前へ / 戻る / 次へ

 女王に渡された紙片に書かれていた住所の数は、十と一。上から順番に六本目の線を引いて消し、ロリエスは作業が折り返しに入ったことを確認した。陰鬱な溜息をつく。女王の命令は他のなにを受けるよりロリエスの心を弾ませたが、示された住所を訪れるたび、なにか嫌なもの、悪いものが空気を漂い、肺から体へじわじわと染み込んで来るような気持ちになった。もちろん、それは錯覚だ。魔力的な呪いがある場所は、ひとつもなかった。ただそこはどれも、さびしい空き家だった。あるひとつは荒れ果て、あるひとつは直前まで生活していたような雰囲気のまま時を止め、あるひとつはすでに別の家族が住んでいた。以前の住民のことは知らないという。ロリエスはそのまま大家を尋ねたが、住所を告げて問いかけたとたん、口を閉ざしてそれきりだった。
 それは、誰かの足跡を辿る作業だった。誰の、と女王は最後までロリエスに教えることなく送り出したが、密命が、魔術師にそれを察することを許していた。女王は言った。もしかしたらそこに、あるいはその周辺に、リトリアがいるかも知れない。誰かが一緒かも知れない。その時は抵抗あっても引き剥がして、連れてきて。抵抗はしないだろうけれど。それはさびしい微笑だった。ロリエスは紙片をひっくり返し、住居の記載とは別にされた、いくつかの建物の名を眺める。国立、あるいは都市立、もしくは私立図書館の名ばかり綴られている。住所より、それは多い数だった。ちいさな部屋めいた規模のものから、魔術師が訪れるような大規模な、壮麗な建物まで含まれている。そこにも線は引かれていた。上から七つ。八つ目を、これからロリエスは消しに行く。
 花舞の都市はどこも光に満ちていて、明るい。眩さに目を細めながら、足を踏み出す。その時だった。腰を抱かれた。
「奇遇だな、ロリエス」
「奇遇であってたまるものか。……シル、なぜここに?」
 腰を抱く腕を叩きながら睨み付けても、今日も麗しいなと目を細めて笑われるだけで、離されなかった。気落ちなど、声をかける前から見抜かれているに違いない。どこから見ていたと低い声で問えば、未だ髪に転移の魔力を纏わせながら、召還術師たる男は俺が女神から目を離す時なんてある筈がないだろう、と嘯いた。事実とすれば単なる変質者である。溜息をついて、ロリエスはシルをくっつかせたままで歩き出した。言葉を発する唇に、ほのかに暖かいドーナツが押し付けられる。反射的にひとくち齧って、しまった、と思った。
「シル。私はこれから図書館へ行くんだが?」
「朝食も食べずに?」
「……本当に朝から」
 見ていたのか、と白んだ視線も受け流して、シルはロリエスの歩みを巧みに誘導した。並木道の端に置かれたベンチに座らせ、膝の上にぽん、と紙袋を置く。暖かな飲み物の入った紙カップも、ひとつ。
「悪い癖だ。寝食を忘れてのめり込む」
「……急がなくてはいけないんだ。ナリアンを待たせているし」
「ローリ。待たせる男は俺ひとりにしてくれないか」
 腕組みをしてロリエスの隣に腰を下ろした男は、どうも怒っているようだった。普段ならばロリエスのみを注視している瞳が、今は行き交う人々と町並みに向けられている。素朴な石畳と、白い外壁、色とりどりの屋根が並ぶ。平均的な花舞の地方都市。商店は開店準備を始め、活気に溢れて空気は騒がしい。それでも、どこかさびしいと思うのは、訪れた空き家の光景が目に焼きついているからだった。二人用のちいさな家。ちいさな机、向かい合わせのふたつの椅子。大きな寝台はひとつ。それだけしか残されていなかった。ロリエスは目を閉じて息を吐く。これは無駄な作業だ。あんな場所に、リトリアが戻る筈もない。迎える者のない家になど。
 ひとつ前の都市。国立図書館の年嵩の司書は、藤紫の髪をした幼子のことを覚えていた。甘いココアが好きだったと言う。誰かが迎えに来たことは、なかったのだと言う。
「楽音の担当者は、チェチェリアだ」
 独り言めいて告げられた機密に、ロリエスは苦笑いで、ドーナツを口に運んだ。
「……新入生の授業が、どこも滞っているな」
「伝えることは?」
「菓子作りの腕をあげたな、と」
 シルは肩をすくめて天を仰ぎ、妬けるな、と言った。かまわずにドーナツを口に運び、ロリエスは飲み物をひとくち飲んで、笑う。
「ソキにも。ありがとう、休むようにする、と伝えて欲しい」
「俺には?」
「ありがとう」
 さらりと感謝を告げてやると、シルは頭を抱えて上半身を伏せてしまった。耳が赤いので、照れているらしい。飲み物を喉に通しながら片手を伸ばし、ロリエスはぽふぽふ、とシルの頭を撫でてやった。
「私に言うならお前も休めよ、寮長殿?」
「……女神の感謝という眩しさが胸に苦しい」
 たまに素直になるとこれなので、感謝は小出しにするのが効果的。ロリエスに悪知恵を仕込んだエノーラの笑顔を思い出しながら頷き、ロリエスはベンチから立ち上がって伸びをした。雲がかかった空は晴れている。眩く、白く、息を吸う気持ちは楽になった。



 それではまず肌の手入れからはじめてどんな化粧にするかを決めていきましょうね、と見惚れてしまいような優しい笑顔で囁かれて、リトリアは恐々息を吸い込んだ。
「ラーヴェさん」
「はい?」
「い、移動の話ですよね……? 旅支度、の、おはなし、でしたよね……?」
 もちろんです、とラーヴェは穏やかな表情で頷いた。リトリアを寝台の上に座らせたまま、そこを取り囲むように椅子を引き、腰掛ける者たちもだいたい同じような表情である。なんだか、とても、わくわくしているような。リトリアはようやっと健康な状態にまで戻った手足をうぅん、と伸ばして、困ったように、水を運んできてくれた女性に囁きかけた。
「あの……あの、あの、私の服は……?」
「ご安心ください。全て終わりましたら、楽音へ届くよう手配させて頂きました」
 そういうことを聞いているんじゃないし、安心できる理由にならない。お水をたくさん飲みましょうね、と窘められるのに頷いて、リトリアは素直に喉を潤した。視線を己の体へ落とす。寝込んでいる間にはそれ所ではなかった為に気がつかなかったのだが、着ているのはリトリアの手持ちの服のどれとも違っていた。淡い藍に染め上げられた、ふわふわの印象のワンピース。薄い布地は長袖でも熱気を感じさせず、腰からふんわりと広がるスカートの丈は、ぎりぎり足首が覗く程度。幅広の白いリボンが、胸元と、腰の後ろでそれぞれ結ばれ、飾りになっている。聞けば買って来たのではなく、リトリアが寝ている間に仕立てたのだという。
 勝手に採寸して申し訳ございませんでした、とあまり反省を感じられない笑顔で、うっとりするような低音で囁かれ、リトリアは顔を真っ赤にして胸元に手を押し当てた。これから成長するもん、といじいじと告げた言葉に、今のままでも十分かわいらしい、と笑われてもリトリアは信じなかった。ソキの胸がたゆんたゆんしているからである。そういえばストルには結局好みを聞けず仕舞いだったので、リトリアはそれも思い出してさらに気持ちをへこませた。ツフィアはスレンダーな体型だけれども、ふくらむ所はそれなりに、きれいにまあるい形なのだった。きっとああいうのが好きに違いない。リトリアのような、ぺたたんっ、としたのではなくて。
「……詰め物をしますか?」
「しません……。しな、しないもん……しないもん……」
 でも体型補正としてこういうのもありますよ、可愛いですよ。これなんか絶対に似合います、と冊子を開きながら傍らに座り込んで進めてくれる女性に、リトリアは目を潤ませて問いかけた。
「お胸が……お胸があったら変装の助けになりますか……?」
「……でもまず、ご飯をたくさん食べましょうね。こんなに痩せていては、まるくなる所もなりませんわ。ね? 無理をせず、体調を崩さないように。休み休み向かわなくては」
 ご自身のことをもっと大事にしてあげなくてはいけませんよ、と両手を握って囁きかけられ、リトリアはなんだか泣きそうな気持ちで頷いた。かなしいのではないのだけれど。この場所で目を覚ましてから、なんだかずっと、やさしくされているので。すこしのことで、なぜか泣きそうになってしまう。
「でも、でも、ご飯は……たくさん、食べてるんです」
「ええ。では、なにか普段から頑張られていることはありますか? 無理ばかりしていては、たくさん召し上がられましても、体を壊してしまいますわ」
「……んん」
 あまりこれ、という心当たりはないのだが。もしかして魔術の使いすぎなのかも知れない、とリトリアは思った。これでもリトリアは一応、行き倒れないように、魔力残量と術式をかなり綿密に計算して、旅路も組んでいた筈なのだが。なぜか自然回復量が、リトリアが思っている以上にすくなかったのである。覚えていないうちにずっと発動させているなんらかの魔術があったなら、それが足を引っ張っている可能性はあった。心当たりは全くないのだが。
「よく分からないです……。もしかしたら、なにか魔術かも知れないんですけど」
「あなたは」
 笑みをたっぷり含んだ声で囁かれ、リトリアは落ち着かない気持ちでラーヴェに顔を向けた。首を傾げて続きを問うと同時、悪戯っぽい表情で告げられる。
「もしかして、魔術が不得意なのでは? 先日も熱を出されましたし」
「えっ。えっ……え、えっ。そん、なこと、ない……。私、『学園』を卒業した、一人前の魔術師です!」
「そうですね。不調になられるだけですね」
 そういうことで決められてしまったらしい。見つめられている方がちょっと恥ずかしくなるくらいの穏やかな目で告げられて、リトリアはじわわっと涙ぐみ、赤くなる頬に両手をあてて瞬きをした。
「ちがうの……ちがう、の!」
「そうですね、違いますね」
「ソキちゃんにするロゼアくんと同じ反応しないでっ! もう、だめ! 違うの!」
 完全になだめにかかっている。癇癪を起こしたソキに対するロゼアの反応で、とても見たことがある対応だった。もう、もうっ、と涙ぐんで怒った後、リトリアは恨めしげな目でラーヴェをにらむ。
「いいですか……私はソキちゃんより、うんと……うんとじゃないけど、三つも! 年上! なんですからね……!」
「今年で十七になられる?」
「……ふたつでした。十六です。あっ! ちょっと、やっ、笑わないで……!」
 もうもう、いじわるっ、いじわるっ、とリトリアが怒り拗ねている間に、砂漠王都への道筋は決定してしまったらしい。地図をまとめ、ではそのように、と告げられているのは、リトリアではなくラーヴェだった。なぜかリトリアは、地図の一枚も見せてもらえていないのである。寝台の上で立ち上がり、リトリアは待って、と出て行こうとする男へ声をかけた。振り返って、なにか、とばかり微笑んでくる男に、リトリアはちょっと怯んで口ごもった。この宿場にいる者は、なぜか皆顔立ちがとても整っていて、ひとみしりとしては話しかけるのも大変なのである。
 もじもじもじもじ、手を組み替えては覚悟を決めて、息を吸い込んで、くじけて、やりなおして、えい、とばかりきゅっと目を閉じ、リトリアは頑張ってお願いした。
「地図を見せてください……!」
「え?」
「え? え、えっ、だってその、どこをどう行くか、私も知っておきたいです……」
 やんわりと微笑んで待っていてくれた男の、あまりに不思議そうな声に、リトリアは不安げに眉を寄せて訴えた。なぜか全員が沈黙している。しばしの空白の後、口を開いたのはラーヴェだった。
「あなたは、地図をお読みになられる?」
「読めます……!」
 あっ、また、もう、馬鹿にしてえぇっ、と目をうるませてぐずりながら怒るリトリアに、ラーヴェはそうですか、と口元に手をあてて笑った。
「失礼しました」
「ほんとです! もう、いいですか? ラーヴェさん」
 ぱっと男の手から地図を奪うようにして受け取り、リトリアは自慢げに宣言した。
「私はソキちゃんより、ずぅっとしっかりしてるんですから!」
 それはどうだろう、という微笑を誰もが浮かべたのに気がつかず、リトリアはさっそく座り込み、膝上に地図を広げた。現在位置に指で触れ、そこから幾筋も伸びる線のうち、ひとつを選んで辿っていく。まっすぐ王都に向かうというより、都市と都市の移動距離が短くなるように選んで、整えられた旅路だった。
「これが、一番安全なんですか?」
「はい」
「確認しても?」
 なにを、と問われるよりはやく。リトリアは楽器の弦を弾くように、指先で書き込まれた線に触れた。
「光よ、走れ」
 ゆるく、魔力が展開する。足元にではなく、地図上にだけ広がっていくように、予知魔術の発動を制限する。最小限に。望む効果だけが出るように。
「真偽の炎よ。望みを叶えて光と化せ。選ばれた道を走りぬけよ。望み叶うなら金に、潰えるならば銀に!」
 繊細な彫刻品のようだった。選んだ道筋は一瞬だけぱっと金に輝き、すぐに青いインクの線へと戻ってしまう。リトリアはやや不満げに瞬きしてから、地図をくるくると丸めて男へと返した。ありがとうございました、と言おうとした瞬間だった。意識を断ち切る眩暈に襲われ、リトリアの体がぐらりと傾ぐ。寝台へ体が叩きつけられる前に、それを予想していたような腕に抱きとめられた。すこしだけ怒るように。笑い声が、耳元で問う。
「不得意なのでは、なく?」
「……違うはずなんです」
「はい、はい。そうですね」
 しかたがないひとだ、と囁き落とされ、ころんと寝台に戻される。眠りを促す声に誘われ、リトリアはすぐに、繰り返す呼吸を寝息のそれにした。



 在学中の魔術師に対する義務のひとつに、年に一度の測定がある。身長体重運動健康状態その他、病の前兆があるかないかを事細かに、専門技師や医師の手によって記録されるそれは、新入生に対しては二年目から実施されるものである。入学が決定すると同時、ありとあらゆる詳細な調査書が王の下へ送られるので、その必要がない、という為の二年次の実施であり。また、測定は外部の専門医師を招く必要性などもあり、星降王宮の一角で執り行われる為だった。新入生は、突然変異として目覚める特質上、まだ己の魔力が身体になじみきっていない。あらゆる危険の可能性を防ぐために、一年をかけたのちの実施となっているのだった。
 測定は基本的に、男女別で執り行われる。医師の診察も同様に。それを聞かされたソキは抵抗して抵抗して、やんやんやんやんソキはロゼアちゃんにはかってもらうですからいいんですうういやぁああんっ、とロゼアにびとっと引っ付きへばりつきそれはもう抵抗したのだが。あえなく剥がされ、ぽいっと女子更衣室に放り込まれてしまい、あれよあれよという間にあれこれと計られた。身長体重胸囲腰周り。肩から肘まで、肘から手首まで、手首まわり。おしりのおおきさ。ふともも、腰から膝まで、膝から足首まで、足の大きさ、など。とにかく事細かに数字が書き込まれた用紙を恨めしげに見て、もうつかれちゃったです、と床の上にくったりした。
「なんでこんなに細かいですかぁ……」
「新入生がいなくても、パーティは毎年あるものだから?」
 ソキの傍らにしゃがみこみ、胸囲の項目を覗き込んだルルクが、おぉう、と声をあげて沈黙する。視線が紙面とソキの胸元とを往復し、なぜか無言で何度も頷かれた。
「ちょっと触ってみてもいい?」
「やぁー、でぇー、すぅー……! ソキもうロゼアちゃんとこかえるぅ……」
 あっところで今日もロゼアちゃんに選んでもらったんですよぉ似合うでしょう、と上下ともに下着姿でふんぞりかえるソキに、ルルクは一周して落ち着いた穏やかな微笑で頷いた。
「防御力が高いけどたゆんたゆんって感じ」
「に・あ・う・で・しょー・おー?」
「似合う似合う。でもソキちゃん、まだ終わりじゃないよ? 健康診断の次は、運動測定だからね。説明あったでしょ? 今日の日程表にも地図……は読めないのはもう分かったから、私と一緒に運動場に行こう?」
 動きやすい服を持ってきてねって注意事項にもあったでしょう、と窘めるルルクに、ソキはもぞもぞとその場に座りなおし、おでかけしろうさちゃんリュックサックを抱き寄せた。中を覗き込むと、確かに着替えとは別の服が一式、丁寧にたたんで詰められている。こくん、と頷いて、ソキはんしょんしょ、とその服を丁寧にしまいなおした。
「なかったことにしちゃうです」
「運動測定だよー。男子と一緒だからロゼアくんもいるよー」
「でも、でも、でもぉ。ソキ、運動はちょっぴり、ちょっぴりですよ? ちょーっとだけ、苦手ですから、これはもういいと思うです……」
 特にこれ、こういうのです、と予定一覧の記された紙面を指差し告げられて、ルルクはなるほど、と頷いた。なぜか、というか恐らくロゼアの手によるものだろうが、短距離走、持久走、障害物設定地疾走、の項目に丁寧に二重線が引かれている。というか、運動測定の項目で二重線が引かれていない項目がなかった。ね、ね、ねっ、と期待に満ちた目で見つめられて、ルルクはにっこりと笑い返した。
「じゃ、着替えて移動しよっか!」
「あれ。……あれ、あれ? 着替えて、移動するだけです? ロゼアちゃんの応援?」
「うん。応援もしようね!」
 いまひとつ納得できていない顔でルルクと二重線で訂正のなされた紙面を見比べたのち、ソキはこっくりと頷いて、ロゼアちゃんの応援をしにいく、という誘惑に屈した。ふんにゃんふんにゃんっ、と機嫌よく鼻歌を歌いながら動きやすそうな服、それでも頑なに長いスカートであるそれに着替えだすソキを眺め、まあ測定不可とか途中棄権とかいう表記もあるしね、とルルクは遠い目で呟いた。上から下までびっちりと、測定不可、の文字で埋め尽くされる結果を、生徒の八割は予想していた。



 窓の外で繰り広げられる小規模の運動会めいた光景を眺め、ストルは懐かしいな、と口元を和ませた。毎年、初夏の頃に行われる測定ごとは、もちろんストルにも覚えがあるものである。当時の担当教員から、どんな手を使ってでもいいから短距離走で八位を狙ってねと微笑まれたことまで連鎖的に思い出し、やや遠い目になる。言われた時にはこのひとはなにを言っているんだと思ったものだが、それもまた、魔術教育の一環である。未来を読み、道筋を読み解く。予想し、予測し、可能性の糸を手繰り寄せ、望む結果へ導く為になにをすればいいのか。どうすればそこへ辿りつけるのか。占星術師としての修練に組み込まれているのが、運動測定の結果だった。その為に占星術師だけが後日、改めて再測定されるのだが。
 メーシャはどうだろう、とストルは眼下に愛弟子の姿を認め、申し訳なく微笑んだ。課題を出せていないし、今から告げる手段もない。よって、正確な数値であろうとなかろうと、メーシャに再測定の礼状は届くのだが。種明かしをするまでに戻れるだろうか、とストルは星を読もうとした。しかし立ち昇る魔力は形を成す前に崩れて消え、結果を導くに至らない。ストルが軟禁されている部屋には、魔術封じの呪いがかけられている。それほど強いものではないので、心身に過剰な負荷がかかることはないが、術式を発動させるのは困難なことだった。ツフィアがいる部屋にも、同じ呪いがかけられているに違いない。同じ城内にいることは知らされても。会うことは許されなかった。
 恐らく、ストルとツフィアには同じことが繰り返し問われているに違いない。リトリアの所在や、それについての心当たり。最後に交わした会話や、その時の様子。そして。砂漠の幽閉された犯罪者、シークとの関わりについて。
「シークか、フィオーレに会う、必要が、ある……」
 リトリアは楽音の王にそう告げ、姿を消した。王たちが注目したのが、そこだった。なぜ、その二人なのか。逆に、なぜストルとツフィアではないのか、という点について。リトリアが最も心を寄せているのは、今も昔もストルとツフィアの筈、である。それについてはレディも苦虫を顔面にめいっぱい叩きつけられたような表情で証言したし、幽閉されるふたりともが、恐らく、と迷いながらも頷いたことだった。リトリアがストルに、ツフィアに向ける愛情はまっすぐだ。近年はなぜか怯え、戸惑われているが、想いに関してをストルは疑ったこともない。ツフィアもそうだろう。だからこそなぜ、ストルとツフィアではないのか。
 俺に関して言うのなら、心あたりがないこともないよ、とフィオーレは言った。五王に召還された尋問の場で。まっすぐに背を正して。やましいことがあるとかじゃないんだけど目を合わせたらころされる気がしてツフィアとストルこわい、と涙声で早口に弁明したのち。ツフィアとストルとは絶対に視線を合わせないようにしたまま、言った。
「リトリアが楽音で読んでいた資料からの推測になるけど。その術式を正確に把握、発動、解除する為に、俺か……シークの手助けが必要なんだと思う。シークっていうか、たぶん、言葉魔術師、なんだろうけど」
「……言葉魔術師と、予知魔術師の係わりについては」
 忌々しそうな声と視線、溜息を隠そうともせず。砂漠の王はつめたい目でツフィアを見た後、問いですらない確認口調で、話せないんだったな、と言った。諦めとは違う、突き放した物言いだった。シア、と白雪の女王が砂漠の王をたしなめて呼び、紫の瞳でフィオーレを見る。リトリアの、花のような柔らかな色とは違う。透明で硬質な、水晶のような色彩。
「それは、フィオーレ……。いいえ、魔法使いか、言葉魔術師であれば、予知魔術師の助力たりえる存在である、ということなの? それとも、個人的に理由があって、ということ? あの子と……シークは、特別親しかった覚えがないのだけれど」
「リトリアがストルとツフィア以外と、仲良かった、ことなんてないよ」
 ああ、でも最近はソキとは仲良いよね。レディとか、と口元だけの、どこか歪な笑みで。フィオーレは並ぶ五国の王へ、恭しく頭を下げた。
「リトリアは、俺が失わせた彼女の過去に用事があります。……俺の推測があっているとすればね。リトリアが予知魔術師でさえなければ、あのままの状態でも、もうしこし魔術をうまく使えたんだろうけど……」
 魔術っていうのはね、とフィオーレは一礼から、まなざしを、緩く持ちあげながら言った。
「過去がある方が上手に扱えるんだよ。過去っていうか想い出かな。記憶、と言い換えてもいいかも。感情とか、心。そういうのがね、体の内側にしっかり根付いている方が、魔力がちゃんと言うこときくんだよ。別にね、良い想いだけじゃなくても構わない。シーク見てれば分かるでしょ? 憎悪とか、嫉妬とか……殺意とか。その感情の生まれるに至る場所。心に満ちる感情の至る場所。それが、あるか、ないか。リトリアには記憶の出発点がない。そこへ宿っていた感情もない。リトリアが予知魔術師として、あの時から、生きていく為にそれは障害になった。だから俺が取り除いた。でも、リトリアがここから、予知魔術師として歩いて行く為に、それが必要なんだって感じたとしたら? かえしてほしい、って要求されたら? 俺は断りたいけど、拒否し続けられる保証はないよ。まして……」
 ましてやこんな騒ぎを起こしてまで、それを求められているのだとしたら。フィオーレの言葉を完全に理解できた者は、その場にはいなかっただろう。抽象的な言葉が描いたのは、物事の輪郭にしか過ぎず。本質へ至らせるつもりがないような。煙に巻きたがるような説明の言葉だった。息を吐き出し、声を発したのは花舞の女王。
「あなたは」
 青薔薇のような声で。囁く女性だった。
「リトリアが、なにを望んでいると……知っているの?」
 それをまっすぐに見返して、フィオーレは言った。
「自分自身を。失われた過去そのものへ至る、記憶の鍵を」
 今は俺たちだけが覚えている、あの時間が欲しいんだよ、とフィオーレは告げて。それ以上を説明せず、呼び出された部屋から退出した。ああ、そういえば、といなくなる間際、ようやっと視線をストルと重ねて。いたずらっぽく褒めた言葉を、ストルは思い出す。
「だから、メーシャはすごいと思うよ、か……」
 眼下で駆け回る者たちの中で。視線に気がついたメーシャがぱっと顔をあげ、満面の笑みでストルに手を振ってくるのが見えた。ストルの愛弟子は、いつも光のようで。眩しく、尊く、見つめては目を細めていたくなる。嬉しそうにするメーシャに、ロゼアと手をつないだソキがちょこちょこと歩み寄り、ナリアンも走り寄ってくる。ひとりじゃないよ、せんせい。皆がいるよ。そう、囁くように。メーシャはやって来たひとを受け入れ、はにかんでいる。ストルは力を抜いた笑みで、メーシャに手を振り返した。



 目を、覚ます。暗闇の中でぼんやりと瞬きをして、リトリアはそっと胸に手を押し当てた。息をするのが、なんだか、すこしだけ楽になった気がする。どこかで、いとしいひとが穏やかな気持ちでいる。そんな気がした。それがとても、嬉しかった。たとえそこに、傍に、己という存在がなくとも。
「……起きてしまいましたか?」
 夜に明かりが滲むように。灯りが染み込んでいくように。そっと触れる、声だった。ころんと寝がえりを打って、リトリアは寝台の傍らに椅子を置き、見守ってくれていたひとの名を呼ぶ。
「ラーヴェさん」
「はい」
「……明日から、よろしくお願いします」
 手を差し出せばすぐ、やんわりとした微笑で繋がれる。宥めるように肌を撫でる指。暖かくて、気持ちよくて、ぽかぽかする。ふあぁ、と甘えた響きであくびをするリトリアに、男は静かな声で囁いた。明日から、熱を出さなければ。行きましょうね。リトリアは大丈夫ですとくすぐったげに答え、大きく息を吸い込んで、目を閉じた。なにも言わなかったけれど。リトリアがそうして欲しい、と思った通り。ラーヴェは手を繋いだまま、リトリアの肩まで布を引き上げ。ぽん、と叩き、おやすみなさいと言ってくれた。

前へ / 戻る / 次へ