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 困ったことに、リトリアの敬愛する砂漠の国王には不眠癖がある。病と思うにはいまのところ深刻さがなく、本人がものすごくあっさりしているので、それを知る者たちは誰ともなく不眠癖、と呼んでいる、そういうものだった。医師の治療も受けたのだが、睡眠薬以外の特別な治療は見つからず。どうにもこうにも心に原因があると、諸国の王たる幼馴染たちは口を揃えて遠い目をした。なにせ、延々眠れないとか寝てもすぐ起きちゃうとか眠りが浅いとか、もうそれはしょうがないとして。どこか、どこでもいいんだけど、深くゆっくり眠れそうな場所を探すしかないと思うんだよね、避暑地とかなんか作るのどうかな、と述べた白魔術師に、王曰く。
 安心して落ち着いて眠れる場所なんてこの世のどこにもあるわけないだろうが、探すとかそんな時間が無駄になりそうなことはしないし、許可できないからお前たちもするなよ、とのことである。あまりにあっさり言われたと聞いて、砂漠の王宮魔術師たちは全員で頭を抱えて陛下あああああああと叫んでうずくまって泣いたが、そこへ数年前、救世主が現れた。占星術師、ラティである。ラティは、魔術師たちがどうしてそうなったと天を仰いで叫んで祈りたくなるくらい魔力総量がすくない、すくないとするにもはばかられるくらいのものしかない魔術師であるが、彼女には不思議な特性があった。
 唯一、ラティが満足に使うことのできる魔術、望む夢を導き対象者を穏やかな眠りに導くそれを、どんな相手にも贈ることができるのである。相手の属性や適性、状態に関係なく。魔術師であろうと、一般人であろうと。世界から特殊な守りを受ける王族であろうと、とにかく構わずに、無差別に眠りを捧げることのできる稀有な術者。それがラティだった。ラティが卒業資格を手にしたと聞いた瞬間の砂漠の魔術師たちといえば、とにかく手段を選ばず、彼女の獲得にかかった程だ。本来、魔術師の配属先の決定権を持つのは、五ヶ国の王。彼らのみであって、そこに魔術師たちの意思意見など反映された試しはないのだが。
 お願いしますうちの陛下の安全安定安心の健やかな眠りの為にラティください、と五王を前に、砂漠の王宮魔術師たちが全員床に額をこすりつけて懇願したそのさまは、砂漠の王曰く記憶から失いたい黒歴史堂々第一位であり、他の四カ国の王曰く、未だに思い出すだけで腹筋に衝撃が走って笑わずにはいられないあの瞬間の砂漠の彼の顔と言ったらっ、と今でも語り草になっている。そんな状態であるので、砂漠の王の不調とあれば、白魔術師と一緒にラティが連行される、というのはごく自然なことだった。例えラティが、長期休暇の終わりにあわせて数日の休みを取得していて、魔術師のたまごとなった養い子と穏やかにのんびり過ごしている最中だったとしても。
 おかげで砂漠の王宮の一角は、自国出身の魔術師のたまごに嫁ぐ間際の『砂漠の花嫁』を誘拐された精神的な負荷から胃の痛みで動けなくなった王と、あまりの事態に笑いが止まらなくなって腹筋がつった白魔法使いと、せっかくメーシャと紅茶がおいしいお店を予約してたのにいいいいと嘆きながらも主君を眠りに叩き落とした占星術師のせいで、大変混沌とした騒ぎの真っ最中である。これからどうすればいいですか、と聞くべく王の元を訪れようとしていたリトリアは、半開きだった扉を音がしないようにそーっと、そおぉおっと閉めると、苦笑いで様子を伺っていたシークに、ふるふるふると首を横に振ってみせた。とりあえずの落ち着きを取り戻すにしても、もうしばらくかかりそうだった。
「ジェイドには連絡を?」
「した、とは聞いたけど……ジェイドさん、戻って来られるのかしら……?」
「我らガ筆頭はお忙しイカラねぇ……。あまり期待シナイでいる方がお互いの為カナ」
 砂漠の王宮魔術師筆頭の姿など、新年の祝いの日にすら見ていないありさまだ。話では年に一度は王宮に戻り、あれこれと王に報告をしているとのことだったが、リトリアもシークも、未だ遭遇したことがない。というか姿をみたことがないので、一部では非実在が囁かれる程だった。いやいるよ俺も五年くらい姿見てないけど、とあっさり告げたフィオーレの横で、砂漠の王が頭を抱えて先週会った普通に生きてるに決まってんだろこの馬鹿ども、と呻いていたのでまあ存在はしているのだろう。たぶん。手紙を出せば半年間隔で戻ってくるが、残念なことに筆跡を偽造しようとすれば、それを叶える魔術など、この世界にはいくらでも存在しているもので。ううん、と首をひねりながら、リトリアがそれにしても、と呟きかけた時のことだった。
 彼方から近づいてくる足音とささやき声に、リトリアの姿が硬直した。うわぁ、とシークが顔を歪め、リトリアが息を吹き返して彼方へ走り去ろうとするも、時すでに遅く。慌てて転びそうになるリトリアの腕を掴んで引き寄せ、背後へかくまってやったと同時。訝しげな声が、シークの名を呼んだ。
「砂漠の陛下にお会いしたいんだが……そんなところでなにを?」
「ストル。……うわぁ、ウワァ……ツフィアまで……どうしたんだイ? フタリ揃って」
「あなたね。人の顔を見るなりそれはないんじゃない? ……私たちの陛下、星降の王たる方が、お手伝いしてあげてきてよ、と仰るものだからその為の……偵察と調査と、そうね。出張かしら?」
 立っていたのは、星降の王宮魔術師の男女。占星術師ストルと、言葉魔術師ツフィアだった。二人は同年入学ではないものの、なにかと気が合い、『学園』を卒業した今も同じ国の王宮魔術師であることもあって、よく連れだって歩いている。ちなみにどちらも、付き合っているのか、恋中なのかと問われると苦虫を噛み潰したあげくに飲み込んでしまったような顔をして、産まれてきたことを後悔したくなかったらその質問は二度とするな一度だけならば許す絶対に違う、と言い放つまでが一連の流れだ。『学園』在籍時代はともかく、王宮魔術師として迎えられてなお二人が共にいることが多いのは、単に若手で最有能とされているので動かしやすく、組まされているというだけなのだが。ツフィアは閉ざされたきりの執務室の扉をいちべつするなり、おおまかな事情を察したようだった。
 すこし来るのが早かったようねと息を吐き、もの言いたげな視線をシークへと投げかける。
「ところで」
「……ナニカナ?」
「その、背に隠している子を前に出して挨拶させるとか、しようとは、思わないのかしら? ……最低限の礼儀は守らせなさい」
 あからさまに苛立った物言いと声に、シークの背後でびくっ、とリトリアが体を震わせたのが分かった。かたかたと、シークの服を掴む手が、腕が震えている。怯えるように。泣く寸前のように。訝しげに、やや不愉快そうに眉を寄せ口を閉ざすストルも、要求は同じようだった。リトリアちゃん、とシークは囁く。リトリアは、こくん、と無言で頷き、シークの背にすがりついていた体を離し、怖々とその前へと歩み出る。強張った指先がもじもじと、何度も何度も組み合されながら、震えをどうにか隠そうとしていた。
「あ……」
 ひりついた声が押し出す声が、裏返っていて。泣きそうになりながら、リトリアは顔を赤くした。
「……の。えっと……。あ、あの……その……。……こんにちは」
「はい。こんにちは。……それで?」
「ご……挨拶も、せず、に……しつれい、しました」
 ツフィアの瞳にさっと広がったのは、失望と怒りだ。俯いたきりのリトリアには分からなかっただろうが、シークからはよく見えた。違う、とその瞳が言っている。そんなことを言わせたいんじゃない。こんな言葉を聞きたいんじゃない。どうして、あなたは。どうして、わたしに。
「ストルさんも……」
 ごめんなさい、と視線を向けずに吐き出された声はあまりに泣きそうで。握り締められたきりの少女の手は開かれず、どこへ伸ばされることもない。誰のことも求めないまま。リトリアは震えながら、ストルとツフィアに向かって頭を下げた。
「ごめんなさい……失礼を、致しました。お……おひさし、ぶりです」
「……俺は」
 くしゃりと前髪を片手で乱しながら、ストルが苛々とした様子で目を細める。その瞳にあったのはツフィアと同じ感情だった。失望と、そして怒りが火のように揺れ。それを宿す声は熱のように肌を痛ませる。
「俺は、君に、なにかしたか? ……なにか、してしまっていたのなら、教えて欲しい」
「私もよ。どうしてあなたは、そうしていつも、私に……私たちに、怯えるのかしら」
 くちびるに力をこめて、リトリアはふるふるふる、と勢いよく首を横に振った。ごめんなさい、と零れ落ちたのは謝罪の言葉。ごめんなさい、ごめんなさい、と震えながら、リトリアは囁いて。苛立ちを募らせる二人に、ようやっと、怖々と視線を向けて、息を吸い込む。
「ツフィア……さん、も。ストルさんも。なにも……して、いません」
「ソウダよネェ……。キミと来たら入学以来、ずっとずぅーっとこの調子ダモノ。避ケル、逃ゲル、隠レル、怯エル……挨拶できるようにナッタだけ、頑張ったネ。キミたちも、そうやって突いていじめるのは止めてくれないカナ? ほぉら、見てご覧ヨ。カワイソウニ。泣きそうジャナイカ」
 リトリアが。『学園』に入学したその時から、シークの傍にちょろちょろとまとわりつき、ストルとツフィアを徹底的に避けている、というのは有名な話だった。話しかけようとすれば走って逃げ、用事があって探せば隠れ、顔を合わせれば怯えるように震えるばかり。まともな会話になったことなど、一度としてないだろう。シークが言う間にもぼろりと涙をこぼしてしまったリトリアに、ストルからも、ツフィアからも、溜息が洩れる。それにますます体を強張らせ、怯えるように俯いて。リトリアは繰り返し、ごめんなさい、と言った。
「今度、から、ご挨拶……ちゃんとします。だから……わたしの、ことは」
 強張った指先を、腕を、なんとか動かして。リトリアはそれを、己の胸へと押し当てた。決して伸ばしてしまわないように。また視線を反らして、かたく目を閉じる。見てしまえば、どうしても。
「ほうっておいて……ください……」
 どうしても、どうしても。
「おねがい……」
 好きだという気持ちが、零れてしまいそうで。
「おねがいします……。おねがい……」
 けれどもどんなせかいでも、それはふたりを、しあわせにすることはできなかったので。だめよ、だめよ、と繰り返し言い聞かせる。だめよ、だめよ、もうだめよ。あいしてはいけないし、あいされてもいけない。大丈夫、ほら、見て。二人にはちゃんと、たくさんの友達がいるし、いつも誰かと一緒にいるし、とてもとても楽しそうで。笑っているから、幸せでいるから。傍にいられないことくらい、好きって言えないことくらい、好きになってもらえないことくらい。がまんできるの。
「……お二人が来てくださったことは、フィオーレとラティにすぐお伝えします。陛下のお耳にも、起きたらすぐに……ですから、どうぞ、今しばらく……別室で、お待ちください」
 顔をあげて。青ざめながらも微笑み、告げたリトリアに、ストルもツフィアもそれ以上はなにも求めなかった。分かった、とふたりは頷き、足早に立ち去って行く。その背が、一度も振り返ることも立ち止まることもなく去って行く、その姿が、廊下の向こうへ消えるまで、見送って。リトリアは瞼の上から強く手を押し当て、その場にずるずるとしゃがみ込んだ。その前に溜息をついてしゃがみこみ、シークはひょい、とリトリアの顔を覗き込む。視線が重なることなど、ないままで。
「リトリアちゃん」
 優しく、やさしく、名を呼んだ。
「キミは、『学園』に入学してすぐ、ずっと……ボクの傍にいてくれたね。あの二人をずっとずぅっと避けながら、気がつかれないようにずっと、見つめて……それなのに、一度も傍に行くこともしないで。ボクの傍にいてくれた」
 ためらいがちに伸ばされた指先が、やわやわと、ぎこちなく、リトリアの髪を撫でていく。声もなく泣くばかりのリトリアに、言葉はやわらかく降り注いでいく。雨のように。
「いつからか、ボクはさびしくなかったヨ。友人も出来たし、周りとも打ち解けるコトがデキタ。こちらのセカイに落とされて、帰るコトしか考えられなくて、乾いた日ばかりを過ごしていたボクに……生きる喜びを、教えてくれたのはキミだ」
 ダカラね、と言葉魔術師は笑う。
「もうイイヨ。もう、イイ。十分ダ。……馬鹿なコだねぇ、キミは……」
 ボクは大丈夫だと言っただろう、と囁く声に。リトリアは顔をあげて、シークをみた。シークさん、と信じられない気持で呼びかける。頬を零れていく涙を拭う袖口は、指先が肌に触れてしまわないよう慎重な仕草で。息が詰まった。
「覚えて、る、の……? こことは、ちがう、せかい、なのに……」
「覚えてる、というのはすこし違うネ。キミだってソウだろう? ……ボクが、ボクとして繰り返されただけのことサ。はじまりのキミ。キミがどうしてか、この世界でキミのまま、いつしか存在していたのと同じダヨ」
 なにが、どうなってしまったのか。リトリアにはよく分からなかった。ただ気がつけば、世界を繰り返し繰り返し改変していた筈の、姿無く風のように耳元で囁くだけの意思として存在していた筈の『リトリア』という存在は、もう一度産まれたかのように、ただ世界にあったので。外側から観測して、願う世界ではなく。内側から書き換えていく世界として。リトリアは己の間違いを、失敗を、変えられなかった結末を書き換えるように、生きてきた。それを誰にも言ったことはなかった。愛された記憶だけが心に熱を灯して。愛してくれたことをいまもちゃんと覚えているから。今度こそ、望む幸せに辿りつけると、そう思ったのに。
「うまく……うまく、行ってるもの! もういいなんて、言わないで……! シークさんはソキちゃんを誘拐しなかったし、お友達だってたくさんいる! 私も魔術師として安定してるから、いつかシークさんを向こうに帰すことだって、できるかも知れない……!」
「ウン」
「ストルさんも、ツフィアも、わたしがいなくても大丈夫だったもの! ストルさんはやっぱりお友達が多いし、ツフィアだって……あの時みたいに、孤立していないもん……! 入学が、私よりすこしだけはやければ、ツフィアは大丈夫なの。お友達ができるの。わたしがあまえたりしなければ、それでいいの。ストルさんも、ツフィアも、ほら、星降の王宮魔術師になって……! みんな、ふたりを、すごいって言ってる。有能だって! ふたりとも、わたしがいなくてだいじょうぶだったもの! わたしが一緒じゃない方が、ふたりとも、ちゃんと……! しあわせに、なれるんだ、もの……好きになってなんて言えない。愛してなんて、思えない。……愛してくれた、ことがあったって、ちゃんと覚えてる。だから、もう、いいの」
 ロゼアくんとソキちゃんも、大丈夫。二人でいればきっと幸せになれるわ。泣きながら囁くリトリアに、シークはソウカモしれないね、と頷いてやった。
「キミがしあわせになれないダケだ」
「……みんな、しあわせになったもの。この世界は大丈夫。あの世界みたいに、壊れてしまったり、しないもの」
「ソウダネ。……ボクがあの二人に、こっちは理由も分からないで怯えられて話もできないのに懐かれやがって人気のない場所では背後に気をつけろ、みたいな目で睨まれるくらいのモノだよね……」
 深々と息を吐くシークに、リトリアはぱちぱちと瞬きをした。なぁにそれ、と首を傾げるリトリアに、今後の身の安全の為に詳しく教えてあげるコトができないカナ、と苦笑して。シークは立ち上がり、座りこんだままのリトリアに手を伸ばした。
「しあわせのままで時を止める世界が、ひとつくらいあってもいいと思わないカイ?」
「……うまく、いっているもの。なにがだめなの?」
 キミが。いつまでもいつまでもしあわせになれないままだろう、と。告げることなく。シークは苦笑して、てのひらに乗せられたリトリアの手を、そっと握り締めた。寄り添うぬくもりはあたたかく。触れた肌の熱は、やわらかな幸福を教えた。
「もう一度、やり直してオイデよ。……そこではボクに優しくシテハイケナイヨ。もう、二度と、こんな風にしてはイケナイよ。ストルと、ツフィアの元へお帰り、お人形ちゃん」
「でも、ふたりとも……わたしがいないほうが、しあわせになれるの」
「ストルのしあわせも、ツフィアのしあわせも。キミが決めていいコトじゃないだろう?」
 泣きそうに首をふる予知魔術師に。言葉魔術師はじわりと魔力を滲ませながら、静かに静かに囁いた。
「どこかの世界デ、ボクはキミを憎むだろう。羨むダロウ。それでいい。キミはボクの敵でなければいけない。ボクの傍に来てはイケナイ。ストルとツフィアのトコへお帰り。……これは長い永い、シアワセな夢だった。夢のような日々だったヨ。でも、夢だ。……さあ、もうお行き、リトリアちゃん。もう、間違えてはイケナイよ」
「……シークさん」
「大丈夫。もうボクはさびしくない。キミのおかげだ」
 ただ、ひたすら、元の世界に戻りたいと。その渇望だけが残ってしまうなら、そのことは繰り返し続けられていく世界で、さらに己の心を壊してしまうだろうけれど。幸福はここにあり、そしてこの世界と共に眠りにつく。いつか、どこかで、あったという熱が、どうか。どこかで優しくありますように。シークは眠りに落ちてしまったリトリアを抱き寄せ、ぽんぽんぽん、と背を撫でて笑った。しあわせだったヨ。シアワセなユメだったよ。アリガトウ。おやすみ、と囁く世界のどこかで、時を刻む時計が少女の手の中に戻る音がする。針がくるくると逆回り、砂時計がひっくり返されて零れ落ちはじめる。



 もういいの、と思ったけれど。もう一回、と願われたので。



 七歳の誕生日を迎えたその日に案内妖精に導かれ、リトリアは『学園』へ続く門をくぐった。入学式を前にした適性検査でリトリアは魔力を暴走させ、それまでの記憶をすべて失ってしまったのだと聞かされても、幼子はただ頷くばかり。ひとみしりをして、不安そうに俯くばかりで、笑うことはなかった。幼く、なにもかもを失ってしまったリトリアに、周りは心を砕いてくれたのだけれど。その中になぜか、望むひとの姿がないような気がして、リトリアは部屋を抜け出してしまった。さくさく、朝露に濡れた草を踏みながら歩けば、辿りついたのは学園の裏に広がっている林で。その先に白い花が群れて咲き、いつかの夜に、誰かがそこへ迎えに来てくれたような気がしたのだけれど。あんなに避けてしまっていたし、あんなに怒っていたから。きっともうそんなことには、ならないんだと、どうしてか、思って。
 リトリアは声をあげて泣いた。泣いて、泣いて、やがて息を吸うくちびるが歌のことを思い出す。歌声を、紡いだ。世界に祝福をぶちまけるように。なにもかもわからないけれど。また、わからなくなってしまったけれど。しあわせをいのった。あのひとと、そして、あのひとの。しあわせになってほしかった。どうしてもそれを諦められなかった。
「……あなた」
 ざく、と背後で草を踏む音がして、リトリアは振り返る。その先に立っていたのは少女だった。夜のような肌色に、火のような赤い瞳を持った少女。魔術師の。言葉魔術師の。少女。それを追いかけてきたように、ひとりの少年が姿を現す。青空のような髪に、漆黒の瞳の。腰には銃を持っていた。占星術師だと、どうしてだか思う。
「きみは……」
 震えながら。リトリアは息を吸い込んで、現れた少女と、青年を見つめて。声をあげて泣いた。ふたりが。リトリアの、名を呼びかけようとしたのか開いた唇が、言葉を知らず閉ざされる様を、見る。それでも、ふたりが。その、くちびるが。名前を呼んでくれることを、リトリアはどうしてか、知っていたので。あいしてくれるとわかっていたので。もう一度、今度こそ、と思い、けれどもすぐ、それを忘れてしまいながら。リトリアは二人に向かって手を伸ばした。
 抱きとめてくれる腕の温かさを。その愛しさを。しあわせだと、誰かが。



 繰り返される世界のどこかで。シアワセになってオイデよ、とくらやみのなかから誰かが言ったのだけれど。ボクのコトは全部忘れて、もう二度ト思い出してはイケナイよ、と記憶を白く塗りつぶす喪失の中で、時間を、世界を貫くように紡がれた魔術が、そう囁いたので。リトリアがそれを、思い出すことはなかった。幸福は今も停止した世界の中で眠りにつき、すべての時間は巻き戻された。もう一度、もう二度と、と祈りの先に。
 運命が覆される、その果てまで。

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