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 くらやみにとじこめられたので。花は、枯れてしまう、と思ったのだけれど。紡いだ糸が竪琴のように音楽を奏で、それを奪われた花の慰めに。旋律はやがて水辺で舞う風を引き寄せ、乾いた喉をほんのすこしうるおした。いままた、奪われてしまった花は、くらやみのなかで泣き声を聞く。どこかで、この鎖されたくらやみのどこかで、うばわれた花が泣いている。
『……サア、キミも歌ってごらんヨ。ボクのかわいい、お人形サン……?』
 声がする。花をくらやみに導いた声が。花をくらやみから導いて行こうとする声が。囁いている。花に。
『みぃんな、ダメだって言うネ。ヒドイねぇ……みぃんな、キミから奪っていこうとするヨ』
 うばわれた花に。
『……キミの、大事な、ダイジナ』
 花に。
『ロゼアくんを』
 花嫁に。



 くらやみにとじこめられたので。ソキは枯れてしまうんだ、と思った。幸せになる為に育てられたのに。幸せに咲く為に磨き上げられたのに。その献身に、その想いに、なにひとつ応えることができないまま、しあわせな腕の中から引き離されて。つめたくて、こわくて、さびしくて、くらい、その場所で。ロゼアにもう二度と会えないまま、胸に秘めた思いの一欠片すら、残すこともできないままに。その時、ソキは、枯れてしまうんだ、と思った。だって体中が痛くて、息さえうまく出来なかったのだ。それがはじまったのは星祭りの日、街に出た輿持ちの男たちと共に、このくらやみに導かれてしまった時からだった。ソキの髪に結ばれた、赤いリボンが解けてしまったからだった。赤いリボン。ロゼアが贈ってくれた。
 ソキの髪からするりとほどけてしまった、風に飛ばされて消えてしまいそうになったそれを、ロゼアが追いかけて手を伸ばしてくれたのが最後の光景。ロゼアが振り返るより、戻ってくるよりはやく輿が揺れた。みつけた、と笑い声がして意識が途絶える。それが最後。ひかりのなかにいた、ロゼアとソキが共にいた、最後の光景、最後の記憶。次にソキが目を覚ましたのは、もうくらやみの中だった。寝台にぽんと放られたような姿で目を覚ましたソキに、男が手を伸ばしてなにかを告げた。なにかを。雑音のように上滑りしていった言葉たち。くらやみが怖くて、知らないおとこが怖くて、そこで言われる言葉など、なにひとつソキは聞きたくなかったし、分かりたくもなかった。理解を拒否した。だからそれは雑音だった。ひどく耳障りな、こわいこわい、いやな音でしかなかったのだ。
 ロゼアちゃん、と呼んでソキは泣いた。ここはどこ。くらいの、そき、こわい。このひとはだれ。しらないひと、そき、きらい。ロゼアちゃん。どこへいったの。ロゼアちゃん。ソキ、ここにいるですよ。ソキはここですよ。ねえねえ、ロゼアちゃん。ロゼアちゃんロゼアちゃんろぜあちゃんやだやだこわいのこわいこわいこわい、たすけて。たすけてたすけてロゼアちゃん。ひたすら、くらやみに手を伸ばして。ひかりを。その存在を。求めたソキに、男はまたなにかを言った。雑音、だとしか思えなかったので。ソキはなにを言われたのかすら分からなかったのだけれど。胸に、手が伸ばされて。信じられないくらいの痛みと共に。それ、が抜き取られたのは、その時だった。それは一瞬、うつくしく輝く、花のように光咲いた。
 月の光にくちづけられて咲く、麗しい花のように。ほっそりとした線を描くように光をこぼし、それは花咲くように男のてのなかへ奪われた。雑音。男が指先を折り曲げて、それを強く握り締める。ぱき、と音がした。ぱきん、と心臓の近くから。ソキの体の内側から。ひび割れる音がした。痛みに。どうしようもない痛みに泣き叫ぶソキに、男がまたなにかを告げる。笑うように。哀れむように。嘲笑うように。響く、響く。雑音。ロゼアちゃん、とソキは泣いた。いたいです、いたいです。ロゼアちゃん。こわいです、こわい。こわい。いたい。ぐ、と指に力が込められて。雑音。ぱきん、とまたひび割れる音がする。ぱきん、ぱきん、ぱきん。ぱき、ぱきっ。
 ばきんっ、と最後の一欠片まで、砕かれて。体中、指先まで、足先まで冷えて、痛くて、動かせなくて。引きつった喉はうまく息を吸い込んでくれない。ソキはそこで一度、途絶えた。ふ、と世界のなにもかもが遠くなって。冷えて凍って消えてしまった。そう思ったのに。ソキ、と叫ぶ声が乾いた喉に、弱く咳き込むだけの力を与えて響く。ソキ、ソキ、と叫ぶ声に、震えるまぶたを、ようやっと持ちあげる。そんな風に取りみだす声を。どんな風に、必死にソキを求めてくれる、ロゼアの声を。うまれて、はじめて、聞いたので。ロゼアちゃん、と呼んだ声が届いたのだろうか。何度も何度も呼んで、いままた、咳と共に掠れた声は。震えて伸ばした指先は、求めている、と伝わってくれたのだろうか。
 くらやみのなかに、ロゼアが立っていた。ソキに手を伸ばして、駆け寄って来てくれる。ぐったりとしたソキを抱き上げて、強く抱きしめる腕が震えていた。ソキ、ソキ。冷えた体に熱を与えるような、ぬくもりの中で、ソキは男がよろけながら階段を上っていくのを見た。足元には点々と血が。男は哄笑していた。狂ったように。手遅れダヨ。はじめてハッキリと声が響いた。キミのお姫サマはもう手遅れダヨ。男は階段をのぼっていく。重たい足取りで。点々と血を床にまで滴らせながら。ロゼアは男を振り返らなかった。寝台に乗りあげてソキを抱きしめ、ただただ、繰り返し名を呼んで来る。ソキ、ソキ、ソキ。泣くような声で。何度も何度も、呼んで、きつくつよく抱きしめてくる。その腕の中は血のにおいがした。
 ロゼアちゃん。弱々しく息をしながらソキは囁く。おけが、してるですか。どこかいたいですか。ロゼアちゃんがいたいの、ソキ、やです。してないよ、とロゼアは言った。してない。俺はしてないよ。どこも痛くない。ソキ、ソキ。ソキ。泣いていないのが不思議なくらい、かすれた声で。普段ならぜったいにしないような、強い力で。熱が体中を包み込む。どこもかしこも冷えてしまったソキを、暖めるように。うとうとと眠たくなりながら、ソキはロゼアに両腕を伸ばして抱きついた。血のにおいがした。けふ、と咳き込む喉からは血のにおいがした。ソキ、と呼んでロゼアが泣いている。今まで一度も、そんなことはなかったのに。痛いくらい強く抱きしめてくれることも、身動きが出来ないくらい抱き寄せてくれることも、そんな風に感情を乱してしまうことも、それをソキに見せることも。ロゼアは、傍付きは、花嫁に、ソキに、そうしなかったのに。
 傍付きは冷静で、落ち着いていて、穏やかだ。感情を揺らせば己の花嫁がそれに引きずられるからである。強い感情はことごとく研磨される。まぁるくなって、消えはしないけれど、表には中々出てこない。特に花嫁の前では。けふ、けふ、と血のにおいのする咳を、息を繰り返しながら、ソキはしあわせに目をうるませた。ならば、こんなに強く抱いてくれるのは傍付きの習いではなくて。花嫁に対する傍付きの触れかたではないから。ロゼアが、ソキに、そうしてくれているのだと分かって。はぁ、とソキはしあわせに満ちた息を吐き出した。もう、離れたくない。もう、ロゼアと、離されたくなかった。花嫁として施された教育が、捧げられた献身を裏切るのかと、罪悪感を胸一杯に広げたけれど。血のにおいが。眩暈をするほどに広がる死の香りが、ソキからその罪悪を遠ざけた。
 あいしているの。冷えた水を温める火のような熱に触れながら、包まれながら、ソキはロゼアの耳元で囁いた。ごめんなさい、ロゼアちゃん。ロゼアちゃんはずっと、ソキを嫁がせる為に、ここではないどこかへ送り出す為に、そこで幸せになってっていっしょけんめ、してくれたですのに。ソキはね、ずっとね、ロゼアちゃんがね。すき。すきだったの。いちばんに好きなの。あいしてるの。ずっと、ずぅっと、ロゼアちゃんのものになりたかったの。ろぜあちゃん。そきは、ずっとずっと。あなたを。あなただけを。あいしてる。ソキは、ロゼアちゃんの花嫁さんに、なりたかったです。だれかのじゃなくて。ロゼアちゃんの、が、よかった、です。
 おれもだよ、とロゼアが笑ってくれたような気がした。泣いていたのかも知れない。おれもだよ、ソキ。あいしてるよ。ソキを、ソキだけを、愛してる。離したくなんてなかった。離したくなんて。ロゼアの腕がソキの体を寝台に横たえる。熱を宿すようにてのひらが頬を撫でる。視線を重ねて、額が触れ合った。くちびるに熱が宿る。一度目は夢のように。二度、三度と繰り返されて。冷えた体を温めるように、てのひらが触れて行く。つながって、ひとつになって、ロゼアが囁く。これでソキはおれのもの。それでおれは、ソキのものだよ。だいじょうぶ。ずっとずっと、一緒にいような。ずっと、傍に。離れないよ。離さないよ。だから。だから、ソキ。ソキ、ソキ。かわいいかわいい、おれのソキ。だから、おれと。一緒に、生きよう。
 ひとつのものみたいに。ひとつの命みたいに。離されないで、離れないで。ずっとずっと一緒に。一緒に生きよう。



 いっしょですよ、とどこかで泣く声がする。くらやみの向こう。守られた花が泣いている。いっしょだって、いったです。ずっとずっと、いっしょだって。いっしょだって、いったのに。ロゼアちゃんが連れて行かれちゃう。ロゼアちゃんが。ソキの。傍にいるっていってくれたですのに。おそば、ずっと、いっしょって、ロゼアちゃんが。いった。いったのに。
『卒業が決まったカラ、モウ駄目、ってみぃんな言ってるネ……?』
 ああぁああん、と幼い声で。花が泣いている。
『ひどいネェ……ロゼアくんがいなければ、キミは生きて行くコトさえできないノニ』
 流れ込む魔力が、花をうるおす水のように。触れる手の熱が、花に口付ける光のように。ソキをずっと生かしてくれていたのに。ソキはロゼアとひとつになって。そうしてようやく生きて行けたのに。ロゼアは希少な太陽属性の黒魔術師だった。入学前から半ば自覚的に魔力を扱い、ソキを生かし続けたが故に、その安定はどの魔術師より強固で、そして強力だった。傍付きとして整えられた従順さは、扱いやすいもののように印象をふりまいた。ひどく優秀な魔術師として整えられたロゼアを、どの国も欲しがり、そして王たちは口を揃えてこう言った。ソキのことは『学園』に置いて行きなさい。世話をする白魔術師を手配するし、時々は様子を見に行くことも許しましょう。けれども連れて行くことは、その希望は、叶えられない。ソキのことはおいて行きなさい。ここから先はひとりで行くのだと。
 ロゼアがそれをソキに告げるよりはやく。ソキはそれを知っていた。夢の中で、くらやみの中で、誰かの声が囁き告げた。奪われてしまうよ。キミの大事なダイジなロゼアくんを、みんなみぃんな奪っていこうとしてイルヨ。カナシイね、イヤだよね。
『……ロゼアくんと、ずっと一緒にいたい?』
 いっしょですよ、と泣いている。だってずっと、ずぅっと一緒っていったです。ずっとずっといっしょに。
『そう。……なら』
 花が。
『ボクのいう通りに、してごらん……?』
 ソキが、泣いている。



 ソキ、ソキ、と呼ぶ声に、ソキはのたのたとまぶたを持ち上げた。ロゼアちゃん、と呼びながら首筋に腕を回し、肩にすりすりと頬を擦りつける。耳元でほっ、とロゼアが息を吐き出したのが分かった。ぼんやりと視線を巡らせた先、部屋の扉が閉じている。寮の、ロゼアに割り当てられた部屋の中。その扉の先へソキが行ったのは、ほんの一度か、二度くらいのことだった。ロゼアの腕に抱きあげられて連れて行ってもらったので、ソキはそこへ足をつけたことがない。この部屋が世界のすべてで、扉の外へは行ったことがないのだ。『学園』に連れてこられてからずっと。ロゼアの部屋と、その腕の中が、ソキの世界のすべてだった。外にはたくさんの魔術師、そのたまごがいる。
 こわいこわいです、こわいのやです、と泣くソキの為を、ロゼアはずっとこの部屋で守ってくれていた。怖くないよ、俺がいるよ。俺がいれば大丈夫だろ、と囁いて。だから、俺の傍にいような、ソキ。どこにもいかないで、この部屋に。歩くのも遊ぶのも、この部屋の中だけにしような。俺だけいればいいだろ、ソキ。俺のかわいい、かわいいソキ。ソキは俺のもので、俺はソキのものだよ。ずっと一緒。告げられるたびに、それをソキはしあわせだと思った。部屋から出られないことも、ロゼアとしか会えないことも、話せないことも、苦だとは全然思わなかった。体調が悪くて動けない日が殆どだったし、たまに会いに来てくれるナリアンや、メーシャという名前の青年たちにも、慣れなかったから、おはなしをするのは恥ずかしかった。歩く必要なんてなかった。行きたい所へはどこへでも、ロゼアが連れて行ってくれる。
 それなのに。
「ろぜあちゃん……」
「うん?」
 ぎゅっと力を入れてソキを抱き寄せ、膝の上に乗せて、ロゼアは満たされた風に笑っている。その目の端がいくらか赤く腫れぼったいことに、ソキはちゃんと気がついていた。手を伸ばして、指先で触れる。ソキ、と困ったように笑うロゼアに、ソキはじわじわと涙を浮かべて問いかけた。
「ロゼアちゃんは、ソキをおいてくです……?」
「おいてかないよ。離さない。……離れないって、言っただろ」
「だって、ロゼアちゃん、だめって言われた……言われたです。ソキ、ちゃぁんとしってるぅ、ですぅ……!」
 くらやみのなかで。夢の中で。声はそれを教えてくれた。
「ろぜ、あ、ちゃ、ん、は……」
 涙が、あふれて。零れ落ちて行く。
「ソキの、だもん……! ソキの、ソキのロゼアちゃん、だもん。王様のじゃないですよ! ソキの! ソキのだもん! ロゼアちゃんはそきのっ! そきのだもんそきのだもんやああぁあああっ!」
「ソキ、ソキ……! うん、ソキのだ。俺はソキのだよ。ソキのだ……」
 泣いて。泣きじゃくって訴えるソキを強く抱きしめて、ロゼアは何度も繰り返して告げた。俺はソキのもので、ソキは俺のもの。だから俺はどこへも行かないし、ソキだけのものだし、ソキをどこへもやらないよ。ソキ、ソキ。大丈夫。だからそんなに泣かなくていい。叫んだらだめだ。いいこだから。ほら、俺がいるだろ。いまここに、ずっと、ソキの傍にいるだろ。泣かないでいいよ、叫ばないでいいよ。喉が痛くなる。咳が出て、また熱を出して動けなくなる。ソキ、ソキ。愛してる、ソキ。愛してるよ。離れたくない。離れたくないんだよ。でも皆。
『ソレを』
「だめって、言うんだ……」
 囁く声が二重に重なって聞こえたことも、その片方が夢の中で響いていたものであることも。もうソキは分からず、きらいきらい、と泣きじゃくった。その、泣き声の隙間に忍び込むように。
「みんなきらい! きらいきらいです! そき、みぃんな、きらいっ! ソキからロゼアちゃんをとりあげるひとはみんなきらい!」
 言葉が。
『さあ、ボクのお人形さんたち』
 告げた。
『時間ダヨ……?』
「……ソキ」
 泣いて、泣いて。もぞもぞとロゼアの膝上で暴れながら訴えるソキの頬を、あたたかなてのひらが包み込む。こつ、と額が重ねられた。ソキの瞳を覗き込み、赤褐色の瞳が笑う。沈み行く太陽のように、それは。光輝きながら、くらやみの衣に包まれていた。
「ソキ」
 ロゼアが笑う。
「じゃあ、一緒に行こうか。俺と……ふたりで、逃げようか」
「ロゼアちゃん……? ロゼアちゃん、ソキと一緒にいてくれるです? 誰のトコにもいかない? ずっと、ずぅっと、一緒……?」
「うん。一緒だ、ソキ」
 うれしくて。涙を滲ませながら、ソキはロゼアに抱きつきなおした。すりすり、体全体をすりつけて甘えれば、抱き寄せる腕に力がこもるのが分かる。ずっと不安だった。ずっと怖かった。ソキはほんとうに生きるのにせいいっぱいで、ひとりでなにもできないし、『学園』に連れてこられてからもなにひとつ学ぶことができなかったから。ソキにあるのはロゼアだけだった。ロゼアだけが、ソキのすべてで。ソキの、生きる、すべてだった。
「ロゼアちゃん、ロゼアちゃん……ソキ、おそとに行きたいです」
「そと?」
「おそとです! そこに行けばね、もう大丈夫って、ソキ、教えてもらったです……。そこではね、ソキね、ロゼアちゃんとずぅっと一緒にいていいんですよ。ソキのね、体の痛いのとかね、だるいのとかね、そこではもう大丈夫なんですよ。それでね、ソキね、ロゼアちゃんがね……ロゼアちゃんが、ずぅっと一緒で、ソキと一緒にそこまで、逃げてくれるって言ってくれたら、ソキね……お願いしようと思ってたです。ロゼアちゃんはソキのお願い、叶えてくれるですからね。ロゼアちゃんにね、お願い、ちゃんとしようと思ってたです」
 期待と希望に瞳を輝かせて、ソキはおそと、と繰り返した。おそとにいく。ソキ、ロゼアちゃんと、一緒に。この世界の外。分断され、砕かれた、この世界の外。そこでずっとずぅっといっしょにいるです、ときゃあきゃあはしゃいで笑うソキの頭に頬をくっつけ、ロゼアは目を伏せて幸福に笑った。うん、と頷く。うん、そうだな、一緒に行こう。夢みたいな場所。楽園みたいな場所。そこまでの行き方を。俺も――に、教えてもらっていたから、きっと辿りつけるよ。ふたりでなら、一緒なら。この世界のすべてから逃げて、ふたりで。ずっと、ずっと、どこまでも、一緒だ。生きている限り、このぬくもりの傍らに寄り添い、もう決して離れることはない。
 ひとつのもののように、ひとつの命だったように。最後まで。



 行くのか、とそのひとは言った。はい、とだけロゼアは答えた。怯えてロゼアにぴたりと体をくっつけ、震えるばかりのソキに、そのひとは溜息をついてなにかを言ったのだけれど。それを音として聞き流したソキに、言葉が届くことはなかった。ただ慰めるようにソキの髪を撫でるロゼアの手が温かくて、気持ち良かったことだけを覚えている。そのひとはロゼアの邪魔をしなかった。ソキに、怒りもしなかった。背を預けていた扉から体を離し、それを、外へ向かって開けてくれた。ロゼアはゆっくりと歩く。ソキの体に、すこしの振動も与えないように。ゆっくり、ゆっくり歩いて、扉の前で一度だけ立ち止まった。ロゼアはそのひとを見る。ソキもこわごわ、そのひとのことを、見た。
「……寮長」
 ロゼアが、そのひとに呼びかけるのを聞いて、ソキはぱちぱちと目を瞬かせた。それは何度か聞いた覚えのある響きだ。ロゼアはすこしだけ目を伏せ、はにかみながら囁いた。
「寮長、すみません。ありがとうございました。……どうか、お元気で」
「感謝はしなくて良い。お前たちが行ったらすぐ……五王に、逃亡の連絡をするのも、俺なんだから」
「寮長が……ガレンさんや、メーシャ。ユーニャ先輩たちが……咎められないといいと、思っています」
 なにも知らない。俺ひとりでしたことです。呟くロゼアに静かに頷き、その男の瞳が怯えるソキを見た。まじゅつしだ。こわい、と怯えられるのに苦笑しながら、シルは手に持っていた白いレースのショールを、ソキの頭にかけてくれた。ぱちぱち、目を瞬かせるソキから一歩離れ、シルは満足げに目を細めて笑う。
「持って行け。俺の女神からの祝いだ。……お前たちに」
「ロリエス先生、が……?」
「風の祝福を帯びた糸で編んだものだと聞いた。……本当は、ナリアンの卒業祝いに。ニーアの服にでも仕立てるつもりだったらしいんだが」
 代わりで悪いな、と告げるシルに、ロゼアはいいえ、と言って首をふった。それ以外、どうしても、声が出ない様子だった。ソキはきゃぁっとはしゃいでショールの端を手で握り、花嫁さんみたいです、と言って笑った。うん、とロゼアは頷いてソキを抱きしめ直す。さあ、とシルが促した。
「行け、ロゼア。……ソキ」
 うゅ、と不安げな声をあげながら視線だけを向けたソキに、シルは苦く笑って囁いた。
「自由であれ。魔術師でありながら、魔術師にもなれず、ただこの場所にいたお前だけは……なににも囚われず、ただ朽ちて行く花のようであっても、咲いていた、お前だけは……」
 自由であれ。幸福であれ。最後の時まで。どうか。痛みを堪えるように、告げられた言葉は祝福のようで。はきとしてソキに届き、響いて、消えて行った。分からないまでも頷いたソキを抱き、ロゼアはゆっくりと歩き出す。寮を背に、『学園』を囲む森の中へ。瑞々しい空気と、肌を撫でて行く風。緑と土と花と、水のにおい。ソキはロゼアの腕の中で、脚をふらふらと動かして笑った。
「ロゼアちゃん、ロゼアちゃん!」
「うん? なに、ソキ」
「砂漠とは全然違うです。森、ですよ! ……あ、おはな! おはな、咲いてるです。おはな!」
 あれは梔子(くちなし) と。告げるように風がふわりと、ソキの頬に触れて、何処へ吹き消えて行く。一度だけ立ち止まって、ロゼアが不思議そうに、ほんの僅か泣きそうに、震える声でナリアン、と名前を呼んだのだけれど。応える声はなく。風がただ、吹いていた。背を押すように。それでいて、脚を絡めてその場に立ち止まらせるように。姿なく、かたちなく。風が吹いていた。



 聞き覚えのある、懐かしい音で扉が叩かれたような気がして、リトリアは身を伏せていた寝台から体を起した。あたりはどこかうすぼんやりとしてほのあまく明るく、夜明け前なのか、それとも陽が沈んでしまう前なのか、よく分からない。
「ナリアンさん……?」
 思わず立ちあがって、目をこすりながら、リトリアは首を傾げて息を吸い込んだ。もう一度、呼ぶ。
「……ナリアンさん、でしょう? ……わたし、に」
 会いに来てくれたんでしょう、と掠れた声で問うよりはやく、ふわり、と風が吹いた。すこしだけ悪戯っぽく、笑うような響きで。いつかの記憶と同じ声が囁く。
『君を連れて行くよ。……この『棺』の外へ』
「ナリアンさん、どこ……? 扉の向こうに、いるの? ナリアンさん……? ね、どこ……!」
『俺が、じゃないけど。ほら、リトリアちゃん』
 おむかえ、きたよ。ぎゅ、と抱きしめられるような感覚が一瞬だけして。火が吹き消されるように、なにかがそこから消えてしまったのが、リトリアには分かった。ナリアンさん、と呼ぶ声に返事はない。かなしくて。うるっと目に涙を浮かべ、うつむいた時だった。足音がした。彼方から、ここへ向かってくる足音。なに、と思う間もなく、扉が開かれる。そこへ立っていたひとに。リトリアは声もなく両腕を伸ばし、泣きながら抱きついた。
「ストルさん……」
 ほの甘く、血の匂いがする腕で。くらやみに囚われた者の瞳で。ストルは幸福そうにリトリアを抱き、その名を何度も囁き呼んだ。その存在を確かめるように。もう二度と離さない、と告げるように。

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