逃げてください、と囁いてロゼアは笑った。血に伏せ倒れ動かない魔術師から、姿も魔力も完全に隠してしまう魔術具として作られた外套を引き剥がし、それをリトリアに投げ渡しながら。その腕に目を閉じたソキを抱いて、泣きそうに笑いながら囁いた。
「逃げてください、あなたたちだけでも。……そき?」
ソキ、そき。だいじょうぶ。ずっとずっと一緒だよ。俺はどこにも行かない。どこにも。ずっと、ずっとソキの傍にいるよ。ロゼアくん、ソキちゃん、と叫んで伸ばした手が届くことはなく。リトリアはストルとツフィアに腕を引かれ、国境の砦へと体を滑り込ませた。堅牢な門が閉じられる寸前、リトリアは振り返ってロゼアをみる。彼は花嫁に口付けているようにも見えた。なにか淡く言葉を聞きとめていたのかも知れない。同朋の魔力は消えてしまうことなく、か細くまだそこにあったから。ロゼアがゆっくりと立ち上がり、ソキを抱きしめて幸福そうに微笑む。無慈悲な砂漠の太陽を思わせる魔力が放出された。門が閉じる。リトリアがみた二人の姿の、それが最後だった。
この砦を出て、砂漠の国を横断して、さらにもうひとつ砦を抜けなければ白雪の国へは辿りつけない。伸ばした指先をなにかがすりぬけて足元へ落ちていくような感覚。手をいくら伸ばしても届かない場所に未来が置かれてしまった。そこへ辿りつきたいのに。そこへ繋がる道が塗りつぶされて行く。目の前から。足元から。がらがらと崩れて立っていられない。どぉん、と音を立てて砦全体が揺れ動く。リトリアの他にはどこからも悲鳴ひとつあがらないのは、やはり付近の避難が完全になされているからだった。恐ろしい魔力の、雑音めいた振動が肌を痛ませるくらいに空気を震わせている。
豪雨の夜に遠くで、雷が落ちた日のことを思い出した。なにもかも塗りつぶされて行く。雨に。冷たい雨とくらやみに。そして部屋の中に閉ざされて。なまぬるい息苦しさが鎖のように絡みつき、その場所から何処へも行くことができない。あんなにどこかへいきたかったのに。
「駄目よ、どの通路もそうだけれど、ここからは特に罠が多くて通れない。解除に時間がかかり過ぎるわ。ストル!」
「分かってる。他の……はっ、誘導されているとしか思えないな。魔力を帯びない廊下はひとつだけだ」
「行くしかないネ。立ち止まっていても追いつかれるダケさ。ロゼアくんの魔力も……モウ尽きる頃だヨ」
太陽の黒魔術師。ロゼアの魔力は、暑い夏の日の強い日差しと、それが地に投げ落とし揺らめく陽炎の、ゆらゆらした旋律のように聞こえていた。怖いくらいに純度の高い、輝きすぎる音楽のようだった。たったひとりにだけ、やさしく、子守唄ように。柔らかにほどけ、ゆるくゆるく編みあげられる布ようにつつみこむ。頬を包む手の熱のように変化するのが、リトリアはとても好きだったのに。砦の向こう側で叩きつけられるロゼアのそれは、ただ熱を帯びていた。なんの音も聞こえない。なんの旋律にも思えない。ただ、ただ、熱だ。悲鳴ですらない。嘆きですらない。憎悪と、絶望。そこから産まれる黒い熱の魔力。はじめてそれを、怖い、と思った。
「……リトリアちゃん」
悔いるように。リトリアを呼ぶシークの声が、頬を打つように響いて己を取り戻させる。え、と呟き目を瞬かせ、リトリアはあたりを見回した。どこにいるかは、ちゃんと覚えている。楽音から砂漠へ続いて行く国境の、砦の建物の中だ。木と石が組み合わさって作られた回廊は、どこか見覚えがあるようにも思えたし、まったく初めて目にするもののようでもあった。あたりはしんと静まり返っていて、もうどこからも、なんの音も響いてこない。ぞっとして、リトリアは来た道を振り返ろうとした。叫ぼうとした口ごと視界をてのひらが塞ぎ、頭をあたたかな腕が抱き寄せる。
「リトリア。前へ……先へ、行くしか、もう」
「ストルさん……」
「大丈夫だ、リトリア。君は必ず、俺が守るから」
頭を抱いた腕を離し、眼前に片膝をついて微笑みかけてくるストルが、てのひらを伸ばしてリトリアの頬を撫でる。その温かさに、指先の感触に。リトリアは震えがはしるほど、泣きたい、と思った。このやさしいひとは、どうしてここにいるのだろう。もっと穏やかな場所で、仲間たちに囲まれて、王宮魔術師として王と国の為に誇りと喜びを持って尽くす、そんな未来が、たしかに、どこかに、あった筈なのに。涙ぐむ視線を動かして、リトリアは微笑みかけてくれるツフィアをみた。このいとしいひとを、たいせつなひとを、どうしてむかえにいってしまったのだろう。もしかしたら無実と自由が認められ、誰もと分かり合い、ぎこちなく微笑みながらも背を伸ばし歩んで行く、そんな未来もあったかもしれないのに。どうしてふたりはここで、わらっていてくれるのだろう。
きまっている。しっている、とリトリアは嗤った。わたしがふたりをよんだからだ。
「ストルさん。……ツフィア」
「なんだ? リトリア」
「リトリア、なに?」
わたしがふたりをよびさえしなければ、とざされないみらいが、まだどこかにあったはずなのに。
「……ごめんね」
誰も、いない、廊下のただなかで。はじめからひとりだったと、リトリアは気がついた。だから悲しくて、ストルに甘えてしまった。だから寂しくて、ツフィアに手を伸ばしてしまった。二人はそれを受け入れ、許して、愛してくれたけれど。そんなことをするべきじゃなかった。リトリアは微笑みながら、戸惑う二人から視線を外し、一歩離れた場所に立つシークに視線を合わせた。
「シークさん」
「……ウン」
言葉魔術師は、リトリアの言葉を、想いを分かっているようだった。苦笑いをしながら、ゆるく片手を差し伸べてくる。リトリアは微笑んだまま、ストルとツフィアからふらりと離れ、差し出されたその手に指先を伸ばす。
「ごめんなさい……。ごめんなさい、シークさん。わたし、あなたのいうことを聞けない。ストルさんと、ツフィアと、一緒に、シークさんのことも、シークさんのせかいに連れて行ってあげられない……」
「ウン」
「でも……でも、力を貸して、シークさん。……『あなたの人形のように私は歌い』」
てのひらに。指先を与えて、握られるさまを見つめ。その熱を感じて、リトリアは目を閉じた。
「『なにもかも、なにもかも。願いを叶える力となりましょう』」
「……キミは、どうしたかったノ?」
リトリアの体をそっと抱き寄せながら、シークが問いかける。ストルとツフィアの叫びを聞かせないよう、リトリアの耳を手で塞ぐその男に、少女は微笑み、囁いた。
「みんなが……」
「ウン」
「しあわせ、で、いて……ほしかった、だけなの……」
もうひとりじゃないよって、わらって。だきしめてほしかった、だけなの。頬を伝い流れる涙を指先で拭ってやりながら、シークはウン、と頷いた。そうだね、そうだ。それだけだったよね。頷いて、息を吸い込んで、笑って。目を閉じたまま、リトリアは歌った。
『イイカイ、リトリアちゃん。手紙を送ったらイケナイよ』
『……てがみ?』
『ソウ。ボクにはもう、送ってはイケナイ。……じゃないと、悪いオオカミが、キミを欲しいト思ってしまうからネ?』
優しさは毒のように、ぐずぐずと心を腐らせた。それが欲しいと思わせてしまった。それなくては生きていけないと思うくらいの衝動を、キミだって分かっている筈だよ。くらやみのなかで囁かれて、リトリアはちいさく頷いた。
『でも、さびしくない? かなしくならない? ひとりだもの。ずっと、ずっと、ひとりだもの……』
『大丈夫サ』
キミが、ボクに、手紙をくれた。それがたとえこの一度ダケだとしても。そのことをボクはずっとずっと覚えてる。だから、さびしくはならない。いいね、リトリアちゃん。くらやみのなかから抜けださせようと、そっと背を押す声がした。
『――ボクに捕まってはいけないよ』
とん、と足を踏み出すように。長い夢から醒めるように。
息を吸い込み、リトリアはまぶたを持ち上げた。いつのまに座りこんでいたのか、力なく地についた両腕がリトリアの体を支えていた。びょう、と音を立てて過ぎ去って行く風が荒い。夕陽も落ちきる寸前であるのか、あたりは濃い闇とやきついた光の残滓に包まれていた。見渡す限り、そこは瓦礫の山だった。あたりにはなにもない。瓦礫の他には。あたりには誰もいない。リトリアの他には。死の深いにおいがあたりを包み込んでいた。リトリアは顔を覆うようにてのひらを押し当て、嗚咽を堪えてくちびるをかむ。
「ごめんなさい……」
あたりにはなにもない。ちかくには、だれもいない。ただ、荒れた音で吹く風だけがリトリアに寄り添っていた。その日。楽音と砂漠を繋ぐ国境が砕かれ、世界はふたつに分断された。
世界があった。繰り返され、けれども続けることができず、繋げることが叶わず、途絶えようとする世界があった。ひとりの青年が、星空を背に微笑んでいる。星空のような部屋の中、友人を前にして。
「頼んでもいいかな、ナリアン」
メーシャは、ナリアンの手を包み込むように繋いで、祈るように囁いた。
「俺が勇気を出せずに……ただ、見守ることしかできなかった。俺が繰り返すことのできない、世界の……希望を託しても、いいかな、ナリアン。頼んでも」
「もちろんだよ、メーシャ。何度だって言っただろ?」
俺を頼ってよ。俺に託してよ。力になるよ、必ず、って。うん、そうだった。そうだったな。青年は額をこつりと重ね合わせ、親しく、くすくすと泣きそうに顔を歪めて笑った。
「俺はまた……ここで世界を巻き戻すよ。ロゼアと、ソキを助けられなかった。また、また……俺たちはうまく行かなかった。なにもかもぜんぶ、だめだったけど、でも……でも、諦めない。なにもかもうまく行くまで」
「うん。俺にも手伝わせてよ、メーシャ。……ひとりじゃないよ。俺がいる。ロゼアだって、ソキちゃんだって……皆、ずっと、一緒だ」
時間を巻き戻すそのとがを。俺たちは四人で背負っていくんだよ。うん、と頷くメーシャに、ナリアンは言った。さあ、この世界の希望。魔術師の、すべての、俺たちの。俺の、希望である、きみ。
「俺はなにをすればいい?」
メーシャは迷いなく腕を持ち上げ、ひとつの星を指差した。消えそうに瞬く、魔術師の守護星。そのひとつ。あの星に、彼女に、どうか。世界を巻き戻す術を、伝えて。
荒野に月明かりが落ちる。だれもいない、なにもない、砂と岩だけが広がる世界にも、夜が訪れる。リトリアはどこへ行くこともできず、己が壊してしまった砦の、瓦礫の中にうずくまっていた。音を成して風が吹く。おいでおいでと腕を引くように吹く風は、その場へ留まり続けようとするリトリアを心配しているようでもあった。泣くこともできず。ふるふると首を横に振り、リトリアはもう目を閉じてしまおうと思った。けれど。
『――みつけた!』
歓喜の声が。よろこびと幸福の歌声のような響きが、リトリアの意識を震わせる。
『みつけた! ようやく、やっと! ああ……ああ、よかった! ナリちゃん、ナリちゃん! ナリちゃーん!』
それは月の輝く夜。古びた机に指先がそっと滑り落とす、細く光沢のある薄桃色のリボンに似ていた。くらやみのなかを、切り裂くような強さはなく。それでいて、確かにそこに存在するものとして。淡く咲く花のようなひかりが、天空からするりと、リトリアの眼前へ降りてきた。
『ナリちゃん、こっちよ、こっち! ニーアは、こ、こ、よー!』
「……え、えっと……」
もうちょっと落ち着いて落ち込んだり悲しんだりしたいので、できればリトリアから離れた所で騒いで欲しいのだが。困惑に眉を寄せてぺたりと地面に座りこむリトリアの前で、可愛らしい色合いの光はふわふわ、右に左に落ち着きなく揺れ動いた。
『――わたしは妖精! 花妖精!』
ふわふわ、風に揺れる綿毛のように。歌いながら、ぼんやりとした光はだんだんと妖精の形を成して行く。失われた筈のものを逆戻すように。失われた筈のものが、元の形を思い出すように。
『いとしい風の導きに、いとしいあなたの導きに、いとしいナリちゃん、いとしいあなた。私のあなたの導きに! わたしはひかりになりましょう。ちいさなことしかできないけれど、わたしはそれしかできないけれど、ナリちゃん、ナリちゃん。いとしいナリちゃん。あなたが願ってくれたから、わたしにねがってくれたから。わたしはひかりになりましょう。かなしい風が終わるまで、あなたと共にわたしは行くの!』
くるくる、舞い踊るように妖精は現れて。満面の笑みで、天空に座す満月に両腕をひろげ、伸ばした。
『運命の覆るその時まで! 運命を覆す、その為に! ……ナリちゃん、ここよ! こ、こ、よー!』
ぱたぱたぱた、ちいさな腕をいっぱいに動かして。妖精は、世界に。
『私たちが探してた、希望の欠片! 運命を上書きする予知魔術師! リトリアちゃんは、ここよー!』
風を、呼びこんだ。やさしい風を。あたたな風を。希望を抱き、決して諦めない、風を。
『ナリちゃん!』
天空から、満月から。直角に、風のかたまりが地面に叩きつけられるように落ちてきた。そんな風にリトリアは感じた。静寂も、なにもかも、押し流してしまうような風の群れ。息が苦しい程の密度が一瞬で消え去ったあと、残されていたのはただの月夜だった。瓦礫の隙間から見える砂漠に、月の、黄金の光が降り注いでいる。濃い藍色の夜が空を染め上げ、星たちは息をするように瞬いていて。
「……こんばんは」
聞き覚えのある。それでいて、まったく知らないひとのような。穏やかな声が、降り立つ靴音と共に、リトリアの耳に触れていった。瞬く間に形を失い、ふわふわとした光と化した妖精を、指先で包みこむように胸元に引き寄せながら。
「こんばんは、リトリアちゃん」
「ナ、リ……アン、さん……?」
「月がきれいだね。ようやく、君に会えた……。また、会えたね、って言ってあげたいけど。それも、本当、なんだけど……俺としては、ようやく、はじめまして、かな。ようやく……君に、辿りつけた。リトリアちゃん」
すとん、とその場に腰を下ろすようにしゃがみこんで。ナリアンは喜びに輝く瞳で、リトリアの顔を覗き込んだ。
「俺の話を聞いてくれる?」
語られたのは。リトリアのよく知る『学園』の、ナリアンが聞かせてくれた友人たちの話だった。ロゼアと、ソキと、メーシャ。己の師と、彼らの教員。先輩や、王宮魔術師たちの話だった。それはリトリアの知る彼らと同じであり、そしてまったく違う世界の話だった。どこで間違えてしまったのか、なにがずれてしまったのか、かすかな綻びはやがて大きな亀裂となり。魔術師たちを引き裂いた。世界は混乱の末に収束し、生き残った僅かな者たちの中で、占星術師たるメーシャが、泣きながらこう呟いたのだという。また、だめだった。なんで。どうして。俺は、俺たちは、世界はもう何回も何回も繰り返して。そのたびにまた滅びまで辿りついてしまうんだ。星の告げる未来が、メーシャにそれを囁き。彼は、それを知ったのだという。繰り返す世界のこと。それを成し続ける己のこと。それなのに、決まった法則でもあるかのように、どうしても覆せない結果があった。
ソキが生き延びられた未来がひとつもないんだよ、と言って、メーシャは泣いた。ロゼアだけは助けられることもあった。でもソキがいないロゼアはもう笑ってくれない。生きてる。でも生きているだけで、喜びも悲しみもぜんぶ、ソキと一緒に消えてしまう。どうすればいい。どうすれば。繰り返し続けてもこのままでは同じ。魔術師たちは互いに憎しみ合い殺し合って、そして世界が砕け壊れて滅んでしまう。何回も何回もなんかいもなんかいもやりなおしてるのに。助けられない。誰もだれも。ロゼアも。ソキも。繰り返してるだけだ。何回も悲しませて、何回も苦しませて、何回も、死なせてしまう。繰り返した数だけ、俺は。俺が。
嘆き。希望を失ってしまいそうなメーシャに、妖精たちが囁き告げた。シディが、ルノンが、ニーアが。そしてソキを『学園』まで導いてきた案内妖精が、何度でも、と未来を指し示した。
『何度でも、何回でも! アタシはソキを迎えに行ってみせるわよ! どこへだってね! ……戻せるなら戻しなさいよ。そしたらアタシは今度こそ! ソキを導いてみせるんだから……幸せの先までよ! ぜったいに! 覆された未来の先まで! アタシはソキを迎えに行くわ!』
『ボクも何回でも行きます。ロゼアに会いに。……ボクにできるのは本当にささやかなことかも知れない。でも、彼が魔術師として生きる、その目覚めに……『学園』への導きに、選ばれたのはボクです。ボクにはチェチェリアさんのようにロゼアを教え、導くことはできません。また、止めることが……おかしいな、なんで、またって思ったんだろう。……でも。また、でいいのかも知れませんね。ボクはまた、ロゼアを止めることができなかった。でも、もし、やり直すことができるのなら、今度こそ。今度こそ、ボクは、ロゼアの助けになりたい』
『ナリちゃん! ねえ、信じて? 待っててくれる? うふふ、忘れてしまっていても大丈夫よ! ニーア、ちゃんと知ってるもの。ナリちゃんは何度でも、わたしと出会ってくれる、って。ナリちゃんは何度でも、わたしを待っていてくれる、って。ねえ、ナリちゃん。待っててね、何度でも待っていてね。ニーアが必ず迎えにいくわ。そして今度こそ、ソキちゃんとロゼアくん、メーシャくんと、ナリちゃん! リボン先輩と、シディくんと、ルノンくんと一緒に、いつまでもいつまでも幸せに暮らすのよ。それができる、って信じて?』
世界を巻き戻して、どうか。それができるなら、どうか。もう一度だけでも。それがもし、何回も繰り返された、何回目かの、もう一度だけ、だったとしても。もう一度だけ、どうか。願う妖精たちを代表するように、ルノンがそっと、メーシャのてのひらに触れて笑った。
『でも、メーシャが正しいよ。……何回も、何回も、やり直して、だめだった。うん、きっと、また、だめだったんだと思う。やりなおして、それでもまた、だめになるって思う、メーシャが……正しい』
「ルノン……!」
『きっと、ただ繰り返すだけじゃだめなんだ。やり直すだけじゃ、だめなんだよ、メーシャ。……だから、さ。調べような? 考えよう? 俺たち、皆で、調べるんだ。きっとなにかある筈だ。きっと、いや、絶対! だって、そうだろ? 時間を戻すなんて禁術が、なぜか、学園の図書館に普通におかれてる本に書かれてたんだ。……まあ、すごく封印されていたとはいえ、さ。なんでか、そこにあったんだ。誰かが残したんだよ。誰かが託したんだ。いつかの世界の、どこかで、誰かが。……だから、もしかしたら、あるかも知れない。繰り返す世界をよくしていく方法』
ようやく見つけたその方法こそが君。リトリアに囁き、ナリアンは笑った。
「この世界で占星術師だけが、禁術を用いて時間を戻すことができるけど……予知魔術師。君だけが、その世界を上書きできるんだ」
「うわがき……?」
「ああすればよかった、とか。こうすればよかったんだ、とか。たくさん、たくさんあったと思う。もしも、あの時、ああだったら。こうなっていれば。その、可能性を現実にして行くことができる。きみはその代償として、過去の記憶を失うことになるけれど……そんな苦しみを……君に、背負わせてしまうことになるって、分かってるけど……きみにしか、頼めないんだ」
ふと。リトリアは、はじめてストルに会った時のことを思い出していた。
産声をあげたばかりのそれが私の中をぐちゃぐちゃに掻きまわし飛び退って行く。ばきりばきりと壊れる音は、私が世界から切り離される為のもの。最後のひとつが音を立てたと同時に意識が絶える。誰にも助けを求められないのに伸ばした指の先に、ひとり。名を呼びかけようとしたのか開いた唇が、言葉を知らず閉ざされる様を、見た。
その、唇が、やがて。名前を呼んでくれたことを、リトリアはちゃんと覚えていた。
ああ、あの断絶は、記憶の空白は。この為に必要なものだったのだと、笑って。リトリアはためらうナリアンの腕に指先を触れさせ、大丈夫です、と頷いた。あれが偶然ではなく。あれすらもしも、繰り返した果ての世界に定められた喪失なのだとしたら。今度こそ、とリトリアは思った。今度こそ、何度でも、何度だって。やり直せる。
この世界の、未来と引き換えに。