この世界はどうなるの、とリトリアは問いかけた。星たちが見下ろす部屋の中心で、両膝をついて手を祈りの形に組み合わせ、眠るように目を閉じながら。己の魔力と、この部屋、それを内包する建物、渡り廊下で繋がる群を成す作りの棟たちに満ち満ちる、夥しいほどの占星術師たちの魔力を感じ取りながら。傍らに立つ風の魔法使いへ問いかけた。魔法使いは淡い花色の光を抱き寄せ指先で撫でながら、すぐに消えてしまうことはないよ、と告げる。
「術を発動したからと言って、その瞬間にこの世界が絶えてしまうことも、消えてしまうことも、終わってしまうことも、滅んでしまうこともない。ただ……ただ、緩やかに時を止めてしまうだけ。世界を動かす時計は君に移される。君はその時計で動くことになる。だからね、君は……俺もだけど、君が存在しない、ここからの未来へは行けないし、君が存在しなかった、それまでの過去は変えられない。君が戻せるのは、君が産まれた瞬間から、君がこの世界を去るその時までの時間で、君の……記憶が、消えてから。魔術師としての本当の目覚めを迎え、魔術師として目覚めてからの時間からしか、書き換えることができない」
「……なんでもできるわけじゃないの?」
「なんでもできる訳じゃないんだよ。残念なことにね」
ナリアンは膝をつき、リトリアの髪をひとすじ摘みあげると、それを耳にかけ直してくれた。
「俺にも君にも、できないことがある。俺が出来るのはこうして、繰り返された別の世界に干渉することで……君がする上書きとは全然違うんだ」
「それは、どう、ちがうの? あ、えっと……その、違うんですか……?」
恥ずかしそうに身をよじるリトリアに、普通に話してくれて俺は構わないよ、と笑って。ナリアンは星の瞬く部屋をぐるりと見回した。静寂に満ちた星の部屋。世界の、とある場所に存在する占星術師たちの聖域たる建物。その建物に魔力を宿し、はじめて占星術師たちは一人前とみなされる。これまでこの世界に存在してきた数多の占星術師たちの魔力が、この建物には宿っている。それが本来不可能である筈の、占星術師以外の禁術の発動を手助けしてくれるのだ。それは本来、予知魔術師にすら不可能なこと。発動をまかなう魔力がどうしても足りないからだ。例え魔力の供給役として魔法使いが傍にいたとしても、その回復すら凌駕してしまうから、不完全な発動になる。予知魔術師が正しく、完全に、世界の時間を巻き戻せるのはこの場所でだけ。この、星々の瞬く部屋の中でだけだった。
「文字を書く作業に例えると分かりやすいかも知れないね……。俺ができることを、例えば、完成した本に線を引いて、それこそ別に文字を書き足したりする作業だとしようか。それは一見、上書きとそう変わらないように思えるかも知れない。でも俺ができるのは、膨大な数にのぼるであろう文字数、文字列、冊数のうち、ほんの一行を訂正してしまうことだけ。そこまでの道筋は変えられないし、そこからの結末も……変わらないことが多い。メーシャくんができるのは、その物語が書かれる前に時間を戻してしまうことだけ。だから同じ物語が紡がれる。書き変えても、書き足しても、ほんのすこし道筋、要素が変化していくだけで、結末はいつも一緒だ……でも君は」
書かれた文字列ではなく、それを描くその人に。干渉してしまうことができるんだよ。ナリアンはそう言って、不安に揺れるリトリアの目を覗き込んだ。大丈夫だよ、と告げるように。
「物語を描く前に、そうじゃないよ、そうしてはいけないよ、って耳元で囁く。君は時間をさかのぼりながら、ずっとそうして行くことができる。時間を、行ったり来たりしながら、いろんな場所で、いろんな人に、そうすることができる。君が……たくさんの君が、君たちが、これから、世界を変えていくんだ。俺はその導きで、君の助け」
「みちびき……?」
「君が知らない世界のこと、君が知らない人たちのこと。どうしても助けなければ結果が変わらない、事件だったり事故だったり。それは、うんざりするほど多いし、うんざりするほど……時間もかかると思うけど、結局は変えられず……また、繰り返してしまうかも知れないけど。皆が納得する、幸せなんて、ほんとうは……どこにも、ないのかも知れないけど、でも」
ロゼア。ソキちゃん。喉元をてのひらで押さえ、そこから零れ落ちる悲鳴を殺してしまうような声で、ナリアンは低く囁いた。それでも俺は、君たちが生きていく世界を探したいんだ。ふたりが、しあわせだって、笑いあって。メーシャくんが、俺が、よかったねってふたりをみて笑いあえる。そんな世界でいいんだ。それだけでいいんだ。他に多くを望まない。ただ、君たちが生きて。笑って。しあわせに。それだけ。たったそれだけなのに、そのことがこんなに難しい。俺はなんかい繰り返しただろう。なんかい君たちを死なせ、なんかい、助けられたと思いこんで、なんかい、そのしあわせを指先からとりこぼしてしまったんだろう。あとすこし、もうすこし、ほんのすこし、だった、はずなのに。なんかいでも、そんな風に思って。
永遠を生きるように。永遠の時を彷徨うように。君たちを今も探してる。君たちが生きて、笑いあえる世界を、俺はしあわせだと呼ぼう。そこが俺の旅の終着点。繰り返しのはじまった時からの、長いながい、永遠のようなこの旅の。しあわせな終わり。俺はその為に、君の手を引いて行く。まっすぐな目で、もう覚悟を決めてしまった者の目で、ナリアンはリトリアに言った。君は俺と同じように苦しみ、悲しみ、嘆き、怒り、痛みを覚え、どうしようもなく変えられなかった、変わらなかった結末に、何度も何度も泣き叫ぶだろう。それでも、俺は希望を託された。そして君は、希望になれる。だから、だからこそ。かんがえて、教えて、そして、忘れないで。
君の望んだしあわせな世界の在り方を。そこを目指して行くという意思を。君の願った、しあわせな世界、は。しあわせっていうものが、なんだったのかを。ささやきに、リトリアは微笑んで頷いた。それを考えるのは初めてのことだったけれど、どうしてだか不思議に、答えを知っていた気がした。もう何回も繰り返していたかのように。ようやく、それを思い出せたかのように。なにがしあわせなのかを。どうしてそれを目指していたのかを。どうすれば、それが、できるのかを。もう一度、と誰かが囁く。リトリアはそれに頷いた。もう一度。もう二度と。この悲しみを、この苦しみを、繰り返したくなどないけれど。それでも、だからこそ、もう一度。
何度でも。
時間は逆さまにされた砂時計のように零れながら、すこしづつ過去へ落とされて行く。その砂が落ちきる瞬間が来るのかはリトリアには分からなかった。あるいは日時計のように針だけをくるくると回しながら永遠にあるものなのかすら。さあ行こう、と差し出されたナリアンの手をとって長いながい旅がはじめられる。とある世界で。リトリアは『棺』へ迎えに来たストルに首をふった。一緒には行かない。一緒には行けない。だってそんなことをしたらあなたはなにもかも失ってしまうのだと。ストルは微笑みながらリトリアを抱き寄せ、囁く。それはもう手遅れ。なにもかも断ち切られた後なのだと。ストルはかけ込んで来た花舞の魔術師たちによって拘束された。助けてという懇願の声は響きながら死んでいく。これじゃだめ、これじゃだめ。あのひとはしあわせになれない。砂時計がひっくり返される。
とある世界で。リトリアは己の拘束を知り、助け出そうとするストルとツフィアを止めようとした。大丈夫、閉じ込められてしまうだけだから。さびしいかも知れないけど、悲しいかも知れないけど。助けに来なくて大丈夫。ここで待っていて。待っていてくれればいつかきっと、会えるから。姿なき意思は夢のようにふたりに響いたけれど。二人が拘束される定めは変わらなかった。これじゃだめ。時計がくるくると針を回す。とある世界で。リトリアはシークに面会を伝えようとする寮長の耳元で囁いた。会わせないで、お願い。シルは訝しげに眉を寄せ立ち止まり、しばらくなにかを考えているようだった。体が反転し、でてきたばかりの部屋へ戻って行く。また、今度にしてくれないか。断りに、シークは仕方ないね、と笑って頷き。翌日、砂漠の花嫁を連れ去り壊してしまった。結果が変わらない。ほんのすこし道筋が違うだけだった。
とある世界で。リトリアは砂漠の街を彷徨い走るロゼアの腕をひっぱった。あっちよ、あっち。ソキちゃんはあそこにいるの。はやく助けてあげてと指差し示した先に、ロゼアはかけていったけれど。結果は変わらなかった。『花嫁』は壊され死に至る寸前で、目覚めたばかりの彼の魔力がその命を繋ぐ力となる。これではソキはまた部屋から出られずに。ロゼアはいつかソキを連れて『学園』を出ていくだろう。これじゃだめ。これもだめ。とある世界で。その世界で。はじめてリトリアは、花嫁誘拐事件が起こっても『学園』にあり続けた。その世界でリトリアは、これまで以上にシークと関わらず、ストルとツフィアの庇護の中にいたからだ。おはなししてはだめ。親しくなってはだめ、とリトリアが囁き告げたからだ。祈るように目を閉じる。どうか、どうか今度こそ。けれども『花嫁』は壊れたまま。世界はまた滅びの道を辿る。
とある世界で。ソキは『学園』に辿りつくことができず、その旅路の途中で言葉魔術師の腕に囚われてしまった。とある世界で。なにもしていないと訴えたのに、ツフィアは同じ言葉魔術師であるというだけで幽閉されてしまった。とある世界で。ストルは囚われたリトリアを助ける為に、なにもかもを手放してしまう。とある世界で。なにもかもうまく行きかけていたのに、ソキがロゼアの手を離し傍を離れたことで、彼は世界の半数を敵に回して『花嫁』を奪い返そうとした。とある世界で。リトリアの声は誰にも届くことなく、同じ結末が導かれ繰り返されて行く。これじゃだめ、だめなんだよ。泣き叫ぶリトリアの腕を引き、ナリアンは静かな声で言い聞かせる。
さあ、もう君にも分かってきた筈。どうしても変えられなかったいくつかのことがあって、どうしても変えなければいけないいくつかのことがある。たとえば、いつの世界も魔術師になる人数は変わらない。入学の時期や年齢がほんの僅か前後するけれども、魔術師になるものは目覚め、ならないものはならないままであること。一番変化しやすいのは交友関係。親しい友人たちの存在はあっけなく消えたり、多くなっていく。何度繰り返しても、どんな手を尽くしても、ソキちゃんは誘拐されることは変えられなかった。だからなるべくはやく、ロゼアをそこへ導いて。閉ざされた地下に置き去りにされてしまう二人を、もっと白魔法使いたちが見つけやすい場所に移動させて。助けてもらうしかないんだ。ソキちゃんがそこで壊され切らないことが、ロゼアを救うひとつになる。さあ、良い結果に書き換えて次の世界へ、また次へ。
世界はゆっくりと改変されていく。ひどく些細な変化を起しながら、最終結果まで見つめられて。まだだめだった、まただめだった。ふたりの旅は終わることなく。しあわせを目指して、それでも繰り返されて行く。そして、とある世界で。
砂漠の王宮。市街を見渡せる高台の回廊を、魔術師と兵士たちが慌ただしく行きかっている。誰もが慌てた顔つきで、悲鳴や怒鳴り声に近い指示、混乱、噂話にすら近い不確定な情報が飛び回る中を、ひとりの男がゆったりとした足取りで歩いていた。身長の高い、痩身の男だ。砂漠の男たちに多い煮詰めた飴色の肌ではなく、すこしばかり病的な白い肌をしているが、室内に籠り切りとはすこし違う雰囲気をしている。魔術師のローブが、市街から駆け抜けてきた風にはためいて揺れる。ふあぁ、とだいぶ眠たそうなあくびと共に揺れる短い髪は、どこかさっぱりとしたあかがね色をしていた。先日、カニ煮るとこういう色になるよな、とからかってきた同僚は、しばらく悪夢に苦しむに違いない。男の瞳は澄んだ忘れな草の花を宿していて、立ち止まり、雲ひとつない青空を見上げていた。
砂漠の国は今日も良い天気だった。日差しがすこしばかり強すぎることの他は、男はとてもこの国を気に入っていた。男の髪色を、煮たカニだの赤い胡椒だの日陰で熟れた色濃い林檎だの、なにかにつけて執拗に、なにかに例えようとする親友の白魔法使いと、その発言を聞いた主君たる王が、ほぅ、と深く頷いて納得しつつ、興味を向けてくる眼差しさえ無視していれば。なぜ仕える主人たる王に、なんだそれおいしそう、みたいな目で頭をみられなければいけないのか。おかげでここ数日、同僚の王宮魔術師たちから向けられる視線は、心の底から同情的かつ、なにかいじめられたら言えよと言わんばかりのものだったが、ちっとも嬉しくならないのはどうしてなのだろうか。さらにその翌日から、王宮警護の兵士たちから、男に向けられる愛称といえば『カニ』である。すでにいじめられている気がしてならないのは気のせいなのだろうか。
緊張感漂う廊下で遠い目をして空を仰ぐ男に、兵士たちがばたばたと走り去りがてら、徹夜してたんなら一回寝てから指示受けろよカニいいいいっ、と叫んで行った。すこぶる余計なお世話であるカニとかいうな。へぶううぅっ、と笑いに吹き出して廊下の端でうずくまっている、諸悪の根源である白魔法使いは、男に白い目で見られるや否やすっくと立ち上がり、あっはははは緊急事態だやべええええっ、と言いながら何処へと姿を消してしまった。この国には緊張感というものが足りない。はあああぁ、と深々と息を吐き、男がとりあえず、と白魔法使いのいなくなった方向へ足を進めようとした時だった。ぱたぱたぱたっ、とどこか可愛らしい足音と共に、進行方向とは逆側の廊下の端から、きゃああぁと叫び声が響いてくる。
「ま、まってまってっ! やっ、まってまって!」
「……分かったから落ち着いておいでヨ? さもないとキミ、絶対に」
「きゃああぁあっ」
転ぶヨ、という忠告と、少女が男の背中にぶつかるようにして転び、抱きついてくるのはほぼ同時のことだった。げほっ、と思わず咳き込む男に、少女は恥ずかしげに顔を赤くして、やああぁああごめんなさいっ、と涙目だ。
「い、痛くない? いたくないですか? ち、ちがうのわたし立ち止まろうとおもったの……!」
「毎日のコトだからネ……慣れたヨ……。それで? 今日はどうしたんダイ?」
ぽんぽんぽん、と落ち着かせるように、服に覆われた腕のあたりを慎重に手で叩き。男は身をよじって、背に顔をぺたりとくっつけてぐずぐず涙ぐむ少女の名を呼んだ。
「リトリアちゃん? それで? 猫がまた捨てられてイタ? 小鳥が巣から落ちちゃったノ? それとも朝食のデザートがおいしくなかったのカナ? 蕾ダッタ花が枯れちゃっタかい?」
「そうじゃないです……。ちがうの、私、聞きたいことがあって……」
「ウン?」
探していたの、と告げるリトリアを背からはがそうとせず、シークは首を傾げて問いかけてやった。同僚の一人でもあるこの年若い砂漠の王宮魔術師である少女は、なにかと問題を起こす第一人者で、だいたいシークに助けを求めに来るのが日課なのだが、今日はすこしばかり違うらしい。どうしたの、と問うてやれば、藤花色の瞳がそろそろと、シークをみあげて瞬きをする。
「……どうしてロゼアくんを見逃したの?」
なんの話カナ、と誤魔化してしまうには、リトリアの瞳は確信を持ちすぎていた。声もひそりとして響かず、今も慌ただしく兵士や王宮魔術師たちが走りぬけていく廊下であっても、誰の意識にすら触れなかっただろう。その名は今、この砂漠の王宮で響かせるには危なすぎるものなのに。誘拐、『砂漠の花嫁』が、『学園』在籍の魔術師のたまご、傍付き、情報がない。どこへ。ざわざわざわ、揺れる空気を感じているだろうに、言葉を聞いているだろうに。それを素知らぬふりで。きょとんとしてシークを見上げるばかりのリトリアに、男はおいで、と少女を手招き、歩き出した。リトリアはおそらく、シーク以外に会話が零れないように予知魔術を展開しているだろうが。それにしても往来の激しい場所でする話ではなかった。
強い日差しが濃い影と、まばゆいひかりを縞模様に落として行く廊下を、連れだって歩く。慌てもしないのんびりとした二人を、咎める視線は不思議なまでにひとつもない。まったく、と息を吐きながら、シークは広く作られたバルコニーのひとつに辿りつき、壁へ背を預けてしまう。視線の先には街が見えた。街と、そして、外壁の輪郭が花の形を成す、『お屋敷』が。そこも、今は大変な騒ぎであるだろう。なにせ嫁ぐ間際も間際、本当なら今日、何処へと向かう予定であった『砂漠の花嫁』が、魔術師のたまごに連れ去られ、行方不明になってしまったのだから。いや、とシークは苦く笑う。『お屋敷』は彼を、魔術師のたまごとは思わない筈だ。『元傍付き』か、あるいは今もそう呼ばれていたのかも知れない。
彼は『傍付き』だった。魔術師として『学園』へ召喚を受けるその時まで。嫁ぎ先の決まった『花嫁』の、『傍付き』であった青年の名を、ロゼア。連れ去られた『花嫁』の名を、ソキという。魔術師のたまごによる、『砂漠の花嫁』誘拐事件。これがいま、砂漠の王宮をどよめかせ慌てさせている事件の、暫定的な呼び名である。
「シークさん?」
「ナンダい?」
腕を組み、疲れた風に目を伏せるばかりで話しだしてくれない男に、焦れたのだろう。リトリアは両手をゆるく握り締めながら、僅かばかり不愉快げに眉を寄せ、ちょこん、とばかりに首を傾げて再度問う。
「ねえ、なんでロゼアくんを見逃したの? ……なんとなく、おかしいとは、思ったのでしょう?」
学園は長期休暇の最中である。年末年始を挟む形で、前後一月。合計で二ヶ月の休みの、もう終わりが見える頃だった。昨夜のことだ。夜の遅く。学園と砂漠を繋ぐ『扉』の起動した、魔力のほんのわずかな気配に、シークは起きて部屋を抜けだした。『扉』はいつ何時でも動かされる。深夜であれ、早朝であれ。それを一々気にする者などいないのだが、やけに引っかかって向かった先に、佇んでいたのは魔術師のたまごだった。先日、帰省を終えて、学園へ戻った筈の青年。入学して二年が過ぎ、先の年明けで十八歳になったばかりの。ロゼアクン、とシークは呼びかけた。どうしたの、忘れ物でもしたのカイ、と笑って。ロゼアは振り返り、いいえ、と言ってあまくやわらかに微笑んだ。
「キミも、見ていたのなら声をかければ良かったノニ。どうしてそうしなかったんダい?」
「……ねむたかったの。夜だったんだもの」
つん、とくちびるを尖らせて拗ねた様子で息をはくリトリアに、シークはソウ、と笑って肩をすくめた。ロゼアが『砂漠の花嫁』を、嫁ぎ先の決まった己の宝石を連れ去ったのは、その後のことであるという。迎えに来たよ、と微笑む青年の腕に、『花嫁』はどんなにか幸福に微笑んだだろう。二年前。『傍付き』が魔術師のたまごだと案内妖精が告げた際、『お屋敷』では、それはもうひどい騒ぎが起きたという。案内妖精が迎えに来たのは、ロゼアだけで。その年の新入生は、三人だったのだ。日曜日の休みごと、ほんの数時間であっても、ロゼアは許可をとって『お屋敷』に舞い戻り、己の『花嫁』をその腕に抱き上げた。
会いたかったです、寂しかったです、ソキね、ちゃんと我慢してたです、だからだっこしてぎゅってしてねえねえロゼアちゃんっ、と泣いて求める『花嫁』に。俺もだよ、と囁いて。二年。ずっと、そうしてあった二人だった。十五の、『砂漠の花嫁』が嫁がねばならないぎりぎりまで、『お屋敷』に留まりたいと希望を出し続けたソキが。夏ごと、案内妖精の訪れを待っていたのを、砂漠の王宮魔術師であるなら誰もが知っていた。ロゼアが『学園』へ連れて行かれた日から、夏が終わり秋になり、世話役たちが懇願して窓を閉めてしまうまで。その年も、翌年も、その翌年も。ソキはほたほたと声もなく涙をこぼしながら、天にきらめく星を紗幕ごしに見上げ、妖精の訪れを待ち続けた。
『ねえねえ、リトリアちゃん。ねえねえ』
ごくたまに。土曜日の夕方、授業が終わるくらいの時間帯に。出迎えを懇願したのだろう。砂漠の王宮の隅、『扉』の前で世話役たちと待ちながら、ソキは護衛を命じられたリトリアに、不思議とひとみしりすることなく問いかけてきた。
『ソキ、がんばればまじゅつしさんになれるですぅ? ねえね、ソキ、ロゼアちゃんとおんなじとこにぃ、いけるですー? がくえん。で。まじゅつしさんの、たまご、できるぅ? ソキ、ロゼアちゃんとおんなじがいいです!』
『……そうだネェ』
ゆるく笑いながら囁いたのは、リトリアではなく。その傍らに立つ言葉魔術師だったけれど。男はなにもかもを分かっているような眼差しでソキを眺め、ごく穏やかに肩を震わせて笑いながら、幾度となくこう告げた。
『もうスコシ、待っていてゴランよ。ロゼアクンの『花嫁』チャン?』
『ぷぷ。ソキ、もういーっぱぁい! まったぁ、ですぅ! ……やぁんや、やぁんやぁんー! ロゼアちゃんまだぁ? ねえねえロゼアちゃんは? ロゼアちゃんまだですぅっ……? ソキ、いいこにしてたですよぉー……』
けれども、待てど暮らせど、『扉』の動く気配はなく。やがて『花嫁』はその瞳にいっぱいの涙を満たし、ほたほたと零してしまいながらぐずりだす。
『ろぜあちゃ、も、かえってこなぁ、でぅ……? そきじゃな、て、ろぜあちゃ、だれか、すきなこが、できちゃ……ふえ、ええぇええ……!』
『大丈夫ですソキさま! ロゼアに限ってそんなことはありませんというか! ロゼアにそんなことはできません! 無理です! 無理難題も良いところですからあああああ……!』
やんやんじゃあなんでロゼアちゃんかえってきてくれないですかぁっ、と絨毯の上に布が幾重にも重ねられた場所に座りこみながら、ソキは泣きじゃくってごめんなさい、と言った。
『そきが、そきがこないだ、りょこさき、で、わがままいったの、いいこにしてなかった、の、ロゼアちゃんおこってるですぅ……! やあぁああきっとそうですううぅ! やあぁんやぁあんだってあしぺたぺたさわったり、おなかとかおむねとかさわぅのやぁんだったんです……ロゼアちゃんがいいです。ソキさわってもらうならロゼアちゃんがいいですううやあぁああ……! ええぇん……そきがわがままなの、きっとロゼアちゃん、うんざりしちゃったです。だからおこってかえってきてくれな、です……!』
『大丈夫ですロゼアにまで伝わっておりませんというか! なんですかそれメグミカがぶち殺して参りますのでソキさまもうすこしくわしく……!』
『メグミカ落ち着いて! 漏れてる! 本音漏れてるううううう! ……でもその候補は消そうこの世から絶対に』
もしかしないでも『お屋敷』の世話役の女の子たち、ちょう怖い、という視線を王宮魔術師が交わし合い、深々と頷きあう。ソキは世話役たちの話など完全に聞き流した態度で、ロゼアちゃんソキのこときらいになっちゃったらどうしようソキロゼアちゃんのことすきすきなんですううぅ、とぐずぐずと泣いている。大体いつもそのあたりで、ロゼアが慌てた態度で『扉』を開け、帰ってくるのだった。なによりも先にソキの名を呼び、なにをするよりはやく跪いてその体を抱き上げる。ひしっとくっついて泣く背を撫でて宥め、頬をこすりつけてただいまと告げながら、ロゼアはようやっと安心したように息を吐くのだ。
ソキが『扉』が開いて、ロゼアが帰って来てくれるのを待っていたように。『扉』の先、そこに己の『花嫁』がまだいてくれるのかを、ずっと不安がっていたように。そうしていたのを、砂漠の王宮魔術師は誰もが知っていた。だからこそ。慌てる王宮の片隅で、シークは疲れたように、呆れたように腕を組んで息を吐く。
「……思うのだけどね、リトリアちゃん」
「なにを?」
「これは誘拐ではなく、駆け落ちと呼ぶのではないカナ?」
ぎゃあああ陛下が胃痛で動かなくなっちゃってるんだけどぎゃああああああっ、と叫びが風に乗って二人の元まで届く。とある日のことである。
繰り返す時は止められている。今度こそ、としあわせを祈りながら。