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 さあおいでと差し出された手に運命を委ねることに、なんのためらいも戸惑いもなかった。そこにあるのは触れ合えるという幸福だけで、この『棺』から出てはいけないという決まりごとすら、覚えていても立ち止まる理由にはならなかった。体が軽い。呼吸がとても楽だった。思考を鈍くしていた魔法使いの魔力の糸はいつの間にか切れていて、体中を巡る血のようにまとわりついていた水の封印も溶けてなくなってしまっていた。ストルからは血のにおいがした。夥しい血のにおい。怪我をしているの、と一度だけ問いかけたリトリアに、ストルはくすりと目を細めて笑った。俺はしていないよ、と告げられたのが答え。そう、とリトリアは頷いた。それなら、いいの。ストルさんが痛いのでなければ、いいの。くらやみの中で響いた声を思い出す。ストルに必ず会わせてあげる、だからキミの力を。乞う声に応えて、リトリアの中から魔力が消えた。
 封じられていた筈の、動かせない筈のそれがごそりと音を立てて消え去ったのはいくらか前のこと。それがなにに使われたのか、リトリアは結局知らないままだった。けれど、ストルは怪我をしていない、という。泣きそうな気持ちで、リトリアは繋がれ、引かれて行く手を己の額まで引き寄せた。誓いのように、祈りのように、目を伏せて囁く。私の魔力はあなたを確かに守り切りましたか。ストルは笑ってリトリアの頬を撫で、そのくちびるにそっと口付けをくれた。それが答えだ。こびりついた血のにおいが消えないで漂う。ストルさん。手を引かれて歩きながらリトリアが囁く。後悔、していませんか。していないよ。穏やかな声でストルは囁いた。していない。どうして。花散らす雨のような声が囁く。
 どうして。こんな風になってしまったんだろう。『棺』から逃れるまっすぐな道を手を引かれて歩きながら、リトリアは立ち止まれずに考える。ストルにはたくさんの友人がいた筈だ。男性も女性も、年上も年下も。うつくしい顔をした、リトリアの保護者めいたふるまいをやめない、それでいて己のものだと執着してやまないこの男のことを、それでも誰もが慕っていた。周囲の女性たちは呆れながらも見離すことはなく、男たちは苦笑いをしながらはやし立てていた。それをリトリアは知っている。ストルは決して、ひとりではなかった。それをどうしてもうまく繋げられず、手紙というか細い手段に頼るしかできなかったリトリアと違って。いくつかの事情を持ち、さびしく思いながらも自らそれを遠ざけたツフィアと違って。ストルは繋がっていた。けれどもすべて断ち切ってしまった。そうでなければストルが、ここで、リトリアの手を引ける筈がない。
 外へ出る、『棺』から逃れる階段の、最後の一段に足をのせながらストルが囁く。リトリアの悲しみをすべて理解しているような声で。それでも、俺は、どうしても。
「君を諦めることが、できなかったんだ。……リトリア」
 なにを失っても、なにを手放しても。どうしても君を奪われたままでは生きて行けず。取り戻したかった。微笑んでストルはリトリアを振りむき、片腕をゆるく広げながら、己の恋へ囁いた。
「さあ、おいで、リトリア。……おかえり」
 最後の一段に足をかけ、リトリアはストルの胸元でただいまと囁く。なにを失わせても、なにも手放してここへいたとしても。そのぬくもりが、声が、うれしかった。眩しい光に目を細めながら、リトリアは笑う。くらやみのなかはひとりで、ずっとずっとさびしかったけれど。もう、ひとりじゃない。ストルさん、と呼ぶとリトリア、とすぐ声がかえってくる。しあわせだった。そのしあわせが永遠にならないと、もう分かっていたけど。



 ひかりを背に、その男は佇んでいた。背の高い痩身の男。リトリアと同じく閉じ込められていた筈だが、弱々しい印象を感じることはやはり、なかった。細身の、研ぎ澄まされた刃そのもののような印象があるからだろう。男はその足元に座り込んだ青年と、その腕に抱かれて眠るうつくしい少女をやわらかな眼差しでひと撫でしたのち、ストルに連れられてでてきたリトリアを振り返る。
「やア、リトリアちゃん。おヒサシぶりだネ?」
「シークさん。……お久しぶりです、こんにちは」
 あの鉄柵越しに引きあわされた日と変わらず、歪んでいびつに響く声はすこしばかり聞き取りにくい。不思議と、怖い、とは思わなかった。あんなに怖かった筈なのに。もうなにに怯えていたのかすら思い出せない。ストルと手を繋いだまま、ごく自然に微笑むリトリアに、シークはくすくすと肩を震わせて笑う。幸福そうな、満足げな微笑だった。ストルはリトリアの肩に手をまわして守るように歩かせると、シークの前に立っていぶかしげに眉を寄せる。
「彼は……ロゼアは、どうしたんだ? ソキも。魔力がだいぶ……」
 無くなっているように感じるが、とストルの声は咎める響きを持っていて、自然とリトリアの目が青年と、少女に向けられる。ロゼアと、ソキ。その名には聞き覚えがあった。何度か。何度も、ナリアンの口から聞いた名だ。ともだちだ、と言っていたような気がする。それとも、ともだちになりたい、だっただろうか。褐色の肌をした青年は、ふわふわとした印象の愛らしい人形めいた少女をかたく抱きしめたまま、廊下に座り込んで眠っているように見えた。起すのも忍びない。視線を持ち上げてあたりを見回すリトリアの耳に、ストルとシークの会話が漏れ聞こえてくる。
「ボクのお人形さんタチには一仕事してもらったダケさ。キミが安心してお迎えに行けるようニネ? ダイジョウブ、怪我なんてさせてないヨ。ロゼアクンにも、お人形サンにもネ。ボクがそんなヘマをするとでも?」
「それにしても、魔力が減りすぎだろう。……なにかあったのか?」
「ウウン。お人形サンがネェ……泣いちゃったんだよねぇ……。怖かったんじゃないカナ」
 まじゅつしさんこわいこわいです、ろぜあちゃん、ろぜあちゃんをとるひと、そき、きらい。きらいきらいみんなきらいやあぁああっ。叫ぶ。声が。魔力の形が。あまりに鮮明に、廊下には焼きついていた。シークたちの他には誰もいない、高い位置からの光さすばかりの廊下に。乾いた血のにおいは風に流され、一瞬、鼻先を掠めただけで感じ取れなくなってしまった。ぴしゃん、ぴちゃん、とどこかで水の音。重たく朝露に濡れた葉が、一滴ずつ、その恵みを湖に返す音。血のにおいがしているのに。死の匂いがしているのに。廊下はどこもかしこも、きれいなままだった。それはまるで幻のように、描かれたもののように。記憶をなぞった夢のようにある、静寂とうつくしさ。
 誰かが、リトリアのことを掠れた声で呼んだ。ぐら、と意識が揺れ動く。目に映る世界が、ぐしゃぐしゃに乱れた瞬間だった。
「リトリアちゃん」
「リトリア。……リトリア、リトリア。俺のかわいい、俺の、リトリア」
 苦笑するシークに呼ばれ、視線を向けた瞬間にストルの腕の中に絡め取られる。おなかに回された腕がリトリアのことをぎゅっと抱き寄せて、てのひらが瞼ごと覆うように視界すべてを覆ってしまう。耳元で声が囁いた。ストルの、占星術師の、夢に酔わせるに長けた魔術師の、やさしく甘い笑い声。
「なにも見ないで、なにも聞かないでいればいい。……ここには誰もいない。俺たち以外には、誰も。花舞の王宮は、リトリアが知るままの場所だ。記憶の中と同じ。おなじ、だ、リトリア。……俺の言うことが聞けるね?」
「ストルさん……」
「……知ってイタけド、キミはどう考えてモ嫉妬深いよネ?」
 はぁ、と呆れた溜息で天を仰ぐシークに、ストルは穏やかに笑みを深めて囁いた。
「恋人を独占したいと思うのは、男として当然の感情だと思うが?」
「キミたち砂漠出身者のソレは度が過ぎてイルと言ってるんダヨ……」
 なんのことだか分からないな、と心底不思議がって首を傾げるストルから視線を外し、シークが生温い目でソキを抱きしめたまま、座り込んで眠るロゼアへと移動させた。己の『花嫁』を守るように、どこへも行かさないと告げるように、その腕は脆い少女を抱き寄せたまま、決して解かれる気配がない。シークは無言で頷いたのち、ストルの腕の中でぱちぱちと、眩しげに瞬きを繰り返すリトリアを、ほんの僅か同情的な視線で眺めやった。ふぁ、とあくびをするリトリアの目を覗き込むように腰を屈め、シークがそっと問いかける。
「さてと、お人形ちゃん。ストルだけいればイイかナ?」
「ストルさん、だけ……?」
「キミがホシイのはストルだけでイイノ?」
 その問いに、リトリアは無心にふるふるふる、と首を横に振った。
「ツフィアを。……私、ツフィアを助けに行かなくちゃ。シークさん、ストルさん。私、ツフィアも一緒がいいの。ツフィアも、一緒に、連れて行っていい……?」
 キミが。キミたちだけが。予知魔術師だけが。くらやみで囁かれた言葉がリトリアの中で反響する。この砕かれて残った五ヶ国だけの世界に存在する魔術師たちのうち、予知魔術師だけに、それは可能なこと。
「この世界の外側に。もう誰も、私たちを閉じ込めたりしない……大切なひとと、引き離したりしない。一緒にいたら、駄目だって、誰も言わない、外側の世界に……ツフィアも一緒に、行くの。だから、ツフィアを助けたら、そうしたら私、ちゃんと、シークさんの言う通りに……」
 ちからを、かしてあげる。この世界の外側に行く、その為の力を。だからツフィアを迎えに行くの、と告げるリトリアに、ストルはやや諦めたような息を吐き、抱くその腕に力をこめ。シークは分かっていたヨと笑いながら、眠るロゼアを揺り起こし、立ち上がらせた。やや眠たげなロゼアの腕の中で、ソキは目覚める気配もなくまぶたを降ろし、すうすうと寝息を響かせていた。ロゼアはソキを起こすつもりがなく、シークもそれでいいと思っているのだろう。ロゼアとシークがなにごとかを小声で会話しているのを聞き流し、ストルはリトリアに問いかける。
「ツフィアの居場所は分かるのか? リトリア」
「うん。……場所、は、分からないけど、でも。こっち、っていうのなら」
 予知魔術師が拒絶しなければ、言葉魔術師がそれを断ち切らなければ。本能的に引かれあうように、その二つは作られている。だから案内、ちゃんと出来ます、と笑いながら、リトリアは廊下を軽やかに歩んで行った。国と国を繋ぐ『扉』へ向かって。その背に弱々しく、まるで今にも息だえてしまいそうな風に、誰かがリトリア、と呼んだ気がしたのだけれど。立ち止まって振り返った先に、なにもみえなかったので。リトリアは首を傾げてストルと手を繋ぎ直し、踊るような足取りでその場を立ち去って行った。
 倒れ伏す魔術師たちも。廊下一面に広がる血の海も。なにもその瞳に映すことはなく。



 おなかの前で組んだ手に柔らかく抱き寄せられ、リトリアはツフィアに背を預けながらきよらかな声で歌を紡いでいた。そのツフィアの隣に座り込んだストルが、己の片翼たる言葉魔術師の女性の無事に安堵と喜び半分、リトリアを取られて明らかに面白くない顔つきでいるものだから、シークはそっと視線を反らし、こみあげてくる笑いをすこしだけ堪えた。焚き火の熱と光がゆらゆらと、それを囲む魔術師たちに投げかけられている。街道から外れた森の中はしんと静まり返っていて、虫の鳴き声と木のはぜる音の他には、他にはリトリアの歌しか耳に触れるものはない。歌声は気まぐれにふつりと途切れ、あまくとろけきった名を紡ぐ囁きを挟んで、また柔らかく編みあげられている。透明に澄みきった祝福が空気には満ちていた。その祝福がくらやみの恐怖と押しつぶされそうな不安を遠ざけ、逃げる者を追う瞳を曇らせている。
「ツフィア、ツフィア。ねえ、本当に痛いところはない? 気持ち悪かったり、怪我は、していない?」
「ええ。本当に大丈夫よ、リトリア。……リトリア」
「うん。なぁに? ツフィア。なに? なぁに……?」
 背中をくっつけて、体を預けきって、この上なく甘えた様子でリトリアが目をとろけさせて笑う。ぎゅぅ、とリトリアを抱きしめる腕に力をこめ、満たされた息を吐き出し、ツフィアはなんでもないわ、と囁いていた。なんでもないわ。ただ。あなたが無事で、本当によかった。リトリアは泣きそうに目をうるませ、後ろ頭を擦りつけるようにしてツフィアに甘えた。その腕の中にいられることこそ夢のようだと。幸福にほんのりと赤く染まる頬が物語っている。あまりに幸せそうな様子に、当面の奪還を諦めたのだろう。腕の中を寂しそうにさせながら、ストルがすいと視線を持ち上げ、シークをみた。ぼんやりと佇むようすで立っている男の、その足元でまるくなって眠る少年と少女。ロゼアとソキを心配そうに一瞥して、問う。
「座らないのか? シーク」
「……うまく座れそうにナイんだヨ」
「どういう……?」
 ことだ、と訝しげに首を傾げるストルに苦笑して、シークは無言で己のローブの端を指差した。その方向を辿って、ストルは思わず微笑した。ソキのてのひらが、きゅむっ、とばかりシークのローブの端を握りこんでいる。肩を震わせながら、ストルはよかったじゃないか、と囁いた。
「懐かれて」
「……たまたま手に触ったから握っちゃっただけダヨ。赤ん坊の反射と一緒サ。ソキちゃんがボクに懐くだなんてコトは、ありえないよ……」
「そう確信するだけの理由が?」
 ある。そう告げるようにシークは笑みを深め、ストルはそれに肩をすくめて答えにした。ふたりのやりとりを不思議そうな目で眺め、歌声を途切れさせたリトリアがえっと、と声をあげる。
「ローブを脱いで、ロゼアさんにかけてあげて……シークさんは、こっちに来ればいいと思うの。おとなり」
 ツフィアの腕の中から手を伸ばし、リトリアがぽんぽん、と地面を叩く仕草をみせる。ストルが座るのとは逆の側だ。
「……いいのカイ?」
「だめなの? ……ツフィア、シークさん、お隣、だめ?」
「……なにか問題でもあるの?」
 リトリアが呼んでいるのだから今すぐ来なさいと言わんばかり、ツフィアの目が細まってシークを眺めやる。シークは助けを求めるようにストルをみたが、男はこくり、と頷くばかりでなにも言ってはくれなかった。リトリアの望みは最大限叶えられるべきである、とその表情が告げていた。それを散々利用したので、ふたりの、リトリアに対するおかしいくらいの執着は知っていたのだが。天を仰ぎ溜息をついたのち、シークは苦心してローブを脱ぎ、それを眠るロゼアの体にかけてやった。ふにゃ、とねぼけた声をあげ、ソキがロゼアにすりすりすり、と頬を擦りつける。んん、と声をあげてロゼアがぎゅうとソキを抱きしめ、ふたりはまた深く眠ってしまった。そっと、シークはその場から離れる。草を踏む乾いた音。薄闇がひんやりとした空気を渡り、風が木々の間を駆け抜けていく。見上げる空は星明りがきらめき、逃亡者たる魔術師たちを見下ろしていた。
 火の明りが温かい。歩み、ゆったりと近くへ行くシークを見つめる視線に、拒絶などひとつもなかった。はっ、と笑いながら、どさりと音を立てて崩れるように腰をおろす。もしも、このやさしさを、この穏やかな時間を、もっとはやくに。いや。考えるまい、と目を伏せて笑い、シークは不安げに見つめてくるリトリアに、大丈夫ダヨ、と首をふってやった。
「それより、魔力を使いすぎないようにネ? ……キミには、これからが大変なんだから」
「シーク。リトリアになにをさせるつもりなの? あの子……たち、にも」
「言っただろう? 砕かれる前の世界に移動するのサ」
 かつて、この世界はもっと広かった。多くの国があり、数え切れないほどの神秘が息をしていた。魔術師たちに砕かれたが故に、五ヶ国だけが残された世界。魔術師は『中間区』までならば行き来ができるし、妖精たちは『向こう側の世界』に渡ることも可能なのだという。けれどもシークが告げたのは、そのどちらでもなく。『砕かれた外側の世界』だった。世界は消滅した訳ではない。ただ途切れてしまって、そこへ繋がる術がないだけなのだ。けれども、予知魔術師ななら。奇跡を起せる術者ならば。それがふたり揃っていたのなら、恐らく。きっと。そこへ行くことは可能なのだ、とシークは言う。行く、と呟き、いいや、とシークは言い変えた。
「戻る、カナ。ボクにしてみたらネ。……ボクはあの世界に戻りたいのサ。ここではなくネ」
「……シークさんのおうちが、あるの?」
「ソウダよ。……そう、ボクの家がある。ボクの故郷。生まれ育った場所。ボクの……せかい……」
 うつくしい場所であったという。うつくしい国であったという。神秘にあふれた世界であったという。そこはこの五ヶ国のどこでもなく、ひとと、魔術師と、幻獣の共存する世界。妖精たちは窓辺に飾られた花の上で寝ぼけまなこであくびをする。青空を、ひとと同じ姿をした、けれども腕である場所に鳥の羽根の生えた幻獣たちが飛び回り朝告げの歌を奏で。街角の井戸ではうまれたばかりの小さな竜が、気持ちよさそうに水浴びをする。魔術師はひとの中に存在する特別な者ではあったけれども、魔力は、魔術は世界に満ちていた。そこで、シークはうまれて育ったのだという。そしてある日突然、針の穴のように出現した歪みにとらわれて、こちらの世界に落ちてしまったのだと。この、五ヶ国だけが残った世界に。この欠片があることは知っていたヨ、とシークは笑う。
「歴史のいちばんはじめに習うコトさ。かつて、この世界はもっと広かった、って言うのはネ。大戦争も、その結末も、みぃんな同ジ……当たり前のことサ。同じ世界だったのだから。かつてはひとつの世界だったのだから、同じに決まってイルだろう……? ……それなのに、ボクがいたのはココじゃない。かつては同じ筈だったノニ、それを示す証拠も、なにもかも、あるノニ……欠片に飛ぶコトはできるのに、ボクの世界には戻れなかった。気が狂いそうだったヨ……いくらかおかしくなっているのはボクも否定しないケドネ」
 学園にある武器庫に通じる『扉』が繋ぐのは、砕け散ったかつての世界の欠片だ。そこはひどく、シークのいた世界に近かったのだという。それなのに、決して戻れはしなかったのだ。武器庫が繋ぐのは、魔術師たちを呼ぶそれがある空間にだけ。その部屋から、あるいはその建物の中から、決してでることはできなかった。窓の向こうに世界が広がっているのが見えるのに。そこへ、どうしても、戻れない。
「世界の欠片は流動的だ。一つの所に留まらず、常に移動しているものなんだよ。川の水に小石が転がされるようにネ。でも規則性がある。北極星を中心に星がくるくる巡るように。世界の位置も、待てばごく近くまで巡ってくる……」
「だからね、白雪の国へいくのよ、ストルさん。ツフィア。私とね、ソキちゃんがね、その白雪の国のいちばん……いちばん、世界の接点が近くなる場所まで行って、穴をあけるの。……穴をあけるか、糸みたいにして繋げるかは、その時の感じで決めていいってシークさんは言ったけど。もう一回繋げるの。もう一回、すこしだけ、砕くの。そうすれば私たちは、むこうに、シークさんのうまれた世界に渡れるの……!」
「……『扉』が使えないというのは痛いわね」
 呟いたツフィアも、ストルも、リトリアも。シークもロゼアもソキも、反逆した魔術師として、王宮魔術師たちに追われる身だ。リトリアの祝福とストルの星見による先読み、言葉魔術師ふたりのまやかしと、追っ手を退けるロゼアの魔術師としての強靭さ、それを支えるソキの予知魔術師としてのちからが、彼らの道を先へと繋げている。花舞にある限り、リトリアの祝福を貫ける魔術師など存在はしない。楽音においてもそうだった。けれどもその先、砂漠と白雪の国において、リトリアの力がどこまで彼らを守りきれるのかは、誰にも分かることではなかった。



 どこまでも行こうね、とリトリアは笑った。ずっと一緒ですよ、とソキが囁く。己の愛おしさに。己の生きる理由すべてに。花を潤す水に、花を導く音楽に。花を生かすひかりに。花は告げた。どこまでもどこまでも、ずっと一緒に、行こうね。逃げようね。生きようね。
『――また』
 でも、誰かが。くらやみのなかで。
『また、だめだった……』
 花たちに、そう囁いたので。



 しあわせの終わりがすぐそこに来ていたことを、リトリアは知っていたのだけれど。



 国から国へ移動する術は、国境にある砦を超えるしか手段がない。それは『扉』を失った魔術師のみならず、この世界にある存在、すべてに等しくかせられた条件だった。この世界は砕かれたパズルピースに似ている。本当は形のあわないそれを、無理矢理繋ぎ合せる糸が国境であり、そこに作られた砦なのだった。人の目にも、魔力を認識する妖精や魔術師の瞳でさえ、大地はなめらかに続き木々が広がり花々が風に揺れているように見えるのに。単純に、国境線、とされる地図上の線を、国境以外の場所から踏み越えていくことがどうしてもできないのだ。それは武器庫から接続する世界の欠片の、向こう側へ決して辿りつけない感覚に似て。この世界では許されない理のひとつだった。
 だからリトリアは、覚悟をしていたのだ。楽音から砂漠へと続くこの国境の砦で、必ず、追っ手たる魔術師たちが待ち構えている筈だと。常であればまばらに行きかう筈の馬車はなく、国境へ吸い込まれるように引かれている一本の街道に人の姿はまったくない。街は真昼であるのに夜のように瞼をおろし、窓という窓には布が引かれている。もしかしたら人々は王の指示の元、近隣の都市に避難したのかも知れなかった。つまんない、ですぅ、とひとり拗ねた様子で頬をふくらませるソキを、ロゼアがくすくすと幸せそうに笑いながら宥めている。石畳に靴音だけが響いていた。静寂よりも音楽に近い響き。そっと旋律を口ずさんで祝福を編みあげながら、リトリアはとうとう、国境の砦を間近に見上げるその門の前で立ち止まった。つよい光に目を細めながら、城壁に現れた人影に息をすう。
 恐ろしい程の魔力が、逃亡者たちに向かって展開される。その人影は、逆光を背にリトリアをまっすぐに指差した。
「こんにちは、リトリアちゃん! 来てくれるのを待ってたわ!」
 それは本物の歓喜だった。ストルとツフィアがリトリアの腕を掴み、背に隠してしまうよりはやく、その喜びは笑い声と共に解き放たれる。
「心配しなくて大丈夫! 私がちゃんと、ちょっと口には出しにくいけどいろんな手段を駆使して、あなただけはどうにか助けてあげるから。その他には殺害の許可が出てるけど? まあ私には知ったことじゃないし、自業自得じゃない? ……チェチェリア先輩を裏切った罪、その身をもって購うがいいわ」
「……エノーラ!」
「と、いうわけで!」
 笑いながら。白雪の王宮魔術師、天才と冠された錬金術師。エノーラが、城壁に足をかけてまっすぐに立つ。
「あなたの私の正義の味方! エノーラちゃんです!」
「帰れ」
「裏切り者の突っ込みなんて私には届きません」
 ね、とちいさく首を傾げて、エノーラは笑った。
「ラティ?」
「そうね」
 声は。城壁の高くからではなく、リトリアのすぐ傍から聞こえた。ぞわりとした悪寒が背をはいずって悲鳴となる。それに僅かばかり眉を寄せて。ラティは血のついた短剣をソキから引き抜き、ロゼアに向かって微笑みかけた。
「ごきげんよう? 裏切り者の魔術師たち」
 ソキは。眠るように、ロゼアの腕の中で目を閉じていた。ソキ、と掠れた声で呼びかけるロゼアの声にも、笑うことなく。その胸に花のように、赤く血を咲かせて。とん、と靴音を響かせ、ラティが優雅に一礼する。
「そして、さようなら」
 しあわせの、終わりが。すぐそこに来ていたことを。リトリアは、知っていたのだけれど。

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