリちゃん。妖精が虚空に手を伸ばして叫ぶ。連れて行ってナリちゃん。誰より、なにより、あなたのことを愛してるの。あいしているの。ナリちゃん、ニーアは、あなたを。あなただけを。愛してるのナリちゃん、一緒にいたいのっ。悲鳴。いくつもの悲鳴。ごう、と風が鳴った。
ナリアン、連れて行くな。ナリアン、とロリエスが虚空に手を伸ばして叫ぶ。そんなことをしたらお前は本当に戻れなくなる。私も、誰もお前を守って、誰も、もうお前に触れて、話を、愛してやることだって。だめだ、と震えながら叫ぶロリエスの体を、誰かが抱きしめたように、メーシャには見えた。一瞬のこと。窓を鳴らし、寮を揺らすように。風が吹き荒れ、そして消えた。ニーアの姿はいつの間にか消えていた。ロリエスが震えながら廊下にしゃがみ込み、動けなくなったその体を寮長が守るように抱きしめたのを見た。どうして、と響いていたいくつもの問い。どうしてこんなことに、どうして。誰もこんな風になることを、望んでなんて、いなかったのに。
翌日、ナリアンは花舞の王宮魔術師として迎えられた、と寮長が発表した。事情があってナリアンだけ先に移動した。荷物は後日、手が空いた花舞の者が運んで行くことになっている。誰もナリアンの部屋には立ち入らないこと。また、これに関しての質問はいっさい受け付けられない。泣きはらしたような赤い目で、ひどく苦しげな声で告げるシルに、誰も、なにも言えなかった。ナリアンの荷物はすこしずつ運び出されて行く。花舞の王宮魔術師たちの手によって。どこかへ運び出されて行くその様を手伝いもせず、シルがナリアンの部屋の扉にてのひらを押しあて、じっと、祈っているような姿をメーシャは何度も見ていた。やはり、声がかけられなかったのだけれど。すまない、と低い声で紡がれた響きが、どうしてか耳の奥にこびりついている。
すまない、ナリアン。俺はお前の――、だったのに。お前を留められず、守ってやることもできなかった。すまない、ナリアン。すまない、ロリエス。すまない。ごめんな。ごめんな、リトリア。俺たちは、また。それにメーシャは声をかけることができずに。ただ、見守っていた。いつもいつも、メーシャはそうして、見ていることしかできなかった。もしかしたら、あの時。手を伸ばして、声をかけて。どうしたの、でもいい。なんでもいい。声をかけていたら。諦めないでいたら。たった一歩、踏み出す勇気があったのなら。なにかが変わっていたのかも知れないと、そう、思いながら。押しつぶされるように日々を過ごした。ナリアンと、あんなに親しかったのに。メーシャの元にも、未だ連絡がないままだった。なにをしているのかも知らない。本当は、ナリアンが、どこにいるのかすら。メーシャには分からないのだった。
がたん、と扉が揺れる。談話室の扉が、強い風に叩かれたかのように。驚いたように振り返りながら、メーシャは呼ばれたようにその場から立ち上がった。うん、メーシャくん。急いで。お願い。大丈夫だから。きっとまだ。俺たちは間に合う筈なんだよ。そう囁く声がなぜか聞こえた気がして。メーシャは友人たちに声をかけ、談話室を走り出た。二階へあがっていく階段を仰ぎ見る。そして、消えて行きそうな背へ、呼びかけた。
「ロゼア!」
階段の中ほどで振り返るロゼアは、ぐしゃぐしゃの顔をしていた。泣いてはいない。けれど。泣いていないのが不思議なくらいの悲痛な、青ざめた顔をして、ふらりとよろけるようにして、そこに立っていた。階段を二段飛ばしでかけあがって、メーシャはロゼアの腕をつかむ。ひさしぶりに人に触れた気がした。ひさしぶりに、誰かの近くにいる気がした。ロゼア、と迷いながら、メーシャは息を吸う。
「……話してよ、ロゼア」
そうだ、とメーシャは思った。これでよかったんだ。こんな簡単な言葉で、よかったんだ。分からないよ、って言えばよかった。なにを苦しんでいるのどうすれば助けられるの。苦しまないでいて、助けたいんだ。そう言えばよかったんだ。
「ロゼア、ロゼア。どうしたんだよ……どうして、そんな」
「メーシャ……おれ」
ふらふらと定まらない視線で、ロゼアがメーシャのことをみる。ようやっと重なった視線に、メーシャはただ、息を飲んだ。仄暗い影がロゼアの瞳に落ちている。諦めとは違う。悲しみでもなかった。苦しさ、というにも、その感情には足りない。届かない。これと同じものを見たことがあった。ああ。これは。ナリアンが居なくなる数日前に覗きみた感情。
「おれ」
それをひとは。
「……卒業が、決まったんだ。メーシャ」
絶望、と呼んだ。